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2024年2月12日月曜日

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、兵員輸送船内で治療を受けた。

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、アメリカ軍兵士は兵員輸送船内で治療を受けた。アメリカ軍兵士の乗組員の多くは、爆発で吹き飛ばされていた。船尾に閉じ込められた他の乗組員はガソリンの炎に閉じ込められて絶命した。

 太平洋戦争にて1944年10月25日にフィリピンのサマール沖で、日本軍による史上初の自爆攻撃まによる初めての組織的な神風特別攻撃を空母スワニーに突撃した。日本軍の神風特攻機が、アメリカ海軍の護衛空母USSスワニー(CVE-27)の前方飛行甲板上に命中した。神風特攻機は10月25日午前7時40分に、6機の零戦がただちに急降下で空母スワニーに突入して、対空砲火で応戦した。午前8時4分に被弾した神風特攻機が、前方の飛行甲板に激突して炎上して、アメリカ軍兵士は71人の戦死者と約82人の戦傷者を出した。

 10月26日正午過ぎに、別の神風特攻部隊の攻撃により、神風特攻機体が12時40時に、空母スワニーの飛行甲板に墜落した。甲板に回収されたグラマン雷爆撃機に激突した。2機は接触と同時に噴火して、飛行甲板上の他の9機も同様に噴火した。その結果、火災は数時間にわたり燃え続けた。10月25日から26日のアメリカ軍の死傷者は、死者107人、戦傷者は160人に上った。神風特攻機の爆弾は、空母スワニーの飛行甲板と格納庫甲板の間で爆発し、艦に約7.6mの傷をつけ、多数の死傷者を出した。10月26日の正午過ぎに、神風特攻機の別のグループが空母スワニーの飛行甲板を墜落させ、回収したばかりの魚雷爆撃機に激突した。2機は飛行甲板上の他の9機とともに炎上して、火災は数時間にわたり燃え続けた。




2024年2月9日金曜日

沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。

沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。

 アメリカ軍第六海兵師団は、沖縄本島の小禄半島に6月4日に上陸した。生残した日本軍兵士の頑強な抵抗と困難な地形で、海兵隊の死傷者は約1,608人に及んだ。日本軍兵士の死者も増して、小禄半島南部の小さな袋地に押しこめられた。アメリカ軍は6月13日に、日本軍が保持した小禄地域を掃討し制圧した。

 小禄地区では日本海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根)とアメリカ軍の死闘激戦が続いた。豊見城地区ではアメリカ軍が高安、高入端付近まで南下した。日本海軍部隊はそれ以上の南進を阻止するため、平良付近に増援部隊を派遣した。アメリカ軍は陣地構築に集中して同方面の戦線の動きは活発ではなかった。小禄地区ではアメリカ軍は軍用機の爆撃の支援の下、戦車約70両、兵員1,000人以上が猛攻して激戦となった。日本海軍部隊は挺身斬込みで応戦した。

 日本第32軍はかねてより日本海軍沖方根に南部撤退を命じていた。日本海軍沖方根は6月4日に、小禄、豊見城地区で最後まで戦うとの電報を発した。小禄、豊見城地区で日本海軍沖方根が奮戦することは、アメリカ軍の南進を遅らせた。すでに日本軍の命運は決して、日本第32軍牛島司令官は、日本海軍部隊を南部撤退を再三に渡り南部撤退を呼びかけ、最後は親書を送って撤退を求めるも、南部撤退はかなわなかった。

 小禄村には日本海軍小禄飛行場があり、海軍沖方根が駐屯した。多くの住民が避難せず村に留まって、住民が戦闘に巻き込まれた。小禄村の人口約9,723人のうち沖縄戦での戦死者は約2,917人に及んだ。そのうちの約32%となる約920人が小禄村内で死亡した。アメリカ軍は住民が避難する壕を、片っ端から手榴弾やガス弾で攻撃し、沖縄の住民を殺害していった。




2024年2月7日水曜日

沖縄戦で殺害された日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍は上陸した翌日の1945年3月27日に座間味島の占拠に向かった。1945年3月26日に座間味島は、慶良間諸島の他の島々とともにアメリカ軍に侵攻された。

沖縄戦で殺害された日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍は上陸した翌日の1945年3月27日に座間味島の占拠に向かった。1945年3月26日に座間味島は、慶良間諸島の他の島々とともにアメリカ軍に侵攻された。侵攻前に、座間味島の住民は日本軍によって手榴弾による自決を命じられた。アメリカ軍が沖縄戦の初日午前9時に座間味島に上陸して侵攻した。3月23日から座間味島は猛烈な空爆により壊滅した。住民は自分で作った塹壕や山に避難する。3月28日に、座間味島を進撃中のアメリカ軍は、洞窟の中で、首を絞め殺された12人の女性の死体と生き埋めにされた1人の死体を発見した。沖縄戦による住民の惨劇は、早くも始まった。

 3月26日午前9時に、アメリカ軍は座間味島に侵攻して、当初は抵抗を受けなかった。座間味島は、こぶ状の島であった。アメリカ軍は南海岸の低い平地の深い湾に部隊をアムトラックで着けて、徒歩での上陸を余儀なくされた。アメリカ軍の侵攻部隊は、海岸の後方にある座間味の町に到着するまで、散発的な迫撃砲と狙撃兵の銃撃を受けた。

 座間味島では、アメリカ軍は3月26日午後、日本軍と接触することなく高地に押し寄せた。夜半から翌日3月27日の明け方まで、ライフル、ピストル、サーベルで武装した日本軍の集団が、海岸近くのアメリカ軍の境界線に侵入した。攻撃の矢面に立ったアメリカ軍は、自動小銃と迫撃砲の支援を受けて、日本軍の局地的突撃を撃退した。アメリカ軍の機関銃は何度も持ち替えられた。夜間銃撃戦は、野蛮な白兵戦に展開して、アメリカ軍は7人の戦死者と12人の戦傷者を出して、200人以上の日本軍兵士を殺害した。

