2019年7月16日火曜日

沖縄南部の戦いの悲惨で容赦のない戦闘に、アメリカ軍と日本軍兵士さらに沖縄住民が巻き込まれた。

太平洋戦争の末期に、沖縄の戦いにて、本島南部で最終的な悲惨で容赦のない戦闘に、アメリカ軍兵士と日本軍兵士さらに沖縄住民が巻き込まれた。1945年5月27日から、約3万人の兵士が沖縄の首里を撤退して、沖縄住民が従った。5月下旬の梅雨による泥川の中を日本軍兵士と沖縄住民の集団が南部に向けて逃避した。5月27日にアメリカ軍の観測機が、日本軍と沖縄住民の南下して後退を発見した。直ちに、アメリカ軍の砲兵隊と戦艦からの砲撃して、容赦なく襲撃して、膨大な日本軍兵士と沖縄住民が殺害された。さらに南風原の山川橋付近の死の十字路では、砲弾と射撃により、殺害された死体が石垣山のように重なった。
 アメリカ軍は6月7日には、南部の喜屋武半島を包囲して、容赦のない総攻撃をした。摩文仁丘の周辺に逃げ惑う約3万人の日本軍兵士と約10数万人もの沖縄住民が混在と混乱を来した。あらゆる砲撃や射撃をさけるために、地下のガマや民家から森やアダン林、岩陰に潜伏した。無差別に掃討するためのアメリカ軍の砲撃と射撃から火炎放射や手榴弾などで焼け尽くし崩壊した。日本軍兵士と沖縄住民の死体が散乱した上を、地獄のような戦場から日本軍兵士と沖縄住民が逃げ惑った。沖縄本島の南部の戦場に巻き込まれて、沖縄の戦いの犠牲者の約8割以上を占めた。沖縄の戦いの犠牲者の推定では、日本軍兵士の戦死者数は約94,136人で沖縄住民は約94,000と総計で約200,666人にも達した。アメリカ軍兵士の戦死者数は約12,520人に及んだ。最終的に1945年7月2日に沖縄の戦いは終結した。



2019年7月15日月曜日

ビルケナウ第二強制収容所から、ユダヤ人の少年と女性の2人の生存者が解放され、周囲には多数の子どもの死体が散乱した。

アウシュヴィッツのビルケナウ第二強制収容所から、ユダヤ人の若い少年と中高年の女性の2人の生存者が解放された。その周囲には多数の子どもの死体が散乱していた。ソ連軍により、オシフィエンチム市のブジェジンカ村のビルケナウ第二強制収容所は、1945年1月27日に約7,000人の囚人が解放された。その中には、約200人の子どもたちも含まれた。アウシュヴィッツ第一強制収容所は1940年5月20日に、ナチス・ドイツ軍が占領したポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語: アウシュヴィッツ)に、ビルケナウ第二強制収容所は1941年10月8日に、近隣であるブジェジンカ村(ドイツ語: ビルケナウ)、さらにモノヴィチェ村に1942年10月に、モノヴィッツ第3強制収容所(ドイツ語: モノヴィッツ)が開所した。
 ナチス・ドイツ軍は、ソビエト連邦に対する1941年夏と秋のバルバロッサの戦いに勝利して、ナチスの反ユダヤ人の過激主義とアウシュヴィッツに搬送される囚人の要件に変化をもたらした。アウシュビッツ第一強制収容所の混雑を緩和するために、約3km離れたビルケナウ第二強制収容所の建設が1941年10月に開始した。強制収容する約5万人のソ連兵の捕虜を収容することを意図した。ビルケナウ第二収容所には当初は約15万人が、最終的には約20万人もの囚人の収容が求められた。1941年10月に最初の約1万人のソビエト軍の捕虜がアウシュビッツ第一収容所に到着したが、1942年3月までに約945人のみ生存した。彼らのほとんどはビルケナウ第二収容所に移送されて、1942年5月までに死亡した。ナチスはユダヤ人を全滅させために、ビルケナウ第二収容所は強制労働から絶滅収容所となった。
 戦闘にはかかわらず、ビルケナウ第二収容所は必要な建設を遂行した。ビルケナウ第二収容所には、4つの火葬場、新らたな収容所ビル、その他何百ものビルが建設された。死の門から強制収容所内まで延びる鉄道引込み線は1944年5月に完成した。各兵舎のために当初は約890万RM(1924年-1948年はReichsmark)の予算に基づいて、約550人の囚人を保持した。その後に各兵舎を約744人に変更した。収容所は約97,000人から約125,000人を収容できた。親衛隊は兵舎を破壊するほど人々を収容した。約174の兵舎があり、各約35.4×11.0mの面積で、約62平方mを約4平方mに分画した。最初は3人の収容から、4人の寝所に分画された。生存するために必要な最低限の空間に、受刑者は強制収容された。


