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2019年6月6日木曜日

日露戦争初の鴨緑江会戦の戦果を誇張して、多数の日本軍兵士が参集して勇敢と戦死者の周りを取り囲んだ。

日露戦争の緒戦である1906年の鴨緑江会戦で蛤莫塘の激戦にて、日本軍は多大の戦死者の犠牲を出した。日露戦争初の大規模な会戦だけに、各国の観戦武官や従軍記者が鴨緑江に参集した。戦果を誇張するために、多数の日本軍兵士が参集して勇敢と戦死者の周りを取り囲んだ。
 1906年2月14日に日本陸軍が仁川港に上陸して、2月21日に鴨緑江南岸の義州に到着した。3月14日に朝鮮北部の鎮南浦に上陸し、4月21日は全兵力の約5万人が義州に集結した。ロシア軍の約2万4千人は主力を鴨緑江北岸に集結させた。ロシア側にとって鴨緑江は天然の障害物であった。日本軍はロシア軍に圧倒的優勢化での渡河を指令された。4月25日、日本海軍が対岸のロシア軍を攻撃して広範囲に部隊が分散した。
 日本軍は4月29日に鴨緑江の上流部から渡河を開始した。狭い川幅の地点に多数の浮き舟による複数の架橋を兵士たちが一目散に対岸目指して走りぬいた。5月1日未明には渡河が完了し清国領の水口鎮を占領した。ロシア軍は、突然の日本軍の砲撃により、砲兵陣地が無力化して多数の死傷者を出した。5月1日午後2時頃にはロシア軍は撤退して、約2千人以上もの犠牲者と武器の損害を被り、後方の鳳凰城まで退却した。
 日露戦争最初の陸戦は日本軍の快勝で終わるも、約932人もの戦死者を出した。従来の戦術とは極めて少ない損害と喧伝した。ロシアは、少ない兵力で部隊を広範囲に分散して敗退して、この戦果は、列強の日露戦争の予想を大きく狂わせた。日本国内では、約932人もの大量の戦死者数に驚嘆して非難された。大本営は、独仏戦争や露土戦争など例示して、犠牲者を過小に評価した。日本市民は、日露戦争の成果を受けるたびに、戦中の戦死者数は慣れて無関心となった。大量の人間の戦死亡数により、人間の生命が軽視され続けた。その風潮は、第2次世界大戦の集結まで市民を洗脳した。




2019年5月24日金曜日

日本軍が朝鮮半島に敷設した鉄道の線路を引き抜いた容疑で、3人の朝鮮人たちが逮捕されて銃殺された。

日本軍が朝鮮半島に鉄道を敷設すると土地を差し押さえられて、何の補償も受けれなかった3人の朝鮮人たちが、1906年に鉄道の線路を引き抜いて逮捕されて、銃殺された。
 1910年8月29日の日韓併合後に、日本は朝鮮の伝統と文化を抑圧して、主に日本の利益のための政策を策定して実行することに着手した。朝鮮から資源と労働力を引き出すために、欧米の輸送と通信網が、朝鮮半島の全域に構築された。銀行業務は統合され、朝鮮の通貨は廃止された。日本人は朝鮮人の階級を取り去り、景福宮の大部分を破壊して、政府の事務所に置き換えた。
 1906年に日本人の土地所有権が正式に合法化された。1894年の日清戦争から多くの日本人の移住者は朝鮮で農地を取得した。朝鮮の多くの元地主と農家は、ほぼ一晩で権利を失った後に、小作農家になった。1910年までに、朝鮮の全耕地の7〜8%が日本の支配下に入り、その比率は着実に増加した。1932年までに、日本の土地所有率は約52.7%まだ増加した。朝鮮では、土地所有者はほとんど日本人となり、ほとんどの朝鮮人は小作農となった。朝鮮人の小作農は、家賃の半分以上を作物で支払わなければならず、多くの朝鮮人が妻や娘を工場や売春に送って税金を払うことを強制された。1930年代までに、都市経済の成長のために都市に農民が流出した。
 1919年1月21日に高宗皇帝が中毒の噂の中で亡くなった後、3月1日に日本に対する独立集会が全国的に行われた。この三・一独立運動は日本軍が強制的に抑圧して、朝鮮人の約7,000人が日本軍の兵士と警察によって殺害された。独立運動は、1919年1月8日のアメリカ合衆国のウィルソン大統領の演説に部分的な影響を受けて、自決権の支持と欧米の植民地支配の終結を宣言した。大韓民国臨時政府は、3月1日の独立運動の余波で、1919年4月11日に中国の上海に建国されて、日本の植民地支配に対する解放と抵抗運動をした。暫定政府は、1919年から1948年まで政府の正当性は大韓民国憲法の前文に記された。
 3月1日の独立運動によって、朝鮮民主主義人民共和国に対する朝鮮人の憤慨が日本に向けて急増して、日本軍と警察は、令状なしに侵入して探索あるいは罪状を捜査する権限を与えられた。裁判なしでその場で判決された。逮捕の後に、朝鮮人から犯罪の「告白」を得るのも警察の権限となった。「告白」は朝鮮人に対する拷問による虐待と虐殺で強要した。


