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2023年1月21日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。中央に映る十字架は、中町天主堂であり、その周辺は悲惨にも崩壊していた(山端康介: 撮影)。

 1945年8月9日11時2分に、長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、約2.5キロ離れた中町教会を襲撃した。爆風によって天井が崩落し、柱も傾いた中町教会に港側から炎上して、瞬時に火達磨となった。西中町天主堂(現在の中町教会)は、十字架の尖塔と外壁だけを残して焼け落ちた。中町は二次火災による焼失地域で、長崎原子爆弾の熱線が可燃物に引火して、直後に自然発火して大火災が勃発した。長崎市内は原子爆弾の投下して炸裂後に、何日間も砂埃と灰に覆われたが、広島市内のような放射性降雨の黒い雨は降らなかった。

 明治時代に、長崎市街地には大浦天主堂の他にカトリック教会がなかった。初代の島内要助神父は殉教の歴史の長崎に、日本人のための教会を建てるために、1889年の暮れにキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である中町に設立した。1891年8月に建設に着手し、1897年9月8日にカトリック中町教会が完成した。長崎原子爆弾に被爆して崩壊した中町教会は、献金や信徒たちの奉仕により、1951年10月にその外壁と尖塔をそのまま生かして再建した。

 1945年8月9日に、西部軍報道部員の山端庸介は、命令を受けて福岡県福岡市から原子爆弾が投下して炸裂した長崎市に向った。8月10日未明に、長崎市内に入るとまず長崎地区憲兵隊本部に向かった。長崎市内の状況を把握して、撮影の許可を憲兵隊から受けて、被爆翌日の8月10日から長崎原子爆弾の約100枚もの写真撮影がはじまった。西部軍司令部は、1940年から1945年まで中国・四国・九州地方の防衛のために、福岡県福岡市などに設置された大日本帝国陸軍で、軍管区内の軍隊を指揮・統率した。





2022年12月24日土曜日

新興善国民学校の2階は、学校の教室がそのまま長崎原子爆弾の仮設病院になっていた。1945年9月上旬に未就学児とその家族が入所して手当を受けていた。

新興善国民学校の2階は、学校の教室がそのまま仮設病院になっていた。1945年9月上旬に未就学児とその家族が入所していた。新興善国民学校は、特設救護病院となった。入院して床の上に敷いた布団で被爆者の子どもが手当を受けた。顔面から頭部に火傷していた。朝日新聞西部本社のカメラマンだった富重康夫が1945年9月上旬に撮影した。

 長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日午後に、針尾海兵団の救護隊約249人が集結して宿泊した。医療材料や関係者も参集して、長崎市民が治療を受けにぞくぞくと集まった。約4列に寝かせて1教室あたり約60人を収容して、1階から3階までで数百人が収容された。しかし、収容された被爆者は次々に死亡し、入院患者は詰め寄った。 

 新興善国民学校は長崎原子爆弾による炎上から免れて、鉄筋コンクリートで堅固だった。原子爆弾が炸裂した直後から救護所として使用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として活用された。新興善国民学校は、医療救護などの救護所の一つであった。爆心地の周辺では、長崎医科大学や救護所が崩壊したので、南に約3kmの新興善国民学校に被爆者が殺到した。8月17日から約15日間で、約8,000人の被爆者が治療を受けた。

 敗戦の翌日の8月16日に、新興善救護病院となった。1945年10月から1951年12月まで、坂本町で原爆で壊滅した長崎医科大学付属病院の仮施設となった。1952年に新興善国民学校の跡地は、長崎市立新興善小学校が開校した。1997年に統廃合で閉校して、2008年1月5日に長崎市立図書館が開館した。長崎市立図書館の1階に、救護所メモリアルに新興善国民学校を再現した遺品が展示されている。



 

2022年12月10日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。

 長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。途中で木製の杖にすがって立ち上がろうとするも、すぐに膝を地面に着きながら徘徊した。長崎市茂里町と川口町の間の県道上の地点であった。

