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2022年2月7日月曜日

ビルマに侵攻したイギリス軍のインド第5師団が占領していた地域に、殺害された日本軍兵士の死体が荒野に放置されていた。

ビルマに侵攻したイギリス軍のインド第5師団が占領した地域に、殺害された日本軍兵士の死体が1944年11月に荒野に放置されていた。インド第5師団は、1943年末から1945年4月までビルマの日本軍と戦闘した。ビルマのティディムロードを通ってチンドウィン川まで日本軍を追い詰めた。インド第5師団は、マンダレー南西部のタウンサ丘陵から日本軍を崩壊して、メイクティラ地域への陸路を確保した。インド第5師団は1945年4月11日からビルマ中部からラングーンへの侵撃をして、日本軍は撤退した。インド第5師団はメイクティラ地域から首都ラングーンに侵攻した。

 インパールに至る悪路は、大河を渡り山脈地帯の道を貫き、食糧も乏しい日本軍兵士たちは衰弱していた。インド第5師団が圧倒的な役割を果たしたコヒマとインパールの戦いでの決定的勝利により、ビルマの戦いの転機となった。インド第5師団は、2年前に日本軍が侵攻して以来、日本軍に対して初めて圧倒的な勝利を収めた。1944年3月8日から7月18日にかけて勃発したインパールとコヒマの戦いは、第二次世界大戦の中でも最も悲惨な戦闘となり、一つの転換点となった。インド北東部における日本軍の決定的な敗北は、その後のイギリス軍によるビルマ再征服の足がかりとなった。1944年3月から日本軍は、イギリスのビルマ侵攻を阻止するため、インド北東部の辺境への進撃を開始した。

 日本軍はインパール平原にあるイギリス軍の補給基地を占領して、コヒマでディマプールとインパールを結ぶ道路を切断する作戦であった。4月5日から4月18日にかけて、コヒマでは戦争中最も過酷な近接戦闘が行われた。コヒマ周辺での戦闘は5月中旬まで続いたが、日本軍は撤退を開始した。日本軍はインパールの平原に対して、特にヌンシグム高地とパレル地域で何度も攻撃を仕掛けた。その周辺での戦闘は継続的で激しくしばしば混乱した。連合国側の補給と通信が優位となり、ディマプールからの迅速な援軍を可能になり、インド第5師団と装備をわずか2日でアラカンからインパールに移送できた。約12,000人以上のインド第5師団を空輸し、約13,000人の死傷者を避難させた。空輸からの補給を受け続けた連合軍は、日本軍の攻撃を激しい接近戦で撃退した。




2022年1月23日日曜日

ビルマのフーコンの戦いで、中国国民党軍が日本軍を追撃して、陥没した路端には、殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

大東亜戦争にて、ビルマの北部のフーコン谷地(Hukawng)の戦いで、中国国民党軍は日本軍を壊滅して、さらに撤退する日本軍を追撃した。その途上にて、地面が陥没した両側の路端には、中国軍に殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。悪臭の死臭が漂うために、中国軍兵士は鼻をふさぎながら追撃した。アメリカ軍は、中国軍と連携して日本軍を砲撃した。フーコンは、ビルマ語では悪魔が住んでいる場所と呼ばれ、もともと中国雲南省の一部であったが、後にビルマ地域に割り当てられた。ビルマのフーカン谷地がフーカンの戦いの戦場となった。

 1943年10月に、インドに駐留した中国軍は、中印路と石油ルートの占領するために、インドとビルマ国境から侵攻して、キャブマン山脈を越えてビルマ北部の要所を攻略した。一方、日本軍側は、1943年10月23日に対抗してフーコンの戦いが勃発した。日本軍は、荒野の山中という過酷で原始的な環境により、甚大な死傷者の犠牲が出た。遠征した日本軍兵士たちの残骸てなる死体が散乱した。最悪の戦場となった湖江流域では、底なし沼が延々と続いて、いたるところで蚊、瘴気、毒虫、野生動物などが、日本軍兵士に侵入した。日本軍の退路となったビルマの最北端の渓谷では、悪天候による雨季の鉄砲水による低地の平野につながる湿地により渡河が困難となった。木の幹を引っ張って、茂みを這いながら歩行した。山道では下手をすると崖から落下した。何日も毒虫に襲われて、死傷した。食料が不足して、栄養失調となり衰弱して餓死した。日本軍側は、中国遠征軍から約12キロ離れた湖江流域を占領していたが、この地域の日本軍は、数々のフーコンの戦いの末に全滅した。