2019年7月14日日曜日

長崎原子爆弾により這って出る姿のまま黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。(長崎)

長崎原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が1945年8月9日の午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機B-29「グーレート・アーティスト」から投下されて炸裂した。8月10日に爆心地から南約300m付近の長崎市浜口町北端に、這って出る姿のままの黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。民家の屋内防空壕から逃避するも、家の崩壊して脱出できずに、まる焦げになり焼死していた。跡形も無くなり、何も見分けもつかない死体が散在していた。原爆が炸裂した直後から焼ける猛煙で一面が真っ黒になった。家の下敷きになって生きたまま焼け死ぬ多数の悲鳴が響いた。下敷きになり焼け死ぬ者の救出は、猛火の中を逃げ回る被爆者らにはとても不可能となった。
 原子爆弾は、炸裂時に猛烈な熱線を放出する。熱線により、爆心地付近は一晩中にわたり燃え続けてほとんど焼失して全滅した。何千度の高熱で、人も建物も何もかもが炭化した瓦礫になった。爆心地から約2km付近までは、非常に重態の火傷を受けた。爆心地から約4km付近までは、露出した皮膚に火傷を受けた。


2019年7月13日土曜日

南ベトナム政府軍兵士は、農村部で一緒に暮らした息子が、ベトナム戦争に巻き込まれ殺害された死体を抱きながら悲嘆して泣いた。

ベトナム戦争にて、南ベトナム政府軍兵士は、農村部にて一緒に暮らしていた息子が、ベトナム戦争に巻き込まれて殺害された死体を抱きながら悲嘆して泣いた。彼の息子の遺体は、土葬するために、わらで編まれた敷物に包まれた。1964年6月12日のライフ(Life)雑誌に掲載された。ベトナム戦争の日本人報道カメラマンの先駆者であった岡村昭彦が撮影したベトナム戦争の真実について、驚くべき9ページもの特集が掲載された。「遠く離れて卑劣な醜いベトナム小戦争」を、あまりにもほとんど何も知らなかったアメリカ本国の市民は、すでに悲惨な戦争になっていることを知らせた。南ベトナム政府軍の父親は、彼の息子の死体と一緒に写真を撮影を岡村昭彦にお願いした。
 南ベトナムの首都であるサイゴンの南西にある農村部の住民は、ベトナム戦争の攻撃の犠牲者になっただけでなく、南ベトナム軍によって北ベトナムのゲリラの容疑者として拷問されていた。その直後の1964年8月2日のトンキン湾事件により、アメリカ軍はベトナム戦争を泥沼に引きずり込んだ。



