2022年12月15日木曜日

チェピエロフの虐殺は、1939年9月8日に、ポーランドのラドム近くのチェピエロフの村で、ドイツ国防軍兵士らによってポーランド人捕虜が大量殺戮された。

チェピエロフの虐殺(Ciepielów massacre)は、1939年9月8日に、ポーランドのラドム近くのチェピエロフの村で、ドイツ国防軍兵士らによってポーランド人捕虜が大量殺戮された。これは1939年9月の作戦中にドイツ軍によって実行された最大の文書化された処刑の1つであった。戦争犯罪は、ミュンヘンのポーランド領事館を通じて、1950年に西ベルリンのポーランド軍事使節団に与えられた匿名のドイツ語タイプ文書 (日付と署名なし) に基づいて発見され証明された。提供された文書には1939年9月にチェピエロウ近郊でポーランド軍兵士が処刑された様子を示す5枚の実写真が含まれた。

 チェピエロフ付近での戦争犯罪は、第29歩兵師団のヴァルター ヴェッセル大佐の指揮下にあるドイツ第15歩兵連隊によって行われ、犠牲者は第 74 歩兵連隊のポーランド兵でした。法的には、それは国際戦争法とハーグ条約の両方に違反した。ポーランド上シレジア第74歩兵連隊から犠牲者の数を約300人と見積もった。国立記憶研究所は、少なくとも約250人と予想した。

 この戦争犯罪は、キェルツェ県の北、イウジェツ県、リプスコからチェピエロフまで続く道路の隣に位置するチェピエロフ市のドンブロヴァ近くの国有林で勃発した。一連の写真を添えて匿名のドイツ人に報告された出来事の真実性は、戦争犯罪に関する疑いや論争を引き起こさなかった。 同日、ドイツ国防軍は周辺の村々やチェピエロウで民間人を殺害し、その中には1人の子供 (イウジェツ県リプスコのコミューン、ゴウェンビオフ出身の10歳のゾシア・ヴルゾハル) が含まれた。死刑執行人はヴェッセル大佐が指揮する第 15自動車化歩兵連隊でもあり、他のドイツ軍部隊は地域での軍事作戦に参加しなかった。

 その他に、ドイツ軍によるポーランド人捕虜の最大の大量虐殺は、チェピエロフの虐殺である。その他にも、カトヴィツェの虐殺(Katowice, 約80人の殺害)、マイダン・ヴィエルキの虐殺(Majdan Wielki, 約42人の殺害)、セロクの虐殺(Serock, 約80人の殺害)、ソハチェフの虐殺 (Sochaczew, 約50人の殺害)、シュチュチンの虐殺(Szczucin, 約40人の殺害)、ザクロチムの虐殺(Zakroczym, 約60人の殺害)、およびザクロチンの虐殺(Zambrów,約200人の殺害)などがあった。

 この時期にポーランドの一部も占領していたソビエトは、ポーランド軍将校の組織的な大量処刑を行った。1940年前半にロシアのカチンの森で殺害された推定約22,000人の囚人のうち、約8,000人は1939年のソ連のポーランド侵攻中に投獄されたポーランド軍将校であり、別の約6,000人は警察官であり、残りはポーランドの知識人であった。




2022年12月14日水曜日

アメリカ側の5つの歩兵大隊と1つの空挺大隊が集結して、約1500人の部隊が、1961年4月17日にグアテマラとニカラグアを船で出発し、4月17日の夜にキューバ侵攻軍はピッグス湾のプラヤ・ジロン海岸に上陸し、地元の革命的民兵を圧倒した。

ピッグス湾侵攻作戦(The Bay of Pigs Invasion)、地名のプラヤ・ジロン(Playa Girón)、1961年4月17日にキューバ亡命軍がアメリカから秘密裏に資金と指揮を受けて、キューバの南西海岸に上陸した。フィデル・カストロの共産主義政権を転覆させる目的であった、冷戦の真っ只中に失敗した。キューバ革命軍は、約176人が殺害されて、約500人が戦傷した。民兵は、約2,000人が戦死傷した。キューバ亡命軍は、約118人が殺害されて、約360人が戦傷して、約1,202人が捕虜になった。アメリカ軍兵士は、4人が殺害された。

 1958年12月に、アメリカの同盟政権にいたバチスタ将軍は、カストロの率いる7月26日運動によってキューバ革命で退位した。カストロは、銀行、製油所、砂糖・コーヒー農園などのアメリカ企業を国有化し、アメリカとの関係を断絶し、冷戦時代のソ連と連携した。中央情報局(CIA)はカストロ政権の打倒を計画して、1960年3月にアイゼンハワー大統領が承認した。カストロがキューバ政権奪取後に、アメリカに移住したキューバ人亡命者は、民主革命戦線(DRF)の武装部門である反革命軍団(2506旅団)を結成した。CIAはアメリカ軍も含む2506旅団に資金を提供し、グアテマラで部隊を訓練した。