 アメリカ大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、1945年8月9日午後10時(ワシントン時間)に、人類史上最初の原子爆弾の投下をホワイトハウスからラジオ演説を行った。この時には、すでに2発目の原子爆弾が長崎市で約11時間前の8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂していた。演説は非常に長く、そのほとんどがドイツ軍に戦勝した演説であった。

 長崎原子爆弾を投下して炸裂した8月9日に、ラジオ演説で、人口約25万5千人ほどの港町で軍事基地がある広島市と表現した上で、人類最初の原子爆弾の投下して、アメリカ軍の若者の殺害をできる限り避けたと語った。

「最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことは、世界に注目されるでしょう。私たちはドイツ軍との発見競争に勝利した。私たちは、戦争の苦しみを短くするために、何千何万というアメリカの若者の命を救うために、それを使用した。私たちは、日本の戦争する力を完全に破壊するまで、それを使い続けるだろう。」(The world will note that the first atomic bomb was dropped on Hiroshima, a military base. We won the race of discovery against the Germans. We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war.:

https://www.presidency.ucsb.edu/documents/radio-report-the-american-people-the-potsdam-conference) 

 広島原子爆弾は軍事施設から遠く離れた市街地に8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。広島市で死亡した人の約85%は民間人であり、約14万人の男性、女性、子供のうち約12万人が犠牲になった。原爆は街の10分の9を焼失させ、全人口の半分以上を殺した。






2022年10月22日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが呆然と立ちすくんでいた。

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約2.4kmの長崎市西坂町の周辺は瓦礫の山となった。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の8月10日早朝に、西坂町の焼け跡に生存した長崎市民らが至るところで呆然と立ちすくんでいた。長崎原子爆弾は、8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市松山町東南東約90mの上空約503mで炸裂した。

 長崎駅前の西坂町から北へつらなる丘陵を見あげると、階段状に住宅が丘の上までつらなっていた。そのほとんどが焼失してしまった。被爆直後に、被災した工場群の従業員の多くは、この丘の上へ避難した。「ほとんどがはだしで、全身血に染まった者、やけどをして顔や手足がはれあがり、真っ黒くなって歯だけは白く見える者、 「水を・・・・」といいながら、くずれたようになってはい回る者、砲台山をめざして、えんえんと続いていった」(『長崎原爆戦災誌』第2巻)。

 斜面にならぶ家々は倒壊し、ところどころ火があり、それらが狭い道をふさいで、歩行は難渋をきわめた。その後「平坦地域をなめていた火災は、次第に山の手に燃え移り、午後になって燃え出した家もあり、夜に入っても、きつね火のような火災が続いた」(同上書)。翌日の8月10日の早朝である。画面を部分的に拡大してみると、焼けだされた人びとが、余燼のくすぶる焼け跡に立つ姿が、至るところに見出された。

 西坂町は、爆心地から約2.0〜3.0kmに区分されて、準焼失地域に区分された。長崎町の西坂公園には、日本二十六聖人殉教地がある。1957年2月5日に、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって、フランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人がの26人を、西坂の丘で磔にて槍で刺殺する死刑に処した。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に類似した。長崎市の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく死体が、道路の脇や川底などに夏日に散乱した。進駐したアメリカ軍は、爆心地近隣の浦上川沿いに飛行場を設置するために、死体と遺骨が散らばる町をブルドーザーで整地を始めた。遺骨の惨状を憂えた長崎市民らによって遺骨収集が始まった。1946年3月からは長崎市西坂町にあった東本願寺長崎説教所(当時)を中心に、長崎駅から大橋、住吉等まで遺骨を丹念に拾い集めた。





2022年10月15日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mの浜口町の北端は崩壊して廃墟となり、炸裂した翌日に、長崎県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の婦人が見守った。

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mである長崎市浜口町の北端の周辺地域は崩壊して廃墟となった。1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて長崎市内で炸裂した。その翌日の1945年8月10日午後1時頃に、長崎県の県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の長崎市民の婦人が見守った。

