2023年10月31日火曜日

日本本土の秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。

秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン(Pegun)島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。切腹者に日本刀で介錯して斬首した頭部が切断されて血まみれに散乱した。

 太平洋戦争にて1944年11月15日に、アメリカ軍はマピア(Mapia)諸島のペガン島に上陸した。アメリカ軍B25戦闘機は、ペガン島を根こそぎ揺がす如く激しい執拗な猛爆撃を加えた。日本軍兵士は、次々と斃れて多数の死傷者を出して、ペガン島の北方に退避した。ペガン島にいた一部の日本軍兵士は、珊瑚リーフを渡り、北のブラス(Bras)島へ退却した。

 一方、ブラス島への退却路を塞がれた数十名の日本軍兵士は、アメリカ軍の戦車で壊滅して、蹂躙された。日本軍兵士の戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。もはやこれまでと最期を決意した残存した日本軍歩兵第223連隊の約30人は、散兵壕内で手榴弾や切腹により自殺した。11月15日にジャングルの端で爆薬や切腹による集団自決を遂げた。アメリカ軍は、11月15日にペガン島を制圧した。アメリカ軍公刊戦の記録では、マピア諸島における日本軍兵士の玉砕した戦死者数は総数は151人であった。秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊が全滅して玉砕した。殺されなかった日本軍兵士は、ジャングルに逃げ込み、ほとんどが餓死した。

 マピア諸島は、西部ニューギニアの北方約190kmで、海抜わずか1mの扁平のサンゴ礁の小島群である。一番南に、長さ約4.2km、幅約400mの細長いペグン(Pegun)島が位置した。日本軍はペガン島と呼称した。太平洋戦争での玉砕戦は、大半は戦略の失敗による特異な戦術様態にもかかわらず、玉砕は負のイメージを払拭し、雄々しく散った勇士の姿を浮かび上がらせた。玉砕は作戦の立案者や指揮官の失敗を覆い隠し、日本軍首脳にとっては都合のよい言葉になった。まもなく、玉砕は全滅の代替え語になった。




2023年10月30日月曜日

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。ソ連の赤軍がゼーロウ高地を突破した後の1945年春に、ベルリンへ向かう途上の道に、ソ連軍の戦車が延々と列をなした。弱体化したドイツ軍の空軍も、急ごしらえのドイツ軍の国民突撃大隊も、ソ連軍の進軍を阻止するには至らなかった。

 ベルリン方面では、ソ連軍は頑強に抵抗するドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。ドイツ軍司令部は、ソ連軍の行く手を阻もうと、使えるすべての戦力を戦闘に投入した。ベルリンの軍事学校は授業を停止し、学校の士官候補生と軍属も前線に送られた。ヒトラーはベルリンで、15歳から65歳まで全面的な戦争動員を宣言した。

 ソ連の赤軍歩兵は要塞化された建物からドイツ軍を叩き出し、砲撃はベルリン郊外の通りに築かれた石やレンガのバリケードを破壊した。ベルリン侵攻の初日4月22日には、最大で8000人のドイツ軍兵士が犠牲となり、47台の戦車と自走砲、150以上の野砲と迫撃砲が破壊された。ベルリン方面での戦闘は昼夜を問わず続き、1時間も途切れることはなかった。

 ドイツ軍は何万人もの戦闘員を集めてソ連の進撃を食い止めようとした。約6000両の戦車と自走砲、8000機の戦闘機、約4万1000門の迫撃砲と大砲で強化された約200万人以上のソ連軍の赤軍部隊にはドイツ軍は勝ち目がなかった。ソ連軍のベルリン攻勢は1945年4月23日に勃発した。4月29日までに、ソ連軍はドイツ軍を切り裂き、首都ベルリンの中心部まで到達した。5月1日に、ソ連軍はドイツ連邦議会議事堂を攻撃し、屋上に有名な戦勝旗を掲げた。5月2日に、ベルリン市内に残っていたドイツ軍の守備隊はソビエト軍に降伏した。




2023年10月29日日曜日

2023年10月5日に、ウクライナのハリコフ州フロザで、地元住民がロシア軍のミサイル攻撃で殺害されて散乱した死体の中で身元確認をした。ヒロザの追悼式のカフェへのロシア軍のミサイル攻撃で51人死亡した。

2023年10月5日に、ウクライナのハリコフ州フロザ(Hroza)で、地元住民がロシア軍のミサイル攻撃で殺害されて散乱した死体の中で身元確認をした。ヒロザの追悼式のカフェへのロシア軍のミサイル攻撃で51人死亡した。