 慶良間列島への上陸作戦は、3月26日午前8時すぎまず阿嘉島の上陸から始まった。3月29日までに慶良間列島全域は、アメリカ軍の手に陥ちた。アメリカ軍が公式に占領を宣言したのは、3月31日であった。アメリカ軍の攻撃は、慶良間列島に15回にも及び、被ったアメリカ軍の犠牲者は、戦死31人、負傷81人であった。日本守備軍の犠牲者は、戦死530人のほか、121人の将兵と1,195人以上の住民が捕虜にされた。




2024年2月3日土曜日

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。

長崎原子爆弾の被爆による人体部分の瘢痕病理組織を模型にして長崎原爆資料館に展示した。右顔面から頸部にかけた火傷のケロイド病理標本の模型である。長崎原子爆弾の被爆者のケロイド部分をモラージュで模型にした。


 右上腕から前腕と手指のケロイド病理標本の模型であり、右手の手関節が伸展して、手指が屈曲拘縮した。長崎原爆資料館は被爆コーナーで、溶けたガラス瓶や黒焦げの弁当箱、黒焦げの少年の写真や、ケロイドの被害の写真と模型、爆風で背中にガラス片が刺さった洋服の実相を展示をした。


 原子爆弾による障害は、爆風、熱線(輻射熱)、放射線の複合的な影響により生じて、非常に複雑な症状が出現した。特に1km以内の被爆者では熱傷を負った者の96.7%、外傷を負った者の96.9%が死亡し、無傷の被爆者でも94.1%が死亡した。原子爆弾による初期の死亡が、熱傷や外傷のみならず、放射線の強い障害が加わった為に起こった。

 原子爆弾の放射線は人体を刺し貫き、いろいろな細胞を破壊する。損傷の程度は被爆した放射線量によって異なる。爆心地から1km以内で被爆した人のうち、無傷でも、大多数の被爆者が死亡した。放射線の破壊力は細胞には強烈だった。人体におよぼす被害は、炸裂時だけでなく、放射線は身体の奥深くの細胞を傷つけた。時がたつにつれて放射線障害から様々な症状を発症した。癌・白血病・白内障などの病気を引き起こした。

 ケロイドは、原子爆弾の炸裂による熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけた不規則な隆起を生ずる状態をいう。被爆後4ヵ月頃より発生して、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から2km前後で被爆した人に多かった。

2024年2月2日金曜日

太平洋戦争にてクェゼリン環礁の戦いにおいて、アメリカ軍の侵攻によってナムル島にて日本軍陣地が黒煙をあげた。日本軍陣地の周囲には多数の日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍兵士が死体を検死した。

太平洋戦争にてクェゼリン環礁の戦いにおいて、アメリカ軍の侵攻によってナムル島にて日本軍陣地が黒煙をあげた。日本軍陣地の周囲には多数の日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍兵士が死体を検死した。クェゼリン環礁のナムル島は、1944年2月9日からのクェゼリンの戦いで、アメリカ軍が奪還した。クェゼリンの戦いは、第二次世界大戦末期の1944年1月30日から2月3日まで、日本軍の守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻して行われた戦闘である。

 アメリカ軍の第24海兵連隊がナムル島に1944年2月2日午前9時頃から上陸を開始した。ナムル島は、少数の日本軍兵士が椰子の木の丸太に隠れて抵抗を試みた。アメリカ軍は、火炎放射器と爆薬で圧倒して粉砕して、翌日の2月3日までに全滅した。2月3日午前11時18分にナムル島の占領が宣言された。ナムル島では、少数の日本兵が椰子の木の丸太に隠れて、アメリカ軍に抵抗を試みたが、火炎放射器と爆薬で相次いで粉砕され、2月3日までに全滅した。日本大本営は、2月25日にクェゼリン島・ルオット島・ナムル島の全滅して玉砕を発表した。

 1944年1月30日に大規模な空襲と艦砲射撃の後に、総兵力約85,000人のアメリカ軍はマーシャル諸島に接近した。2月1日に、アメリカ軍第7歩兵(陸軍)師団はクェゼリン島に上陸した。第4海兵師団は北に約72km離れたロイ島とナムル島の双子島に上陸した。日本軍が占領中は、西のロイ島と東のナムル島は、狭い陸地と土手道で繋がっていた。砲爆撃でナムル島内は徹底的に破壊されてほとんど人影もなく、椰子林も焼け爛れた。2月1日にロイ島を占領し、ナムル島は2月3日正午までに陥落した。クェゼリンの戦いで、アメリカ軍第7歩兵師団が2月4日にクェゼリン島の安全を宣言した。日本軍は最初からアメリカ軍には多勢に無勢であり、最後まで戦って全滅する玉砕を選んだ。ロイ島とナムル島での日本軍の死傷者は、死者3,500人以上、捕虜約200人であった。アメリカ軍の海兵隊の死者200人以下、負傷者約500人であった。クェゼリン島では、約5,000人近い日本軍兵士が戦死し、捕虜になったのはほんの一握りであった。




2024年2月1日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦の本部(Motobu)半島の戦いにて、日本軍兵士の夜間の襲撃に対して、アメリカ軍兵士が45口径のピストルで射殺して、流血した死体が路上に仰向けに倒れた。

太平洋戦争の沖縄戦の本部(Motobu)半島の戦いにて、日本軍兵士の夜間の襲撃に対して、アメリカ軍兵士が45口径のピストルで射殺して、流血した死体が路上に仰向けに倒れた。その背後では、別の日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲んで検死した。

 アメリカ軍の第29海兵隊は1945年4月7日に、沖縄本島から西に突き出た深い湾曲部に位置する本部半島に侵攻した。本部半島の内陸部は八重岳の岩稜と渓谷の一連の斜面に隆起し、最高地点は約452m近くあった。4月11日まで、日本軍の迫撃砲と機関銃が高台から火を噴いた。4月13日からアメリカ軍は本部残存敵軍を殲滅せよとの命令の下、八重岳陣地への攻撃計画を策定した。4月14日に、アメリカ軍は八重岳方面へ東進して、日本軍の機関銃と小銃に遭遇した。

