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2020年1月20日月曜日

アフリカのルワンダで1994年4月6日から7月4日までフツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。

アフリカのルワンダにおいて、1994年4月6日から7月4日まで、フツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。大虐殺に勃発しても、現地の国際平和維持軍や支援者らが介入するのに数ヶ月も遅れた。そのために数百万人のルワンダ人が難民となり、約百万人が虐殺された。1994年にわずか3ケ月間で、ルワンダでフツ族の過激派が、約80万人ものツチ族を無差別に非人道的な大量虐殺した。ツチ族の犠牲者のほとんどは在住した村や町で殺害された。多くは虐殺を強制させられた隣人や仲間の村人らによって殺害された。特にツチ族とフツ族が隣り合わせで生活した農村部では、フツ族がツチ族の隣人を見つけては殺害の標的にした。フツ族の戦闘員は、教会や学校の建物に隠れているツチ族犠牲者を探して掃討した。フツ族の民間人を募集したフツ族の民兵は、ツチ族の犠牲者をマチェット山刀やライフルで殺害した。川や湖は虐殺された死体で溢れ、道端に積み上げられ、殺害現場に放置された。性暴力も蔓延して、約25万人以上の女性がレイプされた。
 人口の約85%はフツ族が占めるルワンダを、少数派のツチ族が支配していた。1959年にフツ族勢力が、ツチ族君主制を打倒して、約33万人ものツチ族が近隣諸国に逃避した。1962年7月に公式にルワンダ共和国が独立した。難民となったツチ族は、反フツ族のルワンダ愛国戦線(RPF)を結成して、1990年から1993年までルワンダに侵攻した。1994年4月6日に首都のキガリで、フツ族勢力の大統領らの飛行機が撃墜されて暗殺された。フツ族の過激派がRPF の容疑として、フツ族勢力は報復のためにツチ族市民らの大虐殺が勃発した。ツチ族のルワンダ愛国戦線が戦闘を再開してルワンダ内戦が勃発して、7月7日に首都キガリを占領して、大虐殺は終結した。逆にフツ族の約200万人がコンゴや近隣諸国に逃避した。大虐殺の終結後に、フツ族とツチ族の合意による連合政府が樹立された。


2019年12月2日月曜日

コンゴ民主共和国にて、1990年代後半にフツ族のルワンダ国防軍によるピグミー族の大量虐殺が撮影された。

この写真は1990年代後半に、コンゴ民主共和国(DRC)内において、フツ族のルワンダ国防軍によるピグミー(トゥワ)族の大量虐殺が撮影された。1994年のルワンダ大虐殺では、多くのピグミー族も標的にされて、人口のほぼ30%が絶滅された。同様に、多くのピグミー族はコンゴ民主共和国の内戦でも殺害された。一部の男性兵士は遺骨を見ているが、大多数は無関心で、近くの遺骨の不一致に注意を払わない。大量虐殺を取り巻く脱感力と、写真の兵士が遺骨を再確認しない。この写真はピグミーが大量虐殺に直面した非人間化を示した。ピグミー族の死後の遺骨は依然として非人道的に扱われ、一緒に投げられて処理された。ピグミー族に対する絶滅の雰囲気と感情から、虐殺事件をルワンダ政府とコンゴ民主共和国政府は無視した。
 ルワンダは、人口の約85%を占めるフツ族と、人口の14%を占めるツチ族および人口の1%を占めるピグミー族の3つの異なる民族で構成された。ベルギー人の植民地にて、ツチは権力を握り、農民のフツ族は支配された。突然、ベルギーの国内紛争により、2つの民族間の対立が勃発した。フツ族は、少数派のツチ族に対して大量虐殺した。1959年に最初の選挙が行われる前に、フツ族はツチ族に反抗し、長年の復讐を望んだ。多くのツチ族が逃避したが、他のツチ族はより過激な政権に置く改革を断行した。反乱に関与したフツ族に対する弾圧の過程で多くのフツを虐殺した。フツ族が最終的に選挙で権力を握ったとき、反ツチ族による虐殺が徐々に増大した。ツチ族は、大量虐殺の標的にされた。フツ族はすぐにルワンダ国内で権力を得た後に、潮流が変った。フツ族は、非常に長期間でツチ族を虐殺し始めた。不安定な平和を大量虐殺させました。1994年4月6日に突然、ルワンダのフツ族の大統領であるジュベナル・ハビャリマナとブルンジのフツ族の大統領のシプリアン・ヌタラミラを乗せた飛行機がキガリ空港近くで撃墜された。ルワンダ軍隊と民兵グループはツチ族とフツ族の穏健派を殺害し始めた。アガテ・ウウィリンギマナ首相と10人のベルギーのボディガードが、最初の犠牲者の一部となった。全体として、7月までに約400,000のツチ族と約800,000人フツ族の穏健派がルワンダ民兵によって大量虐殺殺された。地元の役人と政府が支援するラジオは、フツ族市民は虐殺に参加するよう伝えた。フツ族の軍事側のルワンダ国家革命運動(MRND)は、大量虐殺の奨励と組織化に関与した。亡命者側のツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF))は、反大量虐殺側で戦争を継続した。
 大量虐殺派のフツ族のドランプ政権の勢力は、この地域を避けてザイール頭部のコンゴ民主共和国に逃亡した。フツ族のルワンダ軍側は最終的にツチ族のRPFによって敗退し、約200万人のフツ族ルワンダ難民とともにザイールに逃亡した。その他にタンザニアとブルンジにも逃亡した。RPFのパウル・カガメ大統領は、ルワンダ国内の対立と暴動を弾圧した。さらにサハラ南部のアフリカの抑圧的政権を転覆した。
 フランス軍は、ルワンダの南西部のゾーンターコイズで、ツチ族の運動を弾圧した。フランスはルワンダでフツ族軍と民兵同盟を支援していた。ルワンダの少数民族であるツチ族を殺害する勢力となった。フランスは長年にわたりルワンダのフツ族のハビャリマナ政権を武装し、訓練し、資金を提供してきた。その間、ツチ族の少数派はすでに猛烈な迫害と大量虐殺を受けた。その背景があるも、国連と背後にある大国は、大量虐殺の事実を否認して、フランスの介入を承認した。



