2018年5月31日木曜日

日本軍兵士が、アメリカ軍に突撃して、沖縄本島中部にて全身を銃撃されて射殺された。

日本軍兵士が、アメリカ軍に突撃して、沖縄本島中部にて1945年5月24日に全身を銃撃されて射殺された。アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した。沖縄本島の上陸地から本島北部は約2週間の4月22日に、アメリカ軍に占領された。日本軍が主に待ち構えていた本島中部では、約40日間にわたりアメリカ軍と激烈な戦闘があった。アメリカ軍に日本軍は追い詰められて、首里城地下の司令部を捨てて、5月27日に本島南部へ敗退した。戦闘はその後の約1カ月間も続いて6月25日に沖縄戦は終結した。アメリカ軍側は約12,5201人、日本側は約188,136人が死亡したと推定された。このうち沖縄県出身以外の日本軍兵は約65,908人、沖縄県出身の兵士は約28,228人、沖縄住民は約94,000人、沖縄県民全体では約122,000人以上が死亡したと想定された。




2018年5月30日水曜日

ナパーム弾に被爆して黒焦げになったベトナム人の児童を、祖父母が抱いて逃げ回った。

ベトナム人の2人の児童がナパーム弾に1972年6月に被爆した。黒焦げになった児童を、祖母父が抱いて逃げ回った。アメリカ軍が開発したナパーム弾は人体に付着すると取れず、広範囲に火傷して絶命した。ベトナム戦争で、アメリカ軍と南ベトナム軍は、1966年12月からナパーム弾を森やジャングルに潜む北ベトナム兵を壊滅するために無差別に投下した。ナパーム弾は、燃焼材のナフサに増粘剤のナパームを充填した焼夷弾で、約1,000度もの高温で広範囲を焼滅する。国連人権小委員会は1996年8月に「核・化学・生物兵器・気化爆弾・ナパーム弾・クラスター爆弾・劣化ウラン兵器の製造・使用の禁止を求める決議」をアメリカのみ反対で採択した。アメリカ軍は、アフガニスタンからイラク戦争でナパーム弾と類似のMark77爆弾を使用した。




2018年5月29日火曜日

広島原子爆弾が炸裂して孤児になった男子は、火傷した子供を背負って、全滅して1月後の広島市内の荒野に呆然と起立した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、多大な犠牲者が被爆した。膨大な死者数のために、両親が共々が被爆死して、約6,500名以上もの被爆孤児のみが生存して残された。炸裂してから1ケ月後に男子は、火傷した子供を背負って、全滅した広島市内の荒野に呆然と立たずでいた。子供の頭部には、多数の火傷の瘢痕が残っていた。男子は軍帽をかぶり、小袋を抱えて草履で起立して、子供と一緒に悲しそうにカメラを覗いた。アメリカ軍の周りを取り囲んでは、おねだりして飢えをしのいでいた。アメリカ軍の海兵隊の従軍カメラマンであったジョ オドーネル(Joe O'Donnel)が、1945年9月2日に佐世保に着港してから、佐世保・福岡・広島・長崎を巡視して、空襲と被爆状況を撮影した。





2018年5月28日月曜日

ウクライナのハリコフを占領したソ連軍は、多数のドイツ人住民を、バルコニーから絞首刑にした。

第2次世界大戦にて、ウクライナにてナチス・ドイツ軍とソ連軍のハリコフ攻防戦が1941年から1943年に掛けて、首都キエフに次ぐ大都市のハリコフ占領をめぐり4度にわたり攻防が繰り返された。ドイツ軍は1941年10月24日にハリコフを占領した。1942年のスターリングラード攻防戦でドイツ軍は危機に陥り、ソ連軍は春の雪解けまでに、領土回復を目指して引き続き進撃を続け、1943年2月18日にはハリコフを侵略した。ハリコフ占領時には、多数のドイツ人のハリコフ住民が、ソ連軍によりバルコニーで絞首刑にされた。ドイツ軍は危機に陥るも、ソ連軍の補給線が限界点に達して、ドイツ軍が数日後に一気に反撃に転じた。疲弊したソ連軍は総崩れとなり次々と壊走して、3月14日にハリコフもドイツ軍が占領した。やがて1943年8月21日にはドイツ軍が敗退して、ハリコフは8月23日には最終的にソ連軍に占領して終結した。


