2019年12月15日日曜日

カンボジアのシェリム・アップ州にて、子供が1990年に地雷に被爆して、両側の下腿が爆破されて切断された。

カンボジアのシェリム・アップ州にて、子供が1990年に地雷に被爆して、両側の下腿が爆破されて切断された。蚊帳の中で、苦悩しながら横たわった。1975年にカンボジアの共産主義勢力によって、強制排除された。1979年までクメールルージュによる大量虐殺、アメリカ軍による爆撃、ベトナム占領など数十年にわたる戦争のために、最も大量の約600万個もの地雷が埋められたままである。毎年数十人以上もの市民が、戦闘で残存した地雷やその他の不発弾により、被爆負傷や被爆死している。地域の道、田んぼや農地、裏庭などに埋没している。特に子供たちは、通学する道路で被爆して、犠牲者の約3分の1にも達した。地雷の目的は、人を殺すためだけでなく、手や足だけを吹っ飛ばして傷ついた兵士により必要な兵士の戦力を奪うことであった。カンボジアでは約4万人が地雷によって四肢を切断された。
 シェムリアップ北に約25kmにカンボジア地雷博物館がある。カンボジアには数百万個の地雷が地中に潜在している。シェリム・アップ州は、巨大な宗教建築であるアンコールワットの玄関口にある。アンコール・ワート付近で地雷博物館は、元クメールルージュ軍により子供兵士から徴兵されたアキ・アラーが創設した。自力で地雷を除去しては、地雷を展示して、1977年に地雷博物館を解説した。2006年に強制閉鎖されて、シェリム・アップから約40kmも離れたバンデアイスレイ寺院付近に2007年に再開設した。地雷除去する村々には、下肢や上肢が地雷で切断された子供が多くいた。すべての村には、約20%がまだ地雷原や不発弾が潜在している。特に死傷者の約70%は、カンボジアの北西部の約750kmのタイ国境沿いに集中している。地雷禁止国際キャンペーンは1997年にノーベル平和賞を受賞した。



2019年12月14日土曜日

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。広島市の北部三滝山の墓地の一角に、原爆死の墓碑がある。年齢も若年期から高齢期まで無差別に散乱していた。広島原子爆弾によって、広島市内は被爆の犠牲者の膨大な墓場となった。市内に膨大にに散在する墓碑や墓場には、多くの「原爆死」が記載された。永久に行方不明となり身元が不明な「原爆死」となり墓石も存在しない甚大な被爆死が散在した。
 墓石には、「原爆死」した日時と年齢および名前と家族構成だけが記載された。原爆死した日時は、最も多くは広島原爆が投下された1945年8月6日の熱線と爆風である。墓碑には、四女・8月6日・原爆死・36歳、六女・8月6日・原爆死・28歳、八女・8月10日・原爆死・20歳・原爆死と刻まれた。被爆してから約1周間程度は心身には特記なかった。しかし、約1周間から10日程度で放射線により重篤な原爆症となり、約3週間程度から原爆死者数が急増した。墓碑には、ニ男・9月6日・44歳・原爆死、長男・12月4日・原爆死・59歳と刻まれた。



2019年12月13日金曜日

日中戦争で日本軍の猛烈な射撃で中国軍のゲリラ兵士が戦死傷した。

日中戦争で日本軍の砲撃で中国人兵士が戦死傷した。太平洋戦争が開戦しち翌日の1941年12月9日に、中国は正式に戦線を布告した。1941年1月1日に、アメリカ・イギリス・ソ連・中国など22国が、連合国の宣言をした。日中戦争は、国際的な包囲網が形勢された。日中戦争で日本軍の砲撃で中国人兵士が戦死傷した。四川軍が四川反日戦争から抜け出したとき、1945年7月に四川軍兵士は戦死傷症した。
 日本軍に対するゲリラ活動が頻発した。ゲリラは地下道の網目を廻らして潜伏した。日本軍がゲリラを掃討する前に避難した。抗日ゲリラの潜在する村は、絶滅して無人村とした。
 河北省豊潤藩家峡村では約1,230人を虐殺した。村民を大量虐殺して、村を焼失した。殺し、焼き尽くし、奪い尽くす三光作戦を強行した。日本軍は、1941年9月から1942年1月に湖南省の長沙を2回ほど侵略するも撤退した。1944年4月に日本軍は、大陸打通作戦で、中国大陸を南北に横断するも、八路軍・新四軍の反抗で撤退した。



