2018年7月10日火曜日

ソ連に抑留された元日本軍兵士が舞鶴港に上陸するたびに、母と子は必死で兵士の顔を探し求めた。

ソビエト連邦軍が1945年8月9日に日本に対して参戦して、満州で防衛した膨大な日本軍兵士が捕虜となった。第2次世界大戦後に長期間にわたり、シベリア抑留されて強制労働させられた。引揚船が着くたびに母子が岸壁でいつまでも肉親を探し続けた。いつも見られた喜びと悲喜こもごもの光景であった。歳月の経過とともに、毎回に同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられれた。これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられた。
 思い出の戦争の真実として、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)の子供である端野新二(1926年生)は満洲国に渡り関東軍として、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。戦後に、いせは新二の生存と復員を信じて1950年1月から引揚船が舞鶴に初入港してから以後6年間にわたり入港する度に舞鶴の岸壁に立った。1954年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956年には東京都知事が1945年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書を発行した。しかしながら、帰還を待続けた新二は戦後も上海で生存していたのが、明らかになったのは、母の没後の2000年8月であった。1954年9月、テイチクレコードから発売された菊池章子の「岸壁の母」は100万枚以上の国民的反響を受けた。






作詞:藤田まさと
作曲:平川浪龍
歌唱:菊池章子
(一)
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(二)
呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に
 (三)
 悲願十年 この祈り
 神様だけが 知っている
 流れる雲より 風よりも
 つらいさだめの つらいさだめの
 杖ひとつ