 4月15日に、海兵隊は最終攻撃の態勢に入り、八重岳西方のアメリカ軍陣地の左(北)から東に、高地下の尾根を越えて攻撃した。鋭い肉弾戦の末に、アメリカ軍の海兵隊は尾根を奪取した。4月15日の日暮れまでに、アメリカ軍は八重岳に面した湾曲した尾根に沿って塹壕を築いた。4月16日未明、第4海兵隊は飛行機、大砲、艦砲の支援を受け、八重岳の急斜面を侵攻した。4月16日午後遅くまでに、アメリカ軍は頂上を確保し、日本軍防御側は死亡または散開した。八重岳の他の稜線では、迫撃砲と大砲の激しい砲撃がアメリカ軍を守った。4月16日午後6時50分に、清末隊陣地壕の外に出て日本軍の最後の突撃が来て、約100人の日本人を殺害した。

 本部半島の戦いで、2500体以上の日本人の死体を数え、約46人の捕虜を捕獲した。アメリカ軍の損失は、死者236人、負傷者1,061人、行方不明者7人であった。日本軍の抵抗は沖縄北部で大きな抵抗があったのは、本部半島付近であった。海兵隊は本部半島を通過して日本軍を追い詰めて、八重岳の尾根の近くで孤立させ、海兵隊は4月18日までに日本軍を排除した。




2024年1月30日火曜日

太平洋戦争のタラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍の海兵隊員と水兵隊員の死体が、ベティオ島の波打ち際や砂浜、砲弾の穴や倒れたヤシの木の間に倒れた。

太平洋戦争のタラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍の海兵隊員と水兵隊員の死体が、ベティオ島の波打ち際や砂浜、砲弾の穴や倒れたヤシの木の間に倒れた。アメリカ軍兵士の死体はベティオ島に点在して、太平洋の波に洗われた。日本軍の戦闘部隊と朝鮮人の労働部隊を含む守備隊の約4,700人近くの隊員は、捕虜17人を除いて全員が死亡した。

 1943年11月20日から11月25日までガルバニック作戦で、アメリカ海軍と海兵隊の部隊は、タラワ環礁に水陸両用攻撃から占領が遂行された。「上陸拠点はアメリカ軍によって打ち抜かれた。タラワ環礁で日本軍の基地を大破した」とアメリカの新聞の見出しが躍った。しばしば前線から送られた戦闘の写真が添えられた。実際より戦況が悪く見える写真には、見慣れないアメリカ軍兵士の死体が写った割合が異常に高かった。アメリカ軍兵士の死体が短時間で浜辺に散乱したため、死者数は衝撃的に増大した。戦死傷者リストがマスコミに公開された。地元の海兵隊員は国のために死すと、戦死者の写真を肖像画に差し替えた。大流血のタラワの戦いは、小さなベティオ島を約6000人もの死体で埋め尽くした。

 タラワ環礁のベティオ島は約1平方kmの島で、海面からわずか数mの高さの1.21k㎡の砂の島だった。日本軍の防衛工学の頂点の要塞や要塞が点在した。砂で覆われたコンクリートブロックハウス、ヤシの木の壕、対艦砲台、スリット塹壕、地雷原、護岸の発射口などがベティオ島に散在した。ガルバニック作戦におけるアメリカ軍の死傷者数は、海兵隊997人と水兵30人の死者、海兵隊88人の行方不明と、海兵隊員2,233人と水兵59人が戦傷者であった。

 タラワ環礁は、赤道からほんの数度ずれて位置して、戦闘中の気温は三桁に達して、暑さと湿気が腐敗の条件を作り出した。まだ2日しか経っていない死体が、すでに病的な緑色に変色した。珊瑚の埃と死の瘴気、吐き気を催し、ぞっとする悪臭が空気中に充満した。ベティオ島の面積が狭くて、熾烈な戦闘が繰り広げられて、日本軍の絶え間ない攻撃を受けた。大量に転がって腐敗して崩壊の早い死体を地下に運ぶことが不可欠で、死者を適切に埋葬する時間はなかった。




2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日の写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月25日木曜日

1945年5月1日午後に、アメリカ軍第1海兵師団は、沖縄戦のアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固めた墳墓から、日本軍は砲火して強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。

沖縄戦にて1945年5月1日午後に、第5海兵隊が残存陣地を占領した時に、日本軍は安波茶(アワチャ)の南端に占領して陣地を固めた。アワチャを通過したアメリカ陸軍戦車は、日本軍から砲火を浴びた。第1海兵師団は、直面したアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固められた沖縄の墳墓から、日本軍は砲火して、強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。死屍累々の恐ろしい戦場を目の当たりにした。アメリカ軍は日本軍陣地を約91mを占領するごとに約200人を損失した。

 沖縄戦にて沖縄本島南部のほぼ中央の安波茶は激戦地となった。アメリカ軍の沖縄本島の上陸後に、日本軍は安波茶地区を頑強に防衛した。1945年5月初旬に、西から侵攻したアメリカ軍海兵隊と北から侵攻したアメリカ陸軍第77師団に対して、日本軍の強固な防衛はアワチャ・ポケットと呼ばれた。

 1945年5月2日には、アメリカ軍海兵隊は大雨の中を侵攻して最も近い高地を占領した。直後に、隣接する強力な地点から日本軍の激しい砲火を受けて、撤退を余儀なくされた。夜間には、アメリカ軍海兵隊員は日本軍の潜入部隊と白兵戦を繰り広げた。1945年5月6日朝には、アメリカ軍第5海兵隊が朝の攻撃を開始する前に、陸軍2個と海兵隊2個の4個大隊のアメリカ軍砲兵隊が、アワチャ・ポケットを砲撃した。1945年5月10日に、アメリカ軍第五海兵隊はついにアワチャ・ポケットを封鎖した。しばしば至近距離での繰り広げられた戦闘を5月10日に終止符を打ち、日本軍は1,000人以上の死者を出した。