 アメリカ側の5つの歩兵大隊と1つの空挺大隊が集結して、約1500人の部隊が、1961年4月17日にグアテマラとニカラグアを船で出発した。4月17日の夜に、キューバ侵攻軍はピッグス湾のプラヤ・ジロン海岸に上陸し、地元の革命的民兵を圧倒した。キューバ革命軍の反撃は、当初はホセ・ラモン・フェルナンデスが指揮したが、後にカストロが自ら指揮を執るようになった。キューバ革命を争点で選挙に勝利したケネディ大統領が立案した作戦は、空軍と海軍の両方が関与したが、作戦の主導権を奪われ、空軍支援の差し控えを決定した。空軍支援なしで、CIAが想定した少ない兵力で侵攻が行われた。侵攻軍は3日でキューバ革命軍に敗れて、4月20日に降伏した。降伏した部隊は、公開尋問を受けて、キューバの刑務所に収監された。

 キューバ侵略は、アメリカの外交政策の失策となった。キューバ政府の勝利で、カストロは、国民的英雄の役割を強固にし、かつて同盟関係にあったアメリカとの政治的分裂を拡大させた。キューバはソ連に接近して、1962年のキューバ・ミサイル危機の舞台となった。




2022年12月13日火曜日

太平洋戦争の南方ジャワ戦線にて、1942年3月2日にオランダ軍の戦車が、日本軍から砲撃を受けて、戦車に搭乗したオランダ軍兵士は乗り出して下敷きとなり殺害された。

太平洋戦争における南方ジャワ戦線にて、1942年3月2日にオランダ軍の戦車が、日本軍からの対戦車砲の砲撃を受けて横転した。戦車に搭乗していたオランダ軍兵士は、吹き飛ばされた。逃げる暇もなく転覆した戦車の下敷きとなり殺害された。ハッチを上げて上半身を乗り出したままで殺害された。

 太平洋戦争が1941年12月8日に日本軍の真珠湾攻撃から勃発した。その直後から大東亜戦争が東南アジアで勃発した。インドネシアでは、蘭印作戦(Dutch East Indies campaign)により、1942年1月11日から3月9日まで日本軍が侵攻した。

 オランダ亡命政府は、1941年12月8日に日本に宣戦布告した。日本軍が占領する前に、インドネシアでは敵対する集団間で紛争があり、人々が殺されたり、行方不明となった。1942年初頭の日本軍の侵攻は迅速に圧倒した。1941年12月17日に、日本軍はボルネオ島のサラワク州北部ミリに上陸した。1942年1月までに、スラウェシ島とカリマンタンの一部は日本軍の支配下になった。2月19日には、ポルトガル領ティモールのディリ地域に上陸した。2月28日から3月1日に、日本軍はジャワ島北部沿岸にほぼ無傷で上陸した。最も激しい戦闘はアンボン、ティモール、カリマンタン、ジャワ海の侵攻地点で勃発した。3月9日にオランダ軍司令官は日本軍に降伏した。連合軍は、約671人が戦死して、約82,618人が捕虜となった。日本軍は、約840人が戦死して、約1,784人が戦傷した。

 1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。1940年5月15日にはドイツの侵攻をうけて宗主国オランダは降伏して、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。以後、第二次世界大戦終結の直前までオランダ本国はドイツの占領下におかれた。オランダ本国が降伏した後も、オランダ領東インドはオランダ亡命政府傘下であり続け、在東インド植民地軍による統治が続いた。オランダ領東インドに日本軍が侵攻して、東インド植民地軍は全面降伏して、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれた。オランダによる約350年の東インド支配が実質的に途絶えた。1945年8月15日に日本が連合国に降伏した直後に、8月17日にスカルノとハッタが民族の名にてインドネシアの独立を宣言した。その直後から、インドネシア独立戦争が1949年12月27日まで勃発して、インドネシア連邦共和国が成立した。




2022年12月12日月曜日

1923年3月31日に、クルップ工場のアルテンドルファー通りにある自動車車庫の広場で、約12人のルール地方の工場労働者が、フランス軍兵士によって射殺された。

1923年3月31日に、クルップ工場のアルテンドルファー通りにある自動車車庫の広場で、約12人のルール地方の工場労働者が、フランス軍兵士によって射殺された。フランス軍の占領政策に抗議する大勢の労働者が集結していた。フランス軍兵士が、デモ隊に発砲し、約12人が射殺された。聖土曜日の悲劇は、「エッセンの大虐殺」として歴史に刻まれた。1923年、ルール地方の占領軍であるフランス軍兵士が、クルップ工場の従業員の約12人を射殺した。射殺された死体を棺桶に安置してから犠牲者は埋葬された。小さな墓地と記念碑には「1923年聖土曜日に、クルップ工場で、フランス軍の銃弾の犠牲となった労働者たちに捧ぐ」と記載された。

 1923年はハイパーインフレの年であり、ホワイトカラーの労働者が1週間分の紙幣を一輪車で運んだ。1923年はフランス軍に占領されたルール地方で、激しいストライキが勃発した。1923年は、共産主義者と国家社会主義者の蜂起が企てられ、血まみれで鎮圧された年である。一方では極貧、他方では蘭のように咲き誇るエンターテイメント文化、過激な年でもある。両義性にて、1923年は第一次世界大戦の戦後であり、ワイマール共和国の20年代への前奏曲である。