 大東亜戦争にて、日本軍は1942年5月から中国と国境を繋ぐビルマを占領した。中国軍は、ビルマから中国に通じたイギリス軍やアメリカ軍からの補給を断たれた。日本軍は、1943年3月にはさらにビルマの多方域を占領するビルマ方面軍を編成した。1943年10月に、日本軍はビルマと国境を介する雲南方面に侵攻した。不意に10月23日に、中国軍とアメリカ軍が、ジャングルが密集したフーコン谷にて、日本軍に襲撃した。連合軍による攻撃と砲撃により、日本軍は甚大な犠牲を伴った。日本軍は、ジャングルのフーコン谷地から平地のマインカン地域に撤退した。1944年1月13日には、退路を突破した日本軍は犠牲を伴って、2月中にマインカン地域まで撤退した。3月5日には、崩壊しながらワローバン地域にまで撤退した。その悲惨な戦況下で、日本軍は3月8日から、無謀にもインド北東部のインパールに侵攻して7月3日に壊滅した。




2021年7月29日木曜日

ビルマのイラワジ会戦で、イギリス連合軍により殺害された日本軍兵士の死体が木材に寄りかかりあるいは河の流れに浮き沈みした。

ビルマにおけるイラワジ会戦で、イギリス連合軍により日本軍は壊滅した。イラワジ河に、日本軍兵士の死体が木材に寄りかかりあるいは河の流れに浮き沈みした。さらにイラワジ河の路傍または車の中で座り込んだ死体が散乱していた。日本軍の死体は、モンスーンの雨期の最盛期には、日本軍兵士には悲惨な退却における大量虐待と大量虐殺に至った。

 日本軍はコヒマでの戦い(1944年4月4日から6月22日)は約7,000人に及ぶ大損害に終わり、最終的には悲惨な撤退を余儀なくされ、インパール作戦と同じような運命をたどった。インパール作戦(1944年3月8日から7月3日)では、日本軍とそのインド同盟軍は少なくとも5万人の死者を出した。連合軍は、日本軍の中枢を狙った攻撃をした。連合軍は、コヒマとインパールの平原で敗走する日本軍を追撃した。ビルマ中央部、マンダレーまでの南側を占領してさらに南下し、イラワジ河の北にあるシューボ平原の日本軍を壊滅した。連合軍はチンドウィン河渡り、連合軍は、絶滅の決意を固めた日本軍が覆う大きなイラワジ河に直面した。イラワジ河の中央部の幅は約1,800mで、移り変わる危険な砂州が点在して、直接渡ろうとすれば、非常に犠牲を伴った。イラワジ会戦は1944年12月から1945年3月28日まで、日本軍とイギリス連邦軍との戦いがビルマのイラワジ河で勃発した。

 インド軍がパコックを攻略した後に、1945年2月14日に、イギリス連合軍はビルマの古都パガンの北にあるニャウン・ウーでイラワジ河を渡った。イワラジの渡河は広い戦線で行われた。ニャウン・ウーでの主な攻撃も、かつてのビルマ首都で、多くの仏教寺院があるパガンでの副次的な渡河も、当初はイラワジ会戦で悲惨な犠牲者を出した。日本軍は2月16日からカラカン陣地に毎夜に斬り込みを繰り返し、戦死傷者が増大して、死体も放置された。イギリス連邦軍の戦闘機から銃砲弾、迫撃砲弾、機銃掃射が河原一面に撃ち込まれた。パガンとニャウングは、日本軍のインド国民軍が守り待機した。インド軍は、イワラジ河を流れる機関銃の射撃で突撃艇が故障し大きな損害を被った。最終的には、イラワジ河を渡って射撃するの戦車と大規模な砲兵隊の支援により、ニャウングの日本軍の守備隊は崩壊した。パガンでは、防衛部隊であるインド国民軍が抵抗して、日本軍は大きな犠牲を出してポパ山に撤退した。

 2月20日までに大部分の連合軍イラワジ河を渡り、メンティーラを占領した。パコックの占領は、インド軍による更なる侵攻をした。2月19日、連合軍はパンコック沖のイラワジ河ある長さ約8.0km、幅約4.8kmの島を通過した。2月24日に、連合軍はパコックの南方に移動して、イラワジ川を渡って、ニャウン・ウー橋頭堡の一部を占領した。2月25日には、インド軍がイギリス軍の突撃を支援した。すぐに村を確保した。日本軍約7名を殺害した。4月中に、連合軍はこの地域で日本軍との戦闘を続けて、レッツェとセイビクを占領した。4月24日の朝、連合軍は、金塔と僧院が目立つ尾根から日本軍の激しい砲撃で釘付けになった。この日本軍陣地は、連合軍が重砲隊の支援を受けて攻略した。約39人の日本軍兵士の死体が検死された。4月30日までに連合軍ははプウィンプを占領して、その後パカン村の日本軍の陣地を攻略した。5月5日から5月8日にかけて、南側から環状に配置された日本軍の陣地に連合軍が攻撃をした。5月6日には日本軍の後方の道路封鎖して、5月7日には日本軍を包囲して、5月8日にはパガン村を占領した。イラワジ会戦(メイクテーラ会戦を含む)で、日本軍とインド国民軍は約12,913人が犠牲となり、イギリス軍とインド軍は約18,000人の犠牲を伴った。




