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2023年9月20日水曜日

クロアチアのファシスト組織のウスタシュは、1945年3月27日から28日の夜中に、サラエボのマリンドヴォル地区にて55人のサラエボ市民を木や街灯に吊るして絞首刑にした。

クロアチアのファシスト組織であるウスタシュ(Ustaše)は、1945年3月27日から28日かけた夜中に、サラエボのマリンドヴォル地区にて55人のサラエボ市民を木や街灯に吊るして絞首刑にした。「ポグラヴニク万歳!」と書かれた標識が、絞首刑されたサラエボ市民の首にかけられた。サラエヴォ市民の死体は、他の人々への見せしめとして吊るされたまま放置された。死体を回収しようとした人々には発砲された。2月18日から4月4日まで、ルブリッチとウスタシャはサラエボ市民に対して悲惨なテロを実行し、少なくとも783人のサラエボ住民を殺害した。殺人と暗殺に対する絞首刑による報復の処罰が執行された。

 ウスタシュの幹部であるヴィエコスラフ・ルブリッチ(Vjekoslav Luburić)が絞首刑を命じた。ウスタシュによる強制収容所にて、セルビア人、ユダヤ人、ロマ人の同時期の大量虐殺を指揮した。1945年2月に、ウスタシュの独裁者であるパヴェリッチ政権は、ルブリッチをサラエボに派遣し、その後約2ケ月間に、数百人の共産主義者の拷問と殺害を指揮した。3月21日、ウスタシュはルブリッチの暗殺計画を摘発した。その後に4人のウスタシュが、パルチザンにより殺害された。その報復として、容疑者のサラエボ市民55人を見せしめの絞首刑を執行した。最も恐ろしい残虐行為は、ベルコビッチと呼称されたルブリッチの別荘の地下室でホロコーストが執行された。

 ウスタシユは、1929年から1945年にかけて、クロアチアのファシスト組織であった。第二次世界大戦中にユーゴスラビアにて、ウスタシュは、数十万人のセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反体制のクロアチア人を、ホロコーストを執行して大量虐殺した。ウスタシュは、ボスニア人をイスラム教徒のクロアチア人とみなして迫害しなかった。1941年4月10日に、枢軸国の準保護国として、傀儡国家のクロアチア独立国(NDH)として、ユーゴスラビアの一部の統治を任命され、権力を握った。ウスタシュは軍事的に弱く、クロアチア人の支持を欠いた。1945年5月15日に、クロアチア独立国は崩壊した。ルブリッチは、枢軸国以外で唯一クロアチア独立国を承認したスペインに逃亡した。1969年4月21日に、スペインでユーゴスラビア国家保安局(UDBA)の諜報員であるイリヤ・スタニッチにより暗殺された。




2023年9月17日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナの首都キエフ北西のボロディアンカ郊外の墓地に、2023年3月2日に掘り起こされた3体の死体が横たわった。身元不明な3体の死体が入った袋は死体安置所に運搬された。

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年3月2日に、ウクライナの首都キエフ北西のボロディアンカ(Borodyanka)郊外の墓地に、掘り起こされたばかりの3体の死体が横たわった。発掘された直後の3体の死体が入った袋が死体安置所に運搬された。その身元は確認できていない。

 首都キエフ近郊の町や村が、2022年2月24日のウクライナ侵攻の勃発直後から、キエフ近郊に向かって侵攻してきたロシア軍が短期間にボロディアンカを2月28日に占領した。その場しのぎに集団墓地に埋葬された。ウクライナ軍当局は、キエフ郊外を再奪還してからほぼ1年後にも、その場しのぎの墓に急遽埋められた市民の遺体をいまだに掘り起こしている。約200体近くの死体が身元不明のままであり、約280人が行方不明者として登録された。キエフ地方のロシア占領地域で発見された民間人の遺体は約1,373体となり、そのうち約197体はまだ身元が確認されていない。

 ウクライナ軍の救護隊が到着したのは、ウクライナ軍がボロディアンカを奪還した後の2022年4月だった。救護隊は瓦礫を2週間ほど掘り続けて、約15人の死体を発掘した。しかし、アパートなどの建物内にいた数十人の死体の痕跡は見つからなかった。ロシア軍がボロディアンカ住民から約100人以上をベラルーシに強制連行した噂もあった。

 ボロディアンカは、ウクライナ侵攻中にロシア軍によって大規模な2022年3月1日と3月2日に大爆撃を受けた。ウクライナ当局によると、がれきの下から約41体の死体が発見された。3月26日、キエフから撃退されたロシアは、この地域から完全に4月1日に撤退した。5月6日に地元警察は、ロシア軍占領下に埋葬された約300体以上の死体が発見されたと報告した。






















Warning: Men carry bags containing three freshly exhumed bodies in a cemetery on the outskirts of Borodyanka, Ukraine, Thursday, March 2, 2023. Nearly a year after towns and villages near Kyiv were retaken from Russian troops who had seized territory as they raced toward Kyiv at the start of their invasion of Ukraine, authorities are still exhuming the bodies of civilians hastily buried in makeshift graves. (AP Photo/Vadim Ghirda)


2023年9月10日日曜日

ウクライナのドンバス州のリマンの路上で、2022年10月4日にロシア軍の徹底後に、多数のロシア軍兵士の死体が放棄された。無惨なロシア軍兵士の多数の死体が、シトニアキーの道路にロシア軍に放置されて横たわった。

ウクライナのドンバス州のリマンの路上で、2022年10月4日にロシア軍の徹底後に、多数のロシア軍兵士の死体が放棄された。無惨なロシア軍兵士の多数の死体が、シトニアキーの道路に横たわった。リマンは、ウクライナ軍が反撃してロシア軍から10月1日に奪還した。

 ロシア独立系新聞ヴェルストカは2022年11月5日に、約570人のロシア軍兵士は、ウクライナ軍の大砲によって3日間砲撃を受け続けて、生残者はわずか40人だったと述べた。最前線に放り出され、塹壕を掘れと命令され、支援もなかった。大砲、ロケット弾、迫撃砲、ヘリコプターが容赦なく爆撃してきたと生存者は語った。

 ウクライナ国防省は、2023年から約3週間も経たないうちに、ロシア・ウクライナ戦争でさらに8,000人以上のロシア軍兵士が戦死した。1月1日から1月13日までに、約8,170人のロシア軍兵士が死亡した。2022年2月24日に勃発して約11ヶ月間の戦争で、死亡したロシア軍兵士の総数は約145,930人に上る。1月13日だけで、約740人のロシア軍兵士の戦死者数を報告した。2023年1月期は1日平均約628人のロシア軍兵士が死亡した。

 ロシア軍が、人口わずか1万人のウクライナの塩鉱山の町であるソレダルの戦いで、最も血なまぐさい戦いの一つで勝利した1月13日に、戦死者数の合計が算出された。ロシア国防省は1月13日の声明で、ドネツク州方面での攻撃作戦を成功させ続けるために、非常に重要なソレダルの町が解放されたと述べた。ロシア軍は、ソレダルの町を制圧することで、南西部アルチョモフスクにおけるウクライナ軍の補給路の遮断が可能になる。ロシア軍の地上攻撃隊、陸軍航空隊、ミサイル部隊、大砲によるウクライナ軍への絶え間ない砲撃攻撃を、ソレダル制圧に繋げたと公表した。