2019年12月12日木曜日

北ベトナム軍から突然に奇襲を受けたアメリカ軍兵士が、致命傷を受けて死にゆく兵士を抱えながら見守った。

アメリカ軍海兵隊兵士がベトナム戦争において、ベンハイ河の南側の村に侵入した。1966年9月2日に、非武装地帯であった村にて、北ベトナム軍から突然に奇襲を受けた。アメリカ軍兵士が、致命傷を受けて死にゆく同じ部隊の兵士を抱えながら見守った。フエから北約100kmにある非武装地帯は、ベンハイ川に沿って大部分を流れ、近くの島はベトナム戦争中に北ベトナム軍によって支配されていた。
 ベトナム戦争にて、1966年9月当時は、南ベトナムの戦闘は中立とした非武装地帯の周辺に限定されていた。アメリカ軍は1966年9月からディックハウスⅣ作戦(Dickhouse)で、非武装地帯の村に侵攻した。非武装地帯を横切って南ベトナムに侵入する北ベトナム軍を侵略した。北ベトナムと南ベトナムの間の非武装地帯(DMZ)からわずか南2Km離れた地域にアメリカ軍海兵隊が上陸した。アメリカ軍は、ベトナム人村民を村から強制退去させた。アメリカ軍海兵隊が、一時的に再編成するために後退した時に、北ベトナム軍が三方向から突撃してはジャングルの茂みに潜伏した。作戦は9月18日にアメリカ軍が撤収して正式に終了した。ディックハウスⅣ作戦で、アメリカ軍兵士は約36人が戦死して、北ベトナム軍兵士は死体数から少なくとも約200人以上が戦死した。
 非武装地帯(DMZ)は、条約又は協定により、軍事施設と軍事活動または兵員を禁止する領域である。DMZは北朝鮮と韓国の38度線など、事実上の国際的な国境を形成する場合がある。多くの非武装地帯は中立の領土と見なされる。非戦闘の場合でも、戦闘を制御することは許可されない。紛争地域では軍事力を維持する側が、先に撤退した側に合意が与えられた後に、紛争地域が非武装地帯となる。


2019年12月11日水曜日

沖縄本島の山裾の塹壕の入口に、日本人の少年兵が殺害された死体が仰向けになった。

沖縄本島の山裾の塹壕の入口に、日本人の少年兵が殺害された死体が仰向けになった。アメリカ軍の火炎放射器で、少年兵は塹壕内で重度の火傷となった。塹壕内にガスが充満して窒息状態とまり入口から這い出して殺害されて仰向けになった。実戦では不十分な武装のままに、戦闘の最前線にも参戦して、多くの犠牲者を出した。鉄血勤皇隊は、アメリカ軍の戦車に爆弾を持って体当たりして自爆するために突撃させられた。アメリカ軍に対する斬り込みをさせられて射殺された。通信隊として砲弾などの中を伝令を携えて突進した。戦陣訓により、捕虜にならないように自決させられた。戦場では自分が生きるためには何でもして、人間が人間でなくなるのが戦争と元兵隊が証言した。
 太平洋戦争末期の沖縄戦の防衛のために、日本軍司令部は14歳から19歳の沖縄の学徒を防衛召集して動員した。法的根拠もなく日本軍史上初の鉄血勤皇隊を結成した。鉄血勤皇隊は、沖縄戦において陸軍二等兵として正規部隊に併合された。兵役法の改正もなく、1944年12月の陸軍省令の改正で、沖縄や諸島と台湾などに限り、14歳から17歳未満も志願して防衛招集が可能とされた。しかし、沖縄の志願は、事実上の学校ぐるみの強制となった。中学校や師範学校以外の少年は、護郷隊に編入された。戦後になっても、17歳未満である鉄血勤皇隊は、兵役法に該当せず兵士として認めていない。
 沖縄戦では、21校の中学校の全ての生徒は戦闘に動員された。14歳から19歳の男子生徒は、上級生が鉄血勤皇隊に、下級生は通信隊に編入された。15歳から19歳の女子生徒は、主に戦場の看護活動に編入された。沖縄戦により、学業半ばで、大多数の生徒が殺害された。鉄血勤皇隊の動員数は約1,780人、戦死者は約890人で、死亡率は約50%にも達した。1944年3月22日に、沖縄守備軍が創設されてから、次第に学生は軍隊に編入された。日本軍司令官が1945年6月23日に自決する直前に、鉄血勤皇隊の隊長に遊撃戦により戦闘を続けるよう命令した訓令の原文が米国立公文書館に実在した。



