2020年6月15日月曜日

中国国民党の警察が、上海の四・一二事件で逮捕された共産主義の容疑者の女性学生を残酷に拷問して死刑を執行した。

中国国民党(KMT)の警察が、1927年4月12日の上海クーデター(四・一二事件)を引き起こした共産主義の何百人もの容疑者が逮捕され、拷問を受けて、虐殺された。逮捕された女性学生の囚人を残酷に拷問して死刑を執行した。4月13日には、中国国民党からの弾圧に抗議した共産主義の労働者や上海市民らの約20万人のデモに対して発砲して約100人を虐殺した。4月14日までの3日間で、約3,000人が虐殺されて、約5,000人が行方不明となった。中国国民党は「清党」と中国共産党は「四・一二革命政変・惨案」と喧伝した。その後、江蘇、浙江などの地域で「清党」の名のもとに、大規模に共産党員などを虐殺した。広東省だけでも約2000人余りが犠牲になった。中国国民党は共産主義者を弾圧するホワイトテロを執行して、共産主義者を逮捕して裁判もなく死刑を執行した。中国国民党と中国共産党の内戦が勃発した。
 中国国民党軍は、4月12日の早朝に、何百人もの武装集団と秘密諜報員が、青い短パンと、白い布と黒い作業腕章にを身に包んだ。多数の車によりフランス租界から飛び散り出撃した。午前1時から5時まで、上海の各地区の労働者の監視隊員を襲撃した。多数の軍警察が労働者の監視隊員の周りを事前に待ち伏せした。抵抗する労働者らを内部紛争の名目で銃器を強制的に押収した。約120人以上もの労働者が殺害されて約180人が負傷して、約2,700人以上もの武装した監視隊員が逮捕された。外国の軍事警察が約1,000人以上の共産主義者と労働者を捜査して逮捕して、中国国民党の軍警察に引き渡した。
 中国国民党軍の弾圧に抗議するために、上海の各地区の労働者らは約10万人を動員してデモを4月13日に挙行した。デモが上海の宝山路に近づいたときに、中国国民党軍は機関銃で銃撃して、その場で約100人が射殺され、多数の負傷者と約200人以上もの労働者が逮捕された。大雨により、上海の宝山路には、川のように流血した。上海南市でも、デモ行進が中国国民党軍により射撃されて数人が殺害された。4月12日から15日までの3日間で、上海で約300人以上が虐殺され、約1,000人以上の共産党員が逮捕され、約5,000人以上が亡命した。 
   中国は第一次世界大戦に参戦し、ロシアの革命思想が中国に浸透し、1919年5月4日に学生運動と大衆運動が勃発した。5月4日運動は、袁世凱の親日政府に対する北京学生運動から名付けられた、学生や知識人の全国的な政治的解放運動となり、伝統的な儒教の拒絶、公民権および国家内の社会改革を要求した。中国共産党(CCP)は、五四運動のマルクス主義研究集団から1921年に登場した。 ソビエトの援助により、CCPは強力な勢力となった。
 上海クーデターからの中国国民党軍による絶滅作戦を回避するために、中国共産党軍は中国の北部に移動を余儀なくされた。毛沢東らの共産主義者は、1934から1935年に中国の西部を通って延安へと続く長征でなんとか脱出し、延安を中心基地に築き上げた。中国共産党は日中戦争中に支配を着実に拡大した。1945年にソビエト連邦が満州を占領したとき、中国共産党は満州に権力を掌握した。1949年までにソビエトの支援を受けて、共産主義政権は1949年10月1日に中華人民共和国を宣言した。



2020年6月14日日曜日

東ベルリンの煉瓦工の18歳のピーター・フェヒターはベルリンの壁からの脱国時に、射殺されて地面に転落して大量の出血死した。

第ニ次世界大戦直後から冷戦により、完全に東西交流が分離するベルリンの壁が設置されて1年後の1862年8月17日に、東ドイツのドイツ人の18歳の若者がベルリンの壁から脱出した。東ベルリンの煉瓦工のピーター・フェヒターは射殺されて、地面に転落して大量の出血死した。脱国により殺害された第27人目の犠牲者となった。友人のヘルムート・クルベイクと西ベルリンに逃避した。2人は最初の壁と区画を乗り越えて、第2番目の壁を目指した。クルベイクは2番目の壁を乗り越えるも、フェヒターは東ベルリンの国境警備隊のウォルター・ウルブリヒトに襲撃された。射撃されて2番めの壁から転落して、苦悩するフェヒターは約1時間も放置されて出血死した。西ベルリン市民や多数の記者と東ベルリンの国境警備隊の目の前で死亡した。数百人の西ベルリン市民は、東ドイツ国境警備隊に「暗殺者」と抗議した。東ベルリンの国境警備隊は、3日前に東ドイツ軍兵士のルディアルン・シュタットの殺害の報告を受けて、フェヒターの救助に介入しないと言訳した。西ベルリンのアメリカ軍は、救助の移動をしないように命令されたと言訳した。
 第ニ次世界大戦後に、ドイツはアメリカ・イギリス・フランスとソビエトが4分割して統治した。冷戦により1948年に、ソビエト軍が西ベルリンを包囲した。アメリカ軍の24時間空輸で1949年5月12日に包囲を解除した。東ベルリンから西ベルリンに大量の難民が流出した。それを阻止すめために1961年8月13日の真夜中から突如に、東ドイツのウォルター・ウルブリヒト大統領が、冷戦の紛争防御としてベルリンの壁の設置を指令した。東ドイツ連邦共和国の秘密警察であるシュタージは、脱国の試みを壁を挟んで絶えず監視した。東ドイツ市民の政治活動に関する不正確な極秘情報を集積した。1960年代の初めに、抵抗力のあるコンクリートパネルで、境界線の内側に2メートルの壁で死の区画を設置した。2つの壁に砂を振りかけて、除草剤で処理して足跡を特定した。壁の両方の部分は、逃亡者の識別を容易にするために白く塗られた。壁に加えて有刺鉄線が張り巡らした。フェンス、バンカー、強力なスポットライト、番犬、302番の監視塔により、武装した狙撃兵が撃ち殺すように、東ドイツ連邦共和国の大統領であるウォルターウルブリヒトが命令した。1971年5月3日に後継者のエーリヒ・ホネッカーは、壁はさらに通過不可能で危険にした。東ドイツ国境警備隊は約12,000人にも上がり、地雷原と自動兵器が追加された。東ベルリンに住むことは、刑務所で死ぬために国境を離れることができない状態となった。
 1985年3月11日にミハエル・ゴルバチョフがソビエト連邦の書記長に就任して、西側諸国との国際関係を緩和した。ベルリンの壁の設置から建設25周年を迎えて東ドイツ軍のパレートをした。まず東ヨーロッパ諸国から鉄のカーテンが崩壊した。1989年8月23日に、ハンガリー人が国境から隣接するオーストリアに脱国した。その瞬間に約11,000人の東ドイツ人はハンガリーから脱国した。何千人もの東ドイツ人が、プラハとブタペストの西ドイツ大使館に避難した。東ドイツで、大規模なデモが勃発して、エーリッヒ・ホーネッカー大統領は辞任した。1989年11月4日に東ドイツ人がベルリンのアレキサンダー広場で約50万人を超えるデモを挙行した。次期のエゴン・クレンツ大統領は、1989年11月9日に東ドイツ市民に対して西ドイツへの旅行を許可した。国境に集結した大量の東ドイツ人に、東ドイツ国境警備隊は閉鎖を解除して、ベルリンの壁は崩壊して国境を越えて統合された。1990年10月3日に、東ドイツ連邦共和国は消滅した。