 ワシントンを拠点とする戦争研究所(ISW)は1月12日に、ロシア軍の情報工作はソレダルの重要性を誇張しすぎていると述べた。ホワイトハウスのジョン・カービー国家安全保障報道官も、バフムトとソレダルの両方がロシア軍に陥落しても、戦争に戦略的な影響を与えない。1月12日、ソレダルのキリレンコ市長は、十数人の子供を含む559人近くの民間人が町に閉じ込められたと述べた。ロシア軍が攻撃を強めているため、ソレダル市民は流血の中で生き延びようとしていると語った。





















Warning: Bodies of Russian soldiers were abandoned by their troops after their retreat, on a street in Lyman, Donbas, Ukraine, on October 4, 2022. (ADRIEN VAUTIER / LE PICTORIUM POUR)


2023年8月27日日曜日

ウクライナ北部のチェルニヒフで、地元の男性がロシア軍のミサイル攻撃後に殺害された死体を覆っていた。男性は、その後に覆われた死体の側に悲嘆して座った。

ウクライナ北部のチェルニヒフ(Chernihiv)で、地元の男性がロシア軍のミサイル攻撃後に殺害された死体を覆っていた。男性は、その後に覆われた死体の側に悲嘆して座った。その直後の映像には、屋根が吹き飛ばされた劇場を含むひどく損傷した建物、ぐちゃぐちゃになった車、血まみれの服を着て瓦礫の中を歩く生存者たちが写っていた。劇場前の広場は、宗教的な祝日である「救い主のリンゴ祭」を祝って、教会から戻った人々が、聖別されたリンゴの入ったバスケットを手に、活気に満ちていた。ミサイル攻撃後に、劇場の屋根の破片が広場に散乱し、近くの車やレストランの窓ガラスも粉々になった。

 ウクライナ北部のチェルニヒフ州の州都チェルニコフに、2023年8月19日にロシア軍がミサイル攻撃した。チェルニヒフ中心部の中央広場を直撃して、6歳の少女を含む7人が死亡して、144人が負傷して、その中で41人が入院したとウクライナ当局が発表した。負傷者144人のうち15人は子どもであった。死亡した少女の名前はソフィア(Sofia)であった。負傷者144人の中で15人は警察官であった。その犠牲者のほとんどは車に乗っていた。教会から帰りに、道路を横断していた時に犠牲となった。8月19日は、ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領が、スウェーデンに訪問に到着して時点にミサイル攻撃が勃発した。

 チェルニヒフは、首都キエフから北方へ約145kmに位置して、緑豊かな大通りと何世紀もの歴史を持つ教会があった。チェルニヒフへの攻撃は、主の変容の祝日である正教会の休日と重なった。被害を受けた劇場前の広場や周囲の建物には瓦礫が散乱して、駐車中の車両も大きな被害を受けた。歴史的な劇場の屋根は、ミサイル攻撃によって剥がされた。その直後に、屋根が吹き飛ばされた劇場を含むひどく損傷した建物、ぐちゃぐちゃになった車、血まみれの服を着て瓦礫の中を生存者たちが歩いていた。ウクライナの救護隊員が、ミサイル攻撃の現場で作業した。

 2022年2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻によって、チェルニヒフ包囲戦が勃発した。ロシア軍は占領に失敗して、代わりに首都キエフへの代替ルートを通じてチェルニヒフ市を迂回した。2022年3月6日に、ウクライナ政府はチェルニコフに英雄都市の特別称号を与えた。ロシア軍の包囲戦は3月31日に解放された。

















Warning: A man covered a dead body after a Russian attack, in Chernihiv, Ukraine, August 19,2023. A man sit beside a covered dead body after Russian attack. (National Police of Ukraine via AP)

2023年8月1日火曜日

キベホ虐殺は、1995年4月22日にルワンダ南西部のキベホ国内避難民収容所で大虐殺が発生して、多くの死体が散乱して転がった。キべホ国内難民キャンプ内で約4,000人がルワンダ愛国軍によって殺害されたと推定した。

キベホ虐殺は、1995年4月22日にアフリカのルワンダ南西部のキベホ近くの約4万人以上の国内避難民が暮らす国内避難民収容所で発生した。大虐殺で、多くの死体が散乱して転がった。右端には、国連平和維持(PKO)のザンビア軍兵士が立っていた。国連ルワンダ支援派遣(UNAMIR)の一環として32人のオーストラリア軍兵士らは、キべホ国内難民キャンプ内で少なくとも約4,000人がルワンダ愛国軍(RPA)兵士によって殺害されたと推定した。ルワンダ愛国戦線の軍事部門が率いるルワンダ新政府は死者数を約338人と推定した。国内避難民の多くは、内戦から逃れてきたフツ族の市民であった。

 4月18日に、RPAの重武装した約1,000人の軍隊が、収容所を閉鎖するためにキベホに到着した。4月22日午前10時過ぎ、大雨の中、避難民がカミソリワイヤーやバリケードに向かって殺到するなか、RPA部隊が病院敷地内の群衆に向けて発砲した。RPA部隊はその後2時間にわたり、逃げる難民に向けて発砲を続けた。RPAは当初、群衆に向けて小銃を発砲して、その後に60mm迫撃砲を使用した。ルワンダ難民は追い詰められ銃撃された。RPAは昼食後に一時的に速度を落とし、午後6時頃まで撮影を再開した。国境なき医師団(MSF)とオーストラリア軍の医療チームは、多数の負傷者の対応に苦悩した。多く負傷者はその後にキガリ病院に搬送された。ルワンダ愛国軍の歩兵部隊が、砲撃の合間に負傷者を掃討した。基地や病院に搬送している間、医療チームは救護を続けた。病院も砲撃されて、ザンビアの敷地内に移された。虐殺は一日中断続的に続いた。難民収容所内のあちこちでルワンダ難民が殺害された。RPAはさらに4月22日午後5時以降に脱出を試みた別のルワンダ国内避難民に対して自動弾丸、ロケット推進の手榴弾、50口径機関銃を発砲した。

 RPAは4月22日から23日の夜にルワンダ難民の死体の埋葬を開始した。4月23日の夜明け、オーストラリア医療隊が立ち入った地域では、約4,200人の死体を検死した。死体はすでに撤去されいた。RPAがオーストラリア軍に死体の検死を強制的に停止した。撤去された遺体を除いて、まだ400~500体あると推定した。死者は銃剣による刺傷か至近距離の銃撃で死亡した。ルワンダ政府は約330人と国連当局者は約2,000人と殺害数を最小限に抑えた。ルワンダ愛国戦線の委員会は、現地視察は行われず、虐殺は国内避難民からの発砲があったと結論づけた。RPA軍の攻撃に群衆はパニックを引き起こし、暴動を恐れたRPA軍兵士らは群衆に無差別発砲した。

 1994年4月から5月のわずか3ヶ月の間に推定約80万人のルワンダ人が虐殺された。大虐殺は、内戦の勃発に端を発した民族間の激しい対立が原因で、フツ族の過激派がルワンダのツチ族と穏健派のフツ族に対して大虐殺した。ツチ族が支配するRPAが、フツ族が支配した旧政府に勝利を収めた。




