2019年12月25日水曜日

日露戦争の黒溝台会戦にて、激烈な戦闘の沈旦堡にて、日本軍とロシア軍の人馬の死体が厳寒の凍結した荒野に散乱した。

日露戦争の黒溝台会戦において、激烈な戦闘が勃発した沈旦堡において、膨大な日本軍とロシア軍の騎兵隊の人馬が犠牲となり、厳寒の凍結した荒野に死体が散乱した。日本軍は韓山台の付近をロシア軍の約10万人にも及ぶ大軍の猛攻から攻撃目標と想定した。その隣の沈旦堡から韓山台に援軍する指令が出た。ところが、1月25日夜ごろからロシア軍による沈旦堡付近の戦況が激烈になった。日本軍は、黒溝台の陣地から撤退して窮地に追い込まれるも、1月29日夜間にロシア軍に夜襲をかけて、1日29日朝に日本軍は黒溝台を再占領した。黒溝台を攻撃していたロシア軍は、夜襲により攻撃中止を急遽に命令されて総退却した。
 日露戦争中の1905年1月25日 から1月29日にて、黒溝台会戦が勃発した。ロシア陸軍の作戦目標が沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘とも言う。ロシア軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘であった。ロシア軍側の奇襲により始まった。兵力で劣勢だった日本軍は、緒戦は苦戦して膨大にな犠牲を伴った。結果的には日本の辛勝で終結した。日本軍は約54,000人に戦死傷者は約9,300人、ロシア軍は約96,000人に戦死傷者は約10,600人に及んだ。日本軍は野戦で初めて本格的に機関銃を装備した塹壕戦となり、ロシア軍の大軍の突破を阻止した。第一次世界大戦では大量の機関銃を装備した塹壕戦の合戦となり、膨大で甚大な戦死傷者の犠牲に陥った。



2019年12月24日火曜日

レニングラード近郊のヴォルホフで、ソ連軍がドイツ軍の封鎖を突破して、戦死したドイツ軍兵士の死体が積雪上に散乱した。

レニングラード近郊のヴォルホフでは、ソ連軍がドイツ軍の封鎖を突破しようとして激戦となった。戦死したドイツ軍兵士の死体が、積雪上に散乱した。11月下旬のヴォルホフ川沿いのソビエトの攻撃は、最初のドイツ軍に対する反撃であった。東部戦線の中央部と南部では、ドイツ軍は依然として攻撃を維持していたが、ソ連軍のヴォルホフ川東岸の防衛と前線への反撃が、ドイツ軍の侵攻を止めた。ドイツ軍は、東部戦線で初めて主導権を失い、防御態勢を余儀なくされた。日本軍はソビエト連邦を極東から攻撃しない極秘情報から、極東軍は西に向かって最前戦の東部戦線に援軍が送られた。レニングラードの包囲の防御を強化することも東部戦線で重要な目的であった。11月下旬には、ヴォルホフ川沿いのソビエト軍は、新たな攻撃で主導権を握り、一部のドイツ軍が撤退した。
 1941年6月22日にドイツ軍が突如としてソ連国境を越えて侵攻した。約300万人ものドイツ軍兵士が、ソ連国内を蹂躙した。緒戦は、ドイツ軍はソ連軍を圧倒して侵攻した。11月半ばにモスクワの約30kmにまで侵略した。この頃から雪が降り始めて零下約30度にも達した極寒のソ連下ではドイツ軍は疲弊した。ソビエト軍兵士は、最初の冬の期間に対して、ドイツ軍兵士よりも少し改革的であった。氷点下から保護を強化するために、紙とストローがブーツと制服の下に詰められた。ロシア軍は防御的な陣地を保持していたため、ソ連軍の攻撃からドイツ軍は野外で防御することを余儀なくされた。ドイツ軍にとって、脅威となる感染症の流行が、彼らを侵攻を留めた。冬服は見つかりませんでした。1941年6月に圧倒的な勝利を収めたドイツ国防軍は、連戦した夏の制服はすり減りむき出しになり、冬服ではなく、ドイツ軍は携行するすべての衣服を身に着けて、動作が鈍くなった。ドイツ軍兵士が着ていた革ブーツは、ロシアの冬季には適応せず、寒さを浸透して、さらに凍傷を引き起こした。1941年の冬にドイツ軍がチフヴィンを攻撃したとき、突然とロシアの寒さが始まったた。ドイツ軍は冬服と適切なシェルターが不足して、敵のソ連軍の射撃よりも厳寒で多くの犠牲者を出した。12月5日に信じられないほどの寒冷前線がこの地域を移動し、気温は華氏マイナス30度以下に下った。ドイツ軍兵士たちは、むき出しの夏の制服を着て軍務で文字通り凍死した。