2018年5月27日日曜日

上海4・12事件で、国民党は即決裁判で多数の中国共産党員を路上で処刑し、広州にも悲惨な死体が路上に散在した。

中華民国にて、1927年4月12日に上海からの北伐に蜂起した武装労働者らが、国民党軍から武力弾圧を受けた。武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対して国民党軍が発砲して虐殺して、共産党系労働組合に離散を命じて上海総工会の根城を占拠した。国民党は上海の中国共産主義者や市民らを虐殺して撃退した。国民党は即決裁判により、多数の中国共産党者を路上で処刑した。この処刑は広州にも広がり、中国共産党員には悲惨な死刑が執行されて、死体が路上に散在した。上海4・12事件により、国民党と孫文の未亡人であった宋靄齢らの上海浙江財閥が結託した。蒋介石は1927年12月1日に妹である宋美齢と結婚した。蒋介石は孫文の義理の弟となり、中華民国総統の血統を獲得して、絶大な政治的勢力を獲得した。



2018年5月26日土曜日

朝鮮戦争の直前に、李承晩勢力の韓国警備隊、韓国軍、韓国警察などが済州島民を無差別に大量の虐待と虐殺をした。

朝鮮戦争の直前に、韓国の済州島の騒乱にて、韓国軍と警察による島民の大量虐殺が勃発した。駐留アメリカ軍による食料挑発で疲弊した上に済州島に多数の島民が帰還した。1947年3月1日の独立運動に対して、韓国警官隊が島民6人を銃殺して、約3,000人を逮捕した。それに反抗して、1948年4月3日午前2時に、済州島の全域でゲリラ蜂起して、韓国警察隊の12名を虐殺した済州島4・3事件が勃発した。南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に済州島の島民を無差別に大量の虐待と虐殺をした。済州島は流刑地・左遷地として朝鮮半島から差別され、困窮した済州島民は、済州島4・3事件で日本に密入国して在日韓国・朝鮮人になる要因になった。韓国は共産主義労働党の扇動として、投入した膨大な韓国政府軍・警察により、島民の約27,000人以上が虐殺されて、住宅も約70%が焼き尽くされた。1992年4月には、済州島東部の旧左村・月郎峰の洞窟の中に、虐殺された白骨化した11遺体が発掘された。



2018年5月25日金曜日

徐州の荒野に散在する中国軍兵士の死体は、日本軍の占領により、故郷の土地を奪われた貧農の難民兵士であった。

日中戦争において、1938年4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本軍と国民党軍と徐州会戦が勃発した。日本軍は5月19日に徐州を占領するも、撃退は頓挫してますます戦域と人災が拡大した。日中戦争にて、中国人兵士の死体が荒野に散在した。日本軍は、徐州では海原のように荒野が拡大していた。その荒野の麦畑の中を軍馬とともに延々と進軍した。徐州の荒野に散在する中国軍の死体は、日本軍の占領により、故郷の土地を奪われた貧農の難民兵士であった。日本軍は圧倒的な武器と武力で、貧農の中国人を各地で虐待と虐殺を繰り返した。日本軍も中国軍も広大な中国大陸の泥沼の戦闘に陥って膨大な犠牲者を出した。





2018年5月24日木曜日

ワルシャワ・ゲトーにて、ダビデの星を身につけられたユダヤ人男性が、死亡した幼児を埋葬するために片手で持ち上げて運搬した。

ナチス・ドイツ軍が、1939年9月1日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した。1940年11月に首都に最大のユダヤ人隔離地帯であるワルシャワ・ゲットーを設置して、約20万人のユダヤ人を隔離した。ゲットーは、飢えと不衛生に苦しめられた。ゲットーの食糧配給は一日180cal程度しかなかった。栄養不足は、伝染病を招き、衰弱して命を落とす者が続々と道端に倒れて、1942年までに総計で約83,000人が死亡した。ワルシャワ・ゲトーにて、ダビデの星を身につけられたユダヤ人男性が、死亡した幼児を埋葬するために片手で持ち上げて運搬した。1941年12月にナチス・ドイツ軍のポーランド総督りハンス・フランクは、率直に言ってしまえば、ユダヤ人など根絶やしにすべきであると怨嗟した。1943年4月19日にユダヤ人が初めて、ナチス・ドイツ軍に武力抵抗をしたが、直ちに鎮圧され大多数が虐殺された。