 アメリカ軍第1海兵師団第5海兵隊の第77連隊は右側(西側)で、日本軍から激しい抵抗を受けた。この連隊のすぐ前方の日本軍陣地は安波茶の町の南にあり、アワチャ・ポケットと呼ばれる激戦地に編成された。アメリカ軍の重火器の支援を受けた戦車と歩兵の連携が唯一の侵攻手段となった。アワチャ・ポケットが、最終的に包囲が達成されたのは5月11日であった。

 5月11日までに、アメリカ軍第24軍団は、その後の本格的な攻撃に備えて、多くの日本軍陣地を排除した。5月3日から5月10日までの1週間は、東海岸の大木から西の浅川に至る戦線の全般的な強化が行われた。非戦闘員を含め2万人以上の死傷者を出した。首里線上のアメリカ軍は、前田、高知、淡河で戦線を拡張し、通信線をより安全なものにし、5月11日に予定された第10軍の攻撃により有利な地形を獲得した。




2024年1月23日火曜日

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が死亡した。

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても、最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が犠牲となり死亡した。充満した煙を吸い込んで窒息死した。福井市中央1に位置した福井郵便局電話分室は鉄筋コンクリート造りだった。上空からのアメリカ軍の福井空襲の焼夷弾が屋根を突き破り、火が一面に広がった。当直勤務の電話交換手らは交換室から別の部屋に逃げた。同様に炎上した隣家の煙を吸い紺で、電話交換手の女性22人と、60歳の庶務の男性1人の計23人が死亡した。

 太平洋戦争の末期の1945年7月19日午後11時24分から午前0時45分まで、アメリカ軍のB-29爆撃機の127機による福井空襲で、福井市は壊滅的な被害となった。約81分間の集中的な空襲により、福井城址北西付近を中心に半径1.2kmの範囲をめがけて、約865トンもの焼夷弾が投下された。天候が快晴で、爆撃の精度があがり、被害は拡大した。福井市の市街地の損壊率は、アメリカ軍の評価では損壊率は約84.8%と高くて、日本の地方都市爆撃では富山市、沼津市に次いだ。福井市では2万戸以上が焼失し、約85,603人の福祉市民が罹災して、死者数も約1,576人を超える犠牲者数となった。重軽傷者6,527人で、その内108人はその後に死亡した。

 福井市内は焼夷弾により一面の焼け野原となり、防空壕に避難した人々は熱気で蒸焼きとなった。水を求めて福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は、折り重なって死亡した。福井県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練も、大規模な都市爆撃にはまったく無力であった。日中戦争では、日本軍によって重慶など都市爆撃が行なわれ、非戦闘員をも無差別に戦禍に巻き込まれた。




2024年1月19日金曜日

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍海兵隊は内陸に飛び出した日本軍兵士に向けて火炎放射器を炸裂した。日本軍兵士の体は瞬時に炎に包まれ、焼死した日本軍兵士の死体が砂場上に散乱した。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍の海兵隊は火炎放射戦車を投入した最初の戦いとなった。内陸に向かって飛び出した日本軍兵士に向けて火炎放射器が炸裂した。日本軍兵士の体は瞬時に炎に包まれた。タラワの戦いで、火炎放射器によって、焼死した日本軍兵士の死体が砂場上に散乱した。荒れ果てた島の上には、焦土と血にまみれた砂浜に横たわった死体には珊瑚の埃と死の臭気が立ち込めた。

 1943年11月20日に、アメリカ軍の約35,000人の部隊が、タラワ環礁のベティオ島とマキン環礁への水陸両用攻撃を開始した。マキン環礁の防衛が弱く死傷者は少なかった。ベティオ島の要塞化された集中的な防衛は、タラワの戦いと呼称される76時間の悲惨な犠牲を伴った。11月20日朝、アメリカ軍は海軍の砲撃に続いて、海兵隊が輸送艇でベティオ島の北岸に接近した。潮位の低さに遭遇して、ベティオ島を取り囲む岩礁で上陸用舟艇を放棄した。日本軍の激しい砲火を浴びながら海岸まで歩くことを余儀なくされた。浜辺に到着すると、防波堤を越えて安全な上陸拠点を確立するのに苦労した。11月20日には、ベティオ島の最西端と北の海岸中央を確保した。

 11月21日、アメリカ軍はベティオ島の中央に位置する滑走路に押し寄せた。西側の海岸で最大の確保を収めた。11月22日に海兵隊はシャーマン戦車2両を借りて東進を開始した。日本軍の機関銃の巣が前進を妨げた。北と西からの継続的なアメリカ軍の侵攻により、残存する日本軍守備兵が中央滑走路の東側の小地域に押し込まれた。11月22日夜、日本軍は海兵隊に対するバンザイ式の反撃のために集結するも、アメリカ軍の戦線は維持された。

 11月23日の早朝、日本軍は2回目、3回目、4回目のバンザイ突撃を執行した。海兵隊は再び日本軍を押し返した。日本軍のバンザイ攻撃は、日本軍の最後の組織的な努力であった。ベティオ島に残存した日本軍の抵抗は、東側の小さな陣地だけになった。海兵隊は、戦車、航空機、大砲、ブルドーザーの支援を受けて、日本軍の防御陣地を整然と破壊した。午後の早い時間までに、アメリカ軍はベティオ島の東端まで到達して、安全宣言をした。日本軍の孤立した集団は戦闘後の数週間も出没した。147人の捕虜(そのほとんどが朝鮮人労働者)を除いて、日本軍守備隊は全滅して玉砕した。アメリカ軍は、戦死・行方不明は約1,113人、戦傷者は2,296人に及んだ。

 タラワ環礁はギルバート諸島の中にあるリング状の珊瑚礁であり、南西太平洋に浮かぶ多くの小さな島々からなる地域である。1943年に、長さ3マイル、幅1,000ヤードの環礁に、約5,000人の日本軍が強固な要塞を築いていた。。ベティオ島はタラワ環礁最大の島であり、日本軍の滑走路があり、ギルバート諸島の日本軍の大部分も駐留した。1943年11月までに、約2,500人以上の日本軍兵士、約1,000人の日本人建設労働者と1,200人の朝鮮人強制労働者がベティオ島を防衛した。ベティオ島の内部には防御壕と塹壕網が配置された。




