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2024年1月11日木曜日

1942年1月7日~2月8日の第1次バターン攻略戦の間に、アメリカ軍とフィリピン軍からの砲撃の中で、バターン半島の最前線で、日本軍兵士は次々と戦死して、攻略戦を開始して約2週間で約2,000人が死傷した。

太平洋戦争が勃発した直後の1941年12月22日から1942年5月8日にかけてフィリピン攻略戦が勃発した。1942年1月7日~2月8日の第1次バターン攻略戦の間に、アメリカ軍とフィリピン軍からの砲撃の中で、日本軍兵士はわずかな隠れ蓑を利用してゆっくりと侵攻した。第1次バターン攻略戦にてバターン半島の最前線で、日本軍兵士は次々と戦死して、攻略戦を開始して約2週間で約2,000人が死傷した。

 非武装都市だった首都マニラを、日本軍第14軍が1941年12月22日にリンガエン湾から上陸して、12月24日にラモン湾から上陸して、約10日後の1942年1月2日に首都マニラを占領した。開戦と同時に実施された日本陸海軍の航空隊の空襲により、在フィリピン空軍はほぼ全滅して、マニラの非武装都市宣言がなされ、日本軍は無血に占領して大規模な戦闘は殆ど行われなかった。

  アメリカ軍とフィリピン軍は、マニラ湾を形づくるバターン半島に退却していた。日本軍はその人数を約30,000人程度と見て、戦わずしてバターン半島のジャングルに逃げ込んだ軍隊と判断した。日本軍第14軍の最強部隊は、オランダ領・現インドネシアの攻略の為に、マニラ占領の直後から引き揚げていた。

 第一次バターン攻略戦にて、ジャングルでの戦闘経験が少なかった日本軍の治安警備部隊と第65旅団の約7,000人が、バターン半島に退却したアメリカ軍とフィリレピン軍を追撃した。バターン半島は長さ約50km、幅約30km、大部分が山岳とジャングルに覆われていた。日本軍の第65旅団は分散してジャングルの中に分け入った。日本軍には、まともな地図もない上に、人跡未踏に近いジャングルに難渋した。標高約1,000mのナチブ山系に拠る防御線に突撃すると、アメリカ軍とフィリピン軍から猛烈な砲撃を受けた。バターン半島の最前線にて、日本軍兵士は次々と戦死し、攻撃を開始して約2週間で約2,000人が死傷した。第65旅団は元々戦闘の為の大砲を持っておらず、小銃だけの装備でジャングルの中に突撃した。

 アメリカ軍とフィリピン軍は、山岳とジャングルに覆われた天然の要塞・バターン半島に、太平洋戦争が始まる約1年前から、三段構えの強固な防御線を構築して、日本軍を迎え撃つ演習を重ねていた。太平洋戦争の開戦と同時に、兵器、爆弾、石油、食糧など、6カ月の攻防に耐えられる分量を急速輸送した。バターン半島の先にはコレヒドール島という大要塞があり、近くには通商「軍艦島」のフライレ島要塞が控えていた。

 既に大きな犠牲を出していた日本軍は、1945年2月中旬に、マニラの倉庫に残存したバターン半島要塞の詳細な地図を発見した。既にその時に、第65旅団は第2防御線サマット山攻撃に挑んで、兵力の3分の2程度を失った。途中増援された第16師団の一部も、大部分の兵力を失った。2月8日に攻撃停止を指示し、日本軍の第1次バターン攻略戦は中断に至った。




2024年1月9日火曜日

アメリカ軍は1945年3月4日に東京の市街地を空襲した。東京の空襲の犠牲者の死体を、防空頭巾を被った女子救護隊員が搬送した。

アメリカ軍は1945年3月4日に東京の市街地を空襲した。東京の空襲の犠牲者の死体を、防空頭巾を被った女子救護隊員が搬送した。重量のある死体は、女子には辛らく担架で搬送した。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、約650人が死亡した。アメリカ軍のB29が来襲すると、必ず多数の民間人の犠牲者が出た。1944年3月3日の閣議決定「一般疎開促進要綱」から、閣議決定や通達により学童以外の疎開は制限され続けた。1943年8月に内務省が頒布した小冊子「時局防空必携」には、「私たちは祖国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を護ります。」を市民に強要した。1941年11月に防空法が改正され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定された。

 B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まった。1945年3月10日の東京大空襲より前の空襲は、飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であった。アメリカ軍は高高度から、多くは昼間に爆撃した。東京の場合に、航空機工場の中島飛行機武蔵製作所を第一目標とする精密爆撃が行われた。その爆撃が困難な時には、第二目標とした東京の市街地を無差別に爆撃した。11月24日からすでに荏原区などの市街地が空襲された。11月27日には中島飛行機を全然爆撃しないで、渋谷区の原宿などを空襲した。11月29日から30日にかけて市街地への夜間の集束油脂の焼夷弾を使った空襲がすでに執行された。1945年1月27日には繁華街の銀座や有楽町が空襲され、約530人が死亡した。2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、119機のB29が市街地を爆撃し、区部で約160人以上が死亡した。2月25日は、マリアナの基地を飛び立つ前に中島飛行機を爆撃できないで、第一目標を東京下町の市街地に切り替え、爆弾を焼夷弾に積み替えた172機のB29が空襲した。2月25日の空襲は、目標地域が3月10日の東京大空襲と同じ最も燃えやすい下町の住宅密集地であり、後期に実施される区部の市街地に対する焼夷弾爆撃の実験的な空襲となり、195人が死亡した。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、約650人が死亡した。1944年11月24日から1945年3月4日までの空襲により、区部で約2000人以上が死亡した。

 東京への本格的な空襲は1945年3月10日からの下町への大空襲を境に区分された。3月10日以降の空襲では、膨大な数の死者が出て、無数の死体の山ができました。「戦場掃除」と呼ばれる前線での死体処理と同じような乱暴な扱いで、遺体が片付けられました。通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされました。死体数は1945年3月~5月にかけての大空襲で、約9万4800人の犠牲を伴った。




