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2023年3月30日木曜日

1945年3月10日にアメリカ軍の爆撃機B-29による東京大空爆で、約1,700トンの焼夷弾で焼け野原になった東京都内の下町地区に焼死して黒焦げになった民間人の死体が散乱した。

 1945年3月10日、アメリカ軍の東京大空爆で、焼け野原になった東京都内に焼死して黒焦げになった民間人たちの死体が散乱した。爆撃機B-29から約1,700トンの焼夷弾が落下すると、空中で炸裂して、ナパームだあるゼリー状のガソリンで満たされた約38個の小さな爆弾であるクラスターが放出された。木造の家屋が密集した都市は、焼夷弾攻撃に脆弱であった。強風により、火は急速に広がり、炎は竜巻に変わり、すべてを焼き尽くして炎上した。日本人の戦意を喪失させるために、特に労働者階級や職人が住む東京の下町地区が無差別の標的となった。

 3月10日真夜中に、アメリカ軍の爆撃機は、人類戦史上最も破滅的な東京大空襲を行った。マリアナ諸島に建築された新飛行場から279機の爆撃機B-29が、東京上空に爆弾を投下し、約10万人に及ぶ日本の民間人を殺害した。東京大空襲は、1945年の広島や長崎の原子爆弾のいずれを追従する殺傷力を持った。人口密度の髙い大都市を焼き尽くし、約100万人近い民間人が家を失った。B-29は約14機と約96人の飛行士が撃墜された。

 東京大空襲は、日本に対する最初の大規模な夜間攻撃であり、低高度爆撃戦術による最初の空襲であった。アメリカ軍は、日本軍は対応できなず、燃料の節約により、爆撃機がより重い爆弾を運び、より大きな損害を与えた。ヨーロッパ戦線とは異なり、B-29は自衛的な編隊で飛行する必要はなかった。東京上空に到着したのは、1つの編隊ではなく、2時間かけた。東京大空襲で破壊する火災が、爆撃機が致命的な量の焼夷弾を投下して、ゆっくりと、断片的に大空襲を始めた。東京都内はゆっくりと炎上し始めた。数分おきに新しい爆撃機が、新しい焼夷弾を積んで、東京都内の新しい地点に到着した。その後に日本軍は、空襲は都市を焼き尽くしたが、それほど多くの人を殺すことはなかった。東京大空襲以後は、比較的未開発の地域に徒歩で逃げることを学習した。日本人の多くはまだ家を失ったままであり、8月6日広島と8月9日長崎の原子爆弾による空襲までは、死亡率は劇的に減少した。東京大空襲は、人類の戦争史上最も破壊的な出来事である。その前後9ヵ月間にわたるアメリカ軍の日本各地の空襲による民間人の犠牲者は約80万6千人、うち死者33万人で、日本軍兵士の戦闘による犠牲者約78万人を上回った。


2023年3月26日日曜日

2022年11月24日に、ウクライナのザポリージャ州のノボソローネにて、産婦人科病棟で出産した2日に、新生児の赤ん坊の男子であるセルヒイ・ポドリャノフは、ロシア軍のミサイル攻撃で殺害された。

2022年11月24日に、ウクライナのザポリージャ州のノボソローネ(Novosolone)にて、産婦人科病棟で出産した2日後に、新生児の赤ん坊の男子であるセルヒイ・ポドリャノフ(Serhii Podlianov)を、ロシア軍のミサイル攻撃で殺害された。母親のマリア・カミアネツカ(Maria Kamianetska, 36)は、祖母のテチアナ・スヴィストゥノヴァ(左)と妹のリューバに抱かれて葬儀をした。ウクライナのザポリージャ州ノボソローネの墓地で、生後2日のセルヒイの棺桶を、母親はじっと見つめ、泣き叫びながら棺桶に近づいた。










Warning: Maria Kamianetska, 36, is held by her mother, Tetiana Svystunova, left, and her sister, Lyuba, as she mourns her baby son, Serhii Podlianov, on Nov. 24, 2022, in Novosolone, Ukraine. (Heidi Levine for WaPo )

 2022年11月24日午前2時頃、母親が授乳を終えて、横のベビーベッドに寝かせた時点に、病院の産科病棟にロケットが撃墜してレンガ壁を砕いた。病院の壁は崩れ落ち、母子は瓦礫の中に閉じ込められた。母親は生存して瓦礫の中から救い出したが、赤ん坊の男子のセルヒイだけが殺害された。母親はベッドから体を起こし、ベビーベッドに向かって突進した。母親は、空っぽで愕然とした。赤ちゃんは爆風でベッドから飛び出した。母親が出産した産婦人科病院は、ロシアが併合したと主張するウクライナの4つの地域の一つのザポリージャ州のヴィルニャンスク町にあった。ザポリージャ原子力発電所から約170kmの距離にあるノボソローネの病院付近は、11月以降に特にミサイル攻撃の頻度が高くなった。11月21日午前8時20分に誕生した約6kg弱の健康な男子で、4人目の子どもだった。

 ウクライナ検察庁は、11月24日までにロシア軍の侵攻により殺害されたウクライナの子ども440人以上であると公表した。それに生後2日目のセルヒイも含まれた。救助隊員が産科病棟の残骸を探しながら、セルヒイは人形のように地面にうつ伏せになっていた。葬儀の赤ん坊の目は閉じられ、顔にはまだ小さな擦り傷が残っていた。祖母と義理の姉が母親の腕を掴み、立っているのを助けた。母親は棺桶の中に身を乗り出し、赤ちゃんにそっとキスをした。神父が水をかけた後、2人の男が丁寧に棺桶を地面に下ろした。遺族が墓に土を撒くと、遠くで砲撃音が鳴り響いた。兄と妹2人は、セルヒイの墓に連れて行かれたのは、葬儀の後であった。両親は、悲劇を子どもたちに見せたくなかった。










Warning: Maria Kamianetska kisses her son during his funeral. (Heidi Levine for WaPo)

2023年3月22日水曜日

ベトナム戦争にて1965年2月7日から勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムでは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の多数の死体が散乱した。

ベトナム戦争にて1965年2月7日に勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の死体が散乱した。