2020年6月13日土曜日

長崎原爆に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送され、入院中に早期から全身皮膚に紫斑が出現した。

1945年8月9日の長崎原子爆弾の炸裂に被爆した少年は、長崎県外の九州帝国大学病院に護送された。爆心地から被爆距離などは不詳であった。九州帝国大学病院に入院中に早期から全身に紫斑が出現した。長崎県外では九州帝国大学附属病院、嬉野海軍病院、鹿児島原爆被災者収容所、佐賀陸軍病院、久留米陸軍病院、熊本医科大学などが救護した。その他に市外の諫早市などにも数千名の被爆者が入った。長崎市近郊では 長崎市内からの被爆者の収容にあたった。その病院は、大村海軍病院、佐世保海軍病院の諫早分院、川棚海軍病院、針尾海兵団、佐世保海軍共済病院が救護した。大村海軍病院はアメリカ軍による接収をまぬがれ、10月はじめから長崎医科大学の残存職員が医療に参加し、長崎医科大学は大村海軍病院で講義を再開した。大村市には大村海軍病院のほか、大村陸軍病院、回生病院などがあり、市内各所に収容された長崎原爆の被爆者は約4,000人にものぼった。
 1945年8月9日の長崎原爆の投下は、防空、救護体制を超える深刻な被爆犠牲を伴った。爆心地と市内の境界地域が、続発した大災害のため、救護は困難をきわめた。爆心地付近では「中心爆発点ヨリ半径400メートル以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニアツて数名ヲ残して全部即死セル状況ニシテ、ナルトモ全部飛散シ一物モ在セザル」有様であった。
 爆心から約700m東南の長崎医科大学本館、基礎医学教室は崩壊、消滅し、ほとんどの関係者が爆死または被爆後死亡した。講義室で受講中に被爆死をとげた学生の数は、学部、医学専門部在籍1・2年の生役約580名人の中でで約414人に及んだ。長崎医科大学附属病院は地下1階、地上3 階の鉄筋コンクリート建で、かろうじて外形を保ったものの、内部は完全に全壊して火災を生じた。被爆した死傷者続出し、多少余力ある者は穴弘法の丘に這いあがり約300名が一夜を明かした。約半数は翌朝には動かぬ死体となった。外科学教授の調来助は8月9日午後から負傷者の応急手当にあたり、疎開先の滑石に2カ所の建物を借り受け、12日学長角尾普以下の医科大学関係の負傷者をここ滑石救護所に移した。調来助から以下約13人の医師、学生、看護婦は8月12日から8月17日まで約100人を越える被爆者の治療、看護等にあたった。8月18日に生存中の被爆者を新興善救護所、大村海軍病院へ転送し、阪救護所を閉じた。長崎医科大学放射線科の永井隆ら約12名は、長崎市外三ツ山地区で8月12日から10月8日まで巡回診療で被爆者医療を施した。
 その他浦上第一病院は爆心地から約1.4km離れた木原の丘の上にあった。聖サンフランシスコ修道院経営の病院で、長崎原爆の被爆当時に結核患者を約70名を収容していた。長崎原爆の爆風により、内部は破壊され、延焼して医療器械、薬品を焼失した。浦上地区に残存した唯一の病院として被爆者医療を担った。同病院医医師の秋月辰一郎らは、8月10日から診療をはじめ、8月12日には長崎県警察警備隊及び川南工業奉仕隊が入って、病院療地を整理し、木原に救護所を開設した。長崎原爆の被爆直後に山里国民学校に一日救護所が設置された。木原町一帯の多数の被爆者は防空壕の中で未処置であった。浦上第一病院の木原救護所は秋月振一郎らの努力によって医療活動を続けた。1948年12月に聖フランシスコ診療所は、院長ブルダン神父らが施設を再建した。造船、兵器、製鋼、電機の三菱系の約4会社が結集していた長崎市内には、爆心地から約3.5kmの鮑之浦町に三菱病院本院が、約3.0kmの船津町分院、泣く1.1kmの茂里町に浦上分院があった。そのうち船津町および浦上の分院は全壊または火災した。本院も若干の被害を受けて、総力をあげて救護の任にあたり、病院のほか鮑の浦国民学校をも仮病院として、多数の負傷者を収容した。あらかじめ救護所に予定されていた新興善、勝山、伊良林、磨屋などの国民学校、長崎経済専門学校などへは、被爆直後から被爆者が集まった。爆心地に近い城山国民、山里国民学校、市立商業学校、道ノ尾駅付近でも直後から救護活動が開始された。
 これらの救護活動は生存した長崎市医師会員のほか、諫早海軍病院、大村海軍病院、諫早市医師会、小浜医師会、島原市医師会、三菱病院 救護班、針尾海兵団、佐世保海軍病院武雄分院、久留米陸軍病院、福岡陸軍病院などの救護班によって行われた。長崎経済専門学校には、鎮西集団命令によって軍関係、医療関係者約200人近くが入り、8月16日から仮編成して、約216病院を開設し、9月2日までの間に被爆者約305名うち161人が被爆した。新興善救護所へもっとも早く入ったのは針尾海兵団第一救護隊で、8月10日午後に新興善国民学校に入り、8月11日に浦上へ出動した。8月11日に佐世保海軍病院の武雄先進隊が、さらに8月12日に武雄分院救護本隊が入った。8月15日には武雄分院からの薬品衛生機器が到着した。8月16日には、針尾派遣隊の第2次救護隊が加わり、以後新興善救護所は特設救護病院とした整備された。針尾派遣隊は8月21日、武雄派遣隊は9月5日に撤収した。長崎市医師会が代わって新興善救護病院の救護を継承した。新興善病院は10月6日に長崎医科大学との合併が決定し、10月23日に正式に長崎医科大学附属病院となり、院長は調来助となった。針尾海兵団派遣の救護隊の報告によると、8月17日から31日までに外来患者延べ約3.991人、在院患者延べ約3,936人、約入院は約370人、退院は約53人、死亡は約154人であった。新興善病院では東京帝国大学、九州帝国大学、熊本医科大学、山口県立医科専門学校などの救護班や研究班がそれぞれ医療に従事した。
 被爆者の多くは、長崎市外への避難、被爆者などの市外への輸送には、救援列車が関与した。被爆当日の8月9日の午後一時から 夜半までの間に4本の列車が運行された。道ノ尾駅と浦上駅間の中間地点から、諫早、大村、川棚、壱岐などへ総計およそ約3.500人もの被爆者を輸送した。徒歩、トラック、列車などで長崎市外に逃れた被爆者を受け入れたのは、時津村の時津国民学校が約521人を収容して、約96人が死亡した。万行寺は約356人収容して、約45人が死亡した。8月18日までに、長崎市の隣接町村である長与村の長与国民学校は約762人を収容して、約96人が死亡した。茂木町では約80人を収容して、上村の森医院などは約200人を収容した。 



