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2020年7月1日水曜日

アメリカ軍が1903年4月頃にフィリピン南部のモロ反乱に対して一斉射撃をして、戦闘後には多数のモロ族の死体が土豪に散乱した。

アメリカ軍が、1903年4月頃にフィリピン南部のモロ反乱に対して一斉射撃をした。一斉射撃しているアメリカ軍兵士が見守り微笑んでいた。戦闘後には多数のモロ族の死体が土豪に散乱した。モロ族の住民らに、散乱したモロ族の死体を横並びに集散させて土中に埋葬させた。アメリカ軍によるモロ族の虐殺は、1906年に約900人のモロ人を、伝統的なモロ人の集会場所であったブドダジョ火山の火口に閉じ込めて殺害した。1913年にジョン・パーシング軍事総督が、同様にバドバッグサック火山の火口に避難した約500人以上ものモロ人を虐殺した。モロ反乱において、約25,000人のアメリカ軍は約130人が殺害され約250人が負傷したのに対して、約15,000人ものモロ人が殺害された。
 モロ反乱が、フィリピンとアメリカの戦争の終結後した1899年から1913年まで発生した。モロ族は、フィリピンの南部のミンダナオ島、ホロ島、スル島等に住むイスラム教徒である。スペインの統治からアメリカへ統治の移行を監視するために、モロ族とアメリカ軍兵士との間の散発的な戦闘を伴った。モロ族は、いったんフィリピンがスペインから解放されると、自治になると考えた。1899年にアメリカがフィリピンを占領したことに抵抗して、スル族のスルタンを中心に、ミンダナオ島やスル族の群島での戦闘をした。
 1902年7月4日に、アメリカはフィリピンとアメリカの戦争で勝利を宣言した。平和条約はアメリカ軍との戦闘を継続していた南部のモロ民族には適用されなかった。その後に、アメリカはモロ族の領土の支配を拡大して、約1年弱後にアメリカはモロ州を創設して、直後にレナード・ウッドを州の軍事総督に任命した。1903年から1909年までウッドはイスラム教徒のフィリピン人を鎮めることはできなかったが、奴隷制度の廃止を義務付けて、比較的平和裏に軍事総督を務めた。ジョン・パーシングは、1909年から1913年まで最後の軍事総督を務めて、軍隊をモロ族地域に広範囲に派遣して、20世紀初頭のモロ反乱を終わらせた。モロ県でフィリピン人の軍縮をもたらした。フランクカーペンターは1913年に最初の文民知事になった。フィリピン人は自治することができず、アメリカの占領から利益を得れるため、フィリピンを保護国として維持した。フィリピンは1946年7月4日になってアメリカの保護国でなくなった。


2020年3月18日水曜日

三島由紀夫が自衛隊総監室で切腹自殺をした死体と、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室で切腹自殺をした直後の制服をかけた死体と、切腹自殺の時に介錯されて断頭されて、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。総監室に持ち込んだ日本刀や短刀などが散在していた。赤絨毯の上が血の海となった。国内外ともに、憶測と論争から騒然となった。
 著名な作家であった45歳の三島由紀夫は、1970年11月25日に、自分が主宰する「楯の会」のメンバー4人と、防衛庁(現防衛省)自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で、午前11時に総監を拘束し人質にして、自衛隊員と乱闘して総監室に立てこもった。自衛隊員を集め、憲法改正のため自衛隊の決起いわゆるクーデターを呼びかけた。しかし賛同を得られないと判断した後に、自ら切腹自殺をした。三島由紀夫は、1968年頃から軍事的な侵略に備える軍隊的な規律を持った民間防衛組織である楯の会を結成していた。
 総監を人質にして、市ヶ谷駐屯地にいる自衛官全員と、市ケ谷会館に待機している「楯の会」の会員を、駐屯地に集合させて、三島由紀夫に演説をすることを自衛隊に強要した。午前11時40分に約800人の自衛隊員が本館前に集合した。12時に三島由紀夫が、バルコニーに立ち、スピーカーも無く演説を始めた。三島由紀夫は自衛隊員に向かって、「自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略) 諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫し、憲法改正などを目的としたクーデターの決起を促した。ヘリコプターの騒音と、自衛隊員の怒号やヤジなどによって、演説はほとんど聞けなかった。12時10分に、演説を諦めて「天皇陛下万歳」を3回繰り返して、総監室に戻った。総監室に戻り、上半身を裸になり、正座して切腹して自殺するために、短刀を左脇腹に突き刺し、右へ引き切腹した。楯の会のメンバーが、三島由紀夫の首を日本刀で断頭して、身体が前面に倒れた。楯の会のメンバーの25歳の一人が切腹して、残った3人のメンバーが日本刀で断頭した。12時30分に、残った楯の会3人は、総監室で現行犯で警察に逮捕された。3人は嘱託殺人等で、懲役4年の実刑判決と裁定された。
 東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という回答であった。海外は、日本軍国主義の象徴と復活の恐れを議論して注目した。