 1920年に、軍部と保守派のカップ一揆の反動で、左派労働者のルール蜂起が起こった。ルール赤軍は、非武装化されたラインラントの大部分を無抵抗で占拠した。エッセンのクルップ工場は占領されて、独立共和国が宣言された。ドイツ帝国軍兵士がヴェストファーレンから侵入して、すぐに秩序を回復した。イギリスはクルップの工場の多くを解体し、生産能力を半減し、戦争賠償金としてフランスに工業設備を譲渡した。フランス軍とベルギー軍はルール地方を占領し、戒厳令を敷いた。エッセンのクルップ工場を視察したフランス軍兵士が、ガレージにいた労働者に追い詰められ、機関銃で応戦して発砲して、約12人を殺害した。ラインラント各地での報復殺人や破壊工作に拍車をかけ、フランス軍から罰金と懲役を課された。





2022年12月11日日曜日

ウクライナ南部ヘルソンで、2022年11月22日に病院職員が孤児の世話をした。ロシア軍の約8カ月間の占領中にな、学校や孤児院から約1,000人の子どもがロシアに強制送還され、所在はいまだ不明である。

ウクライナ南部へルソンの子ども地域病院産科病棟で、2022年11月22日に病院職員が孤児の世話をした。ロシア・ウクライナ戦争を通じて、ロシア軍はウクライナの子どもたちをロシアに強制送還し、ロシア人の子どもとして育てている。ロシアによる8カ月間の占領期間中、へルソン地域の学校や孤児院から少なくとも約1,000人の子どもが強制送還されたが、所在はいまだ不明である。



 







Warning: Hospital staff take care of orphaned children at the children's regional hospital maternity ward in Kherson, southern Ukraine, Tuesday, Nov. 22, 2022. Throughout the war in Ukraine, Russian authorities have been accused of deporting Ukrainian children to Russia or Russian-held territories to raise them as their own. At least 1,000 children were seized from schools and orphanages in the Kherson region during Russia’s eight-month occupation of the area, their whereabouts still unknown. (AP Photo/Bernat Armangue)

ウクライナ南部のへルソン州の州都へルソンでは、2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻した数時間後から、南部の小児病院の医療関係者は、ウクライナ人の赤ん坊たちを救う計画を密かに実行し始めた。ロシア軍は、孤児となった子どもを略奪してロシア本土に強制送還する容疑があった。ケルソン市の子ども地域病院の医療関係者は、ウクライナ人孤児の医療記録を捏造して、病気による障害で肢体不自由に見せかけ始めた。子供たちが、病気による障害で移送困難であると偽の記録に改ざんした。ロシア・ウクライナ戦争中に、ロシア軍はウクライナ人の子どもたちを、ロシア本国やロシア領土に強制送還したと非難された。地域住民の一部が命がけで可及的に数多くの子どもたちを隠蔽した。

 へルソンの孤児の子どもたちがベビーベッドの中で眠っていた。病院では、医療関係者が約11人の孤児のために仮病を偽造した。ロシア軍の書類を、強制連行される孤児院に渡たらないようにした。肺出血、制御不能の痙攣、人工呼吸が必要と偽記録した。へルソン郊外のステパニフカ村では、リハビリテーションセンターで、約52人の孤児や弱い立場の子どもたちを隠蔽する書類を偽造した。ある子どもたち約7人の医療関係者に預け、遠くの親戚、年長の子どもたちは親戚に残した。



 








Warning: Orphaned children sleep inside cribs at the children's regional hospital maternity ward in Kherson, southern Ukraine, Tuesday, Nov. 22, 2022. Throughout the war in Ukraine, Russian authorities have been accused of deporting Ukrainian children to Russia or Russian-held territories to raise them as their own. At least 1,000 children were seized from schools and orphanages in the Kherson region during Russia’s eight-month occupation of the area, their whereabouts still unknown. (AP Photo/Bernat Armangue)


子供たちを避難させるのは困難であった。ロシア軍が3月にはへルソン周辺を占領した後に、検問所で孤児たちを引き離し始めた。子供たちが病院で治療を受けた後、叔母が連れて対岸で、妊娠9カ月の母親と再会する記録を偽造した。ロシア軍を食い止めても、全て子供たちが避難できない。Z(ロシアの車両に描かれた号)のバスが来て、子どもたちは強制連行された。10月からへルソンの病院から約11人の赤ちゃん、孤児院から10月に約50人の子どもたちが、2014年からロシア軍が不法に併合したクリミアに強制連行された。

 ロシア軍の侵攻の当初は、支援団体が教会に子どもたちを隠蔽したが、ロシア軍側が数カ月後に発見した。ロシア軍は数千人のウクライナの子どもたちを、里親や養子縁組するロシア人家庭に強制連行した。同意なしに、ロシアに強制送還し、ウクライナ人の親には不要と、偽情報をプロパガンダに利用し、ロシアの家族や市民権を与えた。ロシア当局は、子どもたちをロシアに強制送還するのは敵対行為から守るためと繰り返し述べた。孤児院や教育機関の子どもたちは行方不明のままである。

