2018年8月15日水曜日

戦争終結の大詔渙発さる、新爆弾の惨害に大御心、帝國,四國宣言を受諾、畏し、萬世の為太平を開く (1945年8月15日正午)

戦争終結の大詔渙発さる
新爆弾の惨害に大御心
帝国、四國宣言を受諾
畏し、萬世の為太平を開く


大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたった。科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾とこれに続いて突如として起ったソ連の参戦とは大東亜戦争を決定的な段階まで追ひ込んだ。九日午前に開かれた最高戦争指導者会議とこれに引続いて同日午後二回に亙って開かれた臨時閣議において帝國戦力の徹底的測定と諸般の国際情勢に関する検討とが行はれたのをきっかけとして、大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗を見せ、同夜半畏くも天皇陛下の親臨の下、最高戦争指導会議が開かれ、帝國の基本方針ここに決定。帝國政府は、これを中立國を通じて米英支蘇の四箇国に通達したのである。このポツダム宣言に対する帝國政府の通告文の要旨は「日本政府はポツダム宣言が、陛下の國家統治の大権を変更するがごとき如何なる要求をも含まざるものとの諒解の下に同宣言を受諾する用意ある」旨のものであった。これに対する米英支蘇の公式回答は十三日朝帝國政府に到達。我方の通告文とこの四國政府の回答文を縛り閣議を始めとして統師と國務の最高首脳部の間において「國體の護持」といふ最後の一線に関する全く真剣なる議論が重ねられたのであるが、結局十四日の午前会議において添き聖断を拝し、この大御心によって四箇國の回答文を受諾するという方向は一決。ここに大詔は厳かに渙発せられ、大東亜戦争は遂に終結を見ることになったのである。


朝日新聞(昭和20(1945)年8月15日号)

第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間

2018年8月14日火曜日

沖縄戦での日本人兵士の死体の写真を、アメリカ軍の海兵隊が「良いニップ」と説明文に入れて公表した。

沖縄戦での日本人兵士の死体の写真を、アメリカ軍の海兵隊が「良いニップ」と説明文に入れた。日本軍兵士をJapaneseのジャップではなく、Nipponのニップと呼称した。アメリカ軍は沖縄に1945年4月1日に、激しい艦砲射撃後に嘉手納飛行場に面した海岸に上陸した。水際での上陸時に何ら攻撃も少なく、上陸して約一か月間は戦闘も乏しかった。日本軍は敵を引きつけて叩く防御戦により、5月1日から戦闘が勃発した。沖縄に豪雨が降り、ぬかるんだ沼地の大地と、激しい攻撃に双方とも多数の死傷者を出した。アメリカ軍は、圧倒的な武器と物資が優位となり、次第に侵略地域を広げた。5月15日の安里52高地の戦闘は、玉砕した太平洋諸島と匹敵する激しい死闘となった。双方とも死体を後方に連れ戻る余裕もなく、死体は放置された。5月21日から高温多湿で激しい豪雨となり、戦地には耐え難い悪臭が漂った。アメリカ軍は5月29日に日本軍の司令本部がある首里高地に侵攻して、沖縄戦は激しさを増した。6月中旬からの国吉丘陵が最後の厳しい死闘となった。死者が続出しまさに双方の屍と悪臭の沼地の劣悪な戦地となった。アメリカ軍は沖縄戦の収束から、洞窟に潜む日本兵を、火炎放射器で掃討した。6月21日に沖縄の日本軍が降伏して沖縄戦は終結した。沖縄戦でのアメリカ軍の死者・行方不明者は7,613人で、精神病兵士は26,221人にも及んだ。日本軍の戦死者は107,539人で、さらに悲惨なのは民間人の死者が42,000人にも達した。市街地が戦火に巻き込まれた戦場となり、沖縄市民には悲惨で残酷となった。