2020年1月14日火曜日

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。ギリシアにてアテネ工科蜂起が、ギリシア軍事政権に対する大規模な学生デモがアテネ工科大学で発生した。蜂起は1973年11月14日に始まり、反軍事的反乱に激化して、11月17日の早朝に軍事政権の戦車が、アテネ工科大学の門を突破して侵攻して、学生の悲惨な流血で終結した。デモに参加した学生と市民の死者は約80人と負傷者数百人、逮捕者が約700人がでる犠牲になった。1973年11月17日午前3時頃に、軍事政権の戦車がアテネ工科大学の鉄門を突破した。アテネの街の明かりは消灯されて、大学の発電機によるキャンパス内の照明のみであった。不明瞭な映像では、戦車が人々がしがみついた大学構内への主要な鉄門を打倒した。無線伝送記録において、建物の周囲の軍事政権の兵士に命令に反して、「兄弟の抗議」と叫び戦わないようにと必死に求める若者の声が聞こえた。感情的な発声に続き、ギリシャ国歌の歌詞を暗唱して、戦車がアテネ工科大学に突入する時点で、送信が停止した。
 ギリシアは、1967年4月21日から軍事政権の支配下にあり、市民権を廃止し、政党を解散し、政治的信念に基づく政治家と市民を追放、投獄、拷問した独裁政権となった。アメリカは、軍事独裁政権を擁護・支援した。1968年8月13日に暗殺未遂から、秘密警察によるギリア市民の監視と検閲などによる言論統制を強化、政権に反対する政治家や共産主義者の容疑者を逮捕して拷問して国外追放あるいは孤島に収監した。1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対するギリシア市民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化した。アテネ工科大学蜂起に反発したアテネ軍が、1973年11月25日に軍事政権を打倒する反クーデターが勃発して、新たな軍事政権に転換した。ギリシア軍事政権のキプロス政権の打倒が失敗して、1974年7月15日にトルコによるキプロスの侵攻を招いて、軍事政権は破綻した。1974年11月11日の国民投票からギリシアが民生移管してギリシア共和国が成立した。


2019年9月19日木曜日

天安門事件にて、中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場に突撃して、学生が頭部を装甲車で破砕され虐殺された。

1989年6月4日未明に、中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場に突撃して、学生が頭部を装甲車で破砕されて虐殺された。学生の死体を取り囲んで、武器を持たない市民や学生らの群衆は、拡声器を通じて抗議の叫び声を上げた。戒厳部隊は、戦車・装甲車・兵士を満載したトラックで、天安門に向けて街路地を突進した。デモ隊のバリケードは倒れ、民主の女神は破壊された。街頭に繰り出した市民や学生に対して、戒厳部隊は発砲して、約数千人も虐殺された。広場で銃声が響くと、市民や学生らは絶望して涙を流し広場を立ち去った。中国共産党は、事件による死者は319人と公式発表した。この事件による死傷者は、報道規制により不明である。数百人から数万人に及ぶなど死者数は不明確である。
 静音な6月3日未明から、戒厳部隊が強制排除に踏み出した。一度は撤退しては、再度に戻る戒厳部隊に、群衆の一部が投石や火炎瓶で応対した。火炎瓶を浴びて動けなくなった1台の装甲車から飛び出した兵士が群衆により虐待された。その挑発行為を武力行為と捉えた。それから戒厳部隊は、暴力的な武力行使を執行して、無差別に市民や学生らを襲撃した。政府指導者は、反革命的で反党的な陰謀として糾弾して、人民解放軍が北京に進駐した。集結した市民や学生の群衆に対して、戒厳軍は発砲して流血事件となった。6月3日の午後には、天安門広場の手前の数百メートルで、約6万人もの市民や学生らは人民解放軍の前進を阻止した。一部の武器を奪われた人民解放軍は再び侵攻した。兵士が、棍棒やベルトで市民や学生を打倒した。6月3日の午後10時頃に、バリケード突破と発砲を指令された。6月4日午前0時すぎに、天安門広場に突撃した。


