2018年7月15日日曜日

ウクライナでは、ソ連により小作農が大飢餓の犠牲となり、ハルキウの路上で、多数の餓死の死体が転がり、路上の周辺に散乱して死匂が漂った。

ウクライナでは、1933年4月に小作農が大飢餓の犠牲となって、北東部の都市であるハルキウにて、多数の餓死による死体や瀕死状態者が転がり、各地の路上の周辺に散乱して死匂が漂った。ウクライナでは1919年の独立から、1922年にソビエト連邦に編入された。ウクライナの小麦による外貨獲得のため、ソ連は飢餓になっても、小麦を徴発して、食糧不足となり飢餓が発生した。1930年代初頭から農業集団化で収穫減から厳しい食料徴発されて飢餓が深刻となり、ソ連は反抗者は容赦なく処刑した。1932年12月27日から通行手形により、小作農らを集団農場に縛り付けた。1933年春には飼料を悪用するば10年以上も強制収容所へ送還さた。ソ連系オルグ団のスパイは農場を監視して、肉親を告発した家族には食物を賞与した。食料を没収された小作農は下手物まで食べた。遂にウクライナ人は病死馬や人間の死体も食べた。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂って、飢餓の犠牲者は約2500,000人以上に達した。ウクライナは反ソ・反共感情が高まり、独ソ戦のナチス・ドイツ軍を「解放軍」として歓迎し加担した。しかし、スラヴ系諸民族の撲滅を目指すナチス・ドイツも、ウクライナ人に残酷な政策を実施した。ソ連はウクライナ飢餓を1980年代になり承認した。2014年2月からロシア軍による軍事干渉クリミア自治共和国の住民投票から、3月17日にロシア軍の支配下で編入が決議された。ウクライナの東部2州(ドネツィク州、ルハーンシク州)の抗議運動が、武装した分離主義勢力による反乱へと広がり、暫定政権が軍事的弾圧をした。




2018年7月14日土曜日

アメリカ軍等による激しい空爆等によるイラク戦争の犠牲となった瀕死イラク人児童を母親が側で見守った。

アメリカ軍は、2003年3月20日にイラクの首都バグダードへの空爆からイラク戦争が勃発した。42日間の戦闘で,有志連合軍の死者は172人,イラク人死者数は約100,000人以上と推計された。2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件からイラクの大量破壊兵器を敵視した。ジョージ・W.ブッシュ大統領は2003年3月20日にアメリカ軍は国連を無視して、イラク攻撃を先制攻撃した。4月9日にアメリカ軍がバグダードを陥落させてフセイン政権は崩壊した。2003年5月1日の戦闘終結宣言したが、連合軍による占領が 2004年6月のイラク暫定政府まで続いた。イラクに駐留を続けて、2005年12月にアメリカ系イラク政権を成立させた。駐留や宗派偏向的政権に、住民の反発と反米・反政府勢力による攻撃が増加した。2006〜07年には宗派対立から内戦が悪化し,駐留軍とイラク民間人ともに死者が急増した。イラクの不安定化とアメリカ軍の犠牲や,大量破壊兵器が未確認などから,アメリカ国内ではイラク戦争反対のバラク・オバマ政権が2009年1月に成立した。2010年8月18日にアメリカ軍はイラクから撤退をした。開戦以来のアメリカ兵の死者は 2010年4月までで 4,000人に上った。2009年10月にイラク政府は 2004〜08年のイラク人犠牲者数を,市民と兵士で終結後から85,000人以上と推計した。最後のアメリカ軍約 500人が 2011年12月18日に完全撤収した。