 アメリカは、インドシナ問題に関する1954年ジュネーヴ協定を破壊して、南ベトナムで特殊戦争を進めて、北ベトナムに対する挑発と破壊を強めた。その典型的なものは、1964年8月5日の空軍を使ったトンキン湾攻撃であった。重大な侵略行動は、北ベトナム軍と人民から激しい攻撃と非難を受けた。1964年8月5日のトンキン湾事件から1965年2月7日の北爆開始までに、アメリカは世界の世論の反対を受けても、20数回にわたり戦闘機や軍艦を派遣し、北ベトナムの北爆を加え、ラオスの戦争を拡大すると同時に、カンボジアの領土を絶えず侵略した。

 ジョンソン大統領は1965年2月7日午後2時に北爆の命令を下した。アメリカの戦闘機は東海(東シナ海)上に停泊するアメリカ第七艦隊の航空母艦から何回も発進し、ドンホイ市とクァンビン省のその他の地区およびヴィンリン地区のコンコ島に攻撃を加えた。ドンホイの病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加え、同地の人民の生命、財産に損失を与えた。人民の生命、財産を守り、ベトナム民主共和国の領土の保全を守るため、現地の軍隊と人民は断固たる反撃を加え、敵機4機の撃墜、多数を撃破した。

1965年2月7日にアメリカ軍が空軍を使って攻撃を加えた北爆は、ベトナム民主共和国に対する重大な新たな戦争行為でとなった。国際法およびベトナム問題に関する1954年のジュネーヴ協定に対する違反であった。アメリカ政府は南ベトナムにアメリカ軍事力の増派を決定した。

  アメリカ軍は、南ベトナムの苦境を挽回するために、ベトナム民主共和国に対して北爆をしかけた。南ベトナムにアメリカの軍事力を強化し、戦争を南ベトナム以外の地区に拡大した。インドシナおよび東南アジアの戦争の危機が増悪した。北ベトナムは、アメリカ軍の新たな戦争行為と南ベトナムに対する軍隊および兵器の増派した。



2023年3月21日火曜日

日中戦争にて、日本軍が1937年12月13日に中国の南京城を陥落した。中国民国の元首都であった南京城の南門付近に、多数の中国軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。

日中戦争にて、日本軍が1937年12月13日に中国の南京城を陥落した。中国民国の元首都であった南京城の南門付近に、多数の中国軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍による南京空襲の後に、死体が南京市内に散らばった。南京の非軍事施設に対する日本軍の大規模な爆撃によって、民間人の被害が引き起こされた。民間人の犠牲者を隠蔽するために、南京空襲に関連するすべての写真は不許可写真とされた。中華門前の地面一面に死体が散乱して、至る所に血痕があった。日本軍の空襲により、南京城の多くの場所は混乱した。



 日本軍は1937年12月初旬に、南京郊外に到着した。12月9日未明に、日本軍は南京の城壁に到着した。中国軍に24時間以内に降伏を要求した。12月9日13時頃に、中国側が交渉に応じないと判断し、攻撃命令を出した。14時頃に、南京で厳重に守られた光華門を攻撃した。光華門の中国軍は約1,000人に及び、日本軍は多くの死傷者を出した。最終的には武力で中国軍を圧倒して、日暮れまでに、光華門の一部を破壊し、日本軍が押し寄せて最後の中国軍の守備兵を追い出した。12月12日に最後の中国軍が北の義江門を保持したが、中国軍の指揮官から兵士まで、四方八方に逃げ始めた。中国軍兵士は商店を略奪して、軍服や武器を捨てて、市民の中に紛れ込んだ。北方の義江門の中国軍は、退却を阻止して、数千人の中国人が義江門の中に押し寄せ、通り抜ける多くの中国人を脱走兵とみなして発砲した。12月12日17時頃に中国軍は、河川に避難の規模を拡大した。18時頃に避難は本格化したが、大混乱に陥った。数千人の中国軍兵士と多くの避難民が埠頭への道を埋め尽くて大混乱に陥った。

 12月13日午前に、日本軍が入城し初めて、光華門の経由と中山門や太平門経由が続いて、約5万人が入城した。12月13日の午後、日本軍の2つの小さな川船団が南京の港に到着した。日暮れには、日本軍は南京の戦いの勝利を宣言した。日本軍が南京を侵略した1937年12月13日から1938年1月31日まで約6週間にわたり南京大虐殺が勃発した。



2023年3月1日水曜日

第二次世界大戦にて1943年1月20日に、イギリスの首都ロンドン南東部のサンドハースト・ロード学校をドイツ軍の戦闘爆撃機が攻撃して、38人の子供たちと6人の教師を殺害して、ARP監視員と看護師たちが死体を死後処置した。

第二次世界大戦にて1943年1月20日に、イギリスの首都ロンドン南東部にあるサンドハースト・ロード学校をドイツ軍の戦闘爆撃機が攻撃して、38人の子供たちと6人の教師が殺害されて犠牲になった。学校現場には、空襲警報(Air Raid Precautions, ARP)監視員と看護師たちが集合して、死体の死後処置をした。写真には当然のことながら検閲のマークがついて、イギリスでは公表不可となった。

 サンドハースト・ロード校(Sandhurst Road School)の空襲事件は、1943年1月20日にドイツ軍のロンドン空襲にて、ロンドン南東部のキャットフォードのミナード・ロードにある学校が深刻な被害と犠牲を受けた。ドイツ軍の戦闘爆撃機が、午後12時30分に約500kgの爆弾1発を学校に投下して炸裂した。38人の子供(学校で32人が死亡して、さらに6人が搬送された病院で死亡した)と6人の職員が死亡した。さらに60人が負傷して、多くの被爆者が瓦礫の下に何時間も埋まった。

 学校空襲で、学校の食堂にいた24人の生徒と2人の教師が死亡した。さらに5人の児童が階段で、9人が2階の教室で死亡した。職員室も破壊されて、3人の教師が死亡した。その他1人の先生は理科室で死亡した。その他に約60人が負傷した。空襲で死亡した38人の児童と6人の教師のうち、31人の児童と1人の教師がヒザー・グリーン墓地の民間戦死者区画に集団埋葬された。

 ドイツ軍の空襲は、1月20日の正午にドイツ占領下のフランスの飛行場から離陸した。ドイツ軍の戦闘爆撃機はテロ襲撃として、あらゆる標的を攻撃した。イギリス空軍が、このテロ攻撃の約3日前にドイツ首都ベルリンを爆撃した。ヒトラーは報復の空襲を要求した。非効率の警報システムから、ドイツ軍の爆撃機が到着するまで空襲サイレンは鳴らなかった。爆撃機はまず学校を通り過ぎた後に、復路で爆撃を行った。別の戦闘爆撃機は運動場や地元の通りにも空爆を行った。