2019年8月8日木曜日

ミャンマー政府軍兵士が群衆に発砲したときに、AFP通信社の長井健司は映像取材中に至近距離から銃殺された。

東京のAPF(Asia Press Front)通信社の記者であった50歳の永井健二は、2007年9月27日にミャンマーの大都市ヤンゴンのダウンタウンにて、僧主導の反政府デモであるサフラン革命を取材した。ミャンマー政府軍兵士が群衆に発砲したときに、長井健司は至近距離から銃殺された。ミャンマー軍事政権の警戒射撃により殺害された31人の抗議者の1人であると2007年12月27日に国連が公表した。ロイターの写真家アドリース・ラティフ(Adrees Latif)は、ミャンマーのヤンゴンで警察によって射殺された日本人ジャーナリストの長井健司が銃殺された写真により、ピューリッツァー賞を2008年に受賞した。
 燃料価格の約5倍もの急騰などに対する8月15日からの最初の小さな抗議デモは、1962年から40年以上にわたる軍事支配と経済的困難に直面して、ヤンゴンやその他の都市の街頭デモ行進に急速に拡大した。9月18日から僧侶があずき色のローブに身を包み聖歌と祈りをしながらデモ行進した。ヤンゴン中心部のスーレーパゴダ(以前はラングーン)にモデ行進を開始した。軍事政権は、9月25日にヤンゴンに夜間外出禁止令を下した。
   長井健二は2007年9月27日に、ミャンマー首都のヤンゴンの旧トレーダース・ホテルから数ブロック離れたスレー・パゴダ近くまで抗議デモを撮影していた。ミャンマー政府軍の治安部隊がデモ隊に発砲した際に、長井健司を射殺した。ミャンマー政府による私服治安部隊が、長井健司を携帯電話で追跡して監視した。デモ隊の一部が銃撃されている写真を長井健司は木の陰から撮影していた。監視者が長井健司の行動を携帯電話で本部に逐一伝えていた。ミャンマー政府軍による監視者が兵士に射殺の命令を下した。長井健司は、ミャンマー軍兵士の警戒射撃により殺害された。長井健司が撮影に使用したカメラはミャンマー政府に取り上げられて、隠蔽されて返還はされていない。ミャンマー軍の機密文書により軍当局が兵士に対しデモ現場にいるカメラ所持者を銃撃するよう指令を出していた。最重要の射撃対象者として長井健司は位置付けられていた。長井健司の銃殺は、偶発ではなく、ミャンマー軍の組織的な指令によるものだった。


2019年5月31日金曜日

ロシア内戦でタンボフ反乱を起こした農村の農民は、1920年代にボリシェビキを首吊りで虐殺した。

ロシア内戦によって、タンボフ反乱を起こした農村部の村人たちは、1920年代にボリシェビキ派を首吊りにて虐殺した。ボリシェビキは、モスクワの南400kmにあり、豊かな土壌を保有し、農業が盛んなタンボフに、約50回も食料徴発部隊を派遣して、農民を追い詰めた。飢え死なく穀物を自由にする共和国の独立のために、遂に農民蜂起をした。1920年から農民の反乱は頻発して、反乱軍は約3万人に膨れた。
 だった。タンボフも日照りが続き、農民は飢えに苦しんだ。レーニンは約10万人の赤軍をタンボフに派遣した。ボリシェビキは農民たちを弾圧して、都会市民は飢えに追い込んれ、農民への憎悪が暴発した。ボリシェビキ政府は対立を利用して、反革命勢力の撲滅をした。農民は赤軍に逮捕され虐殺され、死体は放置され腐敗した。蜂起した農民と家族は連行されて、拷問と虐待を受けて虐殺された。ボリシェビキ政府は、追い詰められた農民が隠れた森に毒ガス攻撃が行われ、あぶり出され呼吸困難で絶命した。約14,000人の農民が殺され、反乱は鎮圧された。タンボフ県は分割され、近隣の州に付けられ、地図から抹消された。
 ボルシェビキに対する農民の反乱は、1920年から21年のタンボフ反乱に対して、ボルシェビキ政府は容赦なく対抗して、強制収容所と毒ガスの使用により何十万人もの農民が殺害された。農民の蜂起と弾圧の下で、ボルシェビキ指導者たちは農民に対する政策を改変した。ボルシェビキの支配に対する農民や市民からの脅威が減少しても、共産党の独裁政権または抑圧を放棄しなかった。ソビエト内戦時代には、ジョセフ・スターリンが後になって残虐行為の作戦を遂行した。虐殺するために使用する収容施設が設置された。農業社会から現代の工業国を急速に創出するために何百万人もの農民を虐殺した。