2019年12月23日月曜日

沖縄戦の火炎放射器で、塹壕に潜んだ日本軍兵士が丸焦げに焼き尽くされ白骨化した。

太平洋戦争の沖縄戦において、日本軍は塹壕に籠城して、アメリカ軍の膨大な爆弾と銃弾に対して最後に全滅するまで抵抗した。火炎放射器によって、塹壕に潜んだ日本軍兵士が丸焦げに焼き尽くされて、塹壕内にうずくまったまま焼死した死体が黒化して白骨まで浮き出た。太平洋戦争の沖縄戦に至るまでに、日本軍はサーベルからロケットなど様々な武器を駆使して、アメリカ軍に対抗した。太古からの工夫されたヨーロッパの要塞でさえも、近代的な格段の武力により、もろくも壊滅した。圧倒的なアメリカ軍の武力により、日本軍は地下壕などのほら穴に潜むしかなかった。沖縄戦の日本軍は、塹壕に籠城して、アメリカ軍の膨大な爆弾と銃弾に最後に全滅するまで抵抗した。アメリカ軍海兵隊の機関誌「ガゼット」の1945年7月号には、アメリカ軍が日本軍を壊滅する武力として、人類史上から駆使された最も原始的な火力が沖縄戦では最も威力を発揮した。
 アメリカ軍は塹壕の正面入り口を爆破して、日本軍をガソリンを注いで火炎放射器で攻め寄せた。アメリカ軍は火炎放射器を備えた重装甲車により、日本軍の陣地をひとつずつ焼滅する馬乗り攻撃を展開した。日本軍兵士が1人でも生き残ると、占領した地域でも背後から攻撃を受ける危険性が残った。徹底した掃討戦で日本軍の犠牲は膨大になった。アメリカ軍は、強烈な火力を動員して、日本軍兵士が塹壕から攻撃に出る猶予もなく、穴に閉じこめたまま塹壕の上から狙撃する馬乗り攻撃をかけた。自殺攻撃する日本軍兵士には、アメリカ軍兵士の背中に搭載する火炎放射兵器よりも、火炎放射戦車ははるかに脅威となった。燃料容量は4ガロン(15リッター)から290ガロン(1,102リッター)で、発射時間5-10秒から2.5分まで噴火して、範囲は40ヤード(36.6メートル)から80ヤード(73.2メートル)に達した。
 第1次世界大戦にて、ドイツ軍が初めて1917年7月にベルギーのイープル付近で、火を噴出する火炎放射兵器を使用した。太平洋戦争の諸島を占領に対して、アメリカ軍が火炎放射兵器を使用した。沖縄戦から火炎放射兵器を戦車に装着して狙撃を防御した。ベトナム戦争にて、火炎放射兵器は、非人道的な戦争兵器として国際的に認識された。アメリカ国防省は、1978年に火炎放射器の戦術的使用とさらなる開発を停止する指令を発行した。但し、火炎放射器を禁止する国際協定はない。ロシア軍は、1999年にグロズヌイの戦いでチェチェン反乱軍に対して火炎放射器を使用した。