2019年7月12日金曜日

関東軍の討伐隊は、吉林省から南の白頭山に、共産匪の司令官である楊靖宇を包囲して川原に追詰めて射殺し断頭した。

満州国にて、溥儀が執政から皇帝になった1934年3月から、満州の中国人農民と日本関東軍の大規模な紛争となる土竜山事件が勃発した。関東軍は、日本人移民のために満州の農民から大量の土地を強制的に買収して、満州国の約14.3%にも達した。反満抗日集団である匪賊に対抗できる退役軍人を武装移民させた。日本は1937年から二十カ年百万戸計画を掲げて、満州への大量の日本人移民を排出した。1931年の満州事変から終戦までに約27万人もの日本人の満蒙開拓団が入植した。
 1930年から共産党の指令を受ける匪賊である共産匪によるゲリラ式の反満抗日活動が展開された。特に1935年から1937年にかけて、満州全域で約20,000人の共産匪が反満州抗日をを激化した。その幹部として、北朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国の独裁者となった金日成も参戦していた。反満州抗日活動がある満州地域に、七戸の中国人農民に相互の監視をさせて共同責任である連座制の保甲制度を導入した。散在して生活していた中国人農民を、約百戸の農家を一ヵ所に集めた集団部落の生活をさせた。中国農民を生地を離れさせて別地に追いやり、匪賊から分離して妨害して協力させなかった。
 関東軍は、保甲制度と集団部落により次第に弱体化した共産匪を1934年10月から徹底的に討伐して、山間地や森林に追い詰めた。1940年2月23日に、吉林省から南に約170kmの朝鮮との国境にある白頭山に、共産匪の司令官である楊靖宇(Yang Jingyu)は包囲された。関東軍の討伐隊は、川原に追い詰めて射殺した。討伐隊は、楊靖宇の死体を回収してから断頭して、頭部は公開処分された。満州の共産匪を掃討して壊滅させた。



2019年7月11日木曜日

イラクのモスルにて、イスラム国兵士の首から断頭された死体が、弾痕の壁に向けて倒れて放置された。

イスラム国(ISIS)の兵士の首から断頭された死体が、2016年12月頃に弾痕の壁に向けて倒れて放置された。イスラ国兵士の死体の側に、切断された頭部が転がっていた。約1万人から構成したISIS軍は、約40万人の市民を人間の盾してモスルを防御した。市民が生活する市街地で、無差別で悲惨な紛争が長期化した。モスル市民は閉じ込めたイスラム教徒の寺院であるモスクが、防波堤にされた。モスルは銃弾の瘢痕だらけで、建物も崩壊した。紛争に巻き込まれ兵士よりも多くの市民の死体が散乱して、腐敗した死臭が停滞した。
 イスラム国(ISIS: Islamic State of Iraq and Syria)は、イラク戦争後からイスラム教のスンニ派が支配して、国際テロ組織であるアルカイダから2004年に分派した過激組織が起点となった。イスラム国は、イラクの約100万人以上の北部の都市であるモスルで、2014年7月に最高指導者のアブバクル・バグダディが国家の樹立を宣言した。イスラム国は、イスラム市民を無差別に奴隷にして処刑などによる恐怖政治に基づく独裁国家となった。イスラム国は、インターネットによりSNSでプロパガンダを国際的に拡散した。2015年1月には日本人も巻き込まれて拘束された民間軍事会社の湯川遥菜とフリージャーナリストの後藤健二が、イスラム国軍兵士により断頭されて虐殺された。さらにイスラム国の勢力が拡大して、2015年5月には紛争中のシリア領にまで占領した。2016年10月からイラク軍とアメリカ軍らの有志連合などが、イスラム国の主要拠点であるモスルの奪還の戦いを主導した。イラク軍らがモスルの東南側から、シーア派民兵軍が西側から、北東側からはクルド人部隊がイスラム国の奪還を展開した。イラク軍が2016年11月23日にモスルを完全に包囲して、モスルの一部を制圧した。2018年12月19日にアメリカ軍はイスラム国を撃破を宣言して、シリア北部のクルド人地域からの突然の撤退を開始した。