 ウクライナ北東部のヒロザ村にあるカフェと食料品店に、ロシア軍のミサイルが激突し、建物は瓦礫と化し、追悼式中の51人が死亡した。2023年10月5日午後に、ハリコフ州のフロザ村のカフェと食料品店が攻撃された場所には、レンガや粉々になった金属や建材が山積みとなった。ミサイル攻撃は、ロシア軍の侵攻以来、ハリコフ州で最も甚大な被害をもたらした。ロシア軍による一度の攻撃で最大の民間人犠牲者の一つとなった。侵攻初期にロシア軍に占領されたが、2022年9月にウクライナ軍が奪還した。ロシア軍が2022年2月24日にウクライナ侵攻を開始する前に、ヒロザの人口は約500人と比較して、入植地のヒロザには約330人が住んでいて、ヒロザ村の5分の1が1回のミサイル攻撃で殺害された。

 ロシア軍侵攻中の避難命令下にも、家族がヒロザに残存して、犠牲者の中には子どもたちも含また。フロザは、2022年末にウクライナ軍が奪還したクピアンスクの西約30kmに位置し、戦争の最前線にかなり近い。救急隊員は瓦礫の山を通り抜け、子供たちの遊び場に隣接する野原に死体を並べて散乱していた。何人かは白い遺体袋に入れられて運び出された。カーペットなどでかろうじて覆われ、手が不格好に突き出ている死体もあった。緊急サービス広報は、生存者の捜索は終了し、死者数は51人、負傷者数は6人、行方不明3人と発表した。死者の中には6歳の男の子も含まれた。埋葬中の兵士の息子(同じく兵士)も、息子の妻と母親とともに襲撃で死亡した。

 ミサイルが落下して炸裂時に、地元のヒロザの住民の約60人は、戦死した兵士のための礼拝の後に、追悼式の礼拝の席で食事をしていた。ロシア軍のイスカンデル弾道ミサイルで攻撃されて、攻撃の標的を絞った。ロシア軍当局はフロザのミサイル攻撃はすぐにコメントを出さず、意図的な民間人殺害を否定した。ロシア軍がウクライナの住宅地やエネルギー、防衛、港湾、穀物などの施設を襲った攻撃で多くの犠牲者が出た。




















Warning: A local resident tries to identify bodies in Hroza, in Kharkiv region, Ukraine October 5 2023. Picture: SOFIA GATILOVA/REUTERS

2023年10月28日土曜日

1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである。原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。

長崎原子爆弾の被爆者の背中をケロイドが覆った。ケロイドは、瘢痕組織の上に成長する緻密な線維性の増殖である。1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである(日時・場所等不詳)。

 原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。爆心地から2km以内で熱線を浴びた人の約50~60%にケロイドが発生した。ケロイドは放射線と関係がある。ケロイドは被害者の心と体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドがある人は精神的にさらに苦しみ、背中や肩にケロイドがある人は肌を見せることを躊躇した。

 ケロイドは、原爆被爆者の火傷した皮膚が治癒する過程で形成された、不規則で異常に突出した瘢痕組織である。瘢痕が蟹の甲羅や足のように見えることからこの名がついた。爆心地から約2km以内の被爆者に多く見られ、ケロイドは被爆4ヵ月後に形成され、その後6~14ヵ月後に最も目立つようになった。ほとんどの瘢痕は約2年後に縮小して治癒した。

 太平洋戦争の末期となった1945年8月9日午前11時2分に、プルトニウムを核とする約21キロトンの爆縮型の原子爆弾であるファットマンが、長崎上空の約500mで炸裂した。推定7万人の長崎市民が死亡して、約6万人が負傷した。人口密度の高い九州西部の工業都市である長崎市の上空で炸裂した。長崎市は、取り囲む丘陵地帯により、原子爆弾の壊滅的な影響が広がるのを食い止めた。逆に、原子爆弾の破壊力を集中させ、爆心地に最も近い地域で原爆の威力をより強烈にした。長崎原子爆弾は爆心地から約914m以内にあった病院と医学部を消滅させた。爆心地から半径1.5km以内にいた人々は一瞬にして姿を消した。 