 爆心地の松山町の近隣であった浜口町の北部一帯(現 平野町)は、かつては高台の閑静な高級住宅地であった。原子爆弾の炸裂後に発生した火球の中心温度は、摂氏数百万度以上に達した。人間と環境をすべて抹殺する核兵器が人類史上に2番目に長崎市で炸裂した。市民にも多くの犠牲者を出した長崎原子爆弾の惨禍を展示する長崎原爆資料館が、爆心地の近隣の長崎市平野町7番8号の爆心地の松山町を望む高台にある。

 長崎市の爆心地周辺では、何の罪もない民間人が息絶え、地上の建物は火炎に包まれ、あらゆる生命は死滅した。地上は灼熱のために、救護隊の接近も数時間後も遅延した。死体は真っ黒に焦げて炭化した死体は、バラバラと崩れ去った。




2022年10月8日土曜日

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年は、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわった。

1945年9月上旬に、長崎原子爆弾に被爆した少年が、長崎市興善町の新興善国民学校に設置された特設救護病院に入所していた。臨時救護所となった新興善国民学校の床に敷かれた布団に被爆した少年は横たわり原爆症により衰弱していた。医療関係者が参集して、終戦直後の8月10日に、新興善救護病院となった。1945年8月から10月まで、長崎原子爆弾により被爆した数千人の被爆者を収容し加療した。

 爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、救護所の病室として使用された。鉄筋コンクリート3階建て、被爆で窓ガラスが割れて、熱線が壁を焦がす被害を伴ったが、倒壊や焼失は免れた。周辺地域は、長崎原子爆弾により発生した二次火災によって、広い範囲にわたり類焼して焼失していた。強固な鉄筋コンクリート建てで、被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日頃は、悲惨な救護所となり、まだ患者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、顔は男女の区別もつかず、次々に入院した被爆者は死亡した。手当てする医薬品、衛生材料もなく、港から海水を汲んできて、ドラム缶で煮沸し、寝ている患者にじょうろで散布した。

 1945年10月には、長崎市坂本町で原爆で壊滅した長崎医科大学付属病院の仮施設となり、新興善国民学校に医科大学附属医院を開設して診療を開始した。1946年5月に新興善国民学校を医科大学附属第一医院として、元佐世保海軍病院諫早分院(諫早市)を医科大学第二医院として診療開始した。1950年に新興善小学校に外来診療を設置した。1958年6月に外来診療所を坂本町の本館に復帰した。戦後の新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。市民の強い要望で一部が残され、救護所が再現された。




2022年9月17日土曜日

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、炸裂後に約6週間後にアメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。




2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

 長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。



2022年8月27日土曜日

長崎市香焼島の川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日に長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後に原子雲・きのこ雲が白黒撮影されて、AIで人工的にカラー化した。

長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日午前11時2分に投下された長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後にきのこ雲が撮影された。長崎市南西部の香焼島は、爆心地から約9.4kmであった。地上から最も早期に原子雲を松田弘道が撮影した。香焼島から、やがて長崎市全体から真っ黒い煙が立ち上り、その煙は次第に真っ白に変わり、上空へ昇るにつれて真紅に染っていくのがみえた。やがて爆心地辺りからきのこの煙が天高く上っていくのがみえた。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡して、約36%の建物が全焼・全半壊した。

 主にカラー化した写真素材は、第二次世界大戦に関連する写真を集めたWebサイトWorld War II Databaseや米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリック・ドメインとして公開しているものを活用した。カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールやDeepAIといったAIツールを使用した。入力による色補正は、Adobe Photoshopを使用した。



 一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は困難である。原子爆弾の投下によって発生したきのこ雲も、AIツールのみでは通常の入道雲と同様、全て白色でカラー化されてしまう。当時の資料や人々との対話をもとに、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは手作業で色補正した。AIによる色付けは完全ではなく、当時の記憶から人工的に補正を繰り返してモノクロをより記憶に近いカラーにするのが現状である。長崎原子爆弾の炸裂により発生した原子雲・きのこ雲のカラー写真は、2021年8月に大矢正人氏(長崎総合科学大学)の指摘をもとに、さらに人工的な色補正を加えた。