 空襲警報は、空襲の危険から市民を守るために、イギリスで策定された多くの組織と指針である。1920年代から1930年代に空襲対策への政府の機運が高まり、1937年には爆撃事件の報告を行うレイドウォーデンサービスが設立された。各地方自治体はARP監視員、使者、救急車の運転手、救助隊、警察や消防隊との連絡を組織する責任を担った。

電撃戦ではドイツ軍の爆撃が激しくなり、ARPは爆撃の報告や対処に中心的な役割を果たした。空襲のサイレンを管理し、人々を避難所に誘導した。1941年からは、ARPの正式名称を民間防衛局(Civil Defence Service, CD)と改め、より幅広い役割を担った。 




2023年2月25日土曜日

広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、一戦災患者治療所と掲示された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所」と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。




2023年2月19日日曜日

2023年2月2日に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の救急車付近で炸裂して、33歳男性のアメリカ人のピート・リードとウクライナ人女性は直撃されて殺害された。

ウクライナ東部の激戦地のバフムートで、アメリカ人ボランティアが、無料の診察と薬の配布の移動診療を行った医療援助関係者がロシア軍の標的型攻撃により殺害された。2023年2月2日昼に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の2人が救護しようとした地点わずか数mに落ちて炸裂した。ロシア軍から飛んできたミサイルが、33歳男性のピート・リード(Pete Reed)のチームの白い仮設救急車を直撃した。エストニア出身のエルコ・ライディネンは、車の窓から携帯電話で撮影していた。その映像から2つの静止画は、救急車にミサイルが命中する直前と直後の瞬間を示した。最初の画像は、焼け焦げた車両を通過するミサイルを、2番目の画像は、爆発の衝撃を表した。ロシア・ウクライナ戦争で、医療関係者や施設に対する攻撃は数多くあった。ロシア軍は意図的に民間人を標的にしたことは否定した。

 爆発の煙の中で、意識を取り戻したサイモン・ジョンセンは、耳元で大きな口笛が鳴り、負傷して生存した。砲撃で頭部を負傷して、右耳の聴力を失った。彼はまだ自分の身体の部分を検証した。彼の隣では、同僚の衛生兵であるピート・リード(Pete Reed)が死んでいた。元アメリカ軍の海兵隊員のリードは、約4年前から医療支援団体グローバル・アウトリーチ・ドクターズ(Global Outreach Doctors)を設立して、1月からウクライナのバフムートの戦場に来た。負傷して治療を受けに来たウクライナ人女性の車は大破して、彼女を救助したリードも一緒に殺害された。ノルウェー出身の衛生兵のジョンセンと他のボランティアグループは、ほんの少し前に医療援助の現場に到着して、負傷するも生存した。ロシア軍が衛生兵や最前線の救援者を標的にしたダブルタップ(double tap)の典型例であった。

 ロシア軍によるウクライナへの本格的な侵攻が始まった2022年2月24日以来、最も激しい戦闘がバフムートの戦場で勃発した。ロシア軍とウクライナ軍の双方の兵士は、戦闘で毎日失われる数百人の命を理由に、肉挽き機と呼称した。ウクライナでは2月2日に、東部ドネツク州でウクライナ軍の拠点であるバフムトに加え、州都の南西のウフレダム周辺もロシア軍の侵攻により、激しい戦闘が継続した。



















Warning: Two stills taken from mobile phone footage show the moments before and after the ambulance was hit with a missile. The first image shows the missile streaking past a burnt-out vehicle; the second shows its impact.(Eriko Laidinen / CNN)

2023年2月12日日曜日

ウクライナ東部ドネツク州の血生臭い戦場となったバフムートのショッピングセンターにロシア軍のロケット弾が当たった際に巻き込まれて、建物の玄関で高齢女性と2匹の犬が、2023年1月2日に殺害された。

ウクライナ東部ドネツク州のバフムートの建物の玄関で高齢女性と2匹の犬が、2023年1月2日に死亡した。高齢女性と犬は、近くのバフムートのショッピングセンターにロシア軍のロケット弾が当たった際に巻き込まれて殺害された。



 







Warning: A woman and two dogs lying dead in the doorway of a building in Bakhmut on Jan. 2. The woman was believed to have been killed when a rocket struck a nearby shopping center 15 minutes earlier. (Nicole Tung for The New York Times)

 ウクライナの東部ドネツク州のバフムート(Bakhmut)の戦いは最も長く続いた市街戦となった。ウクライナ軍は戦争の大半を通じて、直接の対決を避け、機敏な作戦、欺瞞、西側が提供する長距離兵器に頼り、バフムートを保持した。バフムートの戦いを、都市防衛の市街戦の転換により、ウクライナ軍とロシア軍は激しい戦闘を繰り広げて、双方とも甚大な犠牲を伴った。バフムートは致命的な市街戦で、ドネツク州東部の廃墟と化した。砲弾の跡が散乱して、ロシア軍兵士らの死体が放置されて、しばしば死体の悪臭が漂った。

 戦争初期、ウクライナ軍当局は、死傷者の多い戦闘は勝利の戦略ではなかった。夏に東部での消耗戦でロシア軍は弱体化して、その後に数カ月間にウクライナ軍は北部のハリコフ州と南部のケルソンで攻勢に転じた。バフムートは、夏以降の激化した戦闘でほとんどが破壊された。バフムートは、戦略的価値よりは、双方にとって象徴的な重要性を持っている。

 バフムートの戦いは2段階に分かれ、最初の約100日ほどはロシア正規軍が関与して、それ以降は民間軍事会社ワグナーグループが卑劣な役割を担った。ワグナーグループは、ロシアの刑務所から集めた囚人で構成される軍団が攻撃した。ロシア軍は、ワグナーグループの戦闘員とともに、パフムートを包囲するために、北東の前線沿いにあるソレダールを含む近隣の町や村を侵攻した。ワグネルグループの戦闘員が数方向からソレダールの襲撃したが撃退された。バフムート周辺での戦闘は、最前線で最も血生臭い戦場の一つとなった。ウクライナ軍とロシア軍の兵士の死体を収集する人道的派遣団のブラック・チューリップ(Black Tulip)が、2月7日にウクライナの東部ドネツク州イジウムの近郊のコロヴィー・ヤール(Koroviy Yar)付近で、放置されたロシア軍兵士の死体を搬送した。












