2019年6月30日日曜日

イラク戦争で路上にて敗退したイラク人兵の死体は、棺桶にも入れずに、ブルドーザーで廃棄処分された。

イラク戦争が終結した後に、イラク軍の敗残兵の多数の死体が、バクダット市内に散在していた。路上にて敗北したイラク人兵の死体は、棺桶にも入れずに、ブルドーザーで廃棄処分された。路肩の壁にある弾痕は、アメリカ軍による激しい銃殺の跡となった。アメリカ軍は、敗軍となったイラク人兵士を弾丸で蜂の巣にした。イラク人兵の頭部に巻いたバンダナは、サダム・フセイン軍兵士の忠誠の証となり、アメリカ軍兵士に銃殺された。アメリカ軍は、軍服を着用したイラク人兵士だけでなく、軍服を着ていない市民を含めて無差別な銃撃も伴った。
 イラク戦争は、2003年3月20日から勃発して、アメリカ軍はB-52による大空襲によりバクダットに爆撃をした。バクダット市内は、アメリカ軍によるピンポイント爆撃だけでなく誤爆も頻発した。大空襲の爆撃から多量の犠牲者により、バクダット市民は恐怖から狂気に陥った。2003年4月13日からアメリカ軍は、バクダット市内に侵略した。イラク軍だけでなく、近隣のイラク市民にも狙撃した。不信に動くと見える人影は、全て敵として銃撃した。イラク戦争には、何も知らないで軍隊の命令だけを信じて、イラク市民から徴兵された忠実な若いイラク軍兵士も犠牲になった。




2019年6月29日土曜日

長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、少女はほとんど毛髪が抜けた。(長崎)

長崎原子爆弾にによる被爆によって、少女は長崎市興禅寺町の新興善国民学校の救護病院に救護された。長崎原爆からの放射能の影響による重度の脱毛症状により、収容された少女には1945年8月下旬には、ほとんど毛髪が抜けた。放射能の影響は、初期の放射能被爆だけでなく、大気中に燃え残りの死の灰や混ざった雨となった黒い雨などの残留放射能でも被爆して、急性放射能症状を伴った。放射能は、物体を通過して、人体を透過して、細胞や遺伝子に障害を伴った。
 脱毛は、早期には原爆の被爆後の1週間後から始まり、第3週頃までに発現した。そのほかに、皮下出血もしばしば合併して、生存者の多くでは、12~14週で元に戻った。特に脱毛部は、毛髪の毛母基が重度に障害された。脱毛の重症度は、爆心地からの被爆距離にも強い相関があった。至近距離ほど高頻度に被爆直後から2週間の急性期から発症した。被爆して3から4月以上に生存した頃から、脱毛部からの発毛が出現した。



2019年6月28日金曜日

イラク戦争にて、アメリカ軍兵士はイラク人兵士の頭部を狙撃して、弾丸が頭頂部を貫通して、即死した。

イラク戦争において、アメリカ軍兵士は反政府のイラク人兵士の頭部を狙撃して即死させた。弾丸が頭頂部を貫通して、脳出血と脳髄が流出した。砕けた頭蓋骨から、噴出した脳内からの多量の出血により、顔面から上半身を血溜まりにした。頭部に弾丸が貫通した時は、脳内の血液と組織が飛び散った。
 イラク戦争は、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が、イラク人市民を解放して、イラクの大量破壊兵器を抹消となり、サダム・フセイン独裁政権を打倒した。イラク戦争の戦場では、アメリカ軍兵士は、攻勢できない反政府勢力を殺害した。敵対するイラク人勢力を侵略するために、故意的に殺人をした。
 戦場で殺害する兵士は、死刑執行人、裁判官と刑事などの役目を引き受けている。市民と兵士の判別もできずに、無差別に生命を瞬時に奪い去ることは、戦場では犯罪ではなく、無実となる。奪った生命により、名誉と勲章を拝受する。正義感を伴って死体を見ても、虐殺と虐待を後悔もしないで、正義感を伴う。戦場では、殺害することが兵士の努めであり、敵の戦死傷が代償である。殺害は当たり前の任務となる。戦場での狂気から、戦後に心的外傷症候群(PTSD)に陥る兵士がいる。