2019年7月10日水曜日

日露戦争の金州・南山の戦いで、多数のロシア軍兵士が銃殺あるいは刺殺された死体が捨てられたまま散乱した。

日露戦争において中国の遼東半島の金州・南山の戦いでは、約500人ものロシア軍兵士が戦死傷した。戦場に多数のロシア軍兵士が銃殺あるいは刺殺された死体が捨てられたまま散乱した。遼東半島のロシア軍の主力が大連と旅順から北西の金州と南山に向けて1904年5月10日から侵攻した。旅順と大連は、要塞化した金州と南山を通じて中国大陸と連結した。日本軍は、5月25日から26日まで金州・南山の戦いが勃発した。5月25日に金州城内に侵攻して、ロシア軍は撤退して南山の主力に合流した。5月25日から26日まで南山にも突撃する日本軍兵士は、南山には遮蔽物が少なく、ロシア軍からの攻撃の犠牲になり戦死傷者が続出した。日本軍司令部は、いかなる困難があっても、突撃と前進を命じた。重なり合う死体を乗り越えて突進する日本軍に対して、ロシア軍兵士には突然の退却の命令が出された。退却の命令も届かず、陣地に留まったロシア軍兵士は殺害された。
 ロシア軍は旅順の戦いに向けて、深夜に山間路を総退却した。戦場に放置されてままで遺棄されたロシア軍兵士の死体は約500人で、戦死傷は約1,000人に留まった。膨大な日本軍の戦死傷者数は約3,500人から、さらに約4,500人にも達した。5月25日と26日の金山・南山の戦いでは、日本軍兵士の犠牲は、戦死者数は約749人で、戦傷者は約3,458人となり、総計の戦死傷者数は約4,207人となった。両軍ともに次第に戦争の拡大とともに、犠牲者数が増大した。近代戦争となった日露戦争は、金州・南山の戦いから、さらに犠牲者数が数倍もの膨大となる旅順攻防戦に展開された。



2019年7月9日火曜日

ヒトラー・ユーゲント親衛隊の若いドイツ軍兵士は、フランスのモルテンで破壊されたハーフトラックの横で戦死した。

ヒトラー・ユーゲント親衛隊の若いドイツ軍兵士は、フランスのモルテン付近で、破壊されたハーフトラックの横で1944年8月6日に戦死した。広範囲のルッチッチの反撃で8月6日から8月22日までファレーズ・ポケットの戦いが勃発した。ナチ・ドイツの独裁者であるアドルフ・ヒトラーは、第2次世界大戦後期の1944年8月6日に、コタン半島のオペレーションコブラとブルターニュへの連合軍の侵攻を排除するために、フランスのモルタン附近で大規模なルッチッチの反撃を命じた。最前線でアメリカ軍の掃討により、ドイツ軍は悲惨な殺戮されたファレーズ・ポケットの戦いで膨大な戦死傷者を出して完全な撤退をした。大量殺戮から避難したフランス人市民も無差別に戦闘に巻き込まれた。ティヴ川から頭部に敗走するも、峡谷にはドイツ軍の戦死傷者が高く積み重なった。ドイツ軍の約1,2000死体と、膨大なドイツ軍の武装車両が破壊され、約1万頭の軍馬も殺戮された。野原も畑にも悲惨な死体が散乱して、悪臭が漂い、焼け焦げた車両などが散在した。連合軍はフランスへ進撃して、約3日後の8月25日にパリが解放した。
 ヒトラーユーゲントは、1926年に設立されたドイツのナチス党内の青少年教化組織で、1936年のヒトラー・ユーゲント法で国家の唯一の約800万人の青少年団体となり、1944年に国民突撃隊(SA)に併合した。さらに16歳以上の未成年で編成されたヒトラー・ユーゲント親衛隊である第12-SSは、東部戦線と西部戦線の両方で残虐行為と多くの戦争犯罪を犯した。フランスで行った残虐行為において、1944年6月9日に、フランスのチュールで約99人のフランス人市民が絞首刑にされ、148人が攻撃の報復のために、ダッハウに強制収容された。1944年6月10日に、フランスのオラドゥール・シュル・グラヌのを全焼して、約642人のフランス市民が虐殺された。