2019年12月22日日曜日

銃殺されたモロ人剣士は、ジュラメンタードの自殺攻撃で、1910年3月9日にアメリカ軍第2騎兵隊のロドニー将校を殺害した。

フィリピンのモロ人が、フィリピンのセブ島のアストゥリアスにおいてアメリカ軍に対して反乱を起こした。モロ人剣士はジュラメンタード(Juramentado)の自殺攻撃により、1910年3月9日にアメリカ軍の第2騎兵隊のロドニー将校を殺害した。モロ人剣士は、アメリカ軍兵士により銃殺されて、イスラム教徒として殉教死した。占領と侵略をするアメリカ人兵士や警察に対抗して、ジュラメンタードと呼称され、殺されることを予期して、殉教の形態としてジハードをする自爆攻撃を挙行した。ジュラメンタードは、イスラム教徒のジハードによる無差別な暴力行為とは異なり、イスラム教徒でなくてもジュラメンタードは犠牲的で、計画的で、時には非常に熟練した殺人者となり、鋭い武器で武装した武勇な自爆攻撃を達成した。
 アメリカは米西戦争後に、ミンダナオ島とスールー諸島を含むフィリピンの領土を侵略した。スペインがアメリカに敗れて以来、フィリピン列島内のスペインの植民地はすべて、パリ条約でアメリカに割譲されて、米西戦争は終結を告げた。スペイン領の植民地化に勝利したアメリカ軍に対して、モロ人は土地の引き渡しを拒否して闘争を続けた。モロ人共同体の主権に基づく紛争は、今日でも群島に影響を与え続けている。モロの反乱(1899年–1913年)は、米比戦争後にモロ人とアメリカ軍の武力紛争が勃発した。モロ人は、ミンダナオ島、ジョロ島、近隣のスールー諸島を含むフィリピン南部に居住するイスラム教徒の民族である。イスラム教徒のモロ民族は、フィリピン人、アメリカ人、日本人、スペイン人に対する暴力的な武力闘争は約400年にわたる民族解放運動であった。モロ人による抵抗運動は、フィリピンからの独立戦争へと引き続いた。スペインの侵略者との何世紀にもわたる戦争により、モロ人の間で「ジハードの文化」が生まれれた。
 近年のイスラム教系のモロ民族は、イスラム国家の分離独立を求めて1970年代にモロ民族解放戦線(MNLF)が武装闘争を展開した。1976年に政府と停戦協定を結んだが、1978年に別の武装組織がモロ・イスラム解放戦線(MILF)を設立した。1996年のジャカルタ協定の締結によりMNLFは武装解除した。2001年から内部対立による紛争が再燃した。


2019年12月21日土曜日

広島原爆の炸裂後から、焼失せず残存したコンクリート製の広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。(広島)

広島原爆の炸裂後から、広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。構内から南側の駅前広場には、全身火傷や裂傷などや原爆症で約2,000人以上もの被爆者が救護を求めて押し寄せた。翌日の8月7日には、広島駅は軍用線であった宇品線から次第に復旧して、8月8日に山陽本線が部分開通して、列車は被爆者を運搬する救援列車と物資の搬入列車となった。
 広島原爆の爆心地から約1,850mの広島市松原町の広島駅は、窓枠などは爆風で吹き飛ばされた。広島原爆の爆風は、増築したばかりのの待合室をもぎ取り、屋根は押し下げれられた。爆風後の熱線等により、火災で屋根は抜け落ち内部は全焼した。広島原爆によって、建て増し部分の待合室が倒壊し、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡からは後日、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒の約20人をはじめ78人の遺体が見つかった。広島駅の職員も約11人が原爆死した。広島駅のホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、広島市光町の東練兵場の方に走って逃げた。広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかかって全線が不通になった。
 広島駅は日本で最初のコンクリート駅として、1922年にモダンな駅舎に建て替えられた。山陽本線をはじめ、呉線、芸備線、宇品線が発着し、年間乗降客は1941年には約1,000万人を越えた。原爆投下当時、広島は産業的にも軍事的にも重要な都市であった。周辺に多くの軍隊の陣地があり、最も重要なのは広島城にあった南日本全土の防衛を指揮した陸軍第2軍司令部であった。広島市は日本軍にとり小規模な補給基地であり、大量の軍事備品も備蓄していた。通信センター、海運の重要な港、軍隊の集会場所でもあった。戦争産業の蜂の巣であり、飛行機やボート、爆弾、ライフル、拳銃用の部品を製造していた。当時に空襲による被害を受けていなかった京都に次いで日本で2番目の大都市であった。家は瓦屋根の木材で作られ、工業用建物の多くは木枠の周りに建てられて、広島市全体は、火災による被害を非常に受けやすくなっていた。広島の人口は、戦争の初期に約381,000人を超えていたが、原爆投下の前は、日本政府の命令による体系的な避難により人口は約340,000から350,000であった。1945年12月までに、広島市人口の半数弱の約140,000人が原爆死した。