2022年8月13日土曜日

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。長崎の原爆による甚大な被害は、特に浦上川流域にほぼ限定されて、その他の地域は丘に守られた。浦上地域には、長崎原子爆弾の炸裂から数日後には生活を維持しようとする被爆者が活動と参加していた。  

 長崎原子爆弾(通称、ファットマン)が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市内の上空で炸裂した。原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度約9,600mの上空から、広島に次いで第2号となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎市内に投下した。長崎市内も、一番目の爆撃目標都市の小倉と同じく雲に覆われた。スウィーニーは、すでに燃料は沖縄基地までの状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒で、トーン・シグナルが作動して、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒、はからずも爆撃手であるビーハンが、雲の切れ間から長崎市街の一部がわずかに見えて、「街が見える」と叫んだ。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)の中間地帯だった。長崎原子爆弾の投下は目視爆撃による投下目標となった。

 長崎原子爆弾の炸裂は、目標の工業地帯からおよそ約500~600m北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。爆発点の高度は、約503m~±10mと信頼度の高い数値が推定された。炸裂と同時に空中の一点に摂氏数千万度もの火球が発生して、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間に直径は約30m、温度は摂氏およそ30万度になり、火球は百分の一秒から一秒の間に直径約100m~280mに達した。火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間に外部に甚大な被害を与えた。

 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの赤外線であった。地上物質の表面温度は、原爆の直下では約3,000~4,000度にも達したと推定された。爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。




2022年7月30日土曜日

長崎原子爆弾の翌日8月10日朝に、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町では、警防団の救援隊がかけつけ被爆者に配給をした。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて長崎市内で炸裂した。翌日の8月10日の朝になって、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町付近では、ようやく警防団の救援隊がかけつけた。炊き出しのおむすびなどを配給をし始めた。町内の警防団は、非常時の町内の炊き出しのため窯を作りに使役に出て働ていた。その他に、警防団は、がれきの中から死体を運び出す作業に追われた。8月9日夕方近くから近郊の大村海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊が長崎市内に入った。長崎周辺の警防団員が集められて長崎市内に救援に参集した。被爆者は警防団の人たちに手を貸りて、救護所に運び込まれた。長崎市内まで作業に行った警防団には、早くに原爆症で死亡者も出た。死体の処理作業や海中や焼跡など部分的な処理作業が続けられた。

 1945年8月9日に、アメリカ軍のB-29爆撃機ボックズ・カーはプルトニウム爆縮型の原子爆弾を搭載した。ファット・マンと呼称した原子爆弾を搭載して、テニアン島を出発した。第一目標は、小倉工廠であったが、小倉上空に到着してみると地上の激しい靄と煙に覆われていた。B-29ボックスーのパイロットであったチャールズ・スウィーニーは、第二目標である長崎の三菱魚雷工場に転換した。長崎市に住んでいた約28万6千人のうち、約7万4千人が死亡、約7万5千人が重症を負った。

 1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に2発目の原爆を投下し、日本はついに8月15日に無条件降伏に陥った。悪天候が予想されたために、8月9日に投下される計画になった。午前1時56分、スウィーニー大佐の指揮のもと、B-29爆撃機の特別仕様機ボックスカーがテニアン島から離陸した。長崎原子爆弾は8月9日午前11時2分に、上空約500mで炸裂した。爆発は、約2万2千トンものTNT火薬の威力であった。街を囲む丘が破壊力を軽減したが、爆風と熱線で死体が消滅し記録も破滅して、約6万から8万と予測された。原子爆弾のマンハッタン計画の責任者であるレスリー・R・グローブス将軍は、8月17日か18日までにもう一つの原子爆弾を日本に対して投下して炸裂させる準備ができていたが、日本の無条件降伏で投下の必要はなくなった。






2022年7月16日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒され崩壊して、外には死んだ馬の死体が横たわった。

