2019年5月31日金曜日

ロシア内戦でタンボフ反乱を起こした農村の農民は、1920年代にボリシェビキを首吊りで虐殺した。

ロシア内戦によって、タンボフ反乱を起こした農村部の村人たちは、1920年代にボリシェビキ派を首吊りにて虐殺した。ボリシェビキは、モスクワの南400kmにあり、豊かな土壌を保有し、農業が盛んなタンボフに、約50回も食料徴発部隊を派遣して、農民を追い詰めた。飢え死なく穀物を自由にする共和国の独立のために、遂に農民蜂起をした。1920年から農民の反乱は頻発して、反乱軍は約3万人に膨れた。
 だった。タンボフも日照りが続き、農民は飢えに苦しんだ。レーニンは約10万人の赤軍をタンボフに派遣した。ボリシェビキは農民たちを弾圧して、都会市民は飢えに追い込んれ、農民への憎悪が暴発した。ボリシェビキ政府は対立を利用して、反革命勢力の撲滅をした。農民は赤軍に逮捕され虐殺され、死体は放置され腐敗した。蜂起した農民と家族は連行されて、拷問と虐待を受けて虐殺された。ボリシェビキ政府は、追い詰められた農民が隠れた森に毒ガス攻撃が行われ、あぶり出され呼吸困難で絶命した。約14,000人の農民が殺され、反乱は鎮圧された。タンボフ県は分割され、近隣の州に付けられ、地図から抹消された。
 ボルシェビキに対する農民の反乱は、1920年から21年のタンボフ反乱に対して、ボルシェビキ政府は容赦なく対抗して、強制収容所と毒ガスの使用により何十万人もの農民が殺害された。農民の蜂起と弾圧の下で、ボルシェビキ指導者たちは農民に対する政策を改変した。ボルシェビキの支配に対する農民や市民からの脅威が減少しても、共産党の独裁政権または抑圧を放棄しなかった。ソビエト内戦時代には、ジョセフ・スターリンが後になって残虐行為の作戦を遂行した。虐殺するために使用する収容施設が設置された。農業社会から現代の工業国を急速に創出するために何百万人もの農民を虐殺した。



2019年5月30日木曜日

ミャンマー軍兵士が夜間に少数民族のカレン民族の農村を襲撃して、約12人のカレン人を山林で虐殺した。

ミャンマー南東部に居住しているカレン民族は、2002年にミャンマー軍兵士により夜間に農村が襲撃された。約12人のカレン人がミャンマー国軍により山林で虐殺された。虐殺されたカレン人の死体は、山林に運搬されて横並びにされた。
 日本軍が1942年にビルマに侵攻して、1948年にビルマはイギリスから独立した。ビルマは、イギリスを支援したカレン民族やシャン民族などの少数民族を含めなかった。カレン族は約500万人で、ミャンマーの総人口の約7パーセントを占めた。多数のカレン民族は、タイとミャンマー国境に避難した。主にカレン民族のカレン国民連合(KNU)は、1949年からビルマ政府に国境地域で独立戦争をした。KNUは、1976年から独立ではなく連邦制を求めた。1990年から天然ガスパイプラインが追加させるため、カレン民族を強制移住させて、KNUの掃討作戦が開始された。多くの難民が発生して、1995年にKNU本部は占領された。1998年には国連によりタイの西側2か所に難民キャンプが設置された。タイに脱出したミャンマー難民のうちカレン族は約20万人規模に及ぶ。
  ミャンマーでは1947年の独立以来、カレン民族同盟(KNU)のカレン民族解放軍及びカレンニー民族進歩党のカレンニー軍が、軍事政権国家平和発展評議会及び民主カレン仏教徒軍に対して国境地域にあるコートレイ解放区で独立闘争を行っている。KNU傘下の難民委員会の援助によって戦乱を避けて、1984年からタイに流入した難民は、1980年から90年のタイ経済の好調に乗って安価な労働力を提供した。マヌプロウのKNU本部の陥落後に難民は急増した。1998年には国連によってタイの西側2か所に難民キャンプが設置された。国外に脱出したカレン族の中には、国際社会にミャンマーの現状を伝える外部圧力団体として活動している。