2024年1月8日月曜日

1916年5月15日に、近隣の農夫の白人妻ルーシー・フライヤーが殺害された数日後に有罪判決を受けたジェシー・ワシントンの拷問と火刑のリンチを見学するために、数千人がウェイコ市役所前に集まっていた。

1916年5月15日に、近隣の農夫の白人妻ルーシー・フライヤーが殺害された数日後に有罪判決を受けたジェシー・ワシントン(Jesse Washington)の拷問と火刑のリンチを見学するために、数千人がウェイコ市役所前に集まっていた。リンチの様子を撮影した写真によって、"ウェイコ・ホラー "として広く非難されることになった。この事件は、全国的な反リンチ活動の転機となり、1909年に結成された全米最古の公民権団体である全米有色人種地位向上協議会(NAACP: National Association for the Advancement of Colored People)が脚光を浴びた。ジェシー・ワシントンのリンチには、約15,000人から約20,000人もの白人群衆が立ち会ったと推定された。彼らは、ジェシー・ワシントンが刺され、殴られ、やがて焼かれて焼死するのを見守り、悲鳴と歓声をあげた。



 1916年5月8日の日暮れ頃に、ロビンソン近郊の綿花農家の白人妻ルーシー・フライヤーが、農場の種苗小屋の出入り口に横たわって棍棒で殴られて死んでいるのが発見された。性的暴行の形跡もある悲惨な現場で、当局は鈍器が凶器として使われたと断定した。ジェシー・ワシントンは読み書きのできない黒人の若者で、兄とともに数ヵ月前からフライヤー家で雇い人として働いていた。

 ワシントンは血まみれのアンダーシャツとズボンを着ていた。5月8日の夕方までに、ワシントンは逮捕された。逮捕後、ワシントンはヒルズボロの拘置所に移された。マクレナン郡保安官サミュエル・フレミングは、暴徒による暴力の噂を聞いて、ワシントンを容疑者に断定した。最初の面会では、ワシンシンはすべての関与を否定して、 "俺はやってない "と言った。5月9日の早朝にかけての拷問によって、結局5月9日の早朝に、ワシントンはルーシー・フライヤーを強姦して殺したと自白した。

 ルーシー・フライヤー殺害事件からわずか1週間後に、ジェシー・ワシントンの裁判がマクレンナン郡裁判所のリチャード・マンロー判事主宰で満員の法廷で始まった。陪審員の選出と予備手続きは迅速に行われ、検察側の主張には監察医、保安官代理、捜査官の証言が含まれた。裁判が始まる前に、何者かが裁判所内でワシントンを殺害しようとし、結局取り押さえられた。被告側は、ワシントン本人だけが証言台に立って、これ以上付け加えることはないと述べた。推定4分間の審議の後に、白人ばかりの陪審員は有罪の評決を下した。

 5月15日に、評決の後、法廷は激しく揺れ動き、暴徒の一団がワシントンを取り押さえ、すぐに法廷を出て行った。ワシントンと彼を捕らえた者たちが裁判所の裏階段に出てくると、裁判のためにウェイコの下町に集まっていた暴徒が出迎えた。叫び声と歓声、"捕まえろ、捕まえろ "と悲鳴があがった。ワシントンの首に鎖がかけられ、市役所のすぐ外にある、火葬をするために集まる場所に引きずり込まれた。群衆が押し寄せると、ワシントンを襲おうと、彼の服を引き裂き、ナイフで刺し、レンガや棍棒、シャベルで殴打した。1時間にわたりワシントンを引きずる鎖は、木の上に投げ出され、炎に上げ下げされながら、彼の体には石炭油がかけられた。ワシントンの死体が燃えるにつれ、彼の体はさらにバラバラにされた。昼過ぎには、ワシントンの遺体はほとんど残っておらず、焼け焦げた頭蓋骨と胴体だけが残っていた。その日の午後、役人が遺骨を引き取り、無名の貧民墓地に埋葬された。ジェシー・ワシントンへのリンチのニュースは州内、世界中にも広まった。





2024年1月2日火曜日

カダルカナルの戦いにて1942年8月21日のテナル川の戦場にて、アメリカ軍衛生兵が、負傷した日本軍兵士は戦場で応急処置した。散乱した日本軍兵士の死体は、担架で搬送して集積した。

太平洋戦争のカダルカナルの戦いにて1942年8月21日に、テナル川河岸の戦場にて、日本軍は壊滅した。アメリカ軍海兵隊の衛生兵が、生存した日本軍兵士は戦場で応急処置して後送した。散乱した日本軍兵士の死体は、担架で搬送して一カ所に集積した。

 アンディ・ポリーニ上等兵が2人の日本軍兵士の負傷を発見し、4人の仲間を迎えて傷の手当てをした。日本軍兵士の1人が突然横転してアメリカ軍兵士を負傷させ、ポリーニは直ちにライフル銃で2人の日本軍負傷兵を殺害した。日本軍兵士の負傷者を助けようとして、手榴弾を引いた負傷した日本軍兵士に殺害されたアメリカ軍衛生兵もいた。ヴァンデグリフト将軍は、日本軍の救援活動をすべて中止し、負傷兵はその場で射殺するように命じた。残酷な戦闘を生き延びた海兵隊員は「死んだジャップだけが良いジャップだ!」と警告した。

