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2021年7月13日火曜日

第一次バルカン戦争にて、エディコイ虐殺が1912年11月に勃発した。ブルガリア軍に支援されたギリシア人集団がエディコイ村の約1,651人ものトルコ系住民を大虐殺した。

第一次バルカン戦争にて、エディコイ(Edeköy)虐殺が1912年11月13日から11月20日に勃発した。ブルガリア軍に支援されたギリシア人集団がエディコイ村のトルコ系住民を大虐殺した。エデコイ村だけでなく西トラキアから避難した何千人ものイスラム教徒のトルコ人が拷問されて虐殺されて、彼らの財産は略奪された。エディコイの人口は1800人で、軍隊にいた約100人の若者を除いた、主に女性、老人、子供も含めた約1,651人が虐殺された。巻き込まれたトルコ人を含める約2,000人以上に達した。女はモスクに、男は大きな納屋に閉じ込めて、全員に火をつけた。死者の一部は井戸に捨てられた。

 バルカン半島にてオスマン帝国を消滅するため、1912年10月8日にモンテネグロはオスマン帝国に戦争布告して第一次バルカン戦争は勃発した。ブルガリアとセルビアとギリシアは10月18日に戦争布告した。ギリシャとセルビアの主要作戦は、アルバニアを解体することであった。バルカン軍は約72万人で、オスマン帝国軍は約30万7千人で構成された。オスマン帝国のヨーロッパ領土に住んでいた約632,408人のイスラム教徒が殺害されて、約812,771人がアナトリアに移住した。バルカン戦争中にバルカン諸国によって結成された「十字軍同盟」が、約70万人近くものイスラム教徒を殺害した。

 ロシア革命のレフ・トロツキーは記者として虐殺を目撃した。マケドニアのアルバニアの民間人や他のイスラム教徒の村人がセルブによって残酷に殺され、頭を切り落とされたイスラム教徒の死体が横になり、イスラム教徒の村が焼かれ、イスラム教徒に属する貴重品が組織的に略奪された。第一次バルカン戦争中、セルビア人だけでなく、彼らの土地を拡大したモンテネグロ人、ブルガリア人、ギリシャ人も、バルカン半島に住むトルコ人、アルバニア人、ボスニア人、その他のイスラム教徒を虐殺した。女性、老人、子供、赤ちゃんはさまざまな拷問によって殺害された。トルコ国内外に深刻な危機に直面したオスマン帝国は敗退した。バルカン戦争を終結させるロンドン条約が、1913年5月30日に調印された。

 第二次バルカン戦争は、1913年6月29日から8月10日にブルガリアが領分に不服して、セルビアとギリシャを攻撃した。7月にはルーマニアとトルコもブルガリアに戦線布告した。ブルガリアは敗退して孤立無援となり、第二次バルカン戦争は1913年8月10日にブカレスト条約で終結した。利益相反のあるバルカン諸国がお互いに争って一層に対立関係が深まり、ロシアやオーストリアの利害も絡み、第一次世界大戦の導火線となった。




