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2022年6月22日水曜日

1939年の日ソ停戦協定後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が自軍の戦死者の死体を回収して、悲壮な死体処理と黙祷が撮影された。

1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 ノモンハン事件と呼称されるハルハ河・ノモンハン戦争が、1939年5月11日から勃発した。日本・偽満州国軍が外モンゴル辺境地域のノモンハン・ブルド・オボー地域のモンゴル軍警備隊を5月11日に襲撃したのが起点となった。5月24日にソ連軍がモンゴルに参入して7月からソ連・モンゴル軍が結成された。日中戦争下において、外モンゴル人が武力によって日本満州軍の侵略に対抗した。ハルハ河・ノモンハンで砲火を焦がして、非常に厳しい戦闘が長期にわたり継続した。武力では優勢でなかったソ連・モンゴル連合軍が反撃した。モンゴルと満州の国境地域であるハルハ河東部で、日本満州軍を撃退した。1940年8月16日にモスクワで日ソ停戦協定が調印されて停戦した。

 日本防衛省史料室は、2013年2月に約2万点のハルハ河・ノモンハン戦争の関連資料を公開した。写真・映像資料は、軍の意図的なプロパガンダを容疑されるが、細部まで鮮明に撮影された写真・映像資料は視覚的な歴史記録であり、臨場感も高く真実に強く迫る。無声の映画資料「日本軍の遺骨,1939年」が、ドキュメンタリー映画「ハルハ河の英雄」の作成元となった。1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 1939年5月から9月の激闘で、日満軍の戦死者は約18,155人、戦傷・行方不明は約3,534人に上った。ソ連軍は、戦死者は約9,703人、戦傷病者し15,952人に及んだ。モンゴル軍は、死傷者は約990人に上った。 1939年9月15日にハルハ河・ノモンハン戦争に対して、日ソ停戦協定が成立した。9月27日と9月29日、1940年4月27日に、日満軍とソ連モンゴル軍は、捕虜交換した。1941年4月13日に、モスクワで日ソ中立条約が締結された。





2022年6月17日金曜日

オランダ軍により、征服されたインドネシアのアチェ・アラス地方のリカット村には、多数の虐殺されたアチェ人の死体が散乱した。

1904年に、オランダ軍のファン・ダーレン(Van Daalen)司令官が、アチェ地域のアラス地方を征服した。オランダ軍により、征服されたアチェ・アラス地方のリカット村には、多数の虐殺されたインドネシアのアチェ人の死体が散乱した。穀物倉と家の間に子供や女性の遺体が横たわった。ファン・ダーレンは、アチェ地方を征服するために、各地で残酷な虐殺を繰り返した。オランダ軍は、インドネシアを分断して、ジャワ人原住民を傭兵にして、アチェ地方を侵略した。1904年に、ファン・ダーレンはマレカウッセ旅団の増援を受けて、タノガヨ地域とアラス地域での紛争の打破を命じられた。その征服の遠征は、1904年2月8日に始まり、7月23日まで続いた。虐殺の犠牲者の数は、約2,992人で、その内訳は男性1,773人、女性1,149人であった。オランダ軍兵士の損失は約26人であり、ファン・ダーレンは昇進した。ファン・ダーレンは、反原住民的な占領、思慮も無く、先住民の拷問、密告者の殺害、政府と法律の違反など権力の乱用を繰り返した。

 オランダ人が、1596年に初めてコルネリス・ドゥ・ホウトマンの船舶が、インドネシアのバンテンに入国した。1602年から1799年に乱脈経営で倒産するまで、オランダの東インド会社が、インドネシアの植民地経営をした。その後に、オランダ政府が直接に、インドネシアを植民地化した。インドネシアの土着の支配勢力であったスマトラ最北端のアチェ戦争など、激烈な紛争が勃発した。オランダは、1900年代の初頭に欧米の近代兵器を駆使して、東チモールを除いたほぼインドネシア全域を征服した。

 1858年にオランダ軍が、インドネシアのシアック王国を保護領にして、中部スマトラから北部スマトラ地域を占領した。スマトラ北端のアチェ(Aceh)との対立が激化して、1873年に紛争が勃発した。長期間にわたる紛争が継続したが、1912年にアチェの全域が、オランダ軍に征服された。



2022年5月4日水曜日

1994年2月5日にセルビア反政府勢力がボスニア首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込み、殺害された犠牲者の死体が運び出された。

1994年2月5日に、セルビア反政府勢力は、ボスニアの首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込んだ。サラエボ市民が、その犠牲となり殺害されて、死体が運び出された。迫撃砲でサラエボ市民の68人が殺害され、約200人が負傷した。血、腕、脚、肉片がサラエボ市場に散乱した。国連安保理事会ではセルビア人反政府勢力に対する空爆決議が採択された。この決議は、ロシアがセルビア人反政府勢力と仲介して拒否された。その以後も、セルビア人反政府勢力に対する空爆は、内戦を解決する手段として国際的に注目された。

 1992年4月6日から勃発したボスニア紛争は、1994年3月にクロアチアとボスニアとが、ボスニアにムスリム人とクロアチア人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を創設することで合意した。ボスニア紛争で、ボスニアは兵士約31,270人と市民約34,723人が殺害され、クロアチアは兵士約5,439人と市民1,899人が殺害され、セルビア人は兵士約20,649人と市民約3,555人が殺害された。1995年には連邦化に反抗して孤立したセルビア人反政府勢力は、ボスニア東部からボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に迫撃した。1995年7月に、セルビア人反政府勢力は、スレブレニツァに侵攻して、ムスリム人を大量虐待と大量虐殺した。約8,000人のムスリム人男性が殺害されて、約4万人ものムスリム人の女性、こども、老人などがスレブレニツァの虐殺を逃れて避難した。国連の平和維持活動した約400人のオランダ軍は制止できなかった。

 1996年8月に、セルビア人反政府勢力が、再度にサラエボ市場に迫撃砲が打ち込んで、約35人が殺害されて死亡した。即時に、ボスニアの北大西洋条約機構(NATO)軍が、サラエボの東部と南部のセルビア人反政府勢力の陣地に、約3週間の空爆をした。セルビア反政府勢力の約20ケ所以上の基地を空襲した。1996年9月に、セルビア人反政府勢力は、ボスニア西部のビハチ付近から撤退して、周辺から約5万人のセルビア人が逃避した。ムスリム人が、ボスニアの中部と南部を奪還して、ムスリム人が迫害して、大量のセルビア人がバルニャルカに逃避した。9月20日に、セルビア人反政府勢力は、サラエボから撤退した。12月14日に、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦内に、ボスニア連邦とセルビア人共和国の自治政府を形成するデイトン和平合意が成立してボスニア紛争は停止した。




2022年3月11日金曜日

コソボ自治州のブリズレンの病院に、1999年4月14日にNATOの空爆による誤爆により、虐殺されたアルバニア人の死体が収容された。

コソボ自治州のブリズレンの病院には、1999年4月14日にNATO(北大西洋条約機構)の空爆による誤爆により、虐殺された犠牲者の死体が収容された。その死体置き場(モルグ)の床には、6つの死体が白い袋に包まていた。死後硬直を来した死体の中から、黒い血液が大量に滲み出ていた。射殺ではなくて、空襲の誤爆による爆死であった。最も小さい白袋は、血まみれのわずか7歳の少女の死体を包み込んだ。虐殺された少女は、アルバニア人の難民であった。セルビアにて難民となり、NATOの誤爆に巻き込まれて虐殺された。