2018年8月13日月曜日

ドイツのハンブルグは連日の大空襲を受けて廃墟になり、高熱と放熱が継続して黒化した死体が歩道や街路に放置された。

ドイツのハンブルグは、イギリス空軍が主体となり1943年7月24日から、ロンドン空襲を報復させる連日の大空襲を受けて廃墟になった。火災で崩壊した建物や瓦礫や地下室は、高熱と放熱が継続して、処理するまでに死体が黒化した。タライに集積された焼死体が、歩道や街路に放置されていた。時限爆弾も投下されて、36時間、72時間、144時間後に再爆発して、救護も困難となった。ナチス・ドイツ軍は、集合墓穴禁止令で1944年2月になっても、爆撃による市民の死体の収容を、集合墓穴に土葬することを厳しく禁じた。大量虐殺の強制収容所の死体の焼却による抹消の手段に類似された。市民の死体には火葬しか選択肢がなく、ガソリンをかけたり、火炎放射器で焼却した。膨大な墓地の面積の不足によって、虐殺された市民には、自分の墓もなく死後の権利も剥奪された。遺骨も灰となり残骨と混在して、身元の識別は不可能となった。捕虜や囚人が土中の墓穴を掘らされた。都市部では、墓と死後の権利が保持された兵士用墓地も、市民には用意されなかった。






2018年8月12日日曜日

日本軍による重慶の爆撃で、防空壕に避難した膨大な市民が、酸素不足で窒息死した死体が散在した惨状となった。

日本軍は1941年6月5日に重慶を爆撃により、防空壕に避難した膨大な市民が、酸素不足の窒息死した死体が、十八悌大隊道に散在した惨状となった。日中戦争にて、1937年7月7日の北京郊外にて、軍事演習中の日本軍が盧溝橋で中国軍と激突して、日中全面戦争が勃発した。戦災の犠牲は迅速に華北から華中にまで拡大した。中国軍は、国共内戦状態にも陥った全中国に、対日全面抗戦の総動員令を指令した。第2次国共合作により、中国国民党と共産党に救国統一戦線が成立した。日本軍は、1931年の満州事変、1932年の上海事変など次々に中国全土に侵攻した。日本軍は、中国軍が土地を譲って時を稼ぎながら、日中戦争が沿海岸部から内陸部の奥地にまで拡大した。広大な戦域に対して、内陸都の空中爆撃の翼を転換した。南京政府の陥落直前に1937年11月に重慶遷都を宣言した。1938年から重慶に対して市民無差別爆撃を継続した。日本軍は、ドイツ軍が空爆したスペインのゲルマニカの爆弾と焼夷弾を投下した。特に1939年5月3日と4日の重慶被爆により、中心街が炎に囲まれ、細道の石段の市民居住地は阿鼻叫喚に陥った重慶市民に甚大な犠牲を伴った。両日で死者約3,318人、負傷者約1,937人と5000人以上に達した。日本軍は、1941年8月から日米開戦に向けて南方に戦力を回して、約3年間に及んだ重慶に対する連続爆撃が終結した。


2018年8月11日土曜日

日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、犠牲となった戦死者の死体を満州の高地に埋葬した。

日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、南方高地に戦死者の死体を埋葬した。日露戦争にて、遼陽を侵略した日本軍に対して、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させた。両軍は1904年10月8日から18日にかけて、沙河付近で沙河会戦が勃発した。双方に大きな人的犠牲がでた。10月8日夜半に本渓湖の日本軍が、ロシア軍の攻撃を受けて沙河会戦が勃発した。日本軍は10月10日には防御から攻撃に転じた。各地で激戦が展開されて、10月12日に日本軍が三塊石山を占領し、ロシア軍は後退した。日本軍は15日に沙河河畔の要地である万宝山を占領した。ロシア軍は翌16日に万宝山を奪回した。日本軍はロシア軍の追撃も困難となり、10月18日に日本軍は沙河南岸に防御を固めた。10月下旬に旅順第2次総攻撃を控えた日本軍は、北部戦線に余力はなかった。北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、1905年春まで対峙した。沙河会戦にて、日本軍の参加兵力は約120,800人で、戦死者約4,099人・戦傷者約16,398人が犠牲となった。ロシア軍は、参加兵力約221,600人で、戦死者約5,084人・戦傷者約30,394人・行方不明者約5,868人の犠牲を出した。