2019年5月29日水曜日

アメリカ軍の爆撃によるイラク人の少年の重症の火傷の処置で、激痛で苦しみ悲鳴を上げ、父親は泣きながら少年の手を握った。

イラク戦争におけるアメリカ軍の爆撃により、2004年3月にイラク人の少年が、顔面から肩にかけて重症の火傷を受傷した。カルラバの病院で火傷の処置のために、イラク人の少年は、病院の職員が包帯を取り替えるたびに、激痛により苦しんで悲鳴を上げた。少年の父親は、泣きながら少年の手を握って忍びながら嗚咽した。
 イラク戦争によって、無差別にイラク人の子どもたちも、巻き込まれて犠牲となった。イラクの病院や救護所では、悲鳴を上げている子供、泣きじゃくる子供、意識を失いかけている子供、血まみれになった子供、重態となって死にかけている子供が、生き地獄をさまよった。イラク戦争によってイラク全土は、最も危険な地域となり、治安も悪化して、さらに占領軍と政府軍は、イラク市民を横暴に支配した。イラク戦争する正義は皆無であり、平和の破壊者に対するイラク市民の憎悪と応酬により、さらに平和を崩壊することになった。2014年以降には紛争の激化は壊滅的な被害をもたらした。
 ユニセフ報告書「子どもたちへの重い犠牲(A Heavy price for Children, UNICEFF, 2016年10月)」によると、イラク戦争により、人道支援を必要とする子どもは、イラクの子どもの3分の1に相当する約470万人に達した。ファルージャやモスル周辺の軍事作戦によって、多くの家族が崩壊した状況に直面した。イラクの子どもたちは、イラク戦争の最前線に立たされ、繰り返し、容赦なく標的にされ、地雷や爆発物により絶えず危険にさらされた。戦闘員や自爆テロなど最前線での活動の支援を余儀なくされた。 すべての戦争の当事者たちは、暴力を止め、子どもたちを守り尊重しなければならない。子どもたちが戦争の恐怖から立ち直り、より平和で豊かなイラクに貢献するのに必要な支援を提供しなければなりません。



2019年5月28日火曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、日本軍兵士が戦死や病死した死体に蝿が集り腐敗していた。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、日本軍兵士が戦死や病死して、1943年1月30日に死体に蝿が集り腐敗していた。ガダルカナルの戦いでは、戦闘だけでなく、飢餓とマラリアや赤痢などの病死から膨大な日本軍兵士の戦死者の死体が放置されて散乱していた。
 ガダルカナル島の戦いで、日本軍兵士は食料と武器の供給が途絶えて「飢餓による死の島」となった。ガダルカナル島は、日本から約5,000km離れた南太平洋のソロモン諸島で最大の島である。日本軍は1942年7月に島に飛行場の建設して、1か月後に連合軍が占領した。日本軍が1942年8月27日に奪還のため島に上陸した。
 日本軍兵士は、食料も武器も捕獲できず、すぐに枯渇した。連合軍からの激しい射撃で、日本軍兵士はジャングルの中へ逃避した。限られた食料で殺害され、重病になり、理性を失い、何もかも食べ尽くし、人間性が崩壊した。立つことができる人は約30日、起きることができる人は約3週間、立つことができない人は約1週間、寝転ぶ人は約3日、話すのを止めた人は約2日、まばたきを止めた人は明日までに死亡すると死期を日本軍は予測していた。
 約60,000人のアメリカ軍と連合軍は約6,842人が戦死したのに対して、日本軍は約36,402人の兵士を派遣し、約22,493人が戦死した。死者の4分の3が非戦闘死亡者で、飢餓と病気が主な死因となった。日本本土に帰還して生き延びた日本軍兵士は、さらに警察や軍隊からガダルカナル島の悲惨な戦争を極秘にするように脅迫された。