2019年12月11日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 340,000回

2019年12月10日火曜日

コソボのナガフ村で、数人の友人らが死体安置所から連れてきた息子の死体に母親は慟哭した。

1990年1月29日にコソボの自治を廃止するユーゴスラビア政府の決定に抗議したエルシャニ・ナシム(28歳、男性)は殺害された。数人の友人らが死体安置所から連れてきた息子の死体に母親は慟哭した。母親は、両腕を広げて嘆き悲しみ、他の人々は泣きながら集まって死体の世話をした。家族と隣人は、死体の周りを取り囲んで同情しながら悲しむ母親を慰めた。部屋の内部で女性らは、お互いを握りしめていた。キリスト教とイスラム教が共感した図像ともなり、レンブラントの絵をも連想させた。
 彼はセルビアの暴政とアルバニア人に対する文化的弾圧に抵抗する平和的な抗議に参加していて、セルビア軍親衛隊に殺害された。若者の自治主義者とセルビア軍との間にいくつかの衝突をした。1月27日にセルビア軍親衛隊は、ナガフの村から数km離れたラホヴェツの集会に行った数人の若者を待ち伏せた。1月29日に抗議者たちに実弾を発射して、約4人が死亡して、約32人が負傷した。
 10年近く経過してからコソボ紛争が勃発した。1998年3月にドレニカでセルビア軍による最初の大規模攻撃があった。1999年4月12日にアルカンと虎は準軍事的民兵であるセルビア軍がナガフの村に侵入して略奪して灰と焼いた。1999年6月には、国際刑事裁判所が戦争犯罪でアルカンを起訴した。1999年6月10日の国連決議1244に基づき、NATOはコソボ治安維持部隊(KFOR)がマケドニアおよびアルバニアからコソボに入国した。セルビア軍と武装解除されたコソボ民族主義者の対立に注意を払わなかった。2008年2月17日にコソボ議会が、コソボ共和国の独立を宣言した。しかし、国連はコソボを国家として承認できていない。(写真:ジョルジュ・メリヨン)


2019年12月9日月曜日

太平洋戦争の終結後に大東塾の14人が終戦日の8月25日午後3時に、代々木練兵場の片隅で切腹して死亡した。

太平洋戦争は、帝国日本が連合軍に敗退して1945年8月15日に降伏してポツダム宣言(第13条)「全日本国軍隊ノ無条件降伏」を受諾により終戦した。それを納得できず不服とした集団が集団自殺した。天皇のお役に立てなかった自己責任をとるのを義務とした。右翼団体「大東塾」の14人が8月25日午後3時に、代々木練兵場の片隅で切腹して死亡した。大東塾は、1939年4月3日に結成された伝統右翼であった。維新寮を、東方の大国である大東塾と改称して、大東塾が動く時は維新の決起と畏怖された。1945年にGHQにより解散されるも、1954年に再結成された。
終戦時に、降伏を阻止するクーデターが軍関係者の一部に蜂起したが未発に終結した。抵抗するゲリラ戦は勃発しなかった。その他に「尊攘同志会」の12人が終戦日に1945年8月15日に東京都港区の愛宕山に籠城して抗戦を決起した。警察官に午後6時頃に突入されて集団自殺して、10人が死亡して2人が保留された。   
 終戦に関連して自殺した軍関係者や右翼団体は約500人以上にも達した。自殺した兵士は約527人であった。極東裁判では、A級戦犯は7人のみで大多数は免責された。BC級裁判では約937人にも達した。上層には刑罰、下層には重罰となり、市民に対する復讐裁判となった。


 1945年8月14日深夜に皇居において、一部の陸軍省と近衛師団の兵士が、日本の降伏を阻止のために決起した。近衛師団長と参謀を殺害して、偽造した師団長命令で皇居を占領した。大本営幹部の説得に失敗して、一部は自殺あるいは逮捕されて、1945年8月15日正午に日本帝国が敗戦して降伏する終戦詔書の玉音放送が日本放送協会のラジオで日本全国に流れた。正式に降伏文書が調印されたのは1945年9月2日である。


1945年8月14日の御前会議にて、ポツダム宣言の受諾を最終決定した。大東亜戦争終結ノ詔書には、敗戦と降伏の言質はない。「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ」と天皇制護持を最優先とした。Radio Tokyoの国際放送が英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、外国向けに放送した。アメリカ側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載された。


『大東亜戦争終結ノ詔書』原文(昭和20年8月14日)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ


"Imperial Rescript on the Termination of the War"

To Our Good and loyal subjects:

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.