 太平洋戦争のガダルカナル島の戦いにて、1942年8月21日午前1時30分に、アメリカ軍海兵隊はテナル川の対岸からぞろぞろと急ぐ日本軍の足音を聞き、砲撃開始の命令を下した。同時に、対岸から日本軍の砲身から一斉射撃が行われた。直後に、日本軍兵士が銃剣を持ってココナツ林からあふれ出し、万歳!と叫びながら砂州に向かって突撃した。走りながら手榴弾を投げて、河口全体をあっという間に埋め尽くした。最初は約500人の日本軍兵士兵が突撃した。アメリカ軍の猛烈な砲火を浴びて、日本軍部隊は丸ごと一網打尽にされた。生存した日本軍兵士の一人は、「まるでハエがカメを襲って、ハエはカメに対してまったく無力だった!」と表現した。一木先遣隊は、中洲からの襲撃が成功する見込みがないと判断して、午前3時10分にテナル川の横断を命じ、アメリカ軍陣地の右翼に突撃した。猛攻の中で、アメリカ軍の陣地に侵攻したのはわずか8人であった。日本軍兵士は、手榴弾を頻繁に投げてアメリカ軍の照明を破壊した。一夜の激戦の末に、一木先遣隊の半数が死傷して、将校もほとんど戦死した。一木先遣隊は、それでも夜明けまで退却しなかった。

 8月21日未明に、12機のドレッドノート急降下爆撃機が、一木先遣隊が潜伏したココナッツ園を繰り返し爆撃した。アメリカ軍がテナル川の上流を渡り、一木先遣隊の南部を包囲して、日本軍残党を海岸沿いの狭い地域に閉じ込めて、海兵隊が一人ずつ殺害した。8月21日夕暮れ時、一木先遣隊の最後の瞬間が近づいた。海兵隊は砂州を越えて突撃するのを援護するため、軽戦車小隊を派遣した。戦車はヤシの木をなぎ倒し、日本軍防衛兵を殺害して、絶望的な日本軍兵士を崩壊した。戦車は死傷兵の上を走り回り、足跡に血と肉がこびりついた。一木先遣隊は戦死したココナッツ畑で玉砕した。

 ココナツ林に残った日本軍兵士はほんの一握りで、重傷を負った一木を取り囲み、軍旗の焼却を命じた。アメリカ軍の戦車が残った日本軍兵士の集団を発見した時に、すでに日本軍の軍旗は燃えた。日本軍兵士は一人、また一人と殺害された。一木清直は殺害される直前にサーベルを抜いて腹切をした。負傷兵のうち8人だけが残存した日本軍部隊に逃げ帰った。テナル川の河口での戦闘は約16時間続いて、8月21日午後17時頃に終結した。日本軍兵士は約777人が死亡して、アメリカ軍の死者34人、戦傷者75人で終結した。




2024年1月1日月曜日

ドイツのノルトハウゼン町にあるドーラ・ミッテルバウ強制収容所の近郊に、アメリカ軍はドイツ民間人に命令して掘らせた集団墓地に、1945年4月14日に小さな赤ん坊と幼児の死体が埋葬された。

ドイツのノルトハウゼン町にあるドーラ・ミッテルバウ強制収容所の近郊に、アメリカ軍はドイツ民間人に命令して掘らせた集団墓地に、子供たちの死体が埋葬された。アメリカ軍兵士が、1945年4月14日に、集団埋葬される子供たちの死体を上から見下した。ノルトハウゼン町のドーラ・ミッテルバウ強制収容所付近で発見された子供の死体は、集団埋葬墓に横たわった。ドイツのノルトハウゼン町の恐怖の強制収容所で、小さな赤ん坊と幼児の死体を集団埋葬するために、集団墓地に安置された。アメリカ軍がノルトハウゼン町の強制収容所の地域に到着した時に、数百人の強制労働された囚人の死体が敷地内に散乱していた。強制収容所にて病死者の傍らには腐敗した死体が横たわった。さまざまな国籍の虐待を受けた囚人たちの間で病気が歯止めなく広がった。アメリカ軍将校は直ちに、この地域のドイツ民間人に、犠牲者の囚人ためにまともな埋葬を行うように命じた。

 ノルトハウゼン町のドーラ・ミッテルバウ強制収容所は1945年4月12日に、アメリカ軍第104歩兵師団によって解放された。最初のアメリカ軍下士官兵が強制収容所に到着したときに、彼らは凄惨な光景を目の当たりにした。強制収容所の敷地内には約3,000体以上の死体が無造作に散乱していた。いくつかの格納室には生存者がおらず、他の格納室では、何十体もの死体の中に数人の生存者が横たわった。悲惨な状況に、アメリカ軍第104歩兵師団の衛生部隊は緊急の医療支援と補給を要請した。強制収容所のすぐ近隣に住んでいた約400人以上のドイツ民間人が、アメリカ軍下士官兵によって死体を処理させられた。第104師団の衛生部隊による治療にもかかわらず、収容所の解放後の数時間から数日の間に、多数の収容者が死亡した。

  1943年8月から、ドイツ軍はV-2ミサイル製造をユーズドン島からノルトハウゼン町から約1.6km離れたコーンシュタイン丘の地下施設に移した。最初のV-2ロケットは1944年9月8日にロンドンを攻撃し、最後の発射は1945年3月27日であった。約7ヶ月間の攻撃で、連合国の都市を攻撃した弾頭は約3,000発を超えた。1944年10月下旬にドーラ・ミッテルバウ強制収容所はV-2の製造が本格化した。1945年4月3日に、連合軍の爆撃作戦はノルトハウゼン町を標的にした。爆弾はボエルッケ・カーゼルネ小営倉を直撃して、約1500人の囚人が死亡した。4月4日に、ナチス・ドイツはドーラ・ミッテルバウからベルゲン・ベルゼンとラーヴェンスブルックへの移送を開始し、囚人たちは耐え難い死の行進を強制された。

 1943年8月から1945年3月まで、ミッテルバウ・ドーラ強制収容所には少なくとも6万人の囚人が収容された。少なくとも約12,000人が収容所内で殺害された。ミッテルバウ・ドーラの退去後の死の行進でも、2万人以上が殺害された。




2023年12月19日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテを1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチ町のドアに釘で打ち付けた写真を公開した。

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテ(Charlemagne Masséna Péralte)を1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチの町のドアに釘で打ち付けられた。アメリカ軍が死体を撮影して写真を公開して、ペラルテの残存信者の士気を下げようとした。アメリカ軍による処刑後に、カコスの指導者ペラルテの死体が展示された。逆効果で、イエスの十字架からの降下に類似して、ペラルテは国民的殉教者の栄誉を得た。