2019年5月28日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 220,000回

2019年5月27日月曜日

イラク戦争後に、反政府ゲリラの若い青年のイラク人は、約5発以上も身体に被弾して、多量の出血を伴って戦死した。

イラク戦争後に、アメリカ軍が反政府ゲリラのイラク人を銃殺した。反政府ゲリラの若い青年は、アメリカ軍兵士に対して狙撃していた。アメリカ軍から銃弾をすくなくとも約5発以上も身体に被弾して、上半身から腹部から多量の出血を伴って戦死した。
 戦争社会では、殺害し合って生命を奪い合うことは戦場と軍組織の目的でもあり、殺害者には名誉と称賛を与えられる。平和社会では、どのような状況であろうとも、殺人は最高の犯罪であり、裁判官と弁護人の裁判で量刑が裁定される。戦争の真実を可及的に守秘して避けている。戦争の暴力が、どのよな惨劇を引き起こすのかを省略してぼやかしている。
 軍人らは、人間性に疑問を持たずに、やがて人間の良心との呵責も無視して、人を殺した高揚感から罪悪感や後悔も抱かない。戦場では、瞬間に戦闘員と民間人を判断して、殺人を実行する。戦場には、道徳的、倫理的、法的、戦術的、技術的な見地を消失していた。自分が相手から殺される理由から、自分の判断で相手を撃つ。
 古代のイランには紀元前30世紀からアケメネス朝ペルシャ王国があり、その都のスーサから、ハンムラビ法典碑が発掘された。「目には目を、歯には歯を」は、ハンムラビ法典196・197条にある。195条は子がその父を打ったときは、その手を切られる。205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られる。犯罪に対して厳罰を与えた。195条は子がその父を打ったときは、その手を切られる。205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られる。犯罪に対して厳罰を与えた。戦争では、戦場の犯罪も、人には人、武器には武器で、平和市民に対しても厳罰を与えた。



2019年5月26日日曜日

マニラの戦いにて、日本軍は1945年2月8日に約90人のフィリピン市民をゲリラ容疑者として溝の中で虐殺した。

太平洋戦争にて、マニラの戦いにて、日本軍は1945年2月8日に約90人のフィリピン市民がゲリラ容疑者として、溝で虐殺した。
 アメリカ軍は日本軍が占領するマニラ市内に1945年2月4日に侵攻した。マニラ市内の市街戦の前後に、多数のフィリピン市民が犠牲になった。日本軍は、マニラ周辺から市街地のフィリピン人も巻き添えにして大量虐殺した。撤退せずにマニラを死守していた日本軍の陸軍約4,000人と海軍16,000人は、アメリカ軍に徹底抗戦をした。1945年2月3日から3月3日までのマニラの戦いにより、約100,000人が殺害された。
 連合軍は1949年4月に、日本軍によるマニラの惨劇を裁判記録を公表した。約1,000人のマニラ市民が避難したスペイン人居住区教護院を放火した。約2,000人のマニラ市民が避難したコンコルディア学校を放火した。約50人が避難したスペイン領事館は、放火して庭園で殺害した。約60人のマニラ市民が避難していたラサール学校にて虐待と虐殺された。約123人のスペイン人は潜んだ避難壕に投げ込まれた手榴弾で虐殺された。日本軍兵士が赤十字病院に在院者を虐殺した。約400人のフィリピンあるいは中国人がサンチャゴ堡塁で虐待されて虐殺された。約100人のマニラ市民が、サン・ラゾロ病院前の大通りで機関銃で銃殺された。多くの婦女子を含む約49人のマニラ市民が、トンド区の材木置場で虐殺された。約26人のマニラ市民の退避所で、虐殺された。フィリピン市民の5人の少女が強姦されて、さらに約13人が火傷と刺傷から切断の虐待された。
 アメリカ軍は長崎原子爆弾の投下を、キリスト教義によって身代わり償いと解釈した『長崎の鐘(永井隆著)』の付録に、マニラの悲劇を強制して出版させた。長崎の鐘は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の厳しい2年間の検閲が行われた。日本軍が1945年2月のマニラの悲劇の口述宣誓をGHQ諜報課が編集した。長崎の鐘が160ページ、マニラの悲劇が159ページの合本となった。いかなる教義と逸脱による言い訳をしても、身代わりの償いを犠牲にして、戦争の真実と悲劇は決して正当化できないと平和市民は悟った。