2022年12月10日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。

 長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。途中で木製の杖にすがって立ち上がろうとするも、すぐに膝を地面に着きながら徘徊した。長崎市茂里町と川口町の間の県道上の地点であった。

 アメリカ大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、1945年8月9日午後10時(ワシントン時間)に、人類史上最初の原子爆弾の投下をホワイトハウスからラジオ演説を行った。この時には、すでに2発目の原子爆弾が長崎市で約11時間前の8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂していた。演説は非常に長く、そのほとんどがドイツ軍に戦勝した演説であった。

 長崎原子爆弾を投下して炸裂した8月9日に、ラジオ演説で、人口約25万5千人ほどの港町で軍事基地がある広島市と表現した上で、人類最初の原子爆弾の投下して、アメリカ軍の若者の殺害をできる限り避けたと語った。

「最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことは、世界に注目されるでしょう。私たちはドイツ軍との発見競争に勝利した。私たちは、戦争の苦しみを短くするために、何千何万というアメリカの若者の命を救うために、それを使用した。私たちは、日本の戦争する力を完全に破壊するまで、それを使い続けるだろう。」(The world will note that the first atomic bomb was dropped on Hiroshima, a military base. We won the race of discovery against the Germans. We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war.:

https://www.presidency.ucsb.edu/documents/radio-report-the-american-people-the-potsdam-conference) 

 広島原子爆弾は軍事施設から遠く離れた市街地に8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。広島市で死亡した人の約85%は民間人であり、約14万人の男性、女性、子供のうち約12万人が犠牲になった。原爆は街の10分の9を焼失させ、全人口の半分以上を殺した。






2022年12月9日金曜日

沖縄戦において、アメリカ軍の戦車に対する自爆攻撃に失敗して、日本軍兵士は銃弾を浴びて殺害された。アメリカ軍第10軍部隊が侵攻する戦車の前に、殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍の戦車に対する自爆攻撃に失敗して、日本軍兵士は銃弾を浴びて殺害された。アメリカ軍第10軍部隊が侵攻する戦車の前に、殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。戦車攻撃に失敗した日本軍兵士の死体には、陸軍一等兵の衿章が検証された。

 沖縄戦にてアメリカ軍は、沖縄本島の中部にて4月12日に日本軍の総攻撃を受けて、集中砲火を浴びせて4月13日に掃討して撤退させた。アメリカ軍は、増援軍と補給して体制を立て直して、その後の4月19日と20日の両日に、アメリカ軍は日本軍に対する総攻撃を再開した。事前の準備砲撃では大小の火砲約324門を約30m間隔で並べ、約40分間に約19,000発(約475発/分, 8発/秒)で砲弾が撃ち込まれ、戦闘機からの空襲でロケット弾やナパーム弾を大量に投下した。

 戦線の西方に位置する嘉数陣地に、アメリカ軍は約30輛の戦車を連行して攻撃を加えてた。守備する日本軍は、速射砲、山砲、高射砲と持てる火砲で反撃した。日本軍兵士は自殺的な自爆攻撃をした。爆薬を抱えて、アメリカ軍の戦車に体当たりして、自爆して戦車の侵攻を一時的に阻止した。嘉数陣地の戦場で、アメリカ軍が損失した戦車は約22輛に及んだ。1回の戦闘で損失した戦車数としては、沖縄戦中で最大数と記録された。

 東方の和宇慶でも1個中隊の約200人が、全滅して全員が戦死して、アメリカ軍の侵攻を一時的に阻止した。中央の棚原でも2個大隊の約1,000人の兵力が、アメリカ軍の1個連隊約3,000人を相手に侵攻を一時的な阻止を続けた。アメリカ軍は、兵員・物資などの補給を大量に受けられるのと対称的に、日本軍の守備隊は兵士や物資を損失しても補給は不可でじり貧となった。

 4月29日に、首里城地下の日本軍第32軍司令部は「死中に活を求め、まだ攻勢の余力がある間に敵に痛撃を与えて運命の打開を図る」と結論して、再び総攻撃を決定した。総攻撃は5月3日夜から勃発して、5月4日未明に、日本軍砲兵隊が約13,000発の砲弾を撃ち込んだ。残存した第24師団歩兵第32連隊と第89連隊が、アメリカ軍が占領した棚原から幸地に侵攻した。日本軍第27連隊の戦車も、首里前方に侵攻した。アメリカ軍は戦車で反撃し、猛烈な集中砲撃で日本軍を撃退して、第32軍は全滅して全戦死する部隊が相次いだ。5月5日午後6時に総攻撃を中止して、軍司令部は沖縄本島南端の摩文仁に撤退した。