2023年10月27日金曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、アメリカ軍が日本軍の95式軽戦車を、火炎放射器で攻撃をした。損傷して、乗組員が焼け焦げて焼死して周囲に散乱した。アメリカ軍兵士が、黒焦げの日本軍兵士の死体を検死した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦い(1944年9月15日から11月27日)にて、アメリカ軍が日本軍の95式軽戦車を、火炎放射器にて攻撃をした。日本軍の95式軽戦車が損傷して、乗組員が火炎放射器で焼け焦げて焼死した死体が、戦車の周囲に散乱した。アメリカ軍兵士が、戦車の側から黒焦げの日本軍兵士の死体を検死した。

 日本軍は、アメリカ軍を遅延させて最大限の死傷者と損害を与える戦術へと転換した。自然の地形を利用し、カモフラージュして、厳重に要塞化された陣地が、防御する日本軍側に有利な逆斜面やマスキングされた地形に構築された。日本軍の要塞、掩体壕、トンネル群をめぐる戦闘は、ペリリュー島の戦いを象徴した。アメリカ軍は、包囲戦の状況に陥り、ほぼすべての強拠点を隣接する陣地から孤立させて、火炎放射器とサッチェルチャージの爆破物を使用して、手と手を使った戦闘で破壊した。アメリカ軍が多大な犠牲を払って奪還したペリリュー島は、太平洋戦争の最終年に重要な役割を果たさなかった。

 アメリカ軍は火炎放射器部隊は主に、火炎放射車によりヘリリュー島で日本軍の洞窟、ピルボックス、壕を無力化し、戦場から身を隠すものを燃やすために、フレームトラクターを使用した。防御された陣地に隠れていた日本軍兵士は、逆斜面を直撃する燃え盛る太い燃料のアーチ状の棒の流れにしばしば捕まった。火炎放射器は歩兵よりも、戦車よりも先に動いて、丘に到達して攻撃が緩むと、戦車と歩兵が火炎放射器を支援した。火炎兵器の射程外の目標に火炎を運ぶために高圧ホースを使用した。高圧ホースを新装着した火炎放射器が、約55mの射程距離を達成して、その後の沖縄戦ですべてが使用された。

 ペリリュー島の戦いでは、アメリカ軍の犠牲者は、海兵隊の約1,336人が戦死、約5,450人が戦傷、第81歩兵師団の死者約1,393人(うち戦死者約208人)に及んだ。日本軍の犠牲者は推定約10,695人が戦死して、さらに約301人が捕虜となった。




2023年10月26日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト要塞を防衛した。ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて死体が廃墟に散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト(Brest Fortress)要塞を防衛した。ブカレスト要塞の廃墟にて、ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて、死体が散乱した。

 ソ連ベラルーシ西部の国境にあるブレスト要塞は、ドイツ軍のポーランド侵攻2日目の1939年9月2日に、ブレスト要塞は初めて爆撃された。ブカレスト要塞をめぐる戦闘は9月14日から9月17日まで続いて、ドイツ軍がポーランド守備隊を鎮圧して占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書で、ブレスト要塞はソ連に割譲された。

 1941年6月22日からドイツ軍はバルバロッサ作戦で突如にソ連西部に侵攻して奇襲攻撃した。バルバロッサ作戦の初日にブレスト要塞の戦いが勃発した。6月22日04時15分に、ドイツ国防軍は何の前触れもなくブレスト要塞を攻撃した。ドイツ軍の強力な砲撃の後、突撃を開始した。ブレスト要塞は火の海と化した。周囲はすべて燃え上がり、ゴロゴロと音を立てていた。ソ連軍の兵舎では、天井に穴が開き、壁の一部が剥がれ落ち、すでに死傷者が出た。6月22日午前9時に完全にドイツ軍が包囲した。ソ連軍は6月26日まで持ちこたえたが、ドイツ軍の土木工兵が数か所の要塞を爆破し、ついにソ連軍の抵抗を打ち砕かれた。6月30日遅くに、ソ連軍はブレスト要塞の放棄を決定し、7月2日に生き残ったソ連軍の主力が脱出した。6月30日にはブレスト要塞内には組織化されたソ連軍部隊は残存しなかった。

 ドイツ軍の推定では、ブレスト要塞の攻撃で約7000人以上の赤軍兵士が捕虜となり、約2000人が死亡して、要塞からの脱出者はほんの一握りだった。ドイツ国防軍は500人以上が死亡し、約700人が負傷した。8月26日に、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニが要塞を訪れた。ソ連軍のプロパガンダにより、戦闘は7月20日まで続き、ソ連軍兵士は誰もドイツ軍に降伏しなかった物語として、赤軍とソ連国民の回復力と勇気の証とした。