To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.

Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the innate glory of the Imperial State and keep place with the progress of the world. 

2019年12月8日日曜日

ドイツ軍に殺害された2人のアメリカ軍兵士の死体に、イタリア人の女性がローマ解放日にバラの花びらの切り抜きを捧げた。

第二次世界大戦において、連合軍がローマを解放した1944年6月4日に、ドイツ軍主体の枢軸軍に殺害された2人のアメリカ軍兵士の死体に、イタリア人の女性と若い娘は、バラの花びらの切り抜きを捧げた。バラの花びらが墓の代用となった。女性らは、さえも墓を与えらず、放置されていた二人の男性の死体を弔慰した。連合国はローマを解放したが、イタリアの占領にはさらに約11か月も要した。イタリアにおけるドイツ軍は1945年5月2日まで降伏することを拒否した。
  連合軍のイタリア戦線は、1943年7月10日からシチリア島を侵攻して8月7日に集結した。1943年9月3日からイタリア本土のカラブリアに上陸した。イタリア戦線は、イタリア半島が山地が多く防御側に有利で、連合軍の進撃は非常に遅滞した。ローマ解放のために、1944年1月22日にイタリア本土のローマまで約70kmの港町であるアンツィオに上陸して、難攻して1944年6月5日にローマを占領した。特にローマ南部のモンテ・カッシーノで1月17日から5月18日まで、連合軍は4度にわたり攻撃を受けて、大軍を投入してドイツ軍は撤退したが、甚大な犠牲者を伴った。連合軍は膨大な約55,000人もの、ドイツ軍は約20,000人が戦傷した。特に日系アメリカ人が主体の第100歩兵大隊は約3,147人のうち戦死者が約338人にも達した。442歩兵連隊は約2,8000人のうち、約半数の1,400人も戦傷した。


2019年12月7日土曜日

広島市内の草津救護病院にて病理医が1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。

広島市内の草津救護病院にて病理医が、1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。内蔵などを取り出して、病理医が病理学的診断をするために観察した。草津救護病院の臨時剖検所は、県立病院救護所の組織に組み込まれた時に設置された。病理医は、京都府立大学の荒木正哉教授が担当した。写真は、79歳の女性が広島原子爆弾に被爆して、10月12日に被爆死した。その遺体を剖検するために、廿日市工業学校の救護所から廻送された。
 原子爆弾が投下された直後は、とても厳しい状況下で医療救護だけでなく、原子爆弾の災害の調査がされた。その過程で、多くの資料、病理標本、記録などが蓄積された。最も早期に原子爆弾の被爆による病理学的な所見は、陸軍省調査団の山科清が早期に死亡した被爆者の病理解剖の標本と詳細な記録である。陸軍軍医学校の山科清は大本営調査団らと、原子爆弾が炸裂した8月6日から2日後の1945年8月8日に、広島市内に参入した。まず膨大な被爆者が似島検疫所に収容されて死亡した遺体を、山科清博士自身が自ら執刀して解剖した時から貴重な病理解剖の所見が記録された。被爆死した遺体の組織を、病理標本を作成して顕微鏡で詳細に病理診断をした。8月10日から広島沖合の似島検疫所にて剖検を始めた。8月11日から京都帝国大学調査団も参入した。東京大学の都築正男は、広島で被爆して8月24日に死亡した女優を急性放射能症と診断して、世界初に原爆症の第1号をカルテに記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として8月30日に広島市内に入り、現地調査・被爆者救護にあたった。
 1945年8月29日から10月13日にかけて、広島医専の玉川忠雄は早期放射線で被爆死した19症例に病理解剖をした。被爆後間もない混乱の中、民心の悲嘆、動揺、不安その他の情勢から剖検は広島県衛生部の反対に遭遇した。脱毛、皮下溢血ほか前人未知の病態を呈する事例の多発から、変死体の処理という名目で許諾された。1例目は26歳の女性で、爆心地から約1.3Kmの鉄砲町で被爆して8月27日に死亡した。2例目は58歳の男性など、19例が剖検された。広島逓信病院の敷地内に工兵隊が建てたバラック小屋を改修して臨時剖検室とした。しかし、剖検記録、標本、写真等は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による日米合同調査団によりアメリカ軍に強制的に徴収された。長期間にアメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)に保留されて、1973年に日本に返還された。GHQは、9付き19日に原子爆弾の調査内容を日本人が公表することを禁止した。1946年2月から8月までの期限付きで、許可申請で認可したが、1951年まで日本人の研究発表は抑圧された。