2019年11月12日火曜日

ケニアでマウマウ団は、ラック家族を襲撃して6歳の息子マイケルをベット上で殺害した。

マウマウ蜂起の最も悲惨な犠牲者は、ナイロビのすぐ北にあるリフトバレーに住んでいた白人の入植者のラック家族であった。1953年1月24日にマウマウの約30人の戦闘員は遠隔地の農家を襲撃して、農夫のロジャーと妻で妊娠中のエスミ、そして6歳の息子マイケルをベット上で殺害した。マイケルの寝室の床に血まみれの熊のゆいぐるみと壊れたおもちゃの列車が散乱した。マウマウ蜂起の間、白人の入植者家族の殺人は実際には非常にまれであった。主にマウマウはアフリカ人を殺害した。マウマウは他の部族から少なくとも1,800人の仲間のキクユ族とアフリカ人を殺害しました。アフリカの女性と子供も頻繁に標的になった。この虐殺にイギリス国民に激怒して、ケニアの欧州共同体に衝撃を与えた。約1500人のヨーロッパ人の入植者が、地方政府に対応を求めてデモ行進した。
 ケニア最大民族であるキクユ族を中心とするケニア・アフリカ同盟から離脱した急進派のケニア都市自由軍は、1952年の反植民地闘争からマウマウと呼称された。イギリス軍兵士の大隊の助けを借りてケニア警察は、マウマウ反乱軍と8年間も戦闘した。イギリスの弾圧は残酷であり、不釣り合いな対応で、ゲリラ戦で数千人のケニア人が殺害された。約千人のケニア人が死刑の有罪判決を受け、絞首刑にされた。マウマウと疑われるか、武装勢力と疑われた最大約30万人が、衛生と食糧が不十分で、規律が残忍で容赦ない強制収容所で拘束された。
 マウマウの武装反乱は、植民地支配に対する最も激しい反抗となった。マウマウ反乱はイギリス領ケニア植民地で最も長く、暴力的な反植民地闘争となった。1885年のベルリン会議の結果、イギリス政府は 1895年7月1日にケニアを含む東アフリカ保護領を確立して、1920年に正式な植民地と宣言した。ケニアは、世界で最も豊かな農業土壌であり、標高と気候によりヨーロッパ人が恒久的に居住できる地域でもあった。1895年以前でも、イギリスはケニアに没収と暴力を襲った。ケニアはイギリスの開拓のために強制的に開墾された期間中に多くの紛争があり、イギリス軍は先住民に対して残虐行為を行った。イギリス帝国主義への反抗は、イギリス占領から始まり、1895年から1905年のナンディ抵抗、1913年から1914年のギリアマ蜂起、1947年の強制労働に対する女性のムランが郡の反乱、1950年のコロア事件などが勃発していた。1963年12月12日にイギリス連邦王国として独立して、1964年にケニア共和国が成立した。