2021年4月28日水曜日

ビルマ戦線において、イギリス軍とインド軍に殺害されて、仰向けの日本軍兵士の死体が、ビルマ北部のシュエリー川を漂った。

大東亜戦争のビルマ戦線において、1945年2月にイギリス軍とインド軍に殺害されて、仰向けの日本軍兵士の死体が、ビルマ北部のシュエリー川(Shweli River)を漂った。イギリス軍とインド軍はシュエリー川の流域で日本軍に対して、最も激しい空爆と陸爆が行われた。その後にイギリス軍とインド軍は、シュエリー川を越えてマイトソン村への爆撃機が横断して空爆と陸爆を強行した。シュエリー川はイギリス軍とインド軍がビルマ中央部に侵攻するのを妨げられた最後の川であった。日本軍は渡船の横断に猛烈に抵抗した。イギリス軍とインド軍は、1945年2月1日にシュエリー川を渡った後に、ジャングルを通ってマイトソン村に侵攻した。
 シュエリー川は、ビルマと中国雲南省との間の境界の一部を形成した。日本軍は1942年初頭に、ビルマ南西部のラングーンから、鉄道で北にラシオに移動して、ビルマ道路を経由して中国との国境を越えた物資の補給路を遮断した。日本軍がビルマを占領して、1942年にビルマ道路を閉鎖して、陸路による連合軍から中国の国民党軍の補給が途絶えた。連合軍は、ビルマ道路に到達するために、ビルマ北部のシュエリー川の上流に部隊を派遣した。ビルマ道路にて、連合軍と中国軍の侵攻に、日本軍は激しく抵抗した。連合軍兵士は、深い谷から雲の上の山頂までの狭い道を進んで、ミッチーナーから南の険しい山々を通ってシュエリー川まで侵攻した。1945年1月初旬に、ビルマ道路を見下ろす坂道から、日本軍を駆逐した。大砲と迫撃砲により、ビルマ道路に発砲し、地雷を敷設して、日本軍は壊滅して撤退して遁走した。
 1941年12月26日に、アウン・サンがビルマ独立義勇軍を設置して、日本軍とイギリス統治下のビルマに侵攻した。日本軍の占領下で、ビルマ国が1943年8月1日から1945年3月27日まで独立した。日本軍がインパールで1944年7月に敗戦後に、1945年3月27日にアウンサンのビルマ国民軍が、日本軍による占領を奪還した。1947年7月19日にアウンサンが暗殺された戦後まで、イギリスが再占領した。1948年からビルマ連邦としてイギリスから離脱するも、1958から軍事政権に転換した。1989年以降にビルマ軍事政権は、ビルマの公式の名称は、ミャンマー(Myanmar)に転換された。2011年からアウサン・スーチーらの与党・国民民主連盟(NLD)が文民政権に移行した。突然に2021年2月1日に国軍がクーデターで権力を掌握し、ミン・アウンフ・ライン最高司令官がミャンマー国家の権力を掌握した。



2021年1月25日月曜日

ビルマの戦いで日本軍兵士は、通りかかるはずの戦車を壊滅するために、航空爆弾を握りしめて悲惨な自殺任務を遂行する直前にイギリス軍に射殺された。

第二次世界大戦における大東亜戦争にて、ビルマ戦線で1944年に日本軍兵士が塹壕にて殺害された。日本軍兵士は、イギリス連合軍の戦車に対して、塹壕から飛び出して自爆攻撃をしようとした。日本軍兵士は、通りかかるはずの戦車を壊滅するために、航空爆弾を握りしめて悲惨な自殺任務を遂行する直前にイギリス軍に射殺された。殺害された日本軍兵士の死体は、飛び出そうとした姿勢で塹壕の中に留まったままで残存した。

 日本軍は1942年3月にビルマの首都ラングーンを占領して、イギリス軍を国外に追放した。日本軍に取り囲まれることを避けるために、イギリス軍は困難な地形を横断した。恐ろしい戦況で、イギリス軍は最悪の乾燥した暑い天候の中を、イラワジ渓谷とシッタン渓谷を後退し始めた。1942年5月15日に、台風が通過して崩壊した直後に、敗退したイギリス軍はついにインド国境を越えて撤退した。約1,610kmの距離を敗退するイギリス軍は史上最長の撤退であった。
 イギリス軍の撤退後、インドのイギリス軍はすぐにビルマを奪還する作戦は、1943年の初めに、チンデットと呼称された約3000人のインド歩兵旅団が日本軍の背後を越えてビルマの中心部に侵攻した。日本軍を移動制限するために線路を破壊して、ビルマのレジスタンスを支援した。しかし、約818人のインド人兵士が殺害されて、多数が負傷あるいは行方不明となった。
 1943年後半から、イギリス軍は日本軍に対する攻撃を引き継いだ。1944年3月に日本軍は、インパールとコヒマのインド国境の背後にあるイギリス軍基地への攻撃をした。日本軍には、第二次世界大戦の中でも最悪の戦いの一つとなった。同時期に、2回目のチンディットのインド軍が侵攻した。第二次世界大戦では2番目に大きな空挺の侵攻となり、約2万人のイギリス連邦軍にアメリカ空軍が航空支援した。コヒマのインド基地では、約2,500人のイギリス系インド軍が、約15,000人の日本軍に対してギャリソンヒルを防御した。
 イギリス軍とインド軍による断固たる防衛と台風に、日本軍は打倒されて、激しい複数の戦いによって崩壊して、1945年3月にビルマ中部の都市メイティーラとマンダレーも占領されて、ビルマの占領が終結した。南部の沿岸都市ラングーンは、イギリス海軍の支援もあり、1945年5月4日に占領した。ビルマは最も困難な状況でイギリス軍は驚異的な勝利を収め、日本軍だけでなく難関の気候と地理を克服した。ビルマの戦いは「忘れられた戦争」と呼称されるが、記憶に値する膨大な犠牲があったことは明らかである。