2019年12月20日金曜日

シチリア島の戦いにて、戦死したあるいは死にかけたイタリア軍兵士たちが、パレルモの近くの道路に横たわった。

1943年7月に、第ニ次世界大戦のシチリア島の戦いにて、戦死したあるいは死にかけているイタリア軍兵士たちが、島の首都であるパレルモの近くの道路に横たわった。イタリア軍兵士は、アメリカ軍に追われている間に、イタリア軍のトラックが地雷に激突して大破した。ジープの近くでは、衛生兵がアメリカ軍将校の傷を縫合していた。1945年7月22日に、アメリカ軍はシチリア島のパレルモを占領した。その後に、イタリア本土に9月3日に侵攻した。
 1943年5月13日に、チュニジアのドイツ軍が降伏した。地中海南岸のアフリカ大陸は連合軍が占領した。連合軍は早期のヨーロッパ大陸への侵攻するために、チュニジアから空軍の支援も受けて、1943年7月10日にシチリア島へ上陸した。シチリアの枢軸軍がイタリア本土に撤退して8月17日に終結した。連合軍は約16万人のうち約23,934人が戦死傷の犠牲となった。枢軸軍は約23万人のうち約142,000人が戦死傷の犠牲となった。1943年7月24日にムッソリーニが逮捕・幽閉された。新しい政権が対外的な戦いの継続から休戦の交渉中に、連合軍は9月8日にイタリア半島の無条件降伏と休戦を表明した。この休戦に対抗して、ドイツ軍はイタリア半島全土を占領して、再びファシスト国家を樹立した。



2019年12月19日木曜日

第二次世界大戦にワルシャワ―・ゲットーでユダヤ人の死体の四肢が揺れながら、運搬車の荷台の端から突き出た。

ワルシャワ・ゲトーにおいて、ユダヤ人の死体の四肢が、運搬車の両側から落下した。死体の腕が揺れて、運搬車の荷台の端から突き出た。とても残酷な光景となった。葬儀屋は、大量の死体を墓に埋葬するために、オコポワ通りのユダヤ人墓地に、死体を積んだ運搬車を引張っていた。 死体の腕が運搬車の荷台の側面にぶらぶらと下がっていた不気味な光景であった。その背景には、ユダヤ人墓地への入り口があった。1941年9月19日の誕生日に、43歳のドイツ空軍兵士のハインツ・ヨースト (Heinz Jöst) は、ワルシャワ・ゲットーでカメラを持って散歩して違法に撮影した。ナチス・ドイツは、ワルシャワ・ゲットーの厳しい現実をカメラで撮影して記録した。ニュースやプロパガンダの写真を撮影した。ワルシャワ地域はドイツの多数の軍事基地を包含し、東部戦線における軍事輸送の重要な交差点としても機能した。多くのドイツ軍兵士が街を通って、ユダヤ人のワルシャワ・ゲットーを撮影した。ハインツ・ヨーストが1941年の数日間にゲットーで撮影した150枚以上の写真が残存した。その他にも約10冊の写真集が残存した。ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻してワルシャワを占領して、約50万人ものポーランド系ユダヤ人を、わずか約3.86Km平方に監禁した。1940年10月2日にゲットー構築が命令されて、1940年11月16日にゲットーは封鎖された。
 ワルシャワ地域のドイツ空軍の補給部隊に勤務していハインツ・ヨースト兵士が撮影した。彼は、ワルシャワの他の写真と「ワルシャワ・ゲットー: アドルフ・ヒトラーの記録」と書かれた革製のアルバムとなった。アルバムに含まれる109枚の写真のうち、56枚はゲットーに関連するものであった。ドイツ軍兵士が寒いが晴れた日に車に乗ってゲットーに来て、歩き回って屋外で写真が撮影した。撮影の正確な日付は不明である。写真は困難な状況下のユダヤ人の生活環境で、ゲットーで路上で倒れた人々、子供たちが物乞いをして、ゲットーの路上に悲惨さを示唆した。ユダヤ人はカメラを無視するように求められたり、兵士のカメラに向かって立ち微笑んだ。ハインツ・ヨーヒトは亡くなる直前まで、写真を隠した。1987年にイスラエルの博物館に引き渡れて公表された。