 ペラルテはハイチの民族主義指導者で、1915年のアメリカ軍によるハイチ占領に抵抗した。カコス(Cacos)と呼ばれるゲリラ戦闘員を率いて、ハイチに駐留するアメリカ軍に挑戦を叩きつけた。深刻な内紛が始まり政府が再び転覆したハイチに、ウッドロー・ウィルソン米国大統領は、1915年7月にアメリカ海兵隊を派遣して、ハイチを侵攻した。アメリカは1915年から1934年までハイチを占領した。ペラルテはレオガン市軍司令官だった。1918年9月に強盗事件の逮捕から逃亡して、ペラルテはハイチ北部に臨時政府の樹立を宣言した。数千人の農民非正規兵を動員して、1919年10月7日にポルトープランスを含むアメリカ軍の軍事施設を攻撃した。ペラルテは将校の一人であるジャン=バティスト・コンゼの裏切りに遭い、変装したアメリカ海兵隊軍曹ハーマンH.ハンネケン(後にその功績により少尉に昇進)とウィリアム・バトン伍長を率いて、グラン=リヴィエール=デュ=ノールは、変装して夜陰にまぎれてグラン・リヴィエール近くの反乱軍キャンプに侵入した。1919年11月1日にペラルテは至近距離から背中の2発から心臓を撃たれて暗殺された。ハンネケンとその部下たちは、ペラルテの死体をロバに縛り付けて逃走した。

 殺害されたペラルテの遺体はヒンチェで公開された。ハイチ住民からの反政府勢力の支持を思いとどまらせるため、アメリカ軍はペラルテの死体をドアに縛り付けた写真を撮影し、国内で配布した。しかし、それは逆効果となり、十字架刑に似たその画像はレジスタンスの象徴となり、ペラルテを殉教者として定着させた。1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト米国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。




2023年12月14日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦で男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、甚大な犠牲者を出した。

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦では、男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、その多くが死亡した。師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出した。教員の養成機関であった沖縄師範学校は太平洋戦争中の1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。

 1945年3月31日に、沖縄師範学校生徒に召集令が下り、予科2年から本科3年まで約386人は鉄血勤皇師範隊を編成して、日本軍の作戦の沖縄戦に参加した。アメリカ軍が1945年4月1日に沖縄に上陸して5月下旬、沖縄戦が不利になり、日本軍とともに首里から南部へ移動し、摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出た後は、アメリカ軍に斬り込む者や壕内で自決で自殺する者など多くの犠牲者を出した。

 ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍による看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、6月19日から約1週間の間に約227人が絶命した。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められた。砲弾の飛び交う中、戦傷した体で逃げる者、重傷で動けず倒れる者、砲弾に吹き飛ばされた者、黄リン弾攻撃を受けた者、手榴弾を爆発させ自決した者、海岸で大波に水没する者など、戦傷で行き場を失って、絶命する生徒が続出した。戦跡「ひめゆり塔」がある沖縄陸軍病院第三外科が南部撤退後に入った壕である伊原第三外科壕に、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民など約100名が隠れたが、6月19日早朝にアメリカ軍の攻撃を受けて、約80人が死亡した。

 天皇を崇拝する皇民化教育と軍国教育も、教師育成の学校であり、特に徹底された。学徒の招集の際には、法的根拠がなく自主的に参加するという扱いであり、親の許可も必要でした。沖縄師範学校のほとんど生徒は、学徒隊として参加した。




2023年12月12日火曜日

アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して呼吸は停止した。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。

イラク戦争が2003年3月20日に開戦する直前に、アメリカ軍は当時は地上戦は開始せずに、空爆を繰り返していた。アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。瓦礫の山に駆け寄ったイラク人の運転手は、その下を覗き込むや泣き出した。瓦礫の下に埋まったイラク人の死体を見てしまった。午前7時頃の暗闇に死体が浮かび上がって、イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して、呼吸は停止していた。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。アメリカ軍は、殺害された人間の顔を見ないで、ミサイル攻撃をしていた。開戦前であるので、イラク戦争の犠牲者第一号であろう。あるいは第二号も第三号も、瓦礫の下に埋まっているかもしれない。

 イラク人の運転手のすすり泣きが続いた。外に飛び出していた一人のイラク人が後ろから死体を覗き込んだ。その犠牲者の親戚であったイラク人は、泣き続ける運転手を指さして、「死体は運転手の兄なのだ」と言った。報道写真家が乗って来た車の運転手が、イラク戦争の開戦直前の犠牲者第一号の弟であった。一刻も早く、この場から立ち去らねばならない。すでに誤爆の証拠映像はフィルムに収めて、カードに記録した。物騒な現場に長居は禁物である。しかし、肝心の車の運転手は悲劇で運転不能となった。やがてイラク人の警察官まで現れて、当地にイラク軍の情報部が駆けつけたら、怒り狂って逮捕されるかもしない。

 2003年3月20日午前5時34分(バグダット時間)に、奇襲的なイラクへの軍事侵攻が開始された。宣戦布告はなかった。約24万8000人のアメリカ軍兵士、約4万5000人のイギリス軍兵士、約2000人のオーストラリア軍兵士、特殊部隊GROMから約194人のポーランド軍兵士が派遣された。連合軍は、約7万人以上のイラクのクルド人民兵部隊も支援された。2003年3月20日に、サダム・フセインに対するイラク撤退の最後通告が期限切れを迎えて、アメリカ軍と同盟軍は本格的なイラク侵攻を開始した。




2023年11月29日水曜日

朝鮮戦争にて1951年9月24日に、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

朝鮮戦争において、1951年9月23日に、国連軍は朝鮮半島の38度線の北に数km前進し、約3週間にわたって北朝鮮軍と交戦した。9月24日、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