2019年3月19日火曜日

米比戦争にてフィリピン人ゲリラの革命軍が、暗殺した一人のアメリカ人の死体の周りを囲んだ。

米比戦争では、フィリピン人ゲリラがアメリカ人に対する最悪の虐待と虐殺者となった。彼らの革命的な脅威は、アメリカ軍や民間人に虐待、性的虐待、およびその他の迅速かつ恐ろしい処罰を執行した。フィリピンの革命軍が、暗殺した一人のアメリカ支持者の死体の周りを囲んだ。
 フィリピンは、1898年にアメリカとスペインとの間で勃発した米西戦争の最中に、独立を果たしたつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン第一共和国がフィリピン人によって建国された。フィリピン第一共和国の建国を承認しないアメリカは、フィリピンを植民地化した。フィリピン人は猛烈に抵抗したが、アメリカとフィリピンとの間の米比戦争で約60万人のフィリピン人がアメリカ軍によった無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドがアメリカ軍の捕虜になり第一共和国は崩壊した。フィリピンは旧スペイン植民地のグアムやプエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けた。
 1900年初頭から革命軍はゲリラ紛争を主導して、アメリカ軍による群島占領により、米比戦争は、当惑する複雑な一連の地域戦争となった。戦争を継続するのに十分な資金と物資を集めたが、革命軍たちは効率的に分配できなく、欠乏して士気を失った。フィリピン群島の大部分では、法と秩序は事実上崩壊していた。




2019年2月20日水曜日

イギリス公使パークスに対する攘夷で、罪人は斬首され樽で塩漬けの首を刑場に晒した。

イギリス人公使のハリー・パークスと一行は、1868年3月に京都の知恩院の門に面したまっすぐな道路を、何の妨害もうけずに進んでいった。行列の先頭が居酒屋や芸者置屋の多い新橋通りの角を曲がろうとした時、抜き身の刀を手にした2人の浪人者が飛び出して、怒りに狂って行列に切りかかった。通りは非常に狭く護衛兵の槍は家の軒先で役に立たなかった。
   2人の浪人者のうち、林田貞堅(朱雀操)はその場で斬られて即死した。もう1人の三枝蓊は捕らえられて、後に斬首となりました。ミットフォードは捕らえられた三枝蓊に食事を提供すると、外国人を知らずに襲撃の実行を深く後悔していた。一方のイギリス人一行は負傷者は約10名で、死亡者はなかった。イギリス人公使のパークスを直接に襲撃したが、イギリス側はこの事件を不問にした。明治政府は、狂信者たちが英雄的行為と考えてきた外国人を殺害や侮辱したりする行為は、恥ずべき邪悪な犯罪であり、罪人は刀を取り上げて士族の籍を抹消し、腹切りの特権なく重罪犯人として処刑した。斬殺された林田貞堅(朱雀操)の首は塩漬けにされて樽の上に、三枝蓊は斬首されて刑場に晒しものにされた。



2019年1月28日月曜日

ロシア帝国の1917年2月革命で、ペトログラード市民らは銃殺された犠牲者を死体保管所で取り巻いて検死した。

ロシア帝国の1917年2月革命で、ペトログラード市民らは銃殺された犠牲者を死体保管所で取り巻いて検死した。動乱を起こした兵士や監獄から解放された犯罪者らが、武装してさまざまな暴力行為や略奪、脅迫、無差別な虐待や虐殺により、約1,433人もの犠牲者が出た。
 ロシア帝国の首都であったペトログラードで、国際婦人デーである1917年2月23日に大規模な女性が隊列を組んでデモを挙行した。ヴィボルグ区の繊維工場の女性労働者が、食料パンの不足に抗議のデモ行進をした。氷の張ったネヴァ川を渡った男性労働者と合流した。2月24日にも約15 万人もの市民が市内に集まり膨大なデモに参加した。2月25日には、地域全体のデモとなり参加者が増大した。午後8時30分にロシア皇帝のニコライ2世は、軍隊に対して暴動を2月26日中に鎮圧する命令を出した。2月26日に日曜日に、ペトログラードに厳戒態勢を敷いた。ネフスキー大通りやズナメンスカヤ広場では、軍隊と警察が機関銃でデモ隊を狙って、砲撃をしてペトログラード市民ら約150人以上が銃殺された。2月27日には身内である市民に発砲した兵士らが懺悔して、デモ隊に参加して襲撃を拒否して、市民と兵士らがまず監獄を攻撃した。暴動による略奪や暴力に巻き込まれて多数の市民も犠牲者となった。2月28日に労働者・農民・兵士の評議会であるソビエトが自然発生的に形成された。1917年の10月革命では、10月26日にソビエトには共産主義である独裁政権が樹立された。



