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2020年9月4日金曜日

ポーランドのカテキス地域で、ウクライナ反乱軍により、左から3歳の男子、真中は5歳の女子、右は2歳の男の子が残酷に虐殺された。

1943年5月7日および8日に、ポーランドのカテキス地域の住民が、ウクライナ反乱軍(UPA)により虐殺された。無差別の虐殺による子供の犠牲者は、左から3歳の男子で、腕と足を骨折されて殺害された。真ん中は、5歳のポーランド人とウクライナ人の女子で、腹は鍬で引き裂かれて殺害された。右は、2歳のポーランド人で、銃剣が身体に突き刺さっていた。真ん中の女子は、父親がポーランド人だったために殺害された。母親も殺害された。その夜には、約28人のポーランド人と約2人のポーランド系ウクライナ人の家族が残忍に殺害されて、約25か所の農場が焼失した。

 1943年6月2日には、ウクライナ反乱軍はハービー村のポーランド人住民に対して恐ろしい虐殺をを犯した。多くの子供や女性を含む約250人が、今日は存在しないハービー村に攻撃されて殺害された。 ウクライナの右翼組織であるバンデライト(Banderites)は、かつてのウクライナの友人さえも殺害した。 虐殺の後には、ポーランド人の遺体は墓から掘り取り出され、野畑に散布された。

 バンディライトは、1929年に結成されたウクライナのファシストであるウクライナ民族主義組織(OUN)であった。ソ連に敵対して、ウクライナ人による死の部隊を結成して、ナチス・ドイツと協調して、集団的虐殺を実行した。体系的に民族浄化を拡大するために、反ユダヤ主義、人種差別主義、ファシスト主義をウクライナ地域な喧伝した。様々な残虐行為に関与して、犠牲者は少数民族を含めたユダヤ人やロマであった。1941年6月30日、ナチス・ドイツがウクライナを占領すると、OUNはリヴァで独立宣言をするも、拒否されて弾圧された。1943年から1944年には、OUNから派生した過激組織のウクライナ反乱軍(UPA)が、ポーランドのヴォルヒニアと東ガリシアで、ウクライナ民族浄化のために、女性や子供も含めた約10万人ものポーランド人を大量虐殺した。UPAによるポーランド人に対する残虐行為は、無差別に無制限に実行された。犠牲者は、年齢や性別を問わず、日常的に虐待を受けて虐殺に至った。

 


 

2020年8月28日金曜日

冬戦争にて、フィンランド人の母親は女の子を支えて、他の子供たちは母親に寄り添って、ソビエト爆撃機を怯えながら見つめた。

フィンランド軍とソ連軍の冬戦争にて、1940年12月に空襲の標的となったハンゴ都市の近郊の村で、母親は女の子を支えて、他の子供たちは母親に寄り添って、家族はソビエト爆撃機を怯えながら見つめた。フィンランドの民間市民らは、ソ連軍の爆撃機が接近する警報が鳴ると、その周りには避難所もないと、極寒の積雪の地面に飛び込んだ。多くの民間市民のフィンランド人は、突然の爆撃の間に近くの森の木の下に逃げることを余儀なくされた。冬戦争で死亡した人々と生き残った人々の社会的背景を比較すると、被害者の分布は、社会経済的グループによってかなり異なった。田舎出身の未熟練労働者の死傷者数は非常に多く、ロシア内戦での赤軍と同じ社会的背景を持つ人々が冬戦争で最も苦悩した。異なる社会的背景を持つ兵士間の負傷率の差が大きいほど、戦闘の士気は悪化した。

 ソビエト連邦は、1939年8月23日のナチス・ソビエトの不可侵条約から、自由に与えた領域に拡大することを求めて、カレリア地峡と他の場所で、領土を譲渡させるためにフィンランドに圧力をかけた。フィンランド大公国が拒否したとき、1939年11月30日にソ連がフィンランドに侵攻して、冬戦争(Winter War)が勃発した。赤軍の戦備化された部隊は、マンネルヘイムラインの要塞に突撃して、戦車と重機を北の林道まで押し込んだ。ソ連は冬戦争を批判されて、1939年12月14日に国際連盟から追放された。冬季のフィンランド軍は、通常はスキーをして慣れ親しんだ地形を、容易に通り抜けた。フィンランド軍は、それでもソビエト軍隊と別の軍隊の一部を全滅した。一方、アメリカの傍観者らは、少なくともフィンランドの生意気な白衣の防御側を応援した。
 しかし、1940年1月の休止の後に、赤軍は攻撃を再開した。凍った湖を横切って建てられたモミ材の道路に巨大な銃と戦車を移動させた。独自のスキー歩兵を配備し、フィンランドの都市を飽和爆撃にさらした。 1940年3月12日に、フィンランド軍は、ソビエトの45の師団に対して1939年11月30日から105日間戦って降伏して、過酷なモスクワ講和条約を締結した。