2018年8月10日金曜日

同時多発テロで、火炎と砂煙で救助不可であった礼拝堂の牧師の死体を消防隊員らが苦悶しながら搬送した。

アメリカ合衆国のニューヨークにて、2001年9月11日火曜日に同時多発テロが勃発した。世界貿易センター(WTC)がテロの標的となった。広島原子爆弾などの核爆弾の爆心地の跡地を連想して、グラウンド・ゼロと呼称された。ニューヨーク市消防局の礼拝堂の牧師の死体を消防隊員らが苦悶しながら搬送した。その爆心点は火炎と砂煙で救助するのは不可能となり、牧師はグラウンド・ゼロで礼拝中に爆死した。アメリカン航空11便が午前8時46分にWTC北棟109階、ユナイテッド航空175便が9時3分にWTC南棟109階に突入した。多量のジェット燃料で、火災と黒煙が全階に充満した。WTC南棟は午前9時59分に、WTC北棟が午前10時28分に全崩壊した。同時多発テロ死の犠牲者数は約2,749人で、その内の約412人が消防士、約147人が航空機の乗客であった。衝突時から崩壊までに102分間の猶予により、WTCビル内から約14,000人以上は避難できた。アメリカ政府は捜査の過程から、テロ攻撃がサウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」が実行した断定した(アルカーイダは否定も肯定もしない)。アフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。ターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。今の段階ではアルカーイダとは断定できない。」と引き渡しを拒否した。アメリカ合衆国軍はターリバーン政権に対して、アメリカ軍とイギリス軍を主体とした有志連合軍が、10月2日にアフガニスタンに侵攻して、11月13日に首都カブールを征服した。アフガニスタン紛争はソ連軍に引き続いて、アメリカ軍により再燃して、中東紛争が長期間に泥沼化して、いつでもどこまでも中東市民が犠牲者となった。


2018年8月9日木曜日

長崎原子爆弾が炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍がは16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分から投下しれて炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。



2018年8月8日水曜日

アフガニスタン紛争で、ゲリラとの戦闘で黒く焼けただれた政府軍の兵士が白骨化した死体が散乱した。

アフガニスタンのクナール川のサウ村にて、周辺の基地のソ連軍と政府軍が、武装ゲリラ集団と1980年8月30日に戦闘をした。周辺の道路には死体が散乱して屍臭が充満した。黒く焼けただれたアフガニスタン政府軍の兵士の死体が白骨化していた。1979年12月以来のソ連軍の侵攻によるアフガニスタン紛争は、中東地域から国際的な混乱を生み出す起点となった。紛争の影響は現在も継続している。大量のアフガニスタン人難民、国内の民族・地域の対立・分裂、主要な勢力となる「ムジャヒディーン」(イスラムを守るための聖戦と訴えた武装ゲリラ集団)、外国人「義勇兵」の参入、周辺や主要国から武装援助の増大による紛争の拡大、地方「軍閥」が台頭した。混乱の起点は、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻から1989年2月の撤退までにある。逆にアメリカが軍事支援していたムシャヒディーンらが、2011年9月11日に同時多発テロを執行して、2001年11月からアメリカ軍のような外国武装勢力がアフガニスタンという破綻した国家に介入して紛争がさらなる混乱に陥った。


2018年8月7日火曜日

サブラー・シャティーラの難民キャンプで、親イスラエルのレバノン軍団が、パレスチナ人市民を大量虐殺した。

サブラー・シャティーラの難民キャンプで、1982年9月16日から18日にレバノンの親イスラエルの民兵組織「レバノン軍団」が、パレスチナ難民を大量虐殺した。1975年から混迷したレバノン内戦に、イスラエル軍が6月6日にパレスチナ開放機構(PLO)を撤退させるためにレバノンに侵攻した。親イスラエルのバシール・ジェマイエル大統領が9月14日に爆弾で暗殺された。PLOの容疑として、レバノン軍団は9月16日午後6時のイスラエル軍の照明弾により、レバノン軍団は一斉にキャンプに侵入して大量虐殺をした。その虐殺は2日間に及び、虐殺者数は約762人以上と推定された。虐殺事件が国際的非難を受けて、12月16日に国連総会は「ジェノサイド」として非難決議は、採決の棄権により反対無しで123か国の賛成多数で可決した。イスラエル国防相のアリエル・シャロンは辞職した。悲劇は、1982年の虐殺だけではなく、サブラー・シャティーラの難民キャンプは1975年から90年までレバノン内戦の間に7回も攻撃された。イスラエル軍だけでなく、85年から87年にはシーア派民兵組織の包囲攻撃も受けた。「サブラ・シャティーラ」は、市民の戦争犠牲の典型例でもある。軍隊や武装勢力の兵士により、市民の人権は虐待と虐殺を受ける。軍事的に衝突するほど、その犠牲者になっているのはいつも市民であった。