Warning: Members of Black Tulip, a humanitarian mission that collects bodies of Ukrainian and Russian soldiers, carrying the body of a Russian soldier near Koroviy Yar in Ukraine’s east, Jan 7, 2023. (The New York Times)

2023年2月5日日曜日

ウクライナ東部ドンバス州北部のクラマトルスクの鉄道駅が、2022年4月8日午前10時にロシア軍のロケット攻撃を受けて、避難していた約5人の子どもを含む少なくとも60人が死亡して、約110人以上も重態となった。

ウクライナ東部ドンバス州北部のクラマトルスク(Kramatorsk)の鉄道駅が、2022年4月8日午前10時にロシア軍のロケット攻撃を受けて、約5人の子どもを含む少なくとも60人が死亡して、約110人以上も重態となった。クラマトルスク駅では、ロシア軍の侵攻の中、多数の市民がより安全な地域に避難していた。血液が散布され地面に散乱した荷物や黒焦げの車の隣に、死体が散乱していた。ロシアの鉄道駅襲撃の余波を受け、クラマトルスク駅周辺で死傷者の間を救急隊員が緊急対応した。





 





Warning: Emergency personnel walk among injured people lying on the platform in the aftermath of a rocket attack on the railway station in the eastern city of Kramatorsk, Ukraine. (Anatolii Stepanov/AFP)


 ロシア当局は長年にウクライナが分離主義者の東ウクライナに空爆を行い、子どもを含む民間人を殺害したと非難した。ウクライナ当局によると、攻撃当時に、クラマトルスク駅と周辺には約4000人の市民が在留して、多くが、ロシア軍の侵攻の地域から離れるよう呼びかけられた女性や子どもたちだった。クラマトルスク駅の隣の地面には、ロシア語で子供たちのために報復と描いた大型ロケットの残骸も確認された。

 2発のロケット弾がクラマトルスク駅を襲撃して、ウクライナ鉄道は4月8日に攻撃を鉄道の旅客インフラと住民に対する意図的な攻撃と非難した。クラスタ弾を搭載した短距離弾道ミサイル・トーチカUが致命的な攻撃に使用されたと発表した。非人間的なロシア軍は、戦場ではなく、市民を冷淡に殺傷している。罪のない市民への衝動的なロシア軍の攻撃は故意である。スーツケースの山の側に数人の死体が横たわり、武装警察官が監視した。厚い煙が立ち込める中、救急隊員が消火活動をした。

 4月7日に、親ロシア派のテレグラムは、クラマトルスクから鉄道で避難しないよう市民に警告を発した。ロシア軍は、クラマトルスク駅の攻撃への関与を否定した。ロシア当局のドミトリー・ペスコフ報道官は、ミサイルの種類から、ロシア軍の攻撃はすでにロシア国防省によって否定されたと述べた。ロシア軍は同種のミサイルを使用していない。4月8日のクラマトルスクで作戦はない。ロシア当局は、2月24日に同国が侵攻を開始して以来、民間人を標的にしたことを否定している。

 5人の子供を含む約60人が死亡し、弾道ミサイルにはクラスター弾が含まれた。クラスター弾は、空中で爆発させ、より小さな爆丸を広範囲に撒き散らし複数の目標に打ち込む残忍な兵器である。2022年4月8日にロシア軍のロケット弾攻撃により少なくとも20体の死体が駅の横でビニールシートの下に集団で地面に横たわった。その死体を、ウクライナの警察官が検死した。













Warning:  A   Ukrainian policeman bends over bodies laid on the ground after a rocket attack killed at least 30 people in Kramatorsk on April 8, 2022. (Fadel Senna/AFP)

2023年2月3日金曜日

第二次上海事変にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂して、上海最大の繁華街は流血の修羅場と化した。

第二次上海事変(1937年8月13日から11月12日)にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂させた。多数の中国人だけでなく、外国人にも死傷者が出た。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には手足の吹き飛ばされた死体や瀕死の人で溢れた。街頭の車が炎上して、爆風で瓦礫が散乱した。その惨状を撮影して記録した『支那事変写真帖第一集』の写真集を、上海の玉川写真館が、第三艦隊報道部と上海日本総領事館に検閲後に、1937年10月に発行した。

 8月14日に、上海にて中国軍の戦闘機による誤爆と共にあらゆる戦争の悲劇が出現した。中国軍が戦闘機を初めて使用して、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日にわたり中国軍の戦闘機は上海上空から急襲を繰り返した。日本軍は高射砲によって中国軍機を迎撃した。中国軍機の誤爆による大惨事は8月14日4時半に勃発した。2発の爆弾が国際共同租界に、もう2発がフランス租界に投下して炸裂した。およそ約600人(ほとんどは中国人)が死亡して、約11,000人が負傷した。

 それに続けて2発の誤爆が、パレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落下して炸裂した。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には死体や瀕死の人で溢れた。その後さらに2発が、エドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちて炸裂した。現地上海のフランス警察は、死者は約445人と負傷者は約828人と推定した。中国空軍に爆撃されたキャセイホテル前の惨状では、壊れた自動車や自転車、瓦礫が散乱し、空襲の凄まじさを物語った。犠牲者には大学教授や雑誌編集者、医師など多数の外国人も含まれた。

 8月14日以降も、中国軍の空襲は複数回に及んだ。8月23日正午12時50分頃には先施公司第二楼に中国空軍の爆弾の投下により炸裂した。その誤爆は惨状を呈して、即死者は約160人以上と約470人余の負傷者が出た。先施公司は上海を代表するデパートの一つであり、白昼に繁華街への攻撃を受けた。当時の上海は欧米各国の要人や特派員が常駐し、国際世論に直結する土地柄だった。日本軍は宣伝工作を十分に尽くさないまま軍事的な報復に踏み切った。一連の攻撃で中国軍が用いた爆撃機はアメリカ製であった。第二次上海事変は、日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど、流血が多い戦場と評された。




2023年1月20日金曜日

イタリアの国営テレビ局RI24は2005年11月8日に、イラク戦争にてアメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたファルージャのイラク軍兵士や民間人の遺体など、凄惨な映像を放映した。