2019年5月17日金曜日

日露戦争の遼陽の会戦にて、黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した

日露戦争の初戦の遼陽会戦において、戦場となった黒英台附近の戦状では、1904年9月4日の黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した(「日露戦争写真画報, 第14巻」)。荒野に散乱した戦死者の死体を検死して処理をした。戦場では日本軍兵士は死と隣合わせであることを、残酷で悲惨な日露戦争の結末を示した。戦争による死の真実は、百聞は一見にしかずである。日露戦争で戦勝している場合には、戦争をより誇張と称賛するために、戦死者の真実を捧げた。しかし、厳しく不利な戦争になるに従って、戦死者の真実は隠蔽されて抹消された。
 日露戦争の初期に、ロシア軍は約158,000人を中国東北部の遼陽付近に布陣して、日本軍は約125,000人と遼陽会戦した。日本軍は、1904年8月26日に夜襲して弓張岑付近のロシア軍前進陣地を占領した。8月30日には遼陽を包囲する総攻撃して、激戦の後の9月4日に日本軍は遼陽を占領して、南満州は日本の勢力下に置いた。日本軍は8月30日に各方面から攻撃を開始した。8月30日夜、連刀湾から太子河を渡河し、皇姑墳に進出した。主力は、8月31日に本渓湖を占領して、9月1日に黒英台・五頂山を占領して、ロシア軍の左側背を脅かした。動揺したロシア軍が9月3日の夕方から退却を始めた。日本軍は9月4日朝までに遼陽付近一帯の陣地を占領した。遼陽会戦で、日本軍兵士は約23,615人、ロシア軍兵士は約17,900人が犠牲となった。遼陽会戦は日本軍は遼陽に入城して、ロシア軍は遼陽駅を放火後に撤退した戦略的後退であると、世界中に対して両軍は勝利宣言を行った。機関銃から大口径砲などの近代兵器を揃えた大規模な戦争としては、近代史では遼陽会戦が初発となった。



2019年5月15日水曜日

日露戦争にて、日本軍兵士は清国の中国人夫妻を、ロシアのスパイ容疑者である露探として公開処刑した。

日露戦争にて、日本軍兵士は清国の中国人夫妻を、ロシアのスパイ容疑者として公開処刑した。日本軍兵士は、スパイ容疑者を首切り役人に切断させて処刑させた。清国の中国人夫妻の2人の死体は血溜まりの中にうつ伏せに倒れた。日本軍兵士が清国の中国人を公開処刑に前列に整列して見物した。膨大な清国の中国人が参集して、公開処刑を見物するために周りを取り囲んだ。公開処刑されて、虐殺された死体を見守った。
 日露戦争では、敵国ロシアのスパイである「露探」と名指しされると、どのように弁護しても、スパイ容疑で逮捕されて、極刑に至ると殺害された。露探を過剰なロシアのスパイと非難して、何かにつけてロシアのスパイである露探の容疑をかけて糾弾して、満州だけでなく日本の市民らも巻き込んで恐怖に陥らせた。日露戦争に、露探は常軌を逸脱した危険人物の指名用語となった。
 売上するために、新聞、雑誌、月刊誌なども露探の嫌疑と容疑をかけては、処刑を見世物にしていた。『軍国画報』(第二年第五巻、1904年4月3日、冨山房)にて、「露探清人夫妻の所刑」として写真を掲載した。日露戦争を勝利に導いた日本軍を称賛して、悲惨な戦争を興味本位な劇的な戦争に導く見世物として公開処刑した。戦時下においては、まず迅速にニュースを伝える新聞が購読され、刊行間隔の短い雑誌がそれに続き、戦闘の記憶が薄れた頃に刊行される月刊誌が、戦争を見世物として興味本位に導くように刊行された。