2020年6月12日金曜日

コロンビア北部のククタにて支援物資の搬入が国境警備隊と衝突して、負傷したベネズエラ市民を抱えて救護した。

コロンビア北部のククタにて、2019年2月23日にベネズエラ市民がベネズエラ国境警備隊との衝突により負傷した。その負傷者を数人ベネズエラ市民が抱えて救護した。ベネズエラ国境に近いコロンビア北部ククタに、支援物資搬入を求めて集まった反マドゥロ派の人々が集結した。ベネズエラ市民は人道支援を行うよう要求して、ティエンディタス橋で国境警備隊員と対決した。数千人の武装した国境警備員に対して、ベネズエラ市民の抵抗は石だけだった。国境警備員から催涙ガス弾とゴム弾から、銃撃が橋を越えた。少なくとも4人が殺害されて、数百人が負傷した。独裁色を強めるベネズエラのマドゥロ大統領に反発する反マドゥロ派が、コロンビア国境からアメリカなどからの人道支援物資の搬入を、軍事政権に国境を封鎖されて阻止された。人道支援がショーであると非難し、汚染された食物を積んだトロイの木馬と呼び、ベネズエラに侵入するアメリカの陰謀と喧伝して、コロンビアと国交断絶した。
 1999年に大統領に就任した軍人のウゴ・チャベスから、2013年にチャベス死後に継いだニコラス・マドゥロの20年にわたる軍事政権の失敗と腐敗、政権の徹底した反アメリカ政策と国内の圧政、原油価格の急落が同国の社会と経済が崩壊した。物資が欠乏して、混乱を極め、略奪と殺人が頻発して、治安が極めて悪化した。2019年1月には、約2680,000%ものインフレ率の高騰により、ボリバル通貨はほとんど無価値となった。国際通貨基金(IMF)は、2019年のインフレ率を約1,000万%と推定して、1年間で物価が約10万倍も急騰した。周辺国に、人口の約1割の約300万人の難民が国外に流出した。2017年の殺人発生率は、10万人あたり約60.0件で、世界第2位である(1位エルサルバトル61.7, 3位ジャマイカ56.4件)。ベネズエラの国会議長であった野党のファン・グアイドが暫定大統領を2019年1月23日に宣言して、アメリカと南アメリカとヨーロッパ諸国の約57国は支持した。中国・ロシア・キューバ・シリア・トルコは、マドゥロ軍事政権を支持した。グアイドは。2019年4月30日の軍事蜂起に失敗して支持は縮小した。アメリカ司法省が2020年3月26日にマドゥロらを麻薬密輸剤で起訴するも、逆にコロナ感染の世界流行を統制強化して、集会の禁止、軍隊にガソリン分配、社会生活に脅威を加えた。



2020年6月11日木曜日

カンボジアのカンポット州立病院にて、地雷で左下腿が吹き飛ばされて大量出血したカンボジア農民の女性が、切断の処置をされた。

カンボジアのカンポット州立病院に地雷で右下腿が吹き飛ばされて、大量出血したカンボジア農民の女性が1993年にトラックで護送された。ベトナム国境から約50Kmのビエルボン村から女性の農民である23歳のトン・フォカさんすが、十分な医療設備や医療職も乏しい病院で、関係者に緊急的に輸液をされながら、ストレッチャーの上で両下腿の切断の処置をされた。薪を採取中に地雷に被爆した。地域の家族や関係者が心配そうに動揺して取り囲み見守った。カンポット州立病院でも当時は、約20人の地雷の犠牲者らが搬入された。無差別に民間市民に対しても、予告もなく突如に地雷が反応して爆発した。地雷は、戦争後にも引き続き民間市民を巻き込む悲惨で残虐な兵器が潜伏した。たとえ生存しても、四肢欠損した障害者となり、十分なリハビリテーションや社会保障もなく露頭で物乞いや盗人をしていた。地雷に囲まれた地雷原となった農地でも、農民らは生活と生命の維持のために地雷を避けれない。カンボジア国内だけでも、世界中の約1割にも達する約1,000万個以上もの地雷が埋設された。カンボジアでは地雷で四肢を損失した人数は約2万人を超過している。地雷に接触して爆発した死亡率は、約5割である。約5万人が犠牲者になっている。地雷の犠牲者の約80%は民間市民であり、子供は致命的で最も被害を受けている。子供に最も危険なのは、子供の四肢を僅かな圧力でさえ爆発する対人地雷である。
 1997年12月に、NGO地雷を禁止する国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞した。同時期に、国連で地雷の全面禁止条約であるオタワ条約を164カ国が調印した。日本は1998年9月30日に調印した。しかし、アメリカ、ロシア、中国など36カ国は未調印である。オタワ条約には、対戦車地雷、クラスター爆弾、対人指向性地雷は含まれない。地雷は、アメリカ南北戦争頃から敷設され始めた。特に第一次世界大戦で、戦車が開発され始めてから、戦場で対戦車兵器として使用され始めた。さらに第ニ次世界大戦以降には、戦車が強力になるほど、地雷も高性能となった。第二次世界大戦だけでも、約3億以上もの地雷が敷設された。次第に、人間に対しても反応して爆発する対人地雷が、特にベトナム戦争以後に膨大な殺傷力のある地雷が、ジャングルだけでなく農地や山林などにも敷設された。ゲリラ戦に対抗するために爆撃機から投下されて、至るところの地表に散布された。東南アジアでは暴雨により泥沼の地中で地雷が変動した。そのために潜伏している地雷の場所が不詳になった。さらにベトナム戦争後のベトナム軍が侵攻したカンボジア内戦では、全土にわたり地雷が散布された。地雷を除去するも、一方で新たな地雷が埋設されて、その場所の特定が困難となっている。地雷を製造していないカンボジアに敷設した地雷は、アメリカ・ソ連・中国・ベトナム・アメリカ・ドイツ・フランス・チェコ・ベルギー・ブルガリア・南アフリカ連邦など海外からの多国籍の移入品である。