 1951年9月13日に「ブラッディ・リッジ」の北隣の尾根である「ハートブレイク・リッジ」の戦いは、38度線の北側でアメリカ軍第2歩兵師団によって開戦した。約30日間にわたる戦闘の末、1951年10月15日に、3745人の死傷者を出しながら、この地域はアメリカ軍によって確保された。両軍とも多大な損害を被ったため、朝鮮戦争で国連軍が行った最後の大規模な攻撃となった。

 1951年4月11日にトルーマン大統領は、マッカーサー元師を解任した。朝鮮戦争は膠着状態が続いて、朝鮮半島の領土の交換はほとんど行われなかった。1951年7月10日に、国連軍と北朝鮮軍は開城で休戦交渉を開始することに合意した。休戦交渉は8月22日に共産党軍によって打ち切られた。その後、アメリカ軍の第8軍の防御態勢を改善するため、一連の限定的な目標攻撃を開始した。朝鮮半島の中東部のアメリカ軍の第X軍団と韓国軍の第1軍団は、カンザス線への攻撃を有利にする陣地から、北朝鮮軍を追い出すため、カンザス線から約8km〜約11km上方の地形目標(ブラッディーリッジやハートブレイクリッジなど)を目指して戦った。1951年10月最終週までに、これらの目標は確保された。朝鮮半島の38度線沿いで血みどろの膠着状態が続く中で10月25日に、板門店の新しい場所で共産党代表団と国連代表団による休戦交渉が再開された。




2023年11月28日火曜日

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。これらの南軍兵士の死体は、1863年7月2日にローズ・ウッズとその周辺で戦った南軍のジョージア連隊あるいはサウスカロライナ連隊兵士の死体と推定された。チャンセラーズビルでの恐ろしい交戦の代償の一部でもある。南軍の最大の損失はストーンウォール・ジャクソン中将であった。何百人もの両軍の戦死兵士の死体が、夜の荒野で燃え盛る雑木林の中で焼かれた。

 ティモシー・オサリバンとアレクサンダー・ガードナーの戦争写真家が、1863年7月5日あるいは7月6日にローズ・ウッズの端近くで撮影した一連の写真の1枚である。ボルダーに最も近い兵士の死体は浅い墓に横たわった。背景には、写真家たちの暗室ワゴンが見える。ゲティスバーグのローズ・ウッズにいた南軍の死者の写真は、埋葬を待つ複数の男性が伏せた状態で一列に並んで、約3人ほどがうつ伏せになった。

 死体群は南軍が撤退する前に、埋葬するために集積した。腐敗し、肥大化した死体を集めた。腐敗して肥大化した死体を、最後の安置する墓地まで引きずるロープの先には、しばしば曲がった銃剣がフックとして使われた。引きずりの最中に、死体のズボンが下りてきた。南軍兵士が死体を埋葬する直前に、埋葬は未完成のままで、退却するよう突然命令が下された。

 1863年7月1日から7月3日に勃発したゲティスバーグの戦いは、北米で戦われた最大の陸戦となった。ゲティスバーグでは、南軍のロバート・リー将軍が率いる北ヴァージニア軍は約7万5千人であった。北軍のジョージ・C・ミード将軍が率いるポトマック軍は推定9万3千人であった。ゲティスバーグの戦いで、北軍と南軍のおよそ約5万人の兵士が死傷・行方不明の犠牲の結果に終わった。




2023年11月13日月曜日

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がジャングルに散乱した。

太平洋戦争のグリーン諸島の戦いにて、日本軍兵士は約120人が戦死して全滅した。ニュージーランド軍とアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体がグリーン島のジャングルに散乱した。グリーンランド諸島の最大の島である日産島は、通称グリーン島とも呼ばれ馬蹄形をした。残った日本軍は死闘を繰り広げ、降伏する者は一人もいなく全滅して玉砕した。

 グリーン諸島への攻略は1944年2月15日から2月20日まで、ニュージーランド軍とアメリカ軍の連合軍約5,800人がグリーン島へ上陸して勃発した。グリーン諸島は、ラバウルの真東約200km、ブカ島の北西に位置する小島である。日本軍は、2月初旬に潜水艦で上陸した今村均の 第8方面軍から12名の海軍監視員と約80名の陸軍要員で構成されていた。この小さな部隊はさらに増強され、約120人に達した。グリーン諸島に航空基地を設けて、ニューアイルランド島のカビエンを爆撃した。グリーン諸島には日本軍の海軍見張所があり、連合軍が上陸する気配を察したラバウルの南東方面艦隊は、日本軍陸戦隊の一個中隊を急ぎ派遣した。約3日間の戦闘でほとんど全滅した。日本軍は2月19日に最後の反撃を試みた。

 2月15日に海岸に上陸した連合軍の陣地が設置されると、シロート島周辺にいた日本軍が、短期間だけ抵抗した。翌日2月16日に、ニュージーランド軍部隊は島を横断して内陸に侵入し始めた。タナヘラン近くの島の南端にある教会周辺では、約70人の日本軍集団に遭遇した。日本軍集団は、戦車の支援を受けたニュージーランド軍により、数日間で制圧されて、日本軍兵士約62人が死亡した。2月19日にさらなる地上戦が行われ、2月20日に、ようやくグリーン島の安全が宣言されて、約120人から150人の完全に劣勢の日本軍から奪還した。2月23日に日本軍の組織的抵抗は停止したが、掃討作戦は2月末まで続いた。日本軍の全兵士の約120人が全滅して死亡した。連合軍の死傷者は13人、負傷者26人であった。




2023年11月10日金曜日

アメリカ軍のメリル・マーダーズ隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。1944年2月末から8月初旬で、ビルマの戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

アメリカ軍のメリル・マーダーズ(Merrill's Marauders)隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。メリル・マレーダーズ隊員のほとんどは、ビルマで戦いの任務に志願した熟練した戦闘員であった。アメリカ軍の戦闘部隊のメリル・マーダース隊員は、先鋒大隊として日本軍と戦って、日本軍の戦線の奥深くで参戦した。ビルマで戦闘に参戦したのは1944年2月末から8月初旬で、ビルマの日本軍との戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

