2019年9月15日日曜日

日中戦争にて日本軍の戦地憲兵は、中国人捕虜を密偵として拷問で自白を強要して取り調べた。

日中戦争にて日本軍の戦地憲兵は、中国人捕虜を密偵として拷問で取り調べた。中国人を敵視して、自白を強要した。全く身に覚えのない容疑をかけては、拷問により生命を奪った。拘束・検挙して、不正確でも、特殊情報の成果の至上主義が蔓延して、権限の行使が無制限に認められた。植民地の朝鮮でも、朝鮮全土に憲兵が配置された。尋問のためには、こん棒を振り回して殴りつけた。焼きごてを、いきなり背中に押し付けた。日本の侵略戦争の対象地であった中国戦線には、戦地憲兵が網の目に貼り巡った。関東軍は、満州国の特別警察を関東軍の憲兵組織の配下に置いて、軍事警察権力を一手に掌握した。権力を乱用して、法律の原則を逸脱して政敵を排除した。
 戦地憲兵は、多岐にわたる兵士の軍紀の保守、極秘情報の収集、思想対策、中国民衆対策、宣撫宣伝、交戦日本人の監視の任務を遂行した。絶対的な使命として、国家権力に抵抗するあらゆる個人や組織を敵視して、処分・弾圧に臨んだ。戦局が悪化するほど、徹底した国民動員の不満の噴出を弾圧して強制した。
 憲兵とは、戦前・戦中に思想犯を死に追いやった特別高等警察(特高)と並び、市民への監視と弾圧を繰り返し、恐怖を撒き散らしながら市民を戦争へと駆り立てた旧日本軍の機関である。憲兵の本来の任務は、軍人の統制と監視にあったはずが、軍国主義が深刻化する中で、その本来の任務を大きく逸脱した。日本軍の憲兵組織を駆使して、権力の意図を実現する憲兵政治を強要した。戦争国家は、市民の自由な活動や言論を許容しないで弾圧して、市民を戦争に動員を強制した。戦前の軍国主義を支える憲兵は必然であった。日本国内と国外での憲兵隊の数は、約33,885人に達した。軍国主義が進展するほど、必ず遂行するために不当な権力が行使された。
 2007年6月6日に、自衛隊による違憲・違法の国民監視活動が告発された。陸上自衛隊情報保全隊の「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」の内部文書が暴露された。自衛隊が情報保全隊が、2004年1月7日から2月25日までのイラク派兵に対するすべての国内の反対運動の監視を記録した。自衛隊の情報保全隊は、2003年3月に調査隊を格上げして約900人もの組織を設置した。



2019年9月14日土曜日

広島原子爆弾に被爆した約2ケ月後に、母親が重態の男児を抱いて、大芝国民学校に駆け込むも、すでに息がなく死亡していた。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて広島市内で炸裂した。それから約2ケ月後に、異変に気づいた母親が重態となった男児を抱いて、広島市西区大芝1丁目25番18号の大芝国民学校の救護病院に駆け込んだ。教室を改修した治療室で、医師の診察を受けた時には、すでに息がなく死亡していた。その男児の死亡に泣きながら悲嘆した。
 大芝国民学校は、爆心地から北西約2.4kmに位置して、爆心地に向けて縦に建った南側の新校舎のみが倒壊を免れた。焼けなかった学校や病院は仮設救護所となり、被爆した多くの市民たちが救護と治療に訪れた。被爆直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到したために、8月7日から臨時救護病院を開設した。8月7日になって火の勢いが鎮まると、救護に当たる者が引き返して再び救護の任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人らが、専門領域を越えて不眠不休の救護活動を行った。1941年の国民学校令で、尋常小学校から国民学校に改称された。教育勅語に示された国体の精華と臣民の守るべき皇国の道を修練させた。