2020年6月10日水曜日

日本軍による真珠湾攻撃によって、ヒッカム飛行場が破壊され、駐在したアメリカ陸軍兵士が殺害された。

日本軍による真珠湾攻撃によって、アメリカ合衆国ハワイ州オハフ島のヒッカム飛行場が破壊された。ヒッカム飛行場に駐在していたアメリカ陸軍兵士が殺害された。1935年にホノルルにヒッカム飛行場が開設されて、1941年12月7日に真珠湾攻撃を受けた。約189人が殺害されて戦死して、約303人が戦傷した。約100個の爆弾が投下され、約27個が兵舎を爆撃して、最上階の2階の多くのアメリカ軍兵士が殺害された。食堂では朝食時に、約230kgの爆弾が直撃して約35人が即死した。
 1941年12月7日(現地時間)の夜明けに、アメリカ軍の太平洋艦隊の半数以上の約150隻の船舶および飛行機が、ハワイ等のパールハーバー横に錨で停泊していた。その朝、太平洋艦隊の1隻を除くすべてが軍艦にハワイ州オアフ島のパールハーバーに停泊して、ほとんどがフォード島に隣接する岸壁に係留されていた。12月7日の午前10時までに、静かな穏やかな日曜日に日本軍の約353機の攻撃機の奇襲突撃によりパールハーバーが粉々になり、約2,403人の死者と約1,178人が負傷した。21隻の船が沈没または損傷して、艦隊の戦闘用の通信網が破壊された。燃える飛行機と格納庫からの煙が空中を満たし、沈没船からの油が港を詰まらせた。死体が至る所に散在した。
 日本軍の攻撃の焦点であったパー​​ルハーバーの艦隊は最大の損失を被った。アメリカ軍の戦艦アリゾナが爆発したときに負傷者数ほぼ半分が発生しました。特に戦艦アリゾナは、乗組員約1,177人のうち約1,102人が殺害された。カネオヘからハレイワ、マラコレにいたるまで、オアフ島全体に渡るアメリカ陸軍、海軍、陸軍空軍、海兵隊の施設が、破壊されて死体も散在した。ヒッカム、ウィーラー、ベローズの陸軍飛行場は、約217人の男性と約77人の航空機を喪失した。フォード島とカネオヘの海軍航空基地は約19人を損失した。太平洋艦隊の海軍航空機は約92機が損失した。エワ海兵隊航空基地では、約4人のアメリカ人男性が殺害されて、約33機が破壊された。ワイキキからパールシティまでの民間市民が、対空兵器の爆弾によって殺害された。日本軍は真珠湾から撤退するまでに、日本軍は約4機の小潜水艦、約29機の攻撃機、約64名の日本軍兵士を喪失した。
 最も悲惨なアメリカ人民間市民の犠牲者は、日本軍の攻撃機の対空砲弾の多くが、パールハーバーとホノルル周辺の民間地域に着弾して、地面と接触して爆発した。民間消防署の多くは、民間地域での落下による多くの消火活動には対応できなかった。日本の戦闘機は、ホノルルの空港であるジョンロジャースフィールドを空襲して、1人の民間市民が殺害された。オアフ島への攻撃中に合計約49人の民間人が殺され、35人が負傷した。約11人は16歳以下の子どもであった。
 真珠湾攻撃よりも早く12月6日に奇襲攻撃をする日本軍の特殊潜航艇の5隻が突入して、駆逐艦に撃沈された。搭乗員10人のうち9人が太平洋戦争の初の戦死者となり、1人が太平洋戦争の捕虜第1号となった。ラジオVOA放送から察知した1人の捕虜を恥辱と排除して極秘にして、戦死した9人を「九軍神」と喧伝して日本国民を高揚した。 