2018年7月13日金曜日

無差別大空襲で完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。

第2次世界大戦において、連合国がドイツのハンブルグに無差別空襲をして壊滅した。1947年9月7日から1942年5月10日までロンドン大空襲を受けたイギリス軍は、ドイツ軍を「悪事を犯した奴らが今こそ酷い報いを受ける番だ」とゴモラ作戦の空爆で復讐した。特に1943年7月27日は、異常に乾燥し温暖であり、地域に爆撃が集中し、消防隊が火災の現場へ到達できなかった。空襲は甚大な被害をもたらし、爆撃は「火災旋風」を引き起こした。家屋の石炭やコークスなどの燃料が火災の規模を拡大し、炎を伴った竜巻が発生して、屋外は溶鉱炉様となった。最大風速は240km/h、気温は800℃に達し、市街は21kmに渡って焼け落ち、防空壕に避難した市民もしない市民も無差別空襲を受けた。無差別大空襲で、完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。ハンブルグの犠牲者は民間市民であり、約50,000人の多くが空爆で死亡した。第二次世界大戦が終結するまでハンブルクは7月24日から1945年4月14日にかけて約69回空爆を受けた。最も甚大な空爆を受けたハンブルグは、イギリス政府は「ドイツのヒロシマ」と大戦後に宣告した。



2018年7月12日木曜日

塹壕からフランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。

第1次世界大戦の西部戦線では、緒戦の突撃肉弾戦から、全長で約700kmにも及んだ塹壕に立てこもる長期の消耗戦に至った。イギリス・フランス軍とドイツ軍ともに網の目に鉄のワイヤーを張り巡らせた。重ねた鉄条網の柵を塹壕の前に構築した。双方ともに、敵兵の侵入を阻止するために、鉄のワイヤーの鉄条網をいたる所に設置した。フランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。塹壕を鉄条網から銃身と周辺の地雷で防御した。北はドーバー海峡からスイス国境まで塹壕が繋がった。張り巡らした鉄条網は、約300,000kmにも達した。進撃と反撃の繰り返しによる消耗戦で、膨大な犠牲者を出した。1916年2月から12月に、ドイツ軍とフランス軍とのヴェルダン戦では、数キロの進退戦で、フランス軍は約360,000人、ドイツ軍は約340,000人の死傷者は犠牲となった。戦場は砲火で焼き尽くされ、砲弾による夥しい戦死者の死体と兵器が散乱したまま放置された。




2018年7月11日水曜日

激しい戦闘があったブーゲンビル島で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。

太平洋戦争にて、1942年3月に日本軍はソロモン諸島のブーゲンビル島を占領して、飛行場を整備した。日本軍は、砲火力が低く対戦車装備も不足していた。島内の交通路の整備も不十分で、迅速な部隊機動も難しかった。アメリカ軍は、1943年11月1日にタロキナ岬に上陸した。 激しい戦闘があった105高地とアオギリ丘で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。湿地帯で膠着状態になったが、11月9日にアメリカ軍が日本軍を撃退して、日本軍は補給も続かず11月11日に撤退した。アメリカ軍は12月までにタロキナ岬に飛行場を完成した。ジャングルに潜む日本軍は激しい空襲を受けて犠牲が続出した。圧倒的な火力でのアメリカ軍の1944年3月8日の反撃により3月25日に攻撃停止をした。日本軍の死傷率80%を超え、死傷1万3千人で、4,000以上は病死して壊滅的であった。アメリカ軍は、日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令して多数が虐殺された。日本軍は1944年2月には補給は途絶えて食料は減少した。現地自活体制から、大多数の餓死者を出したガダルカナル島には至らなかった。ガダルカナル島の「餓島」に対して、ブーゲンビル島の「墓島」と呼ばれた。1945年8月15日に日本が降伏して、ラバウルからの停戦命令で日本軍は戦闘を停止し、9月3日に武器を引き渡して降伏した。



2018年7月10日火曜日

ソ連に抑留された元日本軍兵士が舞鶴港に上陸するたびに、母と子は必死で兵士の顔を探し求めた。

ソビエト連邦軍が1945年8月9日に日本に対して参戦して、満州で防衛した膨大な日本軍兵士が捕虜となった。第2次世界大戦後に長期間にわたり、シベリア抑留されて強制労働させられた。引揚船が着くたびに母子が岸壁でいつまでも肉親を探し続けた。いつも見られた喜びと悲喜こもごもの光景であった。歳月の経過とともに、毎回に同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられれた。これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられた。
 思い出の戦争の真実として、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)の子供である端野新二(1926年生)は満洲国に渡り関東軍として、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。戦後に、いせは新二の生存と復員を信じて1950年1月から引揚船が舞鶴に初入港してから以後6年間にわたり入港する度に舞鶴の岸壁に立った。1954年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956年には東京都知事が1945年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書を発行した。しかしながら、帰還を待続けた新二は戦後も上海で生存していたのが、明らかになったのは、母の没後の2000年8月であった。1954年9月、テイチクレコードから発売された菊池章子の「岸壁の母」は100万枚以上の国民的反響を受けた。