2019年11月7日木曜日

約3年間も監禁された人質の救出作戦中に、海賊のソマリア人が殺害された。

パナマの貨物船アイスバーグ1が2010年3月29日に、機械設備輸送のためアラブ首長国連邦に向かう途中で、ソマリア沖の海賊に乗っ取られた。イエメン、インド、パキスタン、ガーナ、スーダン、フィリピン国籍の約24人の乗員が人質となった。ソマリア沖の海賊は、約1,400万ドルを要求した。人質救出作戦中に、海賊のソマリア人を殺害した。2012年12月24日に、貨物船アイスバーグ1に約3年近くソマリア沖の海賊により監禁された約22人乗員の人質が解放された。24人のうち1人は自殺、もう1人は虐殺された。海賊に監禁された期間としては過去最長となった。南アフリカ人の傭兵とプントランド海洋警察とともに、ソマリア沖の海賊と戦闘した。ソマリアから分離したプントランドの武装集団に属するソマリア軍兵士が、ソマリア人の海賊に侵攻した。
 ソマリアは1969年のクーデターによるバレ政権が,1991年に崩壊して以来,全土を実効的に支配できない無政府状態に陥った。劣悪な治安の下,大量の難民と国内避難民が発生し,干ばつの深刻化、食糧不足の悪化から、深刻な人道危機が生じた。ソマリア沖の海賊の一つ原因であるソマリア国内の貧困や若者の就職難等は未解決で、海賊による脅威は引き続している。1988年からソマリアに内戦が勃発して無政府となり、アデン沖で漁民による海軍が多発した。2012年11月にケニア軍と共同してソマリア連邦共和国が成立した。海賊被害のピークは2009年から2011年で、年間200件以上の襲撃があッタ。2012年からは減少して、2015年にはほとんど発生しなかった。
 アフリカの発展途上国では、主として民族対立を誘引として、厳しい紛争が各地で勃発した。特に、ソマリア、コンゴ共和国、ルワンダのように、紛争が終結しない状況が継続している。国連は1991年の「公正な希望」の作戦により、飢餓に迫る民間市民を救出して戦争を停戦させるために、ソマリア紛争に介入した。残忍なソマリア軍閥が屈強に国連軍に抵抗した。作戦は惨敗して、ヘリコプターが撃墜されて死亡したアメリカ軍兵士の裸体を首都モガディシュ市内を引きずり回した。犠牲者が公開されると、アメリカ軍は利権が潜んだ戦闘を、アメリカ市民民に正当化させるのが困難となる遺体袋症候群が発症して、アメリカ軍と国連PKOも撤退した。イスラム過激派組織であるアッシャバーブが台頭してアルカイダと連携してテロを引き起こした。


2019年10月17日木曜日

南スーダンでは1歳半の男児が横たわり、顔に無数の蝿が追い払えず、瞳に蝿がたかり、涙から水分と栄養を奪い取った。

南スーダンは、2018年2月時点で、人口の約3分の2にあたる約700万人も飢餓状態に達して、5歳未満の子どもの約530万人も急性栄養不良状態に至る緊急事態に陥った。南スダーンの市民は、飢餓下で生活と生命をかろうじて維持している。首都のジュバの貧弱なマハド難民キャンプにス南ダーンの市民がなだれ込んだ。マハド難民キャンプでは、2018年5月には約7,800人が収容された。その難民キャンプには、多くの女性と子どもが収容されていた。テントの前で座り込み困窮した母親が、手を口に運び食糧を求めた。空腹で飢えた母親から母乳も出ない。何もないテントの中で、1歳半のルオーくんが横たわっていた。その顔には無数の蝿がたかり、追い払うことも困難であった。瞳に蝿がたかり、ルオーの涙から水分と栄養を奪い取った。気温40度を超える灼熱の中で、排水で汚染した水で下痢になった。雨期には、マラリアに感染した。いずれも、子どもから直ちに命を奪った。
 1956年にスーダンはイギリス・エジプトから独立した。その後から、イスラム教派のアラブ系住民が多い現在のスーダン共和国とキリスト教や伝統宗教が多い南スーダンは、北部と分離・独立を求める南部の内戦が頻発した。第1次スーダン内戦が1955年8月から1972年3月まで勃発した。第2次スーダン内戦が1983年3月から2005年1月まで勃発した。2011年7月になって、新たな南スーダン共和国が独立したが、内戦が頻発している。2013年12月と2016年7月には、2度にわたる戦闘が勃発した。2013年12月14日に、南スーダンの首都ジュバで、南スーダン人民解放軍の一部が反政府クーデターを引き起こして、内戦状態となった。2016年7月に首都ジュバで、大統領派と副大統領派が衝突して、再び内戦状態となった。