2019年12月18日水曜日

カンボジア軍女性兵士が、殺害され放置された兵士の死体を見守りながら慟哭して悲しみ恨んだ。

ベトナム戦争において、北ベトナム軍は1970年3月29日にカンボジアに侵攻した。カンボジアのタインクォク(Taing Kauk)の戦いで、1970年9月13日に多数のカンボジア軍兵士らが、北ベトナム軍により殺害された。道路の土に殺害された死体の上半身に毛布をかけて顔を隠して放置して並べられた。カンボジア軍女性兵士が、その死体を見守りながら慟哭して悲しみ恨んだ。カンボジア軍兵士は、プノンペンから48マイル離れたタインクォク町の近くで北ベトナム軍と衝突して撤退した。他の地域から救援を得たカンボジア軍は、北ベトナムとベトコンから1970年10月12日にタインクォクを奪還した。
 カンボジアで1970年3月18日に軍事クーデターで、親アメリカ派のロン・ノル政権が樹立された。それに対抗するために3月29日に共産主義系の北ベトナム軍とベトコンはカンボジアに侵攻して東部から北東部を占領した。さらにクメール・ルージュは、カンボジア南部および南西部の解放区に潜在した。 1970年4月にカンボジアは、内戦状態に陥った国内の北ベトナム兵士とベトコンを駆逐するために、アメリカ軍にカンボジア侵攻を認可した。1970年4月に南ベトナム軍とアメリカ軍は、ホーチミン・ルートの途絶するために、カンボジア東部に短期間の侵攻して更に戦線を拡大して、6月には撤退した。ロン・ノル政権は、北ベトナムの侵攻に対して、カンボジア在住のベトナム人を大量虐殺した。1969年から1973年までに、アメリカ軍は親アメリカ派政権の樹立と支援と、共産主義のクメール・ルージュ勢力を排除するために、カンボジアに約50万トン以上もの爆弾を投下して焦土となった。1969年から1970年春まで、アメリカ軍はカンボジア空爆をアメリカ市民を隠蔽した。アメリカ軍の猛烈な空爆が、カンボジア国土が焦土化して大規模な飢餓となり、地域市民の反資本主義と親共産主義が大虐殺の悲劇を招いたクメール・ルージュを浸透して潜在させた。




2019年12月17日火曜日

沖縄戦に巻き込まれて、少女は親兄弟や身内にも看取られることもなく、1945年5月20日に寂しく死亡した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、少女は親兄弟や身内にも看取られることもなく、1945年5月20日に寂しく死亡した。その放置されたままの死体の上に、アメリカ軍兵士が毛布をかけて、痛ましく見守った。沖縄の市民の疎開は海上封鎖で困難となり、約50万人の市民が残存した。逃げ場を失った市民だけなく日本軍と戦闘に参戦した市民は、凄惨な戦闘に巻き込まれ、次第に悲劇的な無差別の戦死傷の犠牲となった。沖縄での戦いは、全戦没者は約200,656人、そのうち沖縄の民間市民の犠牲者が約94,000人以上に達した。民間市民の犠牲は太平洋戦争の地上戦として日本国内最大となった。
 沖縄戦にて最も激烈な首里の戦闘が、1945年5月20日から首里が陥落した5月31日まで激突した。アメリカ軍海兵隊は、1945年5月20日朝の進撃に先立って、まず艦砲射撃、砲撃、戦車などで首里高地と55高地に猛爆撃を加えた。海兵隊は丘陵頂上で、いくつか白兵戦を交えてから、丘陵地の日本軍を壊滅した。戦車で大名岩山まで侵攻して、55高地裏側の洞窟にたてこもった日本軍と民間市民に無差別に砲撃をあびせた。一帯の陣地を確保して、55高地の下方に、さらに侵攻した。海兵隊は蜘蛛の巣の陣地に立てこもる日本軍を掃討した。5月20日の朝に、海兵隊は砲撃の援護を受けながら、大名丘陵を南東からと東から二方向から激しく攻めあげた。5月20日過ぎには軍司令部の首里にアメリカ軍が押し寄せた。日本軍は約5万人が生存するも、アメリカ軍を対抗する戦力は乏しかった。日本軍司令部は、太平洋戦争の戦場のように、戦傷者を殺害あるいは自殺を強要した。突撃が可能な者だけをアメリカ軍の射撃に身をさらし全滅して果てた。生存者は島尻地区に逃避するか、最後の一兵士と市民まで戦い抜くか重大な選択を迫られた。沖縄戦による沖縄の犠牲から、1972年の沖縄返還まで、アメリカの占領下であった。