2019年12月6日金曜日

首都のアテネと海岸沿いのテサロニキで多数の子供たちが栄養失調に陥り餓死に至った。

第二次世界大戦にて、同盟国がギリシアを1941年から1944年まで占領した。首都のアテネと海岸沿いのテサロニキにて多数の子供たちが栄養失調に陥り餓死に至った。ドイツ、イタリアとブルガリアの侵攻により、ギリシャが占領されて、膨大な飢餓と餓死が発生した。飢饉による犠牲者のほとんどは、ギリシアの主要な都市中心部であった。特に、1941年から1942年の最初の冬季が最も悲惨で死亡率が最高となった。アテネとピレウスでは、飢饉による餓死が約4万人を超えたと推定された。アテネだけでも、1日に約300人以上が死亡した。都市中心部に避難してきた難民は、難民地区の収容所に逃げ込んだ。やせ衰えた餓死の死体は、生き残って親族が配給カードを保持するためか、密かに墓地や路上に放棄された。病人や負傷者は放置されて、路上で物乞いをした。ゴミ山の周りで犬と格闘して、生物を摂食した。ギリシア全土で、略奪、拷問、処刑、民間市民の虐殺も執行された。
 早くもナチス・ドイツは、1941年5月中旬に戦利品として本国に向けて、入手可能なすべての主要な原材料と農産物を搾取した。て本国に返送された。生存するための最小限の食料と原材料も確保されなかった。占領国に支払う賠償金で、ギリシアは1942年6月には制御不能な約89倍もの超インフレに陥った。主に、下層階級、労働者、失業者、従業員が飢饉の犠牲になった。反抗的な企業は没収されて、あらゆる製品は搾取した。橋、鉄道、既存施設などが破壊された。ギリシアを北アフリカ戦線の補給基地に転換した。ブルガリアも、肥沃な地域の大半の食料を搾取して本国に返送した。逆に、イギリスが対抗してギリシアを海上封鎖して、逆に飢饉を深刻化した。1942年夏頃になってから国際赤十字が物資の分配に一部介入した。1943年頃から、ドイツ軍はギリシア人レジスタンスのよるゲリラ活動に対抗して、特に農村部で大規模な報復による村民を虐殺した。




2019年12月5日木曜日

日本軍は潘家峪の約1,237人(そのうち約650人が女性と子供)の中国人の村人を虐殺して、約1,000軒の家と住民を焼き尽くした。

1941年1月25日、日本軍は河北省豊潤県の潘家峪の村を包囲して、約1,237人(そのうち約650人が女性と子供)の中国人の村人を虐殺して、灯油とわらぶきで約1,000軒の家と住民を焼き尽くした。潘家峪の村には、惨劇の前に、約220世帯があり、これ付近は反日勢力のの常駐所であった。1941年1月25日の夜明けに、唐山、宜仙、前安、豊潤などに駐留する約3,000人以上もの日本軍が共同で派遣され、突然と潘家峪の村を包囲した。日本軍は家から家へと探索し、村の西にある大規模な穴に村人を強制連行した。その後に正午から夕方まで虐殺が引き続いた。壁に立つ日本軍のライフルと機関銃で、中国人の村人を狙い撃ちにした。家から逃避できた少数の中国人を除いて、残りはすべて虐殺された。日本軍が発砲した後も、まだあきらめず、死体の山に手榴弾を投げて、死体を爆破して粉砕した。日本軍は村中を掃討して、村人の約32人を虐殺して、死体を焼却した。約30人以上の中国人自生は、地下室で日本軍兵士に性的虐待された後に、悲惨にも虐殺された。
 日本軍による潘家峪の惨劇を三光作戦または三光政策の根拠とした。三光とは北京語で「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」を意味する。日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称としても用いられた。1931年~34年の国民党軍に対する瑞金掃討作戦や中国共産党の八路軍に三光作戦または三光政策が適用したと言われた。ただし、日本軍には三光作戦あるいは三光政策の記録はされていない。旧日本軍が第二次世界大戦中に河北省豊潤県潘家峪村で起こした虐殺事件について、村民委員会は日本政府を相手に中国の裁判所で訴訟を起こし、日本政府に対して潘家峪事件の被害者に対する謝罪と約60億元(約980億円)の賠償を求める準備をしていると2014年7月14日に報道された。中国の第二次世界大戦中の虐殺の被害者が、日本国内ではなく、初めて中国の国内の裁判所を通じて日本政府を相手取り集団訴訟を起こす準備がされた。