2019年9月13日金曜日

イスラム国は、イラクのシンジャルを攻略して、ヤズディ教徒を大量虐殺して、処刑地で膨大なクルド人の白骨が散乱した。

イスラム国(ISIS: Islamic State of Iraq and Syria)は、イラク戦争後にイラク北西部のシンジャルを攻略して、ヤズディ教徒を大量虐殺して処刑した。その1年後には、処刑の跡地の砂漠上で膨大なクルド人の白骨化した遺体が散乱していた。
 クルディスタン地域政府(KRG)は1992年に設立されて、ISISの脅威を戦うだけでなく、真のクルド人国家の創設を目指した。約1,400年間にわたりクルド人を迫害したアラブ人の駆逐を念願とした。サダム・フセインのイラク政権の激しい弾圧と迫害から、アラブ人によるクルドの併合からの独立を悲願とした。クルド人は、「国家を持たない世界最大の民族」として、イラク・イラン・トルコ・シリアなど中東に約3,000万人が居住している。
 2014年6月にイスラム国(ISIS)がイラク中央部を突如として侵略した。ISISは、世界をカリフ制度に戻し、イスラム教徒以外のキリスト教徒やクルド人、シーア派の抹殺を使命とした。6月のISISの攻勢により、クルド人の宗教的少数派であるヤズディ教徒がシンジャルで襲撃された。シンジャルは、イラク北西部の国境地帯にあり、KRGの領域外で無防備であった。ISISが2014年6月には、モスルを陥落させて、ISIS攻撃が狂乱した。
 2014年8月1日に、ISISゲリラが、KRGとシンジャルを結ぶ唯一の道から、わずか約10マイルのズマールにあるペシュメルガ軍事組織の前哨基地を攻撃した。8月3日にISISはシンジャルで大量虐殺を行って、少なくとも約5,000人のヤスディ教徒が虐殺された。大混乱してシンジャル山からの避難民はペシュメルガ軍事組織からも逃避した。8月10日には、ISISがKGBの首都アルビルを攻撃した。
 イラク国内にてKRGは1992年に創設されて、イラクに迎合してクルド人地域を維持していた。アメリカ軍によるイラク侵攻で、公然としてアメリカ軍に味方して、後方支援した。KGB領内では、連合軍の兵士はイラク戦争中に犠牲者は全くでなかった。2017年9月25日にKRGは、イラクから分離独立する住民投票を強行して約9割が賛同した。直後に、イラク軍が2017年10月16日に油田都市のキルクークを制圧して、KRGは周辺諸国による経済封鎖でクルド人勢力は疲弊した。


2019年9月12日木曜日

グアテマラ内戦で、軍事政権に連行され失踪した先住民のカクチケル・インディアン人は、無残な白骨に変わり果てた。

グアテマラ内戦に巻き込まれて1979年に軍事政権に連行されて失踪した先住民のカクチケル・インディアン人は、無残な白骨に変わり果てた。軍駐屯地の秘密墓地に埋葬されていた遺体が、1987年にアンティグラ市の近郊で見いだされた。先住民のカクチケル・インディアン人の女性は、変わり果てた遺骨に対面して悲嘆に暮れて慟哭した。1980年代から各地域には土地紛争鎮静化のため農園ごとに強制収容する軍駐屯地が置かれた。軍駐屯地内に秘密墓地が設置されて、拷問から虐待して殺害した遺体を埋めて消滅した。
 コロンブスが1942年10月12日に漂着した島民をインド以東と思い込みインディオと呼称した。南北アメリカ大陸の先住民であるインディオの基本的人権は、侵略したヨーロッパ民族により支配する諸国によって放置されて黙殺されて迫害された。支配民族は、先住民を虐殺と虐待して、抑圧して排除した。その支配する民族は、国内の先住民地を植民地化した。先住民の土地を収奪した大農園や鉱山開発企業の利益を守る政府軍は各農園に駐屯地を置いて、土地への権利を求める先住民への弾圧を強化した。国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われるジェノサイドを執行した。
 中央アメリカのグアテマラには、先住民族が国民の約4割を占めている。1954年から1996年までアメリカから支援された反革命の軍事政権が続いた。軍人や地主による土地強奪、人口の過半数を占める先住民の虐殺などが激化した。1970年代後半から農地を求める農民運動が拡大した。1981年から政府軍は、ゲリラ掃討により国土を焦土化して、約626が消滅部落となり、約100万人の国内難民、約10万人の国外難民が発生した。1982年からゲリラ組織とのグアテマラ内戦が激化した。グアテマラ内戦の犠牲者数は、死者が約17万5000人、行方不明者は約5,000人にも達した。