2024年1月17日水曜日

太平洋戦争の末期の1945年5月24日未明、5月25日夜半、5月29日と、アメリカ軍は最後の東京大空襲を敢行した。東京大空襲の青山地区には、多数の焼死体が集積された。黒焦げて死後硬直した東京都民の死体には、死体処置をするために整理札を付けた。

太平洋戦争の末期の1945年5月24日未明、5月25日夜半、5月29日と、アメリカ軍は最後の東京大空襲を敢行した。大挙して来襲するアメリカ軍のB29爆撃機のなすがままに、東京は爆破して炎上した。東京大空襲の青山地区には、多数の焼死体が集積された。黒焦げて死後硬直した東京都民の死体には、その後の死体処置をするために整理札を付けた。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月24日に3,645トン、5月25日に3,262トンが投下された。3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった。

 1945年5月24日未明の東京大空襲に引き続いて、アメリカ軍は日本軍に息もつかせぬように5月25日夜半にも、アメリカ軍機のB29爆撃機による東京大空襲が来襲した。その大空襲の記録には、アメリカ軍B29爆撃機の約二百数十機が、太平洋の南方の海上より、伊豆列島に沿って北上して、房総半島または駿河湾方面より日本本土に向けて侵攻した。5月25日22時30分頃より約2時間にわたり、単機もしくは数機をもって次々に京浜地区に来襲した。アメリカ軍機は東京都心部をはじめとして広範囲の市街地に対して、主として焼夷弾による無差別爆撃を敢行した。日本軍の制空部隊が果敢なるB29に対する攻擊によって、5月26日1時30分頃までに東南方海上にB29爆撃機は遁走したと日本軍は記録した。

 最後の東京大空襲の被害地域は、東京の麴町、芝、渋谷、京橋、赤坂、目黒、麻布、品川、小石川、葛飾、牛込、下谷、世田谷、浅草、荏原、城東、向島、深川、江戸川、板橋、本郷、足立、杉並、荒川、大森、淀橋、中野、四谷、神田、本橋、滝野川、王子などの各区内および立川市ならびに南北多摩郡の広範囲にわたり多大な被害を伴った。

 東京都の民間人の被害は、死者が約882人で、負傷者は約4,437人、行方不明者は約29人に達した。被害の家屋は約157,039戸、罹災者は約62万人であった。警察庁は、以前の東京大空襲では、東京都民の士気旺盛と報告した。最後の東京大空襲ではは、悪質で、流言蜚語等、いまだ憂慮すべき事象を認めざるも、連続の東京大空襲によって、民心は若干の動揺の兆しなきにしも非ずと警察庁は記録した。




2024年1月15日月曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、砂地の平地にある機関銃の陣地にて殺害された日本軍兵士たちの死体が横たわった。その周囲には身を隠す遮蔽物はなかった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いは、1945年2月19日にアメリカ軍の上陸から勃発した。硫黄島の平地の大半は軟らかい砂質であり、およそ陣地やトーチカを造るには向いていなかった。平地にある機関銃の陣地にて殺害された日本軍兵士たちの死体が横たわった。その周囲には身を隠す遮蔽物はなかった。

 日本軍は、陣地構築のための資材も十分でなかった。土質が洞窟やトンネルなどの陣地構築に向いていなかった。毎日空襲があるで、いつ完成するのかわからなかった。日本軍兵力だって、少しずつの補強だったので、その配備もその場しのぎにならざるを得なかった。硫黄島全島は、ほとんど平坦なので、地形上の陣地の拠点がつくれなかった。アメリカ軍が硫黄島に上陸する直前の時期に、使用する飛行機も無きに拘わらず、日本海軍中央部の指令により、飛行場の拡張工事に日本軍兵力を使って、益々陣地を弱化することに陥った。

 大本営は、地下に潜ってばかりいる栗林兵団長の指揮に疑問を持って、攻勢をかけるべきだと意見した。それに対して、アメリカ軍の海と空よりの砲撃の中で、自滅を覚悟しないと攻勢は不可能であるのが実情であった。防備上に更に致命的なことは、アメリカ軍との物量の差余りにも大きくかけ離れていた。結局は、戦術も対策も施す余地も尽きていた。特に数十隻よりの間断なきアメリカ海軍の艦砲射撃ならびに一日延べ1,600機にも達したアメリカ軍機が銃爆撃した。日本軍の損害は続出した。

 1945年3月17日に、栗林兵団長は大本営に対して、決別の電報を打電した。3月25日深夜から3月26日未明にかけて、小笠原兵団司令部が、アメリカ軍に対して、バンザイ攻撃による自殺突撃をした。午前5時15分頃に、約200人から300人の日本軍兵士は、北方から侵攻した。平岩海岸と海兵隊と陸軍露営地を襲撃した。アメリカ軍は、戦死53人、戦傷119人の犠牲を伴った。日本軍は96人が戦死した。硫黄島の戦いの日本軍の戦死者数はアメリカ軍の戦死者数の3倍であったが、太平洋戦争のアメリカ軍の死傷者数の合計が日本軍のそれを上回った。日本軍兵士約20,933人のうち約95%の約19,900人が戦死あるいは行方不明となった。アメリカ軍は戦死は約6,821人と戦傷約21,865人の計約28,686人の戦死傷者の犠牲を伴った。




2024年1月11日木曜日

1942年1月7日~2月8日の第1次バターン攻略戦の間に、アメリカ軍とフィリピン軍からの砲撃の中で、バターン半島の最前線で、日本軍兵士は次々と戦死して、攻略戦を開始して約2週間で約2,000人が死傷した。