2023年7月7日金曜日

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。焼死体は炭化して原型をとどめなかった。遺品から死者数を割り出した。鉄かぶと、ボタン、がま口の口金などで推定した。身元不明者が多く、都内70ヵ所からの公園、寺院、学校などに仮埋葬された死体は約7万7,000体を超えた。警視庁発表では, 3月10日の死者は8万3,793人で、傷者は約4万918人となった。3月10日の死傷者数は計12万4,711名 (警視庁) から, 19万6,132名(帝都防空本部)までの開きがある。

 3月9日夕にマリアナ基地から爆撃目標である東京に飛び立ったB29爆撃機は、日本大本営発表は約130機だった。アメリカ軍側発表は約325機、合計約1,700トンの高性能焼夷弾を搭載した。3月9日22時30分に、警戒警報が発令された。

 本格的な東京大空襲爆撃は、3月10日の零時の打刻の直後であった。3月10日零時8分に、アメリカ軍B29爆撃機の先頭機が, 深川地区(現在の江東区)に侵入して、第一弾を投下した。木場2丁目付近に被弾して、次いで白河町2丁目、三好町1〜2丁目付近も被弾した。材木町から最初の火災が発生した。束ねた材木も無数の運河に浮かぶ丸太も、マッチ棒のように火を噴きはじめた。2分後の零時10分に、火災は隣接した城東区 (江東区) にも発生した。北砂町2〜5丁目付近が帯状に被弾し、約2分経過した12時12分には本所区 (墨田区) が空襲された。一区当り約20〜25万人からの過密地帯の町を、猛火はわずか約2分間隔で跳躍した。第一弾投下から約7分遅れて、零時15分に空襲警報が発令された。7分差の遅延が、逃げまどう庶民にとって致命的な瞬間になった。

 焼夷弾の豪雨は、本所区を南北に縦断し、直線上の大火流線は、運河で刻まれた江東地域を包囲した。3月10日零時20分に、火災は浅草区(台東区)にも発生した。牛込区 (新宿区)、下谷区(台東区)、日本橋区(中央区)、本郷区 (文京区)、麹町区 (千代田区)、芝区 (港区) なども相次いで被弾した。独立火点が次々に合流し、一挙に大火流になった。浅草区、日本橋区に広範囲に拡がった猛火は、甚大な火の粉を吹きあげ撒き散らし、巨大な火玉となって宙を飛び交い、幅約200メートルの隅田川を越えて、向島区 (墨田区)と合流した。真紅の火炎帯は、わずか半時間のうちに下町全域へと波及した。B29爆撃機は、目標の周囲に火の壁を作った後、逃げまどう人々にねらいを定め、電柱や屋根に接近した超低空で、連続波状的な無差別焼夷弾爆撃へと移った。

 北北西の風はさらに勢いを増し、地上の大火災にあおられ、火の海の沸騰となり、瞬間風速25〜30mに達した。火は風を呼び、風により火事嵐となった。地表の温度が白熱状態になり、炎は瞬間的に激流した。火の玉は不気味なとどろきを上げて、道を走り、川を渡り、家屋をつらぬき、逃げまどう人々を、つぎつぎと渦中に巻きこんだ。各署の消防自動車は消火活動に全力を上げた。直撃弾を受けて隊員もろとも火の塊になったのを皮切りに、次々に大火流に呑まれ車を焼失し、隊員は猛火の餌食になった。東京都消防隊の犠牲は、消防自動車焼失が約96台、水管焼失が約1,000本、隊員の焼死、行方不明は125人、警防団の死傷者500名以上にもなった。

 主な犠牲者は、非戦闘員の女、子ども、 年寄りの下町庶民であった。住居を無断で退去、避難とは防空法で固く禁じらた。危機的状況でも、バケツリレーなどの防火手段に身をゆだねた。人々は、あきらかに逃げおくれた。被害の中心地の江東地域は、荒川放水路と隅田川とに挟まれ、縦に横に無数の運河で刻まれた。橋が焼失して、運河は人々の退路を断った。水中へ難を逃れた人は多かったが、一命を取りとめた人はすくない。両岸から火炎と熱風、黒煙が川面を吹きなぐり、水面から首だけ出した人びとは一瞬に髪を焼かれて死んだ。火炎の前に煙にまかれて一酸化炭素で中毒死した人、 酸素の急速な減少によって窒息死した人、水温のあまりの低さのためのショック死、凍死、溺死も多かった。

 避難場所と指定された学校校舎に逃げこんだ人々も、ほとんどが痛ましい犠牲となった。安全なはずの鉄筋コンクリートの建物は、たちまち窓ガラスが溶け、荷物や衣服に火炎がまとわりついて白熱状態となり、建物もろ とも人間焼却炉に一変した。炭化した死体が何層にも山積し、講堂がぎっしりとカン詰め状態になった。火に追われた人びとが入口からなだれ込み、先の扉は内扉になって、開扉するひまなく大勢の人びとが積みかさなり、 悲惨な状態に至った。空襲警報の解除は、3月11日午前2時35分で爆撃は終了し、B29爆撃機の機影はなくなった。地獄の却火が鎮火したのは, 明方午前8時過ぎであった。一夜明け東京は、見るも無残な廃墟と変わった。東京29区に被害が波及し、約27万戸の家が焼けて、約百万人からの都民がその住居を失った。




2023年6月26日月曜日

1971年11月11日夜に、北アイルランドのロンドンデリーで、19歳の少女が街灯に縛り付けられ、タールをかけられ羽交い締めにされた。約80人の女性たちが、「兵士の恋人!兵士の恋人!」と悲鳴を上げた。

1971年11月11日夜に、北アイルランドのロンドンデリーで、19歳の少女が街灯に縛り付けられ、タールをかけられ羽交い締めにされた。約80人の女性たちが、「兵士の恋人!兵士の恋人!」と悲鳴を上げた。少数派のローマ・カトリック教徒の少女は、イギリス軍兵士の恋人であった。少女の頭髪を削った事件は、悪質なムードを浮き彫りにした。11月11日未明に北アイルランドのロンドンデリーで、イギリス軍兵士と婚約していたカトリック教徒の少女が、女性たちからタールをかけられた。北アイルランドの社会改革を求めるカトリック教徒は、多数派のプロテスタントによる大虐待を恐れた。

 翌日11月12日にイギリス軍兵士と結婚するはずだった少女のマルタ・ドハティ(Martha Doherty)は、ロンドンデリーのボグサイド地区で取り押さえられた。タールや羽毛をかけられる前に北アイルランドの女性らに罵られ、唾を吐きかけられた。その後に解放された少女はは友人たちらと隠遁生活を送った。

 北アイルランドのロンデリー、11月15日にイギリス軍軍兵士と付き合ったためにタールをかけられ、頭を刈られたローマ・カトリックの少女であるマーサは、軍の機密を盾に彼と結婚した。マルタ・ドハティという19歳の少女はカツラをかぶっていた。彼女の肩まである茶髪は、女性仇討ちグループによって切り落とされていた。ドハティさんは、エブリントン兵舎内で、18歳のジョン・ラーター(John Larter)上等兵と結婚していた。ラーター上等兵はプロテスタントで、ドハティさんと結婚するためにカトリックの教えを受けた。ロイヤル・アングリアン連隊の第一大隊から転属し、北アイルランドには戻らなかった。