2020年8月17日月曜日

ニューギニア戦線で、着陸船から狙撃していた日本軍兵士を、アメリカ軍兵士はピストルで射殺して、死体に立ち向かった。

太平洋戦争のニューギニア戦線で、アメリカ軍兵士はピストルで射殺した日本軍兵士の死体に立ち向かった。左の着陸船から狙撃をしていた日本軍兵士と仲間らを殺害した。アメリカ軍は、日本軍兵士を捕虜にすることを望んだ。しかし、日本軍兵は、捕虜となることを良しとせずに、殺害されることを望んだ。破損した着陸船の近くのブナ海岸では、数名のアメリカ軍兵士が、日本軍兵士に殺害されて、死体がブナ海岸にうつ伏せで横たわった。アメリカ軍は、戦争の犠牲者である死体を検問により情報統制を開放して、ブナ海岸に横たわるアメリカ軍の死体の公表を認可した。文字だけでは決して十分でなく、戦争写真が公開されるとアメリカ国民が衝撃を受けて、太平洋戦争に向けた反撃の国威の高揚に導いた。

 太平洋戦争における極東の日本軍に対するアメリカ軍の反撃は、ソロモン諸島、西に約500マイルのニューギニアのパプア半島で重複する戦闘から勃発した。1943年1月までに、数か月前にブギナからニューギニア島に侵攻して、ダグラス・マッカーサーの下で、アメリカ軍とオーストラリア軍は、アメリカ軍を撃退した日本軍を、ポートモレスビーの戦いは、ジャングルでの激しい衝突と戦闘が勃発した。夜中の悪夢は、「暗闇の中で、生きているアメリカ軍兵士は生きている日本軍兵士に遭遇した。」一方で、昼間の戦闘では「殺害されたアメリカ軍兵士の死体に、殺害された日本軍兵士の死体が散乱していた。」ことを訴えた。約6週間の絶望的な戦闘に、マッカーサー司令官は、アメリカ軍の新兵を急いで送り込んだ。司令官は「ブナを捕まえるまで、生き返えるな」と命令した。アメリカ軍は、ブナを占領するまでにさらに約1か月もかかり、約787人のアメリカ軍兵士の命が奪われた。

 ブナの戦いは、第二次世界大戦の太平洋戦争のニューギニアの戦いの一部であった。1942年11月16日に、アメリカ軍とオーストラリア軍がニューギニアのブナ、サナナンダ、ゴナの海辺から日本の主要な陣地を攻撃した。ポートモレスビーを重要視して、日本軍の幹部らはガダルカナル島を保守することを優先した。ニューギニアでは北東に海岸に撤退するように日本軍に命令した。1942年6月に北海岸に到着して以来、日本軍は十分に隠蔽した何百もの塹壕を相互の連絡を構築した。ココダ・トラックから戻ってきた部隊と合流して、日本軍は当初、北部沿岸に約5,500人近くの軍隊を保持した。戦闘の後半では約6,500人に増員した。日本軍と連合軍の双方が伝染病に襲われ、薬や食料などの最も基本的な物資が不足した。1943年1月2日、連合軍はブナを占領し、1943年1月22日に、非常に困難な状況で激しい戦闘の後、連合軍はほとんどすべての日本軍を殺害または捕獲した。

 ガダルカナル島では、テナル川を渡ろうとする日本軍兵士約200人を殺害する戦闘中に、あるアメリカ軍海兵隊員が失明して英雄となった。日本軍兵士は約は35人から約50人の集団で、アメリカ軍を襲撃した。その夜に、テナル川を渡ろうとした約1,200人の日本軍兵士のうち、約18人が負傷し、約2人が捕らえられて、残り全員を殺害した。しかし、戦闘を乗り越えた時に、英雄となるアメリカ軍兵士は、日本軍の手榴弾により突然目がくらむ閃光と爆発があり、顔面を損傷した。顔面が、湿った粘着性のある果肉となった。英雄は盲目の地獄となり、ピストルでで大騒ぎした。アメリカ軍の仲間は「自分を撃たないで、心配する必要はない。到来する日本軍兵士は殺害する、しかし、盲目な英雄はそれを見ることができない」と諭した。英雄は「目はもう必要ないでしょうね」と諦めた。  

 