イタリアの国営テレビ局RI24(Radiotelevisione Italiana)は2005年11月8日に、アメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたイラク軍兵士や民間人の遺体、電気ドリルで穴を開けられた男性の遺体、負傷した個人への砲撃など、凄惨な映像を放映した。RAIのビデオでは、空から発光物質が降ってきた。内側から溶けた死体が映し出した。元アメリカ軍兵士が、イランのファルージャの住民に白リン(White Phosphorous)弾を使用したと証言した。ヘリコプターからの白リン散布作戦の映像が映し出された。イタリア人ジャーナリストのスグレナさんらは、アメリカ軍から残虐行為の報道を阻止された。

 白リン弾は、自然燃焼して、燃焼時に酸素を奪う国際禁止兵器である。大量の水がなければ、白リン弾の消火は実質不可能である。白リン弾は開かれた場所でも、隠れた兵器にも効果があり、兵器を破壊する。白リン弾が人体の中まで焼き尽くした。リン燃焼で形成された窒息性ガスは、火による死を免れても毒ガス死した。兵器・戦争手段に対する史上初の禁止は、1899年にオランダ・ハーグ開催の第1回万国平和会議で宣言された。その後に、禁止リストは常に拡大した。

 2005年3月3日に、イラク保健省は、アメリカ軍が2004年11月にファルージャ市をほぼ壊滅させた攻撃で、マスタードガス、神経ガス、燃焼剤などの化学兵器を使用したと公表した。アメリカ軍の攻撃の間に、逃げ惑う住民が、溶けた死体を見たと語った。アメリカ軍が死体を溶かすポリスチレンと航空機燃料の毒性化合物であるナパーム弾を示唆した。その他、マスタードガスや神経ガスが使用された証拠も発見した。毒ガスによって死んだ野良犬、猫、野鳥を何百匹も発見した。記事を掲載したアメリカメディアは、1つのウェブサイト上だけであった。アメリカ軍の重大な国際条約違反の報道を無視した。国防総省は、2004年12月の時点ですでに守勢に回った。イスラムのウェブサイトでの告発や、ファルージャに対する白リン爆弾、プロパン爆弾、ナパームの使用を宣伝するGIブログや事後報告によって劣勢となった。白リンは照明用と使用したと主張した。

 イラク戦で、アメリカ軍が国際的に使用が禁止されている白リン弾や濃縮ウランなどを使用した。致命的な破壊兵器により、約150万人以上のイラク人が暗殺され、100万人以上が行方不明になった。戦争中の真っ只中の避難民は約700万人を超えた。イラク侵攻後の悲惨な人道状況は世界最悪です。劣化ウラン感染やその他の化学物質汚染により、先天性欠損症やがんが増加して、毎年5歳未満の子供約4万人が死亡した。




2023年1月8日日曜日

2022年12月31日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。

20221231日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。ロシア軍の複数の爆撃が、首都キエフと地域の住宅地を襲った。ロシアは1231日午後に、ウクライナ上空に約20発の巡航ミサイルを発射した。撃墜できなかった約8発の巡航ミサイルが爆発した。首都キエフのソロミアンスキー地区の複数階建ての住宅でも起った。多くの都市で住宅地、ホテル、道路、車庫も攻撃を受けた。少なくとも1人が死亡、約14人が負傷し、ロシアの攻撃が新年の2023年を前に加速した。




















Warning: A husband reacts next to the body of his wife, besides her son crying to his mother, who was killed during a Russian attack in Kyiv, Ukraine, Saturday, Dec. 31, 2022. (AP Photo/Roman Hrytsyna)

 

   ロシア軍は意図的に市民を標的にし、恐怖の情勢を作り出した。ロシア軍が1229日にエネルギー関連施設に損害を与えるミサイル攻撃してわずか約36時間後に無差別に爆撃した。ロシア軍は10月以降に、ほぼ毎週ウクライナの電力と水の供給源に空爆を行った。ロシア軍は電力供給を損傷して、何百万人ものウクライナ市民は電力不足となり、ウクライナには夜間外出禁止令が出され、時計が新年を迎えた。

 南部の州都ヘルソンの一部でも夜間砲撃があり、1人が死亡、小児病院が損傷した。ロシア軍がヘルソン市を二分するドニエプル川を越えて撤退した後、11月9日にロシア軍が全面撤退して、ウクライナ軍がヘルソンを奪還した。1231日夜、小児病院を砲弾が襲った時に、近くの村で重傷を負った13歳の少年を手術中であった。直後に約99km離れたミコライフの病院に移管された。東部の町クメルヌィツキーで、1231日のロケット弾攻撃で、22歳の女性が死亡した。

 ゼレンスキー大統領は、1231日にロシア国民に向けてロシア語で演説して、「ロシアは、プーチン大統領の権力を死ぬまで維持するために戦争を仕掛けている」と述べた。

 ロシアの国防省は、東部ドネツク州のマキイウカ(Makiivka)の支配地域で、12月31日にロシア軍兵舎がウクライナ軍のハイマース攻撃を4発を受けた。異例の軍人約63人から約89人が死亡したと発表した。兵舎には当時約600人がいて、携帯電話を使用して特定されて、保管した弾薬の爆発などから犠牲が拡大した。

2022年12月23日金曜日

1944年7月29日にノルマンディのクタンスにて、連合軍のイギリス戦闘機の攻撃で、ドイツ軍の第2武装親衛隊装甲師団の戦車連隊の車両群が崩壊して横転し、搭乗員も爆破された死体が周辺に散乱した。

1944年7月29日にノルマンディ地域のクタンス(Coutances)にて、連合軍のイギリス戦闘機は、ドイツ軍の第2武装親衛隊(SS)を攻撃した。SSの装甲師団のダス・ライヒの戦車連隊の車両群が崩壊して横転した。搭乗員も爆破されて、ドイツ軍兵士の死体が周辺に散乱した。連合軍のアメリカ軍兵士が、崩壊したドイツ軍の車両とドイツ軍兵士の戦死傷者を探索した。

 1944年7月の最終週には、ノルマンディーに上陸した連合軍は、最も絶望的な状況に直面した。東部のカーン近郊では、イギリス軍とカナダ軍はドイツ軍の激しい抵抗に侵攻できなかった。西部では、アメリカ軍がノーマンの生け垣に行き詰まった。ドイツ軍は堤防を要塞に変え、アメリカ軍を狭い水路に追い込んだ。連合軍は、第一次世界大戦の混迷戦の回帰を危惧した。