2019年5月5日日曜日

列強の首切り役人は、北京の街頭で公開して義和団員を斬首して断頭により惨死した。

八か国連合軍は、1900年8月14日に清国の首都である北京を占領した。八か国連合軍は、北京の各所を焼き払い、中国人から略奪して、虐待と虐殺した。北京の街頭で、列強の首切り役人は、公開して義和団の団員を断頭した。1人の団員の首を断頭して惨死させた。首から多量に出血して周囲に散布した死体がうつ伏せになった。もう一人の団員の首を、首切り役人らが背部から押さえつけて、断頭して惨殺する瞬間である。
 1894年に4月に日清戦争に敗北した清国に対して、海外からの半植民地化が殺到して、困窮化した中国民衆は海外諸国に反発した。義和団は当初に宗教秘密結社であった。1989年3月にドイツの鉄道施設工事に反発して爆破し、1900年に山東省で蜂起した。キリスト教への反感から、激烈な外国人の排斥活動と鉄道・電信を破壊した。義和団の反乱は、1900年4月から5月に北京や天津も占領した。清朝は1900年6月21日に列国に宣戦布告した。1900年6月に、清国軍と義和団ともに各国の大使館を襲撃した。義和団は1900年8月に西什庫教会を包囲して爆破した。義和団を鎮圧するために、1900年7月にイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシア・アメリカ・オーストラリア・日本の八か国は、連合して、中国に侵攻した。日本軍の派遣は、約22,000人に達して八カ国連合軍の80%に相当した。連合国は1900年7月に天津と北京を占領して、清朝の西太后と光緒帝は西安に逃避した。1901年9月7日になって、清国の李鴻章は、八カ国連合と仲介したスペイン・オランダ・ベルギーを含めた11か国と北京議定書(辛丑条約)の講和条約を締結して、賠償金と各国の駐在権を認めた。



2019年4月2日火曜日

日露戦争に向けた雪中行軍演習に巻き込まれて、積雪の中で日本軍兵士の凍死体が、八甲山の山中に散乱した。

八甲田山雪中行軍遭難事件に巻き込まれて、積雪の中で凍死した死体が、八甲山の山中に散乱した。1904年に勃発した日露戦争に向けて、青森県内で冬季寒冷と厳寒の軍事演習で甚大な悲惨な凍死者を出した。
 1902年1月に日露戦争の軍事演習として、耐寒雪中に行軍が挙行された。青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍で遭難した。弘前連隊の兵士38人は1月20日から行軍して、約240kmを11日間で全員無事に踏破して帰還した。弘前連隊は、7人の村民に過酷な八甲田超えの道案内の酷使をさせられて、町が見えたとたんにその場に置き去りにした。村民は7人全員が凍傷を負い、うち1名は重度障害者となり16年後に死亡、うち1人は凍傷のため頬の穴で飲水困難となった。
 青森連隊は1月23日から行軍して、八甲田山の周辺で遭難した。雪中行軍兵士210人のうちで、山中で193人の凍死者を出して、救出後に6人が死亡して、11人のみが生存した生存率約5%の大惨事となった。193人の凍死者のうちで、発見されて死亡が確認できたのは135人のみで、最終的に58人の凍死体は発見できなかった。生存者のうち8人が凍傷のため四肢が切断された。体温は通常37℃前後で、約32℃まで下がると脳機能の低下により思考や活動ができなくなり、さらに体温が下がると昏睡から死に至る。将校は下士官に比べて装備が良く生還できた割合も高く、将校が脱いだフランネルの服を着れた伍長が助かった。
 青森連隊が予定日の1月24日にも帰還しないため、1月25日の捜索隊によって遭難が確認された。捜索は、厳寒のために困難をきわめて、2月7日には約3,000人もの兵士と地元民が投入された。捜索隊からも、多数の凍傷者が続出した。捜索には、厳寒の北海道のアイヌの人びとも加えた。陸軍は弁明のため歪曲した『遭難始末』を1902年7月23日に報告して、1971年9月に新田次郎が「八甲田山死の彷徨」でさらに陸軍を美談化して映画化された。