太平洋戦争が勃発した直後の1941年12月22日から1942年5月8日にかけてフィリピン攻略戦が勃発した。1942年1月7日~2月8日の第1次バターン攻略戦の間に、アメリカ軍とフィリピン軍からの砲撃の中で、日本軍兵士はわずかな隠れ蓑を利用してゆっくりと侵攻した。第1次バターン攻略戦にてバターン半島の最前線で、日本軍兵士は次々と戦死して、攻略戦を開始して約2週間で約2,000人が死傷した。

 非武装都市だった首都マニラを、日本軍第14軍が1941年12月22日にリンガエン湾から上陸して、12月24日にラモン湾から上陸して、約10日後の1942年1月2日に首都マニラを占領した。開戦と同時に実施された日本陸海軍の航空隊の空襲により、在フィリピン空軍はほぼ全滅して、マニラの非武装都市宣言がなされ、日本軍は無血に占領して大規模な戦闘は殆ど行われなかった。

  アメリカ軍とフィリピン軍は、マニラ湾を形づくるバターン半島に退却していた。日本軍はその人数を約30,000人程度と見て、戦わずしてバターン半島のジャングルに逃げ込んだ軍隊と判断した。日本軍第14軍の最強部隊は、オランダ領・現インドネシアの攻略の為に、マニラ占領の直後から引き揚げていた。

 第一次バターン攻略戦にて、ジャングルでの戦闘経験が少なかった日本軍の治安警備部隊と第65旅団の約7,000人が、バターン半島に退却したアメリカ軍とフィリレピン軍を追撃した。バターン半島は長さ約50km、幅約30km、大部分が山岳とジャングルに覆われていた。日本軍の第65旅団は分散してジャングルの中に分け入った。日本軍には、まともな地図もない上に、人跡未踏に近いジャングルに難渋した。標高約1,000mのナチブ山系に拠る防御線に突撃すると、アメリカ軍とフィリピン軍から猛烈な砲撃を受けた。バターン半島の最前線にて、日本軍兵士は次々と戦死し、攻撃を開始して約2週間で約2,000人が死傷した。第65旅団は元々戦闘の為の大砲を持っておらず、小銃だけの装備でジャングルの中に突撃した。

 アメリカ軍とフィリピン軍は、山岳とジャングルに覆われた天然の要塞・バターン半島に、太平洋戦争が始まる約1年前から、三段構えの強固な防御線を構築して、日本軍を迎え撃つ演習を重ねていた。太平洋戦争の開戦と同時に、兵器、爆弾、石油、食糧など、6カ月の攻防に耐えられる分量を急速輸送した。バターン半島の先にはコレヒドール島という大要塞があり、近くには通商「軍艦島」のフライレ島要塞が控えていた。

 既に大きな犠牲を出していた日本軍は、1945年2月中旬に、マニラの倉庫に残存したバターン半島要塞の詳細な地図を発見した。既にその時に、第65旅団は第2防御線サマット山攻撃に挑んで、兵力の3分の2程度を失った。途中増援された第16師団の一部も、大部分の兵力を失った。2月8日に攻撃停止を指示し、日本軍の第1次バターン攻略戦は中断に至った。




2024年1月9日火曜日

アメリカ軍は1945年3月4日に東京の市街地を空襲した。東京の空襲の犠牲者の死体を、防空頭巾を被った女子救護隊員が搬送した。

アメリカ軍は1945年3月4日に東京の市街地を空襲した。東京の空襲の犠牲者の死体を、防空頭巾を被った女子救護隊員が搬送した。重量のある死体は、女子には辛らく担架で搬送した。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、約650人が死亡した。アメリカ軍のB29が来襲すると、必ず多数の民間人の犠牲者が出た。1944年3月3日の閣議決定「一般疎開促進要綱」から、閣議決定や通達により学童以外の疎開は制限され続けた。1943年8月に内務省が頒布した小冊子「時局防空必携」には、「私たちは祖国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を護ります。」を市民に強要した。1941年11月に防空法が改正され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定された。

 B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まった。1945年3月10日の東京大空襲より前の空襲は、飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であった。アメリカ軍は高高度から、多くは昼間に爆撃した。東京の場合に、航空機工場の中島飛行機武蔵製作所を第一目標とする精密爆撃が行われた。その爆撃が困難な時には、第二目標とした東京の市街地を無差別に爆撃した。11月24日からすでに荏原区などの市街地が空襲された。11月27日には中島飛行機を全然爆撃しないで、渋谷区の原宿などを空襲した。11月29日から30日にかけて市街地への夜間の集束油脂の焼夷弾を使った空襲がすでに執行された。1945年1月27日には繁華街の銀座や有楽町が空襲され、約530人が死亡した。2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、119機のB29が市街地を爆撃し、区部で約160人以上が死亡した。2月25日は、マリアナの基地を飛び立つ前に中島飛行機を爆撃できないで、第一目標を東京下町の市街地に切り替え、爆弾を焼夷弾に積み替えた172機のB29が空襲した。2月25日の空襲は、目標地域が3月10日の東京大空襲と同じ最も燃えやすい下町の住宅密集地であり、後期に実施される区部の市街地に対する焼夷弾爆撃の実験的な空襲となり、195人が死亡した。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、約650人が死亡した。1944年11月24日から1945年3月4日までの空襲により、区部で約2000人以上が死亡した。

 東京への本格的な空襲は1945年3月10日からの下町への大空襲を境に区分された。3月10日以降の空襲では、膨大な数の死者が出て、無数の死体の山ができました。「戦場掃除」と呼ばれる前線での死体処理と同じような乱暴な扱いで、遺体が片付けられました。通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされました。死体数は1945年3月~5月にかけての大空襲で、約9万4800人の犠牲を伴った。




2024年1月2日火曜日

カダルカナルの戦いにて1942年8月21日のテナル川の戦場にて、アメリカ軍衛生兵が、負傷した日本軍兵士は戦場で応急処置した。散乱した日本軍兵士の死体は、担架で搬送して集積した。