 コソボからマケドニア、アルバニア国境を越えて、セルビアまで逃げて来たアルバニア難民は、セルビアにて猛烈な虐待や虐殺を受けた。そのアルバニア人に対する虐待と虐殺が、NATOの空爆を強烈にして、アルバニア人難民が誤爆に巻き込まれて逆に虐待と虐殺された。アメリカ軍は、高速で飛ぶ戦闘機が、爆撃する誤爆は避けられないので、多数を救うためには、少数を犠牲にするのは当然とした。イギリス軍は、コソボ紛争で巻き込まれる市民の犠牲は、すべてユーゴの責任に転嫁した。ブリズレン地域は、NATOは確実に軍事目標と民間目標の鑑別は、当然に可能な天候と見晴らしであった。NATOの戦闘機は、3台の民間耕作機を軍事目標として爆撃した。ブレズレン地域は、至る所にミサイルの瓦礫が散乱していた。

 NATOによるコソヴォ紛争に対するユーゴスラビア空爆は、1999年3月24日から開始されて、6月20日まで約78日間にもわたり勃発した。NATOの空爆には、13ケ国が参戦して、約26,614個が投下された。NATOは国連の明確な指導を受けずに、ユーゴスラビアの弱小軍事力を圧倒した。ハイテクの爆撃機で空爆して、NATOはほとんど犠牲者は皆無であった。コソヴォで多数を占めるアルバニア人に対して、セルビア民族主義のユーゴスラビアから抑圧と弾圧された。1998年2月から、ユーゴスラビア軍とセルビア軍が、コソヴォに侵攻して、次第に紛争が激化した。9月23日に国連の安保理決議は、ロシアにより拒否された。

 NATOは9月24日に警告行動を発令し、コソヴォでアルバニア人の虐殺事件でユーゴスラビアに警告した。ロシアと中国の安保理決議の拒否権の発動に対抗して、10月13日にNATOは行動命令を発令した。コソヴォ紛争が再燃して、1999年1月15日にラチャク村虐殺事件が勃発した。3月19日にユーゴスラビアとアルバニアの和平協議が頓挫した。NATOは、国連は武力行使は支持しない声明を排除して、3月23日に空爆の開始命令を発令して、3月24日からNATO空爆が勃発した。

 NATOは1995年に軍事力によりボスニアを迅速に圧倒できた過信から、コソヴォ紛争に対する空爆が長期化する誤算を引き起こした。ユーゴスラビア側は、和平案を拒否続けた。逆にユーゴスラビアが、アルバニア人国外追放で反撃した。NATOの圧倒的な軍事力が、逆にセルビア人の大量虐殺に至った。軍事力による勝利で解決する戦争ではなくなった。NATOは勢力を東方拡大するために、バルカン全体の領土の確保を追求した。




2022年3月6日日曜日

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発で、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。

1994年2月4日にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発に巻き込まれて、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。事件を聞いて病院にかけつけた親族が、自分の身内の死体を探索した。家族の死体を見つけた人々は絶叫した。首都サラエボのコソボ病院に、1994年2月4日にセルビアにおける市場に砲弾が被弾した。砲弾によるサラエボ市民の大量の死傷者が、トラックや自動車でコソボ病院に搬入された。コソボ病院だけで、死者は約80人と負傷者は約197人以上にも達した。

 マルカレ市場砲撃は、1992年4月から1995年12月までのサラエボ包囲戦で行われた最大の残虐行為の一つであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲中にスルプスカ共和国軍によって、民間サラエボ人を対象とした2つの砲撃である。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの歴史地区にあるマルカレ市場で勃発した。

 第一マルカレ市場事件は1994年2月5日に勃発した。約120mmの迫撃砲によって約68人が死亡して、約144人が負傷した。マルカレ市場では、負傷して死にそうな市民の体が絡み合い、壊れた屋台、散乱した市場の商品、子供のおもちゃなどが混沌とした。

 第二マルカレ市場事件は1995年8月28日に、スルプスカ共和国軍が発射した5発の迫撃砲により、サラエボ市民が約43人が死亡して、約75人が負傷した。ボスニア・セルビア人勢力に対するNATOによる空爆に起因して、最終的にはデイトン和平合意によりボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は終結につながった。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所 (ICTY) は、2006年のスタニスラフ・ガリッチの控訴審判決で証拠を整理し、砲弾はセルビア人勢力に占領した場所から砲撃したと認定した。

 ボスニア戦争は、1992年4月26日から1995年12月14日にボスニア・ヘルツェゴビナで起こった国際武力紛争である。ユーゴスラビア崩壊により、1991年にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から分離独立した。主にイスラム教徒のボスニア人(44%)、主に正教会のセルビア人(32.5%)、主にカトリックのクロアチア人(17%)が住む。ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国は、セルビア人議会は1992年2月28日に共和国憲法を採択した。セルビア民族の軍隊を動員し、民族浄化を伴う戦争が国全体に広がった。

 当初は、ボスニアのユーゴスラビア軍(後にスルプスカ共和国軍)、ボスニア人を主体とするボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)、とクロアチア防衛会議(HVO)のクロアチア軍による紛争であった。スルプスカ共和国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人の利益と保護のためにに1992年1月9日から1995年12月14日まで存続した。新たに独立したボスニア・ヘルツェゴビナ内の領土内で分離主義で反抗して、1992年から2006年まで存続した。主にボスニア・ヘルツェゴビナ系のセルビア人で構成されたVRSは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国防軍(HVO)とクロアチア軍部隊のボスニア人部隊の間で対立した。ボスニア戦争は激しい戦闘、都市や町の無差別砲撃、民族浄化、主にセルビア人、さらにクロアチア人とボスニア人の武力勢力によって組織集団的な虐待と虐殺が頻発した。セルビア人は、当初は軍事的に優位も、1994年のワシントン協定でボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の創設によって、ボスニア人とクロアチア人が連合して、スルプスカ共和国の勢力が喪失して、1995年12月14日のパリのデイトン合意で終結した。




2021年11月27日土曜日

広島原子爆弾で、建物内は燃え尽き、窓は吹き飛び、枠は曲がった袋町国民学校のコンクリート造りの西校舎は被爆者の救護所となった。

広島原子爆弾の被害の大きかった袋町国民学校の救護所は、残存した西校舎の設備が整わず階段下に治療室を設置した。翌日から医師約2人、看護師約2人の体制で、火傷、感染症、出産などの患者約350人に対応した。その後は被爆者が殺到した。教室は病室として使われ、毎日多くの人が原爆病で死亡した。運動場は仮設の火葬場になった。1945年10月初旬には、窓ガラスもない教室の中で被爆者の外来治療が実施されていた。1階は治療所と県医療団事務所、2階が県衛生課、3階が医薬品倉庫として使われた。袋町国民学校は、1946年春まで救護所として使用された。

 爆心地から約460mにある袋町国民学校は、広島原子爆弾の炸裂によって、甚大な被害を受けた。本川国民学校に次いで2番目に爆心地に近い学校であった。生徒数が約1,600人にも達していた学童は、原子爆弾投下時には、集団疎開や田舎の親戚や知人の家に避難していた児童は助かった。しかし、炸裂時に国民学校はいた約160人以上もの児童と約16人の教師は、ほぼ全員が即死した。奇跡的に炸裂時に地下室にいた3人の生徒だけが生き残った。唯一原型をとどめていた頑丈な鉄筋コンクリート造の西校舎を除いて、木造建築物は爆風と火災ですべて崩壊し、全焼した。