作詞:藤田まさと
作曲:平川浪龍
歌唱:菊池章子
(一)
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(二)
呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に
 (三)
 悲願十年 この祈り
 神様だけが 知っている
 流れる雲より 風よりも
 つらいさだめの つらいさだめの
 杖ひとつ

2018年7月9日月曜日

日本軍は、武装解除した中国人兵士や警察官の数百人を南京の安全地帯から連行して銃殺した。

日本軍の南京軍政部の向かいには処刑場が設置された。防空壕のそばの処刑場には、30人の中国兵の死体が散乱していた。日本軍による即決の軍事裁判によって、1937年12月17日に銃殺刑が執行された。その後に中国兵の死体は、無造作に溝に投げ込まれていた。日本軍は1937年12月8日に南京を包囲して、12月10日には攻撃を開始した。12月13日には中国軍は総崩れとなり南京城は陥落した。12月16日には、武装解除した中国人兵士が数百人が、安全地帯から連行されて、銃殺された。その中には、中国人兵士を安全区に入れた罪状で、約50人の中国人警察官も含まれた。下関の周囲の道端は、死体置き場となり、片付けられていない中国人の死体が散乱して、一面に悪臭を放っていた。強制収容所となった最高法院からは約500人の中国人兵士が連行されて機関銃で銃殺された。12月19日から、日本軍が南京を焼き払い炎に包まれた。



2018年7月8日日曜日

日露戦争の満州侵略の途上にて、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の戦死者を集積しては火葬した。

日露戦争の緒戦にて、満州を侵略するために、日本軍は中国と北朝鮮の国境となる鴨緑江を渡河した。日本軍は1904年4月25日の夜に、北朝鮮北西部の虎山として知られる鴨緑江に面した九里島に侵攻した。4月26日朝に義州元化洞の九里島に攻撃して上陸して占領した。それを阻止するロシア軍の砲兵隊に砲撃を受けて、多数の戦死者を出した。日本軍は4月30日から5月1日まで鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、それを防御するために待機していたロシア陸軍との間で戦闘が勃発した。戦争下の日本軍は不利な状況になり窮地に至って、日本軍はロシア軍の砲撃により多大な犠牲を受けた。苦しい状況で攻めあぐねて、悲惨な戦況ともなった。ロシア軍も、悪路・悪天候の戦地の環境にも混迷して、戦地で苦戦をした。鴨緑江渡河の途上で、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の日本人兵士の戦死者の死体を集積しては火葬して処理した。5月1日の午後にはロシア軍の撤退によって日本軍は九連城一帯を占領した。



2018年7月7日土曜日

アメリカ軍兵士は、モルテンの攻防戦などで戦死したドイツ軍の膨大な死体を集積して見下ろした。

連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸から6週間もの消耗戦の後に、連合軍はサン=ローでドイツ軍の防衛線を突破した。ドイツ軍の西半分は撃破されて、8月1日にはアメリカ軍はアヴランシュを占領した。ドイツ空軍の空爆にも関わらず、ブルターニュ港から、西方向のブレスト、ロリアンの港まで進撃をした。ドイツ軍の側面と後方まで進撃して、8月7日までにル・マンを占領した。ドイツ軍はリュティヒ作戦で8月6日にモルタンを占拠したが、8月12日まで高地を守ったドイツ軍兵士の約700人のうち、約300人以上が戦死した。8月13日にドイツ軍はモルタンから駆逐されて、8月19日にはドイツ軍の約150,000人が閉じ込めらた。8月21日まで包囲網を突破しようとするドイツ軍の攻撃は封じ込められてて、約50,000名のドイツ軍将兵が降伏した。アメリカ軍兵士は、モルテンの攻防戦において戦死したドイツ軍の膨大な死体を集積して見下ろした。