2019年9月11日水曜日

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。日本軍とロシア軍は、1905年1月25日から1月29日まで黒溝台会戦で死闘を繰り返した。黒溝台会戦は日本軍の司令不足、軍事の準備不足や作戦失敗など、大変な消耗戦による死闘となった。軍事的には損耗率約30%で戦闘力の喪失、50%を超えると壊滅となる。黒溝台会戦で、日本軍は戦闘力を喪失して、壊滅となる寸前となった。黒溝台会戦は全体で日本軍は約53,800人が参戦し、戦死者は約1,848人、負傷者は約729人、捕虜は227人、犠牲者は総計で約9,324人で、損耗率は約17%にも達した。戦闘により、日本軍兵士将の数多くを失う悲劇となった。日本軍の被害と損耗率が膨大であった。
 ロシア軍も膨大な犠牲を伴った。参加兵士の約105,100人のうち、戦死者は約611人、戦傷者は8,989人、失踪者1,105人、総計11,743人にも達した。戦死傷だけでなく、失踪者が1,000人以上出ている。ロシア軍の被害が相対的に大きなり、内部崩壊の状態となったが、黒溝台会戦では戦死者が少なく、全体の損耗率も約10%であった。1905年1月22日に、ロシア本国の首都ペテルスブルグで、多数の市民を射殺した血の日曜日事件が勃発していた。
 黒溝台会戦が、劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利の起点となった。死闘と犠牲の上に日露戦争を乗り切った。招魂祭は戦死者を祭ることで国家のために殉死した人々を英雄化し、戦争の記憶を市民に植え付ける。軍旗祭も師団管下の各連隊にとって、軍隊と地域の人々を結びつける年中行事となった、記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民の前に披露された。
 優勢なロシア軍を前に、日本軍兵士を真っ正面から悲劇的な突撃をした。黒溝台会戦は、軍事的には日本軍の完敗だった。黒溝台会戦は、結果的にはロシア軍の退却を誘発して、奉天会戦の犠牲として、日露戦争の勝利を導いた。その後の日本は第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争を経て犠牲者を踏み越えて敗戦に突入した。


2019年9月10日火曜日

ネパール政府軍兵士は、木製の担架でマオイストのゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬して、死体を集積した。

ネパール政府軍兵士は、ネパール共産党毛沢東主義派(以下、マオイスト)のゲリラとの戦闘で、2002年5月に殺害したゲリラの死体を集積した。ネパール政府軍兵士は、木製の担架でゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬した。ゲリラは、1996年頃から政府軍に反抗して、中山間地域を基盤にして、血にまみれの内戦が勃発した。
 ネパール内戦が、1996年2月13日から2006年11月21日の包括的和平協定の成立まで、約11年間にわたり、ネパール政府軍とマオイストの間で繰り広げられた。2002年5月に、マオイストのゲリラ拠点であるネパール中西部のロルパ郡ガム村に、ネパール政府軍の治安部隊がマオイストのキャンプを襲撃して、無差別に約150人を殺害した。
 1996年に、マオイストはネパール政府に対して武力闘争を開始した。その後、2006年の停戦に至るまでの約10年間で民間市民を含めて、約13,000人もの犠牲者を出した。内戦だけでなく、カーストや民族間の対立、援助慣習など社会問題により、社会的環境は悪化した。国連のUNMIN(国連ネパール政治ミッション)が、2007年1月から2011年国連平和維持活動をした。2008年には制憲議会選挙を実施して、第1党となったマイトス勢力が王政が廃止して、ネパール連邦民主共和国に移行した。王政の廃止以降に、憲法制定作業が難航した新憲法が、2015年9月20日に公布された。