2020年7月16日木曜日

ベルリンからのドイツ人女性難民が、戦争で孤児になったポーランドの愚連隊によって、電車の中で強姦(レイプ, Rape)された。

ベルリンからのドイツ人女性難民が、1945年9月に戦争で孤児になったポーランドの愚連隊によって、電車の中で強姦(レイプ, Rape)された。 元の新聞の説明文には、ベルリンから列車に乗ったポーランド人が、1945年にドイツ人の女性難民を略奪したと報告した。第二次世界大戦の終末時に、ソビエト軍のベルリン占領兵士によるドイツ人女性の強姦は、沈黙された問題となった。終戦時にベルリンで過ごした約150万人の女性の3人に1人が強姦された。1945年4月24日から5月までの悪名高い期間中に、多くの女性が大量強姦された。 1945年5月2日にソビエト軍が最終的にベルリンを占領したときに、強姦数は約20,000から約100,000さらに約100万まで大幅に増大して、多くの女性が繰り返し強姦されて、実際の強姦数は高くなっている。強姦された約110,000人の女性は、何度も何度も強姦されて、そのうち約10,000人までその影響で死亡した。予測または推定では約190万人のドイツ人女性が戦争の終わりにソビエト赤軍の兵士によって完全に強姦された。一般的に次いつ人女性を犠牲者として描写して、歴史的なフェミニストな議題の中心にある。
  「その時まで、私は夫や子供たちととても幸せに暮らしていました。私には4人の子供がいて、 生後4月の末っ子の死体を5月18日に埋めなければならなかった。今は、私は絶望的な状況にあります。どんな状況でもソビエト軍兵士に強姦されて生まれてくる子を産みたくありません。」 1945年12月16日にベルリンの労働者階級のノイケルン地区保健局に、ドイツ人女性がソビエト軍兵士によるレイプを理由に中絶を宣誓した。戦後のドイツでの妊娠中絶と避妊は、非常に不本意な問題に漂着した。「1945年6月7日から1946年6月17日までの妊娠」のノイケルン地区保健局に記録された強姦の理由で妊娠中絶が承認された995例の中に宣誓供述書に含まれた。ドイツ人女性と母親の憤慨と絶望によって、ナチス・ドイツの敗北とソビエト軍の占領まで、誰もが恐怖でドイツで暮らした。第二次世界大戦中と戦後のドイツの女性、主にソビエト赤軍兵士の強姦の問題は、複雑で、危険なほど過小評価された。強姦自体は女性の抑圧の歴史を超えて、特定の政治的または経済的意図を獲得する機序である。ナチス・ドイツ戦争の宣伝、ドイツ人女性に対するソビエト赤軍兵士の「大群」と「獣姦」および「動物的」行動を示すために使用された。
 強姦に関するフェミニストの言説は、性的犯罪の検証を公表し、強姦を通常の異性愛関係の分析に統合している。ナチス・ドイツの過去と対立すると、ドイツの民族主義の危険な復活につながる。犠牲者として戦後のドイツ人の自己認識を支援する可能性がある。証言を信用しない傾向となり、過去の虐殺戦争を正常化ている。再統合されたドイツで、新たな民族主義と外国人恐怖症が加わり、ドイツ国防軍兵士をスターリン主義スラブの猛攻撃を阻止する東部戦線の英雄的な戦闘員と主張している。ナチス・ドイツを破壊したソビエト赤軍兵士によって犯された強姦の大規模な発生は、明らかな事実を発表するだけで、男性の暴力の広範囲にわたる犯罪に、女性に対して巨大な不安と抵抗を引き起こした。旧ユーゴスラビア、特にボスニアにおける強姦の分析と対応に関して苦痛と混乱の現況では、歴史的分析はさらに困難になる。 
 強姦の数値や事実を収集したりすることは重要ではない。占領の数か月前と数年後にソビエト軍兵士によって何人のドイツ人女性が強姦されたを知ることは困難である。暴力と同様に、すべての必要な警告と占領軍の規律の欠如していた。強姦は、西部戦線の連合軍には知られない方法で、ソビエトの社会的歴史の一部になった。東部戦線からの難民と町、村の住民の両方、ソビエト都市と西部戦線ではほとんど強姦は知られなかった。 
  強姦の恐怖を主張して、赤軍であろうと親衛隊であろうと、アメリカ軍であろうとフランス軍、イラク軍またはセルビア軍であろうと、普遍的に兵士は、強姦して無罪の女性を略奪している。普遍的な犠牲者の女性は、あらゆる戦争の戦利品であり、補償されない戦争犯罪の標的である。