 1970年晩春、北アイルランドでは軍隊と地元警察は武器の捜索で協力し始めた。1970年7月3日、兵士に対する投石事件が本格的な暴動に発展し、軍隊はカトリック教徒に催涙ガスを浴びせ、1万人のカトリックのゲットー住民に影響を及ぼす42時間の外出禁止令を出した。午前4時からの武器捜索では、兵士たちが大切な小物を破壊した。軍隊がプロテスタントにカトリックのゲットーでの行進を許可すると、兵士とカトリック教徒が対立した。州政府の要請を受けた軍は、カトリック教徒が黒いベレー帽や、非合法組織であるアイルランド共和国軍に関連する服を着て葬儀に参列することを禁じた。




2023年6月25日日曜日

2023年6月17日に、ウクライナ軍が奪還したウクライナ東部ドネツク州のブラホダトネ村で、ウクライナ軍兵士が、殺害されたロシア軍兵士の死体を偵察した。ブラホダトネ村は、反攻作戦で解放された最初の村である。

2023年6月17日に、ウクライナ軍が奪還したウクライナ東部ドネツク州のブラホダトネ(Blahodatne)村で、ウクライナ軍兵士が、殺害されたロシア軍兵士の死体を偵察した。ブラホダトネ村は、侵攻するロシア軍に対するウクライナ軍の反攻作戦の一環として解放された最初の村の一つである。ブラホダトネ村は、ドネツク州とザポリージャ州の境界に位置した。厳しい戦闘にて弾痕だらけのブラホダトネ村の文化の家の図書館に、ロシア軍兵士の死体が散乱した。ウクライナ軍によると、ブラホダトネ村に残っている民間人は2人だけであった。











Warning: A Ukrainian commander, aka Lermontov, of the 68th Oleksa Dovbush hunting brigade, walks past the body of a killed Russian soldier in the recently retaken village of Blahodatne, Ukraine, Saturday, June 17, 2023. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

 

  ウクライナ国防副大臣が、ウクライナ軍は、ザポリージャ地域のベルディアンスク方面とメリトポリ方面での反抗作戦により、ノヴォダリフカ(Novodarivka)、レヴァドネ(Levadne)、ストロジェヴェ(Storozheve)、マカリヴカ(Makarivka)、ブラホダトネ(Blahodatne)、ロブコヴェ(Lobkove)、ネスクチネ(Neskuchne)、さらにザポリア州南東部のピアティハツキー(Piatykhatky)を含めて8つの集落が解放されたと述べた。ウクライナ軍は約7km侵攻し、約113平方kmの地域を奪還した。反攻作戦では、ウクライナ軍兵士に占領された集落では、ウクライナ軍兵士たちは侵攻を続けて、退却しないように命令された。集落の道路はクレーターで穴が開き、建物は陥没して、ほぼすべての住居には弾痕が散見された。

 2023年6月17日に、ウクライナ東部のドネツク州のブラホダトネ村を奪還したばかりのウクライナ軍兵士が、破損した建物内で死亡したロシア軍兵士の死体の横を通り過ぎた。ロシア軍は2022年2月にウクライナに侵攻し、破壊と人道危機を引き起こした。ロシア軍とウクライナ軍は、ウクライナ軍が反攻の初期段階で、占領地域からロシア軍を追い出すために戦って、多数の軍事的死傷者を出した。ロシア軍は、ウクライナ軍の反抗作戦は6月5日に勃発したと主張した。最も激しい戦闘は、ウクライナ南東部のザポリツィア州、バフムト周辺、さらに西のウクライナ東部ドネツク州が中心となった。ウクライナ軍の前進を阻止するロシア軍側による無人機や砲撃など激しい攻撃に直面した。











Warning: A Ukrainian serviceman, aka Boroda, of the 68th Oleksa Dovbush hunting brigade, walks past the body of a killed Russian soldier in the recently retaken village of Blahodatne, Ukraine, Saturday, June 17, 2023. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

2023年6月18日日曜日

ウクライナ軍が解放したドネツク州ネスクチノエ村で、2023年6月13日にウクライナ軍に殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体の側をウクライナ軍兵士が歩いた。村の路上にはロシア兵が死体が横たわった。

ウクライナ軍の反撃で解放したドネツク州のネスクチノエ村で、2023年6月13日にウクライナ軍に殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体の側をウクライナ軍の戦闘員が歩いた。ネスクチノエ村の路上にはロシア兵が死体が横たわった。

 2023年6月10日に、ウクライナ軍がドネツク州のネスクチノエ(Neskuchnoye)村を激しい戦闘で解放したと6月11日に報道された。6月15日に、ウクライナ軍は東部および南部方面の領土を徐々に解放していると公表した。6月4日からウクライナ軍の反撃が始まった。モクリ・ヤリ川の周辺にある集落の一つであるネスクチノエ村の住民は一人も発見されなかった。反撃作戦開始して以来、ウクライナ軍がロシア軍の占領地に南進して奪還したと発表した。ロシアが侵攻する前は、数百人の住民が住む村の建物のほとんどが被害を受けた。



Warning: A fighter of the Armed Forces of Ukraine walks past the body of a dead Russian soldier in Neskuchnoye (Oleksandr Ratushniak/Reuters/Scanpix/LETA)


 吹き飛ばされたロシア軍兵士の死体が、放棄されたロシア軍車両の隣に放置された。少なくとも3人のロシア軍兵士の死体が、路上に横たわった。州都ドネツク市の南西約90kmに位置するネスクチノエ村で、ウクライナ軍の侵攻が確認された。ネスクチノエ村は、2014年にも一時的にロシア軍に占領された。ロシア軍の支援を受けた戦闘員がドネツク州と隣接するルハンスク州の広大な土地を占拠した。その後に、ネスクチノエ村はウクライナに戻ったが、2022年2月24日の侵攻直後にロシア軍に占領された。



Warning: The body of a Russian soldier who was blown up lies next to an abandoned Russian military vehicle (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)


 ウクライナ軍当局は、攻勢の直前ははほとんど情報を提供しなかった。6月12日時点で、7つの集落を奪還したと発表した。ロブコヴェ(Lobkove)、レヴァドネ(Levadne)、ノボダリフカ(Novodarivka)、ネスクチノエ(Neskuchnoye)、ストロジェヴェ(Storozheve)、マカリフカ(Makarivka)、ブラホダトネ(Blahodatne)村が解放されたと述べた。ウクライナ軍は最大約6.5km前進して、南部の前線100kmに沿った90平方kmの土地を奪取したと公表した。ロシア軍とウクライナ軍は、ウクライナ東部と南東部のドネツク州とザポリージャ州の国境沿いで激しい衝突が発生して、反撃の一環として一連の村を奪還した。

2023年6月14日水曜日

パルミリ虐殺にて、ドイツ軍によって処刑されたポーランド人の死体が埋葬されるのをドイツ軍兵士が待機した。

パルミリ(Palmiry Massacre)虐殺にて、ドイツ軍によって処刑されたポーランド人の死体が埋葬されるのをドイツ軍兵士が待機した。この虐殺行為の写真は、イギリスのポーランド亡命政府が、戦争中に戦争犯罪として一般公開した。1942年にロンドンで「The Black Book of Poland」を出版して、その写真の一部が、ドイツ軍の占領下のポーランドにおけるナチス・ドイツの戦争犯罪を示唆した。1939年9月28日に、ポーランドの首都ワルシャワがドイツ国防軍に降伏した。ハンス・フランク総督がポーランド人を弾圧するAB-Akion作戦を1940年7月23日に終了を公表しても、その後1年以上も虐殺は継続して、少なくとも約6,500人の命が奪われた。

