2018年4月30日月曜日

日本兵は支那兵捕虜を銃剣で突いて、胸部から出血して、銃弾で頭部を粉砕して眉間から脳髄が滴下した。

日中戦争の徐州作戦にて、日本軍は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域であった徐州を1938年5月18日に占領した。その後に河南省商丘市にて、捕虜にした武器を持たない炊事兵を虐殺した。まず銃剣で突かれ胸部から出血して(No.13)、銃弾で頭部を粉砕されて、眉間から脳髄が突出して滴下した(No.14)。日本軍による中国人捕虜を、豚のように遠慮なく虐殺することを、師団長は日本軍兵士に迫った。小林太郎上等兵が、1938年5月28日に支那兵が「一突き後(N0.13)」と「銃殺後(No.14)」と日誌に撮影記録して、戦後に密かに持ち帰り家族が公表した。その後の日誌には、10月8日、敗残兵2名を銃剣で刺殺した。11月20日、トーチカより引き出した16名の支那兵は頭部を切断して、13名の男性市民は銃殺したなど、無差別の虐殺を記録した。




2018年4月29日日曜日

アフガニスタンの10歳の男子も、ソ連の小型爆弾に被爆して、両手が破裂して両目も失明して両下肢に重度の火傷を受けた。

アフガラスタンの抵抗勢力に屈服したアミン政権が軍事支援を要請して、1979年12月にソ連のブレジネフ大統領はアフガニスタンに侵攻した。イスラム原理主義の革命が、ソ連にも波及するために侵攻をした。ソ連は、アミン政権を収拾勢力が無く、KGBが殺害して、新たな大統領を立て、ソ連の親政権を維持した。パキスタン経由でアメリカはパキスタンを経由して、ムジャーヒディーンを支援して、ソ連の侵攻に対して紛争をした。異教徒からの攻撃からイスラム共同体を守るイスラム戦士と民兵組織とソ連の双方が攻撃を過激化した。ソ連軍は苦戦を強いられ、駐留は長期化して犠牲者と財政支出も膨大となり、最終的にゴルバチョフ大統領はソ連軍の1989年2月に完全撤退をした。ソ連邦は2年後に崩壊した。ソ連は、地中に地雷を埋没した上に、玩具様の小型地雷や爆弾も地面に投下した。多くの子どもが、ソ連製の小型地雷や爆弾を拾って被爆した。10歳の男子も、1985年に小型爆弾で、両手が破裂して両目も失明して、両下肢に重度の火傷を受けた。病院にて切断された息子に両親が悲嘆に暮れた。



2018年4月28日土曜日

イギリス海兵隊は、アデン危機でクレイター地区を防御していたアラブ人兵士の10人を射殺した。

イギリスのアデン保護領と南アラビア連邦で1963年12月10日から1967年11月30日の戦闘によるアデン危機から、南イエメンがイギリスから独立した。エジプト及びソ連が、南イエメンの独立軍を支援した。1967年1月19日から20日、NLF(イエメン国民解放戦線)はアデン街頭で抵抗運動を仕掛けた。派遣された保護領のイギリス軍はNLFの抵抗運動を粉砕した。FLOSY(南イエメン解放戦線)がNLFに代わり、抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。1967年6月には第3次中東戦争が勃発して、アデン危機は更に悪化した。6月20日、エジプトに呼応した南アラビア連邦の警察官が、イギリス軍に反旗を翻した。蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍兵士を虐殺して、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。イギリス海兵隊が高所からアラブ人兵士を10人射殺した。アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSY兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退して、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を独立した。





2018年4月27日金曜日

日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば徴兵でき、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。

日本帝国の兵役法による召集令状で、膨大な日本国民の男子が徴兵されて、戦場に駆り出された。日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば補充がきく、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。実際は役場の職員が直接に赤紙を持って行くのが原則であった。第2次世界大戦では、召集令状により、実際に約2,500,000人の生命を、南方の洋上と諸島から北方の極寒の大陸で奪い去られた。帝国陸海軍の召集令状等の色から赤紙などと呼ばれた。陸軍省の大半の召集は赤色が使われて、当初は真赤だったが、戦時の物資不足による染料の節約で次第に地色が薄くなり、太平洋戦争ではピンクとなった。海軍省の召集も同じ色が使われたため、陸海両軍の令状を混合して赤紙と呼称された。1873年に陸軍省から発布された徴兵令が、日本国民の男子に兵役の義務を課すために全面改正して、兵役法が1927年4月1日に公布されて12月1日に施行された。兵役法はポツダム命令により、1945年11月17日に廃止された。