2019年12月16日月曜日

撤退していた北朝鮮軍により、右翼として虐殺された死体が野原一面に並べられた。

朝鮮戦争で北部に撤退していた北朝鮮軍により、右翼として虐殺された死体が野原一面に並べられた。北朝鮮は人民裁判を通じて、人民軍は約13万人にものぼる市民を大量虐殺した。韓国地域の大半を占領した北朝鮮軍と左翼勢力は、韓国から撤退する過程で、韓国軍・警察・公務員の家族たちと地主などを大量虐殺した。さらに1950年9月15日の仁川上陸作戦で戦局が不利になると、急いで北部へと撤退する北朝鮮軍が韓国の市民を無差別に大量虐殺し、膨大な有力者を北朝鮮へ連れ去った。
 逆に朝鮮戦争直後の韓国軍は、南部に退却する過程で、軍と警察は転向した左翼勢力の蜂起を恐れて大挙即決処分した保導連盟事件が発生した。1950年7月26日老斤里で避難民の中に紛れ込んだ北朝鮮の遊撃隊への恐怖心と過剰防衛意識を持ったアメリカ軍によって、無差別に民間市民が無差別に大量虐殺された。
 1950年6月25日に北朝鮮軍が事実上の国境線としていた38度線を越える6.25事変により、韓国に侵略を仕掛けて朝鮮戦争が勃発した。3年間も持続した挑戦戦争で、南北の北朝鮮と韓国には膨大な犠牲者が出た。北朝鮮軍兵士や韓国軍兵士だけでなく、民間市民も含めて数百万人が戦死傷した。6.25戦争は、朝鮮半島の歴史上の戦争で最も被害が甚大となった。
 戦死者数は韓国軍が約137,899人、国際連合軍は約4,0670人、北朝鮮軍は約50,8797人、中国軍は約148,600人に昇った。 行方不明や捕虜数は韓国軍は約32,838人、国際連合軍は約9,931人、北朝鮮軍は約98,599人、中国軍は約25,600人に達した。戦傷者は韓国軍は約45,0742人、国際連合軍は約104,820人、北朝鮮軍は膨大で不詳、中国軍は約798,400も犠牲となった。6.25戦争により民間市民の被害が最も多く、韓国だけでも約100万人が死亡した。約10万人を超える戦争孤児と約1,000万人を超える離散家族が発生した。朝鮮半島の全人口の半分以上が戦争の犠牲となった。