2019年3月6日水曜日

日露戦争の黒溝台会戦で、雪原は隠れる場所もなく狙撃され両軍の戦死者で埋まった。

満州戦争にて、約10万人ものロシア大軍が突如に満州南部の北方から日本軍に回り込み、1905年1月25日から29日まで黒溝台会戦が勃発した。日本軍は沈担堡から黒溝台までの約40kmの戦線を約8000人だけの日本軍で防衛した。最も手薄となっている戦線に約10万人ものロシア軍が1905年1月25日突如に奇襲した。雪原を進軍すると隠れる場所がないため、容易に狙撃されて、両軍の戦死者で埋まっていった。黒溝台の戦場には哀れなロシア軍兵士の約1万人の死体が散乱した。黒溝台会戦で日本軍の死傷者は約9,300人にも達して、厳寒のために戦傷者の約半分は凍傷を伴った。
 ロシア軍に突破されて撃破された日本軍は、ロシア軍の奇襲の効果が薄れると、戦線の危機を繕えた。膠着状態となり、突如1月28日からロシア軍は内紛や革命などにより退却した。ロシア本国では、1905年1月9日に発生した血の日曜日事件からロシアの第1革命が勃発していた。ロシア国内に蔓延していた日露戦争に対する厭戦気分に大きく影響した。
 


2019年3月4日月曜日

日清戦争において、牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。

中国の遼東半島の下端付近の牛荘で、日清戦争において日本軍と清国軍とが攻防した。牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。
 牛荘作戦は、日清戦争の戦闘である。遼陽平原の清国軍を掃討するために、牛荘に進出して営口を占領した。1895年3月4日に日本軍は牛荘城内で日清戦争で最初の市街戦が勃発した。清軍の抵抗は激しく、いたるところで猛烈な射撃の応酬をした。清国軍は、牛荘城の東南面からの退路が遮断され、「周章狼狽、遂に市街の各戸に鼠入し、決死の抵抗を為」した。城内は至る所で激し市街戦となり、3月5日に日本軍はようやく牛荘を完全に占領した。日本軍は、抵抗あるいは敗走する清国軍兵士を殺害して、投降する者は捕虜にした。清国軍は、遺棄された死体は約1880人、捕虜は約698人で、牛荘城の守備部隊は過半数の兵力を失って、犠牲者は最大となった。日本軍側は死傷者は約389人で、うち戦死者は約72名であった。
 牛荘鎮は遼河の河口に位置して、遼代以来満州の海の玄関として栄えて、清代中頃に繁栄した。第2次アヘン戦争後の1858年6月に締結された天津条約と1860年の北京条約に基づき、遼東半島の下端の牛荘(Newchwang)が開港されるも、商港に不適のために遼河河口の営口を、外国人貿易に解放された。営口が栄えて、牛荘が寂れた。
  


2019年2月26日火曜日

日露戦争で作子溝の戦闘で、日本軍兵士の多数の戦死体が、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。