2019年7月8日月曜日

トゥラン・スレン 監獄で、多数の処刑されたカンボジア市民らと彼らの死体の写真が残存していた。

カンボジアのクメール・ルージュのポルポト政権により、膨大なカンボジア反活動市民らから幹部までも処刑された。189の監獄のうちで、最大であったトゥラン・スレン (Tuol Sleng) 監獄の写真室から、一部の処刑された人々の処刑日と名前と囚人番号のカードなどが発見された。さらに残酷な拷問から強要された自白などにより死刑になったカンボジア反活動市民らの絞殺などによる死体の写真も見出された。フランス人系あるいは中国系カンボジア市民などの写真も混在していた。一部の死体には、処刑の年月日などを記載した名札を付着していた。ポルポト政権の処刑担当者が、処刑された死体を撮影していた。
 写真撮影室には、多数の処刑されたカンボジア市民らと彼らの死体の写真が残存していた。死刑を執行すねる直前に、名前と処刑年月日を記載したカードを持たせて、生前の正面と横からの顔写真を撮影していた。写真室には、目印のカードや顔写真などがの残存していた。処刑された囚人の写真の中には、記念写真も含まれていた。さまざまな死刑後の死体の写真も残存していた。首吊りの縄が首を絞殺したり、大きな傷口のある死体が撮影されていた。ポルポト政権が、敵対勢力となる可能性のあるカンボジア市民や容疑者を徹底的に虐待と虐殺して、恐怖政治が支配した。
 トゥラン・スレン監獄は、クメール・ルージュ支配下のカンボジアにて設けられていた政治犯収容所であった。クメール・ルージュは、プノンペン郊外の高校を1976年にS-21 (Security Prison 21)と改名し、拷問、尋問の虐待と虐殺および執行のトゥラン・スレン監獄とした。入所した約14,000人のうち7人のみが生存した。クメールルージュは、囚人の大多数を撮影して、回収された約6,000人のS-21写真は悲惨な写真記録であった。その虐殺された死体の残酷な骸骨は集団墓地から発掘された。1979年1月7日にベトナム軍がプノンペンを侵略した時に、死体の悪臭からトゥラン・スレン監獄が摘発された。



2019年7月7日日曜日

オランダ人の父親はキーストーンで、路上に横たわる小さな娘の死体を恐怖に怯えてぼうぜんと見つめた。

ナチス・ドイツ空軍が爆撃機を編成して、1940年5月10日にオランダのアムステルダムを猛烈な空爆をした。オランダ人の父親はキーストーンにて、路上に横たわる小さな娘の死体を恐怖に怯えてぼうぜんと見つめた。父親自身も空爆により、頭、腕、足を重症に負傷していた。ドイツのオランダ侵攻するために、ドイツ空軍は、オランダ上空で一日中も爆弾を投下した。膨大な建物が破壊されて、多数の市民が空襲により戦死傷した。オランダのアムステルダムにある青色の橋(Blauwgrug)とヘロン運河の間を不意に空襲された。その当時は、オランダは、ドイツに対して中立宣言をしていた。ナチス・ドイツ軍はオランダに、1940年5月10日に突然に侵攻した。爆撃後から5月17日にオランダはドイツに降伏をした。
    1940年の春に、ナチス・ドイツは勇気にあふれ、征服者として地位を確立し、わずか約100日以内に6カ国を征服することに成功した。1940年4月に、ドイツはわずか6時間でデンマークの首都を侵略した。同時に、ナチスの戦艦と軍隊はノルウェーの海域に入り、船と歩兵を攻撃し、2ヶ月間にわたる対立が勃発した。5月10日に、陸上と空中から200万人以上のドイツ軍兵士が、ブリッツクリーク戦術を使用して、フランス、ベルギー、ルクセンブルク、オランダに侵入した。低地小国の首都は数週間で陥落した。しかし、フランスは6月22日まで耐えてから、その後休戦は署名された。また、この期間中、ソビエト連邦は、エストニア、ラトビア、およびリトアニアで侵攻して、強制的に併合した。夏の終わりまでに、ドイツ軍はイギリスのための戦いを深め、苛立たしく作戦をした。ドイツ軍はオランダ征服後に、他のドイツ占領地域と比較しても、厳しいユダヤ人狩りをした。当時のユダヤ人約14万人のうち約11万人以上が絶滅・強制収容所に送還されて、戦後まで生き延びたのは、わずか約6,000人であった。『アンネの日記』の作者であるアンネ・フランクもアムステルダムで摘発されて虐殺された。