2018年4月26日木曜日

ヨルダン川西海岸地区のキリスト生誕地のベツレヘムで、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。

ヨルダン川西岸地区は、1948年5月14日のイスラエルの独立宣言から勃発した第一次中東戦争で、ヨルダンによって占領されて、1950年にはヨルダンは東エルサレムを含む地域を併合した。同地区は1967年までヨルダンの一部を構成していたが、1967年6月の第三次中東戦争でイスラエル軍によって占領された。ヨルダンは1994年に領有権を放棄して、現在はイスラエル軍とパレスチナ開放機構(PLO)の自治政府によって統治されている。ヨルダン川西岸地区は、国際連合からはイスラエル占領地として認められた。ヨルダン川西岸地区にはパレスチナ人やユダヤ人および他の少数民族グループが居住している。同地区の大多数を占めるパレスチナ人は、第一次中東戦争よりイスラエルからの難民あるいは直系の子孫である。キリストの生誕地であるベツレヘムを含む同地区で、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。



2018年4月25日水曜日

日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦により、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。

太平洋戦争にて、フィリピンのルソン島のマニラ戦は1945年2月3日から3月3日の4週間も続き、最も悲惨な犠牲となった。日本軍のマニラ海軍防衛隊と残置陸軍部隊は、建物や民家を陣地化して徹底抗戦をはかった。アメリカ軍が完全に包囲するなか、マニラ地区では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留され、銃剣や機銃掃射で殺戮され続けた。全地区にて婦女子が組織的に強姦された。アメリカ軍は、狙撃による兵員の損害を抑えるために重砲火の無差別砲撃で街区を次々と破壊した。民間市民被害者の6割を日本軍による殺戮、4割をアメリカ軍の重砲火による死亡と推定された。アメリカ軍記録では、日本軍はほぼ全滅(1万6665名の戦死)、アメリカ軍戦死は1010名であった。最大の犠牲者はマニラ市民で、食糧と水が欠乏する状態と無差別砲撃で民間人犠牲者の総数は約10万人にも達した。日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦によって、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。



2018年4月24日火曜日

イランのイスラム法の裁判で、将官に対して死刑が執行され、死体が置き場に集積された。

アメリカに追従していたパフレヴィー朝が1979年1月のイラン革命で倒れた。シーア派ホメイニのイスラム原理主義のイラン=イスラム共和国が1972年2月に成立した。ファギーフ(イスラム法学者)による統治を掲げ、アメリカ文化を否定して厳格なイスラームの規範を復活させた。宗教色の強い、イスラム原理主義の政治が展開された。裁判ではシャリーア(イスラム法)が適用された。イランのテヘランの裁判により、1979年2月に最初の4人の将官に対して死刑が執行されて、死体が置き場に集積された。
 1979年11月14日にはイラン人学生らによるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、1981年1月20日まで占拠された。メジャーズ(国際石油資本)が撤退して、イランが石油国有化に踏み切り石油輸出を制限して、石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらした。


2018年4月23日月曜日

アメリカ軍曹の「死の日記」から、ベトコンの1人を殺害した死体は冷たく、濡れて、血まみれであった。

20歳のブルース・F・アネロ( Bruce F. Anello ) 3等軍曹は1968年5月31日にベトナムで殺害された。彼の日記は戦場で拾われ、ハノイに捕獲された。彼の日記は反戦運動家を介して米国に戻り、国民解放戦線(National Liberation Front)により、アメリカで「死の日記」が公表された。

1967年12月29日: 私たちは3日間戦闘に出ようとした。私たちは全面的に狙撃兵の射撃を受けた。私はベトコンの1人を殺し、もう一人を創傷した。死体は冷たく、濡れて、血まみれであった。上官がヘリコプターから現れても、「残念だが、天気が悪いので、どんなやつも乗せれない」彼は飛び去って私たちに新たな命令を残した。

2月12日: このベトナム戦争はおそらくニュースに合うでしょう。マスコミを満足させるために十分な人々が死んだ。ヘリコプターが身体を運ぶのを見ていると、嫌な思いです。しかし、私は北ベトナム人の精神に感心します。誰も精神を持っていないのでしょうか? 彼らには死の目的がある。それは彼らの国だから。私たちには何も得られません。我々はベトナムを望んでいない。だから何もないときに勝つことは何ですか?