2023年10月25日水曜日

太平洋戦争のブーゲンビルの戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル(Bougainville)の戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

 連合軍と日本軍のブーゲンビル島の戦いは1943年11月1日に勃発して、1945年8月21日に終結した。ブーゲンビル島はソロモン諸島にて約1万平方kmと最大である。日本軍は、ガダルカナル島から撤退した第十七軍の司令部を置いた。その兵力は第六師団、第十七歩兵団、南海第四守備隊などを中心に、最終的には約6万人から約8万人も駐留した。   

 1943年10月27日に、ニュージーランド軍がモノ島(トレジャリー島)に上陸して、日本軍の海軍陸戦隊の約200人を掃討した。10月27日にチョイセル島にアメリカ軍が上陸し、同島の日本軍守備隊約1,000人強との戦闘後に、11月4日には撤収した。11月1日、連合軍の第三海兵師団が、ブーゲンビル島のタロキナ海岸から上陸した。ラバウルの日本海軍航空隊が出撃して、タロキナ海岸付近のアメリカ軍艦船をブーゲンビル島沖海戦で攻撃した。上陸地点に最も近くのモシゲタに布陣した日本軍歩兵第二十三連隊は、約2,200人の兵力でタロキナ海岸に侵攻して、戦闘が11月8日に勃発した。約150対1もの格差があるアメリカ軍の火力に遭遇して、戦闘よりも虐殺に等しいと判断した日本軍の浜之上俊秋連隊長は、独断で撤退した。

  日本軍の歩兵第二十三連隊がタロキナ海岸上陸軍への攻勢を、中止して撤退した後に、日本軍の第十七軍は兵力を集中させて、攻撃の再開を準備した。その矢先に、ラバウルの日本軍の第八方面軍は、攻勢の延期を大本営から指示された。大本営は陸海軍部と早期攻撃を希望したが、第八方面軍は十分な兵力を集中した攻撃でないと、制空権も制海権も連合軍に握られた現状では、効果がないと延期で押し切った。攻撃の3日目で撤退した日本軍第二十三連隊長は、負傷して更迭された。一時は第八方面軍では、第二十三連隊長は敵前逃亡で軍法会議にかけるべきと強硬意見もあった。踏みとどまり攻撃を続行すれば早々に玉砕の全滅も予想されて、日本軍の方面軍の攻勢一時中止は当然だった。

  日本軍の第六師団はブイン地区から百数十kmもあり、一翼を担う第四十五連隊などは反対側、密林で覆われた山脈のタロキナ海岸の反対側キエタに布陣していた。3カ月余りをかけて、第六師団ほかに、在ブーゲンビル島の全兵力をタロキナ付近に集結させた第十七軍は、1944年3月8日、総攻撃を開始した。峻険なジャングルを切り開いて侵攻に時間がかかった。対する連合軍は、第14軍の約62,000人、そのうち第一線は第3海兵師団とアメリカル師団の計約27,000人だった。日本軍は、絶え間ない砲弾のなかで死守敢闘しが、1944年3月末に撤退のやむなきに至った。ブーゲンビル島の戦いの犠牲者は、日本軍は戦死その多くが餓死や病死で約2から3万人に上り、アメリカ軍は約1,243人が戦死した。日本軍は、終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないままに、国から見捨てられた多くの部隊が全滅した。




2023年10月24日火曜日

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。ロシアの農民の問題が、第一次世界大戦とロシア内戦による秩序崩壊によって餓死者が増大した。

 ウラジミール・レーニンが率いたボリシェヴィキが、農民の食料を奪うことで農民の力を削いだ。1921年から1922年まで続いたロシアの大飢饉で、約500万人以上が死亡した。第一次世界大戦による経済危機、5年間続いたロシア内戦、1921年の干ばつにより、約3000万人のロシア人が栄養失調に陥った大飢饉が発生した。最も被害が大きかったのが、ロシア南東部のヴォルガ川とサマラ川の合流点のサマラ市であった。レーニンは飢饉直後の1924年に死去して、後にヨシフ・スターリンがソ連の指導者となった。1920年代にロシアの飢饉は、広大なロシアのヴォルガ川とウラル川流域の約2,500万人が飢餓に陥った。1930年代には、スターリンによる農業集団化と富農撲滅運動により、ウクライナからソ連各地に大飢饉(ホロドモール)が発生した。