2022年12月8日木曜日

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。連隊の大部分と数人のアメリカ人顧問が死亡した後に、約100体以上の死体が回収された。1965年11月下旬に南ベトナムの首都サイゴンから北西約72kmのミシュラン・ゴム園(Michelin Rubber Plantation)にて、4日間も露営していた南ベトナム政府軍の約500人の第7連隊が崩壊した。警戒が疎かになって、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が夜中に忍び寄って、夜明けとともに熾烈な突撃をした。ゴムの木々間から。突如にベトコンが波状に攻撃した。その後も、アメリカ軍第25歩兵師団や第1師団が投入されて戦闘が勃発して多くの戦死傷者の犠牲を伴った。ミシュラン・ゴム園は、1925年にミシュラン社によって設立され、約12,400ヘクタールとベトナム最大のゴム農園であった。

 ベトコンは、南ベトナム軍の侵攻拠点にヒット・エンド・ラン攻撃した。戦場では、士気が衰えて敵前逃亡しない南ベトナム軍兵士が殺害された。ゴムの木々の間から、突如にベトコンが突撃した。11月27日の早朝に連隊長が殺害されて、アメリカ軍顧問も塹壕付近で殺害された。午前7時に、アメリカ軍顧問は「もう、ここから出ていかねばならない。店じまいだ。」が最後の無線となり殺害されていた。南ベトナム政府軍の機関銃手などの死体が、塹壕の中で倒れてうずくまった。ベトコンの射撃によって、機関銃手の頭部がぶち抜かれた。

 ベトコンは「降伏せよ」とベトナム語で宣告して、約10人の南ベトナム政府軍が降伏して立ち上がった。歩き始めた直後に、ベトコンの機関銃により一気に全員が殺害された。南ベトナム政府軍の死体は、深い塹壕や朽ちた木々の枝の間などに散乱していた。さらに、殺害された南ベトナム政府軍の死体は、首と頭も致命的に撃ち抜いた。塹壕の中には、ベトコンの死体は皆無であり、すべての戦死傷者は運び去っていた。ベトコンには、北ベトナム軍の砲兵隊にも援護された。正午になってから、アメリカ軍の武装ヘリコプターが集結して、第七連隊の生き残りを救護した。ヘリコプターが着陸するたびに、林の中から戦死傷者がぞろぞろと集結した。




2022年12月7日水曜日

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、劣悪な環境で切断手術を受けて、5日後に死亡した。

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、切断手術を受けた。ボウンは、病院のベッドに横たわるボウンには、物資も乏しく、非衛生的で劣悪な環境であった。ボウンは地雷で受傷してから約5日目に敗血症で死亡した。左大腿切断されるも、右足は切断せずに患肢温存して、重篤な感染症を引き起こした。左下肢だけでなく、右下肢の切断が必要であった。地雷の犠牲者の多くは、民間人の非戦闘員であった。

 カンボジアのラタナ・モンドル西部のトレン・コンミューンで、ヒアン・ボウンは、12月1日にカンボジア政府軍の分隊と通常のパトロールに出た。12月1日の昼前に地雷を踏んで、約3時間後にバッタンバンの軍病院に移送された。戦傷したカンボジア軍兵士は、旧式ソ連製のトラックの後方に載せられた。幌をかける棒に結びつけた血だらけのハンモックに載せて運送された。

 地雷によってボウンの左下腿は破壊されて、左足は薄皮の皮膚のみで繋がっていた。左足には傷はなく、左大腿の下から突き出た。病院に搬送されて入所してから、約1時間半後に医療関係者に診察を受けた。約5時間後にボウンの左大腿切断の手術が開始された。しかし、病院には、物資が不足して、薬品・酸素・輸血用の血液、医療資源、発電機などが不足していた。約40,000人が四肢切断者として生活していた。

 カンボジア内戦は、1967年にラタナ・モンドルの丘陵地帯で勃発した。カンボジアに対する軍事干渉は、アメリカ軍特殊部隊が1960年代に、南ベトナムからカンボジアに潜入して、地雷を敷設した。1975年にカンボジアを掌握したポル・ポト政権は、地雷による人民の戦闘を奨励した。地雷原となった地域の住民は、強制連行されてクメール。ルージュにより虐殺された。カンボジア地雷対策センター(CMAC)は、1,150万人の人口で約500万の地雷を推定した。1979年以来、約64,000人を超える死傷者と約25,000人を超える切断者が記録された。1997年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞して、オタワ条約が調印された。




2022年12月6日火曜日

1940年5月10日午後4時頃に、ドイツのブライスガウのフライブルグ市が、ドイツ空軍の爆撃機によって爆撃された。ドイツ軍機KS51の3機は人口密度の高い市街地を爆撃して、子供約20人を含む約53人の民間人を殺害した。

1940年5月10日午後4時頃に、ドイツの西部国境付近のブライスガウのフライブルグ市が、ドイツ空軍の爆撃機によって爆撃された。フライブルグは、ブライスガウ戦闘地域外で、軍事施設もなかった。ドイツ軍機KS51の3機は人口密度の高い市街地を爆撃して、公共の遊び場で不注意に楽しんでいた子供約20人を含む約53人の民間人を殺害した。約151人の民間人が負傷して、そのうち約72人が重傷を負った。負傷者の中には、約37人の子供たちがいた。フライブルグ市の対空防御は、まったく機能せず、ドイツの爆撃機は、フランスに向かっていると錯覚した。爆弾は駅の近くに落ち、被害が発生した後に、空襲警報が恐怖の通りに響いた。