 1943年8月のケベック会議で、ビルマにて日本軍の補給線と通信網を破壊し混乱に陥れる一方で、街道の再開するために、日本軍の背後へのアメリカ軍の長距離の侵攻作戦を決定した。ルーズベルト大統領は、危険な任務への志願者を募る大統領令を出した。約3,000人のアメリカ軍兵士が志願に応じた。部隊の正式名称は第5307複合部隊であり、コードネームは後に司令官フランク・メリル准将からメリル・マーターズと命名された。

 メリル・マーターズ部隊の募集は1943年9月1日に始まり、1944年8月10日に解散した。アメリカ陸軍第5307混成部隊で、日本軍が支配するビルマで後方に長距離に侵攻するために組織され訓練された。メリル准将が指揮した約2997人のアメリカ軍兵士を、メリルの襲撃隊と呼称した。

 メリルの襲撃隊は、1944年2月24日に最初の作戦で2,750人が参戦して、3月7日にワラウバムを占領後に、約2,500人が残存した。3月12日から4月9日の第2次作戦で、67人が死亡し、379人が傷病のため避難した。約2,000人に減少した第5307部隊は、4月28日の第3作戦で、ミィトキーナ飛行場奪取作戦のために、中国兵とカチン原住民兵を増員した。その奪取時に部隊は約1,310人に半減した。5月17日から6月1日に部隊の大部分は病気で苦しんで、空路で後方の病院に避難した。ミイトキーナの町が占領後に、当初のガラハド部隊のうち約200人が残存した。

 1944年2月から5月のマーターズ作戦で、ビルマ北部を奪還して、インド鉄道基地と中国への旧ビルマ街道を結ぶレド(Ledo)街道を開拓するために、中国第22師団と第38師団と緊密に連携した。カチン原住民兵は、ビルマ北西部のフカウン渓谷からイラワジ川沿いのミトキナまで、ジャングルを抜けて山を越えて行進し、戦った民兵であった。5つの主要な戦闘と30の小規模な戦闘で、メリル・マターズ部隊は、日本軍第18師団兵士と衝突して侵攻した。日本軍主力部隊の後方で侵攻して、補給線と通信手段を混乱させ、中国軍の南進に道を開いた。マ−ターズの作戦の絶頂は、ビルマ北部で唯一の全天候型飛行場であるミトキナ飛行場の占領であった。1944年8月に解散した第5307混成部隊の最後の勝利となった。作戦終了時に、マ−ターズ部隊の全員は、熱帯病、疲労、栄養失調、あらゆる蓄積に苦しみながら病院に疎開した。






2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年11月7日火曜日

太平洋戦争のグアム島の戦いにて1944年7月26日に、約2,500人の日本軍兵士がオロテ半島のアメリカ軍の殺戮に全滅して戦死して、数百人の日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争のグアム島の戦いにて1944年7月26日に、約2,500人の日本軍兵士がオロテ半島のアメリカ軍による殺戮に巻き込まれて全滅して戦死した。オテロ半島には、数百人の日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士のグアム島の防衛への貢献は、アメリカ軍の2つの上陸部隊の連結とアプラ港の開港を数日間遅らせて終結した。アメリカ軍の海兵隊への犠牲は、死者と行方不明者で約153人であった。グアム島の戦いはアメリカ軍が7月21日に上陸して勃発して、8月10日に終結した。日本軍は約18,500が戦死して、捕虜は約1,250人に及んだ。アメリカ軍は、約2,124人が戦死して、負傷は約5,676人の犠牲を伴った。

  アメリカ軍は7月21日に、アプラ港の確保するために、グアム西側のオロテ半島の両側に上陸した。激しい戦闘の後、アメリカ軍は1944年7月29日にオテロ半島の制圧を宣言した。推定約3,000人の日本軍兵士がオロテ半島を防御して戦死した。日本軍兵士全員は激しい肉弾攻撃を行って文字通り全滅した。アメリカ軍は、上陸した海岸の砂浜で多くの死傷者を出した。アメリカ軍は縦深陣地攻略に手間取り、日本軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続いた。日本軍は縦深陣地より出撃し、アメリカ軍の海兵隊に激しい夜襲を繰り返した。

 7月21日に、アメリカ軍はグアム島に上陸を開始した。グアム攻防戦にてもアメリカ軍の戦力は日本軍を圧倒的に上回った。戦闘開始後の一昼夜の戦いで、日本軍は兵士の半分以上を失った。7月25日には日本軍は、聯隊旗を焼却して、7月25日夜にアメリカ軍陣地に夜襲のバンザイ攻撃を仕掛けた。日本軍兵士は死傷者多く出て、ついに戦闘能力を失った。7月30日夜に、最後のバンザイ突撃をして、玉砕して全滅した。

 アメリカ軍のオロテ半島の制圧にて、日本軍約3,500人の約95%を損失した。アメリカ軍海兵隊の死傷者数は不明だが、死者数は200~300人、負傷者数百人と推定された。日本軍は、北部に押されながら防衛戦を戦った。オロテ半島から日本軍の撤退の試みは失敗に終わった。生き残った者はオロテ半島に閉じ込められて、絶体絶命となった。




2023年11月4日土曜日

広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、原爆病で死亡した被爆者を病理解剖をする臨時剖検室が広島逓信病院に設置された。広島逓信病院の臨時剖検室は、血便などの使用上から赤痢を疑われた被爆者を隔離するために急増して設置された病棟の一部であった。赤痢の疑いから解放された後に、臨時剖検室となった。

 広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。広島医専の玉川教授は、被爆者の病理解剖を、8月29日から10月13日までの剖検記録を残した。その助手として、内科の宮庄州男医師が病理解剖の記録した。

 8月6日に原子爆弾が炸裂して、広島が壊滅した直後から、病理解剖された原爆犠牲者の剖検記録が残存した。広島医専の玉川教授が、8月29日から10月13日にかけて病理解剖した19事例の全てが揃って残存した。病理解剖は、広島逓信病院(広島市中区)付近の板小屋で行われた。原子爆弾の放射線の早期の影響を調べた貴重な病理記録となった。玉川教授を初代教授とした現広島大大学院分子病理学研究室が保管している。