2020年6月9日火曜日

ドイツ軍のプロパガンダ部隊は、ドイツ軍により殺害されたソ連の赤軍の女性狙撃兵の死体を撮影して、赤い売春婦と喧伝した。

ドイツ軍のプロパガンダ部隊は、第ニ次世界大戦の東部戦線で、1941年にドイツ軍により殺害されたソ連の赤軍の女性狙撃兵の死体を撮影して、赤い売春婦と喧伝した。ドイツ軍兵士は、中世の騎士のようにソ連の女性兵士は殺害しないと風潮していた。しかし、ドイツ軍兵士は、明らかにソ連軍の女性兵士を殺害していた。頭部を撃ち抜かれた捕虜となったソ連軍の女性兵士が頭部を撃ち抜かれて殺害された死体が路上に倒れていた。ソ連軍の女性兵士は、民間市民の囚人に扱われて、ナチス・ドイツ軍により処刑あるいは強制収容所に連行された。ソ連の女性は戦争が長くなるとは誰も考えずに飢えていた。女性らしさの喪失を悩み、男性の下着を装着を嫌い、死んで醜く見えるのを恐れ、戦争の心的ストレス症候群に陥った。
 第二次世界大戦中の東部戦線では、当初はソビエト連邦軍の戦闘員に女性の動員は不誠実であるとして、劣勢であるドイツ軍の士気を失わせる目的のみで使用された。しかし、次第にソビエト連邦軍で女性の動員が、戦場でも登用されるようになった。総計で約80万人もの女性が戦争作戦に動員された。前線では、たとえばパイロット、運転手または狙撃兵としてもかなり登用された。ソ連軍には、女性だけで構成された部隊はなかった、しかし、大多数の女性は空襲の保護、看護護員、洗濯員、パン屋、その他の後方サービスでも登用された。これはドイツ軍でも同様であった。
 第二次世界戦争中にソビエト軍に仕えた女性は約800,000人に達して、全軍人の約3%に及んだ。1943年のソビエト軍の女性数は約348,309人、1944年には約473,040人、1945年には約463,503人だった。ソビエト軍の医療関係者のうち、救急隊員の約40%、医師の約46%、外科医の約43%、医療助手の約57%、看護師の約100%が女性であった。その他には、パイロット、狙撃兵、機関銃手、戦車兵、パルチザン、および補助的な役割も果たした。最初に、ドイツ軍が1941年6月22日にソビエト連邦を攻撃したとき、志願した何千人もの女性は背を向けられた。しかし、ドイツ軍のバルバロッサ作戦に直面して大規模な損失を被った後に、志願する女性のためにより大きな役割を確保する必要があった。戦争の初期段階では、女性のための軍隊の最短ルートは、医療と補助部隊であった。ロシア人女性は冷戦後もロシア軍に所属する法的権利を有した。2002年に、ロシア軍の約10%は女性であった。
 ソビエト連邦は、10月の革命の以後に、男女平等を公約とした。多くの男性の戦闘領域にも女性が導入された。戦闘での女性の登用に根本的に反対する戦争思想的な理由はなかった。一方で、ドイツ軍では、お手伝いと十字架の母の両方を女性市民として連行するのに、多くの批判があった。驚くべきことに、ソビエト軍女性兵士を特に印象につなげたのはまさに第二次世界大戦中であった。戦後は、再びかなり保守的になり、働く女性は2Kである妻と母親に次第に取って代わられた。


2019年11月14日木曜日

中国の人民解放軍と公安警察が、陝西省咸陽にて若い女性を含む囚人を公開で射殺して集団処刑した。

中華人民共和国の人民解放軍と公安警察が、1995年12月24日に陝西省咸陽にて、若い女性を含む囚人を公開射殺して集団処刑した。女性の囚人らの後頭部と心臓などを狙い撃ちにした。スカートやジーンズを履いたうら若き女性は後ろ手に縛られて、無表情な人民解放軍兵士と公安警察に銃で頭と心臓を撃ち抜かれて虐殺された。死刑の執行写真では、若い女性の名前は陸金鳳であり、彼女の首に下げられてる札には「故意殺人犯 陸金鳳」、背後にある卒塔婆には、同様に「槍殺 故意殺人犯 陸金鳳」と晒された。中国では、卒塔婆の氏名に赤バツをつけた札を首から下げて晒しものにする風習がある。中国当局の人民解放軍と公安警察は、公衆の面前で女性らの囚人を銃殺で処刑した。取り巻く多くの民衆と公安警察が死刑の光景を見ていた。死刑の判決を受けるのは通常は、麻薬密売や殺人などの重大な犯罪を犯した囚人に課される。中国ではそれ以外でも最も恐ろしい死刑が執行された。その他の男性の囚人は抵抗して、公安警察が走って行き押さえつけても、陸金鳳はその姿をただじっと見守って、表情には、生への希望も死への悲しみもなく、虚無のみであった。刑場に連行される死刑囚の一団が出て来る裁判所前にも大量の見物人が集まって、集団で死刑裁判と処刑が行われた。 
 一連の銃殺写真は密告者から「博訊新聞」に2004年に提供されたもので、時刻や場所は記載されていない。アメリカ合衆国ノースカロライナ州にある反共新聞である博訊新聞に、2004年12月23日に掲載された。犯罪者の死刑は歴史的には残虐な処刑が世界中にも存在するが、中国の場合は死刑囚を引き回して晒し者にして銃殺という前時代的な処刑が現代に至っても行なわれている。中国では死刑判決が出たら、抗弁をさせなように即刻で死刑を執行する。頭部を吹き飛ばす斬首や頭部を破滅したり切り離すのは、中国では魂を滅ぼす事を意味する。肉体を不完全にする事で、来世で獣に生まれ変わるなどの古来の迷信が由来とされる。その他には移植臓器などが必要な時に合わせて死刑を執行する人間生簀も示唆された。