2018年8月6日月曜日

広島原子爆弾の無差別な広島市民に対する無差別なきのこ雲と除外された海軍の江田島町や呉市が撮影された。

広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。1945年12月末までに、約140,000人もの被爆者が死亡して、広島市民の約40%が死亡した。




2018年8月6日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 140,000回

2018年8月5日日曜日

第1次世界大戦のソンムの戦いで、イギリス軍はフランス西部戦線の塹壕にて膨大な犠牲者を出して、ビーモント・ハメにおいて塹壕の前には白骨死体が放置された。

第1次世界大戦でソンムの戦いで、イギリス軍はフランス西部戦線の塹壕にて膨大な犠牲者を出して、ビーモント・ハメにおいて塹壕の前には白骨死体が放置された。第1次世界大戦に、フランス北部のソンム川で、連合軍とドイツ軍との戦闘で膨大な犠牲者を出した。1916年7月1日にイギリス軍の歩兵が突撃し、イギリス軍の史上最大となる1日に約19,000人の戦死者と41,000人の戦傷の犠牲者を出した。7月13日にイギリス軍騎兵部隊が史上最後の大規模な騎兵突撃を行なったが、ドイツ軍の機関銃の前に膨大な犠牲を伴った。9月15日にイギリス軍が世界で初めてキャタピラを装備した戦車を投入したが,ドイツ軍戦線の突破にまたも頓挫した。約5ヵ月間の戦闘で連合軍は,イギリス軍が約420,000人、フランス軍が195,000人の戦死傷者を出しても,約10km前進に留まった。ドイツ軍の死傷者は 65万人であった。翌年1918年3月 21日にはドイツ軍が大攻勢に出て,連合軍の戦線が突破されて、たちまちソンム川を渡られた。連合軍は危機に陥ったが、4月5日までにドイツ軍は最深部で約 65kmに達する突出部が阻止され,攻勢が中断した。サカンタンと呼称される翌年の戦闘では、イギリス軍が約163,000人、フランス軍が77,000人を戦死傷者 (うち捕虜は両軍合せて約70,000人) 、ドイツ軍の死傷者は 約240,000万人に達した。



2018年8月4日土曜日

戦地の2人のアメリカ軍兵士が、日本人兵士の死体の頭部を切断して、鍋で煮て組織を取り除き、頭蓋骨だけを抽出した。

太平洋戦争中に、1944年5月22日号の『ライフ』雑誌に、恋人のアメリカ軍兵士から贈呈された日本軍兵士の頭蓋骨を興味深く眺めたアメリカ婦人が掲載された。日本人の頭蓋骨を置いた横の机上で、彼に手紙を書いていた。あるアメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体は、森林で狩猟した獲物あるいは動物に過ぎないと認識していた。2人のアメリカ軍兵士が、戦地に転がっている日本人兵士の死体の頭部を切断して、鍋で十分に煮て組織を取り除き、頭蓋骨だけを取り出した。頭蓋骨は約35ドルで転売されていた。特に、マリアナ諸島から返還された多数の死体の中には、切断されて頭部部が喪失していた。日本人の頭蓋骨は、土産や売買品だけでなく、遊び道具にもなった。第2次世界大戦にドイツ軍による強制収容したユダヤ人の大量虐殺にも相当する非道で残虐行為であった。戦時下の非道で残虐行為は、太平洋戦争だけでなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク・アフガニスタン戦争など戦時下に潜在していた。