2019年7月6日土曜日

袋町国民学校に救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、肉親を探し求めた多くの伝言が残っていた。(広島)

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの伝言が残った。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残した。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。 
 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。炸裂後にほとんど教職員と疎開しなかった2年生以下の生徒らの約160人は広島原爆で即死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。



2019年7月5日金曜日

スタリノゴルスクの戦いにて、ボロホフカ通りにてソビエト軍兵士がドイツ軍に殺害された死体が積雪して凍結して散乱した。

スタリノゴルスクの戦いにて1941年11月に、ボロホフカ通りにてソビエト軍の第413歩兵師団兵士がドイツ軍に殺害された死体が積雪して凍結して散乱した。スタリノゴスは、現在のロシアのトゥーラ州の頭部にあるノヴォモスコフスクである。ドイツ軍により、1941年11月25日から12月12日まで侵略されて、市街地は壊滅した。侵略されたスタリノゴルスクは、侵略後に約17日間かけて、ソビエト軍により解放された。
  第二次世界大戦にて、ドイツ軍は攻勢してソビエトの首都モスクワに接近した。その防衛のために、ソビエト軍にはシベリアから第413歩兵部隊が合流した。スタノゴルスクにて、ドイツ軍は、ソビエト軍を迫撃砲と戦車で包囲して爆撃した。ドイツ軍は、補給も途絶えて旧式な武力により弱体化したソビエト軍を直撃して壊滅した。約1週間の戦闘で、ほとんどのソビエト軍兵士は殺害されて、約16,000人のうち約6,000人が戦死傷した。ドイツ軍の侵攻により川中に挟まれたソビエト軍兵は、シベリア兵士は11月の寒気の中でも川に飛び込み、顔だけを水面に接して、数時間も水中で呼吸しながら潜めた。さらに撤退して残存した多くのソビエト軍兵士はドイツ軍の捕虜になった。ソビエト軍が12月5日にモスクワからドイツ軍を反撃して、12月12日にスタリノゴルスクを、12月16日にトゥーラを解放した。




2019年7月4日木曜日

沖縄戦において、神風特攻隊が駆逐艦ブレインに突入し船体に激突して爆発して破砕されて甲板にめり込んだ。

沖縄戦において、日本軍の特別攻撃隊(特攻)の航空機が、アメリカ軍の戦艦に自殺的行為となる自爆攻撃を敢行した。1945527日に神風特攻徳島第三白菊隊、陸軍振武隊が、午前744分に駆逐艦ブレインの船体に突入した。駆逐艦ブレインには2機が命中にて大破して、アメリカ軍兵士は約50人が戦死して、約78人が戦傷した。
 必死となる神風特攻機が船体に激突して爆発してこなごなに破砕されてめり込んだ。船体内には、自爆した特攻機は甲板を貫通して、原型を留めないで、発動機が粉砕して散乱した。飛行機を操縦していた日本軍兵士の身体はばらばらに破裂して戦死して粉砕して焼失した。航空機による体当たり自爆攻撃は、19441019日に特攻を指令された江田島の海軍兵学校卒らにより1020日に零戦を改修した神風特攻隊が編成されたのが始点となった。
 太平洋戦争の末期となった沖縄戦にて、日本軍は194546日から622日まで断続的に特別攻撃隊による自爆攻撃をアメリカ軍の戦艦に突入させた。沖縄戦の特攻により、日本海軍兵士は約2,045人、日本陸軍兵士は約1,022人の総計約3,067人が戦死した。アメリカ軍の戦死者は約4,907人と戦傷者は約4,824人と上回った。日本軍の大本営は、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した41日に陸海軍全機特攻化を厳命した。特攻機は次第に、アメリカ軍からの徹底した猛烈な対空射撃により、撃墜されて操縦不能となり海中に水没死する頻度が高くなった。海軍は約940機と陸軍は約887機の総計約1,827機に対して特攻を指令して敢行させた。命中したのは、わずか133機であり、命中率は約7.3%に過ぎなかった。