   
 陸金鳳のうら悲しい悲惨な運命の略歴は下記である。1975年: 山西省運城市土懐郷陸各荘生まれ。1988年: 母も病で死去。継父とおじに家から叩き出される。その時13歳。生きるために路上生活を始めるが犬に咬まれ大怪我をしたところをホテルマネージャーに拾われるが強制的に売春させられる。 1991年: 全国的な売春取締りのガサ入れで捕まり労働改造所に入所。1992年: 釈放され実家に戻される。疫病神が戻ったのを怖がり、継父は陝西省慶陽件西嶺村の貧困障害者“李”に1000元で嫁として売った。李はベッドに寝たきりで母親が介護していたが性格は誠実だった。然し幸せは続かなかった。村の悪党“胡”が陸を気に入り2000元で李から奪っていった。1992年から1993年:  陸は凌辱と虐待を受け続け、逃亡を試みるも毎回捕まり監禁された。 何週間か過ぎ、胡は商売で長期間不在にした隙に胡の従弟である“唐”“関”の二人は陸を姦淫し妊娠させた。唐は自分の子かもしれないと思い、胡が戻ったら手切れ金を払って妻にしようと考えた。1994年末: 陸は男の子を産んだ。1995年旧正月: 胡が戻ったので唐は恐る恐る陸と子供を帰したところ胡は激怒、陸を拷問し誰の子かを吐かせた。その晩唐と関は胡に切り殺され、子供も殺された。陸は怒りと絶望で理性を失い鎌で眠っている胡を殺し放火した。1995年3月: 陸は逮捕され、慶陽県法院は“悲惨な生い立ちではあるが、労働改造所を出て保護観察処分中の身でありながら殺人を犯した。”として死刑判決を下した。陸は不服を申し立て上告しようとしたが却下。1994年12月24日: 咸陽にて銃殺で処刑される。 20歳で死没。

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2019年1月24日木曜日

グアテラマの街角に座っていた13歳の男児に、突然に軍警察が襲いかかっり、虐待して虐殺した。

グアテマラ内戦が、グアテマラ軍内の親米派と反米派及び左派勢力などの間で1960年から1996年まで内乱が継続した。 1990年3月4日にグアテマラの首都であるグアテマラ・シティにて、数千人もの子供たちが身寄りもなく路頭の困窮生活をしていた。仲間と街角に座っていた13歳の男児に、突然に軍警察が襲いかかった。13歳の男児だけ捕まり、道路に押し付け、蹴り上げて虐待を受けて絶叫して意識を失って虐殺された。2本の指、肋骨骨折、頭皮切傷など全身の虐待を受けていた。
 アメリカから支援をうけてホンジェラスから軍事侵攻した武装勢力から、1958年に成立した軍事政権の親米的政策に対して、不満を抱いた軍若手将校が1960年に反乱を起こした。同反乱は鎮圧されたものの,その指導者グループが山中に潜伏して,ゲリラの源泉となり,以後36年間にわたり内戦が継続した。1965年改正憲法により,1966年の大統領選挙で民主的に政権が交替したが、しかしながらテロ活動が活発となった。1970年以降は,軍人大統領が政権を掌握した。1986年に20年振りの民政移管を達成して、1987年に中米和平合意に署名した。1991年1月,軍部の影響を受けた文民政権となるも、1993年6月に自主クーデターを行って、国内外の強い反発を招き、崩壊して国外に亡命した。1993年6月に人権擁護官が大統領に就任して,政府・ゲリラ間の和平交渉,貧困対策,人権改善等を積極的に推進した。1996年12月29日に政府・ゲリラ間で最終和平合意が成立し,中米最後の内戦が終了して、和平プロセスが開始された。1997年5月に国連軍事監視団の下,ゲリラの武装解除が完了した。1997年12月に軍警察が解体されて,国家文民警察に移行した。




2019年1月1日火曜日

少女がロシア飢饉のため飢餓に陥り、頬が落ち込み顎がせり出し、顔や四肢が痩せ細り腹部が腫れて死期が近づいた。

   ロシアの大飢饉により、ペトログラード(レニングラード)では食糧と燃料不足のために、1921年に抗議デモが発生して戒厳令が敷かれた。少女が飢饉のために極度の栄養失調に陥り、頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、顔や四肢が痩せ細り、腹部が腫れて死期が近づいていた。
 第1次世界大戦で、ロシア帝国は約1,600万人もの兵士を戦線に駆り出して、兵士と市民らが約1,600万人も死亡した。ロマノフ王朝は1917年2月に崩壊して、10月にレーニン政権が樹立した。1918年5月から1920年まで諸外国の14ケ国は約130,000人を参戦させて内戦となった干渉戦争が勃発した。ロシア西部の最大の穀倉地帯が戦場となり、強制的に農民は食糧などを徴収された。干渉戦争の前後で、播種耕地は約31%、家畜は約40%も減少した。内戦の終結時に、気温が上昇して降雨量が低下する干ばつの悪天候となり、穀物生産が激減した。大部分の市民は、食糧価格の高騰で購入が困難となった。ロシア全土にわたり飢饉の規模と程度が拡大して深刻化した。
 深刻な飢饉により、約2,800万人以上の市民が栄養失調となり飢餓に陥った。特に弱者である約700万人の14歳未満の子供と約539万人の乳幼児が飢餓に陥った。栄養失調による飢餓と伝染病で、死亡率は約16%にも達した。両親が捨てたり死亡して約100万人前後の孤児や浮浪化から餓死を招いた。頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、死期が近づくと顔や四肢が腫れて、全身が浮腫んで死亡した。最悪の場合は、餓死した幼児の死体を、親族らが食べ合う人食いも横行した。