2019年5月25日土曜日

シリア内戦にて、シリア政府と反政府勢力との悲惨な戦闘により膨大な犠牲者の死体がアレッポに散乱した。

シリア内戦にて、シリア政府と反政府勢力とが、シリア北西部のアレッポで悲惨な戦闘による膨大な犠牲者が出た。アレッポの戦いにて、2012年12月30日に、戦闘の最前線における街路に、殺害された死体が散乱した。死体は狙撃等の恐れから、回収できずに道端に放置されてミイラ化した。
 シリア内戦は、シリアで2011年3月15日に勃発した動乱からシリア政府軍とシリアの反体制派及び同盟組織などによる内戦である。その由来は2010年12月17日の26歳の青年の焼身自殺からチュニジアで勃発したジャスミン革命の民主化運動によるアラブの春から派生した。シリア内戦にてアレッポの戦いは、2012年から2016年にかけてシリアの人口が最大都市のアレッポで戦闘があった。政府軍は反政府勢力の撲滅のため、都市部と地方を爆撃して犠牲者はさらに増えた。シリアの政府軍と反体制派がアレッポ市内を東西に分断して、長期に渡り激しい軍事衝突を繰り返した。長引くシリア内戦により最大で約50万人が殺害され、最悪の難民危機をもたらした。アメリカは反政府勢力を支持して、ロシアとイランが支援する武装勢力が、政府軍を支えた。最終的にはシリア政府軍が勝利を収めた。
  シリア政府と反政府勢力の内戦が継続して、シリア情勢が悪化するほど、イスラム国の支配領域が拡大した。危険性が増悪するために、シリア内の悲惨な情勢と犠牲はほとんど不透明となった。日本人の湯川遥菜さんが2015年1月24日に、後藤健二さんは2月1日にイスラム国に断頭されて虐殺された。