太平洋戦争のカダルカナルの戦いにて1942年8月21日に、テナル川河岸の戦場にて、日本軍は壊滅した。アメリカ軍海兵隊の衛生兵が、生存した日本軍兵士は戦場で応急処置して後送した。散乱した日本軍兵士の死体は、担架で搬送して一カ所に集積した。

 アンディ・ポリーニ上等兵が2人の日本軍兵士の負傷を発見し、4人の仲間を迎えて傷の手当てをした。日本軍兵士の1人が突然横転してアメリカ軍兵士を負傷させ、ポリーニは直ちにライフル銃で2人の日本軍負傷兵を殺害した。日本軍兵士の負傷者を助けようとして、手榴弾を引いた負傷した日本軍兵士に殺害されたアメリカ軍衛生兵もいた。ヴァンデグリフト将軍は、日本軍の救援活動をすべて中止し、負傷兵はその場で射殺するように命じた。残酷な戦闘を生き延びた海兵隊員は「死んだジャップだけが良いジャップだ!」と警告した。

 太平洋戦争のガダルカナル島の戦いにて、1942年8月21日午前1時30分に、アメリカ軍海兵隊はテナル川の対岸からぞろぞろと急ぐ日本軍の足音を聞き、砲撃開始の命令を下した。同時に、対岸から日本軍の砲身から一斉射撃が行われた。直後に、日本軍兵士が銃剣を持ってココナツ林からあふれ出し、万歳!と叫びながら砂州に向かって突撃した。走りながら手榴弾を投げて、河口全体をあっという間に埋め尽くした。最初は約500人の日本軍兵士兵が突撃した。アメリカ軍の猛烈な砲火を浴びて、日本軍部隊は丸ごと一網打尽にされた。生存した日本軍兵士の一人は、「まるでハエがカメを襲って、ハエはカメに対してまったく無力だった!」と表現した。一木先遣隊は、中洲からの襲撃が成功する見込みがないと判断して、午前3時10分にテナル川の横断を命じ、アメリカ軍陣地の右翼に突撃した。猛攻の中で、アメリカ軍の陣地に侵攻したのはわずか8人であった。日本軍兵士は、手榴弾を頻繁に投げてアメリカ軍の照明を破壊した。一夜の激戦の末に、一木先遣隊の半数が死傷して、将校もほとんど戦死した。一木先遣隊は、それでも夜明けまで退却しなかった。

 8月21日未明に、12機のドレッドノート急降下爆撃機が、一木先遣隊が潜伏したココナッツ園を繰り返し爆撃した。アメリカ軍がテナル川の上流を渡り、一木先遣隊の南部を包囲して、日本軍残党を海岸沿いの狭い地域に閉じ込めて、海兵隊が一人ずつ殺害した。8月21日夕暮れ時、一木先遣隊の最後の瞬間が近づいた。海兵隊は砂州を越えて突撃するのを援護するため、軽戦車小隊を派遣した。戦車はヤシの木をなぎ倒し、日本軍防衛兵を殺害して、絶望的な日本軍兵士を崩壊した。戦車は死傷兵の上を走り回り、足跡に血と肉がこびりついた。一木先遣隊は戦死したココナッツ畑で玉砕した。

 ココナツ林に残った日本軍兵士はほんの一握りで、重傷を負った一木を取り囲み、軍旗の焼却を命じた。アメリカ軍の戦車が残った日本軍兵士の集団を発見した時に、すでに日本軍の軍旗は燃えた。日本軍兵士は一人、また一人と殺害された。一木清直は殺害される直前にサーベルを抜いて腹切をした。負傷兵のうち8人だけが残存した日本軍部隊に逃げ帰った。テナル川の河口での戦闘は約16時間続いて、8月21日午後17時頃に終結した。日本軍兵士は約777人が死亡して、アメリカ軍の死者34人、戦傷者75人で終結した。




2023年12月14日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦で男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、甚大な犠牲者を出した。

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦では、男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、その多くが死亡した。師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出した。教員の養成機関であった沖縄師範学校は太平洋戦争中の1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。

 1945年3月31日に、沖縄師範学校生徒に召集令が下り、予科2年から本科3年まで約386人は鉄血勤皇師範隊を編成して、日本軍の作戦の沖縄戦に参加した。アメリカ軍が1945年4月1日に沖縄に上陸して5月下旬、沖縄戦が不利になり、日本軍とともに首里から南部へ移動し、摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出た後は、アメリカ軍に斬り込む者や壕内で自決で自殺する者など多くの犠牲者を出した。

 ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍による看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、6月19日から約1週間の間に約227人が絶命した。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められた。砲弾の飛び交う中、戦傷した体で逃げる者、重傷で動けず倒れる者、砲弾に吹き飛ばされた者、黄リン弾攻撃を受けた者、手榴弾を爆発させ自決した者、海岸で大波に水没する者など、戦傷で行き場を失って、絶命する生徒が続出した。戦跡「ひめゆり塔」がある沖縄陸軍病院第三外科が南部撤退後に入った壕である伊原第三外科壕に、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民など約100名が隠れたが、6月19日早朝にアメリカ軍の攻撃を受けて、約80人が死亡した。

 天皇を崇拝する皇民化教育と軍国教育も、教師育成の学校であり、特に徹底された。学徒の招集の際には、法的根拠がなく自主的に参加するという扱いであり、親の許可も必要でした。沖縄師範学校のほとんど生徒は、学徒隊として参加した。




2023年12月2日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。10月中旬に浦上駅の駅舎に急造されたバラックにてイモの配給が始まった。壕舎生活をした長崎市民が集合して、待機する列がができた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂して、爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。その後に浦上駅の駅舎に、小さなバラックを急造した。10月中旬に浦上駅のバラックにてイモの配給が始まった。被爆してから壕舎生活をしていた長崎市民が集合して、待機する列がができた。当時は着る物食べるものは満足になく、何でも配給切符制度であった。