2019年7月3日水曜日

第二次上海事変にて、日本軍に対する中華民国軍の爆撃により、大世界で上海市民が大量虐殺された。

日中戦争における第二次上海事変にて、日本軍に対して1937年9月3日に上海の大世界において中華民国軍の爆撃により、上海市民が大量虐殺された。上海の路上には、上海市民の死体が散乱して、死屍累々たる惨状となった。
 日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件により勃発して上海まで波及した。8月12日に中国民国軍が、上海共同租界の日本軍を包囲して上海事変に陥った。1937年8月14日に中華民国の爆撃機が、上海市内の日本海軍陸戦隊の本部などを爆破した。上海市内の繁華街で約200人以上の上海市民が死傷して大惨事となった。中華民国軍からの爆弾は、大世界の入り口や南京路外灘にも投下された。日本軍の攻撃による中華民国軍の破損による誤爆と逆説もされている。
 国際的にアメリカの写真通信社のACME(UPI通信社の前身)が発信して、日本軍に対する国際的批判が巻き起こった。ACMEによれば、上海市民が数百人死亡した現場である。日本軍の猛烈な対空砲火から逃れようとして、大混乱に陥った上海市民に対して、中華民国の爆撃機から爆弾が投下された。上海の大世界は、歓楽街であり、多数の上海市民が集合していた。イギリスやアメリカから発信されて、中華民国軍の爆撃ではなく、日本軍の非人道的行為のみが強調された。日中戦争により、中国の各地での死闘により、多くの市民が巻き込まれて悲惨な犠牲者となった。日本と中国の全面戦争に拡大して、時期尚早に対米戦争への突入の起因ともなった。



2019年7月2日火曜日

沖縄戦にて日本軍兵士が夜襲をかけて突撃して、アメリカ軍により殺害されて、死体が荒野に散乱した。

沖縄戦にて1945年4月11日に、日本軍兵士がアメリカ軍に対して突撃する夜襲をかけて、アメリカ軍により殺害された。多くの日本軍兵士が壊滅した戦死体が、荒野の路上に散在した。
 日本軍兵士は、4月4日夜からの突撃の命令に基づき、日本軍は壊滅して戦死者数が増大した。突撃によりほぼ全滅状態に陥って、突撃して一時的に占領するも、夜明けとともにアメリカ軍の集中砲火をうけて壊滅した。アメリカ軍の猛烈な反撃により日本軍兵士は撤退に追い込まれた。軍司令部は、4月13日に総突撃を中止して、玉砕ではなく、持久戦の展開を決定した。なお残存する日本軍兵士と足腰の立つ沖縄住民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、死闘を続ける方針となった。日本軍の総攻撃の中止と戦力が極度に低下したことで、沖縄戦の敗北は確実となった。これ以降、沖縄住民を兵力として使用し、沖縄島の南の端まで追い詰められても持久戦を継続すると決定した。沖縄戦は市民を巻き込んだ沖縄での死闘となった。
 この最終攻撃では、浦添や西原の村々に留まっていた女性や高齢者、子どもが多数戦闘に巻き込まれ死傷した。日本軍による食糧強奪や壕からの追い出しも多発して、戦場に残った市民が犠牲となった。特に、浦添村の安波茶で約157人(人口の約75%)、宮城で約309人(約70%)、前田で約551人(約60%)、仲間で約316人(約62%)が殺害されて、住民の過半数以上が犠牲になった。日本軍内にて、異常な狂気となる精神状態や疑心暗鬼、極度の住民に対する恐怖から、住民に対する虐待と虐殺が多発した。沖縄市民に対する多分な人種・民族的な差別・蔑視・偏見に基づいた虐待と虐殺がも散らされた。日本軍司令部が6月23日に摩文仁で自決して、日本軍の統制が消滅して、沖縄戦の死闘は終結した。