2019年5月23日木曜日

南アフリカのソウェトで、警察官が抗議行動に参加した学校の黒人生徒たちに無差別に虐待と虐殺した。

南アフリカのソウェトの黒人居住区で、南アフリカの警察官が1976年6月16日にアパルトヘイトの抗議行動に参加した学校の黒人生徒たちに無差別に発砲した。学生らは南アフリカの黒人学校の教育言語の強制に抗議しながら、アパルトヘイト警察によって虐待と虐殺された。
 警察により虐殺されたのは12歳のヘクター・ビーターソンだった。高校生のムブイサ・マクブによって死体が運ばれた。彼の姉であるアントワネット・シトレは一緒に側を走った。ヘクター・ピーターソンの死体は、アパルトヘイト体制の下での人種差別の象徴となり、残虐行為を世界に発信したアパルトヘイトの象徴となった。
 ソウェトの学生たちは黒人の学校での指導言語としてのオランダ語系のアフリカーンス語の導入に反対して、平和的な街頭抗議をした。アフリカーンス語は、人口過密でスラム化した乏しい予算の黒人学校を支配する言語であった。学生たちはオーランドスタジアムで集会する前に、バンツー教育省の地方事務所に行進した。スタジアムに行く途中で、学生らは警察当局に遭遇して衝突した。約300人の警察は
約10,000人の黒人学生らに行進を終えて解散するよう命令した。しかし、黒人生徒らは石を投げて、警察が無差別に発砲する激しい戦闘が勃発した。黒人が約500人が死亡して、約2,000人が負傷した。
 ソウェトでの出来事のニュースはすぐに国内外に広まり、南アフリカのアパルトヘイト政府と警察の虐待と虐殺に対して世界中から抗議が殺到した。6月19日に国際連合安全保障理事会は、南アフリカ非難制裁決議を全会一致した。虐殺されたヘクター・ピーターソンと彼の姉であるアントワネット・シトレと、一緒に運んでいる高校生のムブイサ・マクブによって運ばれているヘクター・ピーターソンの死体と彼の姉であるアントワネット・シトレは、アパルトヘイト体制の下での抑圧と残虐行為の象徴となった。



2019年4月25日木曜日

イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。

オムドゥルマンの戦闘後に、イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。略奪するために呼息ある戦傷者も虐殺してから略奪した。さらに一部のイギリス・エジプト軍兵士も略奪に参加した。
 イギリス・エジプト軍はスーダンに南下を続け、マフディー国の首都オムドゥルマンの北方10キロの地点に到達した。1898年9月2日にマフディー国防衛は最後の戦いと位置付けるマフディー軍は、総勢52,000の大軍でイギリス・エジプト軍に総突撃をかけた。これに対しイギリス・エジプト連合軍は、歩兵と砲兵による一斉射撃と、ナイル川に停泊する砲艦からの砲撃によってマフディー軍を崩壊した。マフディー軍は総自殺のような騎兵隊の悲惨な突撃を繰り返した。次々と突撃攻撃するマフディー兵はイギリス・エジプト連合軍の射撃の前に膨大な死傷者がなぎ倒された。早朝に始まった戦いは昼前にはイギリス・エジプト軍が占領して終結した。この戦いでマフディー軍の半分にあたる約11,000人が戦死して約6,000が戦傷して、イギリス・エジプト連合軍は約382人しか死傷者が出なかった。
 熱狂的なイスラム教徒であるマフディー(約束された救世主)が指導する農民主体の反乱は、現在のスーダンで1881年から1889年の間にかけて起こった。何度もイギリス・エジプト軍を退け、約18年間の間独自の統治を行った。しかし相次ぐ対外戦争でマフディー国は疲弊し、イギリス・エジプト軍の巻き返しもあり崩壊して、スーダンはイギリス・エジプトの占領された。北アフリカにあったイギリス・エジプト領スーダンは、1889年から1956年までイギリスとエジプトの共同統治領となった。


