2020年2月10日月曜日

日本軍憲兵は、略奪の横行したビルマのラングーンで、収容施設が枯渇して容疑者らを街路樹に縄で縛り付けた。

日本軍がミャンマー(旧 ビルマ)の首都ぶあったラングーン(現在 ヤンゴン)を占領した。日本軍憲兵は、ラングーン市内で略奪犯が横行するために、ラングーン市民も一味と加担したと容疑した。日本軍は収容施設が枯渇したために、1942年3月頃に容疑者らを街路樹に大きな縄で縛り付けられた。その写真の左端には、不許可の印章とその注意事項が記載された。日本軍から熱帯地方の炎天下にさらされて、虐待と虐殺をされた。略奪犯だけでなく、民間市民も無差別に虐待と虐殺された。
  1942年から1945年にかけて、ヤンゴンはイギリス植民地に代わって日本軍による占領を受けて、第二次世界大戦中は甚大な被害を受けた。日本軍は、1942年3月8日にラングーンを占領して、5月末にはビルマ全域を占領した。日本軍のビルマ占領下で、約17万人から約25万人の民間市民が殺害された。連合軍は1945年5月にラングーンは奪還された。
 日本軍によって日中戦争から太平洋戦争に至る新聞記者が取材した写真群が検閲されて新聞に掲載が不許可となった。大阪毎日新聞社には、従軍カメラマンが撮影した写真が、戦場別に資料室に保管されている。陸軍から海軍および内務省から外務省・逓信省などの官憲が検閲して情報操作と情報隠蔽をした。官憲が検閲を通過した写真で都合の良い写真のみを宣伝に転用した。特に戦場の写真は、掲載される直前に再度の検閲を受けた。不許可写真は掲載さえしなければ、再提出や破棄を求められなかった。日本でわずかに残された軍史料の写真となった。


2020年2月9日日曜日

フィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団は、ネグロス島の農民を襲撃して、反政府ゲリラとして虐待と虐殺された。

フィリピンのネグロス島において、1987年5月にはフィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団に、ネグロス島の農民を襲撃して、短絡的に反政府ゲリラの容疑者として、虐待と虐殺された。その残忍な死体が、南部カバンカラン丘陵地帯の小道に放置されて散乱して腐敗した。1987年4月にフィリピン政府軍は、南部の山村を反政府ゲリラとして虐待と虐殺して焼き払った。反共産自警団ではアルサマサは、1986年4月に結成されて、地域を監視した。1987年から、内戦が激化して大量の約38,000人もの国内難民が発生した。
   ネグロス島は、フィリピンのセブ島の西下端の中部ビサヤ地方にある。植民地時代以来、砂糖栽培で繁栄したが、一方で単一栽培化と貧富の格差が進んだ。わずかな大地主が富を独占して、農民の多くが雇われる農業労働者となった。1985年に、砂糖の国際的な取引価格が暴落した。ネグロス島の砂糖産業は打撃を受け、地主の破産、農園の放棄、農民の解雇が相次いだ。地主に雇われて働く農民は、砂糖栽培が没落すると同時に失業者となった。ネグロス島全土に急速な勢いで飢餓が広がった。砂糖価格の低下から飢餓にの起点は、アメリカ植民地時代から続いた特恵的関税が1974年に打ち切られた。1970年代以降は、代替甘味料が増産した。各国とも自国産業の保護を優先して、フィリピン産砂糖の需要は激減した。砂糖危機が生じた1985年頃はマルコス独裁政権の末期で、政治経済が不安定であった。1970年代以降、貧富の格差の拡大から、農民は新人民軍(NPA)に潜入者が多くなり、ゲリラによる武力攻撃や誘拐が相次いだ。フィリピン国軍と対NPAの内戦状態となった。山間部の農民は双方の内戦と掃討で虐待と虐殺されて多くの難民が出る惨状となった。1990年代半ばにNPAはほぼ壊滅したが、内戦の後遺症から多くの農民が難民となった。フィリピン政府は1988年以降に、包括的農地改革法を制定し、ゲリラの原因となる地主の農地所有を強制収用や配分をした。地主の抵抗が強く、収用・配分目標は達成できなかった。農地の多く、砂糖畑は地主地であった。2000年代に国際砂糖市場やネグロス経済は回復したが、島内の貧富の差は根強く残っままである。