2020年6月9日火曜日

ドイツ軍のプロパガンダ部隊は、ドイツ軍により殺害されたソ連の赤軍の女性狙撃兵の死体を撮影して、赤い売春婦と喧伝した。

ドイツ軍のプロパガンダ部隊は、第ニ次世界大戦の東部戦線で、1941年にドイツ軍により殺害されたソ連の赤軍の女性狙撃兵の死体を撮影して、赤い売春婦と喧伝した。ドイツ軍兵士は、中世の騎士のようにソ連の女性兵士は殺害しないと風潮していた。しかし、ドイツ軍兵士は、明らかにソ連軍の女性兵士を殺害していた。頭部を撃ち抜かれた捕虜となったソ連軍の女性兵士が頭部を撃ち抜かれて殺害された死体が路上に倒れていた。ソ連軍の女性兵士は、民間市民の囚人に扱われて、ナチス・ドイツ軍により処刑あるいは強制収容所に連行された。ソ連の女性は戦争が長くなるとは誰も考えずに飢えていた。女性らしさの喪失を悩み、男性の下着を装着を嫌い、死んで醜く見えるのを恐れ、戦争の心的ストレス症候群に陥った。
 第二次世界大戦中の東部戦線では、当初はソビエト連邦軍の戦闘員に女性の動員は不誠実であるとして、劣勢であるドイツ軍の士気を失わせる目的のみで使用された。しかし、次第にソビエト連邦軍で女性の動員が、戦場でも登用されるようになった。総計で約80万人もの女性が戦争作戦に動員された。前線では、たとえばパイロット、運転手または狙撃兵としてもかなり登用された。ソ連軍には、女性だけで構成された部隊はなかった、しかし、大多数の女性は空襲の保護、看護護員、洗濯員、パン屋、その他の後方サービスでも登用された。これはドイツ軍でも同様であった。
 第二次世界戦争中にソビエト軍に仕えた女性は約800,000人に達して、全軍人の約3%に及んだ。1943年のソビエト軍の女性数は約348,309人、1944年には約473,040人、1945年には約463,503人だった。ソビエト軍の医療関係者のうち、救急隊員の約40%、医師の約46%、外科医の約43%、医療助手の約57%、看護師の約100%が女性であった。その他には、パイロット、狙撃兵、機関銃手、戦車兵、パルチザン、および補助的な役割も果たした。最初に、ドイツ軍が1941年6月22日にソビエト連邦を攻撃したとき、志願した何千人もの女性は背を向けられた。しかし、ドイツ軍のバルバロッサ作戦に直面して大規模な損失を被った後に、志願する女性のためにより大きな役割を確保する必要があった。戦争の初期段階では、女性のための軍隊の最短ルートは、医療と補助部隊であった。ロシア人女性は冷戦後もロシア軍に所属する法的権利を有した。2002年に、ロシア軍の約10%は女性であった。
 ソビエト連邦は、10月の革命の以後に、男女平等を公約とした。多くの男性の戦闘領域にも女性が導入された。戦闘での女性の登用に根本的に反対する戦争思想的な理由はなかった。一方で、ドイツ軍では、お手伝いと十字架の母の両方を女性市民として連行するのに、多くの批判があった。驚くべきことに、ソビエト軍女性兵士を特に印象につなげたのはまさに第二次世界大戦中であった。戦後は、再びかなり保守的になり、働く女性は2Kである妻と母親に次第に取って代わられた。


2020年6月8日月曜日

イラク戦争で、バクダットの病院職員とイラク市民は悲嘆し呆然と、中庭に墓穴を掘っては、死体の簡略な埋葬を繰り返した。

イラク戦争で集中的な空襲を受けたバグダッドでは、電気・水道も途絶えて病院では、犠牲となった民間市民イラク人の多数の死体を安置すらできなかった。灼熱で腐敗した死体からの異臭に嫌悪しながら、病院職員とイラク市民らは悲嘆して呆然としながら、2003年4月にバクダットの病院の中庭にいくつもの土中の墓穴を掘っては、死体の簡略な埋葬を繰り返した。
 2003年3月20日午前3時15分からイラク戦争が勃発して、3月21日夜間からアメリカ軍と有志連合軍はバグダッドに向けて猛烈な爆撃をした。甚大なイラク人が戦闘に巻き込まれて殺害されるほどアメリカ政府への支持率が高まった。イラク戦争で攻撃力が高いほど、膨大な民間人の犠牲者が発生した。イラク戦争中にアメリカ軍とイギリス軍によって約29,199個の爆弾が投下されて炸裂した。空襲による民間市民イラク人の犠牲者の多くは、イラク軍幹部を標的としたアメリカ軍の戦闘に巻き込まれた。高性能精密に誘導や操縦しても、民間市民イラク人は猛烈な攻撃に無差別に巻き込まれた。人口密集地域に対するクラスター爆弾の空襲も地上攻撃も、民間市民のイラク人の殺害を引き起こした。重大な技術的または人為的障害の結果のため、目標を達成するために民間犠牲者数が増大した。戦闘中は、未熟な精密誘導弾による民間市民イラク人に対する犠牲は秘密裏にされた。アメリカ軍による空中戦により、民間人の生命の喪失または他の民間人の危害につながった。空爆は、4月7日にバグダットを陥落して占領するまで標的に空襲した。
 イラクに対する本格的な空襲は本格的に始まり、アメリカ軍を主体とする有志連合軍の戦闘機が、バグダッドとその周辺の数百の標的を攻撃した。イラクの首都の上の夜空は、鮮やかな爆風とそびえ立つ煙の柱が突き刺さった。1日目の地上攻撃力で、スピードと威力を結集して、バグダッドから約320km以内まで迫った。アメリカ空軍のイラク攻撃は、バクダットの現地時間で午後9時頃に勃発した。アメリカ軍当局は、バグダッドの数百もの軍事目標を、弾道ミサイルと爆弾を強力に組み合わせて襲撃した。バクダットの北部と西部などの他の軍事目標も空襲した。1日目だけで、総計約1,300個のミサイルと爆弾がイラクに投下されて主に首都のバグダッドで炸裂した。イラクの首都バグダッドの軍事目標の周辺居住地も襲撃されて、民間市民のイラク人が猛烈な空襲に巻き込まれて犠牲となった。空襲による爆弾がバグダッドに落下して炸裂した直後には、有志連合軍は防御力の弱いイラク南部の砂漠をバグダットに向けて急速に侵攻した。アメリカ軍は、ナシリヤ周辺のイラク軍司令部を攻撃するために、より多くの軍隊がチグリス川とユーフラテス川を上って、バグダッドに向かって速攻した。
 アメリカ軍は民間市民イラク人に対する危害を、付属的損害(collateral damage)として最小限に推定した。時間的制約を優先させて、複雑な審査による推定プロセスが欠損して、過度の民間市民イラク人の犠牲を招いた。イラクのバグダットでは、アメリカ軍の爆撃機がイラク軍幹部に対する攻撃で人口密集地域を爆撃した。携帯電話GPSの標的にするも誤差が約100mにも達して、民間市民イラク人の無差別の犠牲を伴っても、イラク軍幹部は人口密集地を既に遁走していた。イラク軍幹部に対する約50回の空襲はほとんど標的殺害に至らなかった。イラク軍艦部に対する空爆は繰り返し目標を達成できず、多くの民間市民イラク人を犠牲は軽視して、イラク戦争中に空襲は中止しなかった。