2019年5月24日金曜日

日本軍が朝鮮半島に敷設した鉄道の線路を引き抜いた容疑で、3人の朝鮮人たちが逮捕されて銃殺された。

日本軍が朝鮮半島に鉄道を敷設すると土地を差し押さえられて、何の補償も受けれなかった3人の朝鮮人たちが、1906年に鉄道の線路を引き抜いて逮捕されて、銃殺された。
 1910年8月29日の日韓併合後に、日本は朝鮮の伝統と文化を抑圧して、主に日本の利益のための政策を策定して実行することに着手した。朝鮮から資源と労働力を引き出すために、欧米の輸送と通信網が、朝鮮半島の全域に構築された。銀行業務は統合され、朝鮮の通貨は廃止された。日本人は朝鮮人の階級を取り去り、景福宮の大部分を破壊して、政府の事務所に置き換えた。
 1906年に日本人の土地所有権が正式に合法化された。1894年の日清戦争から多くの日本人の移住者は朝鮮で農地を取得した。朝鮮の多くの元地主と農家は、ほぼ一晩で権利を失った後に、小作農家になった。1910年までに、朝鮮の全耕地の7〜8%が日本の支配下に入り、その比率は着実に増加した。1932年までに、日本の土地所有率は約52.7%まだ増加した。朝鮮では、土地所有者はほとんど日本人となり、ほとんどの朝鮮人は小作農となった。朝鮮人の小作農は、家賃の半分以上を作物で支払わなければならず、多くの朝鮮人が妻や娘を工場や売春に送って税金を払うことを強制された。1930年代までに、都市経済の成長のために都市に農民が流出した。
 1919年1月21日に高宗皇帝が中毒の噂の中で亡くなった後、3月1日に日本に対する独立集会が全国的に行われた。この三・一独立運動は日本軍が強制的に抑圧して、朝鮮人の約7,000人が日本軍の兵士と警察によって殺害された。独立運動は、1919年1月8日のアメリカ合衆国のウィルソン大統領の演説に部分的な影響を受けて、自決権の支持と欧米の植民地支配の終結を宣言した。大韓民国臨時政府は、3月1日の独立運動の余波で、1919年4月11日に中国の上海に建国されて、日本の植民地支配に対する解放と抵抗運動をした。暫定政府は、1919年から1948年まで政府の正当性は大韓民国憲法の前文に記された。
 3月1日の独立運動によって、朝鮮民主主義人民共和国に対する朝鮮人の憤慨が日本に向けて急増して、日本軍と警察は、令状なしに侵入して探索あるいは罪状を捜査する権限を与えられた。裁判なしでその場で判決された。逮捕の後に、朝鮮人から犯罪の「告白」を得るのも警察の権限となった。「告白」は朝鮮人に対する拷問による虐待と虐殺で強要した。


2019年5月23日木曜日

南アフリカのソウェトで、警察官が抗議行動に参加した学校の黒人生徒たちに無差別に虐待と虐殺した。

南アフリカのソウェトの黒人居住区で、南アフリカの警察官が1976年6月16日にアパルトヘイトの抗議行動に参加した学校の黒人生徒たちに無差別に発砲した。学生らは南アフリカの黒人学校の教育言語の強制に抗議しながら、アパルトヘイト警察によって虐待と虐殺された。
 警察により虐殺されたのは12歳のヘクター・ビーターソンだった。高校生のムブイサ・マクブによって死体が運ばれた。彼の姉であるアントワネット・シトレは一緒に側を走った。ヘクター・ピーターソンの死体は、アパルトヘイト体制の下での人種差別の象徴となり、残虐行為を世界に発信したアパルトヘイトの象徴となった。
 ソウェトの学生たちは黒人の学校での指導言語としてのオランダ語系のアフリカーンス語の導入に反対して、平和的な街頭抗議をした。アフリカーンス語は、人口過密でスラム化した乏しい予算の黒人学校を支配する言語であった。学生たちはオーランドスタジアムで集会する前に、バンツー教育省の地方事務所に行進した。スタジアムに行く途中で、学生らは警察当局に遭遇して衝突した。約300人の警察は
約10,000人の黒人学生らに行進を終えて解散するよう命令した。しかし、黒人生徒らは石を投げて、警察が無差別に発砲する激しい戦闘が勃発した。黒人が約500人が死亡して、約2,000人が負傷した。
 ソウェトでの出来事のニュースはすぐに国内外に広まり、南アフリカのアパルトヘイト政府と警察の虐待と虐殺に対して世界中から抗議が殺到した。6月19日に国際連合安全保障理事会は、南アフリカ非難制裁決議を全会一致した。虐殺されたヘクター・ピーターソンと彼の姉であるアントワネット・シトレと、一緒に運んでいる高校生のムブイサ・マクブによって運ばれているヘクター・ピーターソンの死体と彼の姉であるアントワネット・シトレは、アパルトヘイト体制の下での抑圧と残虐行為の象徴となった。



