2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

 長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。