 可燃物が燃えて建物に火がつき、窓は吹き飛び、枠は曲がっていた、西校舎はまだ使えた。西校舎は避難所から救護所となり、生徒、教師、学校関係者、地域住民の安否を問う場所となった。被爆者や被災者の人々は、焼けた壁に伝言を残して、床にはチョークの破片が散らばっていた。袋町小学校は1946年5月からわずか約37人の生徒から授業が再開された。

 2002年に、老朽化した校舎の建て替えに伴い、被爆した校舎の西棟の一部が、袋町小学校平和資料館として保存された。伝言が書かれた内壁など、残存している被爆資料を展示している。広島市中区袋町にある平和資料館である。1945年8月6日に原爆が投下されたとき、同校は爆心地に最も近い学校の一つであった。数日後から国民学校は救護所となり、黒く焼けた壁は行方不明者を探すための伝言板となった。


















2021年11月10日水曜日

インド分離独立を巡る暴動により殺害されたイスラム教徒の犠牲者たちの死体がデリー市街の路上から撤去された。

インド・パキスタン分離独立により首都デリー全域でも暴動が勃発した。1947年9月16日にインド分割を巡る暴動により殺害されたイスラム教徒の犠牲者たちの死体がデリー市街の路上から撤去された。1947年の独立後に、デリーで勃発した分離独立騒動は、数千人のイスラム教徒の虐殺と約30万人の難民をもたらし、残されたイスラム教徒地域は人口的にも政治的にも深刻な打撃を受けて、少数民族としてゲトー化した。デリーの社会的な暴力に加えて、他の多くの要因がイスラム教徒を侵食した。分離独立の暴動が終わった後も暴力を支援した。

 1947年8月14日にパキスタン、8月15日にインドと2つのイギリス領土から独立した国家に分割された。ヒンドゥー教徒の多いインドと、イスラム教徒の多いパキスタンに分割された。何百万人ものイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタンに移住し、何百万人ものヒンドゥー教徒とシーク教徒が逆方向に向かったのだから、人類史上最大級の大移動が始まった。何百万人ものイスラム教徒が西・東パキスタン(現在のバングラデシュ)へ、何百万人ものヒンズー教徒やシク教徒が反対方向へと向かった。

 デリーは何世紀にもわたって、インドの歴代のテュルク系イスラム教徒が支配したムガル帝国の首都であった。一連のイスラム支配者がデリーを帝国の拠点として、デリーには膨大なイスラム建築が残存して、イスラム文化が浸透していた。1911年、英国統治時代に植民地の首都がカルカッタからデリーに移ると、都市の様式が変わり始めた。都市の中心部は、少数ながらも増加するイギリス人のニーズに応えるべく設計された。1941年の国勢調査では、デリーの人口は約33.2%がイスラム教徒であった。

 1947年になって難民を押し寄せても、デリーは難民の流入に対応する体制が整っていなかった。難民たちはどこにでも散らばった。1950年になると、政府は市内の特定の場所に不法占拠者が家を建てることを許可し始めた。しかし、パンジャーブから何千人ものヒンドゥー教徒やシーク教徒が避難してくると、インド・イスラム文化の拠点であるデリーでは、共産主義的なポグロムが発生して、大混乱に陥った。インド政府はデリーのイスラム教徒を排除した。陸軍部隊が罪のないイスラム教徒を公然と銃殺した。デリーでのイスラム教徒の犠牲者は約20,000人から約25,000人の間とされた。

 何万人ものイスラム教徒が無差別に難民キャンプに追いやられ、デリーの数多くの歴史的な場所が難民キャンプに変貌した。デリーの緊張が頂点に達した時に、約33万人のイスラム教徒がパキスタンに移住した。1951年の国勢調査では、都市のイスラム教徒の人口は1941年の約33.2%から1951年には約5.3%に減少した。




2021年11月3日水曜日

紛争で殺害したセルビア軍兵士の死体を、ボスニア軍が戦場からトラックで運んで、荷台からブルチコ郊外の農場に滑り落した。

ボスニア・ヘルツェゴビナの北部にて、1993年5月にボスニア軍はブルチコ郊外のラヒック村付近でセルビア軍兵士の攻撃を食い止めた。紛争で殺害されたセルビア軍兵士の死体は、ボスニア軍の戦場からトラックで運ばれてきた。ボスニア軍がセルビア軍兵士の死体を後方にトラックで運搬された。死体はトラックの荷台から滑り落ちて来た。運転手はトラックの窓から身を乗り出して後方を見た。トラックの荷台には、死体運搬用の手押し車があった。頭を垂れて死体が滑って、死体はまもなく崩れ落ちる。トラックの運転手に手で合図して、後方にある農場にトラックを向かわせて死体を捨てさせた。農場に捨てられたセルビア軍兵士の身元を確認されて、翌日にセルビア軍に死体は返還された。

 セルビア軍が支配する要塞都市ブルチコは、戦略的に重要な地域であった。ボスニア軍は、ブルチコをめぐり断続的な道路の奪い合となった。ボスニア軍がブルチコの道路を遮断すれば、セルビア軍はボスニアとクロアチアの一部を支配が困難となる。ブルチコをめぐる戦いは、ボスニア戦争の中でも最も激しい戦闘となった。1992年5月に、人口の75%以上を占めていたイスラム教徒とクロアチア人が強制退去させられた。1993年5月に、ボスニア軍は、ブルチコのセルビア軍に攻撃を仕掛けて、ブルチコの南を占領した。セルビア軍がボスニア東部からブルチコに移動していた。ボスニア軍には回廊を遮断しても、セルビア軍が戦車を使って奪い返してくる。ボスニア軍がブルチコの攻勢を成功させれば、ユーゴスラビア軍の本格的な参戦を促すことになる。ブルチコでは、セルビア軍は南にボスニア・ムスリム民兵、ボスニア・クロアチア軍の部隊が北西を固めている。ブルッコの真北にはサヴァ川を挟んでクロアチア共和国がある。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は旧ユーゴ連邦の一部を構成した。1991年当時の約430万人の人口の民族構成はボシュニャク(ムスリム,イスラム教)系約44%、セルビア(ギリシア正教)系約33%、クロアチア(カトリック教)系約17%だった。旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中で、1992年4月に同共和国の独立を巡って各民族間でボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。約3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を巡って、戦闘を繰り広げた結果で、死傷者約20万人(死者数は兵士約57,358人、市民約38,177人)、難民・避難民約200万人と推定される戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

 1995年12月に、デイトン和平合意の成立により戦闘は終結した。ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア系住民が中心のスルプスカ共和国という2つの自主独立体から構成される一つの国家(首都はサラエボ)となった。それぞれの自主独立体が独自の政府を有するなど分権化された。