2019年4月24日水曜日

リベリア内戦にて反政府勢力が首都モンロビアを侵略した時に虐殺されて腐敗し膨張したリベリア市民の死体が放置された。

リベリア内戦にて、2003年の反政府勢力が首都モンロビアを侵略した時に、戦闘に巻き込まれて虐殺された。放置されたリベリア市民の死体が腐敗して膨張した。道の至るところに、後ろ手に縛られた腐敗した残酷な死体が転がっていた。それを遠巻きに荷物を抱えた避難民が通り過ぎた。
 アフリカ西部のリベリアは、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって1847年に独立した。アフリカの中ではエチオピアに次いで古い独立国家で、首都はモンロビアである。リベリアの国名はLiberty(自由)に由来した。独立して以来国を支配したアメリカ解放奴隷と、先住民族の下剋上に起因して、1989年から断続的に内戦が勃発して、2003年に内戦が激化した。2003年6月に反政府勢力であるリベリアの反政府勢力リベリア和解民主連合(LURD)とリベリア民主運動(MODEL)が首都のモンロビアに侵攻した。2003年6月17日には政府と停戦合意するも、6月24日に反乱に至った。アメリカ合衆国が介入することで、2003年8月にチャールズ・テイラー大統領がナイジェリアに亡命した。内戦により約27万人の死亡して、約79万人が難民・避難民となった。2006年にエレン・ジョンソン・サーリーフがアフリカ初の女性大統領に選出された。


2019年3月28日木曜日

ソマリアの内戦の激化によりバイドアにて餓死した子供の死体にハエが群がった。

ソマリアの内戦の激化により、1992年8月頃にバイドアにて餓死した子供の死体にハエが群がった。ソマリアで最も人口が集中して流動も高く多様な民族的地域であるバイドアに、大量の難民が殺到した。 多くの難民は飢餓状態となり、無表情に座り込み、横になり、やがて動けなくなった。死体からは糞尿と血の匂いの入り混じった悪臭である死臭が漂った。死体は汚物としてしばらく放置されて、まとめて捨てられた。
 アフリカ北東部のソマリアは、1977年からエチオピアとのオガデン戦争により、1980年代初頭から内戦が勃発して継続した。1991年1月に、統一ソマリア会議の反政府勢力が首都モガディシオを制圧した。6月には北ソマリアのソマリランド共和国が分離独立して、統一された政府が樹立されず無政府状態となった。各部族を中心とする軍閥が、群雄割拠した内戦状態に陥った。
 1992年になると、内戦の戦闘が激化する一方となった。その夏期には大量の難民も発生した。飢餓による餓死や病死が膨大となり悲惨な状況に至った。1992年に国連から平和維持活動(PKO)が派遣された。1993年10月にアメリカ軍が首都モガディシュの戦闘の惨敗から撤退して、1995年3月には国連PKOも撤退した。2000年8月 にジブチの仲介で,暫定国民政府が成立するも、2003年に崩壊した。2005年1月に周辺諸国の仲介で,暫定連邦政府(TFG)が成立した。2006年6月にイスラム法廷連合(UIC)が中・南部ソマリア地域を制圧し、2006年12月にTFGの要請を受けたエチオピアがソマリアに侵攻した。2012年9月に連邦議会により新大統領に選出されて、21年ぶりに統一政府が樹立した。新政府がソマリアの統合を実現して、秩序の回復は予断は困難である。



2019年1月29日火曜日

ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、重罪人をドラム缶に縛り付ける公開処刑により銃殺した。

ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、1985年2月23日に銃殺刑が執行された。重罪人はドラム缶に縛り付けられて公開処刑により銃殺された。ナイジェリアでは,1960年10月の独立から 1999年5月のオバサンジョ文民政権成立までの38.7年間のうち,文民政権下の期間は9.8年間ほどでしかなく,残りの28.9年間は軍事政権期間となった。第2次軍政では、1983年の選挙で将軍ら軍政派によるクーデターが勃発して、再び軍政に戻った。国民に強圧的な体制を敷いて、経済はさらに悪化した。
 1983年12月31日にナイジェリア軍の中上位将校がクーデターを起こし、腐敗したシャガリ文民政権を打倒して、ブハリが元首となる軍事評議会議長に就任した。軍事政権の奪取を正当化して、無規律との戦いにより、国民に綱紀粛正の運動を強制した。報道を抑圧し、罪状なしでも反対派を拘禁した。労働者や市民のストライキやロックアウトも禁止した。さらにナイジェリア初の秘密警察であるナイジェリアセキュリティ機構を設立した。ブハリ政権は財政均衡のために輸入を抑えて、多くの会社が倒産や閉鎖された。物価は上昇し生活水準は低下した。緊縮政策の失敗、汚職の蔓延、さらに経済の悪化を受け、ブハリ政権は1985年8月27日に中級将校のクーデターで、ババンギダ軍事政権によって打倒された。ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。 