 ドイツ親衛隊の警察当局は、処刑が大都市の中心部で秘密が守られないので、ポーランドの首都ワルシャワの北西約30kmのパルミリ村とポシエチャ村近くのカンピノス森で、大量処刑が執行された。パルミリでの大量処刑は、集団墓地は処刑予定の数日前に掘られた。犠牲者はパヴィアック刑務所からトラックで夕暮れ時に処刑場へ強制移送された。犠牲者は墓場の端に連れて行かれ、機銃掃射で処刑された。負傷した犠牲者は生き埋めにされた。処刑が終わると、墓は埋められ、苔と針で覆われ、松の若木で覆われました。

 第二次世界大戦中のパルミリ虐殺は、ナチス・ドイツがポーランド人に行った戦争犯罪の象徴となった。パルミリ村で執行された21の処刑で、約1,700人のポーランド人が殺害され、身元が確認されたのは約577人だけである。パルミリ村で死亡して性別が確定した約485人は、発掘された遺骨を分析しても、身元が不明となった。

 1939年12月7日から1941年7月17日に、ワルシャワのパヴィアック刑務所の収容者を中心に約1700人以上のポーランド人とユダヤ人が、パルミリ近くの森の空き地で処刑された。た。1940年6月20日から21日に、ポーランドの政治的、文化的、社会的幹部の約358人が一度にパルミリ村で殺害された。第二次世界大戦後の1945年11月25日から、ポーランド赤十字は、ポーランドのドイツ人犯罪調査主任委員会の支援を受けて、パルミリで捜索と発掘を開始した。ポーランドの調査官は24の集団墓地を発見した。




2023年5月18日木曜日

1951年1月27日に、朝鮮戦争にて北方に退却する北朝鮮軍に朝鮮人が撃たれて射殺された。縛られた両手と雪の中の呼吸穴から、放置された朝鮮人市民の死体が判明した。

1951年1月27日に、朝鮮戦争にて北方に退却する共産主義の北朝鮮軍に朝鮮人が撃たれて射殺された。縛られた両手と雪の中の呼吸穴から、放置された朝鮮人市民の死体があることが判明した。「雪の墓場から手を伸ばす(Reaching Up from a Snowy Grave)」の戦争写真は、縛られた朝鮮人の両手が雪に突き刺さり、殺害された朝鮮人は自分の妻のために呼吸孔を作っていた。北朝鮮の国境近辺である韓国の京畿道の独島山の雪山の楊枝で虐殺された。  

 マックス・デスフォー(Max Desfor, AP通信写真家)が撮影した朝鮮戦争にて最も無益な戦争を象徴したのは、雪に埋もれた朝鮮人の写真だった。縛られた手は、捕虜となり処刑された数人の民間朝鮮人の一人となった。その死体は雪に覆われて放置された。デスフォーは写真は、その後に「無益な行為(Futility)」と改題した。いつも戦火に巻き込まれる民間人は、罪のない民間人であり、戦争がいかに無益であるかを象徴した。1950年に、朝鮮戦争中に、朝鮮人難民が破損した橋を殺到して這って渡る姿を撮影して、ピューリッツァー賞を受賞したマックス・デスフォーは2018年2月19日に死去した。

 朝鮮戦争は、冷戦時代に起こったいくつかの軍事衝突の一つである。朝鮮戦争は、1950年6月25日に、共産主義国家の北朝鮮が韓国に侵攻して勃発した。国連は7月7日に、北朝鮮の軍事占領から韓国を解放するアメリカ軍が朝鮮半島に軍隊の派遣を許可した。韓国に派遣された兵士の多くはアメリカ軍の軍隊であり、国連の直轄部隊となった。9月8日の仁川上陸から侵攻で戦局は、国連軍と韓国軍が一気に北朝鮮軍を北朝鮮に追い返した。1950年10月、国連軍は北朝鮮軍を中国との国境まで追い詰めた。10月19日から中国軍は北朝鮮の国境を越えて国連軍に攻撃を開始した。1951年1月4日に中国・北朝鮮軍はソウルを奪還した。その直後の1月7日から中国軍と北朝鮮軍の多くの部隊が撤退した。3月8日に国連軍が最終的にソウルを再奪還した。1951年初めに、中国軍は国連軍を北朝鮮と韓国のほぼ元の国境線である38度線まで追い詰めた。その後約2年間は、38度線の周辺で事実上の膠着状態になった。朝鮮戦争は、1953年7月27日、停戦に合意し終結して終結した。





2023年5月14日日曜日

2023年4月28日のロシア軍の20発以上の巡航ミサイル攻撃とドローン2機の中の2発の巡航ミサイルがウクライナ中部のウマンのアパートに激突して、消防士は死体を運搬して、犠牲者の約23人はほぼ全員が死亡した。

2023年4月28日のロシア軍の20発以上の巡航ミサイル攻撃とドローン2機の中の2発の巡航ミサイルがウクライナ中部のウマンのアパートに激突した。住宅ビルの瓦礫から、消防士は回収された死体を運搬した。約23人の犠牲者のほぼ全員が死亡した。その23人の死者の中に、6人の子供が含まれた。



    Warning: Firefighters carry a body recovered from the rubble of a residential building that was hit during a Russian attack in Uman, central Ukraine, Friday, April 28, 2023. (AP Photo/Bernat Armangue)

   弟6歳のミハイル・シュルガ(Mykhayl Shulha)は、4月30日の葬儀で11歳の姉ソフィア・シュルガ(Sofia Shulha)の棺の横で、親族と泣きながら抱き合った。その他に参列者は17歳のピサレフ・キリウシャ(Pysarev Kiriusha)少年に哀悼を表した。弔問客がロウソクを手にして賛美歌を歌う中、イコン教会の司祭は、棺の上で線香の容器を振り回した。




 







Warning: Mykhayl Shulha, center, cries next to the coffin of his sister Sofia Shulha during a funeral prayer in Uman, central Ukraine, Sunday, April 30, 2023. Sofia Shulha, 11, and Pysarev Kiriusha, 17, were killed during a Russian attack on a residential building early Friday morning. (AP Photo/Bernat Armangue)


   ロシア・ウクライナ戦争の戦闘は、戦場以外の場所でも長距離ミサイルで多くの命が奪われた。ウクライナ中部のウマンへのロシア軍のミサイル攻撃で死亡した子供やその他の市民を葬儀して、4月30日に親族や友人は棺の前で泣いた。ウマンの被災した建物の近辺に、市民が花や犠牲者の写真を持ってきた。9階建てアパートへの攻撃は、キエフから南に約215kmに位置する都市ウマンで発生しました。

 ロシア・ウクライナの戦争は、同4月30日に、他の場所でも多くの死者をもたらした。ウクライナの国境を接するロシア地域は、ウクライナ軍のロケット弾攻撃で、4人が死亡した。ロケット弾がウクライナとの国境から約9km離れたスゼムカ村の家屋を直撃した。ロシアのベルゴロド州では、戦争中散発的に国境を越えた砲撃を受けた。3月には、ウクライナの破壊工作員によるブリャンスク地方への侵攻で、2人が死亡した。