 長崎本線の浦上駅は、長崎市岩川町のほぼ中央に位置していた。爆心地の南に約1kmの地点であった。国鉄の長崎本線の線路を隔てて向こう側に、三菱製鋼長崎製鉄所と接していた。浦上駅も喪失して、建物も人も突然焼滅して、一面が焼野原で燃え残った木の幹が所々に点在した。もろもろの残骸や瓦礫の層、くすぶり続けている建物の断片が散在した。浦上駅は、駅舎が全壊して、約70人の国鉄職員のうちで、約20人は即死した。長崎原子爆弾の被爆後に約45人が原爆病で死亡した。

 三菱製鋼長崎製鉄所は、写真の左から右に、長崎製鉄所の第4工場、第一工場機械工場、第1工場鍛造工場、本館、変電所、第2工場鍛造工場のいずれも崩壊した。長崎原爆の爆風のために、壁体の鉄骨が、基部の支柱との接点で屈曲して、著しく傾斜した。壁とトタン屋根が吹き飛び、鉄骨がむき出した。浦上駅裏の三菱製鋼所は、燃え盛り、音を立てて鉄骨が崩れ落ち、爆風で曲がり折り重なった。従業員の総数は約5,300人で、8月9日被爆当日に勤務者は約3,300人で、半数交代制により午前11時2分には約1,700人が勤務していたと推定された。約1,700人他にも、動員学徒、女子挺身隊、海軍工作隊員が加わっていた。その中で、約1,400人が長崎原子爆弾爆弾に被爆して死亡したと推定された。






2023年11月30日木曜日

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を公開で執行された。死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、死刑囚は刑場に倒れた死体となった。

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を執行された。公開された上海の屋外刑場にて、死刑囚は、戦犯の罪状を記した死者の墓標となる卒堵婆を背部に縛り付けた。中国人民衆は膝まずいた日本軍将兵を取り囲んで騒ぎ立てた。死刑執行人は、拳銃により日本軍将兵の後頭部から狙った。




  







 第二次世界大戦時の連合国は、東京に極東国際軍事裁判所を設置して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他上海、済南、武漢、太原、台湾、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどで、B級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本軍の戦犯総数は約5,423人、判決を受けたものは約4,226人、そのうち死刑を執行されたのは約941人であった。その中で、中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷が設置された。1949年2月までに日本軍戦犯約145人に死刑の判決を下した。アメリカやイギリス、オーストラリアにも軍事法廷が設立され、アメリカでは約6人、イギリスでは約21人、オーストラリアでは約5人が死刑になった。

 太平洋戦争後に東京裁判がA級戦犯を裁いたのに対して、横浜、マニラ、ラバウル、シンガポール、上海、広東などの各戦地では、通常の戦争犯罪ある非戦闘員(捕虜を含む)に対する残虐行為を行った者への軍事裁判であるB・C級戦犯裁判が審判された。指揮官としての管理責任を問われた山下奉文と本間雅晴両将軍のマニラ軍事裁判をはじめとして、残虐行為を実際に行ったとされた者に至るまで、B・C級戦犯の多くは、法律による満足な保護や手続もないままに、過酷な取り扱いを受けて、死刑を宣告された日本軍将兵は刑場で死刑が執行されたる。

 日本軍による残虐行為が、実際に多く発生した以上は、やむを得ない側面もあったが、被害者や目撃者の証言などが吟味されることなく証拠として採用された。人違いや、風俗習慣の違いからきた誤解、さらには個人的怨恨による告発などもあって、処刑や服役した者のなかにも、無実の者が含まれる否定できない。

   BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪である。戦争犯罪人とされ罪状に問われた。A項は、平和に対する罪で訴追された者は「A級戦犯」と呼称した。日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされた。











     上海の刑場で、死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、日本軍将兵の死刑囚を前にたまらず全弾を撃ち抜いた。殺害された死刑囚は刑場に倒れた死体となった。


2023年11月25日土曜日

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原子爆弾の投下して約3か月後に、原爆症の放射線疾患から回復中である。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原爆症の放射線疾患から回復中である。原子爆弾の投下して約3か月後に写真を撮影された。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

 歯肉炎、口内炎、咽頭炎を含む粘膜の潰瘍化は、より原爆症の重症事例に共通していた。臨床症状は、白血球減少症と類似した。通例で、出血性下痢を伴ったが、多くの症例では伝染性の炎症によるので、その評価は困難であった。歯肉炎が始まった頃に、粘膜に点状現れる場合があった。但し、皮膚出血はもっと後に出現した。広島で収集した原爆症の資料から、ほとんどの症例は爆心地から半径約1.5km以内で発症した。

 アメリカ軍の米国戦略爆撃調査団は、ルーズベルト大統領の指令に基づいて、1944年11月3日に結成された。トルーマン大統領は、1945年8月15日に、対日本戦における空襲の効果について調査を指令した。対日戦の米国戦略爆撃調査団は、文官約300人、士官が約350人、下士官約500人で構成された。原子爆弾が投下されて約1月間経過した1945年9月初旬から、東京を基点として、名古屋・大阪・広島・長崎に支部を設置した。調査団の収集した資料は常設の政府機関に移管された。1945年10月から12月に約10週間、広島と長崎の被爆都市で実地調査した。他の調査機関である、対日原爆調査合同会議、対日英調査団、対日海軍技術調査団と相互協力した。

 原爆が炸裂直後に死亡した者の死因に関する記録はなかった。放射線は直ちに死を引き起こすものではないく、被爆死は他の傷害因子が死因となる。広島県保健局は、約60%は火傷(閃光火傷あるいは火災による火傷)、約30%は落下して破片、約10%はその他の傷害と推定した。その他の推定では、約50%は火傷が原因であり、約50%はその他の物理的傷害とされた。

 爆心地に非常に近い被爆者が、閃光火傷も二次傷害も被らなかった被爆者が、2から3日以内に原爆症は発症して、出血性下痢を引き起こして、上部呼吸器と胃腸粘膜に急性炎症を認めて。幾人かは、原爆症を発症して2〜3日で死亡した。大半の被爆者は約1週間後に死亡した。日本側調査団は、短期間で死亡した被爆者に血液中の著しい変化を証明するのは困難であった。