2019年1月20日日曜日

ボーア戦争にて南アフリカのモダー川の主戦場で、イギリス軍兵士は射殺された犠牲者の側から銃撃をした。

ボーア戦争において南アフリカのモダー川の主戦場にて、イギリス軍兵士は1900年12月18日で射殺された犠牲者を伴い銃撃をした。
 イギリス連合王国は、1815年のウィーン会議にて、オランダから南アフリカのケープ植民地を獲得した。1652年からケープ植民地に移住して植民地化していたオランダ系ボーア人らと対立した。ボーア人は北隣のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に侵攻した。トランスヴァール共和国からの金鉱とオレンジ共和国のダイヤモンドが発見された。イギリス連合王国は、両国の併合と植民地政策に乗り出した。
 イギリス軍の露骨な侵略政策により、ついに1899年10月11日から南アフリカで本格的なボーア戦争が勃発した。ボーア人の原住民による抵抗により、ボーア戦争は長期化した。近代で初めてイギリス軍は強制収容所を設置してボーア人の少年少女を含めて約34,000人を強制収容して、約20,000人が虐殺した。最終的には、イギリス帝国が膨大な犠牲を伴って1902年5月31日にボーア人が降伏して終結した。ボーア戦争の緒戦には、ナタール植民地のレディスミスにて、イギリス軍はボーア軍に包囲されて、甚大な犠牲を伴いながら、1900年2月28日に撤退させた。イギリス軍は、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグを撃破した。ボーア人の多くは困窮して、敵国人であるイギリス人と協調して、人種隔離政策であるアパルトヘイトによりアフリカ黒人からの徹底的な収奪を通して困窮を脱出した。






2018年11月18日日曜日

フランス軍兵士は国民解放戦線のゲリラ軍(フェラガ)と容疑してアルジェリア人をカビリア山間で射殺して死体を検証した。

アルジェリア戦争において、フランス軍兵士は国民解放戦線のゲリラ軍(フェラガ)と容疑してアルジェリア人をカビリア山間で射殺した。射殺してから死体の検証をして、証拠として財布の中の国民解放戦線の旗の絵柄を見つけてからフェラガであるとして断罪した。2人のフランス軍兵士がアラブ人の死体を探索して、ゲリラ用のブーツと幼稚な旗の絵から、アラブ人集落にて射殺して、フェラガに間違いないと断定して死体を埋めずに放置した。
 アルジェリア戦争は、1954年11月1日の民族解放戦線(FLN) によるテロ行為(蜂起) による30件の襲撃から始まり、1962年3月18日のエヴィアン協定の締結 を経て停戦に至った武力紛争である。アルジェリアは1830 年からフランス本土の内務省の管轄下にあった。アルジェリア戦争には約40万人の職業軍人に加えて約150万人の若者が召集され、戦死者は約2万4267人、戦傷者は約6万5000人と推定された。他方アルジェリアの国民解放戦線の軍事組織(ALN)兵士の死者は約14万1000人に達した。
 アルジェリアにいたフランス軍人の一部はアル ジェリアの独立にあくまで反対し、秘密軍事組織(OAS) を 結 成し、テロに訴えてアルジェリアの独立を阻止しようとした。アルキは、現地でフランス軍に雇われたムスリムの補充兵をいう。彼らは最後までフランス側についたために、アルジェリアの同胞からは裏切者と見られ、FLN により虐殺されるという悲惨な目に遭っている。
 アルジェリアがフランスに地理的に近く、多くのヨーロッパ系入植者がおり、独立戦争時にはアルジェリアのみならず、フランス本 土でもテロなどが勃した。が見られた。フランス本土でも、アルジェリアでも多くの人々の心に植民地支配と独立戦争は傷を残した。とりわけ独立戦争に敗れたフランス政府にとってアルジェリアとの過去を振り返ることは、あまりにも多くの人の感情を刺激するため困難だったと推測できる。


2018年9月12日水曜日

スーダンのダルフール紛争で、アドワ村にてアラブ系民兵が、大量虐殺した非アラブ系黒人の死体である。

スーダンのダルフール紛争にて、アドワ村の郊外でアラブ系民兵が、大量虐殺した非アラブ系黒人の死体である。死体の付近の50ヤード平方の荒野に、人骨が満杯で散在した。
 スーダン西部のダルフール地方にて、非アラブ系黒人とアラブ系住民の対立から内戦が2003年2月に勃発した。非アラブ系黒人がスーダン解放軍(SLA)など反政府勢力が反乱した。スーダン政府は、政府軍を支援するアラブ人民兵による非アラブ系黒人の虐殺行為を支持した。内戦で約200,000人が死亡して、約2,000,000人が難民となった。ダルフール地方はサハラ砂漠に含まれ、非アラブ系のオアシス農耕民と、アラブ系の遊牧民が混在した。同じイスラーム教徒のアラブ系と非アラブ系の民族が対立した。2003年から「ジャンジャウィード」のアラブ系民兵が非アラブ系黒人の村落を襲撃し、民族浄化の大量虐殺や虐待をくり返した。それに反発した武装グループ(SLA)も反撃して、首都ハルツームを攻撃して内戦が拡大した。国際刑事裁判所(ICC)はスーダン大統領を大量虐殺で告発した。世界最悪の非人道的危機であるダルフール紛争は継続した。2005年からの国連平和維持活動(PKO)などにより、スーダンで2010年4月に総選挙を実施して、民主化と和平を模索中である。