2018年11月9日金曜日

第2次チェチェン紛争で2000年2月にロシア軍がアンカラ周辺の村を爆撃して、チェチェン人兵士や住民の死体が散在した。

地獄の第2次チェチェン紛争は1999年秋から勃発した。2000年2月に約4000人のチェチェン人兵士は降伏したグロズヌイから撤退した。アンカラ周辺の村がロシア軍により爆撃を受けて、チェチェン人兵士や住民の死体が散在した。
   チェチェンのイスラム系武装勢力のバサーエフが1999年8月7日にダゲスタン侵攻した。直ちにロシアはダゲスタン解放を名目に介入して、攻撃を加えてバサーエフは撤退した。数日後にはロシアの都市で相次いでアパートの爆破のテロ事件が発生した。ロシア市民がテロの恐怖に怯えると、エリツィン大統領はソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチンを首相に就任させた。就任当初からプーチンは対チェチェン強硬策を進め、ロシア市民の圧倒的な支持を得た。1999年9月23日にロシア軍はチェチェンの首都グロズヌイへの爆撃を開始して、第2次チェチェン紛争が勃発した。
 ロシア軍の侵攻を受けて、マスハドフ大統領とバサーエフも和解し、対ロシア戦闘で共闘して、チェチェン独立派は再び結束した。ロシア側は、12月31日にエリツィンが辞任してプーチンが大統領に任命された。第2次チェチェン紛争により、プーチン大統領の権力委譲がロシア国民に支持された。
 第2次チェチェン紛争は、1999年から2009年までの10年間も続いた。第1次チェチェン紛争と同じく、チェチェン人兵士は正面からの攻撃を避け、山岳地帯でゲリラ戦を展開した。ロシア軍は、チェチェン全土を占領するために徹底的な掃討作戦を実施した。テロリストを逃避したと疑われる村を包囲し、住民を尋問により選別して、テロリストと疑われる者や無差別にも収容所に送還された。家族を取り返すために賄賂がない場合は殺害される場合も多かった。ロシア兵による虐待・婦女暴行・殺害・虐殺も相次いで起こった。
 ロシア側の徹底的な情報封鎖もあり、第2次チェチェン紛争は全体の死者数も不詳で、約20万人以上とも想定された。チェチェン側はロシア本国へのテロ事件で報復を行った。2002年に人質129名が死亡したモスクワ劇場占拠事件が勃発した。第2次チェチェン紛争は2009年に終結宣言が出されたが、チェチェン人のテロ事件は続いて、未だに紛争は終わっていない。最も悲劇なのは一部の人間の搾取と欲望の犠牲となるチェチェン市民の人々であった。



2018年11月8日木曜日

韓国の光州事件で虐殺された若い学生らの死体を、ドイツのシュピーゲル誌は「韓国の血まみれの反乱」を掲載した。

 韓国の朴正煕大統領が1979年10月26日に暗殺されて18年にわたる軍事独裁政権が幕を下ろした。しかし1979年12月12日に軍事クーデターで、全斗煥は政権の実権を握った。軍事政権の復活を警戒する学生らと市民の民主化デモは韓国全土に拡大した。
 1980年5月17日に軍の実権を握っていた全斗煥は、非常戒厳令を全国に拡大した。金大中や金泳三ら有力政治家を拘束した。1980年5月18日に南部の光州市では民主化を求める学生デモはさらに激化した。南部の光州市に空挺部隊が投入され、市民への発砲などで多くの死者、行方不明者が出た。5.18記念財団によれば、犠牲者は死者154人、行方不明者70人、負傷者1628人の計4,362人に上った。5月27日には戒厳軍は市内を制圧した。光州市内の電話がこの日まで不通になり、マスコミも情報統制され、光州市内の真相は長く隠蔽された。ドイツのシュピーゲル誌は、光州事件で虐殺された若い学生らの死体を「韓国の血まみれの反乱」と掲載した。
 戒厳令が下された5月18日の全南大学前では、学生と戒厳軍の間に最初の衝突が起きた。戒厳軍は、学生を無慈悲に鎮圧した。戒厳軍は、学生が光州市内に行進した街頭デモ隊と市民に向かって銃剣と鎮圧棒を振り回した。これに激怒した光州市民は5月19日朝から綿南路に集まった。人波はますます増えて、5月20日午後になると数万人にも増えた。デモ隊の規模が大きくなると、戒厳軍は5月21日に市民に向けて一斉射撃を加えて、数多くの死傷者を出した。衝撃と怒りに包まれたデモ隊は、警察署で奪取した武器で武装して、戒厳軍と銃撃戦を繰り広げた。光州市民は自らの秩序維持と治安を担当して、市民収拾委員会を設けて戒厳軍と交渉を行う一方で、市民軍の武器を回収するなど、無政府状態を収拾するために努力した。しかし、戒厳軍は5月27日未明に、光州市に再入して包囲して残って抗争していた市民を電撃的に鎮圧した。
 5・18記念財団は、1995年の国会で、5・18特別法を制定して、事態の責任がある新軍部主要幹部を起訴する法的根拠を用意した。最高裁は1997年に全斗煥・盧泰愚元大統領にそれぞれ無期懲役と懲役17年を宣告して追徴金を課した。

