2022年10月15日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mの浜口町の北端は崩壊して廃墟となり、炸裂した翌日に、長崎県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の婦人が見守った。

長崎原子爆弾の爆心地から南約250mである長崎市浜口町の北端の周辺地域は崩壊して廃墟となった。1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて長崎市内で炸裂した。その翌日の1945年8月10日午後1時頃に、長崎県の県道のすぐ東側から、完全に瓦礫となった長崎市内の南南東方面を、防空頭巾を被ったもんぺ姿の長崎市民の婦人が見守った。

 爆心地の松山町の近隣であった浜口町の北部一帯(現 平野町)は、かつては高台の閑静な高級住宅地であった。原子爆弾の炸裂後に発生した火球の中心温度は、摂氏数百万度以上に達した。人間と環境をすべて抹殺する核兵器が人類史上に2番目に長崎市で炸裂した。市民にも多くの犠牲者を出した長崎原子爆弾の惨禍を展示する長崎原爆資料館が、爆心地の近隣の長崎市平野町7番8号の爆心地の松山町を望む高台にある。

 長崎市の爆心地周辺では、何の罪もない民間人が息絶え、地上の建物は火炎に包まれ、あらゆる生命は死滅した。地上は灼熱のために、救護隊の接近も数時間後も遅延した。死体は真っ黒に焦げて炭化した死体は、バラバラと崩れ去った。