 ノルマンディ上陸作戦が執行された1944年6月6日から、連合国はノルマンディ地域のクタンスを標的とした数多くの空爆を行っていた。連合軍がノルマンディ上陸した海岸に向かうドイツ軍の増援を混乱させ、アメリカ軍の爆撃機の3波が空襲した。真夜中に、イギリス軍の爆撃機が約40分間にわたりクタンスの町を攻撃し、約250人近い住民が犠牲になった。クタンスは6月13日から14日の夜にも空襲を受けて、焼夷弾が大聖堂の灯塔の鉛のドームを溶かした。クタンス町はほぼ6割方破壊された。遭遇した少数のドイツ軍兵士は衝撃で混乱した。

 アメリカ軍は7月24日に、コタンタン南部の戦線を突破するためにコブラ作戦を開始した。アメリカ第8空軍の約1,600機の爆撃機が従事し、翌日の7月25日から地上攻勢を開始した。作戦開始拠点の右側面では、アメリカ軍部隊は突破口を封じ込めないよう相手を固定するように指示された。コブラ作戦は1944年7月25日に、数千機の連合軍機による集中砲火から開始された。連合軍攻勢によってドイツ軍の装甲予備軍の大部分はイギリス・カナダ方面に引き寄せらた。ドイツ軍は、人員と物資の不足と相まって、連続した防衛線を形成できなかった。アメリカ軍は、初日の侵攻は遅かったが、防御の地殻が破壊されると、反対勢力のドイツ軍は崩れ始めた。7月27日までにドイツ軍の組織的抵抗は終結して、コタンタン半島を占領した。連合軍は約1,800人が損失して、ドイツ軍は約25,000人が戦死して、約10,000人が捕獲された。

 ペリエスを解放した翌日の7月28日から、アメリカ軍の第4機甲師団が、部門道路971をクタンス方面に侵攻した。ドイツ軍のフォルシュマムイェーガー第6連隊(91.インファンテリー師団)のドイツ軍空挺部隊と、この部門の防衛を担当していたSSパンツァー師団「ダス・ライヒ」の部隊は撤退して、クタンス町をアメリカ軍に放棄した。アメリカ軍の戦闘部隊Bの侵攻は素早く、特に反抗には遭遇しなかった。




2022年12月21日水曜日

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。空爆により殺害されたバルセロナ市民の死体が路上に放置された。周囲の建物は崩壊して、瓦礫が散乱した。

 最悪のバルセロナ爆撃は、スペイン内戦中の1938年3月16日から18日にかけて、ファシスト・イタリア軍とナチス・ドイツ軍が主導して、フランコが率いる国民党反乱軍を支援した空爆である。最大で約1,300人が死亡し、少なくとも約2,000人が負傷した。フランコは当初はバルセロナ空爆を知らず、3月19日に爆撃の中止を求めた。イタリア帝国元師のムッソリーニは空爆の実験場に自己満足した。

 1938年3月16日から18日にて、バルセロナはスペイン内戦で戦ったイタリア空軍の爆撃機によって空襲された。爆撃機はイタリヤのマヨルカ島などから飛来した。3月16日22時には、まずドイツ軍の戦闘機が最初にバルセロナに空襲をした。その後3月18日15時まで3時間おきに、イタリア軍の爆撃機により約17回の空襲があった。3月18日夜は、労働者階級が住む地区が大きな空爆を受けた。スペイン共和国空軍(FARE)は3月17日朝までバルセロナに戦闘機を派遣しなかった。

 バルセロナに対空砲がほとんどなく、戦闘機からの援護もなく、実質的に無防備であった。爆撃機は静かに高度な上空を通過して、爆弾を投下した後にエンジンを再始動させ、警報は鳴らず、爆弾が爆発するまで爆撃機を発見できなかった。イタリア軍は屋根を通過して建物内で爆発する遅延信管爆弾や、地面の近辺を破壊する新型爆弾を投下した。バルセロナ都市の空襲警報機を無効となった。イタリア軍の爆撃機は約44トンの爆弾を投下した。イタリア軍は軍事目標だけでなく、市内の工業地帯を破壊して、スペイン共和国側の士気を下げた。軍の倉庫、武器工場、兵士が乗った列車、港だけでなく、市民の建物、映画館、領事館、劇場も爆撃で破壊した。




2022年12月6日火曜日

1940年5月10日午後4時頃に、ドイツのブライスガウのフライブルグ市が、ドイツ空軍の爆撃機によって爆撃された。ドイツ軍機KS51の3機は人口密度の高い市街地を爆撃して、子供約20人を含む約53人の民間人を殺害した。

1940年5月10日午後4時頃に、ドイツの西部国境付近のブライスガウのフライブルグ市が、ドイツ空軍の爆撃機によって爆撃された。フライブルグは、ブライスガウ戦闘地域外で、軍事施設もなかった。ドイツ軍機KS51の3機は人口密度の高い市街地を爆撃して、公共の遊び場で不注意に楽しんでいた子供約20人を含む約53人の民間人を殺害した。約151人の民間人が負傷して、そのうち約72人が重傷を負った。負傷者の中には、約37人の子供たちがいた。フライブルグ市の対空防御は、まったく機能せず、ドイツの爆撃機は、フランスに向かっていると錯覚した。爆弾は駅の近くに落ち、被害が発生した後に、空襲警報が恐怖の通りに響いた。



 












   ドイツ軍機は、航法上のミスから方向を見失って、フランスの都市ディジョンに到着することはなかった。正確な位置が不詳となり、ライン川の向こう側であると誤認して、眼下の町はディジョンから約35kmのコルマールと誤認した。ドイツ軍機は、15時59分から合計約69発の爆弾をフライブルグ街に投下した。

 ドイツ軍司令部はこのミスを隠蔽しようとし、爆撃を連合軍の行為と見なした。マスコミも、ドイツ軍の発表を受け入れて、連合軍の悪意のある空襲と報告した。人道と国際法のあらゆる法則に反する卑劣で卑怯な空襲として、新聞が「24人の民間人が死に追いやられた」と続けた。同時に、爆撃事件は、連合軍に対するさらなる攻撃を正当化するために利用された。1940年12月10日の演説の中でアドルフ・ヒトラーは、フライブルクの爆撃で民間人に対するテロリスト攻撃を連合軍が開始したとイギリスのウィンストン・チャーチル首相を非難した。フライブルクは、1942年のヒトラーの帝国議会演説で言及された。