日露戦争における作子溝の戦闘で、戦死した日本軍兵士の多数の死体が、処分が間に合わずに、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。戦闘中は、死体の収容も困難であり、放置されたままに腐乱した。日露戦争の膨大な戦死者の犠牲を伴うも、死体の処理は荒野で火葬あるいは埋められて処分された。至るところに埋めた目印となる墓標を荒野に立てた。膨大な死体の場合には積み重ねて火葬にして埋葬した。人体は水分が多いので、太い薪を大量に燃やしても一晩かかった。旅順攻略戦闘では、クリスマス休戦や正月の休戦等、戦域司令官同士が休戦を合意すれば、双方が戦死の死体を回収して、犠牲者を弔うこともあったようである。
 1873年1月10日に徴兵令を施行した明治政府は、陸軍と海軍の墓地制度を布告して、戦死体の処分権と祭祀権は、1945年8月15日の終戦まで遺族ではなく軍部が握った。日清・日露戦争から日中戦争の前半頃までは、戦地に墓地を設営して、火葬あるいは土葬して戦死者の死体を処分した。陣地が継続的に確保されていれば、墓標を立てて儀礼も行った。日中戦争の後半になると、墓地を設営する余裕もなく、火葬した遺体の一部分を持ち帰り、他の部隊に委託から本国に還送することになった。近代戦では、戦死者の死体数が増大するにつれて、戦況に応じた儀礼や処分がされた。軍隊に兵士の死体の処分の権利があり、遺族に遺骨を渡した。遺骨の還送が困難な場合は、霊璽(霊名)を記載した用紙、さらには白木の箱に入れた砂、小石、サンゴなどを、軍隊が形式的な儀礼を行って遺族に手渡した。日本国憲法では軍隊を持たない日本に、戦後から靖国神社が戦死者の祭祀権を保持している問題が継続している。




2019年2月18日月曜日

日露戦争の旅順攻略にて、ロシア軍の砲弾で西嶺溝の東方にある畑地の多数の日本軍の歩兵連隊が戦死した。

日露戦争において、1904年7月26日午後に西嶺溝の東方にある畑地で戦闘中に、ロシア軍の砲弾等にて日本軍の多数の第36歩兵連隊が戦死した。その死体が、荒野の雑畑に散乱した。1904年2月から7月にかけて連勝の日露戦争は国民の不安心理を払拭して、県民は戦勝に酔い、各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。
 歩兵第36歩兵連隊は、日本陸軍の第3軍に所属して、遼東半島に上陸して、旅順要塞の攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦にも参戦した。この戦闘における歩兵連隊の戦死者率は第4位にも達した。203高地を攻略する第3軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参戦したことに由来する。8月19日からの旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、生存者は約251人と悲惨な戦死状態に陥った。戦死者は歩兵は約1,533人、戦傷者が約4,211人、行方不明は約24人に達した。9月5日には、第36連隊は旅順第1回総攻撃で竜眼北方角面堡の攻略に失敗して、ほぼ連隊が凄惨な全滅に陥った。奉天会戦でロシア軍を圧倒した1905年3月10日から、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みも立たなくなった。 




2019年2月13日水曜日

日清戦争で日本軍は旅順を陥落した時に、中国人らを清国軍の容疑者として射殺した。

日清戦争において、日本軍による旅順の陥落時に、清国軍の容疑者として中国人を射殺した。日本軍は旅順内に戦死した戦友のさらし首の散乱にも激怒して、無差別に中国人を出会う生命は射殺しながら、銃剣で突き殺し、日本刀で切り倒した旅順虐殺事件が勃発した。
  日本は1876年2月に、朝鮮に対して日朝修好条規の締結を強要した。1894年5月に朝鮮で暴発した農民による東学党の乱で、日本は支朝鮮を支配配するために参戦した。朝鮮と関係が深い清国は、日本の支配に対抗して戦乱となった。日本軍は1894月25日には豊島沖で海戦、29日は牙山で陸戦して清国軍を敗退させた。8月1日に両国が宣戦布告して本格的な日清戦争に突入した。日本軍は9月1日に平壌を侵略して、10月24日に国境の鴨緑江を渡河して、清国内の遼東半島に侵攻した。日本軍は、花園口に上陸して11月6日に金州城、11月7日に大連湾を攻略して、21日に旅順を陥落した。日本軍の侵略に対して、朝鮮国内の猛烈な反日暴動が頻発した。日本軍は、10月27日に河東、11月7日に金剛山、11月12日に晋州、11月17日に三峰山、11月19日に百城洞、11月30日に忠清道で約20,000人もの朝鮮人農民の暴動に対して、残酷な虐待と虐殺を繰り返した。