2018年12月4日火曜日

イラク戦争により難民となったイラク人の男の子が、癌による激烈な腹痛から息苦しく悲鳴を叫びながら、5日後に死亡した。

イラク戦争に巻き込まれて、さらに突然にイスラム国兵士にも追われて難民となった。イラク人家族の男の子が、癌による激烈な腹痛を伴い息苦しく男の子が悲鳴を上げて泣き叫んだ。既に医療も施せずに、小さく粗末なベッドに横たわり次第に衰弱して意識も失いかけた。母親が悲惨な男の子の額に手を当てて見守りながら慰めた。難民となったイラク人の男の子は、その5日後に死亡した。
 2003年3月20日にイラク戦争が勃発して、2006年12月30日にサダーム・フセインは首吊りで殺害された。イスラム過激派によるイスラム国(ISI)が、2006年10月から次第にイラクからシリアを占領して、イスラム国の樹立を2014年6月29日に宣言した。


2018年11月6日火曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍の北爆再開で、集合や睡眠中の時間帯の空爆により膨大な女性や子供が虐殺された。

ベトナム戦争にてアメリカ軍による北爆再開により、1972年8月14日に睡眠していた時間帯と集合した建物の空爆により膨大な女性や子供が虐殺された。
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍による北爆により無差別に殺傷されたベトナム人女性や子供の犠牲者数は、ジョンソンよりもニクソン政権の方が膨大となった。ベトナム北部の湾口都市であるハイフォンでは、1972年4月16日から約半年間の北爆による殺傷者は約1,500人に達して、女性の約650人と子供の約350人が含まれた。アメリカ軍は、無差別に女性や子供が集合する建物や時間帯に集中爆撃した。北ベトナムの大都市ナムディンでは、1972年4月16日から9月26日までに、約33回にわたり空爆されて、約188人が殺害されて、多くの女性と子供が含まれ犠牲となった。首都ハノイには4月16日から9月30日までに約57回の空爆により、約150人が殺害された。女性は約52人と子供は約39人が含まれ犠牲となった。
 ニクソン大統領は1972年に北ベトナムに講和を迫るために、北爆再開を決定した。空爆で圧倒してホーチミン・ルートを遮断し、アメリカ軍の削減と南ベトナム軍事化して、北ベトナム軍を徹底的に壊滅した。アメリカ空軍は第2次世界大戦の日本空襲以来の本格的な空爆をした。兵士や市民を問わない無差別に集中的な空爆した。約15,000機の爆撃機が約60,000トンの爆弾を投下した。12月18日には、首都ハノイとハイフォン港に、2週間で約20,000トンの爆弾が投下された。ハノイやハイフォン区域は完全に焼滅して、軍事施設だけでなく社会生活資源にも甚大な被害を与えた。中越国境地帯にも大規模な空爆がされて、北ベトナムへの軍事援助が途絶えた。アメリカ軍の空爆により、北ベトナムは甚大なの死傷者を出して大打撃を受けた。北爆再開により、北ベトナム軍は戦闘が困難となり、北ベトナム政府は1973年1月にパリ和平会議に追い込まれた。



2018年10月19日金曜日

国民学校では、戦死した卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、小学生と前期中学生を毎日礼拝させた。

1943年頃に熊本県の日奈久国民学校では、戦死した同校の卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、学生に毎日礼拝をさせた。学生は休日には、その遺族への慰問奉仕をさせた。
 日中戦争の頃から、教育機関では学校報国班が結成された。学生は勤労動員から軍事訓練も必須の授業として強要された。太平洋戦争が勃発してから、国民学校の小学生も、戦争を担う次世代の戦争要員として訓練された。少国民として奉仕団を結成され、戦争要員の代替として養成された。少国民として、奉仕団を結成され、勤労奉仕から遺族家庭訪問などの強要が評価された。30校の国民学校が、1943年に陸軍省から特別表彰を受けた。報道機関は軍報道部から命令で同時の学校を取材して撮影された。
 1931年に中国・奉天郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が暴発して満州事変が勃発した。1930年の暫定総動員計画が応急総動員計画に改定された。1938年7月に盧溝橋事件から日中戦争が勃発した。大日本帝国は1938年の第73帝国議会に国家総動員法を提案して、4月1日に公布され5月5日より施行された。国民は一億総動員による徹底抗戦に巻き込まれた。
 1941年の国民学校令によって国民学校は設立された。教育勅語を遵守して皇国に則って初等・前期中等普通教育をして皇民の錬成を為した。教育勅語は、皇国による帝国主義を浸透させて、日本の道徳教育の根幹となった。道徳教育の主張である親孝行などの道徳を尊守を、天皇が国民に指令した。勅語とは、政治・行政などの天皇の発言として皇国化した。第2次世界大戦の敗戦後に、主権在民を原則とする日本国憲法により教育勅語は廃止された。