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒されて崩壊した。分厚い鉄筋コンクリートの階段が一瞬にして崩れた。約1,400人の関係者が被爆死した。長崎三菱製鋼所の外には、死んだ馬の死体が横たわっていた。15歳で被爆した松添鶴次が働いていた地下の魚雷兵器工場は、爆心地から約2.3kmもあり比較的無傷であった。

 松添鶴次は、長崎原子爆弾の被爆時は15歳あった。長崎市内の爆心地から約1.8kmの長崎市大橋町にて、長崎師範学校の学生寮で直接に被爆した。兵器工場で学徒勤労して夜勤上げで寄宿舎に戻っていた。熟睡している時に、1945年8月9日午前11時2分に原子爆弾が投下され炸裂した。寄宿舎の周囲の壁は崩れて、白い粉の埃が回った。突如にまるで火の粉を振りかけられ、慌てて白い粉を払い除けた。玄関に通じる廊下の窓が粉砕して、窓から飛び降りて外に出た。瞬間的に高圧を受けて疼痛を伴った。

 学校の敷地を出たら、芋畑の中を走り抜けた。近隣に両側が崖となる防空壕に逃避した。多数の地域の避難者が防空壕に逃げ込んだ。右上腕から胸に大火傷して、皮膚が腫脹して水疱が発生した。その後にはケロイドが膨隆して、右肘関節と右手関節が拘縮した。

 原子爆弾が投下されて約1時間半後に、長崎師範学校と寄宿舎も炎上した。寄宿舎の中では、倒れた柱の下に挟まれて身動きできず炎上に巻き込まれた。助けてくれと叫びながら焼死した。学校の周囲の長崎市大橋町から爆心地にかけて、全域から煙が立ち上った。金毘羅山から稲作山には真っ黒な雲が立ち上った。長崎の浦上駅から長崎駅にかけて全域が燃えた。治療の油を求めて学徒勤労した住吉トンネルの地下工場に向かった。その途上の電車通りに出て、道ノ尾方面に赤迫まで徒歩した。出血が浴衣まで染めて貧血状態でいた。長崎医科大学前の電車通りには、多数の重症の被爆者が道ノ尾方面に救護を求めて死の行進をした。長与国民学校に列車で避難した。校庭は死体安置所となった。長崎原子爆弾が投下されて2日後に、父親とともに川棚町の実家に戻った。松添鶴次は戦後に新聞記者に勤務した。退職後に、川棚史談会にて長崎原子爆弾の被爆体験を戦争史として文章化した(長崎平和推進協会)。




2022年3月26日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日には、鎮西学院中学校の焼け跡があり、援護義勇隊が担架を担いで道ノ駅に向かって、地域住民は被爆地を見渡しながら探索した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に落下して炸裂した爆心地である松山町の交差点から約750m地点である。翌日の8月10日午後2時頃には、右奥には鎮西学院中学校の焼け跡があった。学生の援護義勇隊のグループが、担架を担いで北方の救護所がある道ノ駅に向かって行進した。その他に地域の住民らが、周囲の被爆地を探索して見渡しながら独歩していた。長崎本線の鉄道の右側の小高い丘の上にある崩壊した4階建てのビルは、鎮西学院中学であった。

 鎮西学院中学校(現在の活水女子中学・高等学校)は、浦上川を眼下に見下ろす小高い丘の上で、爆心地から南西約500mと被爆距離が近く、校舎その他が全滅した。職員9人と生徒約130人(即死が約68人と後日死が約35人)が被爆死した。校舎は鉄筋コンクリート4階建で、4階が全部崩壊、3階は爆心に面した北側半分が崩壊し、火災により各階の内部が焼失した。雨天体操場、武道場、寄宿舎(2階建)の木造建築物は、倒壊して全焼した。校内にあった三菱電機及び三菱製鋼の二つの疎開工場も壊滅した。