2018年11月7日水曜日

メキシコ市トラテロルコ地区で、政府の軍隊や警察が反政府集会を鎮圧して、学生や市民らに約30人から300人の死者を出した。

メキシコシティ・オリンピックの10日前の1968年10月2日にメキシコのメキシコ市でトラテロルコ地区の三文化広場で、学生とさまざまな職業の市民による反政府集会が軍や警察によって鎮圧されて約30人から300人の死者を出した。トラテロルコの虐殺は、エレナ・ポニアトウスカの著作「トラテロルコの夜」により国際的に周知された。「誰がこんなことを命じたのか? こんなことを命じることができたのは誰か? これこそが重罪である。」
 1968年はアメリカ合衆国におけるベトナム反戦デモやフランスのパリの5月革命、日本の大学紛争など、学生デモが頻発した年でもあった。メキシコは高度経済成長の成果を国際的にアピールする初のオリンピックを直前に控えていた。メキシコ政府は「平和の祭典」の準備しながら、治安を乱す恐れのあるデモに反抗した。メキシコ軍により治安維持を名目に大量虐殺が執行された。
 1968年7月にメキシコ国立自治大学に軍隊を侵入させ、無差別に教師や学生を逮捕した。学生側が民主的な要求をするほど、両者間の緊張は高まった。8月27日には医療総合団体が学生側と連帯した。学生たちは市の中心部の大聖堂に「赤と黒の旗」をかかげ大衆にデモ活動を誇示した。8月31日に政府は過激活動を弾圧する声明を公表した。9月13日に学生側は弾圧を避ける「沈黙のデモ」を決行した。このデモは大衆の支持を得て、250,000人もの参加者が静かに街をデモ行進した。膨大な市民の異議に対抗して、政府はより強硬な弾圧によってデモの鎮静化した。1968年10月2日にメキシコ市トラテロルコ地区三文化広場で、政府の軍隊や警察は予告もなく反政府集会に銃撃して、学生や市民らに約30人から300人の死者を出した。1968年にはクーデターによりペルー、パナマに軍事政権が樹立された。ラテンアメリカ及びカリブ核実験核兵器禁止条約は調印した地名からトラテロルコ条約と呼称した。


2018年9月23日日曜日

タイの左翼学生が絞首刑で虐殺され、右翼の学生が非常に興奮して、折り畳み椅子で頭部を拳打し続けた。

タイは、1976年10月に2年ぶりの第3政権は、右派の市民右派組織と左派の大学生の間の衝突によって揺れ動いた。一晩遅く、2人のリベラルな学生がリンチされて首吊りで虐殺された。右翼の学生は、大学近くで左翼の学生を虐待して攻撃した10月6日の朝に、彼らは極秘にジャングルで虐待した。ジャングルでは、右翼の学生たちは、ますます興奮して暴力的になった。ライフルを武装した政権勢力の軍隊が現れた。左翼の学生は武装しておらず防御できずに、大学の建物内に避難した。自動小銃の激しい爆発音がサッカー場を越えて放たれた。避難した建物は全てのガラスが破壊されて、左翼の学生が逃避する場所はなかった。最後に、左翼の学生は降伏した。木々の中でいくつかの騒動が勃発した。身体が首吊りで針金で樹木からぶら下がった。左翼学生は確実に絞首刑で虐殺されていた。右翼の学生集団は非常に興奮して激怒して、折り畳み式の椅子で頭部を拳打し続けた。
   タンマサート大学虐殺事件または血の水曜日事件は、タイ王国で1976年10月6日クーデターの過程で発生した。タイ王国の首都であるバンコク市内タンマサート大学の構内で勃発した。左翼学生は、亡命先から強行帰国したタノーム・キッティカチョーン元首相の断罪を政府セーニー・プラーモート内閣に要求する約10,000人の集会運動をした。左翼の学生集団に、サガット・チャローユー国防相率いる国境警備警察、バンコク市警察と民間右派組織が攻撃した。集会参加者の約100人が検挙と拘束された。集会参加者の約2人は虐殺されて、約36人の負傷者が虐待された。さらに集会参加者の検挙拘束は約100人、集会参加者の犠牲者46人、負傷者167人を弾圧した。集会を制圧した午後6時に、サガット国防相は国家統治改革評議会の名の下に戒厳令と軍事クーデターを宣言して、セーニー・プラーモート首相は失脚して排除された。

 第2次世界大戦後に、タイではピブン政権から、軍事クーデーターによるサリット政権、クーデターによる政権の成立で、軍事政権の勃発から新憲法制定して、政党政治の復活するも、政治権力が腐敗を起こした。市民集会やデモに軍が軍隊が発砲して犠牲者が出る事件も相次いだ。軍事クーデターよる軍事政権の樹立する悪循環が現在まで何度も繰り返された。 