 同4月30日には、ウクライナのケルソン地方で過去24時間に約27回のロシア軍の砲撃を受けて、市民1人が死亡した。ウクライナ北部のブリャンスクとベルゴロドに接するスミ州とチェルニヒフ州は、同4月30日の夜間に約11回の砲撃を受けた。ドニプロペトロフスク州では、ロシア軍の砲撃でニコポルの48歳の住民が死亡し、2人が負傷した。6棟の多層ビルと6棟の民家が被害を受け、その他数棟の建物、ガスパイプライン、送電線が破損した。

2023年5月10日水曜日

第一次世界大戦の東部戦線で1918年4月に、オーストリア=ハンガリー軍兵士が、ウクライナのドニプロ市のエカテリノスラフスク通りで、ウクライナ人の労働者をポール方式による公開の絞首刑で大量虐殺した。

第一次世界大戦の東部戦線で1918年4月に、オーストリア=ハンガリー軍兵士が、ウクライナのドニプロ市のエカテリノスラフスク通りで、ウクライナ人の労働者をポール方式による公開の絞首刑で大量虐殺した。第一次世界大戦中に、オーストリア=ハンガリー軍は、パルチザンや反抗者など、現実の敵あるいは想定される敵を相手に略式の処刑で、死刑を頻繁に執行した。

 ドニプロ市は侵略が繰り返されて、2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争の激戦地域であるドンバス州の北部に隣接する。ドニプロ市は、ドンバス州の北部に隣接するドニプロペトロフスク州の州都である。ドニプロ市は二月革命後の1917年11月に、ウクライナ人民共和国に属した。1918年1月9日に、ソ連からボリシェヴィキの部隊が侵攻して、ドニプロ市を占領した。それから1918年4月まで、ドネツク・クリウォイ・ログ・ソビエト共和国に併合された。1918年4月以降は、ドニプロ市はドイツ軍の占領区に属した。1919年1月から6月29日までは赤色・ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に属し、その後に、白色運動の支配地域の白色南ロシアに属した。

 ロシア内戦の間は、ドニプロ市は戦闘や破壊を免れた。1918年12月27日から31日までと1919年11月9日から12月9日までの2回、ウクライナ革命反乱軍兵士が占領した。1918年に、ウクライナ人民共和国とウクライナ国家の連合軍は追放された。1919年にドニプロは、白軍の部隊が追放された後に、ウクライナ革命反乱軍の首都となった。1919年12月30日にロシア赤軍がドニプロ市を占領し、ロシア内戦に最終的に勝利した。1933年のホロドモールの際には、ウクライナでは数百万人が餓死した。第二次世界大戦中、ドニプロ市は甚大な被害を受けた。1941年9月に、ドイツ国防軍が占領した。1943年10月に、ドイツ軍は撤退を余儀なくされ、ソ連が占領した。




2023年5月7日日曜日

ウクライナ軍兵士は、2023年1月12日にハリキウ州のクリリブカ近郊にて2022年9月下旬の戦場で、凍った泥のプールから砲撃により殺害されたロシア軍兵士の死体を回収した。

ウクライナ軍兵士の死体回収チームは、2023年1月12日にハリキウ州のクリリブカ(Kurylivka)近郊の2022年9月下旬の戦場で、凍った泥のプールから殺害されたロシア軍兵士の死体を回収した。ロシア軍兵士の死体は、2022年9月下旬の戦場でウクライナ軍により破壊されたロシア軍の装甲車の近くで発見された。ウクライナ軍の死体回収チームは、砲撃のために殺害された死体の8体のうち3体を回収できた。ロシア軍がハリキウ州から撤退した後には、ロシア軍が破棄して捨て去った死体や戦車が散乱した。

 ハリキウ州のクリリブカでは、2022年9月25日に、ウクライナ北東部のロシア領内での戦闘から逃れようとした約31人を乗せた車両が襲撃され、7人が死亡した。イギリスは2023年9月期に、ロシア軍の戦死者数は約2万5000人以上、捕虜や負傷者を含める戦死傷者数は、約8万人に上ると推定した。ロシアの国防相は2023年9月期に、約5,937人のロシア軍兵士が戦死したと発表した。ノルウェー軍は2023年1月22日に、ロシア軍は約18万人の死傷者を出し、ウクライナ軍兵士の戦傷者は約10万人、民間人は犠牲者約3万人であると推定した。アメリカ軍も、ロシア軍の死傷者は10万人を超えて、ウクライナ軍も同程度の死傷者が出たと推定した。ロシア軍もウクライナ軍も、数ヶ月間、信頼できる犠牲者数の公表していない。

 2022年9月12日にロシア軍は、ハルキウ市近郊で占領した地域の大部分を明け渡して撤退した。9月13日に、ハルキウ州から撤退した初期段階で、ロシア軍部隊は甚大な犠牲を出し、ウクライナ軍の反撃を前に完全に再編成できなかった。プーチン大統領は、9月21日に職業軍人だけでなく、予備役などのロシア国民を部分的に約30万人以上も動員する大統領令に署名した。ロシアは9月23日から9月26日に併合するためにウクライナ南部と東部の4州の住民投票を強行した。9月30日にロシア議会の決議を経て、併合の手続きが強行されて、4州は併合条約に署名した。


















Warning: Ukrainian servicemen recover the remains of Russian soldiers from frozen pools of mud on the frontline on January 12, 2023 in Kurylivka, Ukraine. The bodies were discovered near a destroyed Russian armoured vehicle in late September 2022. The recovery team was able to retrieve 3 of the 8 bodies due to artillery shelling. (CNBC, The Atlantic, Photo by Pierre Crom/Getty Images)

2023年5月3日水曜日

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmのアル・マハウィルの集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰り、無残な遺体を抱きながら泣いた。

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmにて、アル・マハウィル(Al-Mahawil)の集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、見つかった身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰った。イラク人男性は、無残な遺体を抱きながら泣いた。1991年のシーア派の蜂起が鎮圧されて以来、行方不明になっている人々の親族は、トラクターや素手で土を掘り起こしながら、親族の遺体を必死で探した。

 イラク戦争が2003年5月1日のアメリカ軍の戦闘終結宣言した後から、イラクの法医学チームは2003年5月14日に、バグダッドの南約90kmのアル・マハウィル近郊の農場近くの集団墓地に埋められた推定約1万5000体もの死体を発掘し始めた。アル・マハウィルの集団墓地には、行方不明のイラク人が数百人集まり、親族の死体を探した。湾岸戦争が1991年3月1日に終結した直後の3月5日から4月5日までサダム政権に対するイラク蜂起が勃発した。1991年3月に首都バグダッドにいたフセイン大統領は、シーア派の反乱を鎮圧するために、イラク南部の地方に分散した決死隊を南部に素早く集結させた。サダム・フセイン政権は、ヘリコプター、長距離砲、装甲地上部隊を集結して暴動に残忍に反撃した。南部で約30,000~約60,000人のシーア派イラク人、北部で約20,000人のクルド人を殺害した。イラク人権省は、アメリカ軍主導の侵攻以来に約3年間に登録した約200の集団墓地の大半は南部にあったと公表した。