2020年6月8日 Japan No War (JNW) 
日本平和の市民連盟 視聴回数 400,000回 

2020年6月7日日曜日

広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに無縁仏が虚しく納骨されている。

広島原子爆弾が炸裂した1945年から23年を経過した1968年にも、広島平和記念公園内の原爆供養塔内にはまだ多数の被爆死者の遺骨が、引き取り手のないままに虚しく納骨されていた。被曝した直後には、死体は物体のように扱われて処理された。広島市内は壊滅して大混乱して、処置する必要のある死体が数万も散在していた。焼け跡や川縁から軍隊等らにより、死体は運搬されて、約100mごとにまとめて集積された。警察が軍隊に付き添い検死するも、推定できるのは性別や年齢だけであった。氏名なども、わずかに瓦の破片の目印だけであった。原爆供養塔に集積した遺骨のほとんどが氏名不詳の無縁仏となった。アメリカ人捕虜や朝鮮人から中国人などの外国人も納骨されている。原爆供養塔の暗いコンクリートの地下室に、遺骨が密かに雑居している。供養塔内で偶然に身内の氏名を見出して歓喜しても、引き渡された遺骨は骨箱の中で小塊が当たり響いた。
 広島平和記念公園の北端にあたる慈仙寺鼻の川辺には多くの死体が打ち上げられて火葬場となった。一種の供養場となり、1946年には供養塔と納骨堂が建立されて、引き取り手のない無縁仏を納骨した。納骨堂が仮小屋で朽ち果て、1955年の円型古墳様のコンクリート製の原爆供養塔に移設された。さらに広島港から約3kmの似島の救護所の墓標であった千人塚の約2,000人の遺骨を1955年に発掘して、広島平和記念公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。
 原爆供養塔は、1955年年8月5日に広島戦災供養会が建立した。原爆供養塔のなりたちは、爆心地にの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれて、荼毘にふされた。氏名不詳や一家全滅などで引き取り手のない遺骨を供養するため、1946年に市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂、礼拝堂が建立された。その後10年経った1955年に広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨も集めて納骨した。土盛り原爆供養塔の内部には、納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨など約7万柱が納められている。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年 公開し、遺族を探している。1955年に2,432柱あった遺骨のうち、2007年6月でも824柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔に眠っている。合同慰霊祭は、1946年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれる。毎月6日には例祭がとり行われる。桃山時代の御陵を模した円形の土盛りの頂点に石造の相輪の塔が据えられている(直径16m、高さ3.5m)。 広島平和記念公園内に被爆者の遺骨を納骨することは不当とされて、原爆慰霊碑の石棺に過去帳の氏名のみが奉納されている。無縁仏となった遺骨のみが、原爆供養塔に納骨されている。




2020年6月6日土曜日

沖縄戦において、アメリカ軍は、日本軍により飢餓状態に追い込まれた瀕死の多数の沖縄住民を捕獲した。

アメリカ軍は、1945年6月14日に飢餓状態にあった瀕死の多数の沖縄住民を捕獲した(RG, Series Item: 127-GW-601-124942: 沖縄県公文書館)。日本軍は沖縄住民を飢餓に追い込みアメリカ軍に敵対させた。アメリカ軍は1945年6月14日に糸満のアブチラガマを攻撃した。アブチラガマは、アプ(深い縦の洞穴)・チラ(崖)・ガマ(沖縄方言で洞窟やくぼみ)が、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある自然洞窟が散在していた。沖縄戦において、もともとは糸数集落の避難の指定壕であったが、日本軍は陣地壕や倉庫として占領して、戦線が沖縄本島を南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となった。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊などが配属され、全長約270mのガマ内には約600人以上の負傷兵で埋め尽くされた。1945年5月25日の南部搬退命令により病院が6月2日に搬退した後には、糸数の沖縄住民と生き残り負傷兵、日本軍兵士の雑居するアブチラガマ状態となった。6月6日から、地下壕・地下洞窟を出入口を封鎖して、天井の地面から馬乗り攻撃をした。その後も、アメリカ軍の攻撃に遭いながらも一部は生き残り、1945年8月22日のアメリカ軍の投降勧告に従って、沖縄住民と日本軍負傷兵らがアブチラガマを這い出て降伏した。
 1945年6月14日時点で、アメリカ軍は、国吉丘陵で日本軍陣地を次々に占領した。日本軍は国吉丘陵の間のアメリカ軍の陣地がある69高地に向けて絶え間ない猛烈な攻撃かけた。アメリカ軍は前線に補充物資と部隊の派遣は困難となった。アメリカ軍は、沖縄諸島の周辺離島である長島にも上陸して、日本軍兵士を約117人を殺害して直ちに占領した。アメリカ軍は小禄半島の孤立した日本軍陣地を掃討した。新垣の付近の日本軍の洞窟内に隠した対戦車砲台を破壊した。与座岳の断崖に潜伏した日本軍に対して猛烈な砲火をした。夜間にアメリカ軍の前線に突撃する日本軍の切込み隊の約129人の日本軍兵士を殺害した。日本軍の守備の抵抗力が減弱して、八重瀬岳の断崖の日本軍司令部は砲撃されて、日本軍兵士は甚大な犠牲を伴って占領された。約500人の日本軍の予備部隊が、波状砲撃を受けて約300人以上が戦死傷した。アメリカ空軍は、常時に偵察して援護の地上空爆をした。沖縄戦における1945年6月14日までの日本軍の犠牲は、戦死者は約77,719人、捕虜は日本軍兵士が約953人、保護した沖縄住民は約173,431人に及んだ。