2019年5月22日水曜日

イラク戦争にて、アメリカ軍海兵隊の衛生下士官が、瀕死の戦傷を受けたイラク調停軍兵士を緊急処置をした。

イラク戦争にて、アメリカ軍海兵隊の衛生下士官が、2005年9月4日の戦闘により瀕死の戦傷を受けたイラク調停軍兵士を緊急処置をした。イラク人兵士は、多国籍軍がイラク市民に救助物資を配分しているときに、反乱武装勢力のテロリストによって襲撃された。イラク反乱武装勢力は、多国籍軍から金銭を受理した民間市民を襲撃した。この戦闘で、多国籍軍兵士の戦死者の約1人、戦傷者の約40人、民間市民は約8人が犠牲となった。
 2003年3月20日に勃発したイラク戦争から、テロリストに対する21世紀の戦闘は、主に都市部で発生した。都市部の戦闘では、民間市民もテロに巻き込まれる。テロリストが民間市民に扮したり、民間市民がテロに参加するなど不明瞭となった。非戦闘員に対する無差別爆撃は国際法で禁止されるも、テロリストは国際法を遵守しない。外国人部隊である多国籍軍に対する地域市民の反感が高まってくる。一部の民間市民から背後を攻撃される。民間市民の姿による突然の攻撃や自爆テロを防御するのは困難である。




2019年5月21日火曜日

レニングラード包囲戦に参戦したスペイン義勇軍兵士が、出口にドイツ軍兵士の死体が散乱した塹壕から両手を上げてソビエト赤軍に降伏した。

第2次世界大戦の東部戦線におけるレニングラード包囲戦に参戦したスペイン義勇軍の兵士が、塹壕から両手を上げながら出て、1943年2月10日にソビエト赤軍に降伏した。塹壕からの出口には、多数のナチス・ドイツ軍の親衛隊の戦死した死体が散乱していた。ソビエトの内務人民委員部(NKVD)は、降伏したドイツ軍兵士は捕獲せずに、その場で射殺する指令を出していた。
 スペインは青師団と呼称されて、第二次世界大戦中に東部戦線におけるドイツ軍に国軍ではなく青師団と呼称された義勇兵を参戦させた。スペインは西部戦線の連合軍とは対戦せずに、東部戦線のソビエト共産主義のみに約45,000人のスペイン義勇兵が対戦した。レニングラード包囲戦には、1942年8月から1943年10月まで参戦して、戦死者は約4,954人と戦傷者は約8,700人に達した。
 レニングラード包囲戦は、ナチス・ドイツ軍が1941年9月8日から1944年1月18日までの872日にわたり、レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲して、ソビエト赤軍とレニングラード市民の約150万人が犠牲となった。ソビエト赤軍は1943年1月12日にイスクラ反攻作戦を決行して、1月18日に完全に周囲から包囲されて陸の孤島と化していたレニングラードに続く陸上ルートが確保されて、ナチス・ドイツ軍の包囲線が一部消滅した。さらにソビエト赤軍は1943年2月10日にクラスノボルスカヤ作戦にて、レニングラードを包囲しているナチス・ドイツの第18軍部隊を攻撃した。その結果、ソビエト軍が一時的にレニングラードから約5km離れた地点でナチス・ドイツ軍を撤退させた。その後にナチス・ドイツ軍は増援を受けて、それ以上にソビエト赤軍は侵攻することはできなかった。その戦闘では、ソビエト赤軍兵士は約10,000人が死亡や行方不明となり、ナチス・ドイツ軍部隊は約3,600人の兵士が戦死して、その一部はスペイン義勇兵が含まれた。