2021年9月27日月曜日

アフガニスタン紛争の首都カブールで、アメリカ軍の空襲で殺害されたアフガニスタン人の子供たちの死体を抱いて泣く父親がいた。

アフガニスタン紛争により2001年10月28日に、アフガニスタンの首都カブールで、アメリカ軍の空襲で殺害されたアフガニスタン人の子供たちや隣人の死体を見て抱いて泣く父親がいた。アメリカ軍の空襲のよる1つの爆弾が命中した際には、1つの家族に属した8人の家族と2人の民間人の合計10人が一瞬に即死した。さらに別の爆弾が幹線道路の真ん中に着弾した際には、ミニバスに乗っていた2人の民間アフガニスタン人が殺害された。高度な殺人兵器により、アフガニスタンの子供たちが動物のように屠殺された。

 イギリス軍の支援を受けたアメリカ軍がタリバン軍に対する爆撃である不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom:OEF)が正式に開始された。カナダ、オーストラリア、ドイツ、フランスが今後の支援を約束した。戦争の初期段階では、主にアルカイダとタリバン勢力に対してアメリカ軍は空爆を行った。約1,000人のアメリカ軍特殊部隊が、北部同盟やパシュトゥーン族の反タリバン勢力を支援した。通常の地上軍の第一陣はその12日後に到着する。地上戦は、タリバンとその敵対勢力との戦闘が勃発した。不朽の自由作戦の一環として、アメリカ軍機は毎日、軍事基地、飛行場、テロリストの訓練キャンプ、通信施設などに爆弾を投下した。侵攻はカブール、カンダハル、ジャララバード、コンズ、マザリシャリフにあるタリバンとアルカイダの施設などに空爆を開始した。10月19日には、アフガニスタン代理部隊と協力して空爆を調整するために、少数のアメリカ地上軍が配備された。軍事行動開始から1カ月余りが経過した11月12日に、タリバン政権幹部とその軍は首都カブールから撤退した。12月初旬には、タリバン最後の拠点であるカンダハールが陥落した。

 ハミド・カルザイが暫定指導者として、2004年12月7日に民主的に選出されたアフガニスタン初の大統領に就任した。しかし、1万人以上のアメリカ軍が駐留して、アフガニスタンが民主化への第一歩を踏み出した頃、アルカイダやタリバンの勢力がアフガニスタンとパキスタンの国境の山岳地帯で再編成され始めた。アメリカ軍やアフガニスタン軍はゲリラ的と戦闘を続けて、政府高官や援助者の殺害され、外国人の誘拐も発生した。この戦闘で、数百人のアメリカ軍と連合軍の兵士、そして数千人のアフガニスタン人が死傷した。2011年5月2日に、ビンラディンはパキスタンでアメリカ軍特殊部隊により殺害された。不朽の自由作戦(2001年10月7日から2014年12月28日)で、アフガニスタン軍は約5,500人以上、アメリカ軍が約2,355人、イギリス軍約456人、タリバン軍は約67,000人以上が戦死して、アフガニスタン民間人は約100,000人以上が戦死傷した。




2021年7月1日木曜日

2人の無政府主義者が警察に爆弾を投げた瞬間に爆弾が暴発し、1人は即死して、もう1人は手と目を吹き飛ばされ死亡した。

ニューヨーク市の失業者会議が、ユニオン・スクエア・パークで集会する権利を、彼らが許可なく運動していいたので、数百人の警察は群衆を解散させるように弾圧された。その直後の1908年3月29に、イグナツ・ヒルデブランドとセリグ・シルバースタインの2人の無政府主義者のうち、シルバースタインが警察に向かって爆弾を投げようとした。犯人と目撃された彼らは、不運なことに投げた瞬間に粗末な爆弾が爆発した。ヒルデブランドは爆発して即死した。シルバースタインは手と目を吹き飛ばされ、まもなく死亡した。この写真は、粗末な爆弾で自爆した後の約20秒後に撮影された。シルバースタインが亡くなる直前に、彼は「警察を殺すために公園に来た。私は彼らを嫌悪している。」と自白した。

 1908年には、アメリカには100以上の都市があり、その人口は50,000人を超えていた。当然のことながら、犯罪の発生がますます懸念された。都市は貧しく、失望した移民で混雑していた。汚職は地方自治体や大企業にて全国的に広まった。フォードからモデルT自動車が発売されて、より経済的に車の台数が増大した。貧困層は犯罪者の発生源と目標の両方になった。暴力的な過激派から成り、思想に強く影響され、貧困層らが嫌っていた政府を打倒することを約束した無政府運動が拡大した。 

 警察は犯罪を封じ込めることができなかった。地方および州の警察官は、訓練が不十分で、賃金が低く、無関係でした。1901年9月6日、無政府主義者のレオン・チョルゴスがニューヨーク州バッファローでマッキンリー大統領を射殺した。マッキンリーは8日後に亡くなり、セオドア・ルーズベルト大統領が宣誓しました。ルーズベルトは、産業社会に正義をもたらすには連邦政府の行動が必要であると信じた。

 1906年、ルーズベルトはシャルル・ボナパルト(ナポレオンの孫)を2番目の司法省長官に任命した。ボナパルトは、増大する犯罪や汚職の問題と戦うには、警察だけでは不十分であると判明した。アメリカの弁護士が訴訟を起こすために捜査官に事実を探索していた。ボナパルトには高度に訓練された高等な諜報機関を雇う必要があった。諜報担当者は、ボナパルト自身の調査を管理せずに、諜報機関長に直接に報告した。

 1908年5月に、ルーズベルトが行政権を超えることを恐れて、議会はすべての連邦部門への諜報機関の創設を禁止した。1908年7月26日に、ボナパルトは「専門家の定期的なチーム」を設立し、司法省にほとんどの調査事件をこの諜報機関に紹介するよう命じた。この諜報機関は、最初は十分に訓練された9人の諜報調査員と25人の主要なエージェントで構成された。1935年に、連邦捜査局(FBI: Federal Bureau of Investigation)に改称された。海外の諜報機関であるCIAと主にアメリカ国内の諜報機関であるFBIに分化した。




2021年5月17日月曜日

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にパレスチナ自治政府のラマラで、壁の前のパレスチナ市民を選別して死刑を執行して、死体を運び出した。

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にラマラで、パレスチナ市民を選別して死刑を執行した。処刑されたパレスチナ人の死体が、壁に向かって座っているパレスチナ人の列から運び出された。残ったパレスチナ人は、壁を前に死刑を選別する尋問を受けた。パレスチナ人を集団処刑するために、イスラエル軍兵士が銃口を向けて後手をロープで繋がれた。即決裁判で壁の前で銃撃された。処刑を免れて生存したパレスチナ人は、強制収容所に連行されて拘禁されて尋問を受けて虐待や虐殺を受けた。

 パレスチナ暫定自治政府は、2002年3月31日にラマラで約30人のパレスチナ人が、イスラエル軍によって殺害されたと公表した。ラマラで、16歳から45歳の男性を掃討して検挙したパレスチナ人を、即決裁判により死刑者と拘束者に分離して処刑した。イスラエル軍は、3月31日にはラマラを閉鎖軍事地域と宣告して、パレスチナ人以外の外国人を排除して、極秘の言論統制を引いた。外国の報道機関を、支局から追い出して事務所を占領して情報統制を敷いた。

 ラマラでは、3月29日からイスラエル軍は外国の報道機関に向けても銃撃した。車に乗車して生後9ヶ月の男児を抱えていた21歳のパレスチナ人女性を射殺した。ラマラは、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市である。エルサレムの北10kmに位置して、パレスチナ暫定自治の首都である。1967年の第三次中東戦争で、イスラエル軍がヨルダン川西岸とガザを占領した。占領されたラマラは、1987年12月の第一次インティファーダと2000年9月の第二次インティファーダの闘争場となった。2002年にイスラエル軍がパレスチナ自治区に軍事侵攻して、分離壁を設置した。