2018年4月22日日曜日

ナチス親衛隊員が、ラトビアのリーガで、5人のユダヤ人女性と少女も服を脱いだ直後に撃ち殺されて穴に埋められた。

ドイツの支配地域からユダヤ人の排除は,第2次世界大戦の戦前から戦中を通じて,ナチス・ドイツの目標であった。ラトビアの首都リーガの南郊外区にゲットーの設置が1941年8月に決まり,ユダヤ人は10月25日から鉄条網で囲まれたゲットーの以外に住むことを禁止され,完全に外界から隔離されて消滅した。ヒトラーは,1941年9月に大ドイツ国家領域のユダヤ人を東方のリーガに移送した。収容できる施設はないため、11月30日と12月8日の2日間に,リーガのゲットーのユダヤ人をルンブラの森で殺害した。労働力として約250人のユダヤ人以外,残りの約2万780人のユダヤ人が殺害された。12月8日にユダヤ人がゲットーから引き出され,リーガから約10キロ離れた大きな穴に,全員男も女も子供もナチス親衛隊員により約2,700人が撃ち殺され埋められた。5人のユダヤ人の女性と少女は服を脱がされて、その直後に射殺された。




2018年4月21日土曜日

ドイツ軍によるレニングラードに対する包囲戦では、中心街の空襲や砲撃などで膨大なソビエト市民らの死体が道端に散乱した。

第2次世界大戦で、ナチス・ドイツは1941年6日22日にソビエトとの不可侵条約を破棄して、ドイツ軍は東部戦線でソビエトと戦闘が勃発した。ドイツ軍は、ソビエトの第2番目の都市であるレニングラード(旧名 サンクトペテルスブルグ)を、1941年9月8日から1944年1月18日までの872日間にわたり完全に包囲した。ドイツ軍によるレニングラードに対する包囲戦の緒戦では、1941年10月には中心街に対する空襲や砲撃の炸裂の被爆などで膨大なソビエト市民らの死体が道端に散乱した。市民の死体、死体、死体が市内の街路や雪だまりに放置された。ドイツ軍の包囲戦の期間には補給が途絶して厳しい生活環境や激烈な飢餓と砲撃や空襲などによって、人口約319万人のうち約67万人以上のソビエト市民が虐殺された。



2018年4月20日金曜日

太平洋戦争のガダルカナル島では、つるはしやスコップだけを背にしてアメリカ軍に惨殺された日本兵士の死体が散在した。

太平洋戦争にて、日本軍が侵略したガダルカナル島に、アメリカ軍は1941年8月7日から侵攻した。川口支隊は、飢餓状態に陥りながら、険しい山岳地帯を抜けるために、装備を捨てつるはしとスコップで侵攻した。ヘンダーソン飛行場の奪還を目指して、「ガス・アタック、ガス・アタック」と叫びながら、全兵士がアメリカ軍に突撃した。圧倒的なアメリカ軍の武力により、集中砲火と射撃を受けて壊滅した。つるはしやスコップだけを背にした惨殺された日本兵士の死体が散在した。日本軍の残存兵が、9月12日夜には第2次攻撃を加えるも血染めの嶺となり、約600人以上が戦死した。ガダルカナル島のジャングルでは、激しい雨季とマラリア、朝晩の寒暖と栄養失調で飢餓島となった。日本軍はアメリカ軍に圧倒的に撲滅されたが、大本営は国民に戦況の悪化を「転進」と情報捜査した。