【閲覧留意】
Hans HALBERSTADT: TRIGGER MEN
Trident Media Group, 2008

2019年6月27日木曜日

多数のポーランド人のワルシャワ蜂起の抵抗組織の人質が、蜂起後に絞首刑により死刑が執行された。

多数のポーランド人のワルシャワ蜂起の抵抗組織の人質が、蜂起後に首吊りの絞首刑により死刑が執行された。ポーランド国内軍の約16,000人が殺害されて、約6,000人が重傷を負った。さらに、約15万人以上のポーランド市民が、大部分が大量処刑されて死亡した。ドイツ軍兵士の死傷者は約2,000人以上が死亡や行方不明となった。都市戦闘中に、ワルシャワの建物の約25%が破壊された。ドイツ軍による1939年のポーランドの侵攻と1943年のワルシャワのゲットー蜂起で被った初期の被害とともに、東部戦線の過程でドイツ軍がワルシャワを放棄した1945年1月までに、ポーランド都市の85%以上が破壊された。
 ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦の1944年8月1日に、ポーランド人の地下組織が、ワルシャワを解放するためにドイツ軍に対して蜂起した。ソビエト赤軍の侵略に先立って、ポーランドからのドイツ軍の敗退を目指した。緒戦では、ポーランド人はワルシャワ中央部の大部分を占領した。ドイツ軍は再編成して、ポーランド地下組織の抵抗を打倒して、報復として都市を破壊した。ワルシャワ蜂起は、外部からの支援がほとんどない状態で10月2日まで63日間行われた。第二次世界大戦中にヨーロッパの抵抗運動で最大の軍事的抵抗であった。
 ソビエト赤軍は、ワルシャワ東部の郊外に近づいても、一時的に侵攻を中止して、ワルシャワの境界を越境しなかった。ドイツ軍とポーランド人の間の激しい路上での戦いは続いた。9月14日までに、ポーランド蜂起のヴィスワ川の東対岸は、ソビエト軍の指揮下のポーランド軍が引き継いだ。約1,200人のポーランド軍兵士が川を渡ったが、赤軍は支援しなかった。ソビエト赤軍はワルシャワ蜂起を失敗させて、ポーランドの抵抗を鎮圧させるために、赤軍を戦略的に停止した。ボーランドは10月2日にドイツ軍に降伏して、蜂起は完全に鎮圧された。 



2019年6月26日水曜日

2人の黒人女性が、アーリントン国立墓地に参拝して、黒人と分離された墓地に埋葬された兵士墓に花束を飾って冥福を祈った。

2人のアフリカ系アメリカ人である女性が、1943年7月26日の軍隊の人種隔離禁止日にアーリントン国立墓地に参拝した。黒人セクションと分離されていた墓地に埋葬された身内の兵士墓に花束で飾って冥福を祈った。アーリントン国立墓地は、7月26日に大統領命令9981を発行するまで、人種による埋葬を分離していた。トルーマン大統領は、1948年7月26日に大統領令9981号を発令して、軍隊内での人種隔離が正式に禁止した。
 アーリントン国立墓地は、首都ワシントンの近隣のバージニア州にある国立墓地である。南北戦争の戦死者のために1864年から慰霊した。身元が不明な無名戦士の墓がある。アメリカ海兵隊が戦没した硫黄島の戦いで星条旗の掲揚した記念碑も附近にある。戦争で命や心体を失うことは、家族にとっても、辛い悲惨な戦死傷者となる。日本で初めて1959年に、戦死者の御遺骨を納める唯一の国立墓地千鳥ヶ淵戦没者墓苑が設置された。
 アメリカ軍は、1945年8月15日の終戦のニュースを受け取っても、信じられないほどの安心感と相まって、静かな不信感で、日本軍が降伏することは決してないと思っていた。多くの兵士が日本軍の降伏を信じることを拒んだ。 気絶した沈黙の中で、アメリカ軍兵は、膨大な戦死傷者を思い出した。戦争が過去の灰に委ねられて、戦争の狂気の中で、多くの生命と生活を失なった。広く散在する叫び声を除いて、奈落の底の生存者たちは、戦争のない世界を認知しながら、目がくらんで黙って座った。
