2019年9月9日月曜日

カシミール州のバンディポラで、占領するインド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。

インドの北西部にジャム・カシミール州のスナガルから北に約45kmのバンディポラで2002年12月以降に、インド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。インド軍兵士が、イスラム教武装勢力と混同した。射殺されたカシミール人の死体は、インド軍基地に分捕られた。カシミール市民は死体の引き渡しを求めて、「カシミールに自由を、独立を。カシミールからインド軍の撤退を」と怒号した。やがて弾丸が頭部を貫通して射殺された死体を、カシミール市民は確保した。インド軍兵士に射殺された青年の妻が、冷たい手を握り泣き叫んだ。遺体は、群衆に担がれて、悲しみに包まれて墓地に埋葬された。
 1947年8月にインドとパキスタンは、英領インドから独立して、576もの藩国が帰属を迫られた。1947年9月にヒンドゥー教のカシミール藩王はインドに帰属するために、市民の大多数を占めるイスラム教徒と闘争した。カシミール地方にて、インド軍はヒンドゥー教徒を、パキスタン軍はイスラム教徒を支援した。1947年10月から1949年1月まで、カシミール紛争により第1次インド・パキスタン戦争が勃発した。1965年に第2次インド・パキスタン戦争、1971年に東パキスタンからバングラディッシュが独立する第3次インド・パキスタン戦争が再燃した。1989年にソ連軍がアフガニスタンの撤退から、イスラム武装勢力が本格的にカシミールに侵攻して、カシミール紛争による犠牲者数は約65,000人にも達した。
 1998年5月には、インドとパキスタンは、同時期に引き続けて地下核実験を強行して、核兵器を保有を宣言した。核不拡散条約(NPT)は、核兵器の保有を国連の常任理事5国だけに限定した。インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮は、NPTに加入せずに核兵器を保有する核敷居国家と宣言した。



2019年9月8日日曜日

ファルージャへの攻撃による約800人の死者のうち約600人が民間市民であり、その半分が女性と子供であった。

ファルージャへの攻撃は、イラク占領軍が抗議デモに発砲して、約18人の市民を殺害した2003年4月のアメリカ軍の侵攻の直後に始まった。アメリカ軍の車両の旗は、「軍隊はすべてを殺す」という精神を象徴した。海兵隊の司令官は、病院は死傷者が多いので噂の源であるとして、病院を最初に占領した。ファルージャへの攻撃による約800人の死者のうち約600人が民間市民であり、その半分が女性と子供であった。多くの子供と赤ちゃんが爆撃で殺害され負傷した。約25,000人を超えるアメリカ軍がファルージャを取り巻き、そのうち約15,000人が反乱軍の要塞を襲撃した。
 2004年3月26日に攻撃の頻度の急激な増加に対応して、アメリカ軍は攻撃的な作戦を開始し、バグダッド西で2人の子供を含む家族が殺害された。南部および北部のモスルからファルージャまでの新しいゲリラの戦闘員は、両方の地域で集中的かつ同時の攻撃を行い、アメリカ軍の作戦計画者を混乱させる圧倒的な力を発揮した。
 2004年11月6日には、アメリカ軍のミサイルが、ファルージャのハイナザル病院を襲撃した。11月7日には、ファルージャ総合病院を襲撃した。11月9日火曜日の午前5時30分に、アメリカ軍用機が中央保健診療所を爆撃し、約35人の患者、約15人の医者、約4人の看護師、約5人のサポートスタッフ、約4人の医師が殺害された。アメリカ軍は、救急車も標的にし、約5人の患者と運転手を殺害した。
 戦争に関する第4回ジュネーブ条約は、「負傷者、病人、虚弱者および出産のケースをケアするために組織された民間の病院は、いかなる状況においても攻撃の対象とはならないが、常に尊重され、保護されるものとする」それは、第二次世界大戦後の1949年に締結された。ジュネーブ条約は、囚人の拷問などの慣行も禁止した。




2019年9月8日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 290,000回

2019年9月7日土曜日

広島原子爆弾が投下日に広島市北部の安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。

1945年8月6日に広島原子爆弾が広島市に投下されて炸裂した。当日の午後に広島市の北部に向けて7kmの地点である安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。トラックの荷台の被爆者は、あまりにも無残で悲惨であった。被爆者は悲惨を通り越して無残であり、鬼気が迫った。すぐに被爆者を乗せたくても全く余地がなく次のトラックを待つように説得するのが悲惨であった。その後は時折にトラックが来ては、被爆者らを広島市北部の方に運んでいた。それでも膨大な被爆者にはどうにもならず、多くは放置となり、うめく者、水をくれとせがむ者など、この世の地獄図になった。広島市内の中心部から、トラックの荷台に乗って避難する被爆者らに、歩いてくる多くの被爆者が後から後からと続いた。
 その当時は被爆者は原子爆弾の放射能のことは全く知らなかった。トラックで運んだ被爆者達も何とか助かったと思うも、恐らくはその多くの被爆者は助からなかった。各運送会社は、トラックを約20台を保有していたが、ガソリン車は約6台ほどで、後は木炭車であった。その頃はトラックを、助手がクランクをボンネットの前に差し込んで、手回してエンジンをかけていた。最初は、戦場への兵士に送られる若年の男性が優先的に救護所にトラックで運ばれて治療を受けた。当初に老人や女性、 子どもさえもトラックに乗せてもらえず、トラックの周りに群がり、大騒ぎにもなった。