2018年9月11日火曜日

南アフリカのアパルトヘイト撤廃の対立から、アフリカ全国会議の若者がインカタ自由党の青年を虐待して虐殺した。

南アフリカのソウェトで1990年9月15日に、アフリカ全国会議(ANC)の支持者とズールー人のインカタ自由党(IFP)が、1990年9月15日に衝突して銃撃戦となった。ANCの若者が、降参したズールー族のIFPの青年を捕獲した。ANCの若者らは、IFPの青年に石を突き刺すようになって、青年は地面に倒れた。さらにANCの若者の虐待が強まり、最終的に巨大なナイフを奪って、青年の胸に強く刺した。ANCの群衆からの罵声は、青年はIFPのスパイだと叫んだ。ANCの青年は、IFCの若者に残酷な虐待の攻撃を続けた。ズールー人の若者は地面に動けなかった。IFPの若者の体は、炎の中に包まれて、突然ウォーと叫び声を出した。素足の若造の黒人が駆け寄り、この地獄の火だるまの若者の燃える頭骨に長刀を振って粉砕して虐殺した。
 南アフリカでは、冷戦が終結した1990年代から黒人隔離政策であるアパルト体制を撤廃が始まった。1990年2月11日にネルソン・マンデラの釈放された。1990年7月にズール人勢力がインカタ自由党(IFP)が旗揚げした。1990年9月に、ナタール州のANC支持者とIFP支持者間が対立したハウテン州(PWV)へ飛び火した。1992年6月17日にポイパトン大虐殺で、多数のANC支持者が虐殺された。1994年3月28日にANC本部で、インカタ自由党(ICF)支持者とANC警備員が衝突した。1994年4月26日から4月29日に南アフリカの国民議会選挙があり、国民統一政府樹立されて、ネルソン・マンデラが大統領に就任した。



2018年8月30日木曜日

アルジェリア戦争でブージー湾付近で約20人のアラブ人がフランス軍により惨殺された。

アルジェリア戦争でブージー湾近くの村であるスーク・エル・ドニヌのはずれで、1959年8月16日にアルジェリアの反乱勢力はフランス側に協力した現地の20人のイスラム系住民を殺害して惨殺された死体が放置された。
 アルジェリア戦争は、1954年から1962年にフランスの支配に抵抗するアルジェリアの独立戦争であった。1830年以降からフランスはアルジェリアを植民地下して、1848年に本国の一部とした。1881年に東隣のチュニジアをオスマン帝国から割譲され、1912年には西隣のモロッコも保護領で支配した。特にアルジェリアは北アフリカの支配の重要な拠点となった。第2次大戦の終結後にアジア民族自決と国家独立の影響を受けて、北アフリカでも独立と抵抗運動が高まった。フランスは1952年1月にチュニジアの民族運動を抑圧した。1954年にジュネーヴ協定によりインドシナ4カ国がフランスから正式に独立した。それに応じてアルジェリア解放戦線と国民解放軍団が発足しました。1956年には両隣のチュニジアとモロッコが独立した。フランス政府のアルジェリア独立運動への弾圧はさらに厳しくなった。1956年からフランス国防省による軍事平定作戦は、1960年代半ばまで最も激しく、アルジェリア民族解放戦線は壊滅状態に追い込まれた。フランス国内の政治情勢も深刻となり、1958年5月13日に第4共和制政権は分裂して崩壊して、9月にシャルル・ド・ゴールが首相に再就任し、新憲法を承認させて、10月から第5共和制政権が発足して、1959年に大統領に就任した。首相よりアルジェリアの民族自決の支持をしたド・ゴールはアルジェリア統治からフランス軍事政権を排除した。フランスは1960年にアフリカの植民地の独立を次々と承認して「アフリカの年」と呼ばれた。サハラ砂漠で核爆発実験の成功させてから、1962年3月18日にアルジェリア独立のエビアン協定を締結して、アルジェリア戦争は終結した。