2018年5月23日水曜日

グアム島では、1947年に日本軍の戦犯人が、両腕を固定されて目隠で吊り下げられて絞首刑が執行された。

太平洋戦争にて、日本軍は1945年8月15日に無条件降伏して敗戦した。1945年から1950年にかけて、日本軍の戦争犯罪者に対して、連合国によってアジア全域で約50の軍事裁判が開催された。日本軍の約6,000が、残虐と虐殺の戦争犯罪によって起訴された。そのうち約900人以上に絞首刑の死刑が執行された。グアム島では、1947年に日本軍の戦犯人が、両腕を固定されて目隠しをされた状態で吊り下げられて絞首刑が執行された。日本軍が無条件降伏した時点で、日本軍による戦争犯罪に関する連合国の処罰の方針は、既にポツダム宣言に盛り込まれていた。われわれの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えるべし。特に日本軍による連合国の捕虜の虐待と虐殺に対して憤った。ドイツ軍とイタリア軍による連合国の捕虜の死亡率は約4%に対して、日本軍の連合国の捕虜の死亡率は約27%にも達した。連合国は1948年頃から共産主義の封じ込めの方針の転換により、1946年10月1日のニュルンベルク裁判と1948年11月12日の極東軍事裁判による国際的な平和の秩序形成に繋がらなかった。



2018年5月22日火曜日

南アフリカ北部のジンバブエにて、黒人警察官が虐殺した7人の黒人国粋主義者の死体の側に立って見下した。

南アフリカ北部のジンバブエにて、1977年に黒人警察官が虐殺し7人の黒人国粋主義者の死体の側に立って見下した。ローデシア地域の治安部隊の兵士や警察の多くは黒人であり、しばしばジンバブエのZANU(アフリカ民族同盟)とZAPU(アフリカ人民同盟)勢力と戦闘した。1979年には総計で約25,000人の黒人と約2,000人のイギリス系白人が、10年間の独立戦争で虐殺された。1965年にはイギリス系白人はローデシア共和国の独立を宣言して、アパルトヘイトを強制した。黒人側は黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開した。1979年に黒人に参政権が付与されたが、イギリス系白人体制が実権を持ち続けた。1979年末にイギリスの調停により議席中のイギリス系固定枠でローデシア紛争は終結した。1980年にジンバブエ共和国が成立して、1987年にロバート・ムガベが1987年から大統領制に移行し、93歳となる2017年まで独裁した。




2018年5月21日月曜日

エジプト人ゲリラが、絞首刑にしたイギリス人兵士を吊るしスエズ運河占領を警告した。

スエズ運河地域におけるイギリス軍の1882年からの継続的な占領に対して、エジプト人は激怒した。イギリス軍隊に対するエジプト人のゲリラ攻撃が頻発していた。イギリス人兵士が、1952年1月にカイロ通りに絞首刑されて高くに吊るされた。この声明文には「イギリス人の絞首刑」と警告した。エジプトのナセル大統領が、1956年7月にスエズ運河国有化を宣言した。イギリスがフランスとイスラエルの協同で出兵しエジプトに侵攻した。スエズ運河をめぐるイギリス軍とエジプト軍の対立は、パレスチナ問題と結びつき中東戦争を拡大させた。10月30日にアメリカは安全保障理事会の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。翌31日に1950年の「平和のための結集」決議を利用し、停戦・撤兵決議案を提出し採択した。イギリスとフランスとイスラエルは国際的に孤立して撤退した。