 長崎原子爆弾は、長崎市の工業地帯を爆撃の目標として、南の三菱長崎製鋼所と北の三菱浦上製錬所(魚雷製造所)のほぼ中間地点で炸裂した。後方中央の煙突は、三菱長崎製鉄所の一部であった。爆心地から南1.4kmに所在した三菱長崎製鉄所の従業員の犠牲者は、8月9日の出勤者である1,721人のうち死者は約1,406人(69%)にものぼった。死者の1406人の内訳は、会社員が189人、工場労働者が728人、工場実習生が118人、新規学徒動員が122人、女子勤労挺身隊労働者が26人、動員された学生が223人(教員を含む)であった。

 三菱長崎製鉄所の工場は爆心地から約750mで主要建物は全壊し、瓦礫の中から数本の煙突と第4工場などの立ち上がった骨組みだけが残存した。産業機械も大きな被害を受け、ほとんどの機械が使用不能となり、工場は生産能力を失った。工場の建物は、硬い鉄骨がシュガークラフトのように溶けて、完全に折れ曲がった。北側の窓のサッシは、内側へ向かって陥没した。周囲から被爆者が次々と運ばれてきて、畳を敷き詰めた床の上に寝かされた。




2022年2月12日土曜日

1945年9月20日頃から長崎で原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付き救護活動をした。

長崎原子爆弾の炸裂後の3日後から長崎医科大学の第11医療隊で、永井隆は被爆者救護の診療をした。永井隆は三ツ山の借家の救護所にて1945年10月頃に撮影された。9月20日頃から原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付きながら救護活動をした。

 永井隆(Takashi nagai,島根県出身,1908年2月3日~1951年5月1日)は、長崎原子爆弾で被爆した放射線科医師であり、浦上の聖人と呼称された作家である。戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足でも透視を続け、1945年6月にX線被曝による白血病と診断されて余命3年の宣告を受けた。日中戦争で1937年7月から広島歩兵連隊の軍医として中国に出征して、日本に帰国した1940年2月頃に発病と推定された。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下された。原爆投下時に、長崎医科大学病院の放射線科に勤務して、右側頭動脈を切断する重傷を負った。他の医療スタッフと共に原爆被害者の治療に専念した。8月11日に永井は妻が死亡して破壊された自宅を発見した。9月20日頃に原爆病が発現して、傷が壊死して始め高熱が続き昏睡状態に陥って、一時的に危篤となった。1945年10月15日に爆心地近隣の浦上に戻り、6畳ほどの小屋を建て、家族と一緒に留まった。1947年に聖ビンセント・ド・ポール協会(SSVDP)が、2畳の茶室の建物を建て、永井は「如古堂(Nyokodo)」と名づけ晩年は祈りと思索にふけった。

 永井は教育活動も再開し、本の執筆も始めた。最初の作品「長崎の鐘」は、原爆投下1周年の1946年8月までに完成した。『長崎の鐘(The Bells of Nagasaki)』は、GHQ側の検閲から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本の条件で、1949年1月日比谷出版社から出版された。

 1946年7月に長崎駅のホームで倒れて、体が不自由になり、以後寝たきりになった。1951年5月1日午後9時40分頃、永井は意識を失った。心肺蘇生剤した後、午後9時50分に43歳で病死した。翌日、遺言により病院で検死が行われた。脾臓は3,410g(正常値は94g)、肝臓は5,035g(正常値は1,400g)に膨れ上がった。




2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

  中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)































14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。

2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日に後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。




2021年11月6日土曜日

長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内に、死亡した被爆者を火葬して、引き取り手のない無縁の遺骨を安置所に集積した。

 長崎原子爆弾により新興善特設救護病院内にて多数の被爆者が原爆病で死亡した。被爆者を火葬して、その遺骨を安置所に集積した。遺骨を引き取る身内もなくて、残された遺骨が保管された。新興善国民学校に仮設された病院内には、火葬された犠牲者の遺灰骨が入った多数の骨箱が並べて一時的に保管された。学校の教室が病室として活用された。