2019年9月6日金曜日

沖縄返還の直前に沖縄市内の勢理客にて、過激派と機動隊の激しい衝突により、一人の機動隊が死亡した。

沖縄返還の直前に沖縄市内の勢理客にて、過激派と機動隊の激しい衝突により、一人の機動隊が死亡した。沖縄の基地による悲劇により死亡した機動隊員は、デモ隊に対する臨時隊員であった。しかし、機動隊のユニフォームを着用したら、正規隊員と見分けがつかない。1971年11月9日から11月10日に、沖縄返還協定反対・交渉やり直し完全復帰要求のストライキが勃発した。11月10日には約10万人が集結して、沖縄史上で最大のストライキとなった。最大の抗議集会によって、最後に一人の警官が死亡して、多数の負傷者を出した。デモ隊の交通整理係の48歳の警官である山川松三巡査部長が死亡した。機動隊のユニフォームとヘルメットを身に着けたまま路上で死亡した。
 大会終了した後に、デモ隊は与儀公園から行進した。安里から泊港に出てから、牧港の方向に向かう集団が、火炎瓶を投げて、その一帯は騒然とした。路上で赤い炎が立ち、住宅にも火炎瓶が投下された。勢理客の方面で、機動隊と過激なデモ隊が衝突した。火炎瓶を投げられて、身体から煙が出た機動隊員が転倒していた。駆けつけた機動隊は、デモ隊に無差別の攻撃を加えて、一般歯根のデモ隊までも、警棒や盾で殴られながら、催涙ガスの中を逃げ惑った。
 翌年の1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還された。その前年に、1970年12月20日にアメリカ軍兵士が2件の交通事故が起点となって、軍の自動車や施設を焼き討ちするゴザ暴動が勃発した。アメリカ軍兵士の乗用車がはねた沖縄市民を、軍警察(MP)が連行されて基地内に逃げて込んだ。1975年4月30日までベトナム戦争下にあったアメリカ軍兵士は風紀が乱れても、沖縄には裁判権もなかった。


2019年9月5日木曜日

ゲティスバーグに参戦兵士の膨大な戦死者の遺体を埋葬も十分にできずに、野原に集積され散乱して、悪臭と伝染病が拡散した。

南北戦争は、1863年7月1日から3日に北部に向けて2度目の侵攻する南軍に対して、北軍はペンシルバニア州のゲティスバーグの戦いで完全に阻止して撤退させた。最大の凄惨な死闘が勃発した地域には、墓地の尾根や悪魔の棲み処など呼称された。参戦した約16万5,000人以上のうち、兵士の約3分の1である約4万5,000人以上が戦傷死した。南部連合の独立や奴隷制度は頓挫した。ゲティスバークの戦いで、北軍の戦死傷者は約23,000人であったが、南軍は約28,000人に達して、南軍の3分の1以上を失った。
 アメリカは1981年から南北戦争が勃発した。1861年から1865年までに戦死者は約62万人と民間市民は約5万人と推定された。参戦した白人兵士の約5人に約1人が戦死した。膨大な戦死者の遺体を埋葬も十分にできずに、野原に集積され散乱して、悪臭と伝染病が拡散した。伝染病である赤痢だけで、約9万4,000人が病死した。北軍が南部に侵攻して、1865年4月にバージニア州アポトックス・コートハウスで南軍は降伏して、南北戦争は終結した。ゲティスバーグの市民らは、数千人の戦傷者に対処するために残された。家や公共の建物が病院になり、感染症や不衛生な状態から伝染病が町の生活を危険にさらした。戦闘中に、無差別なな弾丸が家のドアを通り抜け、20歳女性のジェニー・ウェイドは銃殺された。彼女は戦闘中に虐殺された唯一の女性となった。なんて恐ろしい光景だ!人間だ!ぼろぼろに覆われ、ほこりに覆われ、乱暴に乗り、丘を駆け抜けて、我が家に向かって駆け抜ける!叫び、最も不気味な叫び、呪い、拳銃の振り回し、そして発射した。



