2018年7月31日火曜日

アメリカ軍の若い海兵隊員が、沖縄の首里陣地の激烈な攻防戦で戦死したアメリカ軍兵士の死体に向かい悲嘆に暮れた。

沖縄戦の首里攻防戦の緒戦で、1945年4月20日にアメリカ軍は嘉数高地を占領した。アメリカ軍の空前絶後の猛爆で与那原から首里は一面焼け野原になり、跡形もなく壊滅した。地下壕の入り口付近の日本軍兵士は狙い撃ちにされた。壕内に封じこめ、火焔放射を浴びせ、強力な爆雷やガス弾を大量に投入され、多くの日本軍兵士が虐殺された。5月4日早朝には日本軍は全軍を挙げ総反撃して、一帯はたちまち修羅場と化したが、5月5日の午後六時に反撃を断念した。総攻撃が中止されても、日米双方には多数の犠牲者が続出した。日本軍は首里攻防戦全体を通じて兵力の75%を失った。アメリカ軍は5月11日に総攻撃をして、首里の日本軍に対して激烈な昼夜の別なく砲撃した。激烈な戦闘のために、アメリカ軍第六海兵師団は2,66人もの死傷者と1,289人もの戦闘発狂者を出した。アメリカ軍のある中隊は総員204人で石嶺高地に夜襲をかけたが、156人を失った。129人からなる別の攻撃隊は生存者が30人だけ、交替要員58人の小隊などは、わずかに3人が生還した。アメリカ軍は、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した。5月27日夕刻から28日に日本軍は南部撤退した。5月29日にアメリカ軍が首里城址に突入するも、首里要塞はもぬけの殻になっていた。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に日本軍兵を引いて持久戦を展開して、十万人を超える民間人犠牲者を出した。日本軍の撤退で沖縄の市民は、恐慌状態に陥って、民間人市民の群れが軍のあとを追って南へ逃げ、砲爆撃などで虐殺された。何千もの死体が、ぬかるみの道端に置き去りにされた。