2018年7月30日月曜日

エチオピアの小作人は農作物の半分以上を地主に納め、極貧で最下層の農民は1973年の旱魃と内乱で約200,000人以上は餓死した。

エチオピアの最後の皇帝となったハイレ・セラシエは、1972年から1973年の大飢餓に対して、市民の窮状を救わず、無責任にも飢餓を厳しく統制した。エチオピアの8割が農民で、大半が小作人であった。小作人の農作物の半分以上は地主に納め、残りの農作物で極貧に陥った。最下層の農民は、慢性的貧困から、飢餓状態で生きていた。1972年から73年には大干魃に襲われ、農作物は全滅して約200,000人以上が餓死して、エリトリア州で内戦が勃発した。世界的な石油ショックで食品価格が急騰した。貧困の市民は食物を買えず、約2,000,000人以上が飢餓状態に陥った。アディスアベバでデモ騒乱が発生して内乱に陥った。皇帝が宮殿のライオンに肉を与える写真が公表され、深刻な食糧難に苦しむ市民を激怒させた。1974年年9月に陸軍が反乱を起こして、ハイレ・セラシエ皇帝を逮捕して強制的に廃位さした。軍部は12月にエチオピア連邦民主共和国を宣言し、1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムが共産主義の軍事独裁政治を始めた。約20年間で反対勢力の数十万人を粛清した。マリアム政権は共産主義を実行して、農地を国有化し小作制を廃止して、土地を再配分しても、飢餓民の大移動が、部族間の対立を煽り、内戦をさらに深めた。マリアム政権は、飢餓民救済より政権維持を優先し、軍事費を増大して中間層に重税を課した。1984年から1985年にエチオピア北部で大旱魃が発生して、約2,000,000人以上が餓死し、飢餓難民が周辺諸国に避難して、国際社会はがエチオピアの深刻な飢餓を知った。セラシエ派は、マリアム政権の共産主義を非難して内乱を起こした。エチオピアは、前皇帝派と共産主義派の戦いと部族間の紛争で複雑な内戦状態に突入した。市民が殺し合う内戦が飢餓を深刻化して膨大な餓死者を排出した。





2018年3月17日土曜日

アフリカ独立戦争にて、ポルトガル軍はアンゴラ植民地のウイリアム村でアフリカ黒人に無差別の大量虐殺をした。

ポルトガル王国がヨーロッパ諸国で、最初に1415年からアフリカ植民地を占領し始めた。1455年からギニア地方から金鉱と黒人奴隷貿易をした。第2次世界大戦後になって、1961年からのポルトガルとアフリカ植民地との独立戦争が勃発して、ポルトガル軍はアフリカ植民地で虐殺と残虐行為を繰り返した。1973年にはポルトガル軍は、アンゴラのウイリアム村でアフリカ黒人に無差別の大量虐殺をした。ポルトガル本国で1974年4月25日にカーネーション革命が勃発して、民主化で独裁政権が崩壊した。革命後になって、1974年1975年9月10日にギニア・ビサウ共和国、1975年6月25日にモザンビーク人民共和国、1975年11月11日にアンゴラ共和国が、ポルトガルから完全に独立できた。


2017年7月27日木曜日

ソマリア内戦から逃避した難民は、イエメンの海岸にて蹴殴されて海に棄てられ溺死した。

ソマリアは第2次世界大戦後に、英国とイタリアから独立した。1988年から内戦が勃発して、2000年から更に国家の分裂が進み、氏族・軍閥・宗派など様々な勢力が対立する群雄割拠状態となる。2006年から国境近辺の紛争からエチオピア軍が侵略をした。内戦による海賊らは沖合の船は襲って、ソマリア内戦から逃避した難民は、イエメンの海岸で蹴殴され、海に棄てられ、海岸に溺死した死体が散乱した。



2017年7月23日日曜日

リベリア内戦により道端に市民兵士らの死体が散乱して、リベリア市民はパニックになり逃避した。

リベリアはアメリカの奴隷が解放されて1847年に建国された。元奴隷は全人口の3%程度で先住民族を迫害した。第一次内戦の1989年から1996年で約15万人が戦死した。第2次内戦の2003年から米軍が介入して2005年まで勃発した。その内戦で2003年7月23日には道端に市民兵士らの死体が散乱して、リベリア市民はパニックになり逃避した。


2017年3月18日土曜日

内戦の飢餓・結核・マラリアで多くの弱者が絶命する

アフリカのナイゼリアからビアフラ共和国が独立する1967年7月6日から1970年1月12日までビアフラ内戦が勃発した。多くの弱った児童は厳しい飢餓だけでなく結核やマラリアに侵されて輸液されるも絶命した。