 1967年から鎮圧されていたパレスチナのガザ地区で1987年12月にパレスチナ人の2台の車に、イスラエル軍の2台のトラックが追突して、4人が死亡して7人が重傷となった。パレスチナ人の若者が、イスラエル軍兵士に対して投石を始めた。一気にパレスチナ市民にまで抵抗運動が拡大した。インティファーダは、アラビア語で占領を振り落とすことを示唆した。イスラエル軍は若者などのパレスチナ人を1993年までに約1,000も殺害した。2000年9月に、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地を、イスラエル軍が占領した。第二次インティファーダが勃発して、パレスチナ人の若者が投石して、武装集団が小武器やロケット砲で攻撃をして、イスラエル軍が銃撃や砲撃をした。




2021年4月13日火曜日

沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得は、アメリカ軍に土地を奪われたうえに爆死した。

沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得さんは、1959年9月6日に、アメリカ軍に土地を奪われたうえに、爆死した(沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』1970年)。比嘉良得さんはアメリカ軍に土地を奪われて、仕方なく畑に落下した爆弾を拾ってスクラップに出して暮らしていた。その爆弾を解体中に爆死した。阿波根昌鴻が、1950年代の伊江島の市民が、アメリカ軍と闘争する多数の写真を撮影した。1953年4月からアメリカ軍による伊江島の強制土地接収が開始された。1954年にアメリカ軍は、伊江島の住民に立ち退き通告した。1955年3月に伊江島真謝地区から約300人の武装したアメリカ軍兵士による強制的な土地の取り上げた。1956年から伊江島ぐるみ土地闘争が盛り上がった。
 沖縄県伊江島は、かつての沖縄戦の激戦地であった。アメリカ軍が占領した後は、伊江島の約6割が、爆弾の投下や落下傘部隊の降下等の演習地として使用された。伊江島の農民らは肥沃な土地で、農耕に生きるはずであった。アメリカ軍は、伊江島の農民たちから、農地を取り上げて、家屋を取り壊された。伊江島の農民らは、致し方なくアメリカ軍を相手に必死の闘争に立ち上がった。沖縄戦後も苦難に満ちた生き方を負わされた伊江島の農民らは、長く粘り強くアメリカ軍と闘争した。しかし、伊江島は、沖縄本島から北西約9kmと近い場所にあるとはいえ、やはり離島であるために、アメリカ軍との闘争は秘密裏に処分された。 

 太平洋戦争後のアメリカ軍の施政権の下に、各地で半ば強制的に基地や施設を建設した。アメリカ軍兵士による悪質な事故や殺人を含む事件が頻発して、沖縄県民の死傷者も相次いだ。沖縄県民はアメリカ軍の施政に幻滅して日本本土復帰を訴えた。沖縄県民有志は島ぐるみ闘争などの抵抗運動を起こした。アメリカ軍がベトナム戦争から1973年3月31日に完全撤退を控えて、沖縄返還は1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されて、沖縄は本土に復帰した。


 
 
 2021年4月13日 Japan No War (NGO)
日本平和市民連盟 視聴回数 480,000回

2021年4月12日月曜日

日米安保闘争で1960年6月15日に重態の樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送され、警察病院で死亡と診断された。

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日生まれ1960年6月15日没)学生運動家として、日米安全保障(安保)闘争で死亡した東京大学3年生の女子学生である。安保闘争で1960年6月15日に重態となった樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送された。死亡した当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。護送された警察病院で死亡と診断されて、学生らは国会構内で、樺美智子さの死に黙祷を捧げた。
 学生や労働者や市民が安保反対・岸内閣退陣を要求して国会議事堂を十重二十重に取り囲んだ。1960年6月15日のデモで全学連主流派が、国会の衆議院南通用門から国会に突入した。その中で警官隊と衝突した際に、22歳で死亡した。警察病院の検死では死因は、胸部圧迫及び頭部内出血とされた。警察側は樺美智子さんの転倒が原因の圧死と主張した。デモ隊が国会敷地内に突入後、折り重なり倒れた人々の下敷きになって胸腹部が圧迫され、呼吸困難で死亡したと結論付けた。鑑定結果が遺族にも開示されず、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。
 1957年に東京大学文科二類(現在の三類)の文学部国史学科に入学した。イギリスの水爆実験に反対するデモで、アメリカ軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争に参加した。歴史研究会に所属して、歴史を動かす原理の探求を目指した。東大文学部の自治会副委員長となった。迫りくる安保闘争に向けて日本共産党に入党した。教員に対する勤務評定に反対する日教組の勤評闘争や警察官の権限を強化する警職法の反対闘争をした。1958年12月に、共産党の学生党員らが脱党して、より先鋭的な思想・方針を掲げて結成した前衛党・共産主義者同盟に加盟した。全学連主流派として羽田事件で逮捕されるなど過激な闘争をした。激越な言葉は人を熱狂させるが、熱狂は冷めやすく、分裂しやすい。
 1960年5月20日未明に、新安保条約案を衆院本会議で強行採決した。在日米軍として、アメリカ軍の日本駐留を引き続き認め、憲法に抵触する集団的自衛権を認めた。新安保条約案が自然成立を迎える6月19日まで安保闘争が一気に熱狂した。1960年6月16日には,予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止された。その1ヶ月後の7月15日には、新安保条約を強行採決した岸内閣が総辞職した.樺美智子の死亡は日本社会に重大な影響を及ぼした事件となった。
 「最後に」(1956年 樺美智子作) 誰かが私を笑っている、向うでも こっちでも、私をあざ笑っている、でもかまわないさ、私は自分の道を行く、笑っている連中もやはり、各々の道を行くだろう、よく云うじゃないか、「最後に笑うものが、最もよく笑うものだ」と、でも私は、いつまでも笑わないだろう、いつまでも笑えないだろう、それでいいのだ、ただ許されるものなら、最後に、人知れずほほえみたいものだ (樺家之墓には、美智子の詩が掲げられている)