2018年9月20日木曜日

ロシア帝国のオデッサでは、約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺された。

ツァール・ニコラス2世が1905年10月に声明文を発行した後に、反ユダヤ人によるユダヤ人虐殺の波が席巻した。革命期の帝国ロシアの民族的と政治的な緊張と暴動を反映した。基本的な市民権と政治的自由をロシア人に付与した数週間後に、主にユダヤ人に向けられた虐殺だけでなく、何百人もの市町村で学生、知識人、その他の少数民族が数多くの市町村で反乱が勃発した。港湾都市オデッサだけ、少なくとも約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺され、ユダヤ人を中心に約300人が負傷したと警察は報告した。約1,600以上のユダヤ人の家屋、アパート、店舗が破壊されて、その被害は膨大となった。1905年のロシア帝国では、他のどの都市も、オデッサのユダヤ人に匹敵する虐殺は発生しなかった。ロシア帝国後期の反宗教主義とユダヤ人虐殺は過剰となった。オデッサはロシア帝国で4番目のに大都市で、人口約40万人で、約138,000人のユダヤ人が居住していた。19世紀から20世紀初頭にかけて、西ヨーロッパやロシアの多くの地域で、民族的差別により、民族宗教的対立と政治経済的危機が影響した。19世紀の大半の間は、ユダヤ人は特にオデッサで歓迎されていた。オデッサのユダヤ人は、一般的には潜在したままであった。度重なる戦争が始まった19世紀になり、愛国主義や民族主義が勃発して、ユダヤ人は反ユダヤ人主義に巻き込まれた。戦争によるオデッサからの穀物輸出をユダヤ人が仲介して敵対主義が扇動された。

  ロシア帝国は1905年1月22日に血の日曜日事件で市民を虐殺した。6月14日にロシア海軍の戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱を起した。ポチョムキン号はウクライナ南部のオデッサ港に入港して、反乱兵士を迎えた市民がコサック兵に大量虐殺された。反乱の発端は、スープの肉が腐ってウジ虫を乗組員が訴えても、肉を食べない乗組員を士官が命令違反で銃殺しようとした。乗組員は、6月27日に艦長以下の士官を殺害し、艦を占領して、商業港オデッサに入港した。6月28日にロシア帝国軍はコサック兵を派遣して反乱は鎮圧した。


2018年7月3日火曜日

インドネシア軍は、東ティモールのフレティリンの首に賞金をかけて、切断した頭部を見せしめに公開した。

インドネシア軍は、東ティモールのフレティリンの首に賞金をかけて、1991年に切断した頭部を吊り下げて見せしめに公開した。東ティモール独立革命戦線であるフレティリン(FRETILIN)は、1975年11月8日に東ティモールの独立宣言をした。12月7日からインドネシア軍は、東ティモールに全面攻略により、混乱に陥れて占領した。東ティモールの山岳部に逃れたフレティリンの抵抗勢力は、インドネシア軍に独立運動を継続した。村民らをフレティリンに接触させないように、再定住村の収容キャンプに強制移住させた。都市部の市民には、ニンジャの暴力組織や秘密警察に監視された。東ティモール人をインドネシア軍に徴用して、分断してフレティリンなどに戦闘をさせた。フレティリン勢力の容疑者らは、逮捕、尋問による虐待から虐殺もされた。国連主導の選挙によるフリティリン政権が、2002年5月20日に21世紀で最初の東ティモール民主共和国が独立して建国された。



2018年6月30日土曜日

ソ連軍は、壮絶で絶命的な反抗をしたハンガリー市民やハンガリー秘密警察も虐殺して、死体が街路に散在した。

ソビエト連邦軍は、ハンガリー独立を粉砕して阻止するために、1956年11月4日の「旋風作戦」から、圧倒的軍隊で引き返した。ハンガリー市民は、壮絶で絶望的な反抗するも、約2,500人の市民が虐殺された。首都のブタペストは壊滅して、ソ連はハンガリー市民に対して、悲惨な残酷な報復による虐待と虐殺を数年も継続した。ソ連の代理政権に対する反抗活動を疑われたハンガリー市民は、数千人以上が拘束して投獄された。ハンガリー市民は、心的外傷後ストレス障害を伴うなど数十年間に残存して潜在した。ハンガリー秘密警察(AVO)職員も虐殺された死体が街路に散在した。ハンガリー動乱は1956年10月23日にソ連の支配に対するハンガリー市民による全国的動乱が勃発した。ソ連軍は停戦をはさんで1956年11月1日にも、ハンガリー動乱に対して乱入した。1957年1月にソ連はハンガリー代理政府を任命し、動乱は直ちにソ連軍により鎮圧され、数千人の市民が虐殺され、約25万人が難民として国外へ避難した。1980 年代のペレストロイカ政策から、1989年10月にハンガリー第三共和国が樹立された。




