東京のAPF(Asia Press Front)通信社の記者であった50歳の永井健二は、2007年9月27日にミャンマーの大都市ヤンゴンのダウンタウンにて、僧主導の反政府デモであるサフラン革命を取材した。ミャンマー政府軍兵士が群衆に発砲したときに、長井健司は至近距離から銃殺された。ミャンマー軍事政権の警戒射撃により殺害された31人の抗議者の1人であると2007年12月27日に国連が公表した。ロイターの写真家アドリース・ラティフ(Adrees Latif)は、ミャンマーのヤンゴンで警察によって射殺された日本人ジャーナリストの長井健司が銃殺された写真により、ピューリッツァー賞を2008年に受賞した。
燃料価格の約5倍もの急騰などに対する8月15日からの最初の小さな抗議デモは、1962年から40年以上にわたる軍事支配と経済的困難に直面して、ヤンゴンやその他の都市の街頭デモ行進に急速に拡大した。9月18日から僧侶があずき色のローブに身を包み聖歌と祈りをしながらデモ行進した。ヤンゴン中心部のスーレーパゴダ(以前はラングーン)にモデ行進を開始した。軍事政権は、9月25日にヤンゴンに夜間外出禁止令を下した。
長井健二は2007年9月27日に、ミャンマー首都のヤンゴンの旧トレーダース・ホテルから数ブロック離れたスレー・パゴダ近くまで抗議デモを撮影していた。ミャンマー政府軍の治安部隊がデモ隊に発砲した際に、長井健司を射殺した。ミャンマー政府による私服治安部隊が、長井健司を携帯電話で追跡して監視した。デモ隊の一部が銃撃されている写真を長井健司は木の陰から撮影していた。監視者が長井健司の行動を携帯電話で本部に逐一伝えていた。ミャンマー政府軍による監視者が兵士に射殺の命令を下した。長井健司は、ミャンマー軍兵士の警戒射撃により殺害された。長井健司が撮影に使用したカメラはミャンマー政府に取り上げられて、隠蔽されて返還はされていない。ミャンマー軍の機密文書により軍当局が兵士に対しデモ現場にいるカメラ所持者を銃撃するよう指令を出していた。最重要の射撃対象者として長井健司は位置付けられていた。長井健司の銃殺は、偶発ではなく、ミャンマー軍の組織的な指令によるものだった。