2019年5月20日月曜日

アメリカ海軍は沖縄沖で沈没した特別攻撃機を引き上げて、操縦士の遺体の検死をして、無残な死体を太平洋に投げ入れて水葬した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、日本軍の特別攻撃機による体当たり攻撃がアメリカ海軍の艦艇に突撃した。日本軍の一機の特別攻撃機が、沖縄沖でアメリカ軍の攻撃輸送艦のアルパイン(USS Alpine, APA-92)に突入した。特別攻撃機は体当たりできずに、アルパインを飛び越して沖縄沖の海中に墜落した。その後に、アメリカ海軍は日本軍兵士の操縦士を載せて沈没した特別攻撃機を引き上げた。操縦士の遺体の検死をしてから、無残な死体を太平洋に投げ入れて水葬した。アルパインは、レイテ沖と沖縄沖の合計2回の特別攻撃機による攻撃を受けて、戦死者は約21人と戦傷者は約31人に達した。
   1944年10月19日にレイテ沖に向けて特別攻撃がマニラ近郊の航空隊本部で最終決定されて、10月21日から突撃した。レイテ沖では、アルパインは1944年11月18日の午前7時28分に、日本軍の特別攻撃機を発見して、攻撃輸送機の砲手たちは約3,000ヤードの範囲から発砲した。特別攻撃機は右に寄り、右舷から飛び散った。その後、2番目の特別攻撃機が接近して、再び砲撃した。左へ旋回を始めて、全馬力の突入に入ったとき、テールアセンブリの前方に衝突した。高度約1,200フィートで、航空機は炎上しながら、攻撃輸送機のアルバインの左舷側に墜落した。消防隊員は約30分で消火するも、5人の乗組員が殺害され、12人が負傷した。
 沖縄沖では、アルパインはアメリカ軍による沖縄の侵略を支援するために、軍艦に軍事荷物を積み、1945年3月27日から沖縄へ向かった。4月1日の午後7時10分に、日本軍の特別攻撃機機が港湾地区からアルパインに接近した。メインデッキの右舷側にて爆弾が炸裂した。その後、特別攻撃機が戦艦に激突し、2番と3番ホールで爆発した。別の戦艦が並走してアルパインを消防して、火災は沈下した。死傷者の捜索で、約16人の乗組員が殺害されて、19人の乗組員が戦傷した。




2019年5月19日日曜日

ベトナム戦争で戦死したアメリカ軍兵士の死体はまだ死後硬直もなく、移動するたびに鮮血が流れ落ちた。

ベトナム戦争にて、クチのホーボーウッドにおいて、アメリカ軍兵士が1968年に戦死した。森林のジャングルにおける接近戦により、北ベトナム軍兵士らに銃殺された。同僚のアメリカ軍兵士は、戦死した直後の死体を抱えた。死体はまだ死後硬直もなく、死体は移動するたびに鮮血が流れ落ちた。近くの仲間のアメリカ軍兵士は、ヘルメットを取って、目頭を抑えながら慟哭した。
 クチは、南ベトナムから北西へ約70km場所に位置した。ベトナム戦争では、クチには全長約250kmに及ぶ地下に無数にはりめぐらされた地下トンネルにより難攻不落で、鉄の三角地帯と呼ばれた。南ベトナム解放戦線の兵士らは見通せない湿潤のジャングルに身をひそめては、入り込んだアメリカ軍を攻撃するなどゲリラ作戦を展開して、ベトコンの拠点となった。に向けて、クチから出撃して1968年1月31日のテト攻勢した南ベトナム解放戦線は、その直後からのアメリカ軍の無差別な爆撃で大きな犠牲を伴った。その後クチを含むロンアン省には南ベトナム解放戦線が北ベトナム正規軍により再建された。クチ北方のホクモン橋で1968年3月25日に、アメリカ軍1個小隊が南ベトナム解放戦線に攻撃を受けて壊滅した。
 ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上に勃発した宣戦布告なき戦争であった。南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始する1960年12月20日に始まり、1965年2月7日からアメリカ合衆国と北ベトナムの戦争を経て、1975年4月30日のサイゴン陥落まで続いた長期間にわたる悲惨で残酷な消耗戦争となった。北ベトナム軍兵士を抹殺するために、アメリカ軍兵士は最も危険な農村、山岳からジャングルを偵察した。アメリカ軍兵士は、「なぜおれたちはここにいる。おれたちはここで何をしてるのか。いつまで続くのか。戦争では個人の存在が認められない。その疑問がいつも頭の中にある。」とベトナム戦争の正義を見失った。ベトナム戦争の意義もわからず戦い続けるアメリカ軍兵士は戦争の正義を疑い、行動と役割を疑い、徐々に不安と疑惑が増し、士気が低下し、戦う勇気を失った。ベトナム戦争で戦死した味方も敵も含めた人間の悲惨な死体を目撃したことが生き残った兵士にとって、脳裏に深い傷跡となった。