 












   ドイツ軍機は、航法上のミスから方向を見失って、フランスの都市ディジョンに到着することはなかった。正確な位置が不詳となり、ライン川の向こう側であると誤認して、眼下の町はディジョンから約35kmのコルマールと誤認した。ドイツ軍機は、15時59分から合計約69発の爆弾をフライブルグ街に投下した。

 ドイツ軍司令部はこのミスを隠蔽しようとし、爆撃を連合軍の行為と見なした。マスコミも、ドイツ軍の発表を受け入れて、連合軍の悪意のある空襲と報告した。人道と国際法のあらゆる法則に反する卑劣で卑怯な空襲として、新聞が「24人の民間人が死に追いやられた」と続けた。同時に、爆撃事件は、連合軍に対するさらなる攻撃を正当化するために利用された。1940年12月10日の演説の中でアドルフ・ヒトラーは、フライブルクの爆撃で民間人に対するテロリスト攻撃を連合軍が開始したとイギリスのウィンストン・チャーチル首相を非難した。フライブルクは、1942年のヒトラーの帝国議会演説で言及された。

 1956年4月5日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、1940年5月10日にフライブルクを爆撃した謎を解けたと報じた。当時KG51連隊の司令官であったヨーゼフ・カンムフーバー大佐は、1980年8月に1940年5月10日のフライブルク爆撃に関する機密情報を2人の戦史研究者に提示した。1940年5月10日は、ドイツ軍がフランス侵攻が勃発した初日であった。ドイツ軍は、報告書を偽造して、最初はフランス、次にイギリスに戦争犯罪の責任をなすりつけた。



2022年12月5日月曜日

アフガニスタンのペシャワールのヘズミ・イスラミ軍事病院にて、13歳のアフガニスタン・ゲリラの少年兵であるモハメド・ホジャナビは、地雷で切断された右膝以下の断端の傷口を処置された。

アフガニスタンのペシャワールのヘズミ・イスラミ軍事病院にて、13歳のアフガニスタン・ゲリラの少年兵であるモハメド・ホジャナビは、地雷で切断された右膝以下の断端の傷口を処置された。1980年7月下旬以降に、アフガニスタン人の少年兵は、右下腿が吹き飛んで、ザクロのように深部組織が赤く裂けて、白骨がむき出しになり重態となった。オキシドールにて、傷口を消毒して染みると、激痛が走って、目に涙をためて歯を食いしばって疼痛に耐えていた。

 ホジャナビは、ジャララバードに近いナンガルハール州のソルクロット基地から夜間出撃した途上にて、ソ連軍が山岳地帯の山道に散布した小型爆弾を踏んで、爆発して右下腿が吹き飛び切断された。ソ連軍の接触爆弾は空中地雷と呼称される人員殺傷用の小型爆弾であり、少年兵はそれに接触して爆発した。アフガニスタン人少年兵のホジャナビは、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に、ゲリラ戦で対抗した。ホジャビは戦場で負傷して、ロバの背に載せられ移送されて、軍事病院に収容されて、切断の処置を受けた。 

 アフガニスタンの少年ゲリラの多くは、肉親がソ連とアフガニスタンとの戦闘で殺害されてイスラム教で殉教したと思い込んだ。イスラム教の聖戦で戦死した肉親の遺志を、少年兵を志願して引き継いだ。アフガニスタンの部族では、復讐する掟であるバダルは、イスラム教で重大なる義務となった。復讐を果たすまでは、殉教の義務から解放されない。復讐する義務は、肉親の家族から一族までに世代間にまで及んだ。バダルにより、聖戦として生か死かの二者択一に陥る。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」の戒律の文化が潜伏した。

  ソ連軍のアフガニスタン侵攻は1979年12月25日に始まり、1989年5月15日から撤退を始めて1989年2月15日の完全撤退まで続いた。アフガニスタン政府はムジャヒディンと呼称される反対派に対抗できず、ソ連軍の援助を求めた。ソ連軍の参戦により、地元住民に潜伏したムジャヒディーンに対して大規模な軍事侵攻した。大量の破壊と戦傷により、地元アフガニスタン人住民がムジャヒディーンに味方した。駐留するソ連軍に、全国的な抵抗から紛争に及んだ。ソ連軍の戦死者は約1万5千人、戦傷者は約3万5千人である。アフガニスタンの民間人は、約200万人が犠牲になった。




2022年12月4日日曜日

2022年11月25日に、ウクライナ南部の州都のケルソンで、62歳の母親であるナタリア・クリステンコの死体をケルソン市の死体処理者が回収する中で、38歳の娘のリリア・クリステンコは悲嘆して泣いていた。