2019年1月8日火曜日

日露戦争の奉天会戦で、ロシア軍が敗退した満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。

日露戦争における奉天会戦で、ロシア軍が敗退して後に、満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。果てしない荒野には、見渡すかぎりの死体の山、焼け落ちた民家、煙がくすぶり続ける物資が散乱した。
 日露戦争の奉天会戦が1905年3月に行われた日露戦争最後の大規模な陸上戦となった。1905年1月に日本軍が旅順攻略したのち、日本の満州軍総司令部は日本軍兵士の約250,000人を終結し、ロシア軍を殲滅して戦局を決定することを意図した。現在の瀋陽である奉天を拠点とするロシア軍も約320,000人のロシア人兵士を集結して対峙した。3月1日に両軍は全線で戦闘が勃発した。戦局は容易に進展しなかったが、ロシア軍は3月7日までに約8,705人の戦死者と約51,438人の戦傷者と総計で約90,000人もの死傷者を出したた。次期に反撃できるロシア軍兵士を保持するために伝統的な戦略的撤退をした。3月10日に日本軍は奉天を占領した。日本軍も約15,892人の戦死者と59,612人の戦傷者と総計約70,000人もの犠牲を受けた。追撃の戦力を失って、特に戦闘の前線の先頭を侵攻する下級将校が犠牲となり、ロシア軍の追撃は達成できなかった。奉天会戦の犠牲で、日本軍は戦力の低下から、これ以後大規模な会戦は困難となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を醸成した。奉天会戦を機に日露講和が議論に上るも頓挫した。日本軍は戦勝を記念して奉天占領の3月10日を陸軍記念日とした。


2018年12月19日水曜日

万宝山事件で中国人脱走兵が虐殺した韓国人の死体と偽って報道して、日本は中国人の反日感情を韓国人に転換した。

万宝山事件が1931年7月2日に中国満州の長春郊外の万宝山で勃発した。用水路の工事を巡って朝鮮移住民と中国人の農民の衝突があり、朝鮮人移住民が中国人警官によって死傷者も出さずに用水路から強制的排除された。
 朝鮮日報により万宝々事件の誇大な誤報道(中国人警官約800人を朝鮮人の約200人を虐殺)伝わると、朝鮮半島の各地で中国人移住民に対して朝鮮人の集団的報復により、中国人移住民は次々と襲撃された。平壌だけでも約100人以上の中国人移住民が虐殺された。特に日本による誇大な誤報道により、朝鮮では激しい反中国運動が起り、それに対抗して中国では排日運動が激化した。朝鮮人たちは中国人から常時に満州で迫害を受け続けた。満鉄沿線以外では危険や迫害が迫り、危険防止のため朝鮮人は日本人の名前を所持する創氏改名の運動が起こった。



2018年12月17日月曜日

日露戦争は大石橋の惨戦は約30kmの大戦線で日本軍に甚大な死体の山や逃走兵も伴った。

日露戦争中に営口と南満州鉄道本線をつなぐ大石橋で、日本軍はロシア陸軍を撤退させ占領した。大石橋は中国遼寧省で哈大線沿いの町である。1904年7月24日に大石橋の惨戦が勃発して、7月25日に日本軍は大石橋を占領した。日本軍は約56,000人、ロシア軍は約49,000もの兵士で、東西に約30kmにも及ぶ大戦線となった。両軍それぞれ約1,000人もの戦死傷者を出す惨戦となった。大石橋の惨戦では、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は死体の山を築いた。悲惨な戦況から、遂に銃を捨て逃走する日本軍兵士も散見された。
 鴨緑江会戦で日本軍が5月1日にロシア軍を破り、南山の戦いではロシア軍陣地を5月26日に侵略して、約4,000人もの日本軍兵士が戦死した。遼陽を目指した日本軍は、南下したロシア軍隊を得利寺の戦いで6月15日に撃退し、続いて大石橋の戦いでも7月25日に惨勝した。日本軍が、旅順攻囲戦を8月19日から開始するも、ロシアの近代的要塞に長期化した。両軍ともに約1万5,000人が戦死する大損害を受けて、1905年1月1日にロシア軍を攻略した。