 1956年4月5日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、1940年5月10日にフライブルクを爆撃した謎を解けたと報じた。当時KG51連隊の司令官であったヨーゼフ・カンムフーバー大佐は、1980年8月に1940年5月10日のフライブルク爆撃に関する機密情報を2人の戦史研究者に提示した。1940年5月10日は、ドイツ軍がフランス侵攻が勃発した初日であった。ドイツ軍は、報告書を偽造して、最初はフランス、次にイギリスに戦争犯罪の責任をなすりつけた。



2022年12月4日日曜日

2022年11月25日に、ウクライナ南部の州都のケルソンで、62歳の母親であるナタリア・クリステンコの死体をケルソン市の死体処理者が回収する中で、38歳の娘のリリア・クリステンコは悲嘆して泣いていた。

2022年11月25日に、ウクライナ南部の州都のへルソンで、62歳の母親であるナタリア・クリステンコ(Natalia Kristenko)の死体をへルソン市の死体処理者が回収する中で、38歳の娘のリリア・クリステンコ(Lilia Kristenko)は悲嘆して泣いていた。ナタリア・クリステンコさんの遺体は一晩中、アパートの玄関で毛布に覆われた状態で横62歳の母親は、11月24日夜に、お茶を飲んだ後に、夫と一緒に家の外を歩いていたところで、砲撃されたビルの破片が頭部に激突した。母親のナチタリアは頭部に外傷を負って即死だった。母親の夫である父親は数時間後に、腹部内出血のために病院で死亡した。

   母親のナタリアの死体は、一晩中に、アパートの玄関で毛布に覆われたまま横たわった。ウクライナ南部の州都へルソンを震撼させたロシア軍による致命的な攻撃連鎖に対応するために、へルソン市職員は当初母親を収容する前に圧倒された。母親は、紅茶を飲んだ後に、父親の夫と一緒に家の外を歩いていた。その直後に、ロシア軍が近隣の建物を攻撃した。母親は頭部を負傷して即死した。父親の夫は数時間後に、病院で腹部内出血により死亡した。娘のリリアは救急車を呼ぼうとしたが、電話網がなかった。66歳の父親は腹部の傷口を押さえながら、死ぬほど痛いと叫んだ。結局、父親は救急車で病院に運ばれるも、手術中に死亡した。

 約1日経過して、母親を死体安置所に運ぶための処理班が到着して、恐怖の中で見守った。ウクライナのへルソン市当局は、11月24日に、ロシアの砲撃により約10人の市民が死亡して、約54人が負傷して、へルソン市の2つの地区が大規模なミサイル砲撃にさらされた。へルソン市の人口は、戦前の約30万人近くから約8万人程度に減少した。ロシア軍がドニエプル川を越えて撤退したため、へルソン市はロシア軍の攻撃強化に直面した。ロシア軍国防省は11月9日、約4万人規模のロシア軍が駐留した南部ヘルソン州の州都ヘルソン市からの全面撤退を発表した。市民らは11月13日、ヘルソン市の通りに出て、ウクライナ軍兵士と抱き合った。












Warning: Lilia Kristenko, 38, cries as city responders collect the dead body of her mother Natalia Kristenko in Kherson, southern Ukraine, Friday, Nov. 25, 2022. Natalia Kristenko's dead body lay covered in a blanket in the doorway of her apartment building for hours overnight. (AP Photo/Bernat Armangue)


2022年12月2日金曜日

1945年5月25日のアメリカ軍による東京大空襲の後に、5月27日に警察官が青山警察署横に集積した焼死体、所持品や死体の特徴などを検死した。

1945年5月25日のアメリカ軍による東京大空襲の後に、5月27日に警察官が青山警察署横に集められた焼死体、所持品や死体の特徴をメモした。日本の警察官が、首都である東京の焼夷弾の空襲直後に、瓦礫と死体が散らばる東京の通りの真中に立って検死した。

 東京大空襲は、1944年11月14日以降に約106回の空襲をアメリカ軍の爆撃機B-29から受けた。特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。1945年5月24日未明に、東京の山の手地域と空襲で焼け残った東京の都市全体を空襲目標とした。約525機の爆撃機B-29が、渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。翌日の5月25日深夜には、焼夷弾による空襲の被害を受けなかった東京の残存地域を空襲目標とした。アメリカ軍の約470機の爆撃機B-29が、約3,000トンの高性能焼夷弾を投下した。空襲の被害は、東京の山の手方面を中心に、南多摩・北多摩にまで及んだ。

 5月24日未明の東京大空襲は、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲された。約520機の爆撃機B-29が、3,646トンの焼夷弾を投下した。被害は罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人で、死者は警視庁の調べでは約762人、東京都の調べでは約530人であった。

 5月25日から5月26日の東京大空襲では、5月24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にて西部住宅地が空襲された。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失した。この地域の空襲では、高層のコンクリート建築の建物もあり、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も投下された。約464機の爆撃機B-29が、約3,258トンの焼夷弾と約4トンの爆弾を投下した。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは約3,242人、東京都の調べでは約3,352人であった。

 太平洋戦争中は、戦時災害保護法などにより、民間人の傷害者等の被災者と死者の遺族にも救助・給付などの援護措置がされた。東京都独自の見舞金も支給された。しかし、戦後、軍人・軍属と民間人への特別の措置が廃止された。サンフランシスコ講和後、日本人の軍人・軍属への援護や恩給は復活した。民間人や朝鮮人・台湾人への援護は復活されないままである。ただし、日本人の勤労動員学徒、女子挺身隊員、徴用工、被爆した国民義勇隊員、地上戦の戦闘参加者、防空監視員、警防団員などは準軍属と位置づけ、最初は、軍人・軍属と格差はあるも、同様な援護を措置した。




2022年11月27日日曜日

キエフ地方警察が提供された写真から、2022年11月23日に、ウクライナの首都キエフでロシアのミサイル攻撃があった現場で、地域の人々が死体を運んだ。

キエフ地方警察が提供された写真から、2022年11月23日に、ウクライナの首都キエフでロシアのミサイル攻撃があった現場で、地域の人々が死体を運んだ。当局は、水曜日にウクライナのインフラ施設を襲った新たな攻撃の後、キエフの一部を含むウクライナの複数の都市と隣国モルドバでも停電が発生したと報告した。複数の地域が攻撃され、停電が連鎖的に発生した。ロシア軍は11月23日に、ウクライナの壊滅的なエネルギー網に新たなミサイル攻撃を行い、都市から電力、一部の水、公共交通機関を奪って、何百万人もの冬の苦難をさらに深刻化させた。