2022年11月25日に、ウクライナ南部の州都のへルソンで、62歳の母親であるナタリア・クリステンコ(Natalia Kristenko)の死体をへルソン市の死体処理者が回収する中で、38歳の娘のリリア・クリステンコ(Lilia Kristenko)は悲嘆して泣いていた。ナタリア・クリステンコさんの遺体は一晩中、アパートの玄関で毛布に覆われた状態で横62歳の母親は、11月24日夜に、お茶を飲んだ後に、夫と一緒に家の外を歩いていたところで、砲撃されたビルの破片が頭部に激突した。母親のナチタリアは頭部に外傷を負って即死だった。母親の夫である父親は数時間後に、腹部内出血のために病院で死亡した。

   母親のナタリアの死体は、一晩中に、アパートの玄関で毛布に覆われたまま横たわった。ウクライナ南部の州都へルソンを震撼させたロシア軍による致命的な攻撃連鎖に対応するために、へルソン市職員は当初母親を収容する前に圧倒された。母親は、紅茶を飲んだ後に、父親の夫と一緒に家の外を歩いていた。その直後に、ロシア軍が近隣の建物を攻撃した。母親は頭部を負傷して即死した。父親の夫は数時間後に、病院で腹部内出血により死亡した。娘のリリアは救急車を呼ぼうとしたが、電話網がなかった。66歳の父親は腹部の傷口を押さえながら、死ぬほど痛いと叫んだ。結局、父親は救急車で病院に運ばれるも、手術中に死亡した。

 約1日経過して、母親を死体安置所に運ぶための処理班が到着して、恐怖の中で見守った。ウクライナのへルソン市当局は、11月24日に、ロシアの砲撃により約10人の市民が死亡して、約54人が負傷して、へルソン市の2つの地区が大規模なミサイル砲撃にさらされた。へルソン市の人口は、戦前の約30万人近くから約8万人程度に減少した。ロシア軍がドニエプル川を越えて撤退したため、へルソン市はロシア軍の攻撃強化に直面した。ロシア軍国防省は11月9日、約4万人規模のロシア軍が駐留した南部ヘルソン州の州都ヘルソン市からの全面撤退を発表した。市民らは11月13日、ヘルソン市の通りに出て、ウクライナ軍兵士と抱き合った。












Warning: Lilia Kristenko, 38, cries as city responders collect the dead body of her mother Natalia Kristenko in Kherson, southern Ukraine, Friday, Nov. 25, 2022. Natalia Kristenko's dead body lay covered in a blanket in the doorway of her apartment building for hours overnight. (AP Photo/Bernat Armangue)


2022年12月3日土曜日

アメリカ空軍の第1映画部隊のダニエル・マクバーンは、長崎原子爆弾が投下された直後に、被爆者の映像を撮影した。顔面から全身を被爆して多量のケロイドを発症した女性を撮影した。

原子爆弾によって焼かれ、死傷つけられた犠牲者の被爆者たちの恐ろしい苦痛を、原爆映画が映し出した。アメリカ空軍の第1映画部隊のダニエル・マクバーン(Daniel McGovern)は、長崎原子爆弾が投下された直後に、被爆者の映像を撮影した。顔面から全身を被爆して多量のケロイドを発症した女性を撮影した。マクバーンは、アメリカに戻ると、秘密のコピーを作成して、原爆記録の映像をアメリカ軍の抑圧と抹消から救った。原子爆弾の投下後の5ヶ月間の撮影期間中も、毎日身体の両側から血の混じった膿が流れた。真っ赤になった背中を撮影する前に、看護婦が拭いた。撮影前に、冬なのに毎日ウジが湧いて取るのも大変だった。撮影中の照明が熱くて、何度でも気絶するかと思った(谷口稜曄)。

 アメリカ軍占領下の沈黙の後に、原子爆弾の映画製作者は、日本映画社(日映)と共同して、保存された映像の共用を開始した。1967年に日本政府に返還された複写映像は、文部省と仁科研究所の手に渡り、隠蔽された。原爆映画のフィルムは、全人類のために米国国立公文書館に寄託された。米国国立公文書館によって保護されると、世界中の映画や映画製作者たちは、映像を共有し始めた。原子爆弾の投下の表現に近づけるために、被爆地に直行し、原子爆弾を表現する映像を共有した。被爆地の映像は、制作者と視聴者の双方を強く惹きつけた。

 世界中の映画製作者たちは、米戦略爆撃調査団報告書(USSBS)が撮影した『広島・長崎の原爆の影響』を記憶から記録に変えた。日映が広島・長崎の死体から露出させた実物の映像は、あらゆるメディアが地球上に散らばった。核兵器が生産され続けるも、人間への攻撃に使われない理由の一つは、映画が原爆の映像を、一人ひとりの意識に沈着させたと考えたい。日映製作者の4人の映画作家は反抗を継続し、完結させる抵抗行為をした。日本市民は、映画に対する法的批判と文部省の権力による弾圧を回避する運動を始めた。1980年代には、『広島・長崎の原爆の影響』にてUSSBSが撮影したすべてのカラー映像を、寄付を募って米国国立公文書館から購入して日本へ送還した。日映のフィルムを購入した後に、地方局ではノーカットのテレビ放送を手配した。資料を返還する過程で、独自の映画を制作し、原爆の本も出版した。





Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟
 2022年12月3日にBlogger投稿数は 2,300回に達した。