2018年12月7日金曜日

日本軍は、鉄道妨害犯人で逮捕された3人の朝鮮人を軍法会議で死刑を宣告して銃殺した。

1905年頃に、日本軍は、1905年頃にソウル付近で鉄道妨害犯で逮捕された3人の朝鮮人を銃殺した。両側に並ぶ日本軍は、彼らを匪賊と呼び、軍法会議で死刑を宣告した直後に処刑した。
 日露戦争が1904年2月8日に勃発する直前に、大韓帝国は中立を宣言した。日本軍は無視して宣戦布告より2日前に仁川から約10,000人がソウル周辺を占領した。2月28日には日韓議定書を結び、日本は軍略上に必要な地点を臨機収用できた。日露戦争後には、朝鮮半島を南北に貫き中国東北部に迫る約950kmの鉄網を構築した。日露戦争後も日本軍は約30,000人が占領して、朝鮮は日本軍により植民地化された。鉄道は朝鮮人から農地を奪い、日本軍は強引に集められた朝鮮人に強制労働を課した。朝鮮人に反発と憎しみを呼び、日本支配に抵抗する義兵闘争となった。手を焼いた日本軍は、鉄道に危害を与えた者やかくまった者を死刑にする軍令で処刑した。きつい労働を強要されて抵抗した農民は、銃を構えた日本軍兵士にはりつけで処刑された。1905年頃に日露戦争のさなか、日本帝国が韓国侵略のために敷いた鉄道を破壊して、首都の京義線付近で3人が公開銃殺された。日本の植民地化に抵抗した3人は義兵として、処刑場面の写真は韓国の歴史教科書にも登場する。



2018年9月26日水曜日

日本軍が北間島の村落を放火し、ピョン農民が大極旗を振り大韓独立運動と叫び、日本刀により両腕を切断した。

日本軍が韓国を併合した時代に、朝鮮近辺における北間島の和竜県の全村落を放火した。その最中に、村民の30歳台のピョンと名付けた農民が、大極旗を振りながら、大韓独立運動と叫んだ。日本軍がピョンを検挙した。その処罰として、日本軍兵が、日本刀を振りかざして、ピョンの両腕を切断した。両腕から大量に出血して、直後に大地に倒れた。
 1902年10月に、日本軍がシベリアから撤退して、東南にソ連、西南に豆満江を挟んで朝鮮に接していた間島を侵略した。1920年10月に間島の日本領事館の琿春分館が2度に襲撃事件を引き起こして、朝鮮独立運動の容疑者を大量虐殺をした。朝鮮独立運動勢力は、北間島の周辺に潜伏した。日本軍は、北間島地方を無差別に弾圧した。1931年9月18日から満州事変が勃発してから、朝鮮独立運動は抗日闘争が過激化した。1934年に朝鮮人が土地を奪われて間島に流刑されて、人口が増大して約570,000人にも達した。間島を拠点とする独立武力勢力は強化されて、東北人民革命軍に合流して、中国共産党の支配下に入って、抗日統一戦線が結成された。



2018年8月24日金曜日

アメリカ艦隊は海兵隊を1867年に広城鎮に上陸させた戦闘で、アメリカ軍兵士は約3人と朝鮮軍兵士は約240人が戦死した。

アメリカのアジア艦隊は、1867年6月11日に陥落した直後の広城鎮には、多数の虐殺された李氏朝鮮の兵士ら死体が散乱した。強固な攘夷鎖国であった李氏朝鮮は、1866年に朝鮮住民を殺害したアメリカ商船シャーマン号を撃沈して乗務員を虐殺した。アメリカは1867年1月に、シャーマン号の乗組員の安否を確認する軍艦ワチュセットを派遣した。さらに1868年4月に辛未洋擾の事件究明のために軍艦シェナンドアを派遣した。1871年清国に駐在していたアメリカ公使は、李氏朝鮮に対してシャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊を李氏朝鮮に派遣を命じた。日本の長崎から5月に5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった。アメリカ軍は6月10日に激しい砲撃戦から、アメリカのアジア艦隊は海兵隊を江華島に上陸させた。まず草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘の犠牲者は、アメリカ軍は約3人に対して、朝鮮軍は約240人も戦死した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊には損害を与えなかった。アメリカ軍は、李氏朝鮮軍かの多数の武器・軍旗を戦利品にして帰国した。アメリカ海軍の勝利であったが、本来の目的の通商は大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引き続き鎖国を続けた。日本政府は李氏朝鮮に1868年から開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。日本は1875年に軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領して、守備兵を虐殺して武器を略奪した。日本側は朝鮮側からの砲撃の責任を追求して、交渉のための開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結されて、朝鮮は開国した。