 「教育二関する勅語」が1980年に正式に交付され教育勅語と呼称された。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽」 



2018年8月20日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 170,000回

2018年10月15日月曜日

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。
 大都市の成長の陰では多くの市民の犠牲を伴った。大火災が1911年3月25日に、婦人用古着再生工場であるトライアングル・シャツウェスト工場で発生した。アメリカでは多くの工場で労働運動の対立と和解があった。トライアングル社は最後まで決着がつかなかった。トライアングル社は8から9階のビルが工場であり、8階から火災が発生して、多くの女工が死亡した。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になった。火災により500人のうち縫製工146人(女性123人、男性23人)が、火災や煙の吸引による窒息、さらに転落から飛び降りにより死亡した。犠牲者の大半は16歳から23歳までのユダヤ人やイタリア人の移民女性であった。46~60人以上がの人が火災からの逃げ場を失って、窓枠から飛び降りて死亡した。窓から落下して、街頭に叩き付けられて即死した。多くの死体は道路に積み上げられていた。
 1929年にニューヨークの州知事となったフランクリン・ルーズベルトは、工場調査委員会により州内の労働問題を一掃させた。ルーズベルトは、大恐慌を克服し、経済の蘇生から労働者の待遇を改善するニューディール政策を公約して、1933年に大統領に選出された。日本軍による1941年12月8日の真珠湾攻撃に対して、ルーズヴェルトは正義の戦いを市民に訴え、日本と同盟国に宣戦布告した。
 2001年3月11日のニューヨークの同時多発テロにより、突入した航空機の燃料で火災が発生し、高熱で強度の低下した鉄骨に、荷重が下層に座屈の連鎖を起し、短時間で2つのタワーは崩壊した。約2749人も死亡する大惨事となり、世界貿易センターは崩壊した。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、アフガニスタン・イラクに宣戦布告した。





2018年10月4日木曜日

戦争は人道に対する犯罪です(WPU)。フランス北東部のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である。

アメリカの女性平和連合(WPU: Women's Peace Union)は、戦争に伴う犠牲をアメリカ人に再考させるため、1920年代に下記の写真付きのチラシを配布した。(戦争は人道に対する犯罪です。フランス北東部の国境近郊のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である)。私たちWPUは平和を主張します。『戦争に襲われた人類の苦しみで恐怖に満ちているあなたに。約1,000万人が虐殺されたことを覚えているあなたに。最後の戦争で育った。戦争の現実に直面する勇気を持っているあなたに、感傷的な栄光を取り除いてください 停戦協定の署名から8年!平和はまた戦争の準備によって覆われています。次の戦争では、より強力な殺人光線、ガス、病原菌、武器などによって、より多くの男性、女性と子供たちは非人道的で残虐な虐殺されるでしょう。あなたが愛する人たちの全世界の破壊を共有しなければなりません。あなたは世界を粛清に尽力しないようにできますか?妥協しない平和組織にあなたの貢献を送ってください。私たちWPU(女性平和連合)は、暴力と流血は道義的に悲惨な行為と信じています。私たちは、戦争を不法にし、世界平和を確保するよう努めています。』
 世界大戦間の時期に、多くの平和社会活動団体の一つであるWPUは、1930年代に戦争宣言に国民投票を必要とする憲法改正のためにロビー活動を行った。アメリカ救済庁と私的慈善団体は、1921年と1922年に飢饉に見舞われたロシア人を含む貧しいヨーロッパ人に食糧を届けた。アメリカ人は絶望的なヨーロッパ人に食糧を供給するだけでなく、政治的過激主義を抑えることを望んでいた。



2018年9月8日土曜日

ロシア帝國にて飢餓と流行したチフスやコレラで、死んだ子供の死体を、農民の母親が諦めて見守った。

ロシア帝國において1891年から92年に飢餓と流行したチフスやコレラに感染した子供が死んで、農民の母親が諦めて子供の死体を見守った。飢饉は1891年夏頃から深刻な危機に襲われた。この時期は、飢餓がチフスやコレラの流行が拍車をかけて、約375,000人のうち数万人もの子供が死亡した。ロシア帝国はオスマン・トルコ帝国と1877から1878年までの戦争と1874年から徴兵制度によって、農民に飢餓を発生させるに至り、勝利で終結した。ロシア帝国による1980年代の工業化の犠牲となったのが依然として人口の圧倒的多数を占める農民で、政府は農民に重税を課し、そのうえ外貨獲得のために穀物輸出を推進して飢餓輸出まで行われた。飢餓輸出により、国内で必要な物資の消費を規制し、輸出に回して外貨を獲得するために、終局的には、国内の食糧消費が不足するほどの量を輸出して、飢餓を招く事態に陥った。飢餓の時ほど、直接的な多大な影響を受けるのが乳幼児であった。ロシア帝国の成立からは、1024年に飢餓が発生して、19世紀前半までに約130回発生した。