2018年6月30日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 130,000回

2018年5月6日日曜日

北アイルランドの市民デモに対して、イギリス軍が発砲して12名が即死し1名が重症後に死亡した。

北アイルランドの独立をめぐるイギリス軍との紛争にて、1972年にロンドンデリーで「血の日曜日事件」が勃発した。1月30日に北アイルランド公民権協会が計画した市民デモに対して、イギリス軍が発砲した。12名が即死して、1名が重症後に死亡した。平穏な市民による公民権運動に対して、イギリス軍が北アイルランド市民を虐殺して弾圧した。イギリス本土のオルダーショットで、血の日曜日に発砲したイギリス軍の落下傘部隊が、IRA(アイルランド共和国軍、Irish Republican Army)により報復攻撃を受けた。北アイルランドの反英行動に対して、アイルランド緊急法を制定して、3月24日からイギリス政府によるアイルランドの直接統治が勃発した。北アイルランドでは、イギリス軍の攻撃とテロリズムにより、約3,000もの犠牲者が出た。1998年4月28日に両国の市民権を有するベルファスト合意をした。北アイルランド和平構想は、1972年から長い交渉の末1998年4月に北アイルランド紛争に和平合意が成立した。国連や欧米諸国が軍事力でなく、多数派の意志決定が優先しない合意に対して1998年にノーベル平和賞を授与された。



2018年4月2日月曜日

ペール・ラシェーズ墓地でコミューン市民らは全滅して、変わり果てた悲惨な市民の死体が、墓地の埋葬前に集積された。

普仏戦争は1870年9月のスダンで皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、プロイセンは1871年1月にヴェルサイユからドイツ帝国軍として3月1日パリに入城した。国民軍の武装解除に激高したパリ市民が3月18日に蜂起した。臨時政府はパリを放棄してヴェルサイユに逃走した。パリ市庁舎前に3月27日に約20万の市民が集まり、コミューン政権を樹立した。その政権には、急進派や無政府主義派、共産主義派が混在した。パリ以外の都市や農村部の保守ままでパリは孤立した。ヴェルサイユ臨時政府軍はパリを4月2日から攻撃して、激しい市街戦から5月21日突入した。パリ市街に火を放ち抵抗するも、ペール=ラシェーズ墓地に追いつめられたコミューン市民らは5月28日に全滅した。変わり果てた悲惨な市民の多数の死体が、墓地の埋葬前に集積された。コミューン市民には弾圧が続き、約4万人が逮捕されて約270名が死刑となり、その他は強制労働、禁固、流刑で虐待された。



2018年3月16日金曜日

イギリスのインド兵士が、天津で義和団の農民を虐殺して、白河の川辺に散乱した死体に整列した。

清国にて、日清戦争の敗北から農民が排外主義により反乱した。1899年と1900年には中国北部で扶清滅洋を掲げて、外国人宣教師、国民、中国人キリスト教徒を攻撃して虐殺した。清国の西太后も乗じて賛同して、1900年6月21日に列強8ヶ国に宣戦を布告した北清事変が勃発した。これに対して、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵して、天津に上陸から北京に入り義和団を鎮定した。イギリス軍は連合軍の中で3番目の約12,000人規模 (1番日本軍約2,100人、2番ロシア軍約13,00人)であったが、大部分はインドからで傭兵であった。インド兵士が、天津で義和団の農民を虐殺して、白河の川辺に散乱した死体に整列した。


2018年3月16日 Japan No War (Nonfiction) 

日本平和の市民連盟 視聴回数 100,000回



2018年3月14日水曜日

中国に対する大規模な抗議デモでチベット青年が大きな炎を走り巻き込み焼身自殺した。

中華人民共和国による1950年のチベット自治区の支配により、チベット人は次第に国土、権利、文化、経済を失った。その期間に中国は圧倒的軍事力と漢族移民によりチベット市民に対して弾圧、強制収容、搾取、虐待や虐殺を行った。首都のラサの三大僧院の僧侶たちが、1987年9月にチベット国旗で抗議デモをして弾圧された。2001年から仏教の弾圧が強化され、中国人が社会資源を奪い、チベット市民との格差が拡大した。大規模なデモが鎮圧されて、反発して独立を求めるチベット市民や僧侶による焼身抗議自殺が頻発した。2012年3月26日に、中国に対する大規模な抗議デモのただ中で、27歳のジャンペル・イシュが、大きな炎を巻き込み約50m走り込んだ。チベット人が国旗で消火するも、3月28日に亡命政府があるインドで焼身自殺した。2009年から2015年でも143人のチベット人が焼身自殺をした。