Japan No War (NGO) 日本平和市民連盟
2021年4月12日Blogger投稿数は1,700回に達した。

2021年3月24日水曜日

中米のニカラグア共和国での市民や学生の暴動に対して、廃墟の街路をヘルメットをかぶった隊員が殺害した。

中米のニカラグア共和国での市民や学生の暴動に対して、廃墟の街路をヘルメットをかぶった隊員がパトロールしていた。母親と父親は、我が子の青年が虐殺された死体の側で慟哭した。破壊れた街路にて、白いシースの下に青年の死体が横たわっていた。その死体は素足であり、泣いた母親によって運ばれたリネンをかけられた。近所の友人は、ハンカチを持って悲しんだり、立ち尽くし驚嘆していた。
ニカラグア共和国で、オルテガ氏退陣を求める抗議活動は約2か月続く中でエスカレートした。これに対し政府は容赦なく弾圧を行っている。2018年6月16日の抗議デモで少なくとも約8人が死亡して、4月から勃発した抗議デモで合計178人が殺害された。2018年4月16日に、社会保障の保険料の引き上げと年金約5%の削減を強行した。4月18日から抗議デモが勃発した。ニカラグアのオネテガ政権は、警察や与党武装集団を投入して強引に鎮圧した。4月21日から、各地の抗議デモ参加者に対して、実弾も発射する激しく攻撃して、死傷者が急増した。4月23日から、首都マナグアの市民や学生らが約20万人のデモを決行して、オルテガ政権の退陣を求めた。5月9日に抗議デモに対抗する与党による親オルテガの大規模な集会も強行した。市民や学生の反オルテガ集団と与党の親オルテガ集団が衝突した。
 ニカラグア共和国において衝突や暴力事件が継続し,多くの死傷者が発生している。暴力行為の即時停止を呼びかけるとともに,2018年6月5日,米州機構(OAS)定例総会において、ニカラグア国民の支援のための宣言が合意されて採択された。ニカラグア政府が、米州人権委員会(IACHR)による特別フォローアップ機構(MESENI)及び独立専門家グループ(GIEI)の派遣,並びに国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の現地調査を受け入れと、円滑な任務遂行を期待されている。民主主義の諸原則に則った協議が重要であり、司教会議の仲介の下での対話を通じて諸問題が解決することが急務である。大規模なデモは少なく、一部の反政府市民団体による小規模なデモが突発的に発生し,警察が鎮圧している。


 

2021年3月23日火曜日

殺害されたチェチェン軍の兵士の表情はあまりにも老けていた。戦場では日常茶飯事に死に直面しても、無感傷となり感情も消失した。

ロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへ侵攻したときに、約2ケ月間過ぎた1995年2月でもウクライナの首都キエフの一角にはチェチェン人の決死隊が残存していた。グロズヌイ市街戦をゲリラ戦で奮闘した。しかし、ロシア軍は、武力で圧倒した。1995年6月にはチェチェン軍隊が、山岳地帯でのゲリラ戦では、チェチェン軍はロシア軍より優位となり、1996年8月にはグロズヌイに駐屯していたロシア軍を奇襲した。
 雑木林にて、燃え上がっている家屋から白煙が舞い上がっていた。ロシア軍の化学兵器と想定される異臭が立ち込めた。その異臭を吸い込んで約2時間後に、毒ガスと思われる吐き気、発熱、頭痛、下痢、嘔吐の多彩な症状を催した。次第に気力も奪って、弱気に落ち込んだ。地下壕の出口付近を砲撃されて、出口から4人の戦死傷者を引きずり込んだ。2人は頭部に破断されて脳死に陥った。痙攣の動作も消失して、死後硬直した。死亡したチェチェン軍の兵士の表情はあまりにも老けていた。戦場では日常茶飯事に、死に直面しても、無感傷となり感情も消失した。

 第一次チェチェン(Chechen)紛争が、1994年12月11日から1996年8月31日にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国の独立派武装勢力と、それを阻止しようとするエリチェン政権のロシア軍との間で紛争が発生した。ロシア軍は圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減により、ソビエト連邦と比較して大幅に弱体化して脆弱を露呈した。1994年12月31日から首都グロズヌイへロシア軍の無差別の空襲は多数の民間人の死傷者を出して、国際的非難を受けた。1996年8月に犠牲者は、ロシア軍が約5,732人以上で、チェチェン勢力は約16,299人に及んだ。民間人が少なくとも約30,000人以上が殺害された。1996年8月6日からチェチェン武装勢力はグロズヌイを急襲して、ロシア軍はハサヴユルト協定によりチェチェンから撤退した。1999年8月26日から2009年4月15日まで第二次チェチェン紛争が勃発して、プーチン政権はチェチェン武装勢力と徹底対決した。ロシア軍は、2000年2月に首都グロズヌイを再占領して、チェチェンはロシア政府の支配下となった。


 

2021年1月30日土曜日

フォークランド紛争で、アルゼンチン軍はイギリス軍と激突した直後の首都ポートスタンレーは崩壊して瓦礫が散乱して、アルゼンチン軍は降伏した。

フォークランド紛争で、首都ポートスタンレーでイギリス軍とアルゼンチン軍が最終的に衝突した。首都ポートスタンレーの稜線に沿って掘り下げた塹壕のアルゼンチン軍との数日間の激しい戦闘となり、アルゼンチン軍が降伏した。降伏した直後の首都ポートスタンレーは崩壊して瓦礫が散乱した。
 アルゼンチンは19世紀初頭にスペインから独立してから、海岸の東480kmにある住民はわずか約1,800人のフォークランド(Falklands)諸島の領有権を主張していた。イギリスは1833年に島を占領して、少数のアルゼンチン人居住者を追放した。それ以来、アルゼンチンの主権を一貫して拒否した。1982年初頭に、アルゼンチンの軍事政権は、イギリスとの長期にわたる交渉を断念して、フォークランド諸島に侵攻を開始した。アルゼンチンの軍事政権は、経済政策と人権侵害で批判を回復するために、侵略を決定した。その熱狂で軍事政府の背後にあるアルゼンチン国民を団結させる作戦であった。侵略軍は秘密裏に訓練を受けて、1982年3月19日に、アルゼンチンの救助隊員がフォークランド諸島の東1,300 kmにあるアルゼンチンの国旗を掲げた。イギリスが支配するサウスジョージア島から紛争が勃発した。
 アルゼンチン軍は4月2日にフォークランド諸島に侵攻して、首都ポートスタンリーにあるイギリス海軍の小さな駐屯地を侵攻した。アルゼンチン軍は損失を受けても、イギリス軍から死傷者を出さない命令に従った。4月3日に、アルゼンチン軍はサウスジョージア島を占領した。4月下旬までに、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に約10,000人以上の軍隊を駐留させた。大多数は未熟な徴兵であり、冬が近づいても適切な食料、衣類、避難所が提供されなかった。アルゼンチンの大衆は好意的に熱狂して、マヨ広場に集まり、軍事政権を支持した。
 アルゼンチンの侵略に対抗して、イギリス政府はフォークランド諸島の周囲約320kmに宣戦した。イギリス軍は、海軍機動部隊を迅速に編成し、4月5日にポーツマスから出航し、途中で増援された。ヨーロッパ諸国は、直ちにイギリスへの支持を表明した。ラテン・アメリカ政府はアルゼンチンに賛同した。チリは例外で、ビーグル諸島をめぐる紛争のため、アルゼンチンに対して警戒態勢を維持した。チリからの軍事脅威が高まり、アルゼンチン軍は精鋭部隊をフォークランド諸島から本土に戻した。中立であったアメリカがイギリスを全面的に支援して、NATOの同盟国が軍事協力した。
 4月25日に、イギリス軍の機動部隊が約13,000km離れた紛争地帯に派遣されて、サウスジョージア島を奪還した。5月2日に、旧式のアルゼンチン巡洋艦がイギリスの原子力潜水艦によって撃沈された。他のほとんどのアルゼンチン海軍は港に留まった。アルゼンチンの戦闘機は、数十の古い戦闘爆撃機で戦闘半径から、イギリス艦隊は射程外であった。アルゼンチン軍には弱体化して、イギリス軍が5月12日に上陸した。イギリス海軍は、フォークランド諸島の北海岸に上陸して、その後に首都のスタンレーに陸路で攻撃を仕掛けた。ポートサンカルロスの海岸堡から、イギリス軍歩兵は非常に悪天候下での南部に強制侵攻して、ダーウィンとグースグリーンの集落を占領した。6月11日から首都ポートスタンレーの稜線に沿って掘り下げた塹壕のアルゼンチン軍との数日間の激しい戦闘して、イギリス軍はポートスタンレーの西の高地を占領した。イギリス軍が首都と主要港を取り囲み封鎖したことで、アルゼンチン軍は6月14日に降伏して、事実上紛争が終結した。イギリス軍は6月20日に、サウスジョージア島の南東約800kmにあるサウスサンドウィッチ諸島からアルゼンチン駐屯軍を撤退させた。
 イギリス軍は紛争中に約11,400人のアルゼンチン軍捕虜を捕らえて、全員がその後釈放された。アルゼンチン軍は約649人が戦死して、約1,657人が負傷した。イギリス軍は約255人が戦死して、約775人が戦傷した。アルゼンチンの軍政は、命令した侵略で自国の軍隊を準備しても支援しなかったことでひどく信用を失い、1983年に軍事政権が文民政権がアルゼンチンに回復した。一方、イギリスのマーガレット・サッチャー政権は、1983年の議会選挙で広範な愛国的な支援で保守党が地滑りの勝利を得た。