 玉川(1897年~1970年)は、1945年春に、広島医専の認可に伴って、岡山医科大助教授から広島医専の教授に転任した。8月6日は広島医専の疎開先であった現安芸高田市にいた。8月8日に広島市内へ入った。広島県庁に、病理解剖の許可を求めたが断られた。

 「脱毛、皮下溢血、未知の病変の続発する報に接したので、今は一刻の猶予もならぬ」と8月27日に再び広島市内に向かった。岡山医科大学の後輩で広島逓信病院の蜂谷道彦院長に協力を要請した。蜂谷道彦院長は「原子症」への注意を院内に張り出して、病理解剖の必要性を感じた。玉川教授は、宇品陸軍船舶司令部の暁部隊が、広島逓信病院の裏庭に建てた木造バラックで病理解剖した。玉川教授は、板壁を外して解剖台などを作った。10月13日までに19症 例を解剖した。復員した病院医師や来援の岡山医科大生らが助手を務め、口述を書き留めた。

 「広島市に於ける原子爆弾症の剖検記録19例」の論文は、GHQ占領が明けた1953年に刊行された日本学術会議の「原爆災害調査報告集」で公表された。広島大医学部の玉川教授は、原爆ケロイド患者の表皮からがんの転化を発見した。GHQに接収された病理・組織標本などは1973年にアメリカ陸軍病理学研究所から日本へ返還されて、旧広島大学原医研などが保管した。




2023年11月1日水曜日

1967年10月10日にバジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体と2人のゲリラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストがゲバラの死体を囲んだ。

1967年10月9日、エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)ら22人のゲリラ部隊は、アメリカのグリーンベレーとCIAの諜報員に訓練、装備、指導されたボリビア軍兵士によって捕獲されて39歳で死刑に処された。1967年10月10日に、バジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストが、ゲバラの死体を囲んだ。洗濯台下には、2人のゲリラの死体が地面に倒れた。2人とも胸部を露出して、体の傷口には緋色の血がついて、ショールを巻き、あごひげを生やした。

 1967年10月7日、ある情報提供者がボリビアの特殊部隊にユロ渓谷に、ゲバラがゲリラと野営している場所を知らせた。10月8日に、20人前後のゲリラ部隊と、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉が率いるボリビア政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられた。ゲバラは縛られて10月8日の夜に、近くのラ・イゲラ村の荒廃した泥の校舎に連れて行かれた。10月9日の朝に、ボリビアのレネ・バリエントス大統領はゲバラの殺害を命じた。ゲバラがボリビア軍との戦闘で戦死したように見せるため、ゲバラの頭部を撃たないように命じた。

 マリオ・テランという27歳のボリビア軍の軍曹が、ゲバラを処刑するために小屋に入った。ゲバラは10月9日午後0時45分頃からテランにより全部で9発撃たれ、足に5発、右肩と腕に1発、胸と喉に1発であった。絶命せず、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いて殺害した。10月9日に午後1時10分に死亡が確認された。処刑後にに、ゲバラの死体はヘリコプターの着陸用スキッドに括り付けられて、検死と防腐処理のために、ボリビア南東部のバジェグランデの病院に運ばれた。10月10日に病院の洗濯台でコンクリートスラブの上に横たわるゲバラの写真が撮影された。1997年までゲバラの死体は行方不明で、バジェグランデの集団墓地に埋葬された。再発掘された遺体は、キューバに送還され、1997年にキューバ国家の栄誉を讃えて再び埋葬された。




2023年10月31日火曜日

日本本土の秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。

秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン(Pegun)島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。切腹者に日本刀で介錯して斬首した頭部が切断されて血まみれに散乱した。

 太平洋戦争にて1944年11月15日に、アメリカ軍はマピア(Mapia)諸島のペガン島に上陸した。アメリカ軍B25戦闘機は、ペガン島を根こそぎ揺がす如く激しい執拗な猛爆撃を加えた。日本軍兵士は、次々と斃れて多数の死傷者を出して、ペガン島の北方に退避した。ペガン島にいた一部の日本軍兵士は、珊瑚リーフを渡り、北のブラス(Bras)島へ退却した。

 一方、ブラス島への退却路を塞がれた数十名の日本軍兵士は、アメリカ軍の戦車で壊滅して、蹂躙された。日本軍兵士の戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。もはやこれまでと最期を決意した残存した日本軍歩兵第223連隊の約30人は、散兵壕内で手榴弾や切腹により自殺した。11月15日にジャングルの端で爆薬や切腹による集団自決を遂げた。アメリカ軍は、11月15日にペガン島を制圧した。アメリカ軍公刊戦の記録では、マピア諸島における日本軍兵士の玉砕した戦死者数は総数は151人であった。秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊が全滅して玉砕した。殺されなかった日本軍兵士は、ジャングルに逃げ込み、ほとんどが餓死した。

 マピア諸島は、西部ニューギニアの北方約190kmで、海抜わずか1mの扁平のサンゴ礁の小島群である。一番南に、長さ約4.2km、幅約400mの細長いペグン(Pegun)島が位置した。日本軍はペガン島と呼称した。太平洋戦争での玉砕戦は、大半は戦略の失敗による特異な戦術様態にもかかわらず、玉砕は負のイメージを払拭し、雄々しく散った勇士の姿を浮かび上がらせた。玉砕は作戦の立案者や指揮官の失敗を覆い隠し、日本軍首脳にとっては都合のよい言葉になった。まもなく、玉砕は全滅の代替え語になった。




2023年10月21日土曜日

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、同年12月までに約9から約12万人が死亡したとされる。その約半数は、原子爆弾の投下して炸裂した直後に亡くなった被爆者である。1945年にはアメリカ軍から、すでに東京をはじめ各都市が徹底的な空襲を受けた。