2021年4月26日月曜日

ギリシア内戦にて、迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。

ギリシア内戦下にて、アンダンテのゲリラに襲撃されたギリシア民主国民軍(GNA)は、カスタニア村に向けて迫撃砲を打ち込んだ。迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した。住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。爆死したアンダンテのゲリラの死体が横たわっていた。家族ならびに近隣の住民の夫人らが死体を取り囲んだ。その死体の胸の上には花束と、あの世に渡る代金である2ドル相当の1万ドラクマ札を供えていた。ゲリラの死体を取り囲み慟哭しながらキリスト教の唱歌を唱和した。ギリシアのゲリラの拠点であったカスタニア村は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍の占領によって、約280戸のうち約260戸が破壊された。その後は約600人のギリシア人の住民が潜伏した。ギリシアのゲリラは、アンダンテと呼称された。1946年9月頃にアンダンテがゲリラ活動を再開すると、ピンダス連山の一帯に潜伏したゲリラを捕獲できずに、ギリシア政府軍の憲兵が立ち去った。
 憲兵は、ゲリラ活動に対して厳重な経済封鎖で対抗した。ピンダス連山一帯の地域住民に対する食料から衣類など全ての日常用品の持ち込みを封鎖した。経済封鎖のの最大の犠牲者は地域住民であり、買い出しに近隣のカラバダ村に買い出すと、アンダンテのゲリラと容疑されて虐待と虐殺される危険性を伴った。
 ナチス・ドイツ軍がギリシアを占領中に、ギリシア人民解放軍(ELAS)に参戦したアンダンテのゲリラらはレジスタンス運動をした。ギリシアの占領が解放されると、左翼のレジスタンス運動から共産主義の烙印を押された。地元では、その経歴から排他されて無職に陥った。逆に、対ドイツ協力派を含むギリシア民主国民軍(GNA)は、ELASを捕獲するため、ギリシア政府から武器を支給された。追い込まれたアンダンテのゲリラは、ピンダス連山一帯に致し方なく潜伏した。アンダンテのゲリラ部隊は、分裂して独立した個別集団となった。

 ギリシャ政府軍は、1946年から1949年までに約48,000人の死傷者を出した。武装した反政府勢力はおそらくその死傷者の約半分を被った。しかし、両側の死の部隊は、数千人の民間市民を殺害して、さらに多くの人々が残虐行為、病気、飢餓で死亡した。内戦の結果として、約158,000人のギリシャ人が死亡したと推定された。ギリシャはほとんど経済的荒廃に陥った。
 ギリシアからイタリア軍は1943年夏に、ドイツ軍は1944年9月に撤退した。共産主義系の民族解放宣戦(EMA)とゲリラ部隊である人民解放軍(ELAS)、国民共和ギリシア連盟(EDES)が占領に対抗した。1944年12月に、ギリシア国軍(GNA)は、イギリス軍の支援を受けて、EAMとELASを打倒した。EAMは地下に潜伏して、ELASはゲリラ戦のために山地に後退した。GNAは、アメリカから大量の軍事物資の供給を受けて優位に立った。

 ギリシャが枢軸国軍から解放されて亡命政府が帰還した。1944年12月3日に十二月事件が勃発して、共産主義左派(EMA/ELS)と王党派右派(EDES)の間で対立が先鋭化して、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が、ギリシャ民主軍(DAG)というゲリラ部隊を組織した。戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が、マーシャル・プランで王党派右派政府の全面的な支援に乗り出した。さらに1948年以降にユーゴスラビアとソ連が対立して、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。 