 新興善国民学校には、仮設された救護所に、移送して運び込まれて収容された被爆者が充分な治療も受けられず次々と死亡した。救護所内には、被爆者で密集してうめき声と蒸し暑さ、悪臭がて漂った。焼けただれて、衰弱した被爆者の体を蝿が飛び回り、うじ虫がはい回り体を食いちぎった。医薬品も不足し、手当てらしい手当ても望めなかった。死体は救護所内の安置所から運び出されて、空き地で昼夜なく火葬されて、遺骨は一時的に安置所に保管された。火葬されて遺族と再会できないまま、安置されている遺骨は数多い。各地で埋葬された身元不明の遺骨が、たびたび発掘されてきた。1947年に爆心地付近に原子爆弾駒場町殉難者納骨堂を町内会が設置して、1951年5月に慰霊施設を増設した。1958年3月に平和公園の平和祈念像の西側に長崎市原爆死没者慰霊納骨堂が建立されて、各地の遺骨を長崎市が引き取って地下に安置された。

 長崎市の平和公園にある長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂には、長崎原爆で無縁仏となった遺骨約8,964柱が安置された、そのうち氏名判明した遺骨は約122柱で。その他はほとんどは誰の骨かも分からない。長崎市では、氏名が判明していながらも、引き取り手のない無縁遺骨を引き渡すために遺族調査を行っている。遺族と無縁のままに、安置される遺骨は数多い。各地で火葬して埋葬された身元不明の遺骨が発掘と収集されている。















新興善特設救護病院内の遺骨安置所


長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂

2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。










2021年9月18日土曜日

新興善救護所に入所した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫び、口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。

新興善救護所に入所した長崎原子爆弾に被爆した男子の被爆者は、原爆症の傷口が猛烈な疼痛と高熱で泣き叫んだ。顔面から口唇周囲に深い潰瘍と壊死を伴った。傷口もわずかに湿らす程度であった。周囲の被爆者は次々に死亡して救護所外で死後処理されて、被爆者は常に死の恐怖を伴った。

 新興善救護所は爆心地から、南南東に約3kmの地点であった。長崎原爆戦災誌によると、被爆翌日の8月10日に海軍の派遣救護隊が到着した。医薬品も衛生用品も十分でないまま、衛生兵や日赤看護師が治療に当たった。近隣から数百人規模の救護隊が駆けつけた。3階建ての救護所には、連日に被爆者で溢れ、瓦礫が散乱して足の踏み場もなく、不眠不休の救護をした。8月末までの約2週間に約8,000人が手当を受けた。被爆者は原爆症により泣きわめいた。医薬品が不足する中で、火傷もわずかな手当でそのままとなる。外傷もぶらぶらの状態となり、夏場で蛆虫が集った。

 長崎原子爆弾で壊滅した長崎市は、崩壊した長崎医科大学の代賛として市内最大の救護所となった。1936年に新興善国民学校が建てられた鉄筋コンクリートの建物は、原爆の爆風で窓ガラスが粉々になるも、倒壊を免れて救護所になった。それ以後6年間は長崎医科大学の臨時の特設救護病院となった。長崎市立新興善小学校は、1997年に統廃合で閉校した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。長崎市興善町に2008年に長崎市立図書館が設立された。かつて新興善国民学校が戦前には建立されていた。長崎市立図書館の中に、救護所メモリアルとして一部を再現した。