 犠牲者は、1991年3月頃に、フセインがイラク南部で起きたシーア派の反乱を鎮圧した際に殺害された。イラクの裁判所は、1991年の弾圧で少なくとも約10万人、おそらく約18万人のシーア派が殺害された文書証拠と目撃者の証言を持っていた。イラクの1991年の殺人者たちは、蜂起の責任者を追い詰めるのに時間をかけず、戦闘年齢に達した若者を無作為に捕らえて、裁判なしで死刑を執行して、恐怖政治であった。犠牲者たちは、後ろあるいは横に投げ出され、互いの上に倒れ、足が下敷きになり、銃弾が胸部や腹部を打った跡が、衣服の裂け目から検証できた。銃撃で足の骨が粉々になり、死体は身を寄せ合って横たわった。出土した死体の多くは、手首の骨が背中で合わせ結ぶためのロープや布の破片が土にまみれた骨に混じった。







2023年4月12日水曜日

ドレスデン空襲による地下室のシェルター内の集団虐殺によって、一家全員が焼却処刑の犠牲となった。焦げた死体が乾燥熱を受けて、皮膚、頭皮、眼窩に裂け目ができた。

第二次世界大戦末期に連合国軍のドレスデン空襲によって、地下室のシェルター内の集団虐殺によって、一家全員が焼却処刑の犠牲となった。焦げた死体が乾燥熱の影響を受けた。皮膚、頭皮、眼窩の周囲に裂け目ができた。地下の壕に隠れていた市民でさえ殺害された。火は煙毒を引き起こし、一方で強い火力は酸素を消費して、壕に隠れた市民は窒息死した。多くの市民が熱で殺害されて、生きながら焼け、溶けた。市内は焼夷弾によって約1500℃の火の竜巻が発生した。散らばった火が合わさり巨大な篝火となった。上空の空気は熱せられ、密度が低下して上昇し、行く手すべてを焼き尽くした。竜巻は逃げる市民、大きな重量物も勢いよく引き寄せた。死者数は約100,000人から約200,000人の死者と推定された。

 1945年2月13日から15日にかけて行われたイギリス空軍とアメリカ陸軍航空隊によるドレスデン爆撃は、第二次世界大戦で最も疑問を呼んだ軍事行動の1つである。連合軍の爆撃機が開発した火力は、長崎と広島に投下された原子爆弾にも匹敵した。間接的な軍事目標(カーペット爆撃)のみで、歴史的な市街地を完全に破壊し、民間人の大虐殺を引き起こした。1945年2月13日火曜日の夜10時頃から約796機のイギリス空軍機から空襲を勃発した。2月14日12時17分から約311機のアメリカ空軍機が空襲を開始した。 

 1945年の初めは、連合国軍は、ヨーロッパの東部戦線にて、ソ連に戦略爆撃の手段で支援する問題が提起された。ベルリンなどる東ドイツの多くの都市を爆撃する作戦を立てた。戦略爆撃は、爆撃機の優先目標は製油所、ジェット機工場、潜水艦建造現場の破壊にとどまっていた。ドレスデン自体は、軍事的な意義は乏しかった。ドイツ空軍により本土に空襲を受けていたイギリス王立空軍(RAF)は、ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツに早急な空襲を命じられた。戦争末期と戦争終結後には、広島・長崎原子爆弾にも匹敵する最も血なまぐさい大量虐殺が勃発した。民間人を意図的に標的にした巨大な悲劇は、何年もの苦しみと破壊と虐殺を市民に与えた。




2023年4月10日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、反体制派の粛清のために、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。

1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。銃殺の処刑場にて、一人ずつ杭に縛られた。約39人は、全員が共産主義を信奉した容疑にて、韓国政府によって逮捕され、裁判もなく処刑された。韓国軍憲兵は囚人の目を目隠しで覆った。身体には銃殺する射撃の標的である心臓の部分を特別にマークを付けた。処刑者は、二列になっている銃殺の行列を形成した。処刑現場には約200人の韓国軍と警察官、6人のアメリカ軍将校がいた。アメリカ軍は、自ら処刑を行わず、監視のような役割を担った。指揮官が発砲命令を出すと、処刑人のライフル銃が一斉に発砲した。韓国憲兵は政治犯に近づき、一人ずつ検死した。その場で一度に殺害されなかった者は、2度目の銃殺が行われた。韓国の憲兵が囚人を縛る縄を解いて、囚人たちの死体を、次々と棺桶に入れた。


 1945年8月15日の日本の降伏後に、朝鮮半島は38度線に沿って2分割された。北はソ連が占領して、南はアメリカが占領した。1948年8月に南部に大韓民国、9月には北部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立した。その後、アメリカが軍事顧問団を韓国に残した以外は、アメリカ軍とソ連軍は、朝鮮半島から撤退していた。北朝鮮でも韓国でも、反体制派の粛清が執行された。韓国では、親北の共産主義者が大量に逮捕され、銃殺された。その2か月後の1950年6月25日早朝に、北朝鮮軍が南方に奇襲攻撃を仕掛け、朝鮮戦争が勃発した。

 1945年8月15日の日本降伏後に、朝鮮半島の朝鮮戦争の前後から、組織的で意図的な大量虐殺(Genocide)や集団虐殺(Massacre)が勃発した。1948年5月10日に、韓国のみ総選挙され、それに対抗して左翼勢力が武装闘争が勃発した。左翼は、韓国だけの総選挙に対してニ・七救国闘争で敵対した。1948年の済州島四・三事件にて、大韓民国の李承晩政権は大討伐作戦を強行した。1948年11月から1949年3月まで、焦土作戦が本格化した。討伐軍は、中山間地域の約100地域を焼き払って無差別に戒厳令下で虐殺した。済州島では、武装勢力は約500人だけでなく約3万人も集団虐殺した。鎮圧軍による住民全体の民間人集団虐殺が発生した。1949年1月10日に、韓国陸軍は、反乱軍の軍事裁判は、2817人に対して約410人が死刑を受けた。1948年12月1日に、国家保安法が制定されると、弾圧された左翼は武装闘争に移行した。朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、敵味方の区別が困難な内戦に至った。韓国軍とアメリカ軍は、北朝鮮が活動する地域の民間人も含めて無差別に殺害した。





2023年3月17日金曜日

1919年1月末に、エストニアのヴァルク周辺の5つの集団墓地から、ボリシェヴィキのテロ行為による犠牲者107人の死体が発見されて、約67人が人質として強制連行された。

1919年エストニアのヴァルクにて、権力を掌握しようとしたボリシェビキは、エストニアのエリートのなかから選んだ人質を処刑して殺害した。1919年1月末に、ヴァルク周辺の5つの集団墓地から、ボリシェヴィキのテロ行為による犠牲者107人の死体が発見されて、約67人が人質として強制連行された。

 ボルシェビキはロシア内戦に勝つために全社会集団の政敵を根絶する必要があった。ユダヤ人主導のロシアの赤軍がエストニアに侵攻し、エストニアの知識人やツァーリストのロシア人難民の虐殺が1919年に勃発した。赤軍は、世界最悪の大量殺人者の一人であるユダヤ人のレオン・トロツキーが建設して率いた。ユダヤ人の最高司令官のジノヴィエフの発した言葉は、「情け容赦なく、誰一人惜しむことなく、我々は敵を数百、そう、数千人単位で殺そう。自分の血で溺れさせよう。そうだ、ブルジョアジーの血の川を全部作ってしまえ、さらに血を増やせ!。できるだけ多く!」