2020年9月3日木曜日

大東亜戦争にてビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。

大東亜戦争において、1944年5月にビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。左側には、別のC-47輸送機が炎上した。その約5分前に4機の日本軍のゼロ式戦闘機に攻撃された。アメリカ軍と中国軍も厳しい戦闘と気候や環境に苦闘して、連合軍の空軍の支援の下に総攻撃を開始したが、日本軍の防戦と連合軍の誤爆で大混乱するも、次第に日本軍は圧迫されて撤退した。
 日本軍は1942年5月8日に、ビルマを征服中にミッチーナを占領した。ミッチーナはビルマを北から防衛するための日本軍の主要な航空基地であった。ミッチーナ飛行場は、日本の戦闘機がアメリカ軍が中国に輸送する飛行機を攻撃した。ミッチーナは、日本軍の作戦地域の南端にある重要な輸送拠点であった。主要な航空基地ミッチーナの包囲戦は、第二次世界大戦の連合軍のビルマ戦略に関連して、1944年5月17日から8月3日に勃発した。連合国軍と中国軍はミッチーナを日本軍から奪還して占領した。北ビルマと雲南省の古くから道路を開通して、インドから中国への供給ルートを大幅に効率化化した。
 ミッチーナの包囲戦は、ジャングルの山腹での戦闘が激しく、物資が不足し、地形が困難で、伝染病が蔓延して、ミィッキーナに対する作戦は、過度の死傷者のため、特に中国軍は戦闘部隊として壊滅した。ミィッキーナ飛行場の占領により、古いビルマと中国を結ぶ道路が開通した。中国軍兵士の犠牲者数は、ビルマへの中国介入によ全戦闘の中で最も高かった。日本軍兵士は約2,400人が犠牲となった。連合軍はアメリカ軍兵士は約272人が戦死、約955人が戦傷、約980人が行方不明と中国軍塀は972人が戦死、3,184人が戦傷、約188人が行方不明であった。
 日本軍は、8月3日から撤退して、すでに約5,000人は約1,500が残存した。日本軍は深夜の闇に紛れて、粗末な丸木舟や筏を使って川を渡り始めた。日本軍兵士たちに、「生きる」渇望が蘇った。我先へと渡し舟に群がる兵士が続出した。「恥を知れ。お前たちはそれでも神軍の兵隊か!」と上官が怒鳴る。それでも殺到して、船に手を掛ける日本軍兵士たちの手指や手首を、上官は日本刀で斬り落とし、射殺された兵士が続出した。阿鼻叫喚の後に、約650人だけが生存した。


2020年5月19日火曜日

シンガポールの悪名の高きチャンギ刑務所で、再征服したイギリス軍軍兵士が、元征服者の日本人兵士を虐待した。

シンガポールの悪名の高きチャンギ刑務所で、再征服したイギリス軍軍兵士が、元征服者の日本人兵士を虐待した。1945年に再占領したイギリス軍兵士が、1942年から1945年まで征服した日本軍兵士を土下座をさせて、ブーツによって頭部を土間に擦りつけて虐待した。日本軍と同様にイギリス人警備員による暴力が頻繁に報告されて、顔に強い平手打ちのビンタや殴打を受けることがあった。刑務所は終戦後に、日本の戦争犯罪者や容疑者を拘留するために使用された。死刑の判決を受けた者は、絞首刑や銃殺隊により処刑された。
   もともとキャンギ刑務所は、イギリスの植民地政策により、シンガポールの東部に設置された。太平洋戦争後に、チャンギ刑務所は帰還したイギリス軍人によって、元日本軍将校、憲兵隊、警察、強制収容所の警備員などを収容するために使用された。死刑の処刑はチャンギ刑務所内に3つの絞首台が建てられた中庭で行われた。イギリス軍兵士がチャンギ刑務所の警備員として駐留した。1945年10月17日に、東南アジアを拠点したドイツ軍のUボートの約260人のドイツ人船員が、パンジャールパシルからチャンギ刑務所に移送された。1946年6月26日、すべてのドイツの兵士と数人の民間人は、最終的にドイツに戻る前に、イギリス本土に送還された。
 シンガポールは、1942年2月15日から太平洋戦争の終結後の1945年9月6日までイギリス軍を駆逐して、日本軍が統治した。日本は捕虜の待遇に関するジュネーブ条約(全97条)に署名せず加入していなかった。日本軍が占領した時には、約600人の収容人数のチャンギ刑務所に、イギリス軍兵士だけでなく、女性と子供も含めて約2,800人が留置された。民間市民と捕虜の収容所に転換された。1944年5月までに、換気の悪い刑務所に約5,000人を超える囚人が詰め込まれた。1945年9月6日の開放時には、約4,500人の囚人が留置された。ビタミン欠乏、過密、栄養失調、マラリアや伝染病などの病気に罹患した。東京裁判では、連合軍側の囚人の死亡率は27.1%に達していた。終戦直後に、大本営の戦争省から発令された、残りの捕虜全員を殺害せよと指令の存在が明らかになった。