2019年12月4日水曜日

ボスニアのビイェリナでボスニア人との最初の戦闘でアルカンと虎のセルビア義勇親衛隊が、イスラム教徒の民間女性を銃殺して死体を蹴った。

1992年3月31日にボスニア北東部のビイェリナでボスニア人との最初の戦闘中に、アルカンと虎と呼称されるセルビア義勇親衛隊が、ボスニアのイスラム教徒の民間市民を銃殺して死体を蹴った。セルビア準軍隊部隊は、ボスニア戦争中に数千人を虐殺した。後にアーカンらは戦争犯罪で告発された。アルカンと虎の部隊が、ボスニアのイスラム教徒を家屋から引きずり出して街路で銃殺した。セルビア青年兵士が、左手にタバコを持ち犠牲となったうつ伏せの女性を黒いブーツの右足で蹴った。周囲には大量出血した家族らの死体が散乱した。虐殺を撮影して公表したロン・ハヴィブは、アルカンらに誘拐されて拷問を受けて、3日後に釈放された。
 セルビア義勇親衛隊は志願制によるユーゴスラビア人民軍が支援するセルビア系の準軍事組織であった。ユーゴスラビア紛争中に設立したジェリコ・ラジュナトヴィッチ(偽名アーカン)の指揮下で戦闘に加わった。その部隊はアルカンの虎と呼ばれ、クロアチア(1991年 - 1992年)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1992年-1995年)、コソボ(1998年-1999年)紛争に参戦した。戦車やヘリコプターを含む兵器で武装した約1万人の訓練された兵力となった。アルカンの虎がボスニア・ヘルツェゴビナのビイェリナを攻撃し、最初の民族浄化の下に約100人の非セルビア系市民は虐殺されて町を追放された。
 旧ユーゴスラビアの国際刑事裁判所は1997年9月30日にイスラム教徒集団に対する最悪のジェノサイドの戦争犯罪でアルカンを告発した。裁判前に、アルカンは2001年1月15日に、ベオグラードのホテルで暗殺された。セルビア人にとって、アルカンは敵からの憎悪と恐怖となり愛国者として埋葬された。