2018年5月20日日曜日

アメリカ軍の空爆と内乱で、アフガニスタンの農村部は疲弊して、水と食糧が不足して弱者の子供らが大量に犠牲となり死亡した。

アフガニスタンで、ソ連が1989年に侵略から撤退した後に、1992年のムジャヒディン勢力が無差別な内戦を激化して、無政府状態に陥った。農村部の代表勢力であったタリバン(イスラム神学生)政権が1994年に突如に成立して内乱を制圧した。そのアフガンを混乱させたビンラディンに対して、タリバンは巻き込まれ、2001年からアメリカ軍は理不尽な空爆と侵攻をした。動乱と標的に残されたのは貧民層と崩壊した農村部から流入した飢餓難民であった。シリアやイラクでの過激派組織「イスラム国(IS)」の戦闘が峠を越し、アフガニスタンを占領するアメリカ軍は、2018年2月から空爆による掃討を強化した。内乱と空爆によって、農村部は疲弊して、水と食糧が不足して栄養失調となった弱者である子供らが大量に犠牲になり死亡した。




2018年5月19日土曜日

強制的にペルシャ改革のために、ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。

ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。パフラヴィー王朝の1代目は、強制的なペルシャの変革を、1934年からイランに国名を変更することを含めて、しばしば厳罰的な処刑によって強要した。 イスラム教会も砲撃することを命じて、イランをイスラム教徒の聖職者が支配する教育制度と法制度を攻撃して廃止しようとした。2代目のモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)は1979年1月16日までパフラヴィー朝イランの最後の2代目皇帝となった。「白色革命」を推進して、イランの近代化を進めた。フランスに亡命していたルーホッラー・ホメテニーが引導するイラン革命で失脚して脱国した。ホメイニーは、2月11日にイスラム革命評議会を唯一の政権として、4月1日に「イラン・イスラム共和国」の樹立をして独裁者となった。1980年から死去する1989年まで、イラク・イラン戦争を主導した。



2018年5月18日金曜日

連合国が解放した元ナチス・ドイツ人らに強制収容所の悲惨なユダヤ人の虐殺に直面させて死体処理を強制した。

第2次世界大戦が1945年に終結して、連合国により解放されたドイツ軍兵士たちを、ナチス・ドイツの強制収容所における悲惨なユダヤ人の虐殺に直面させた。元ドイツ人市民らを、ベルゲン・ベルゼン強制収容所における死体処理を強制した。1945年4月15日にイギリス軍は無抵抗でベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。埋められた囚人の遺体を掘り返しては死体を処置した。イギリス軍が収容所を解放した4月15日から6月20日にも1万5000人もの囚人が死亡した。ナチス・ドイツの親衛隊が解放直前に書類などを焼却処分して、正式な犠牲者数は不明である。解放直前の数カ月だけで約5万人に達して、収容所開設から約17万人以上が虐殺されたと推定された。逆に、イスラエル建国前に、ナチスに追われたユダヤ人を締め出すイギリス軍に対して、メナヘム・ベギンは地下組織 「イルグン」でレジスタンスの総指揮をした。1979年には首相として、イスラエルとエジプトとキャンプ・デービットの和平交渉に合意した。



2018年5月17日木曜日

イラクに駐留したアメリカ軍兵士が、軍服を着ていなかったイラク人も敵として無差別に銃殺した。

イラクに駐留したアメリカ軍兵士が、軍服を着ていなかったイラク人も敵として無差別に銃殺した。アメリカ軍の駐留地の通用門の外側にいたイラク人が射殺された。イラク人は、背中にはサッカーのシャツを着て、足はサンダルを履いていた。彼は、身分証明書を保持していなかった。アメリカ軍兵士には、このような連中はだれなのか、どこから来たのかは不明であった。イラク戦争で敗戦した旧イラク軍は、隠した武器でアメリカ軍にレジスタンス攻撃を行った。イラクに侵攻をした占領軍に対して爆弾や自爆テロで攻撃をかけ、身分を隠したレジスタンス反抗のために阻止が困難であるために、無差別攻撃に巻き込まれて双方に大量の犠牲者が出た。開戦した2003年3月20日から撤退した2011月12月14日まで内乱となり、2014年6月29日にはイスラム独裁国(ISIS)が勃発した。