2020年2月8日土曜日

韓国軍国家警察は斧で北朝鮮ゲルラの首を切断して虐殺して、死体から片手で髪をつまんで頭部を引き上げた。

朝鮮戦争において、韓国国家警察は1952年11月17日に、韓国内の全羅北道にて朝鮮民主主義人民共和国の北朝鮮ゲリラの容疑者の青年を処刑した。韓国軍国家警察官は笑みを浮かべながら、斧で北朝鮮ゲルラの首を切断して虐殺した。写真に写っていない韓国国家警察巻は、その死体から片手で髪をつまんで頭部を引き上げて保持していた。韓国国家警察は、ただ共産主義者だけでなく、青年グループ、家族、組合員、または韓国の意向に同意しない人を虐殺した。その対象者は、逆に韓国とアメリカ軍の侵攻した1950年の初期に、同調して多くの右翼勢力の韓国軍は、北朝鮮の左翼ゲリラ容疑者の虐殺もあった。韓国の独裁政権は、北朝鮮の左翼の人々や他の政治的敵対者の大虐殺を行った。この青年は、笑みを浮かべて韓国国家警官に話しかけたために、北朝鮮の囚人として斬首された。朝鮮戦争はアメリカの南北戦争や第二次世界大戦のように公式に記録されていない。そのために朝鮮戦争の虐殺である軍事史も公の記憶から極秘にされた。



2020年2月7日金曜日

平和思想と戦争思想の抄録 -日本近代思想編- (Kindle版の発刊: 2020年2月6日)


平和思想と戦争思想の抄録
 ― 日本近代思想編 ―

Abstracts of Peace and War Thoughts 

– Japanease Modern Thoughts –


日本平和の市民連盟 Japan No War




内容紹介
「思い出の戦争」の真実は、市民による戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 迫りつつある戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 それぞれの生命と生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つ僅かな存在にすぎない市民である。しかしながら、他人や部外者などから見れば、市民は微かな存在にすぎないであろう。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。
 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。戦争と悲惨な生死により、平和市民に受け継がれた「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として、人生の羅針盤として、「日本思い出の戦争」を多くの平和市民の心に送りたい。戦争市民が悲惨な戦争の体験をした「日本思い出の戦争」を授けたい。ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争の真実を平和市民に送り捧げたい。
 いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされているのは市民です。戦争を知らない世代の平和市民に「思い出の平和思想と戦争思想」を覚えてほしい。平和思想と戦争思想の真実を記録した歴史には、その関心や意義だけではなく、考えながら閲覧にも留意しましょう。「平和思想と戦争思想」は平和市民による真の平和の保持と戦争の抑止力となります。日本から地球に向けて、平和思想と戦争思想の真実を伝え合うことで、地球平和の市民連盟として地球平和を探求しましょう。
本書では『平和思想と戦争思想の抄録―日本近代思想編―』により思い出の「平和思想と戦争思想」から、江戸時代末期から第二次世界大戦までの日本近代思想編を平和市民に送り捧げたい。いつの時代も、平和市民と戦争市民は平和思想と戦争思想に、いつの間にか洗脳されています。平和思想と戦争思想の真実の探求には、教育だけではなく学問が必要なのです。つまり受動的に教え育てるのではなく、能動的に学びて問うことが必要なのです。教育することで、平和文化と戦争文化を勉強して継承しています。学問することで平和文化と戦争文化を探求して未来の創造と過去の代償をしています。本書を活用して、平和思想と戦争思想―日本近代思想編―を勉強するだけでなく、学問をしましょう。平和市民はともに連盟して、平和文化を継承して創造しましょう。

About this book
   Japan No War would like to send the Japanese Modern Thoughts to peaceful citizens from the "Peace Thought and War Thought", which is the memory of "Abstracts of Peace Thought and War Thoughts-Japanese Modern Thoughts". In all times, peaceful and war citizens have been brainwashed with peace and war thoughts. The search for the truth of peace and war thought requires not only educations but also studies. In other words, it is necessary to actively learn and ask questions, not passively. By educating, we study and inherit peace and war culture. By studying, we are exploring peace and war culture to create the future and destroy the past. By this book to not only learning peace and war thought—oriental thought—but also studying, peace citizens should join together to create a culture of peace.