2021年4月2日金曜日

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。古い建物の入口で、額に狙撃されて頭部に穴が空いて殺害された死体が散乱していた。狙撃兵の気まぐれの射撃により多数の市民が犠牲になった。1994年1月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、セルビア人の武装勢力によって包囲されて、砲弾と銃弾を撃ち込まれた。サラエボ市内には、セルビア人の武装勢力の狙撃兵が侵入して、市民を無差別に狙撃した。特ににイスラム教の共同体の民族であったボスニア人を標的にした。旧ソビエト連邦が崩壊した衝撃がバルカン半島まで襲った。クロアチアが独立宣言した時には、反発したクロアチア領土内のセルビア人が内乱を起こした。内乱に対して連邦宗主国のセルビア連邦軍がクロアチアに軍事介入して内戦が勃発した。 
 1992年4月にボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。1995年までの数年間に、ボスニアのセルビア軍は、ユーゴスラビア軍の支援を受けて、セルビア人が支配するイスラム教徒のボスニアクとクロアチアの民間人に対して凶悪な犯罪を犯して、約10万人を粛清した。そのうちの約80%はイスラム教に改宗したボスニアクが殺害された。1984年に平和の祭典である冬季オリンピックを開催したサラエボのスタジアムは、ボスニア戦争の内戦に巻き込まれた死者の墓地となった。
 バルカン諸国は第二次世界大戦の余波で、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニアは、チトーが主導するユーゴスラビア連邦人民共和国に併合された。1980年1月20日にチトーが死亡してから、民族主義が台頭して連邦が崩壊し始めた。1991年に、スロベニア、クロアチア、マケドニアは独立宣言した。セルビア人が支配するユーゴラビア軍は、クロアチアと残忍に衝突した。第二次世界大戦では、逆にクロアチア人がセルビア人を大量虐待と大量虐殺して、その復讐の怨念が潜伏していた。
 1992年3月3日に国民投票によりボスニア・ヘルチェゴビナは独立宣言した。ボスニア系セルビア人が、セルビアとの併合を求めた。1992年5月にセルビア系ユーゴスラビア軍が、ボスニアの首都セルビアの攻撃が勃発した。複数の民族が共存した地域では、民族主義が台頭して大量虐待と大量虐殺が繰り返された。
 セルビア人武装勢力による首都サラエボの包囲は1992年4月から1996年2月まで継続した。その包囲戦により、約12,000人以上が殺害されて、約5万人以上が戦傷し、犠牲者の約85%はサラエボ市民であった。多くの共存していた民族が、紛争が勃発すると、民族浄化の嵐を巻き起こした。1995年8月から9月にNATOがセルビア人武装勢力に対して激しい空爆をした。アメリカの仲介により、1995年12月にボスニア・ヘルツェゴビナ和製合意が成立した。

 

2021年1月29日金曜日

ボシュニャク側からの砲撃により、夕食の支度をしていた子供はミサイルが砲撃して上半身が飛び散り、セルビア人の妊娠中の妊婦も殺害された。

旧ユーゴスラビアの内戦は、セルビアとクロアチアとの内戦から勃発したが、国連平和維持軍が関与するごとに戦火が拡大して悪化した。内戦地帯から離れたサラエボに設置された国連平和維持軍の司令部が、紛争の爆心地となった。1994年4月にボシュニャク(モスレム)側からの砲撃によって、セルビア人の子供が殺害されて犠牲者となった。夕食の支度をしていた子供に、ミサイルが砲撃して上半身が飛び散った。セルビア人の妊娠中の妊婦も殺害された。戦争中に約10万人が殺害されて、約220万人以上が難民となった。

 1991年6月にクロアチアとスロベニアが独立宣言をした。クロアチアではクロアチア紛争が勃発して、少数民化したセルビア人を排斥した。最も複雑な民族が混在するボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国が、セルビア人がボイコットした国民投票により1992年3月に独立宣言した。セルビア人が対抗して分離独立を宣言して、衝突が深刻化した。セルビア共和国から軍事的支援を受けたセルビア人勢力とボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍と対立して内戦に陥った。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで、1992年4月6日から1995年12月14日まで内戦が続いた。その民族の割合は、約44%がボシュニャク人(ムスリム)人、約33%がセルビア人、約17%がクロアチア人と異なる民族が混在した。政府軍は、人口割合の高いボシュニャク(ムスリム)人が主導権を握った。ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が1993年まで優勢であった。

 1994年に、アメリカの介入で、クロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を締結した。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人とクロアチア人の連邦国家の結成も決定された。アメリカによりセルビア人勢力を弱体化した。4月10日から11日に、北大西洋条約機構(NATO)がセルビア人勢力への小規模な無差別の空爆が実施された。8月5日にセルビア人勢力が国連管理下の武器集積所の襲撃に対抗して再度のNATO空爆が行われた。11月21日と23日に3度目のNATO空爆が実施された。1995年8月30日から9月14日まで大規模空爆を行った。1995年12月14日にパリで和平のデイトン合意された。 

 