2018年4月19日木曜日

第4次中東戦争で涙の谷にてシリア軍との戦闘で、イスラエル機甲師団は戦死した兵士の死体を、戦車から引き出して確保した。

第4次中東戦争が、エジプトとシリアが第3次中東戦争の失地回復のため、1973年10月6日にイスラエルに先制攻撃をかけて勃発した。イスラエルは贖罪日(ヨム・キプール)で、対抗が後手になった。エジプト軍はスエズ運河とシリア軍はゴラン高原から侵略した。イスラエル空軍と機甲師団は大打撃を受けた。イスラエル軍は10月9日から反撃をして、シリアとの北部戦線から集中的に侵略した。イスラエル軍は、シリア軍とモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を撃退して、ゴラン高原を再占領した。その涙の谷の戦闘で、イスラエル機甲師団は戦死した兵士の死体を、戦車から引き出して確保した。イスラエル軍はシナイ半島も10月15日からの反撃で、16日にはスエズ運河を逆渡河して西岸の一部を占領した。国際社会による調停で10月23日に停戦となった。10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助する非友好的な西側諸国に石油供給の段階的削減を決定して、原油価格が急騰して第一次オイルショックに至った。両国の平和認識に変化が生じて、エジプトとイスラエルは交渉して1978年9月のキャンプ・デービッド合意の平和に繋がった。





2018年4月18日水曜日

日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。

1917年11月にロシア革命が勃発して、第1次世界大戦の捕虜となったチェコ軍が、1918年5月に西シベリアを占領した。チェコ軍がソ連軍と戦闘となり、連合国がソ連にシベリアに出兵して、軍事干渉をした。ロシアの労働者や農民などの市民が、パルチザンとして闘争して、激烈な抵抗をした。日本軍は約70,000人も増員して、11月に強引に東シベリアにも侵略を企てた。日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。日本軍だけは、日本人の保護を名目に軍事占領を継続した。1920年5月の尼港事件で、パルチザン部隊がニコラエフスクにて約6,000人を無差別に大量虐殺をした。さらにパルチザンとの戦闘が激烈となり、連合国は1920年6月までにシベリアから撤兵した。日本軍だけ残留するも、約3,500人の戦死者を出して1922年10月になって撤兵した。



2018年4月17日火曜日

イギリス軍は、解放した強制収容所で死亡したユダヤ人の死体を、ナチス・ドイツ親衛隊の看守たちに手で運ばせて処理させた。

ベンゲル・ベンゼン(Bergen-Belsen)収容所は、第1次世界大戦中は戦争捕虜収容所であった。東部戦線のロシアやソ連兵士を収容して虐待と虐殺していた。1943年4年以降は、ナチス・ドイツにより強制収容所に改変された。当初はドイツ以外の国籍も持つユダヤ人を強制収容した。次第にユダヤ人の収容者が約50,000にも達して、食事の配給が欠乏して、栄養失調による衰弱と感染症で死亡した。「アンネの日記」のアンネ・フランクも絶命した。1945年4月15日になってイギリス軍により解放された。しかし、チフスの大流行により、6月20日までに約15,000人も感染死した。イギリス軍はユダヤ人の死体をナチス・ドイツ親衛隊の看守たちに手で運ばせ処理させていた。大量に積まれた死体、道端に転々と転がる死体、野原一面を埋め尽くす死体、疫病の蔓延を隔離するため、ブルドーザーで死体を投棄して、収容所を焼き払った。




2018年4月16日月曜日

第2次世界大戦のソ連軍の東部戦線にて、イタリア軍は膨大な戦死者の遺体を豪雪の中に遺棄と放置してドン河から撤退した。

第2次世界大戦にて、ソ連軍によるドン河流域における第3次攻撃を1943年1月から受けて、イタリア第8軍の山岳軍団はドン河流域から数日内に崩壊した。当初は10万人の兵力を擁していたイタリア第8軍は、約1か月間の戦闘で約8万5000人の将兵を戦死または行方不明として失った。東部戦線のドン河流域から離脱して、イタリア軍は戦死者の遺体を豪雪の中に遺棄と放置しながら撤退した。イタリアの補充兵など含めた約3万人が凍傷などで戦線から撤退した。豪雪により、ソ連軍の攻勢はさらに勢いづき、ソ連軍により包囲されたドイツ軍は重装備を放棄しながら西方に脱出した。ドイツ軍が1942年6月から占領したロシア南部地域の大部分を3月間にソ連軍の攻勢で失った。