2019年6月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 230,000回

2019年6月25日火曜日

長期独裁軍事政権のフン・セン首相に対して、敵対的批判をした政治評論家のケム・レイが暗殺された。

カンボジアにおいてフン・センが、世界最年少の32歳で首相に就任したて、長期独裁の軍事政権を構築した。フン・セン首相に対して、敵対的批判をした政治評論家の43歳のケム・レイが、2016年7月10日に暗殺された。首都のプノンペンの中心部内にある通っていた喫茶店で、背後から接近した男性により銃殺された。男性の射撃で、ケム・レイの左側頭部と心臓附近に弾丸が打ち込まれた。独裁政治による抹殺であると嫌疑された。
 ケム・レイが暗殺された直後から、暗殺されたニュースを受けた支持者らが、暗殺現場に殺到した。取り囲むカンボジア市民から、叫びと嘆きから慟哭、激しい怒りが、現場に渦巻いた。市民らは、ケム・レイの死体を奪おうとする独裁政権と対立して、必死に死体を確保した。その後に、支持者らは、ケム・レイの死体を車に載せて、追悼の行進をした。寺院で葬儀をされて、プノンペン南部のタケオ州の生家に埋葬された。ケム・レイの妻と子供らの家族は、葬儀した直後に、身柄の危険性から、特別人道ビザを発給したオーストラリアで難民となった。
 実行犯の男性容疑者を、しばらくして逮捕された。最初は、会って殺す名称と白状したが、捜査により軍事政権の元兵士のエース・アンであることが判明した。その経緯について、警察も裁判所も追求しないで終身刑で終審した。フン・セン独裁政権は、暗殺ではなく事件は解決済みであると断定した。暗殺をフン・セン政権に嫌疑をかけるカンボジア市民には弾圧を繰り返した。



2019年6月24日月曜日

レイテ島の戦いで、アメリカ軍が塹壕を奪取した時に、守備していた日本軍兵士は仰向けに殺害された。

太平洋戦争のレイテ島の戦いは、日本軍兵士はアメリカ軍兵士の膨大な武力に圧倒された。日本軍の塹壕をアメリカ軍が奪取した時に、塹壕を守備していた日本軍兵士は仰向けに戦死していた。アメリカ軍は、奪取した塹壕を基点にして、さらに侵攻を継続した。フィリピンの戦いは、レイテ島の戦いから勃発した。
 総指揮官マッカーサーは、約10万人ものアメリカ軍兵士を、レイテ島に1944年10月20日から上陸させた。日本軍の大本営は1944年10月20日にルソン島ではなく、レイト島の戦いを命令した。ルソン島からレイテ島への増援は、輸送船が次々と撃沈されて、多くの犠牲者を伴って武器や食糧の約8割を喪失した。そのために、レイテ島の日本軍兵士は、敗残兵として惨めに山中を彷徨した。レイト島の戦いでの日本軍の犠牲者は、戦死者が約79,216人にも達した。アメリカ軍は戦死者は約3,504人、戦傷者は約11,991人さらに民間市民も巻き込まれて多数の戦死者を伴った。マッカーサーは10月20日に膝まで海水に浸しながら、タクロン海岸から上陸した。太平洋戦争の緒戦にて、マッカーサーは"I shall return"と コレヒドール島から撤退してから、オーストラリアで発言した。当時は、敵前逃亡と批判されてから、約2年7カ月後にレイテ島の戦いが勃発した。