登録情報
  • フォーマット: Kindle版, ファイルサイズ: 2160 KB, 推定ページ数: 146 ページ
  • 同時に利用できる端末数: 無制限, 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語, ASIN: B084JL9G94

2020年2月6日木曜日

アメリカ南北戦争で南軍兵士が荒野に銃殺されて仰向けになった死体の上にライフル銃が横たわった。

アメリカの南北戦争において、南軍のイーウェル部隊の兵士が、バージニア州のスポットシルバニア郡の戦闘で、1864年5月19日に北軍のグラント部隊により殺害された。荒野に銃殺されて仰向けになった死体の上にライフル銃が横たわった。南軍が5月19日に、スポットシルバニアのハリス農場付近で、南軍が潜行するも敗退して無意味な戦闘になった。北軍には犠牲となった兵士と武器を交替する大きな資源があった。南軍のイーウェル部隊は、ハリス農場付近で北軍の側面を偵察中に、北軍の重砲兵隊に遭遇して、無意味な小競り合いで約900人以上の兵士が犠牲となった。5月19日だけで、北軍は約6,642人、南軍は約2,718人、両軍で約9,360人が犠牲となった。
 スポットシルバニアの北軍と南軍の戦いは、1864年5月8日から5月21日まで、戦闘が断続的に継続するも両軍ともに進展はほとんど無く無駄な消耗戦となった。北軍は、戦死者数は約2,725人、戦傷者数は約13,416人、行方不明者数は約2,258人で総計で約18,399人の犠牲者が出た。南軍は、戦死者数は約1,515人、戦傷者数は約5,414人、行方不明が約5,758人で総計で約12,687人の犠牲を出した。両軍では、約31,086人もの膨大な犠牲者となった。スポットシルバニアの戦いでは勝敗もつかずも、両軍ともに一方的に勝利宣言をして勝利を誇った。


2020年2月5日水曜日

ナチス・ドイツのフロッセンビュルク捕虜収容所で、1945年4月30日に積み重なって放置された多数の囚人の死体が発見された。

ナチス・ドイツのフロッセンビュルク捕虜収容所で、1945年4月30日に積み重なって放置された多数の囚人の死体が発見された。その頃は、壊滅的な衛生状態、すでに発生した腸チフスの流行はさらに拡散した。毎日ますます多くの囚人が死亡した。暗闇の中で囚人ら死体が散乱していた。収容所の過密状態、恐ろしい衛生状況、食糧の枯渇により、収容所の死亡率が突然上昇した。毎朝に半数または十数人の死者が各収容棟から引きずり出された。火葬場はすべての死体を収容できず、建物の前に積み上げられた死体が隣接した山並みとなった。死体の山を置く場所がなくなると、キャンプの端、有刺鉄線のフェンスのすぐ上に大きな穴が掘って、死体を投げ込み、タールで燃やした。
 フロッセンビュルク捕虜収容所は、1938年5月にナチス親衛隊によって建設された。他の強制収容所とは異なり、チェコスロバキアとドイツ国境近くのバイエルン州のフィヒテル山地の遠隔地に位置した。捕虜収容所の当初は、囚人の強制労働によって建築用の花崗岩を石切場で発掘した。約4,000人を超える囚人のうち半数以上が政治犯であった。1943年頃から強制労働の大部分は、ナチス・ドイツの軍需産業に向けた戦闘機や兵器の生産に切り替えた。元々は犯罪者および社会的な囚人を対象としていた。ナチス・ドイツ軍のソビエト連邦侵攻後に、捕虜収容所は東ヨーロッパからの政治囚で膨れ上がり、広範な約100の支部収容所に配置転換した。1944年8月から1945年1月まで、主にハンガリーとポーランドから約10,000人以上のユダヤ人が収容された。1945年1月には、約11,100人の女性を含む、約4万人の囚人に膨れ上がった。
 1945年4月23日にアメリカ軍によって解放される直前に、証拠隠滅のために約89,964人から約100,000人の囚人がフロッセンビュルク捕虜収容所からダッハウ強制収容所に連行された。栄養失調、過労、処刑などによる死の行進中に、約30,000人が死亡した。1945年3月だけで、約1,367人の囚人が死亡した。ナチス親衛隊は、多数の個人や集団に対する射殺を散発的に継続していた。


2020年2月4日火曜日

日中戦争で、日本軍の爆撃で死んだ子どもの死体の側で老夫婦が慟哭した。

日中戦争の戦闘に中国人の民間市民が巻き込まれた。日本軍の爆撃により、中国人の子どもが爆死した。その高齢な両親が、爆撃で破壊された民家の近くで、子どもの死体の側で取り囲んで慟哭した。抗日戦争は持久戦に陥り、抗戦期間が長くなり、戦線はますます広大して民間市民が戦闘に巻き込まれた。



2020年2月3日月曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮軍によって韓国市民が虐殺されて荒野に散乱した多数の死体に親族が参集して慟哭した。