2020年6月5日金曜日

ソンムの戦いで、連合軍のイギリス軍とフランス軍の兵士は泥と荒廃を通り抜けて重い戦死傷者をストレッチャーで運び込んだ。

1日あたりの最も甚大な犠牲者は、1916年7月1日から11月18日まで勃発したソンムの戦いで発生した。連合軍のイギリス軍とフランス軍の兵士は泥と荒廃を通り抜けて重い戦死傷者をストレッチャーで運び込んだ。フランス西部のソンムの戦いにて、連帯救護陣地に向けて次々に戦死傷者が搬入された。イギリス軍には、第1日目は戦死者数が約19,240人を含む約57,470人の戦死傷者が史上最悪の犠牲者数となった。第一次世界大戦での兵士と民間市民の死傷者数は4,100万人を超えて、約1,800万人以上が死亡し、約2,300万人が戦傷し、人類史上で最悪の犠牲となった。総死者数には、約900から約1,100万人の軍人と、約500万〜600万人の民間市民が含まれる。連合国は約600万人の兵士を失い、同盟国は約400万人を失った。
 第一次世界大戦に関する文献では、第一次世界大戦の犠牲者の数は論争中であ。戦争犠牲者の範囲は約600万人から約1,300万人である。異なる推定となるのは。損失という用語の定義にある。当時の軍事用語では、もはや戦闘が不能で、死亡、戦傷、または捕虜となった可能性のあるすべての兵士が含まれていた。軍事的損失に関する一部の数値は、戦場で、または捕虜として死亡した兵士に関する数値である。第一次世界大戦で戦った約6,000万人の兵士のうち、約900万人以上が戦死した。戦死者は、戦闘部隊数の約14%に相当して、1日あたり約6,000人の戦死した。同盟国の軍隊は約2,500万人の兵士を動員して、約350万人が戦死した。連合軍は約4,000万人の兵士を配備して、約500万人以上が戦死した。死亡率は約6%から約30%の範囲で、セルビア、モンテネグロ、トルコ帝国の軍隊において最も高かった。
 特にコレラ、腸チフス、天然痘の流行により、他の国の軍隊は兵士にワクチンを接種していた。感染症はその他の軍隊にも広がったが、死亡率は低かった。絶対数では、主に爆発性の砲弾に基づく強烈な戦闘技術が原因で、すべての戦線で大規模な戦闘で最も多くの犠牲者が出た。捕虜の死者数は、囚人の約5から10%に達した。捕虜にも感染症は他の軍隊にも広がるも、死亡率は低下した。捕虜の死者数は、囚人の約5から約10%であった。
 軍事的損失は、戦時中の民間市民の死よりもはるかによく記録された。軍は戦闘に参加できる兵士数を可及的に正確な推定が必要であった。兵士だけを数え、民間市民は、病気や死の原因が何であれ、民間市民の戦争関連の死を登録した事務所は皆無であった。民間市民の数値は、さまざまな仮定と定義を使用して、非常に異なる資料から推定された。空爆で亡くなった民間市民は戦争の犠牲者であるも、中心的な死因は、インフルエンザの流行と封鎖であった。



2020年6月4日木曜日

スペイン共和国軍は州都オビエドを急襲して、アストゥリアス蜂起の労働者と農民らを虐待と虐殺して、街路路に死体が散乱した。

1934年10月4日からのアストゥリアス蜂起を抑制するために、スペイン共和国軍は民間の警備員、モロッコからの部隊と外国人軍隊に山岳地帯のアストゥリアスを急襲させた。労働者と農民らは、アストゥリアス地方の州都オビエドなどの主要都市で虐待と虐殺して、アストゥリアスの街路時には、労働者や農民の死体が散乱した。政府軍は、アストゥリアスに戒厳令が宣言した。航空と大砲に援護されて、アストゥリアス蜂起を流血させて10月19日に鎮圧した。戦闘に巻き込まれて約1,500人の労働者らが殺害された。軍事裁判所は、3万人以上の労働者らを刑務所に投獄して処刑された。
 1934年10月に、スペインのアストゥリアスの労働者や農民がプロレタリア兄弟の団結(UHP)をスローガンに、ファシストの暴力に対抗してゼネストに入った。自力的に武装蜂起して、オビエドを中心に鉱山や工場を占拠して、アストゥリアスのコミューンを蜂起した。武装した労働者は警察や兵舎と武器工場などをダイナマイトで襲撃して、地域を占領した。工場生産、交通、食料品の配給、土地の配分などを自主的に行った。コミューンは約2週間にわたり保持された。それに対抗してスペイン共和国政府はフランコ将軍らの主導下で、植民地のモロッコからムーア人部隊を投入し、この外人部隊によってアストゥリアスの労働者と農民、その家族と市民までも機関銃で掃射させて、流血して殺害して征服した。
 第1次世界大戦で中立を保ったスペインは経済発展をするも,各地で労働争議が頻発した。ファシストと左派労働者はやがて武装対立を呈してきた。各地で起こった最も過激な武装対立が、スペイン北部の先進的鉱工業地帯であるアストゥリアス地方で起こった。特に、アストゥリアス地方で、社会主義者が先導する労働運動が高まっていた。第二共和制(1931年から1939年)下で1934年10月には,アストゥリアス地方のオビエドを中心にアストゥリアス蜂起が勃発して,労働者のコミューンが設立された。フランコが指揮する政府軍により約2週間で鎮圧された。1936年7月16日から突入したスペイン内戦の重要な契機のひとつとなった。


2020年6月3日水曜日

アラバマ州セルマで有権者登録をしようとした黒人女性を、保安官が代理人に黒人女性を拘束させて警棒で殴打した。

アラバマ州セルマで有権者登録をしようとした黒人女性を、保安官が代理人に黒人女性を拘束させて警棒で殴打した。保安官のラベルボタンには「ネバー」と掲載して黒人には投票させないことを自負していた。
 1965年1月25日、アフリカ系アメリカ人である黒人女性で53歳のアニーリー・クーパーは、投票登録所であるダラス郡裁判所の外で何時間も並んで、有権者登録をした。ジム・クラーク保安官は、彼女に敷地からの退去を命じた時に、クーパーの顎がクラーク保安官の顎に接触した。クラーク保安官は、警棒でクーパーを首を打ち込んで地面に倒した。その後も、クラーク保安官は警棒で繰り返しクーパーを殴打し続けた。1965年1月に行進し、白人の保安官であるジム・クラークは、1965年にデモ行進する非武装の公民権支持者に対して牛の棒で拷問する残忍な制圧を行った。黒人対する人種差別主義者であると非難された。アラバマ州のダラス郡の郡庁舎の入口で待機して、わずかな抗議をする黒人の選挙登録者を殴打して脅迫と暴行をした。裁判所付近で抗議デモをしていた約300人の学生を逮捕して、牛の棒で約4.8kmもある拘置所に強制連行した。1965年までにダラス郡の約15,000人の黒人に選挙権があるも、約300人しか登録されなかった。
 アメリカ南部の諸州には、黒人に対する人種差別の州法が潜在していた。アラバマ州兵士が、2月18日にデモ抗議したジミーリー・ジャクソンは、アラバマ州兵士に射撃されて、8日後に死亡した。1965年3月7日から当初は約600人のデモ抗議者が、セルマからモンゴメリーに向けて約87kmに及ぶ黒人の抗議デモを出発した。アメリカ憲法に基づく投票権を求めた。3月7日の日曜日に郡の境界を越える時に、非武装のデモ行進者を警棒と催涙ガスで迫害した血の日曜日(ブラディ・サンデー)が勃発した。約17人のデモ抗議者が入院して、約50人がけがを被った。3月9日には白人のジェームズ・リーブ牧師が殴打されて2日後にに死亡した。1963年1月20日に大統領に就任して、1964年7月2日に公民権法に署名したリンド・ジョンソン大統領が投票権法を1965年3月15日に議決権法案をテレビ会議した。3月24日にモンゴメリーに到着して、3月25日にアラバマ州議事堂に到着して約25,000人が集結した。1965年8月6日に投票権法が法律として成立した。
 アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性の46歳のジョージ・フロイドが、2020年5月25日に白人警官のデレック・チョーヴィンに頚を押さえつけられて窒息死した。白人警官による黒人の殺人事件をめぐっては、アメリカ各地に抗議デモが拡大している。