2019年6月23日日曜日

ウクライナのキエフのバビ・ヤール峡谷にて、ナチス・ドイツ軍がユダヤ人の大量虐殺を執行した。

ウクライナの首都であるキエフのバビ・ヤール峡谷にて、ナチス・ドイツ軍が1941年9月29日から9月30日にかけて、ユダヤ人の大量虐殺を執行した。共同の墓穴は、1941年10月初旬に、ソビエト連邦の戦争捕虜を強制労働させて埋め立てた。射殺されたユダヤ人の衣服の残骸が散乱した。キエフを占領したナチス・ドイツ軍に対する襲撃の報復として、ユダヤ人市民の約33,771人を、近隣のバビ・ヤール峡谷において、特殊部隊4a(行動隊C所属)と秩序警察が大量虐殺により殺害した。わずか1日半で、ほとんど全てのユダヤ市民を虐殺した。ドイツ軍が9月19日にキエフを侵略した直後に、撤退したソビエト連邦軍の秘密警察が潜伏させた時限爆弾が爆発して、ナチス・ドイツ軍と住民が巻き込まれて犠牲となった。爆弾による攻撃に対して、報復として 残存したユダヤ市民全員を大量虐殺を指令した。
 約3万人以上ものユダヤ人市民が、キエフの郊外まで行進させられて、有刺鉄線が設置されているバビ・ヤール峡谷に連行された。ユダヤ人市民は、衣服を脱いで、貴重品を残して、小集団になって、峡谷の端に裸で踏み入って、横たわった後に殺害された。次々にユダヤ人市民を、殺害された死体の上に横にならせて、殺害した。殺害の悲惨な悲鳴を打ち消すために、オペラ音楽を響かせた。熟練したドイツ死刑執行者が交代しながら、約36時間かけて大量虐殺を完結した。さらにロマ、ウクライナ党派と国家主義者、戦争捕虜、共産主義者を加えると約5万人以上が、占領したキエフ郊外に埋められた。バビ・ヤール大虐殺は、大量虐殺において1件で最大の犠牲者を出した虐殺である。




2019年6月22日土曜日

第2ボーア戦争にてイギリス軍兵士は、ハニー・ネスト・クローフの砦で防衛し、多数の戦死傷者が横たわり、応急処置を受けた。

ボーア戦争においてイギリス軍兵士の集団は、1900年2月16日に南アフリカのキンバリー近郊にあるハニー・ネスト・クローフの砦で防衛した。第2次ボーア戦争にて、要塞から発砲して攻撃した。その塹壕には、イギリス軍兵士の多数の戦死傷者が横たわり、応急処置を受けた。石やレンガによる土木工事で緊急的に築いた要塞は、大きな砦の外側を守備的にとり囲んだ。外側の戦線から砦の兵士たちを防御した。第2次ボーア戦争(1899年10月11日 -  1902年5月31日)は、映画と写真の両方で包括的に撮影された最初の戦争であった。
 第2次ボーア戦争が、南アフリカ共和国での植民地をめぐって、イギリス帝国は2つのボーア州である南アフリカ共和国(トランスバール共和国)およびオレンジフリー州との間で戦闘が行われた。2月14日に大英帝国軍が大規模な侵攻して、2月15日から砲兵隊がボーア軍を分断して、植民地する誘惑となったダイヤモンドの産地であったキンバリーに侵攻した。セシル・ローズが、ロスチャイルドの経済力により、ダイヤモンド王として植民地首相となった。イギリス軍は戦死者約6,000人と戦傷者は約16,000人、ボーア側は約6,000人以上の戦死者と約20,000人以上の犠牲を伴った。チャーチルはボーア戦争に参戦して、戦争の奴隷となったと回顧した。ボーア戦争は1902年5月のフェリーにヒング条約により。ボーア州が降伏した。植民地時代の大映帝国は、南アフリカの両方の元共和国を、大英帝国の一部として、1910年に南アフリカ共和国に組み込んだ。