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者であったホーマー・ビガード(Homer Bigart)は、アメリカ軍が原子爆弾を投下して炸裂して8月6日後に、9月3日と遅延して、広島市内に入ることが許可された。被爆地を撮影したライフ誌の写真家であるバナード・ホフマン(Bernard Hoffman)と同行した。9月3日に、広島市内を歩いた。約4週間前の最初の原子爆弾の爆発による被爆者たちは、治療が困難な火傷や感染症で、9月3日頃に毎日約100人の割合で死亡した。この史上最悪の核兵器の原子爆弾による犠牲者は、死者約53,000人、行方不明者約30,000人、重傷者約13,960人、負傷者43,000人であった。ホーマー・ビガードは、1945年8月6日に広島市上空で原爆が爆発してから1ヵ月後の広島市内の破壊を目の当たりにしても、敵である日本軍を全滅させるための戦争の論理的な行為であると考えた。ビガードは、1945年の太平洋戦争、1951年の朝鮮戦争の取材でピューリッツァー賞を受賞した。

 広島市内は平坦な、ぞっとするような荒涼とした風景が広がっているだけだった。荒涼とした風景を際立たせているのは、むき出しになった黒ずんだ木の幹と、時折見える鉄筋コンクリートの建物の殻だった。瓦礫はいたるところにあったが、その大きさは通常よりはるかに小さかった。原子爆弾はすべてを取り壊した。鉄や鋼鉄でできた建物は、いくつかの砲弾が残っているだけだった。広島の大部分は木造は燃え尽きた。日本は全面戦争だった。戦争に勝たなければならず、敵を実質的に絶滅させなければならないと感じていた。




2023年10月20日金曜日

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー(Kjeller)飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。




 爆撃の元となった攻撃は、1943年11月18日、イギリスのノーフォークを拠点とするアメリカ軍の第2航空師団に所属するアメリカ第8陸軍空軍のB24リベレーター重爆撃機によるキェラー飛行場への空襲で起こった。ドイツ占領軍が1943年11月18日木曜日にキェラーで特別軍事演習を計画していた。キェラー飛行場で、ドイツ空軍機、エンジン、部品の修理・整備は、ドイツの3大工業・整備会社によって行われた。1943年11月18日朝、搭乗した第2AD爆撃集団の約107機が空襲に参加した。キェラー飛行場の対空砲台にいたドイツ軍の対空砲兵は、差し迫った攻撃はすべて軍事演習の一環として、空砲で発砲した。アメリカ軍の約78機のB24爆撃が、約230kg爆弾を合計約838発のをキェラー上空に投下して空襲した。空襲によって、終戦までキェラー飛行場での整備活動は事実上停止した。 キェラー空港はノルウェーで最初に設立された空港である。ドイツ軍により、1940年4月8日からノルウェー侵攻が勃発して、4月10日に4月10日にキェラー飛行場は占領され、6月10日にノルウェーは制圧された。終戦後の1945年5月9日、キェラー飛行場はノルウェーに明け渡された。

 帰還機で2人のアメリカ人乗組員が死亡、1人が負傷、91人が行方不明となり、うち30人が中立国スウェーデンに抑留された。アメリカ軍側はキェラー飛行場の爆撃で約200人以上のドイツ軍兵士が死亡、400人が負傷したと推定した。BMWの現場近くの塹壕に身を隠した多くのドイツ軍兵士が生き埋めで死亡したという。飛行場に実際に落ちた爆弾とは別に、半径2キロ以内に約140発の爆弾が落とされた。民家6軒が破壊され、6軒が大破した。民間人3人が死亡、数人が負傷した。1943年11月18日のアメリカ軍の空襲後に、ドイツ軍のキェラー飛行場のの修理・整備基地に爆弾の煙が立ち昇った。




2023年10月19日木曜日

アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所を1945年5月5日に解放した後に、5月12日にバラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

オーストリアのリンツ近郊にあるグーゼン強制収容所は、アメリカ第3軍第11装甲師団の部隊によって1945年5月5日に解放された。長引く死、過酷な労働、獣姦、大量絶滅の強制収容所であった。グーゼン強制収容所で殺された捕虜の総数、収容されていた最大人数は、開放時には不詳であった。1945年5月12日にアメリカ軍が解放した際に発見された死体であった。マウトハウゼン強制収容所の副収容所であった。アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所の解放後、バラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

 アメリカ軍が到着して解放した後も、収容者たちは毎日約100人の割合で、高度な飢餓で死亡し続けた。収容者たちは、収容所は主にヨーロッパ全土からの政治犯のためのものだったと調査官に語った。しかし、グーゼン収容所では一時期、未知数のアメリカ人飛行士が虐殺されたことが判明した。囚人たちは、立っていられないほど衰弱するまで近くの石切り場で働いて、その後ドイツ軍に虐殺された。グーゼン強制収容所は、ガス室、火葬場にて、ドイツ軍が虐殺した犠牲者の処分に使った通常の効率的な手段を備えていた。第三軍部隊は、不潔なベッド、ゴミ捨て場、道路、荷車、貯蔵室、火葬を待つために置かれた冷蔵室で、収容者の死体を発見した。ドイツ民間人は、アメリカ軍によって、腐敗した死体を適切な埋葬のために運び出すよう強制労働された。

 ガス室で死んだ者もいれば、ベッドで餓死した者もいる。遺体は、まともな埋葬のために、貨車に積み込むために通りに運び出された。未知数のアメリカ人飛行兵がグーゼン強制収容所で殺された。男たちは近くの石切り場で、体力が衰えるまで働かされ、その後に殺された。1945年5月8日に、12歳以上のドイツ民間人を、解放されたグーゼン収容所で死体処理の任務に出頭させた。ドイツ、オーストリア、ポーランドの捕虜と、1940年に約4,000人のスペイン共和国人、1941年には4,400人のソ連軍捕虜をグーゼンに収容した。1940年と1941年の平均余命は6ヶ月であり、1940年から1942年の囚人の平均体重は40kgであった。