2020年6月2日火曜日

第一次世界大戦で毒ガスマスクを装着しないアメリカ軍兵士が、ホスゲンの毒ガス煙に窒息して地面に倒れた。

第一次世界大戦の西部戦線にて、北フランスの最前線の塹壕からアメリカ軍兵士が前方に突撃した。毒ガスマスクを装着していないアメリカ軍兵士が、ホスゲンの毒ガス煙に窒息して地面に倒れた。アメリカ軍エンジニア工兵隊が、北フランスの最前線の塹壕の近くで撮影して、ホスゲンの毒ガスの有毒性を示した。
 毒ガス攻撃は第一次世界大戦で最も恐れられ、非常に危険な武器であった。第一次世界大戦中に約100万人以上の戦傷者と約100,000人の死者を出した。ドイツ軍は、臭化キリルを含有する薬品を使用してフランス軍を攻撃するために最初に使用された。1915年4月22日午後5時にベルギーのイーブルの戦い(Battle of Ypres)で、ドイツ軍は史上初に約170トンもの塩素ガスをフランス軍に対して使用した。次いで5月1日からイギリス軍にも使用した。すぐに殺されずに、最終的に殺されるまでに数日または数週間の苦しみがかかるとても残酷な武器であった。最も頻発した症状は失明であった。肺の損傷と呼吸の問題を引き起こし、最終的には死亡した。ドイツ軍はホスゲンで1915年12月19日に、ベルギーのイープル付近でイギリス軍に毒ガス攻撃をした。ドイツ軍はさらに致死性の高いマスタードガスを1917年7月にベルギーのイープル近郊でイギリス軍問うに毒ガス攻撃した。
 毒ガス攻撃は、戦争の早い段階から毒ガス攻撃から身を守るのがとても困難であり、脅威の武器となった。第一次世界大戦の西部戦線では、兵士たちは塹壕の穴に飛び込んで身を守っていた。毒ガスは空気よりも重いため、塹壕の穴に散布して窒息死させた。突撃しないでも、いつでも塹壕に散布できた。毒ガス攻撃の最大の欠点は、毒ガス攻撃が天候に大きく依存していた。と特に風向により、風が反対方向に空気を吹き、部隊は自らを毒ガスを受けた。さらに、雨と強風が毒ガス爆弾の威力を消した。毒ガス攻撃は非常に効率的でも、時間が経つにつれ軍隊はより優れた保護方法を開発し、ガス攻撃の効率を低下させた。
  毒ガス攻撃には毒害ガスマスクを付けることを余儀なくされた。早い段階の防毒マスクは大量に漏れ入って、多くの死者を出した。その他に、ソーダの重炭酸塩の溶液で覆われた綿パッドまたは尿で覆われた布を使用して保護した。毒ガスには塩素など多くの物質が含まれた。保護方法がより効果的になるにつれて、毒ガスの有効性は戦争の後半に減少した。最も危険なタイプはマスタードガスで、非常に致命的となった。最初は単に刺激物として使用されたが、後には殺害するために完成された毒ガス攻撃をした。バイエル社が毒ガスの開発と製造業者となり、毒ガスマスクも製造して莫大な利益を得た。


2020年6月1日月曜日

中国の義和団の乱の指導者らの囚人は、八カ国連合軍に取り囲まれて北京で断頭により公開処刑をされた。

中国の義和団の乱(Boxer Rebellion)の指導者らの囚人は、1901年5月1日に北京で断頭により公開処刑をされた。公開で断頭された処刑の写真を絵画に起こした。北京と天津を占領した八カ国連合軍であるアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシア・オーストリア=ハンガリー・日本の兵士らに囲まれて中国人の処刑者らに斧で首切りされた。特に軍人数順には、日本軍が約20,840人、ロシア軍が約13,150人、イギリス軍が約12,020人と、八カ国連合軍の約54,226人のうちで約85%にも達した。1900年7月14日に天津を占領して、8月15日に北京を陥落した。八カ国連合軍の戦死者は、約757人と戦傷者は約2,654人であり、中国軍と民間中国人の戦死者数は、約10万人にも達した。1901年9月7日の清国との北京議定書で、義和団の乱は終結した。
 義和団の乱は、1899年11月2日から1901年9月7日まで勃発した。清朝の末期にて、中国で反帝国主義、反外交、反キリスト教で蜂起した。義和団員の多くが西洋では散打とも呼ばれる中国式の武道を習得して、英語でボクサーとして知られた。扶清滅洋のスローガンを掲げて、義和拳教による正義の民兵連合として義和団が発足した。中国北部の村人たちは、過酷な納税の義務を無視して、集団を訴追から守るために、領土外の権利を濫用したキリスト教の宣教師に対して憤りから反乱した。義和団の乱の当面の背景には、1895年の日中戦争後の外国人の影響力の拡大による深刻な干ばつと混乱が影響した。約6か月にわたり、外国人とキリスト教徒に対する山東省で発足して、中国の北平原の北京と天津地域で暴力と虐殺が横行した。殺害の数か月後の1900年6月2日に、清国の西太后が反乱を支持して、欧米列強に宣戦布告した。義和団の戦闘員は、6月10日には約20万人が北京に入城した。外国の武器に対して不敵であると信心した。義和団員は首都の北京に集結して、清国政府を支援して、外国人を根絶を目指した。外国人と中国人のキリスト教徒は、公使館に避難した。