2022年12月2日金曜日

1945年5月25日のアメリカ軍による東京大空襲の後に、5月27日に警察官が青山警察署横に集積した焼死体、所持品や死体の特徴などを検死した。

1945年5月25日のアメリカ軍による東京大空襲の後に、5月27日に警察官が青山警察署横に集められた焼死体、所持品や死体の特徴をメモした。日本の警察官が、首都である東京の焼夷弾の空襲直後に、瓦礫と死体が散らばる東京の通りの真中に立って検死した。

 東京大空襲は、1944年11月14日以降に約106回の空襲をアメリカ軍の爆撃機B-29から受けた。特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。1945年5月24日未明に、東京の山の手地域と空襲で焼け残った東京の都市全体を空襲目標とした。約525機の爆撃機B-29が、渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。翌日の5月25日深夜には、焼夷弾による空襲の被害を受けなかった東京の残存地域を空襲目標とした。アメリカ軍の約470機の爆撃機B-29が、約3,000トンの高性能焼夷弾を投下した。空襲の被害は、東京の山の手方面を中心に、南多摩・北多摩にまで及んだ。

 5月24日未明の東京大空襲は、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲された。約520機の爆撃機B-29が、3,646トンの焼夷弾を投下した。被害は罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人で、死者は警視庁の調べでは約762人、東京都の調べでは約530人であった。

 5月25日から5月26日の東京大空襲では、5月24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にて西部住宅地が空襲された。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失した。この地域の空襲では、高層のコンクリート建築の建物もあり、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も投下された。約464機の爆撃機B-29が、約3,258トンの焼夷弾と約4トンの爆弾を投下した。被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは約3,242人、東京都の調べでは約3,352人であった。

 太平洋戦争中は、戦時災害保護法などにより、民間人の傷害者等の被災者と死者の遺族にも救助・給付などの援護措置がされた。東京都独自の見舞金も支給された。しかし、戦後、軍人・軍属と民間人への特別の措置が廃止された。サンフランシスコ講和後、日本人の軍人・軍属への援護や恩給は復活した。民間人や朝鮮人・台湾人への援護は復活されないままである。ただし、日本人の勤労動員学徒、女子挺身隊員、徴用工、被爆した国民義勇隊員、地上戦の戦闘参加者、防空監視員、警防団員などは準軍属と位置づけ、最初は、軍人・軍属と格差はあるも、同様な援護を措置した。




2022年12月1日木曜日

太平洋戦争のタラワの戦いで、上陸2日目1943年11月21日にべティオ島の橋頭堡から、アメリカ軍兵士の戦死傷者はゴムボートで、サンゴ礁外に移送された。上陸用船艇に移管し、沖合の輸送船まで運搬され処置された。

太平洋戦争のタラワの戦い(1943年11月20日から23日)にて、上陸2日目の1943年11月21日にべティオ(Betio)島の橋頭堡から、アメリカ軍兵士の戦死傷者はゴムボートで、サンゴ礁の外に移送された。その後に上陸用船艇に移管して、さらに沖合の輸送船まで運搬されて処置された。べティオ島に配備された大規模な日本軍の猛攻によって、アメリカ軍の侵攻は一層困難を極めた。タラワ環礁のサンゴ礁とビーチは、すでに納骨堂のようにり、死体の悪臭が雲のようにベティオ島を包囲して覆った。

 ベティオ島に上陸2日目の11月21日に、アメリカ軍は戦死傷者を橋頭堡から避難させた。ベティオ島には真っ直ぐ歩ける場所はほとんどなく、運搬用のストレッチャーも不足して避難は困難となった。戦死傷者の取り扱いは、ベティオ島上陸2日目で最も差し迫った人流上の問題となった。医療関係者の約90人が上陸時の戦闘の犠牲者となった。戦死傷者は輸送エリアの遠く離れた軍艦まで避難した。上陸2日目には、戦闘は依然として激しく、日本軍の砲火は依然として殺人的であった。上陸して戦闘した場所では、従軍牧師が熱心に犠牲者を慰めて、死にゆく兵士に最後の儀式を執り行った。ブルドーザーが、容赦なく熱帯の太陽から人体を覆うようになる埋葬前に、悲痛に死者の魂のために祈った。

 恐怖で虐殺を見ては、あるボートが爆発して、次に別のボートが爆発した。生存者はベティオ島の海岸に向かって泳ぎ始めた。日本軍の機関銃の弾丸がアメリカ軍兵士の周りの水に点在して、戦況が悪化した。乾燥した平原で全く動けない少なくとも200人体を数えた。周りの海水は血で紫色に染まった。ベティオ島で重傷を負ったアメリカ軍兵士に付き添う衛生兵と医療要員は、戦死傷したアメリカ軍兵士を救援する際に、約30人の医師と衛生兵が殺され、さらに約59人が戦傷して悲惨な犠牲を払った。タラワの戦いで、アメリカ軍兵士は約1,009人が戦死して、約2,101人が戦傷した。日本軍兵士は、捕虜の約17人を除いた全員である約4,690人が戦死して玉砕した。