2019年12月15日日曜日

カンボジアのシェリム・アップ州にて、子供が1990年に地雷に被爆して、両側の下腿が爆破されて切断された。

カンボジアのシェリム・アップ州にて、子供が1990年に地雷に被爆して、両側の下腿が爆破されて切断された。蚊帳の中で、苦悩しながら横たわった。1975年にカンボジアの共産主義勢力によって、強制排除された。1979年までクメールルージュによる大量虐殺、アメリカ軍による爆撃、ベトナム占領など数十年にわたる戦争のために、最も大量の約600万個もの地雷が埋められたままである。毎年数十人以上もの市民が、戦闘で残存した地雷やその他の不発弾により、被爆負傷や被爆死している。地域の道、田んぼや農地、裏庭などに埋没している。特に子供たちは、通学する道路で被爆して、犠牲者の約3分の1にも達した。地雷の目的は、人を殺すためだけでなく、手や足だけを吹っ飛ばして傷ついた兵士により必要な兵士の戦力を奪うことであった。カンボジアでは約4万人が地雷によって四肢を切断された。
 シェムリアップ北に約25kmにカンボジア地雷博物館がある。カンボジアには数百万個の地雷が地中に潜在している。シェリム・アップ州は、巨大な宗教建築であるアンコールワットの玄関口にある。アンコール・ワート付近で地雷博物館は、元クメールルージュ軍により子供兵士から徴兵されたアキ・アラーが創設した。自力で地雷を除去しては、地雷を展示して、1977年に地雷博物館を解説した。2006年に強制閉鎖されて、シェリム・アップから約40kmも離れたバンデアイスレイ寺院付近に2007年に再開設した。地雷除去する村々には、下肢や上肢が地雷で切断された子供が多くいた。すべての村には、約20%がまだ地雷原や不発弾が潜在している。特に死傷者の約70%は、カンボジアの北西部の約750kmのタイ国境沿いに集中している。地雷禁止国際キャンペーンは1997年にノーベル平和賞を受賞した。



2019年12月14日土曜日

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。広島市の北部三滝山の墓地の一角に、原爆死の墓碑がある。年齢も若年期から高齢期まで無差別に散乱していた。広島原子爆弾によって、広島市内は被爆の犠牲者の膨大な墓場となった。市内に膨大にに散在する墓碑や墓場には、多くの「原爆死」が記載された。永久に行方不明となり身元が不明な「原爆死」となり墓石も存在しない甚大な被爆死が散在した。
 墓石には、「原爆死」した日時と年齢および名前と家族構成だけが記載された。原爆死した日時は、最も多くは広島原爆が投下された1945年8月6日の熱線と爆風である。墓碑には、四女・8月6日・原爆死・36歳、六女・8月6日・原爆死・28歳、八女・8月10日・原爆死・20歳・原爆死と刻まれた。被爆してから約1周間程度は心身には特記なかった。しかし、約1周間から10日程度で放射線により重篤な原爆症となり、約3週間程度から原爆死者数が急増した。墓碑には、ニ男・9月6日・44歳・原爆死、長男・12月4日・原爆死・59歳と刻まれた。



2019年12月13日金曜日

日中戦争で日本軍の猛烈な射撃で中国軍のゲリラ兵士が戦死傷した。

日中戦争で日本軍の砲撃で中国人兵士が戦死傷した。太平洋戦争が開戦しち翌日の1941年12月9日に、中国は正式に戦線を布告した。1941年1月1日に、アメリカ・イギリス・ソ連・中国など22国が、連合国の宣言をした。日中戦争は、国際的な包囲網が形勢された。日中戦争で日本軍の砲撃で中国人兵士が戦死傷した。四川軍が四川反日戦争から抜け出したとき、1945年7月に四川軍兵士は戦死傷症した。
 日本軍に対するゲリラ活動が頻発した。ゲリラは地下道の網目を廻らして潜伏した。日本軍がゲリラを掃討する前に避難した。抗日ゲリラの潜在する村は、絶滅して無人村とした。
 河北省豊潤藩家峡村では約1,230人を虐殺した。村民を大量虐殺して、村を焼失した。殺し、焼き尽くし、奪い尽くす三光作戦を強行した。日本軍は、1941年9月から1942年1月に湖南省の長沙を2回ほど侵略するも撤退した。1944年4月に日本軍は、大陸打通作戦で、中国大陸を南北に横断するも、八路軍・新四軍の反抗で撤退した。