2021年1月22日金曜日

フランス5月危機に警察署の警察により、2人のイギリス人の女子学生に対する卑猥な攻撃にイギリスと西ドイツ政府は抗議した。

1968年5月の危機は、6月には公共および民間労働者の多くは仕事に戻ったが、余波としての散発的な暴力は続いた。警察、学生、労働者が事件に巻き込まれて3人が死亡した。パリ警視庁とフランス共和国保安機動機は、午後10時頃から夜通し、路上、遊撃車、警察署、多くの負傷者が出た病院において、厳しく弾圧した。その結果、夜の祝祭の学生と観光客に多くの流血があった。警察やデモ参加者に対する裁判はなかった。イギリスと西ドイツ政府は、警察署での警察による2人のイギリス人の女子学生に対する卑猥な攻撃を公式に抗議をした。
 最初にパリから北西約11kmのナンテール大学で、初発の大学紛争が勃発した。約150人の学生が占領した大学が、5月2日に大学は警察に閉鎖された。5月6日に学生と教職員が抗議活動した。約1,600人警察の催涙弾と約6,000人のデモ隊の石畳で約48時間も応酬された。6月3日に学生らは、警察が大学を撤去して再開と刑事告発の取り下げを要求した。
 フランスの五月危機は、フランスのパリでゼネラル・ストライキを、学生が主導して、労働者あるいは市民の一斉蜂起が、1968年5月に最高潮に達した。五月革命、フランス語では(Mai 68)、英語では(May 68)と表記する。パリの街は約6,000人の学生デモ隊と約1,500人の警察官の間で紛争が繰り広げらた。数日のうちに、約1,000万人のフランス人労働者がゼネストに参加して、フランス経済は一時停止した市民紛争に巻き込まれた。5月10日に、特別警察隊が川を渡るデモ隊を阻止して、多数の逮捕者と負傷者が出た。その虐待がテレビで放映されて、労働組合は5月13日にゼネストを決行した。5月16日までに、労働組合がフランス全土で約50工場を占領した。その後に雪だるま式に参加する労働者が増えて、全土の約3分の2の約1,000万人にも達した。

 

2020年7月12日日曜日

市民らのデモ隊は、戒厳令により軍隊の兵士から侵撃され、脇道には出血して倒れていた市民らは既に殺害された。

市民らのデモ隊は、戒厳令により軍隊の兵士から侵撃された。脇道には出血して倒れていた市民らは既に殺害されていた。下町の家々には、軍隊からの発砲などから、市民らが逃げ込んで、死者や負傷者が収容された。
   軍隊兵士らが、警告もなく突如として市民らの群衆へ無差別に発砲した。何千人もの市民が直ちに脱出したが、他の市民たちは立ち止まり抗議した。軍隊が弾圧した直後に、デモ参加者を追い詰めて、犯罪で起訴して裁判の後に、市民らは拘留、拷問、投獄、または処刑された。死者は少なくとも10,000人以上、逮捕者は約1,600人の逮捕と情報が漏洩した。その直後から民主化運動は弾圧されて解散して消滅した。(Reference参照)
 
 
 

(SNS検閲) 1989年6月4日午前4時30分に、天安門広場の中央から人民英雄記念碑に向けて、戒厳令軍隊兵士が、学生と市民らのデモ隊を侵撃した。天安門の脇道には出血して倒れていた学生は既に殺害されていた。天安門の付近の北京下町の家々には、軍隊からの発砲などから、学生や市民らが逃げ込んで、死者や負傷者が収容された。
   天安門広場(T・S)の抗議行動は、中国での民主主義、言論の自由、報道の自由を求める学生がデモを主導した。天安門は、天国の平和の門を意味した。学生と市民らは1989年6月4日と5日に中国政府によって天安門広場で流血の取り締まりで弾圧された。民主主義を支持する抗議者、大部分は学生たちが、中国に民主的改革の導入に尽力した胡耀邦が4月15日に死亡した。その1週間後の4月22日に追悼の葬儀に、学生は北京を通って行進した。学生たちはより開放的で民主的な政府を求めて、数千人の市民も学生に加わり、抗議者の数は5月中旬までに数万人に増加した。5月13日に、多数の学生抗議者がハンガーストライキを開始した。5月15日にソ連のゴルバチォフ書記長が北京を訪問した。その後に鄧小平が主導する中国政府は5月20日に戒厳令を宣告して、約25万人もの中国軍兵士が北京に侵入した。
 6月4日午前1時頃に、中国軍兵士と警察が、警告もしないで突如に群衆へ無差別に発砲した。何千人もの抗議者が直ちに脱出したが、他の抗議者たちは反撃し、攻撃部隊に石を投げ、軍用車両に発砲した。海外メディアは、数百から数千人が虐殺され、約10,000人が逮捕されたと報道した。6月5日に不詳の男性が一人で戦車に立ち向かい、中国の戦車の列を塞いでいる映像が、戦車兵として有名な象徴となった。軍事弾圧の直後に、中国当局はデモ参加者を追い詰めて、反革命的犯罪で起訴して不当な裁判の後に、何千人もの人々が拘留、拷問、投獄、または処刑された。2017年にイギリスは、死者は少なくとも10,000人以上、逮捕者は約1,600人の逮捕を情報漏洩した。中国政府は公式に事件の言動を弾圧した。香港の市民だけは中国政府に移管された後でも、2020年6月4日にも、香港政府の禁止を振り切って数千人の香港市民は31年目の追悼集会を開催した。その直後に、中国政府の全国人民代表大会が6月30日に香港国家安全維持法を可決して、同日に香港政府が施行した。天安門事件と同様に、民主化運動が弾圧されて解散して消滅した。