朝鮮戦争にて、北朝鮮軍によって韓国市民が虐殺された多数の死体が荒野に散乱した。死臭を放つ死体の周囲に家族が集まっては慟哭した。他国人との争いよりも、兄弟同士の戦闘の方が憎悪を強烈であった。まさに血で血を洗う内戦となった。朝鮮戦争の怨念は、他の民族では怒らない愚行を、朝鮮半島に残存した。
  朝鮮戦争中の残虐な民間市民の殺害の起因は次グループに分類された。1)内部統制の目的で北朝鮮または韓国の国家主導により、当軍局が民間人を敵の協力者と容疑して殺害した。2) 朝鮮戦争における戦闘と無差別爆撃の遂行中に、軍隊が民間人を殺害した。3)国家が主導して、民間人による民族間の殺害が報復された。4)北朝鮮軍によるアメリカと韓国の捕虜が殺害された。北朝鮮同盟軍と韓国同盟軍との間の前線で繰り返される戦闘により、相互の民間人が巻き込まれて殺害された。
 冷戦による政治的対立に応じた国家による過度の致命的武力と大規模な弾圧は、南北相互の戦闘前から休戦まで潜在した。朝鮮戦争が勃発する前から、国家の支配を維持するため民間人がすでに処決された。韓国軍は、1948年年4月から1949年5月まで済州島で蜂起中した数万人をの共産主義の容疑者として民間市民を殺害した。韓国軍は、北朝鮮の侵略に伴い、共産主義者の共感者の処刑した。裏切り容疑者の処刑は、韓国軍が囚人を追放できない地域の支配を取り戻し、あるいは北朝鮮によって占領された地域から逃避げれなかったため、紛争中に発生しました難民を敵国の協力者として殺害した。同様に、北朝鮮が侵攻したとき、特に韓国の知識人や特権階級などの浄化のため処刑された。民間市民も二極化され、北朝鮮または韓国への意図的な解放された後に、相互の民族を殺害した。
 軍隊は、戦闘員は戦場から逃げる民間人を無差別に処刑した。悪名高い1950年7月のノー・ガン・リ虐殺は、数百人の民間市民が殺害された。軍隊が逃避している難民を攻撃した。難民殺害の約200事件が、韓国軍真実和解委員会で調査された。アメリカ軍の無差別爆撃の繰り返しや民間占領地域でナパーム弾を投下した。戦闘地域の民間人を取り残しても、退却期間中に軍隊によって交通機関が破壊された。孤立した難民は、敵との協力者であり、侵入者であると容疑されて殺害された。
 戦争の囚人も、戦争中に致命的な状況に陥った。北朝鮮は、降伏した後にも捕虜を処刑した。死の強制連行させて捕虜を殺害した。捕虜収容所は、衛生、資源、および貧弱な健康教育や貧弱などのアメリカの捕虜は、拷問や医療実験にさらされ、食物や医療を欠乏した。朝鮮戦争中に、少なくとも約100万人もの民間市民が殺害された。捕虜として殺害されたのは、アメリカ軍兵士が約2,700人、韓国軍兵士が約13,836人が殺害されて、約19,409人は身元・行方不明となった。北朝鮮軍と民間市民の殺害数は不明のままである。


2020年2月2日日曜日

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍兵士らは、機関砲横のタコ壺で爆破死した。

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍兵士らは、機関砲横のタコ壺で爆破死した。猛烈な戦闘の最中である1945年5月には、そのままアメリカ軍兵士の戦死体はタコ壺の中に放置されていた。至る所に、激しい戦闘で殺された日本軍とアメリカ軍の死体が横たわった。あらゆる階級の歩兵と装備が散らばっていた。ヘルメット、ライフル、BAR、パック、カートリッジベルト、食堂、靴、弾薬箱、シェルケース、機関銃弾薬ベルトなどは、戦場の周りに散らばった。
 1945年4月1日から6月22日までの沖縄戦は、第二次世界大戦の最後の主要な戦闘となり、最も血なまぐさい戦闘の1つであった。沖縄戦で双方は膨大なな犠牲を被った。アメリカ人は約12,520人の死者を含む約49,000人以上の死傷者を出した。日本人の犠牲はさらに大きく、約110,000人の日本軍兵士が命を落とした。沖縄の民間市民は約15万人も死亡したと推定された。アメリカ軍は、約82,000人以上の戦死傷者を出し、そのうち約12,500人以上が死亡または行方不明になった。沖縄戦による戦死者数は海軍は約4,907人、陸軍は約4,675人、海兵隊は約2,938人であった。沖縄戦のほぼすべての戦いで、アメリカ軍は、熱狂して降伏せずに自分の命を奪う日本軍兵士との白兵戦で戦った。特に、海軍では、日本空軍の自爆する神風特攻機により、水陸両用艦艇約15隻と駆逐艦約12隻を含む36隻が沈没して、水陸両用艦艇約120隻を含む約368隻の連合艦が損傷を受けた。アメリカ海軍の死者数は戦傷者数を上回り、特に神風特攻により約4,907人が死亡して、約4,874人が負傷した。
 第二次世界大戦の沖縄の戦いの死亡率は約35.48%にも達した。太平洋戦争は、第二次世界大戦の最後の主要な戦いの1つとなり、約240,931人の軍隊と沖縄の民間徴集兵が死亡した。アメリカ軍は約14,009人の死者を出して、約82,000人以上の死傷者を出した。日本軍は最大で約80%の防衛軍を喪失した。日本人の死者数が非常に多い理由は2つある。まず、訓練を受けていない徴兵された沖縄の民間市民を、太平洋戦争で戦ったアメリカ軍と戦うことは、完全に不合理であった。第二に、日本人は降伏を拒否した。沖縄戦の恐ろしさを目の当たりにした後、精神傷害が アメリカ軍の下士官兵士の間で広まった。 多くのアメリカの軍事史家は、沖縄戦が日本本土に計画された地上侵略を回避する手段として、広島と長崎の原爆の投下に直接つながったと信じた。