2020年4月23日木曜日

日本軍はシンガポールのインド系シーク教徒の囚人を目隠して、標的訓練としてあぐらを組んだ囚人を銃殺して射殺した。

日本軍兵士が死刑をする準備が整う前に、1942年にシンガポールのインド系シーク教徒の囚人を整列させて待機させた。土面の上に目隠しをして、標的訓練とするための立て札の前に座らせた。日本軍は、伝統的なシーク教徒の祈祷するあぐらを組んだ囚人を銃殺して射殺した。その後に地面に散乱した囚人の死体を検死して、確実に死刑にするために銃剣を胸部に突き刺した。日本軍がシンガポールを1945年2月15日に陥落した時に、在住のシーク教徒のインド人兵を捕虜にして強制収容した。約4万人のうちで約3万人を日本帝国のインド軍(INA)に編入して、一部は太平洋諸島に派遣された。拒否したインド人は強制収容所で拷問から虐待と虐殺された。一連の写真は1945年にイギリス軍がシンガポールに侵入して、植民地支配に戻ったときに、1945年9月17日に日本軍の記録から発見された。第二次世界大戦中に、何万人ものイギリス人とイギリス軍兵士が、日本軍の捕虜収容所で飢餓、強制労働、拷問または病気などで死亡した。
 最も残酷な扱いは、さまざまな残忍な手段で大量虐殺された中国人に特に向けられた。殺害は、射殺、生き埋め、銃剣による刺殺、斬首、医学実験、およびその他の方法を含む多くの方法で殺害した。3回の大量虐殺で約5万人の華人が殺害された。一例として、1942年2月20日に、チャンギ海岸に約70人の華人が連行され、タナメラ海岸に約120人が、一斉射撃で虐殺された。
 ナチス・ドイツ軍のユダヤ人の大量虐殺は主に親衛隊が担当したが、日本軍の大量虐殺は正規の日本軍兵士が担当した。日本は、1929年の捕虜の待遇に関するジュネーブ条約に署名しても批准しなかった。ハーグ条約(1899年および1907年に署名)の条項が、戦争の捕虜の使用の禁止、化学兵器、強制労働に関する禁止、女性と子どもに対する虐待の抑制、人身売春やその他の契約を禁止を、日本は1912年に公布した。



2020年2月10日月曜日

日本軍憲兵は、略奪の横行したビルマのラングーンで、収容施設が枯渇して容疑者らを街路樹に縄で縛り付けた。

日本軍がミャンマー(旧 ビルマ)の首都ぶあったラングーン(現在 ヤンゴン)を占領した。日本軍憲兵は、ラングーン市内で略奪犯が横行するために、ラングーン市民も一味と加担したと容疑した。日本軍は収容施設が枯渇したために、1942年3月頃に容疑者らを街路樹に大きな縄で縛り付けられた。その写真の左端には、不許可の印章とその注意事項が記載された。日本軍から熱帯地方の炎天下にさらされて、虐待と虐殺をされた。略奪犯だけでなく、民間市民も無差別に虐待と虐殺された。
  1942年から1945年にかけて、ヤンゴンはイギリス植民地に代わって日本軍による占領を受けて、第二次世界大戦中は甚大な被害を受けた。日本軍は、1942年3月8日にラングーンを占領して、5月末にはビルマ全域を占領した。日本軍のビルマ占領下で、約17万人から約25万人の民間市民が殺害された。連合軍は1945年5月にラングーンは奪還された。
 日本軍によって日中戦争から太平洋戦争に至る新聞記者が取材した写真群が検閲されて新聞に掲載が不許可となった。大阪毎日新聞社には、従軍カメラマンが撮影した写真が、戦場別に資料室に保管されている。陸軍から海軍および内務省から外務省・逓信省などの官憲が検閲して情報操作と情報隠蔽をした。官憲が検閲を通過した写真で都合の良い写真のみを宣伝に転用した。特に戦場の写真は、掲載される直前に再度の検閲を受けた。不許可写真は掲載さえしなければ、再提出や破棄を求められなかった。日本でわずかに残された軍史料の写真となった。