2021年9月11日土曜日

アメリカ週刊誌Lifeは、防空壕に入り長崎原子爆弾から無傷で不似合いな笑顔を浮かべ幸運の少女を美化してアメリカ国内に公表した。

アメリカ週刊誌「Life」(1952年9月29日号、26頁)は、「警報後に防空壕に入り、すべて異常なくなるまで出所しないで、無傷で不似合いな笑顔を浮かべながら幸運の少女が防空壕から這い出てきた。」と長崎原子爆弾に被爆しなかった幸運な少女と美化した。日本軍報道部員であったは山端庸介は、被爆を免れて瓦礫にいた少女に向かって、塹壕に入ってカメラに向かって微笑むように依頼して撮影した。長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日の早朝に、爆心地から南南東2.5kmの中町天主堂付近で少女を撮影した。原子爆弾の二次火災による焼失した地域であった。原子爆弾の熱線が可燃物に引火して潜伏して、その後に自然発火して大火災に発展したと推定された。
 山端庸介ら報道部員は、8月10日午前3時ごろから、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で、8月12日までに爆心地周辺など約100コマを越える写真を撮影した。8月12日にフィルムを現像するも、写真の撮影を戦時中に守秘した。
 1945年7月に山端庸介は、福岡県福岡市の陸軍西部軍管区司令部に報道部員として徴用された。新型爆弾(原子爆弾)が広島に投下された8月6日に赴任した。8月9日に長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受けた。軍艦司令部から、対敵宣伝に役立つ悲惨な状況を記録する指令されて、作家の東潤、画家の山田栄二、写真家の山端庸介ら5人の報道部員が長崎県長崎市に探索に向った。8月10日午前3時頃に、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着した。その地点で列車は不通になって、焦土と化した長崎市内の被災地を徒歩にて縦断して、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いていた。
 傷つき、ほこりをかぶった写真のコレクションが、遅延信管爆弾のような衝撃を日本に与えた。日本は初めて、広島と長崎に原爆が投下された人々に何が起こったのかを示す視覚的な証拠を目撃して、衝撃を受けた。アメリカで初めて出版されたこの写真集は、自らが原爆に巻き込まれるという非論理的な恐怖の中で、あるいは原爆に巻き込まれた被爆者の世話をする恐ろしい仕事の中で生きている全ての人々にとって、今日のニュース写真のような即時性を持っている。
 世界中の人々と同様に、日本人も原子爆弾による破壊の物理的事実、死亡者数の統計、きのこ雲の下で起こった物語しか知らなかった。しかし、例外を除いて、5人の日本人写真家らが、原爆投下後の恐怖の数時間に撮影した写真は、約7年間の占領期間中、厳格なアメリカ軍の検閲によって極秘にされた。その間に多くの写真ネガが破損・紛失し、戦時中の粗悪な薬品で処理されたネガは使用不可なほど劣化した。しかし、1952年の初め、アメリカ軍の日本占領が正式に終了する前に、日本の新進気鋭に富んだ出版社が、まだ残存している写真の収集を始めた。1951年9月8日の講和条約が1952年4月28日発効されて、アメリカ軍の検閲が廃止された。出版社は急いで写真集3冊及び26ページの原爆記録写真が「アサヒグラフ」週刊誌に掲載された。一夜にして完売し、出版社から新版の注文が入った。
 対日講和条約が1952年4月28日に発効すると,原爆の惨禍を扱った出版物が続々と刊行される。日本では、悲惨なの原爆写真が新たな反米主義の波を引き起こすと懸念された。しかし、原爆写真の教訓は、広島と長崎を引き起こした戦争を始めた人々に対する嫌悪よりも、はるかに深い衝撃であった。長い間封印された原爆写真を見た人々は、平和主義、中立、いかなる代償を払っても平和を求める心から新たな叫びを引き起こした。ほとんど一声に近い形で、朝鮮戦争とロシアとの侵略の脅威により忘れられていた。長崎の原爆死没者慰霊碑では、10代の被爆者が「あの日、焼け焦げた死体の中を這いずり回りながら、喉の渇きから水を求めて叫んだように、私は今、『平和、平和』と叫びたいのです」と、世界共通の平和を訴えた。
 原爆被害の世界初公開と誇った「アサヒグラフ8月6日号」から、岩波写真文庫『廣島―戦争と都市』『原爆第1号ヒロシマの記録写真』。月刊誌『世界』『婦人公論』8月号は,東大病院・小石川分院で診察を受けた広島からの独身女性たちを取り上げた。さらに『改造』11月増刊号は「この原爆禍」と題して丸ごとの特集を組んだ。広島ではすでに6月,映画「原爆の子」(新藤兼人監督)。1952年はアメリカ軍の検閲の解放により原爆報道が明けた年となった。(国際平和拠点ひろしま)