2018年7月10日火曜日

ソ連に抑留された元日本軍兵士が舞鶴港に上陸するたびに、母と子は必死で兵士の顔を探し求めた。

ソビエト連邦軍が1945年8月9日に日本に対して参戦して、満州で防衛した膨大な日本軍兵士が捕虜となった。第2次世界大戦後に長期間にわたり、シベリア抑留されて強制労働させられた。引揚船が着くたびに母子が岸壁でいつまでも肉親を探し続けた。いつも見られた喜びと悲喜こもごもの光景であった。歳月の経過とともに、毎回に同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられれた。これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられた。
 思い出の戦争の真実として、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)の子供である端野新二(1926年生)は満洲国に渡り関東軍として、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。戦後に、いせは新二の生存と復員を信じて1950年1月から引揚船が舞鶴に初入港してから以後6年間にわたり入港する度に舞鶴の岸壁に立った。1954年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956年には東京都知事が1945年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書を発行した。しかしながら、帰還を待続けた新二は戦後も上海で生存していたのが、明らかになったのは、母の没後の2000年8月であった。1954年9月、テイチクレコードから発売された菊池章子の「岸壁の母」は100万枚以上の国民的反響を受けた。






作詞:藤田まさと
作曲:平川浪龍
歌唱:菊池章子
(一)
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(二)
呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に
 (三)
 悲願十年 この祈り
 神様だけが 知っている
 流れる雲より 風よりも
 つらいさだめの つらいさだめの
 杖ひとつ

2018年5月2日水曜日

シリア内戦にて、首都ダマスカスの北東部のドウマ市場で、自動車爆弾が炸裂した。負傷した子どもを抱きかかえて、父親が野戦病院に運んだ。

シリア内戦にて、首都ダマスカスの北東部のドウマ市場で、自動車爆弾が炸裂した。負傷した子どもを抱きかかえて、父親が野戦病院に運んだ。シリア政府軍は2018年2月28日から、残存している反対勢力が残存している東グータ地区のドウマに攻撃を強化した。シリア政府軍は、空爆から地上戦闘で東グータ地区の大半を占領した。ドウマ周辺のみに反対体制勢力が撤退せずに残存して、3月末までに民間人が約1,600人以上が死亡した。2011年3月15日から勃発した内戦は未だに終結もしないで、子どもは約1万9000人、女性は約1万2000人以上が死亡して犠牲となった。特に反体制派の拠点である東グータ地区では、約40万人の住民も巻き込まれて、シリア軍に包囲されて壊滅状態になった。2018年4月9日には、ロシアに支援されたシリア軍はドウマに化学兵器の毒ガス爆弾を再空爆して、少なくとも約70人以上の民間人が死亡した。対抗してアメリカ・イギリス・フランス軍は4月13日にシリア政府軍の軍事施設にミサイル攻撃をして泥沼化した。



2018年4月22日日曜日

ナチス親衛隊員が、ラトビアのリーガで、5人のユダヤ人女性と少女も服を脱いだ直後に撃ち殺されて穴に埋められた。

ドイツの支配地域からユダヤ人の排除は,第2次世界大戦の戦前から戦中を通じて,ナチス・ドイツの目標であった。ラトビアの首都リーガの南郊外区にゲットーの設置が1941年8月に決まり,ユダヤ人は10月25日から鉄条網で囲まれたゲットーの以外に住むことを禁止され,完全に外界から隔離されて消滅した。ヒトラーは,1941年9月に大ドイツ国家領域のユダヤ人を東方のリーガに移送した。収容できる施設はないため、11月30日と12月8日の2日間に,リーガのゲットーのユダヤ人をルンブラの森で殺害した。労働力として約250人のユダヤ人以外,残りの約2万780人のユダヤ人が殺害された。12月8日にユダヤ人がゲットーから引き出され,リーガから約10キロ離れた大きな穴に,全員男も女も子供もナチス親衛隊員により約2,700人が撃ち殺され埋められた。5人のユダヤ人の女性と少女は服を脱がされて、その直後に射殺された。




2018年3月27日火曜日

ナチス・ドイツのワルシャワー・ゲトーの路上では至る所で、子供も餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。

ナチス・ドイツは第2次世界大戦中に、植民地となったポーランドのワルシャワに、最大のユダヤ人隔離地域であるワルシャワ・ゲトーで人種隔離して封鎖した。ユダヤ人は、1940年7月9日以降か、ポーランド紙幣の交換は厳しく制限された。監視下におかれて、外部から食糧を入手することは困難となった。さらに追放後に移住して来たドイツ人が、ゲットーの市民に奴隷労働を強制した。大量のユダヤ人が、ゲトー内外で虐殺された。ワルシャワ・ゲトーでは農地や緑地が少なく、小柄なユダヤ人や子供たちは、資金も途絶え、食糧の運搬もできず、飢餓状態に陥った。路上では至る所で、1941年から1942年にかけて子供たちも餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。