2018年8月24日金曜日

アメリカ艦隊は海兵隊を1867年に広城鎮に上陸させた戦闘で、アメリカ軍兵士は約3人と朝鮮軍兵士は約240人が戦死した。

アメリカのアジア艦隊は、1867年6月11日に陥落した直後の広城鎮には、多数の虐殺された李氏朝鮮の兵士ら死体が散乱した。強固な攘夷鎖国であった李氏朝鮮は、1866年に朝鮮住民を殺害したアメリカ商船シャーマン号を撃沈して乗務員を虐殺した。アメリカは1867年1月に、シャーマン号の乗組員の安否を確認する軍艦ワチュセットを派遣した。さらに1868年4月に辛未洋擾の事件究明のために軍艦シェナンドアを派遣した。1871年清国に駐在していたアメリカ公使は、李氏朝鮮に対してシャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊を李氏朝鮮に派遣を命じた。日本の長崎から5月に5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった。アメリカ軍は6月10日に激しい砲撃戦から、アメリカのアジア艦隊は海兵隊を江華島に上陸させた。まず草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘の犠牲者は、アメリカ軍は約3人に対して、朝鮮軍は約240人も戦死した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊には損害を与えなかった。アメリカ軍は、李氏朝鮮軍かの多数の武器・軍旗を戦利品にして帰国した。アメリカ海軍の勝利であったが、本来の目的の通商は大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引き続き鎖国を続けた。日本政府は李氏朝鮮に1868年から開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。日本は1875年に軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領して、守備兵を虐殺して武器を略奪した。日本側は朝鮮側からの砲撃の責任を追求して、交渉のための開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結されて、朝鮮は開国した。