2020年2月1日土曜日

長崎原爆の爆心地から南に約2.9kmの新興善国民学校救護所で、老人は頭部の火傷にチンクオイルをピッセットのガーゼで塗ってもらった。

長崎原子爆弾による頭部の火傷を受けた被爆者は、1945年8月下旬に長崎市興善町の新興善国民学校に特設された救護病院で加療を受けた。新興善国民学校は、爆心地から南に約2.9kmに位置した。男性被爆者である老人は頭部の火傷にチンクオイルを浸したガーゼをピッセット塗ってもらった。新興善国民学校は、原爆による火災を免れて新興善国民学校救護所となった。8月11日には、針尾海兵団より救援隊が到着して、そらに佐世保海軍病院武雄分院からも医療隊が到着した。壊滅した長崎医科大学を代賛して、8月16日に新興善特設救護病院となった。さらに、10月6日から長崎医科大学附属病院となって被爆医療の主軸となった。
 長崎市に投下されて炸裂したマットマンと呼称された原子爆弾は、広島市に投下されて炸裂したリトル・ボーイより破壊力が増大していた。長崎市内の盆地状の地形により、被害地域は限定されたが、被爆死は約7万人にも達した。長崎市内の膨大な被爆者に対する救護活動は、長崎原爆が炸裂した翌日の8月10日から始動された。わずかに生存していた長崎医科大学と浦上第1病院の医師・看護師・学生などが参加した。建物が残存した新興善、勝山、伊良林などの国民学校に臨時救護所が設置された。そちらに大村および諫早の海軍病院、三菱病院、長崎県内の医師会なども救護活動に参加した。救援列車が復旧してから、沿線の大村海軍病院などの救護機関に護送された。しかし、被爆者の救護活動は、1945年10月に打ち切られた。
 ハリー・トルーマン大統領は原爆被爆者を調査し、放射線被爆が彼らの健康にどのように影響したかを研究することを担当するる原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)の設立を1946年11月に署名した。1948年10月に長崎ABCCは新興善小学校内に設置された。ABCCは、被爆者だけを優先する責務を回避して、医療は提供せずに健康診断の実施に限定した。それ以後は、被爆者らは1957年に原爆医療法までは自己負担と自己責任を強いられた。



2020年1月31日金曜日

ベトナム戦争後からのボート難民の子どもたちは、香港の抑留収容所の金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。