2019年12月3日火曜日

ナチス・ドイツ軍がポーランド占領して即決の絞首刑をポーランド人の犠牲者2人に執行して、街灯柱に吊られた。

ナチス・ドイツ軍はポーランド占領して、1941年に即決の絞首刑をポーランド人の犠牲者2人に執行して街灯柱に吊った(The black book of Poland, p68/750, 1942)。その側で2人のドイツ軍兵士が一瞥した。最も虐殺された集団の1つは、非ユダヤ人ポーランド人市民であった。ナチスは少なくとも約180万人のポーランド人市民を虐殺した。さらにナチス・ドイツ軍はレズノでポーランド民間市民を壁に沿って立たせて撃ち殺した。1939年に、ワルシャワでポーランド市民が逮捕されて、1942年にラド近くのロシ村で約54人のポーランド人が公開処刑された。ナチス・ドイツは、1939年9月1日にポーランドに侵攻して、最終的に人種的に純粋なドイツ人による地域の再定住に道を開くために、東ヨーロッパの数千万人のポーランド人や他のスラブ人を排除または根絶を望んだ。
 ポーランド侵攻の直前の1939年8月22日には、ヒトラーは指揮官に「同情や容赦なく、ポーランド系または言語のすべての男性、女性、子供」を殺害を認可した。ポーランドの情報源によると、ジェノサイドは約180〜277万人の非ユダヤ人ポーランド人と約270〜300万人のポーランド系ユダヤ人が虐殺された。ポーランド人は、ドイツ軍が無差別に一般市民を地域から排除するワパンカ政策の標的にさた。ワルシャワでは、1942年から1944年の間に、毎日約400人以上がワパンカのため虐殺された。
  約300万人の非ユダヤ系ポーランド人が、第二次世界大戦の渦中で殺害され、その大半は民間市民であった。ナチス・ドイツ軍とソビエト連邦軍によって殺害された。ポーランドに対する戦争は、アドルフ・ヒトラーの著書「我が闘争」では、東ヨーロッパ全域をドイツ人の生存圏を目的とした。1939年のポーランド侵攻の際に、親衛隊と警察部隊の特別行動部隊が戦線の後方にて民間市民の処刑した。1930年後半からの捜索リストに基づき、ドイツ人に対する抵抗勢力と疑う民間市民を社会的階級により殺害した。ポーランドは終戦までに、医師の約45%、裁判官・弁護士の約57%、教師の約15%、大学教授の約40%、上級技師の約50%、初級・中級技師の約30%、聖職者の約18%を失った。ドイツ民族(Volksdeutshe)によるドイツ陸軍部隊や自衛団もまたポーランドの民間市民の処刑に加わった。ドイツ軍に対する攻撃や殺害行為は地域全体が連帯責任を負わされ、復讐の処刑が行われた。ポーランド文化を破壊するため、ポーランド語の小学校は全て閉鎖して、学校教育を児童教育の数年間だけに制限した。
 ナチス・ドイツの目標は完全なゲルマン化であり、地域を政治的に、文化的に、社会的に、経済的にドイツ第三帝国に融合することであった。街路や都市の名前はドイツ風に変えた。特に精神病患者を殺害して根絶するために、1939年7月から秘密死にT4作戦が執行された。精神病患者の輸送の全てには親衛隊の特別部隊かによる武装隊員が付き添って、数時間後には皆殺して一人の患者も連れず戻ってきた。1939年から1945年までの期間に少なくとも約150万人のポーランド人市民がドイツ第三帝国に連れて行かれ、労働を強制された。多くは十代の少年少女であった。ドイツは西ヨーロッパからも連行されて強制労働をさせた。特に、ポーランド人は他の東ヨーロッパ人同様に劣等な存在と看做され、厳しく差別的に取り扱われた。


2019年12月2日月曜日

コンゴ民主共和国にて、1990年代後半にフツ族のルワンダ国防軍によるピグミー族の大量虐殺が撮影された。

この写真は1990年代後半に、コンゴ民主共和国(DRC)内において、フツ族のルワンダ国防軍によるピグミー(トゥワ)族の大量虐殺が撮影された。1994年のルワンダ大虐殺では、多くのピグミー族も標的にされて、人口のほぼ30%が絶滅された。同様に、多くのピグミー族はコンゴ民主共和国の内戦でも殺害された。一部の男性兵士は遺骨を見ているが、大多数は無関心で、近くの遺骨の不一致に注意を払わない。大量虐殺を取り巻く脱感力と、写真の兵士が遺骨を再確認しない。この写真はピグミーが大量虐殺に直面した非人間化を示した。ピグミー族の死後の遺骨は依然として非人道的に扱われ、一緒に投げられて処理された。ピグミー族に対する絶滅の雰囲気と感情から、虐殺事件をルワンダ政府とコンゴ民主共和国政府は無視した。
 ルワンダは、人口の約85%を占めるフツ族と、人口の14%を占めるツチ族および人口の1%を占めるピグミー族の3つの異なる民族で構成された。ベルギー人の植民地にて、ツチは権力を握り、農民のフツ族は支配された。突然、ベルギーの国内紛争により、2つの民族間の対立が勃発した。フツ族は、少数派のツチ族に対して大量虐殺した。1959年に最初の選挙が行われる前に、フツ族はツチ族に反抗し、長年の復讐を望んだ。多くのツチ族が逃避したが、他のツチ族はより過激な政権に置く改革を断行した。反乱に関与したフツ族に対する弾圧の過程で多くのフツを虐殺した。フツ族が最終的に選挙で権力を握ったとき、反ツチ族による虐殺が徐々に増大した。ツチ族は、大量虐殺の標的にされた。フツ族はすぐにルワンダ国内で権力を得た後に、潮流が変った。フツ族は、非常に長期間でツチ族を虐殺し始めた。不安定な平和を大量虐殺させました。1994年4月6日に突然、ルワンダのフツ族の大統領であるジュベナル・ハビャリマナとブルンジのフツ族の大統領のシプリアン・ヌタラミラを乗せた飛行機がキガリ空港近くで撃墜された。ルワンダ軍隊と民兵グループはツチ族とフツ族の穏健派を殺害し始めた。アガテ・ウウィリンギマナ首相と10人のベルギーのボディガードが、最初の犠牲者の一部となった。全体として、7月までに約400,000のツチ族と約800,000人フツ族の穏健派がルワンダ民兵によって大量虐殺殺された。地元の役人と政府が支援するラジオは、フツ族市民は虐殺に参加するよう伝えた。フツ族の軍事側のルワンダ国家革命運動(MRND)は、大量虐殺の奨励と組織化に関与した。亡命者側のツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF))は、反大量虐殺側で戦争を継続した。
 大量虐殺派のフツ族のドランプ政権の勢力は、この地域を避けてザイール頭部のコンゴ民主共和国に逃亡した。フツ族のルワンダ軍側は最終的にツチ族のRPFによって敗退し、約200万人のフツ族ルワンダ難民とともにザイールに逃亡した。その他にタンザニアとブルンジにも逃亡した。RPFのパウル・カガメ大統領は、ルワンダ国内の対立と暴動を弾圧した。さらにサハラ南部のアフリカの抑圧的政権を転覆した。
 フランス軍は、ルワンダの南西部のゾーンターコイズで、ツチ族の運動を弾圧した。フランスはルワンダでフツ族軍と民兵同盟を支援していた。ルワンダの少数民族であるツチ族を殺害する勢力となった。フランスは長年にわたりルワンダのフツ族のハビャリマナ政権を武装し、訓練し、資金を提供してきた。その間、ツチ族の少数派はすでに猛烈な迫害と大量虐殺を受けた。その背景があるも、国連と背後にある大国は、大量虐殺の事実を否認して、フランスの介入を承認した。