2018年8月11日土曜日

日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、犠牲となった戦死者の死体を満州の高地に埋葬した。

日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、南方高地に戦死者の死体を埋葬した。日露戦争にて、遼陽を侵略した日本軍に対して、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させた。両軍は1904年10月8日から18日にかけて、沙河付近で沙河会戦が勃発した。双方に大きな人的犠牲がでた。10月8日夜半に本渓湖の日本軍が、ロシア軍の攻撃を受けて沙河会戦が勃発した。日本軍は10月10日には防御から攻撃に転じた。各地で激戦が展開されて、10月12日に日本軍が三塊石山を占領し、ロシア軍は後退した。日本軍は15日に沙河河畔の要地である万宝山を占領した。ロシア軍は翌16日に万宝山を奪回した。日本軍はロシア軍の追撃も困難となり、10月18日に日本軍は沙河南岸に防御を固めた。10月下旬に旅順第2次総攻撃を控えた日本軍は、北部戦線に余力はなかった。北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、1905年春まで対峙した。沙河会戦にて、日本軍の参加兵力は約120,800人で、戦死者約4,099人・戦傷者約16,398人が犠牲となった。ロシア軍は、参加兵力約221,600人で、戦死者約5,084人・戦傷者約30,394人・行方不明者約5,868人の犠牲を出した。



2018年7月8日日曜日

日露戦争の満州侵略の途上にて、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の戦死者を集積しては火葬した。

日露戦争の緒戦にて、満州を侵略するために、日本軍は中国と北朝鮮の国境となる鴨緑江を渡河した。日本軍は1904年4月25日の夜に、北朝鮮北西部の虎山として知られる鴨緑江に面した九里島に侵攻した。4月26日朝に義州元化洞の九里島に攻撃して上陸して占領した。それを阻止するロシア軍の砲兵隊に砲撃を受けて、多数の戦死者を出した。日本軍は4月30日から5月1日まで鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、それを防御するために待機していたロシア陸軍との間で戦闘が勃発した。戦争下の日本軍は不利な状況になり窮地に至って、日本軍はロシア軍の砲撃により多大な犠牲を受けた。苦しい状況で攻めあぐねて、悲惨な戦況ともなった。ロシア軍も、悪路・悪天候の戦地の環境にも混迷して、戦地で苦戦をした。鴨緑江渡河の途上で、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の日本人兵士の戦死者の死体を集積しては火葬して処理した。5月1日の午後にはロシア軍の撤退によって日本軍は九連城一帯を占領した。



2018年7月1日日曜日

日露戦争でロシア軍兵士は203高地で死体を検分して、日本軍は戦闘は2回の攻略は失敗し、膨大な犠牲者は軽視された。

日露戦争は、旅順港の防御の重要地点であった203高地が最も悲惨な戦闘となった。ロシア軍兵士も膨大な死体群が旅順要塞に散在した。ロシア軍兵士らは、犠牲となった死体を検分した。日本軍は戦闘は数ヶ月にわたる2回の攻略は失敗して、膨大な犠牲者は軽視された。ロシア軍は、203高地の防御の重要性は軽視して、要塞攻略はあまり重要ではなかった。ロシア軍側も203高地一帯は不利な地点でり、前進基地としての運用しか考えていなかった。日本軍は2度にわたり攻略は失敗して、バルチック艦隊の出撃を受けた。要塞正面への攻撃による消耗戦に突入するため、1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するも、ロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。結局12月5日に203高地は陥落した。ロシア軍は要塞の予備兵力が消耗枯渇した。日本軍も203高地の占領は戦略的にも戦術的にも寄与しなかった。多くの戦死者を出した。旅順攻略戦として犠牲者は、戦死者約16,000人、戦傷者約44,000人に及んだ。ロシア側の被害も大きく、予備兵や臨時に海軍水兵水兵までも、203高地で虐殺された。