2019年9月4日水曜日

日本軍兵士はルソン島のリパ住民を大量虐殺して、対抗した住民らに殺害された日本軍兵士の遺骨を荼毘に付した。

ルソン島南部におけるリパの住民を日本軍兵士が大量虐殺した事件は、日本兵団の絶対的命令でもあった。事件後にはゲリラや住民らが大量虐殺に対する報復として、捕虜となった日本軍兵士の首を切断した。その埋葬地を戦後に発堀すると多数の白骨が出現した。その他に、不明な崩れ去った野ざらしの骨も産出された。野ざらしの骨に、薪を組み入れて並べて、薪に火を付けて、遺骨を荼毘に付した。
 バタンガス州リパの虐殺は、1945年2月16日から3月19日にかけて断続的に行われ、犠牲者数は約12,005人以上にも達した。ある村では、一村1,500人の全員が日本刀で首を切り落として虐殺された。リパ事件を体験して生還した旧日本軍兵士が、『狂気-ルソン住民虐殺の真相』を告発した。極限の残酷な戦争体験をすると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を伴った。フィリピン各地には、地元の人しか知らない、「旧日本軍に虐殺された慰霊碑」が多数残存している。
 谷底7メートル余りの侵食渓谷にて、日本軍兵士は住民らを白濁の水が流れた崖っ淵に連行した。突け!と銃剣は、一人の住民の胴体をⅩ字に貫き、すぐさま軍靴の底を腰に当てて銃を引いた。もんどりうつようにリパ住民はは谷底に芋づる式に落下した。日本刀の試し切りもした。日本刀を振り降ろし、あるいは横に薙ぐと、滝のような音を立てる血潮の圧力で、首は前に飛び、宙に舞い上がった。さらに1945年3月初句には、日本軍はある集落の全住民約200人を小学校の講堂に集めて監禁して、数人ずつ崖に連行して、次々と銃剣で刺して死刑にした。赤ん坊は両足首をつかんで頭を岩に打ちつけて殺した。日本軍は、マリプニヨ山の麓の村で大討伐して、小学校に集合させた約1,000人の住民が、暗くなってから無差別に女子も子供も含めて虐殺した。次第に日本軍は泣き叫ぶ女子や子供までを、銃剣で一突きして井戸に投げ込んだ。コンクリートで固めた縁高の井戸に、後手にくくられた十数人の住民の死体が、重なり合った。


2019年9月3日火曜日

中国の公安を避けて、ベトナムとの国境を越えるトラックに脱北者は恐怖に包まれて、体を縮めて座っていた。

北朝鮮からの脱北者たちは、2009年9月にトラックの荷台に乗って、中国の国境からベトナム北部のむらまで移動した。中国の公安に逮捕されないように、ベトナムとの国境を越えて猛スピードでトラックが走った。トラックに全員が恐怖に包まれて体を縮めて座っていた。
 9人の脱北者は周囲を警戒しながら、ベトナムとの国境がある中国・広西チワン族自治区の山道に体を潜めた。中国で逮捕されると、脱北者は北朝鮮に強制送還される。刑務所である教化所で、残酷な虐待を受けた。中国からベトナムに密入国して、ハノイの在ベトナムの韓国大使館に向かった。夜中に無人の山奥を、暗がりを這いながらも歩いた。しかし、在ベトナムの大使館の韓国人の職員が、駐在国を優先して、脱北者を受け入れを拒否した。脱北者を連れて他国に密入国するように指示した。欧米の他国の大使館に密入国するために、英語の文章を丸暗記した。警察官が取り囲む欧米の大使館に密入国した瞬間を、欧米の報道機関に秘密裏に捉えてもらい、国際的な圧力を加えた。大使館員が密入国を拒否するも、国際報道機関が脱北者を速報で公表したため、致し方なく脱北者を保護した。
 脱北者は、1994年頃から北朝鮮から国外への難民が急増した。1993年の大水害と干ばつにより食糧難が深刻化して、大飢饉となった。2018年時点までに約31,500人が韓国に亡命して、韓国人となった。脱北は、まず中国に逃避した。国境警察官が、国境付近で脱北者を逮捕して、不法入国者として北朝鮮に送還した。韓国に入国しても、一部の脱北者は、社会的偏見や差別を受けて余計者として虐待された。 