2019年5月18日土曜日

長崎市西坂町26聖人の高台にて、長崎原子爆弾の被爆犠牲者に対するキリスト教による野外ミサが挙行された。

長崎市内に1945年8月9日に原子爆弾が投下して炸裂した。第2次世界大戦後では初めて、長崎市西坂町26聖人の高台にて、長崎原子爆弾の被爆犠牲者に対するキリスト教による野外ミサが1945年3月に挙行された。西坂町は長崎原子爆弾の爆心地から約2.1kmで、一面が壊滅して廃墟となった。被爆後に、西坂町の高台は、被爆者の遺骨の集積と埋葬の丘となった。
 キリスト教を京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が、1597年2月5日に豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、十字架の磔で処刑された丘であった。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似て、キリスト教信者達がこの地を処刑の場に願い出た。26聖人の殉教以降も多くの人々が、火あぶり、水責め、穴吊りなどでこの地で虐待と虐殺の処刑がされた。第2次世界大戦後に、原子爆弾の被爆から復興して、殉教地であった小高い丘を公園にかえて、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定した。26人の殉教者は、1862年に列聖となり、100年目の1962年に26聖人等身大のブロンズ像嵌込記念碑と記念館が西坂公園に建立された。1950年には、ローマ教皇・ピオ12世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めた。



2019年5月17日金曜日

日露戦争の遼陽の会戦にて、黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した

日露戦争の初戦の遼陽会戦において、戦場となった黒英台附近の戦状では、1904年9月4日の黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した(「日露戦争写真画報, 第14巻」)。荒野に散乱した戦死者の死体を検死して処理をした。戦場では日本軍兵士は死と隣合わせであることを、残酷で悲惨な日露戦争の結末を示した。戦争による死の真実は、百聞は一見にしかずである。日露戦争で戦勝している場合には、戦争をより誇張と称賛するために、戦死者の真実を捧げた。しかし、厳しく不利な戦争になるに従って、戦死者の真実は隠蔽されて抹消された。
 日露戦争の初期に、ロシア軍は約158,000人を中国東北部の遼陽付近に布陣して、日本軍は約125,000人と遼陽会戦した。日本軍は、1904年8月26日に夜襲して弓張岑付近のロシア軍前進陣地を占領した。8月30日には遼陽を包囲する総攻撃して、激戦の後の9月4日に日本軍は遼陽を占領して、南満州は日本の勢力下に置いた。日本軍は8月30日に各方面から攻撃を開始した。8月30日夜、連刀湾から太子河を渡河し、皇姑墳に進出した。主力は、8月31日に本渓湖を占領して、9月1日に黒英台・五頂山を占領して、ロシア軍の左側背を脅かした。動揺したロシア軍が9月3日の夕方から退却を始めた。日本軍は9月4日朝までに遼陽付近一帯の陣地を占領した。遼陽会戦で、日本軍兵士は約23,615人、ロシア軍兵士は約17,900人が犠牲となった。遼陽会戦は日本軍は遼陽に入城して、ロシア軍は遼陽駅を放火後に撤退した戦略的後退であると、世界中に対して両軍は勝利宣言を行った。機関銃から大口径砲などの近代兵器を揃えた大規模な戦争としては、近代史では遼陽会戦が初発となった。