2019年8月17日土曜日

イギリス連合軍の兵士らが、インパール作戦にて手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。

大東亜戦争におけるインド(現在はミャンマー)のインパールからビルマまで約470kmも敗退する日本軍兵士は、途中で力尽きて自爆した死体が散乱していた。イギリス連合軍の兵士らが、手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。腐敗して強烈な悪臭が漂う死体には、蛆虫、アブ、蝿、蟻、山蛭などが群がった。
 大東亜戦争の劣勢により、イギリス軍らの連合軍のインドからの進撃に対して、1944年3月8日から日本軍がビルマとインドの国境のインパールを最も無謀に攻略した。約10万人もの日本軍兵士は、約3週間の食糧と弾薬だけで補給もなくインパールに進撃した。約4カ月間もの戦闘に、7月8日から8月12日まで激しいビルマの雨期に約2,000m級のアラカン山系の泥沼を乗り越えた。チンドウィン河に沿った敗走路である「白骨街道」には、甚大な犠牲を伴う悲惨な死体の山が散乱した。イギリス連合軍からの爆撃の上に、熱帯の炎暑と猛烈な豪雨により、日本軍は食糧も弾薬も尽きて、やせ衰えて栄養失調や伝染病で次々に戦死した。撤退中にビルマの農村部は食糧を略奪して、弱肉強食されて荒廃した。
 インパール付近の4月5日コマヒ基地を占領するも、6月1日には遂に日本陸軍初として上官の命令に従わずに撤退する抗命事件が勃発した。ビルマ方面の日本軍兵士は約33万人のうち、生還者は約13万人で、約20万人が戦死して行方不明となった。1945年3月にビルマ国民軍が連合国側に寝返り、日本軍に対して攻撃を開始して、日本はビルマを失った。日本軍への反撃を指揮したのが、「ビルマ建国の父」のアウンサンであり、娘のアウンサー・スー・チーが後にミャンマーの国家顧問を務めた。



2019年5月30日木曜日

ミャンマー軍兵士が夜間に少数民族のカレン民族の農村を襲撃して、約12人のカレン人を山林で虐殺した。

ミャンマー南東部に居住しているカレン民族は、2002年にミャンマー軍兵士により夜間に農村が襲撃された。約12人のカレン人がミャンマー国軍により山林で虐殺された。虐殺されたカレン人の死体は、山林に運搬されて横並びにされた。
 日本軍が1942年にビルマに侵攻して、1948年にビルマはイギリスから独立した。ビルマは、イギリスを支援したカレン民族やシャン民族などの少数民族を含めなかった。カレン族は約500万人で、ミャンマーの総人口の約7パーセントを占めた。多数のカレン民族は、タイとミャンマー国境に避難した。主にカレン民族のカレン国民連合(KNU)は、1949年からビルマ政府に国境地域で独立戦争をした。KNUは、1976年から独立ではなく連邦制を求めた。1990年から天然ガスパイプラインが追加させるため、カレン民族を強制移住させて、KNUの掃討作戦が開始された。多くの難民が発生して、1995年にKNU本部は占領された。1998年には国連によりタイの西側2か所に難民キャンプが設置された。タイに脱出したミャンマー難民のうちカレン族は約20万人規模に及ぶ。
  ミャンマーでは1947年の独立以来、カレン民族同盟(KNU)のカレン民族解放軍及びカレンニー民族進歩党のカレンニー軍が、軍事政権国家平和発展評議会及び民主カレン仏教徒軍に対して国境地域にあるコートレイ解放区で独立闘争を行っている。KNU傘下の難民委員会の援助によって戦乱を避けて、1984年からタイに流入した難民は、1980年から90年のタイ経済の好調に乗って安価な労働力を提供した。マヌプロウのKNU本部の陥落後に難民は急増した。1998年には国連によってタイの西側2か所に難民キャンプが設置された。国外に脱出したカレン族の中には、国際社会にミャンマーの現状を伝える外部圧力団体として活動している。




2018年9月1日土曜日

日本軍は、無差別にシンガポール人華僑などを連行して、機銃掃射により殺害した。

日本軍は、無差別にシンガポール人華僑などをトラックに搭載して連行して、機銃掃射により殺害した。
 大東亜戦争にて1942年2月7日から15日のシンガポールの戦いで、イギリス軍は2月15日午後7時50分に日本軍に降伏して、日本軍はシンガポールを占領した。2月21日に、日本軍は、マレー半島からシンガポール各地で、「抗日分子」や旧政府関係者を掃討して粛清した。日中戦争が拡大すると、特にシンガポールの華僑を中心して抗日運動が拡大した。日本軍はシンガポールの占領後に、郊外の戦闘部隊は2月16日からシンガポールの治安維持やイギリス軍の武装解除で突入した。軍司令部は、日本軍の主力部隊を速やかに、シンガポールの治安を乱す華僑の「抗日分子」を2月21日から23日まで3日間以内での掃討を命令した。中国人の住民を集めて抗日分子を選別、アジトを捜索して容疑者を拘束し、秘密裏に処刑した。2月19日に日本軍の司令部は、「シンガポール在住の18から50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」と通告した。憲兵隊は、シンガポールの中国系住民の半分を粛清する命令に従った。憲兵隊は2月21日から23日にかけて、集合場所に集った華僑を尋問しても選別できず、無差別にシンガポール華僑などをトラックに搭載して連行し、機銃掃射により殺害した。粛清する対象者と人数を適当に無差別に選び出して処刑した。23日までに処刑された人数は約5,000人以上に達した。さらに2月28日に近衛師団が抗日華僑の掃討作戦を行い、第2次粛清として、約300人以上を虐殺した。その後に第3次の粛清が同年3月上旬に行われ、約300人が殺害された。シンガポール人の虐殺は継続中となり、約25,000人にも達したと想定された。その他の民族であるシーク兵も虐殺された。日本軍が処刑した華僑粛清は、暴虐非道のまさに言語に絶する大量虐殺であった。