2019年6月21日金曜日

硫黄島の戦いでは塹壕の中にいたアメリカ軍海兵隊の兵士集団が、日本軍からの砲撃が直撃して全員が戦死した。

硫黄島の戦いでは、1945年2月20日に塹壕の中から援護射撃をしていたアメリカ軍海兵隊の兵士集団が、日本軍からの砲撃が直撃して全員が戦死した。死んだ海兵隊の遺体が砲撃で作られた砂の噴火口に堆積した。日本軍の監視兵が、アメリカ軍海兵隊の兵士が砲弾の穴の周りで緊急活動しているのを発見した。日本軍の監視兵は、塹壕の座標を砲撃兵に伝達した。海兵隊の兵士の集団は、突然に砲撃された。激烈な迫撃砲の砲弾が上方から吹き飛ばされ、海兵隊の真っ只中で一瞬のうちに爆発して、全員が吹き飛ばされた。塹壕の至るところに海兵隊の兵士の血液が散布された。死体の頭部が破壊された下顎のみ残存していた。血まみれの海兵隊の兵士集団は誰も動かない死体に変貌した。少なくとも6人以上もの海兵隊の兵士が戦死した。
その他の地獄の戦場では、海兵隊が塹壕の上を前進した兵士が、落とし穴に狙撃されて身体を貫通した。海兵隊が大きな丸い岩に回り込むと、小銃で射殺された。擂鉢山を占領するまでに中隊の約38人が戦死傷者を失った。片方の下肢は射撃で貫通してうずくまり、2発目が胸部を狙われた。夜間の斬り込みは、全ての戦線で繰り返した。
 硫黄島の戦いは、1945年初頭に、アメリカ軍の海兵隊と日本軍の間で行われた悲惨な戦闘となった。硫黄島の島には、日本本土の侵略に向けて3つの飛行場があった。1945年2月19日にアメリカ軍が硫黄島に侵攻して、その後の硫黄島の戦いが3月26日まで約5週間も続いた。第二次世界大戦の最も猛烈な戦いの中には、およそ7000人の海兵隊が戦死して、戦傷者は約19,200にも達した。21,000人の日本軍のうちのおよそ捕虜の約216人を除いて、すべてが殺害された。太平洋戦争にて硫黄島の戦いは、アメリカ軍の戦死傷者数の合計が、日本人の全滅した戦死者数の合計を上回った唯一の戦闘となった。


2019年6月20日木曜日

散乱した死体は、ロシア領地内に居住したユダヤ人に対するロシア人による手当たり次第の大量虐殺の犠牲者であった。

散乱した死体は、1881年から第一次世界大戦の終戦後までに、ロシア領地内に居住していたユダヤ人に対するロシア人による手当たり次第の大量虐殺による数千人にも達した犠牲者であった。大量虐殺の対象者となったユダヤ人は、ロシアから西部に向けた難民となった。
   1914年の第一次世界大戦が勃発した直前までに、約200万人の難民がロシア帝国からアメリカに到着した。これらの難民のほとんどは、アレクサンダー3世とニコラス2世の弾圧的な統治の間に彼らのユダヤ教の宗教またはポーランドの国籍のために迫害された集団に属していた。主ににユダヤ人はユダヤ語を話し、ポーランド人はポーランド語を話した。1910年の国勢調査で、ロシア帝国からの難民65,000人のみがロシア語を使用した。
   第一次世界大戦の始まりまでに、アメリカでロシア語を話せる人々の数は、推定10万人まで増加した。正統派に改宗して、その結果としてロシア人と識別され、オーストリア= ハンガリー帝国からの5万人もの東スラブ人が含まれ。オーストリア・ウクライナ・ハンガリー系難民は、1880年から1910年の間に増加し、故郷の貧困から逃避した。ロシア帝国からのロシア人のように、東スラブ人のロシア人は、主にニューヨーク、ニュージャージー、コネチカット、ペンシルベニア、オハイオの工業地帯に定住した。ロシアの村や小さな町に住んだユダヤ人は大都市生活に難民した。特にニューヨークフィラデルフィア、ボストン、モントリオール、クリーブランドなどの都市地帯に難民した。
    アメリカに難民したロシア人自身は、第一次世界大戦前までの難民は、主にロシア帝国からのユダヤ人とポーランド人、そしてオーストリア - ハンガリーからの東スラブ人でもあった。ヴォルガ川下流の谷と黒海北部のウクライナの草原から来たドイツ系難民も含みれた。これらの移民は多様な起源のために、1914年以前のロシア系難民の最初の波は、1920年代と1930年代のロシア革命をきっかけに勃発した。第2の波は第2次世界大戦の終戦直後の1945年から1950年代初頭の年に起こった。第3番目の難民の波は、1970年代初頭から到着した。