2019年12月1日日曜日

太平洋戦争の戦場となったクウェゼリン環礁で発掘された日本軍兵士の遺骨から銃殺も推定された。

太平洋戦争の太平洋諸島において、アメリカ軍が上陸したマキン島では1943年11月24日に、タラワ島では11月25日に、日本軍は全滅した。引き続いて日本軍は、クウェゼリン環礁では1944年2月6日に、サイパン島では7月7日に、テニアン島は8月2日に、グアム島は8月11日に、アンガウル島は10月19日に、ペリリュー島は11月23日に全滅した。
 第二次世界大戦で、日本人の外国における戦死者数は、約240万人にも達した。そのうち、約半数の約127万人もの遺骨が収骨されて、約113万人もの遺骨が未回収である。その中でも、戦艦の沈没から飛行機の墜落など、海中での戦死者数は約30万人、外国の戦場で未回収の遺骨が約23万人となり、総計で約53万人は収骨が困難をきわめた。
 クウェゼリン環礁の日本軍は、1944年2月6日に全滅した。クウェゼリン環礁のエニンブル島で、2014年3月に16体の人骨が体発掘された。そのうち9体はアジア系の人骨であった。あらたにエニンブリ島で、アジア系6体の遺骨が発掘されて、そのうち5体の遺骨から死因は銃殺であると鑑定された。その上層の3体の遺骨は、両腕を伸ばした状態でうつ伏せに土中に埋葬されたと鑑定された。1体の遺骨にては、後頭部に銃痕を認められた。銃殺される直前に、バンザイ攻撃をして銃殺されて、さらに拳銃でとどめを撃たれて虐殺されたと推察された。


第二次世界大戦の犠牲となった日本人兵士と民間市民の戦死者の遺骨が約37万柱を回収した。遺骨収容など外国などから持ち帰った戦死者の遺骨のうち、遺族に引き渡せない不詳の遺骨は、千鳥ケ淵戦没者墓苑(Chidorigafuchi National Cemetery; 〒102-0075 東京都千代田区三番町2)を納骨した。この墓苑の遺骨に対する拝礼式を、皇族も参加して厚生労働省が毎年5月下旬に挙行して、環境省が墓苑を管理している。千鳥ケ淵戦没者墓苑は、1959年に閣議決定により、無宗教の戦死者の遺骨を埋葬する墓苑である。第二次世界大戦の大東亜地域で苛烈な戦闘により膨大な兵士や民間市民が戦没された。戦後に遺骨が日本に帰還して、外国から遺骨収集が開始された。千鳥ケ淵戦没者墓苑は日本に帰還した不明な戦死者の遺骨が 納骨室に納める無名戦没者の墓である。370,069柱(2019年5月27日)の遺骨が墓苑の六角堂に納骨されている。