2019年9月2日月曜日

イラクのサダム政権が、クルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。

イラクのサダム政権が、1988年3月16日にクルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。イラクが毒ガス攻撃で、クルド人市民の約5,000人を大量虐殺した。クルド人らは反抗勢力で、自治権を求めて、イラクのバクダットと紛争した。クルド人がイラン軍を迎え入れた罪状として、イラク軍が毒ガス爆弾を投下した。イラクは過去約3年間にわたり、紛争しているイランに対しても大量に化学兵器の攻撃をした。国連は、1984年、1986年、1987年と3回の調査とも、イラクが化学兵器を使用したと断定した。毒ガスにはマスタードガスと神経ガスのタブンなどが使用された。化学兵器が広範に使用される危険性が高まった。軍事使用が可能な科学物質の販売は禁止されていたが、イラクは化学兵器製造のために先進国の企業から援助を受けていた。
 クルド人の町の家々や舗装されていない道路には、何十もの死体、男や女、子ども、家畜、ペットの死体が散乱した。死体には、全く傷や出血もない。爆弾による痕跡もなかった。死体の皮膚は奇妙に変色した。目は開いたままで、黒目は眼窩に隠れることなく、どこかを凝視した。口からはねずみ色の粘液が流れ出た。死体の指は異様に曲がったままであった。玄関の数メートル前で転倒して死亡した。母親が、子どもに最後の抱擁して死亡した。老人は幼児を守ろうとして死亡した。クルド人やイラン人は、化学兵器の投下は報復であると激高した。ハラブジャには人気はなく、沈黙した。大量虐殺に巻き込まれなかった家族が戻り、呆然としてゆくえを探した。
 ハラブジャ事件が勃発した直後から、イランが世界の報道機関に取材を求めた。イラン軍がハラブジャに同行した。事件後には、イランがハラブジャを実効支配をした。イラン軍のヘリコプターが、テヘランからハラブジャまで報道機関を護送した。ハラブジャの残酷な写真から映像が世界中に報道された。



2019年9月1日日曜日

尹奉吉は陸軍作業所で、日本軍兵士の一斉射撃で銃殺されゴミ捨て場に埋められ、柩と白骨化した死体が発掘された。

韓国人の尹奉吉は日本要人を上海で1932年4月29日に暗殺して、1932年5月25日に上海派遣軍の軍法会議で殺人罪等で死刑を宣告された。11月20日に日本の大阪陸軍戍衛刑務所に送還され、12月18日に極秘に金沢の法務部に護送された。12月19日午前6時に、尹奉吉は金沢市三小牛山の陸軍作業所に連行されて、日本軍兵士の一斉射撃で午前7月40分に銃殺された。火葬せずに、陸軍墓地と一般墓地の間のゴミ捨て場に埋められた。元法務官の憲兵隊員から埋葬先を突き止めて、処刑された尹奉吉の柩と白骨化した死体が掘り出された。7月11日に韓国に護送されて、ソウルで国民葬が挙行された。
 日本が1931年から満州の侵略を開始した。1919年3月1日に勃発した三・一運動から、4月には上海で大韓民国臨時政府を樹立した。日本要人を暗殺する韓人愛国団が結成された。1932年4月29日に、上海の虹口公園で昭和天皇陛下の誕生日の天長節祝賀式が挙行された。上海の抗日勢力は派遣日本軍に弾圧されて撤退していた。24歳の韓国人である尹奉吉は、爆弾を詰めた水筒と弁当を持って公園に向かった。太極旗の前で、上海の大韓民国臨時政府の金丸と撮影して、宣誓文を自筆した。「韓国愛国団」の一員として中国を侵略する敵の将校を殺すことを誓った。
 祝賀会の壇上の中央に、上海派遣軍司令官、公使、艦隊司令官、師団長、総領事らが並んだ。「君が代」の斉唱が終わり、爆弾を詰めた水筒が壇上の中央に転がり、爆発した。派遣軍司令官は死亡し、公使は片足を切断され、艦隊司令官は失明、総領事は重態に陥った。暴挙した尹奉吉は、捕縛され連行されて凄惨な拷問を受けた。大韓民国臨時政府の金丸が、英字新聞に「韓人愛国団」の指図と公表した。日本軍の掃討を受けて、中国各地を転戦して、重慶に潜伏した。