1980年代から90年代に、ベトナム戦争後からのボート難民は、香港ではホワイトヘッド抑留収容所に拘留された。1995年には、ベトナムからのボート難民の子どもたちは金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。何千人ものベトナム難民の子どもたちが、この収容所で長期にわたり拘留されて過ごした。特に、戦争の後遺症に起因した弱者である難民の子ども達に対する身体的と精神的虐待が抑留収容所内で頻発して密かに横行した。
 オーストラリアからのナウル・ファイルによれば、太平洋の孤島にあるオフショア難民収容所から虐待や暴力による多数の子どもの犠牲が漏洩された。ナウル・ファイル(Nauru Files)とは、オーストラリアのオフショア難民収容所から漏洩された最大の秘密情報である。ナウルにある収容所にて2013年5月から2015年10月までの約2,000以上の事件の報告書であった。太平洋の島の警備員、ケースワーカー、教師によって記述された。彼らは島での報告可能なすべての事件を提示した。事件の半分以上は移民した子どもに関連して、自傷行為、性的暴行、児童虐待、ハンガーストライキ、暴行および負傷が含まれた。事件の文書は2016年8月10日にガーディアンが公開されて、その他の報道機関も報告した。記録にはオーストラリアの悪名の高い沖合拘留収容所での長期の拘禁による犠牲の全容が詳細に記載された。
 1975年以降に難民が流出したのは、ベトナム・カンプチア・ラオスで約30年間の戦争の後遺症から、共産党政権による何百万人に達する民間市民が虐殺された。都市の粉砕、農地の破壊、森林のはげ山化、水源の汚染、無数の地雷などが放置された。直面する経済と環境上の悪化を招いた。1980年から1986年の間は、ベトナムからのボート難民の流出は、第3国で再定住者よりも少なかったが、1987年からはボート難民の人数は再び急上昇し始めた。当時の目的地は、主に香港とタイであった。1988年6月15日から約半年だけで、約18,000人以上のベトナム人難民が香港に到着した。香港当局は、すべての新規の難民を拘留センターに入れた。第3国に再定住できるまで拘留センター閉じ込めた。ボート難民は刑務所のような拘留センターに抑留された。特に、子どもに対する教育やその他のプログラムは廃止された。東南アジアの受け入れ国も、新しく到着したベトナムからボート難民の受け入れを、香港と同様に否定的であった。
 亡命国と第3国の再定住の受入国は、より新しいボート難民の多くが政治的弾圧から逃れる難民の地位を疑った。1989年6月にジュネーブの国際難民会議では、すべての新しい難民を選別して、本物の難民を判断することを要求した。ボート難民の移民を減少させる包括的行動計画(CPA)を作成した。難民の資格を与えられない人々は、自発的または非自発的にベトナムに送還された。1989年には、約5万人のインドシナ系難民が東南アジアの5か国と香港に到着した。1992年から難民数は激減して、ベトナムのボート難民が故郷から逃げる時代は完全に終わった。ベトナム人で混血となったアメラジアンの子供たちの再定住は特別に再教育収容所で継続された。


2020年1月30日木曜日

サイパンの戦いで壮絶なガラパンの市街戦が勃発して、日本軍兵士がアメリカ軍の猛烈な砲撃に吹き飛ばされて殺害された。

太平洋戦争において1944年6月15日からのサイパンの戦いにて、6月28日には最大都市でもあったガラパンで壮絶な市街戦が勃発した。日本軍兵士がアメリカ軍の猛烈な砲撃に吹き飛ばされて殺害された。日本軍兵士は、仰向けに叫びながら口を開けたままに倒れて戦死した。日本軍兵士は市街戦で肉弾攻撃から白兵突撃を繰り返しても、武器から食糧も飲料水も枯渇して3日間も飲まず食わずで6月30日には日本軍兵士はほぼ全滅した。
   ガラパンが戦場となって、ガラパン全域をアメリカ軍が占領して、日本軍は崩壊して7月3日に北部に退散した。7月4日にはガラパン近辺のタナバク港には日本軍兵士の死体が重なり埋まった。日系民間市民もサイパン島のタナバク周辺に避難して、北端の悲劇のバンザイ・クリフとなるマッピー岬に追い詰められた。日本軍司令部は、7月7日にはサイパン島北端までの撤退を拒否して、サイパン島を太平洋の防波堤にすると全軍の全員が全滅する玉砕を敢行することを厳命した。7月7日午前3時に手榴弾、銃剣とナイフで最大のバンザイ攻撃の白兵突撃をした。事前に察知していたアメリカ軍は、多量の照明弾を打ち上げて、実弾演習の如くに集中攻撃をして、戦場は死の谷となり7月7日のお昼頃には日本軍兵士はほぼ全滅した。日本軍の組織的な抵抗は7月9日に終結した。
 日本軍司令部は、民間市民と軍隊の区別はもはやない、捕まえるよりも、竹の槍で攻撃に参加することや自殺を奨励した。民間市民は洞窟や隠れるべき家や穴すら見当たらなかった。読売新聞は、マッピー岬の崖から約80m下に飛び降りて自殺した女性らを「日本の女性の誇り」と称賛して、「昭和の最高の行為」とまで喧伝した。東京大学は朝日新聞で「100から1,000の勇気が輝かしい光の閃光を発した歴史上の行為であった」と称賛した。アメリカ軍の犠牲は、約71,000人のうち約3,426人が死亡して、約10,364人が戦傷した。日本軍の犠牲は、約31,000人のうち、約24,000人が戦死して、約921日が捕虜となり、約5,000人が自殺した。