2019年12月12日木曜日

北ベトナム軍から突然に奇襲を受けたアメリカ軍兵士が、致命傷を受けて死にゆく兵士を抱えながら見守った。

アメリカ軍海兵隊兵士がベトナム戦争において、ベンハイ河の南側の村に侵入した。1966年9月2日に、非武装地帯であった村にて、北ベトナム軍から突然に奇襲を受けた。アメリカ軍兵士が、致命傷を受けて死にゆく同じ部隊の兵士を抱えながら見守った。フエから北約100kmにある非武装地帯は、ベンハイ川に沿って大部分を流れ、近くの島はベトナム戦争中に北ベトナム軍によって支配されていた。
 ベトナム戦争にて、1966年9月当時は、南ベトナムの戦闘は中立とした非武装地帯の周辺に限定されていた。アメリカ軍は1966年9月からディックハウスⅣ作戦(Dickhouse)で、非武装地帯の村に侵攻した。非武装地帯を横切って南ベトナムに侵入する北ベトナム軍を侵略した。北ベトナムと南ベトナムの間の非武装地帯(DMZ)からわずか南2Km離れた地域にアメリカ軍海兵隊が上陸した。アメリカ軍は、ベトナム人村民を村から強制退去させた。アメリカ軍海兵隊が、一時的に再編成するために後退した時に、北ベトナム軍が三方向から突撃してはジャングルの茂みに潜伏した。作戦は9月18日にアメリカ軍が撤収して正式に終了した。ディックハウスⅣ作戦で、アメリカ軍兵士は約36人が戦死して、北ベトナム軍兵士は死体数から少なくとも約200人以上が戦死した。
 非武装地帯(DMZ)は、条約又は協定により、軍事施設と軍事活動または兵員を禁止する領域である。DMZは北朝鮮と韓国の38度線など、事実上の国際的な国境を形成する場合がある。多くの非武装地帯は中立の領土と見なされる。非戦闘の場合でも、戦闘を制御することは許可されない。紛争地域では軍事力を維持する側が、先に撤退した側に合意が与えられた後に、紛争地域が非武装地帯となる。


2019年12月11日水曜日

沖縄本島の山裾の塹壕の入口に、日本人の少年兵が殺害された死体が仰向けになった。

沖縄本島の山裾の塹壕の入口に、日本人の少年兵が殺害された死体が仰向けになった。アメリカ軍の火炎放射器で、少年兵は塹壕内で重度の火傷となった。塹壕内にガスが充満して窒息状態とまり入口から這い出して殺害されて仰向けになった。実戦では不十分な武装のままに、戦闘の最前線にも参戦して、多くの犠牲者を出した。鉄血勤皇隊は、アメリカ軍の戦車に爆弾を持って体当たりして自爆するために突撃させられた。アメリカ軍に対する斬り込みをさせられて射殺された。通信隊として砲弾などの中を伝令を携えて突進した。戦陣訓により、捕虜にならないように自決させられた。戦場では自分が生きるためには何でもして、人間が人間でなくなるのが戦争と元兵隊が証言した。
 太平洋戦争末期の沖縄戦の防衛のために、日本軍司令部は14歳から19歳の沖縄の学徒を防衛召集して動員した。法的根拠もなく日本軍史上初の鉄血勤皇隊を結成した。鉄血勤皇隊は、沖縄戦において陸軍二等兵として正規部隊に併合された。兵役法の改正もなく、1944年12月の陸軍省令の改正で、沖縄や諸島と台湾などに限り、14歳から17歳未満も志願して防衛招集が可能とされた。しかし、沖縄の志願は、事実上の学校ぐるみの強制となった。中学校や師範学校以外の少年は、護郷隊に編入された。戦後になっても、17歳未満である鉄血勤皇隊は、兵役法に該当せず兵士として認めていない。
 沖縄戦では、21校の中学校の全ての生徒は戦闘に動員された。14歳から19歳の男子生徒は、上級生が鉄血勤皇隊に、下級生は通信隊に編入された。15歳から19歳の女子生徒は、主に戦場の看護活動に編入された。沖縄戦により、学業半ばで、大多数の生徒が殺害された。鉄血勤皇隊の動員数は約1,780人、戦死者は約890人で、死亡率は約50%にも達した。1944年3月22日に、沖縄守備軍が創設されてから、次第に学生は軍隊に編入された。日本軍司令官が1945年6月23日に自決する直前に、鉄血勤皇隊の隊長に遊撃戦により戦闘を続けるよう命令した訓令の原文が米国立公文書館に実在した。



2019年12月11日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 340,000回