 ウクライナ当局によると、2022年11月23日にウクライナ全土で新たなロシア軍の約70発のミサイル攻撃が発生し、少なくとも7人が死亡し、36人が負傷(5人の子供を含む)した。キエフ地域では4人(17歳の少女を含む)が死亡した。キエフ市内では3人が死亡した。ウクライナのエネルギー省は、ウクライナのエネルギ・インフラに対する大規模なロシアのミサイル攻撃により、ほとんどの発電所が停止し、大多数の人々に電力が一時的に供給されなくなった。ロケット弾が重要なインフラを直撃し、首都の一部が停電し、熱と水の供給がひどく途絶えた。ザポリージャ地方南部のビルニャンスクでは、病院の産科病棟がロケット弾攻撃を受けて、救助隊による救出で、女性と医師がロシア軍の産科病棟の瓦礫の中から救助される間に、生後2日目の新生児の赤ちゃんは死亡した。 

 ロシア軍は数週間に、ミサイルや爆発するドローンで電力網や施設を攻撃し、修復よりも早く損害を与えた。ゼレンスキー大統領は、駐国連大使に安全保障理事会の緊急開催の要請を指示した。安保理で演説し、ウクライナは「あらゆる形態のエネルギーテロ」を非難する決議案を提出すると述べた。ロシア・ウクライナ戦争にて、犯罪的戦争を行う側に拒否権が確保されているのは無意味であると述べた。




2022年11月20日日曜日

ウクライナ南部ヘルソン州から北西部の湾口都市ミコライフにて、2022年11月11日にロシア軍のミサイル攻撃の現場で、救急隊員が瓦礫の下で見つかった民間犠牲者の死体をストレッチャーで運搬した。

ウクライナ南部ヘルソン州から北西部の湾口都市ミコライフにて、2022年11月11日にロシア軍のミサイル攻撃の現場で、救急隊員が瓦礫の下で見つかった民間犠牲者の死体をストレッチャーで運搬した。ウクライナ南部の都市ミコライフで11月11日の早朝、ロシア軍のミサイルが住宅を攻撃した。少なくとも5人が死亡して、数人が負傷したと地方当局が発表した。ロシア軍が、ウクライナ軍のへルソン州西部地域の奪還に向けて報復した。5階建てのビルが攻撃されて、完全に崩壊したと、地方行政当局は暫定的に死者5人、負傷者2人と発表した。

 ウクライナの救急隊の写真で、瓦礫の中で破壊された建物を検証できた。ロシア軍が11月10日にドニエプル川東岸に撤退を開始して、ウクライナ軍が約100km離れたへルソン州の十数地域を奪還したと発表した数時間後に、ロシア軍のミサイル攻撃を受けた。ロシア軍のウクライナ軍事侵攻を巡って、ロシア国防省は11月11日午前5時に、ロシア軍がヘルソン州南部のドニエプル川西岸地域からの配置転換を完了したと発表した。ウクライナ国防省もウクライナ軍が西岸の要衝の州都へルソンに奪還に向けて侵入したと発表した。

 ロシア軍によるS-300ミサイル攻撃で、州都へルソンから約68km離れたミコライフで7人が死亡したと、ウクライナ当局は発表した。救助隊は、生存者を探すために5階建ての住宅ビルの瓦礫をかき分けた。ローマン・マモントフ(16歳)は、かつて家族が住んでいたアパートの前に立ち、行方不明の母親を待機した。マモントフは、ミサイルが落下した後に、母親を探すためにアパートのドアを開けたら、何もなかったという。その瞬間に彼女はそんなはずはないと否認して、頭が真っ白になり呆然とした。















Warning: Medics carry the lifeless body of a victim found under rubble at the scene of night shelling in Mykolaiv, Ukraine, Friday, Nov. 11, 2022. (AP Photo/Efrem Lukatsky)

2022年11月11日金曜日

朝鮮戦争休戦協定を巡る協議が開始された直後に、板門店の中立地帯で、アメリカ軍の戦闘機によって機銃掃射されて、殺害された朝鮮人の少年の死体を、韓国軍・中国軍・アメリカ軍軍の将校が向かい合った。

朝鮮戦争休戦協定を巡る協議が開始された1951年7月10日直後に、板門店の中立地帯で、アメリカ軍の戦闘機によって機銃掃射されて、朝鮮人の少年が殺害された。


1951年10月12日に、韓国軍と中国軍とアメリカ軍の将校たちが、死亡した少年の死体を挟んで向かい合った。


 朝鮮戦争休戦協定(Korean Armistice Agreement)を巡る休戦合意の協議は、韓国の国境近く黄海北道に位置し、北朝鮮が占領する都市開城で、1951年7月10日に始まった。休戦交渉の最高責任者は、北朝鮮副首相兼人民軍総参謀長の南日大将とアメリカ軍のチャールズ・ターナー・ジョイ中将であった。約2週間後の1951年7月26日に、5項目の協議事項が合意された。

 協議事項が合意を受けて、会談はゆっくりと断続的に進行した。しかし、1951年8月23日から最も長く中断した。8月23日夜明け前に北朝鮮と同盟国の中国とソ連は、開城の会議場が爆撃されたと主張した。北朝鮮は、国連軍に直ちに調査を求めて、国連軍が実際に会議場を攻撃した証拠があると主張した。しかし、証拠は捏造された可能性から、共産主義国側は日本と中国の調査を拒否した。

 休戦協議は1951年10月25日に再開した。アメリカ側は開城の会談を認めず、南北朝鮮を隔てる京畿道にある板門店が、双方の安全が守られる条件で、平和協議の新たな場所と合意された。1951年7月26日の5項目の合意事項が、1953年7月27日に休戦協定に署名されるまで協議を主導した。

 国連軍はコマンドー作戦により、朝鮮戦争中の1951年10月3日から10月12日に攻撃した。アメリカ第1軍団はジェームズタウンラインを占領し、人民義勇軍(PVA)を撃破した。攻撃は1951年10月3日に延長されたワイオミングラインから始まり、10月12日に終結した。南側の丘陵はまだ人民義勇軍に占領された。約9.7kmの侵攻により、かなりの犠牲と損害を伴って、アメリカ軍第1騎兵師団は再整備のため日本のアメリカ軍基地に引き揚げた。