2018年8月16日木曜日

北ビルマのミートキナ戦にて、新編中国軍兵士は全滅した日本軍兵士の死体と悪臭を避けながら侵攻した。

北ビルマのミートキナ戦にて、新編した中国軍兵士は全滅により散乱した日本軍兵士の死体と悪臭を避けながら侵攻した。大東亜戦争において、北ビルマと雲南地域ののミートキナにて日本軍は、アメリカ軍とイギリス軍に支援された新編の中国軍の侵略によって全滅した。北ビルマから昆明を通じて重慶に至る要所を1943年12月24日から1944年7月4日まで攻防戦があった。インパール作戦のために北ビルマの日本軍には補給や連絡網も途絶えて崩壊して退却した。すでに日本軍兵士は約3,200人が戦死して、約1,800人が重戦傷した。重症の兵士には、昇汞水で安楽死させた。司令部は7月10日に持久困難な僅か約1,200人の日本軍に対して最後まで死守する玉砕を厳命した。軍隊は階級社会で、上官の身勝手な命令も兵士は手出しも撤退もできなかった。その日本軍の残兵に対して雲南遠征軍が、日本軍を全滅に追い込んだ。ミートキナ市民の約13,000がほとんど難民となって逃避した。ミートキナの戦後には、約10人の朝鮮人慰安婦が確保された記録と写真が残存した。ミートキナの途上に、1944年3月8日からは日本の大軍は、インドのインパールに侵攻しするも7月10日からは最悪の敗退と犠牲を伴った。



2018年8月15日水曜日

戦争終結の大詔渙発さる、新爆弾の惨害に大御心、帝國,四國宣言を受諾、畏し、萬世の為太平を開く (1945年8月15日正午)

戦争終結の大詔渙発さる
新爆弾の惨害に大御心
帝国、四國宣言を受諾
畏し、萬世の為太平を開く


大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたった。科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾とこれに続いて突如として起ったソ連の参戦とは大東亜戦争を決定的な段階まで追ひ込んだ。九日午前に開かれた最高戦争指導者会議とこれに引続いて同日午後二回に亙って開かれた臨時閣議において帝國戦力の徹底的測定と諸般の国際情勢に関する検討とが行はれたのをきっかけとして、大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗を見せ、同夜半畏くも天皇陛下の親臨の下、最高戦争指導会議が開かれ、帝國の基本方針ここに決定。帝國政府は、これを中立國を通じて米英支蘇の四箇国に通達したのである。このポツダム宣言に対する帝國政府の通告文の要旨は「日本政府はポツダム宣言が、陛下の國家統治の大権を変更するがごとき如何なる要求をも含まざるものとの諒解の下に同宣言を受諾する用意ある」旨のものであった。これに対する米英支蘇の公式回答は十三日朝帝國政府に到達。我方の通告文とこの四國政府の回答文を縛り閣議を始めとして統師と國務の最高首脳部の間において「國體の護持」といふ最後の一線に関する全く真剣なる議論が重ねられたのであるが、結局十四日の午前会議において添き聖断を拝し、この大御心によって四箇國の回答文を受諾するという方向は一決。ここに大詔は厳かに渙発せられ、大東亜戦争は遂に終結を見ることになったのである。


朝日新聞(昭和20(1945)年8月15日号)

第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間

2018年8月1日水曜日

日本軍は北側のマレー半島に戻り、1942年3月16日にクアラピラー南西部のカンウェイ村を大虐殺した。

太平洋戦争を1941年12月8日に宣戦して、日本軍は1942年2月5日にはシンガポールを侵略して沼南島と呼称した。シンガポールで華人を数万人も大虐殺してから、日本軍は、北側のマレー半島に戻って、多数のマレーシア人を大虐殺した。マレー半島には、約30ケ所以上に虐殺の遺碑が残存している。日本軍の公文書である陣中日誌では、マレー半島で1942年3月に約3週間に治安粛清として華人約584人を刺殺し、8月にも華人の村で約80人を虐殺したと記録した。特に3月16日にはクアラピラー南西部のカンウェイ村で、全村民を集めて、不偵分子の容疑で156人を刺殺した。カンウェイ村からは、日本軍により虐殺された多数の白骨が発掘された。
<一枚の家族写真>
だから せめて 知ってください。今はないクアラピラー・カンウェイ村を 
惨劇から40年後につぎつぎと発掘された 物いわぬ されこうべを ああ たくさんの布袋に 大きな棺に はみだすほどの骨が
1942年3月16日早朝まで ここは 静かな村であったと ゴム園やヤシ林に囲まれ ひとびとは 豊かに 聡明に 生きていたと
なのに 幸せは一夜にして壊され 5人のうち4人は 物いわぬされこうべとなって その父がどれか その母がどれか 永遠に探すすべもない 
だから せめて 祈ってください 今はない クアラピラー・カンウェイ村を 心に刻んでください 一枚の幸福な家族写真を