2021年1月7日木曜日

油田地帯のバクーのビビ・エイバットからバイリフ丘に逃亡したしたアルメニア人が、アゼルバイジャンのタタール人に虐殺された。

アゼルバイジャンは何世紀にもわたり豊富な油田を供給していた。19世紀までに世界有数の石油とガス産業の地域となった。1846年にアゼルバイジャンは、ヒビ・エイバット地帯で最初の油井を掘削した。20世紀初めまでに、世界の石油供給量の半分以上を生産していた。
 アルメニア人とタタール人の虐殺(Armenian–Tatar massacres)あるいはアルメニアとアゼルバイジャンの戦争が、民族対立と宗教の対立が1905年から1907年にかけて、ロシアのコーカサス全体で勃発した。アルメニアのアルメニア人は最古のキリスト教徒であり、アゼルバイジャンのタタール人はイスラム教徒のスンニ派である。1905年のロシア革命から何百も虐殺事件が勃発した。1902年から勃発して、暴力的な民族浄化の衝突が、1905年から大油田のバクーで5月に、ナクチェワーンで8月に、シュシャで11月に勃発した。アルメニアとタタールの戦争は、アルメニア人はバクーとナヒチェヴァンでより多くの犠牲を伴い、タタール人はシュシ、エレバン、トビリシでより多くの犠牲を伴った。
 衝突は1905年2月初旬に、タタール人男子学生と店主が殺害されて、アゼルバイジャンのバクーで4日間にわたり衝突して、アルメニア人が約218人とタタール人の約126人が殺害された。バクーのタタール人が、アルメニア人地域に襲撃して、多くの非武装のアルメニア人を殺害した。その他の推計では、約205人のアルメニア人が殺され、そのうち約7人の女性、約20人の子供、約13人の高齢者で、約121人が負傷した。さらに約111人のタタール人が殺され、約2人の女性がおり、子供や高齢者はいないが、約128人が負傷した。1905年から1907年にかけて、アルメニア人とタタール人の虐殺は、少なくとも約1,500人のアルメニア人と約1,600人のタタール人が虐殺された。
 1905年9月に油田都市であるバクーのビビ・エイバットど、タタール人のイスラム教徒は会議を開き、アルメニア人を油田からの追放を決定した。アルメニア人が留まるならば、タタール人は殺害すると喧伝した。その後には、アルメニア人の掘削支配人とカスピアン社職員が幹線道路で殺害された。市内で始まった虐殺のニュースは、タタール人は大喜びで受け取った。その間、支配人は電話で軍事的保護を訴えた。恐怖に襲われたアルメニア人はビビ・エイバットから逃げ出し、谷を見下ろすバイリフ丘に逃亡した。アルメニア人の難民は恐怖の馬に引きずられて丘の上に群がった。北風の強風と砂煙で目がくらんだ。群衆からはぐれたアルメニア人は射撃された。燃えている宿舎を離れたアルメニア系フランス人は、街路で刺殺された。カティソフ工場から逃亡していたアルメニア人労働者は、ボートの乗り込むところでタタール人に射殺された。

 

2020年11月2日月曜日

枢軸国によるセルビアの首都ベオグラードの夜明けの空襲で、都市の大部分が破壊され、約2,000人以上の民間人が殺害された。

ドイツ軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍の大軍部隊が関与した枢軸国の侵攻は、1941年4月6日にセルビアの首都ベオグラードの爆撃から勃発した。べオグラードの夜明けの空襲で、都市の大部分を破壊して、約2,000人以上の民間人が殺害され、数千人が負傷した。