2018年8月3日金曜日

ファレーズで連合軍に包囲された約10,000人以上ものドイツ軍兵士が戦死した死体が散乱して溢れた。

ノルマンディーに上陸した1944年6月6日から進撃してきた連合軍にドイツ軍は包囲された。連合軍のファレーズ・ポケットの隙間からドイツ軍は脱出した。連合軍はセーヌ川西岸のドイツ軍の大半を撃破して、パリからドイツへの進撃路を確保した。ノルマンディー上陸後に、連合軍による迅速な進撃が南方面、南東方面、ブルターニュへと向かった。カーンへの、イギリス軍、カナダ軍、アメリカ軍の進撃にドイツ軍は、1944年8月8日、ドイツ軍を包囲する機会をつかんだ連合軍はファレーズからシャンボワに集結して、イギリス軍とカナダ軍とポーランド軍がドイツ軍を包囲した。ドイツ軍は撤退路の確保のために激しい反撃を加えて、8月17日から撤退した。連合軍は8月19日にシャンボワでドイツ軍の退却路を塞いだ。狭い脱出路を通るためにドイツ軍は地獄の戦場となった。約10,000人以上もの膨大なドイツ軍兵士が戦死した。包囲網の内側には戦車・車輌の残骸、ドイツ軍兵士や民間人市民の死体が散乱して溢れて、夏で腐敗匂がひどく、ウジが湧き、ハエが死体に群がり、川は血で赤く染まった。8月21日までにドイツ軍兵士の約50,000人が完全に包囲された。ドイツ軍の兵力等、軍事的損失は膨大であり、連合軍は決定的な勝利を挙げた。8月25日にパリが解放され、8月30日までにセーヌ川西岸からドイツ軍は完全に撤退した。


2018年8月2日木曜日

ハリコフの最悪の戦場で、膨大なソ連の赤軍兵士は戦死して、ドイツ軍から撤退するため、戦死体を放置して踏みつけて撤退した。

第2次世界大戦の東部戦線では、ハリコフの最悪の戦場では、ドイツ軍により膨大なソ連の赤軍兵士が戦死した。ソ連兵士は、ドイツ軍から撤退するために、戦場の死体を無視して放置しては、死体を踏みつけながらも撤退した。1943年2月から3月まで、工業都市であるハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍とソ連の赤軍と戦闘が勃発した。スターリングラードにてドイツ軍を包囲している間に、赤軍は南方に対して広範囲で攻撃した。赤軍は1943年2月初旬にドイツ軍の戦線を破って、ハリコフ、クルスク、ベルグラードに加え、イジュームルとルハーンシクの再占領した。ソ連の赤軍はさらなる無理な侵略に対して、ドイツ軍は、2月25日に赤軍に対して突然の反撃した。数ヶ月にも及ぶ戦闘により、ドイツ軍はハリコフ南部の赤軍に対し攻撃をして、包囲して壊滅した。ドイツ軍は、3月11日にはハリコフに直接攻撃を行って、3月15日にハリコフを再占領した。ドイツ軍はさらにベルグラードも再占領した。ドイツ軍は約4,300人の犠牲者に対して、赤軍は約23,000人以上の戦死者を含めて約90,000人もの犠牲者を受けた。ドイツ軍は余勢から、7月からの泥沼のクルスクの戦いに陥った。








2018年8月1日水曜日

日本軍は北側のマレー半島に戻り、1942年3月16日にクアラピラー南西部のカンウェイ村を大虐殺した。

太平洋戦争を1941年12月8日に宣戦して、日本軍は1942年2月5日にはシンガポールを侵略して沼南島と呼称した。シンガポールで華人を数万人も大虐殺してから、日本軍は、北側のマレー半島に戻って、多数のマレーシア人を大虐殺した。マレー半島には、約30ケ所以上に虐殺の遺碑が残存している。日本軍の公文書である陣中日誌では、マレー半島で1942年3月に約3週間に治安粛清として華人約584人を刺殺し、8月にも華人の村で約80人を虐殺したと記録した。特に3月16日にはクアラピラー南西部のカンウェイ村で、全村民を集めて、不偵分子の容疑で156人を刺殺した。カンウェイ村からは、日本軍により虐殺された多数の白骨が発掘された。
<一枚の家族写真>
だから せめて 知ってください。今はないクアラピラー・カンウェイ村を 
惨劇から40年後につぎつぎと発掘された 物いわぬ されこうべを ああ たくさんの布袋に 大きな棺に はみだすほどの骨が
1942年3月16日早朝まで ここは 静かな村であったと ゴム園やヤシ林に囲まれ ひとびとは 豊かに 聡明に 生きていたと
なのに 幸せは一夜にして壊され 5人のうち4人は 物いわぬされこうべとなって その父がどれか その母がどれか 永遠に探すすべもない 
だから せめて 祈ってください 今はない クアラピラー・カンウェイ村を 心に刻んでください 一枚の幸福な家族写真を