2018年7月29日日曜日

日本軍がシンガポールの市街地に爆弾と機関銃掃射撃を繰り返して、兵士から市民や女性や子供までが逃げ回った。

日本軍のシンガポール占領にて、激しい砲撃による瓦礫の山に犠牲者らが身内の死体に嘆き悲しんだ。日本軍は、マレー半島の海峡にかかるコーズウェイを修復してマレー半島の海峡を渡り、シンガポールに侵攻して流れ込んだ。イギリス軍らは、混乱状態に巻き込まれて交戦も困難となり、イギリス軍兵士らは撤退と退却をした。日本軍の爆撃機が低空で飛来しては、市街地には爆弾と機関銃掃射撃を繰り返した。兵士から市民や女性や子供までが逃げ回った。港に殺到してボート難民で南方の諸島に向かうも、その途上で砲撃で沈没した。シンガポールの戦いは、大東亜戦争の1942年2月7日から2月15日に、イギリスの海峡植民地のシンガポールで日本軍と連合国軍とが戦闘した。当時は難攻不落のシンガポール要塞が、日本軍が10日足らずで攻略した。イギリス軍は歴史上最大規模の兵士が降参した。イギリス陸軍は敗北して、シンガポールが陥落して、イギリス軍から連合国軍まで約80,000人が日本軍の捕虜となった。シンガポール侵略戦で日本軍の戦死者は約1,713名、戦傷者3,378名で、イギリス軍は約5,000名が戦死し、約5,000人が戦傷して、シンガポール陥落と多くの戦死者と捕虜を出した。 




2018年7月27日金曜日

日本人兵士の膨大な死体群が、インパールから撤退する道端に散乱し、至る所に死骸は放置され腐敗した。

大東亜戦争の中期に、日本軍はインパールの戦闘で壊滅して敗退した。ビルマの首都のラングールもイギリス軍に再占領された。撤退する日本軍兵士は、衰弱して飢餓状態となり悲惨な撤退となった。骨と皮だけにやせ細り、水分も乾燥して干された日本人兵士の膨大な死体群が、撤退する道端に散乱した。至る所に、死骸は放置されて腐敗した。日本軍は1944年3月に決行した無謀で悲惨なインパール作戦で約30,000人が戦死して、戦傷者は約40,000万人に及んだ。

 日本軍は、1942年1月7日にインドシナ半島西の現ミャンマーであるイギリス領ビルマに進攻して、全土を占領した。イギリス軍はインド北東部アッサム地方に位置したビルマに近いインパールに敗走した。日本軍のインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点であるインパールを約3週間で攻略する作戦だった。後方からの補給も途絶えた日本軍はインパールには誰1人もたどり着けず、7月1日に至り作戦が中止された。激しい雨の中で、イギリス軍の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れて、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ、自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。



2017年10月16日月曜日

日本軍は太平洋戦争の緒戦のマレー半島上陸でコタバル村民を大虐殺した。

日本軍は、最初のイギリス軍の緒戦として1941年12月8日にマレー半島の侵攻を開始した。イギリス領の東北端のコタバルを強襲して上陸した。バリティンギ村領域内の支那人は抗日分子として住民を含めた約600名を日本軍は1942年3月16日に大虐殺した。その犠牲者の遺骨が発掘されて、村民の遺族たちにより墓地に埋葬された。


2017年9月26日火曜日

ビルマのミートキーナ付近のモウガンにて、膨大な日本軍兵士の死体は打ち捨て放置され散在した。

第2次世界大戦にて、日本軍はビルマ(ミャンマー)北方のイラワシ河沿岸都市で飛行場を有するミートキーナを1945年6月に占領した。アメリカ軍・中国国民党軍との激戦で1944年6月9日にはミートキーナに近いジャングル地帯のモウガンにて、膨大な日本軍兵士の死体は打ち捨て放置されて散在した。


2017年7月30日日曜日

日本兵士はインパール作戦から敗走して全滅し白骨化した死体で埋め尽くされた白骨街道となった。

2次世界大戦にて日本軍はビルマ国境の近隣における194438日から710日までのインパール作戦の失敗により甚大な戦死者を出した。補給線を軽視した作戦から敗走した日本軍兵士は、89日にタングニ付近で全滅して白骨化した死体で埋め尽くされた「白骨街道」となった。