2020年1月29日水曜日

フランス人女性がライフルを掲げて、ドイツ軍と紛争を継続するようにフランス人の男性市民に呼びかけた。

ナチス・ドイツ軍が、1940年5月からの電撃戦にてフランス軍を蹂躙して、わずか約6週間の瞬く間にパリを6月14日に占領した。抵抗するにもパリ市民には、ほとんど武器は枯渇していた。ドイツ軍に抵抗して殺害されたフランス人男性の身体が路面に横たわった。その身体からライフルをかき集めたフランス人女性が、ライフルを掲げてはドイツ軍と紛争を継続するようにフランス人の男性市民に呼びかけた。ノルマンディー上陸作戦までは、積極的な抵抗者であるレジスタンスは、ごく少数であった。本来のレジスタンスとしての抵抗者の主体は、移民、学生、スペイン内戦後の共産主義者で構成されていた。レジスタンスの抵抗を誇示してフランス市民を煽動する写真などが大量にばらまかれた。地下新聞の発行、妨害活動、情報収集に関与したフランス人は、約2%未満に過ぎなかった。静観しながらチラシを読み、フランスの伝統文化を守る受動的なフランス人でもわずか約8%未満であった。
 フランスは国民全体は想外の敗北の屈辱から、集団的な心的外傷後ストレス障害(PTSD)により衰弱していた。ナチス・ドイツ軍の思想を受け入れて傀儡となったヴィシー政権は、数千人ものユダヤ人を強制収容所に送り込んで大量虐殺にも加担した。フランス人の特権階級や資産家らは完全にナチス・ドイツ軍に取り込んで完全に無抵抗者となった。特にフランスの北東部のドイツ軍の占領地域で、屈辱的な虐待や虐殺を受けて追い込まれたフランス人が抵抗者となった。レジスタンスでは非現実的に興奮して不満を解消できずに、実際はナチス・ドイツ軍から残忍な虐待と虐殺を受けた。最も差し迫った恐怖は、身内の裏切りであった。抵抗運動を高めるほど、裏切りによる壊滅に逼迫した。レジスタンスの主体を果たしたのは、第1次世界大戦後にフランスに移民した外国人と、ナチス・ドイツ軍から逃避してきた東部戦線からの難民らであった。特にポーランド系ユダヤ人、多彩な東ヨーロッパの共産主義者、スペイン内戦でファシズムに対抗した共和党勢力のスペイン人であった。フランス人の指揮下で、非常に危険な都市ゲリラ戦に従軍した。パリにおける外国人ユダヤ人は、1942年7月16日から17日だけで、約13,000人が東ヨーロッパ強制収容所に強制連行された。ナチス・ドイツ軍は数千人のレジスタンス戦闘員と数千人の民間人が虐殺されて、ノルマンディー上陸作戦に関与できなかった。上陸後になってから、フランス全土にわたる強力で積極的なナチス・ドイツ軍との悲惨な対立の突風につながった。1944年8月25日になって連合軍がパリを開放した。


2020年1月28日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、アメリカ軍は戦車に向けて爆弾を抱えて肉弾攻撃をした日本軍兵士を直ちに殺害した。

太平洋戦争の沖縄戦において、1945年5月に日本軍兵士がアメリカ軍の戦車に向けて爆弾を抱えて肉弾攻撃をした。直ちにアメリカ軍兵士により、射撃されて殺害された。アメリカ軍の戦車は何も無かった如く通り過ぎて行き、戦死した日本軍兵士の死体がそのままに仰向けで放置された。アメリカ軍に比較して、圧倒的に兵力が劣る日本軍は、若年兵士らを爆弾を抱えさせ、戦車に向けて戦車への斬り込み攻撃する特攻をさせて自滅させた。多く日本軍兵士はアメリカ軍の戦車にたどり着く前に、射殺された。その他に塹壕に爆弾を抱えて潜伏して、アメリカ軍の戦車に飛び出して体当たりするタコツボ攻撃も取らせた。1台の戦車に対して数名が斬り込み攻撃もした。爆薬を詰め込んだかばん攻撃の自爆によって支援された日本軍歩兵が直接に洗車攻撃した。
 潜入して戦死した日本軍兵士と倒れた海兵隊員の死体は、5月の豪雨で取り戻せずに頻繁に放置された。腐った死体と肥大したうじ虫で一杯になった死体はゆっくりと腐敗した。日本軍の間では、沖縄戦の最後の数日間に自殺の発生が急増した。日本軍の死体の検死の結果、降伏するのではなく、多くの日本人が手榴弾を腹部に当て、戦争を個人的手段で終わらせていた。多数の切断された腕と脚が散乱した。死体群の一部の頭部はニヤリとしていた。頭蓋骨の肉から腐敗し、歯はむき出しになった。沖縄戦はにアメリカ軍とって勝利でしたが、その非常に大きな犠牲と大虐殺は軍事戦略家とアメリカ市民に衝撃を与えた。
  1945年3月23日に義勇兵役法を成立させて、徴兵対象を拡大する新たな徴兵制度を構築した。日本軍は15歳以上〜60歳以下の男子および17歳以上〜40歳未満の女子に義勇兵役を課して、国民義勇戦闘隊に編入できた。交付と施行は6月23日に執行されたが、既に沖縄戦は終結していた。沖縄戦では、日本国の法律の施行する前に、陸軍省令の通知で、14歳から17歳の少年兵を召集した。少年兵は鉄血勤皇隊、少年護郷隊に召集されて自滅させられた。召集は、日本軍からの指令で、指定の場所に期日内に出頭が義務付けられて、召集に違反すると罪人となった。罪人には、懲役刑に処せられて戦場の前線で突撃させ、3親等内の家族は失職して、兵役逃れは不可能であり社会的に追放された。