 1941年3月25日にユーゴスラビアは枢軸国に加わり、領土を通過してギリシャに向かうドイツ軍への通過を容認した。クーデターでユーゴスラビア新政府が協定に基づく義務を履行しないと発表したため、枢軸国はユーゴスラビアに侵攻した。拘束する枢軸国への署名をめぐり、ユーゴスラビア政府は激しく分裂した。3月25日の合意の発表は、ユーゴスラビアの多くの地域、特にセルビアとモンテネグロで非常に不満が高まった。3月27日に、セルビア軍はペータル王を王位に就かせ、枢軸国に加わる前政権​​の決定を否定した。軍事政権の新首相は数日以内に声明を撤回しするも、ヒトラーは激怒して3月27日の夜にユーゴスラビア侵攻を命じた。
 ドイツ軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍の大軍部隊が関与した枢軸国の侵攻は、1941年4月6日にセルビアの首都ベオグラードの爆撃から勃発した。べオグラードの夜明けの空襲で、都市の大部分を破壊して、約2,000人以上の民間人が殺害され、数千人が負傷した。4月17日に、ユーゴスラビアは枢軸国に無条件降伏した。ユーゴスラビアに侵攻して、数千人の兵士と民間人が殺害された。約25万人以上のユーゴスラビア軍兵士が捕虜となった。ドイツ軍兵士は侵略でわずか約151人の戦死であった。枢軸国は、クロアチアの傀儡政権を除いて、ユーゴスラビアを4カ国軍に分割された。民族間の衝突を利用して、新しい領土の境界を強化した。
   ドイツ軍はスロベニア北部と東部を併合し、ドイツ系少数民族が多いセルビアのバナトを占領し、ベオグラードを拠点とするセルビア本土に軍事占領政権を樹立した。イタリア軍はスロベニア南部と東部を併合し、アドリア海(モンテネグロを含む)に沿ったユーゴスラビアの海岸線を占領して、1939年4月にイタリアが併合していたアルバニアをコソボと連結した。ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したドイツとイタリアが後援する「クロアチア独立国」を宣言した。ドイツ軍とイタリア軍はクロアチアを分割して、軍隊を駐留させた。ハンガリーは、ユーゴスラビア北東部のバッカ地方とバラニャ地方を併合した。ブルガリアはマケドニアと小さなセルビアのピロト州を占領した。枢軸国の政策と戦術の対立は、ユーゴスラビアに住むユダヤ人の運命が抹殺された。

 

2019年11月10日日曜日

東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。

1992年冬季に東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。ボスニア政府軍が東ボスニアの小さな村を襲撃した。村人たちが近くのボスニアのセルビア人武装勢力に援護を要請した。警戒警報のサイレンが鳴る中で、セルビア人武装勢力が村を、ボスニア政府軍から奪還した。村から逃げ遅れた村人は、皆殺しにされて、多数の犠牲者が出た。肉親の父親がセルビア人の息子の身を案じた探索した。父親が犠牲者の中に虐殺されてトラックに積み込まれた息子たちの死体を見つけ出して慟哭した。
 ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊から1992年3月に独立宣言を強行した。ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国には、ムスリム人(イスラム教徒)、セルビア人(キリスト正教会)、クロアチア人(カトリック教徒)の主要民族がいて、この順番に人口比率が高い。セルビア人の人口比率も32%と高く、内戦はクロアチア内よりも激しくなった。これに対してセルビア人は独立に反対し、民族衝突が激化した。ユーゴスラビア連邦軍は、ボスニアのセルビア人の保護を理由に武力介入を始めた。戦闘がボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の全土に拡大した。  
 ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア人が中心で、ユーゴスラビアを解体したくない考えなので、分離独立の動きには反対であった。1992年4月にボスニア全土に非常事態宣言が出される。1992年4月にはユーゴスラビア連邦議会は、セルビアとモンテネグロ両共和国からなる連邦国家である新ユーゴスラビアの創設を宣言した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は消滅した。 
 6つの共和国から成っていた旧ユーゴスラビアは崩壊して、5つの国に分離独立した。新ユーゴスラビア軍は、ボスニアに武力介入して、一時にはボスニア領土の60%以上を占領した。1992年5月に国連安保理理事会は、新ユーゴスラビアに対して、経済制裁を決議する。経済制裁によりセルビアの経済は破綻して、月率約100%のインフレにより、実質失業率が約60%となり、工業生産高も約3分の1まで落ち込み、輸入品が枯渇した、国民は買いだめて、ガソリンの割当を求めて長蛇の列ができたり、バス便数が減少して、救急医療体制の不備を引き起こした。セルビア国家予算の約70%が内戦への戦費支出を占めた。