2020年6月19日金曜日

チュニジアでジェラズ暴動がチュニスのジェラズ墓地で勃発し、反逆罪のチュニジア人の2人ががギロチンで断頭する公開死刑された。

チュニジアのジェラズ暴動が、首都チュニスに最も著名な墓地があるジェラズ(Jellaz)周辺で1911年11月に勃発した。チェニスには、約15万人のチュニジア人と約4万人のイタリア人が密集して競合と緊張が生じた。フランス当局が、イスラム教徒に信託されたジェラス墓地の保持のために、フランス人による墓地の登録をイスラム教徒のチュニジア人に強要した。フランス当局がジェラズ墓地を採石場にして、鉄道の延長や路面電車の建設することを、チュニジア人は神聖な地域エリアに侵入する試みと抗議した。
 1911年11月7日に約2,000人ものチュニジア人が、ジェラズ墓地に集結した。約150人の警官が群衆に向けて発砲して、約15人のチュニジア人を殺害して解散させた。チュニジア人は、イタリア軍の陣地を包囲して、警棒で武装してイタリア軍を襲撃した。約1,000人のイタリア軍兵士が、チュニスの街路を占領した。11月8日には、イタリア人とチュニジア人とが衝突した。1人のアラブ人と5人のイタリア人が殺害された。1912年6月3日に刑事裁判が始まり、6月30日に判決された。囚人となった35人のチュニジア人は反逆罪を宣告された、その反逆罪により、7人のチュニジア人に死刑が宣告された。バブサドゥーンで2人がギロチンで断頭する公開死刑が執行された。
 イギリスは、1870年までの中世では、うさぎを盗んでも、40シリングや6ペニーの博打、文書の偽造など232もの犯罪をすると「死ぬまで頚からぶら下がる」絞首刑の死刑を宣告された。西洋ではますます拷問と処刑の方法は多様で残酷となった。中世では、死刑執行は専門の死刑執行人によって処刑された。中国では、囚人をできるだけ長く意識を保ち、死ぬ直前まで苦しませた。中東のイララム諸国では、姦淫罪は頭部の打撲死、公開で断頭、剣で刺死や目を刺す、舌を切るなど残酷であり、親族は死刑執行の費用を支払わされた。死刑執行人は市民と同じ権利もなく、社会階層の最下位で、屈辱され、家族も差別と隔離された。
 フランス革命の間だけは、死刑執行人は尊敬される社会の一員になった。1794年6月10日から7月27日までに、フランス革命裁判所は、約1,375をギロチンで死刑して断頭した。死刑執行人は公民権を剥奪されるも、多額の賄賂を搾取していた。ギロチンは1977年までフランスで断頭の死刑に使用された。
 19世紀から、多くの国で囚人に体罰と拷問が禁止されて、刑務所の職員に委託された。しかし、死刑執行人の死刑だけでは残存した。多くの国で、公開の死刑が禁止されて、最後の公開処刑はイギリスは1867年のロンドン、1936年のアメリカケンタッキー州で執行された。ドイツの死刑執行はワイマール共和国では死刑の宣告がわずかであり、ナチス・ドイツは1939年の第二次世界大戦後に膨大に死刑を執行した。ドイツの最後の死刑執行は、西ドイツは1949年、東ドイツは1987年に廃止した。


2020年6月17日水曜日

トルコ軍兵士は、1996年にクルド人の民族主義組織であるクルディスタン労働者党(PKK)のクルド人をシリア北部で殺害した。

トルコ軍兵士は、1996年にクルド人の民族主義組織であるクルディスタン労働者党(PKK)のクルド人をシリア北部で殺害した。高原に軍用ヘリコプターが待機して、トルコ軍兵士がクルド人の死体を検死した。紛争の大部分はトルコ南東部に対応する北クルディスタンで起こった。トルコ軍は、クルド人地域に対して頻繁に地上爆撃と空爆などをした。
 クルド人の少数民族は、トルコ、イラン、イラクなどの各地域に移住している。湾岸戦争により、PKKはイラク北部に拠点を設けた。トルコ・クルド紛争が勃発して、トルコ政府とトルコ軍はクルド人に抑圧と弾圧をした。クルド人主義組織であるPKKは、クルド自治区の代弁者となった。PKKは1984年以降に、トルコの抑圧と弾圧に対する蜂起を表明した。クルド人が少数民族として公式に認められたのは1991年であった。1999年までにPKKとトルコ軍との紛争で約37,000人が死亡した。1999年にPKKの指導者と幹部が逮捕されて以来、PKKの反乱は一時的に減少した。2002年以降に、トルコは国内の教育と放送におけるクルド語の使用の制限を緩和した。
 PKKは、1978年11月にフィスの村にて、クルド人学生集団によって設立さた。1979年にはその設立を公表した。PKKのイデオロギーは、もともとは革命的な社会主義とクルド人の民族主義の融合であり、独立した共産主義者でもある。トルコにおいて資本主義下でクルド人は抑圧された。クルド語は、ドレス、民俗学および名前への使用はトルコの州によって禁止された。1980年の軍事クーデターでは、クルド語は公私生活で公式に禁止された。トルコの少数民族のクルド人の抑圧に対する不満の高まりからもPKKに結集された。PKKは設立以来に、トルコの治安部隊との武力衝突に関与した。PKKがクルド人の蜂起を宣言した1984年8月15日までは、本格的な蜂起は勃発しなかった。1984年からトルコはクルド人民間市民の組織的処刑、拷問、強制退去、村の破壊、任意の逮捕、クルドの関係者の失踪または殺害が発生した。
 トルコ軍は1992年から1995年の間に、クルド軍の陣地を奪い、PKKを支持する田舎の森林破壊して、約3,000以上のクルド人の村を破壊し、少なくとも約200万人の難民を引き起こした。トルコ軍によって焼却、爆撃、砲撃され、村全体が消滅した。武力紛争は1999年9月1日まで継続し、2004年6月1日に再開された。2011年夏の後、大規模な敵対行為の再開により、紛争は現在も継続している。紛争が始まって以来、クルド人は約4万人以上が死亡して、そのほとんどがトルコ軍の治安部隊によって殺害されたクルド人の民間市民であった。2007年5月に、PKKのメンバーは、トルコ、イラン、イラク、シリアのクルド人の統括組織であるクルディスタンコミュニティユニオン(KCK)の設立を支援した。
 2012年夏には、トルコとPKKとの紛争は、シリア内戦と並行して激しく変化した。2013年に、PKKはトルコとの停戦協定を宣言して、一時的にイラク北部のクルディスタン地域に撤退した。シリアはクルド人にいくつかの都市の統治をPKKのシリア支部であるPYDに譲った。シリアはクルド人に対してISIS(イスラム国)および他のイスラム集団に対して武力衝突させた。トルコは、クルド人を武装させたシリアに抗議した。2015年7月24日から25日に、トルコ軍はイラクの疑わしいPKK基地となったシリアのクルド地域を爆撃した。2015年12月に、トルコ軍はトルコ南東部のクルド地域で、数百人の民間市民を殺害して、数十万人を追放し、住宅地で大規模な破壊を引き起こした。クルド軍による報復テロがトルコ国内で多発した。トルコ軍は、2018年1月にシリア北部、3月にイラク北部、2019年10月にシリアのクルド人地域に侵攻した。
 2015年6月に、トルコはイスラム国(ISIL)の兵士が国境を越えてシリアのクルド人都市コバニを攻撃することを許可した。クルド人はトルコを非難して、2015年7月以降に停戦が崩壊したとき、トルコ政府によるPKKに対する暴力的な弾圧が行われ、その逆も同様であった。2016年3月にPKKは人民統一革命運動に参加して、トルコ政府を打倒することで同盟した。2018年のイラクのPKK戦闘機に対するトルコの軍事行動と、2018年1月と2019年10月の両方で、シリアはクルドの政治団体(PYD)と軍(YPGとYPJ)に対する暴力的な攻撃をした。