2020年1月27日月曜日

フランス軍はアフリカから黒人兵を投入して、ナチス・ドイツ軍の侵攻の途上で、特に捕虜の黒人兵を処刑して虐殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1940年に第二次世界大戦の西部戦線から電撃戦にてフランスへ侵攻した。ドイツ軍は1940年6月5日から、ソンム川からセーヌ川にかけて侵攻した。フランス軍は、ソンム川の防衛のために、アフリカから有色人種として黒人兵を投入して戦力を増強した。ナチス・ドイツ軍は急速なる進撃を黒人兵らは妨げた。ナチス・ドイツ軍の侵攻の途上で、特に有色人種の黒人兵は捕虜になっても、処刑されて虐殺された。ナチス・ドイツ軍の敵部隊であるフランス軍は、すべて排除されるか後退を強いられた。特に有色人種である黒人兵を排除するために、無差別で無法な私刑を加えて虐殺した。アンジェストの街にて、虐殺された多数の黒人兵の死体が散乱した。フランス軍の黒人兵である場合には容赦なく残虐行為を加え、多くを射殺した。黒人兵はフランス軍の植民地兵、主にアルジェリアやモロッコ出身の黒人兵であった。フランス軍にはかなりの割合で黒人兵士達による部隊があった。ナチス・ドイツ軍は捕虜に対する虐待に直面しても、ジュネーブ条約の規制を保持しなかった。アメリカ軍、フランス軍、イギリス軍であった黒人兵士は、強制収容所または捕虜収容所で虐待と虐待により死亡した。投獄されなかった黒人は、親衛隊またはゲシュタポにより即座に虐殺された。黒人捕虜は、白人捕虜よりも厳しい虐待と虐殺を受けて、食料も少なく、ほとんどの白人捕虜は投獄されても、黒人兵士の多くは、虐殺か処刑まで強制労働した。
 1940年6月のフランス軍の敗戦中に、ナチス・ドイツ軍はボワ・デレイン近くで捕らえたアフリカ人兵士と白人の将校を虐殺した。さらに約10人のフランス軍アフリカ人がリヨン近くで殺害された。6月にエルキビレ近くで捕虜にしたアフリカ人黒人兵士を虐殺した。ナチス・ドイツ軍は、「劣等な人種はドイツ人の文明人種との戦いに値しない」と喧伝した。1940年の西部戦中に、ナチス・ドイツ軍はフランス軍から数千人のアフリカ黒人捕虜を殺害した。殺害を命令または容認するドイツ軍は、伝統的な有色人種である黒人男性の軽蔑した。ドイツ国民は解き放たれたフランス軍の黒人兵士に対する大規模な宣伝によって殺害を承認した。しかし、この「プロパガンダによる許可」は大きな矛盾を含んでいた。ソ連軍兵士に対する東部戦線に対して殺害が横行したように、ナチス・ドイツ軍と親衛隊は「生存が望ましくない」囚人の殺害のために特定の命令が必要であったと結論付けた。ヴィシーフランス政権に対抗して樹立された自由フランス軍も,フランス人兵士よりも,セネガルなどアフリカ出身の黒人兵士が多かった。自由フランス軍はフランスに亡命した黒人兵士が主流であると装われた。自由フランスの黒人兵士と植民地兵士は,連合国の中でも過小に卑下された。