2019年6月19日水曜日

ドイツ軍によるレニングラード包囲戦にて、3歳の少女レローチカはパンを一口食べて家族が見守る中で餓死した。

吹雪のレニングラード包囲戦にて、3歳の少女レーロチカは1942年2月28日にパンを一口食べて家族が見守る中で餓死した。配給されたパンは次第に小さくしぼんで、ワレリア愛称レーロリカはやせ細って行った。苦しみながら一口のパンを食いちぎり絶命した。1942年2月から下肢が萎縮して、起き上がれなくなり、衰弱した。死後に形見の食残したパンが戦争の真実の遺産として、戦後に第90専門学校に残された。ラスク型のパンには、一口食べた跡が残った。
 第2次世界大戦にて、ソビエト連邦のモスクワに次ぐレニングラードは、ナチスドイツ軍に1941年9月8日から1944年1月8日まで、約872日間にわたり一方的な侵攻により包囲され封鎖された。昼夜にわたる空爆から砲撃により、レニングラード市民は飢餓と極寒による栄養失調などで約632,000人が死亡した。包囲戦の戦死傷者などを含めると約100万人にも達した。レニングラードは9月2日に非常事態措置で、1日あたり労働者は約600g、子供は約300gとなった。11月20日から労働者は約250g、子供は125gと約3月間で約3分1まで削減された。11月下旬から配給も不定期となった。暖房も切れて、零下約30土以下まで極寒となった。レニングラード中に、餓死した死体が散乱した。死体は11月に約15,000人、12月になると約55,000人に達した。木の皮、雑草、壁紙まで、なにでも口に入れた。あちこちで餓死になり、精神的に追い込められて人間性までを失って、市民はぼんやりと眺めるだけに陥った。



2019年6月18日火曜日

アメリカ軍兵士が、ベトナム人女性ゲリラの死体に近づいて、彼女の両耳ごとにイヤリングをもぎ取った。

ベトナム戦争にて、1966年4月にビンディン省のアンラオ谷周辺で、南ベトナム解放戦線の若いベトナム人女性が射殺されて、荒野にうつ伏せで死亡していた。アメリカ軍兵士が、ベトナム人女性ゲリラの死体に近づいて、彼女の両耳ごとにイヤリングをもぎ取った。アメリカ軍兵士は、左手にぶら下げたビニール袋に、イヤリングが着けたままの両耳を入れた。ベトナム人女性は、普段からほとんど全員が耳にイヤリング装着していた。
 アメリカ軍兵士は、もぎ取ったイヤリングと乾燥させた耳を、記念品として持ち帰るつもりであった。さらにアメリカ軍は、ベトナムの山岳民族が、殺害した北ベトナム軍兵士の耳を持ち込むと報賞していた。殺虫剤で切り取った耳を防腐していた。耳の相場は、約30ドルと報道された。
 散乱した南ベトナム解放戦線の死体は、死後の数時間以内に、ハエとありが集って腐敗し始めて、周囲に嫌悪な死臭が漂った。アメリカ軍兵士は、アンラオ谷の周辺のフンニョん部落に残存する農家を次々に放火して、徹底的に破壊した。見つけ出した穀物や食べ物も燃え尽くした。高価な家具や陶器などの家財は、猛烈に粉砕した。防空壕には、手榴弾を投げ込んで、土砂が吐き出た。焦土化した村々から、恐怖に怯えて女性や子供らの難民集団が悲嘆して黙々と歩いて避難した。