2018年7月6日金曜日

ドイツ軍兵士は2人のソビエト赤軍兵士をウクライナの首都キエフで絞首刑にして死体を見上げていた。

第2次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍がウクライナの首都キエフ近郊で、1941年7月7日から防衛するソビエト赤軍を包囲した。バルバロッサ作戦の一環として9月26日までキエフの包囲戦を続けた。ドイツ軍のキエフ東側での包囲戦により、ソビエト赤軍は膨大な犠牲を伴って壊滅した。ドイツ軍はソビエト赤軍兵士の約452,700名を包囲して、その内の約15,000人だけが10月2日までに包囲網から脱出した。作戦の全体として、ソビエト南西方面軍は犠牲者は約700,544名人となり、約616,304名がキエフでの戦いの1ヶ月間で戦死するか捕虜となり、ソビエト赤軍の南西方面軍はほとんど壊滅した。キエフを占領したナチス・ドイツ軍は嬉々として、抵抗勢力から難民まで虐待と虐殺して、その死体を焼き尽くした。有刺鉄線を取り巻いて4階建ビルに監禁したソビエト赤軍兵士を、1941年12月13日の夜間に銃撃して、窓から逃避した約70人のソビエト赤軍兵士の多くは虐殺された。ドイツ軍兵士は2人のソビエト赤軍兵士を絞首刑にして死体を見上げていた。戦死していたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、ロシア人を絞首刑した場面のスナップ写真が検出された。



2018年7月5日木曜日

沖縄戦にて、日本軍は反転してアメリカ軍に総攻撃して、虐殺された2人のアメリカ軍海兵隊の死体が大地に散在した。

沖縄戦にて、日本軍は反転して1945年5月3日から4日にアメリカ軍に総攻撃して、虐殺されたアメリカ軍海兵隊の2人の死体が大地に散在した。3日の深夜に日本軍は約5,000発以上もの砲弾を撃ち込んだ。日本軍はアメリカ軍の最前線に接近して、赤色の吊光弾を合図に総攻撃を開始した。日本軍の砲撃が激しさを増すにつれ、翁長北側高地のアメリカ軍は稜線上から撤退した。日本軍は奇襲攻撃して、駆け上がりす早い進撃にアメリカ軍は重機関銃の陣地から撤退した。日本兵が機関銃を奪い、アメリカ軍に対して掃射をした。夜明け頃からは、アメリカ軍は反撃して約2,000名の日本兵に対して、直ちに戦車を前進させ砲撃して撃退した。日本軍は廃墟となった小那覇集落に撤退して、これに対してアメリカ軍は集中射撃を加えた。直後に日本軍将校が軍刀を振りかざし日本人兵士を集結させ、最後の一兵まで戦えと命じた。追い込まれた日本軍は前進も後退もできず、撤退経路は重火器で完全に遮断され壊滅した。



2018年7月4日水曜日

ノモンハン事件により満洲西北部のハルハ河東部で、日本軍は土中に埋まった日本人兵士の死体を掘り起こし移送して処理した。

ノモンハン事件により、満洲西北部付近のハルハ河東部で、日本軍兵士は、土中に埋まった兵士の死体を掘り起こして移送して処理した。ノモンハン事件は、モンゴル軍警備隊に不法越境として、満洲国軍警備隊が攻撃を加えて、1939年5月11日に大規模な戦闘が勃発した。国境衝突事件に、ソ連はモンゴルに駐屯するソ連軍が参戦した。ソ連の近代兵器により、膨大な犠牲を受けて敗退した。1939年5月から9月にソ連・モンゴル連合軍と日本・満州軍との激戦にて、日本・満州軍は約18,155人が戦死して戦傷者等は約4,8649人に及んだ。ソ連・モンゴル軍は約9,865人が戦死して、戦傷者等は約163532人が犠牲となった。 周到な装備をしたソ連の近代化兵力により、日本軍は壊滅した。1939年9月15日のノモンハン事件停戦協定して、日ソ両国の軍事的また政治的緊張関係の帰結として1941年4月の日ソ中立条約が締結された。日ソ中立条約でソ連はドイツのみに対して総力戦をした。日本軍はノモンハン事件でソ連に敗北して、侵略を北進から南進に方向転換した。