 ボルシェビキが権力を掌握して以来、社会主義革命が反対派を容認せず、中央集権的な権力を維持した。トロツキーはボリシェヴィキの主力である赤軍を組織した。チェーカーは、ボルシェビキ政権の反対者を迫害する機能を持つ秘密警察として、1917年10月ロシア革命を起点に形成された。ロシア革命の偉大な指導者と見なされていたレーニンは 1924年に亡くなり、トロツキーとスターリンの間の権力闘争の余地が生まれた。

 ロシア内戦が勃発して、1918年後半から1919年前半にかけて、チェーカー特別部隊によって、ストライキ労働者に対する大量虐殺が発生した。生活環境の悪化とメンシェヴィキや社会主義革命派の労働者の逮捕によっていくつかの大規模なストライキ(時には赤軍部隊の反乱も)が引き起こされた。それはチェカ特別部隊によって厳しく弾圧された。最も暴力的な弾圧(ストライカーの虐殺や処刑)は、労働者が反ボルシェビキ軍を支持した白人や社会主義反対派(S-Rやメンシェビキ)を征服したウラル地方、またはストライキや反乱が起こったときに戦略的軍事拠点を占領したアストラハン地方で、最も血なまぐさく大量虐殺が勃発した。




2023年3月14日火曜日

1942年11月にドイツ軍が、スロベキアのツェリェ(Celje)で、パルチザンを屈辱して公開処刑により虐殺した。スロベキア人のパルチザンの死体が、ツェリェの歩道に散らばった。

1942年11月にドイツ軍が、スロベキアのツェリェ(Celje)にて、パルチザンを屈辱して公開処刑によって虐殺した。ナチス・ドイツ軍の報復によりスロベニア人たちを殺害した。スロベキア人のパルチザンの死体が、ツェリェの歩道に散らばった。民間人とドイツ軍兵士が通り見過ごした。周囲の観衆であるスーツ姿の紳士らはリラックスしながら談話した。彼らには緊張はほとんど見られない。ツェリェの歩道には死体、生存者、拷問を受けた人らが散在して混在した。ロープを飛び越えて保護区域に入って撮影された。顔の分離が難しい女性を右側の前景に配置した。彼女は頭を少し上げて、左に向けて、手を縛られて、あたかも誇らしげに立った。

 その後に、彼女がトンチカ・チェチ(Tončka Čeč)であることがわかった。彼女は1919年に共産党が活動を開始した頃に共産主義者になり、最初から女性の権利のために戦った。トルボヴリエの鉱山町で生まれ、子供時代には教育を受ける機会もなかった。彼女は党内で最も活発な人物の1人であった。ツェリェの通りで屈辱されて公開処刑を立ち会った後に、彼女は地元の刑務所に投獄された。その後にマリボルとゲシュタポ刑務所に投獄された。最終的にアウシュヴィッツ強制収容所に送還された。彼女は43歳で1943年11月13日に疲労困憊と発疹チフスになり毒ガス室で死亡した。

 1941年にナチス・ドイツ軍がユーゴスラビア占領後に、トンチカ・チェチはパルティザンのレビルスカ部隊に参戦して、1941年秋にレビルスカ部隊解散後には、ツェリェ地区で共産党幹部の指導員となった。1942年春に、彼女はスロベニア共産党地域委員会の最初の書記となった。コジャンスカ部隊と密接に協力し、解放戦線の普及と組織化に努めた。1942年8月末まで任務を遂行したが、ナチス・ドイツのゲシュタポに追跡され、トポロフ付近での短い衝突の後に負傷して捕らえられた。パルチザンであったトンチカ・チェチは、病院でドイツ警察の監視下で回復し、その後にツェリェの悪名高い刑務所に収監された。服役中に、彼女は数週間にわたり尋問と拷問を受けた。1942年11月7日にパルチザン部隊がドイツ軍と戦闘した後に、ドイツ軍は解放運動の共感者へ報復として、ツェリェで多数のパルチザンを公開処刑した。




2023年3月6日月曜日

南アフリカで、アパルトヘイト時代における人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。

南アフリカの真実委員会は、アパルトヘイトによる人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。南アフリカは、1960年から1990年の間に処刑された政治犯の死体を発掘した。アパルトヘイト時代の人権侵害を調査している真実委員会は、死体や墓の発掘は、警察が幹部を待ち伏せして逮捕せずに殺害し、密かに埋葬するパターンを示唆した。南アフリカでは、アパルトヘイト体制の末期に、軍や警察は証拠隠滅をしていた。1992年3月には、南アフリカ公安本部は捜査記録を破棄する通達を出した。

 南アフリカは1995年に国民統合和解促進法34により、真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)の法廷機関を設立して、アパルトヘイト時代に起きた人権侵害の真実を明らかにし、国民の和解をもたらした。第二次世界大戦後のドイツのニュルンベルク裁判や日本の極東国際軍事裁判とは異なり、被害者と加害者の双方から証拠を集め、情報公開に重点を置いた。1998年10月29日に最終報告書5巻が、2003年3月21日に最終報告書2巻が公表された。1960年代から1990年代に、何千人もの南アフリカの人々が拉致され、拷問され、殺害される悪辣な闘争が浮かび上がった。

 1990年に、F.W.デクラーク大統領による解放運動と野党の禁止解除、ネルソン・マンデラの釈放、南アフリカの非常事態解除により、アパルトヘイト政権と対抗する人々と和平調停で、南アフリカは300年以上続いた植民地主義とアパルトヘイトを解決を図った。当時の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラは、デズモンド・ツツ大主教を委員長に任命した。被害者から約2万2千件以上の意見書を受け取り、公聴会を開いて、アパルトヘイト国家による拷問、殺害、失踪、拉致、重度の虐待と定義される重大な人権侵害を証言させた。アフリカ民族会議、インカサ自由党、汎アフリカ主義会議などの解放運動の指導者も、委員会に姿を現し、解放運動の手によって侵害を受けた人たちが証言した。委員会は7,000件以上の恩赦申請を受理して、2,500件以上の恩赦公聴会を開催し、アパルトヘイト時代に犯した何千もの犯罪に対して1,500件の恩赦を与えた。

 アパルトヘイトとは、20世紀後半に南アフリカで少数民族である白人と多数民族である非白人の関係を支配した政策で、人種隔離と非白人に対する政治的・経済的差別を是認した。1948年以前の南アフリカでは、法律による人種隔離政策が展開した。1948年に国民党が、アパルトヘイトと呼称して、1950年人口登録法で分離隔離が拡充した。。1950年の集団地域法で、種ごとの居住区と営業区を設け、他の人種の居住、営業、土地の所有を禁じた。南アフリカ国内には常に反対運動があった。黒人グループは、一部の白人の支援を得て、デモやストライキを行い、暴力的な抗議活動や破壊活動も数多く行われた。1960年3月21日、シャープビルでアパルトヘイトに反対する最初の、最も暴力的なデモが行われた。警察はデモ隊に対して発砲して、約69人の黒人アフリカ人が死亡、多数の負傷者が出た。1976年、アフリカ系黒人の学生にアフリカーンス語を強制して、ソウェト暴動が発生した。