2019年6月17日月曜日

ナチス当局は、青少年の反抗集団であるエーデルヴァイス海賊団の首謀者をケルンで公開絞首刑に処した。

ナチス当局は、青少年の反抗集団であるエーデルヴァイス海賊団の首謀者を1944年11月10日に公開絞首刑に処した。ケルンの労働者地区のケルン・エーレンフェルトで、約3,000人のうち中心人物である13人(最年少は16歳)を公開の絞首刑に処した。絞首台が鉄道の堤防に組み立てられたケルンは市内中心部が爆破されて壊滅していた。
 エーデルヴァイス海賊団(Edelweißpiraten)は、ナチス・ドイツに発生したドイツ青少年の集団である。幹部を養成するヒトラーユーゲント内の厳しい統制に対抗した青少年が自然発生的にドイツ西部で1930年代末に発生した。主に14歳から18歳の10代の少年で構成された。少年たちは14歳で学校を卒業後にヒトラーユーゲントに入隊し、17歳で国家労働奉仕団に入り、兵役に就く次第になった。
 ヒトラーユーゲントは、青少年をナチスの主義主張へ洗脳した。軍国主義化するために、ヒトラーユーゲントが準軍事組織となり、絶対服従の軍事教練が強制され、同年代同士の監視となり、反発的な青年の行動が先鋭化した。1930年代末、ドイツ西部で最初の「エーデルヴァイス海賊団」が発生、その他エッセンで「ファールテンシュテンツェ」、オーバーハウゼン・デュッセルドルフでは「キッテルバッハ海賊団」、ケルンでは「ナバホ」がそれぞれ発生した。共にヒトラーユーゲント部隊を襲撃することで一体感を持っていた。
 エーデルヴァイス海賊団は、ナチスへの反抗であり、ヒトラーユーゲントから離脱した。ナチス当局への反感から、主にヒトラーユーゲントや突撃隊員などの個人を襲った。
 1942年にデュッセルドルフでは、抵抗組織が海賊団員を勧誘した。ケルンでは1944年、エーデルヴァイス海賊団が地下組織に合流し、脱走兵や戦争捕虜、強制労働者、強制収容所の囚人などの支援を行った。軍の補給所を襲撃するなど、パルチザンまがいの活動を行った。初期はただ単に不服従を旨としていた海賊団の一部は先鋭化し、抵抗組織と化していった。
 ナチス当局による取り締まりは複雑さ極めた。ゲシュタポ、ヒトラーユーゲント、警察らの処分は、訓戒、一斉検挙、一時的逮捕、週末禁固、労働収容所・強制収容所への収監、起訴など多岐を極めて、最悪は死刑に繋がった。1944年10月25日に、青少年の徒党撲滅の指令により、ナチス当局は反抗を検挙して押さえ込む事を決定した。
 ナチス当局は取り締まる反面、軍需労働者や兵士となる青少年を必要として、全てを処分できなかった。ゲルマン民族至上主義のナチスには、遺伝的に優秀たるドイツ人青少年であった。エーデルヴァイス海賊団自体は、ナチズムを拒否する非行行動が主体として、終戦後も白いバラとは異なり、反体制組織とは依然と評価されていない。




2019年6月16日日曜日

アメリカ軍の水爆実験に被爆した乗組員の頭部には、急性放射能症で、黒ずみ、眼球の疼痛とかゆみを伴って、耳孔が腫れた。

アメリカ軍の1954年3月1日の水爆実験により被爆した乗組員の頭部には、急性放射能症により、黒ずみ、眼球の疼痛とかゆみを伴って、耳孔が腫れた。全身が水膨れ、ただれて、皮下出血した。頭部は脱毛して、吐き気、めまい、疼痛を伴って、脱力で虚弱になり、歯茎や鼻から出血、吐血と下血した。帰港した3月14日から協立焼津病院で診察後に、重篤な2人とその後に5人は東京大学病院に搬送された。全員が、骨髄の造血障害により、顕著な血液中の血球成分が極度に減少した。
 太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から約160km東に停泊していた第五福竜丸(乗組員23人、140トン)は、1954年3月1日午前6時4分にアメリカ軍のブラボー水爆実験により被爆した。突如に、強烈な閃光が射し込み、紅赤から白黄から黒色に変色しながら巨大な火の玉のキノコ雲が急上昇した。約8分が経過して、猛烈な爆音が響き渡り、船体が動転した。約2時間して、五里霧中となり、細雨と白灰が激しく降り注いだ。降り注ぐ白灰が、顔や頭部から全身にかけて、白灰が堆積して覆われた。乗組員たちは、周囲に堆積していた白灰を振り払った。白灰の成分は、サンゴ礁のカルシウムの粉末に、ウラン237とプルトニウム239などの放射性物質が付着した。
 1954年3月14日午前5時30分頃に日本の焼津港に帰港した。3月16日付の朝刊により「邦人魚夫ビキニ原爆実験に遭遇、23名に原子病、水爆か」が公表された。全世界に向けて、水爆実験により、人類と地球の破滅の危機感が拡散した。水爆に被爆した第五福竜丸と乗務員は、人類が水爆に汚染された象徴となった。1954年9月23日に、第五福竜丸の無線長の久保山愛吉(40歳、男性)が、人類初の水爆の被爆による肝臓障害で死亡した。アメリカ軍は、死亡の原因は輸血であり、水爆実験を依然として否定している。第五福竜丸は、地球水爆遺産として夢の島に保管された。