2018年7月3日火曜日

インドネシア軍は、東ティモールのフレティリンの首に賞金をかけて、切断した頭部を見せしめに公開した。

インドネシア軍は、東ティモールのフレティリンの首に賞金をかけて、1991年に切断した頭部を吊り下げて見せしめに公開した。東ティモール独立革命戦線であるフレティリン(FRETILIN)は、1975年11月8日に東ティモールの独立宣言をした。12月7日からインドネシア軍は、東ティモールに全面攻略により、混乱に陥れて占領した。東ティモールの山岳部に逃れたフレティリンの抵抗勢力は、インドネシア軍に独立運動を継続した。村民らをフレティリンに接触させないように、再定住村の収容キャンプに強制移住させた。都市部の市民には、ニンジャの暴力組織や秘密警察に監視された。東ティモール人をインドネシア軍に徴用して、分断してフレティリンなどに戦闘をさせた。フレティリン勢力の容疑者らは、逮捕、尋問による虐待から虐殺もされた。国連主導の選挙によるフリティリン政権が、2002年5月20日に21世紀で最初の東ティモール民主共和国が独立して建国された。



2018年7月2日月曜日

空襲の被災者にベッドを確保と喧伝して、ナチス・ドイツは精神病入院患者をバスに積込み安楽殺人施設に移送した。

ヒトラーは、施設のベッド数をより多く確保するために、1942年7月28日の「安楽死」計画から本格的に実施した。第2次世界大戦の戦局の犠牲者を想定して、治療も効果のない精神病院などの精神障害者らを社会的に抹殺した。戦傷者や罹災者の収容所に代用するために、ドイツ各地の被災状況に合わせて、精神障害者の安楽死数を施策するブラント作戦を実施した。1943年2月1日以降には、戦争被災から精神病者を保護する名目と喧伝しながら、全精神障害者を登録して、6月末から安楽殺人を実行した。空襲による被災者にベッドを確保するために、精神病の入院患者をバスに積み込んで安楽殺人施設に移送した。被災者が急増すると、安楽殺人数は急上昇した。大量殺戮の必要性から、安楽殺人施設まで移送した。1943年7月末の甚大な犠牲のハンブルグ空襲から、安楽殺人を老人ホーム入所者から戦争精神病者までも含めた。無選別で無鑑定して、労働の非生産的な障害者を無差別に虐殺した。ナチス・ドイツによる1936年から1945年までの安楽殺人の犠牲者は、精神障害者と精神病患者は約80,000〜100,000人、障害児は約5,000人から8,000人と推定された。



2018年7月1日日曜日

日露戦争でロシア軍兵士は203高地で死体を検分して、日本軍は戦闘は2回の攻略は失敗し、膨大な犠牲者は軽視された。

日露戦争は、旅順港の防御の重要地点であった203高地が最も悲惨な戦闘となった。ロシア軍兵士も膨大な死体群が旅順要塞に散在した。ロシア軍兵士らは、犠牲となった死体を検分した。日本軍は戦闘は数ヶ月にわたる2回の攻略は失敗して、膨大な犠牲者は軽視された。ロシア軍は、203高地の防御の重要性は軽視して、要塞攻略はあまり重要ではなかった。ロシア軍側も203高地一帯は不利な地点でり、前進基地としての運用しか考えていなかった。日本軍は2度にわたり攻略は失敗して、バルチック艦隊の出撃を受けた。要塞正面への攻撃による消耗戦に突入するため、1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するも、ロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。結局12月5日に203高地は陥落した。ロシア軍は要塞の予備兵力が消耗枯渇した。日本軍も203高地の占領は戦略的にも戦術的にも寄与しなかった。多くの戦死者を出した。旅順攻略戦として犠牲者は、戦死者約16,000人、戦傷者約44,000人に及んだ。ロシア側の被害も大きく、予備兵や臨時に海軍水兵水兵までも、203高地で虐殺された。