 特にサマラ市は、ロシア内戦により、戦争共産主義を進める赤軍部隊に食糧を供給するために、農民の農場から食糧の接収を命じて、窮状が悪化して最も被害の大きかった地域の一つとなった。さらにサマラの5月平均降水量は38.8mが、1921年には0.3mしか降らず、その後に深い霜が降り、数百万人が飢餓に直面した。サマラ市民は、草、土、犬、猫、革の馬具を食べることを余儀なくされた。飢餓が蔓延し、人々は生き延びるために想像を絶する人肉を摂取するようになった。

 スウェーデン生まれの北極探検家であるフリットヨフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)は、身分証明書や国籍証明書を持ってないロシア難民に、ナンセン・パスポートを考案した。無国籍者の身分証明書は、約50以上の外国政府によって認められ、ロシア難民が合法的に国境を越えることを可能にした。当初のロシア難民が、他の難民にも適用された。1922年11月にナンセンは、1922年度のノーベル平和賞を受賞した。




2023年10月23日月曜日

ガザ中心部のアル・アフリ・アラブ(al-Ahli Arab)病院への空爆で死亡したパレスチナ人の死体が、シファ病院に搬送された後、死体の周りにパレスチナ人が集まり、医療関係者や市民らが白い袋や毛布で死体を収容した。

ガザ中心部のアル・アフリ・アラブ(al-Ahli Arab)病院への空爆で死亡したパレスチナ人の死体が、シファ(Shifa)病院に搬送された後、死体の周りにパレスチナ人が集まった。医療関係者や市民らが、白い袋や毛布で死体を収容した。その病院の中庭には血痕と複数の放火された車が散乱した。何万ものパレスチナ人の家族が、終わりの見えないイスラエル軍の砲撃から避難するのに、ガザ地区の壊滅状態にある病院に殺到していた。

 パレスチナのガザ当局は、2023年10月17日にガザ地区のアル・アフリ・アラブ病院の空襲で数百人が死亡と発表した。ガザ保健省は10月17日に、ガザ中心部で患者で満員であったアル・アフリ・アラブ病院への攻撃で少なくとも500人が死亡したと発表した。パレスチナ自治区を統治するハマス武装組織は、イスラエル軍の攻撃は戦争犯罪と述べた。SNS上で共有された画像は、建物が炎に包まれ、被害が拡大し、残骸の中に死体が散乱していた。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は言語道断であり、民間人の命を著しく軽視していると述べた。

 イスラエル国内で10月17日にハマスによる前代未聞の攻撃を受けて、イスラエル軍が10月7日に空からガザを攻撃し始めた。その後に砲撃からの避難を求める何万人ものパレスティナ人がガザ中の病院に逃げ込んだ。死体の中には患者や避難民のパレスチナ人も含まれ、病院の攻撃は国際的非難を巻き起こした。イスラエル軍は、病院での爆発をパレスチナのイスラム聖戦グループによるロケット弾発射失敗と非難した。イスラム聖戦グルーブは責任を否定した。

 病院攻撃を受けて、占領下のヨルダン川西岸地区や中東のいくつかの都市で反イスラエルの抗議デモが発生した。ヨルダンは10月18日に予定されたアメリカ、エジプト、パレスチナ自治政府の大統領が出席する予定の首脳会議をキャンセルした。パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長は、病院が標的となったことは、醜悪な戦争による虐殺であり、容認できないと述べ、アンマンでの会議を辞退した。ガザの保健省は、水曜日のアル・アハリ・アラブ病院での爆発はイスラエル軍の空襲によるものだと発表した。イスラエルは、爆発はパレスチナ・イスラム聖戦(PIJ)武装組織が発射したロケットの誤爆によるとした。PIJは疑惑を否定した。













Warning: People gather around the bodies of Palestinians killed in Israeli air strikes on the al-Ahli Arab Hospital in central Gaza after they were transported to Shifa Hospital. [Dawood Nemer/AFP]


2023年10月22日日曜日

ウクライナ東部のハリコフの都市中心部で、2023年10月6日にロシア軍のミサイルが雑居ビルに突撃して、10歳の少年が殺害された。救急隊員が、10歳の少年の死体を収容した。

2023年10月6日に、ウクライナ東部のハリコフでのロシア軍のミサイル攻撃で10歳の少年と祖母が死亡した。ハリコフの都市の中心部で、ロシア軍のミサイル攻撃が雑居ビルに突撃して、10歳の少年が殺害された。救急隊員が、10歳の少年の死体を収容した。

 ウクライナ北東部の都市ハリコフで、ロシアのミサイル攻撃により10歳の少年と祖母が死亡した。同地域の別の場所では、前日の攻撃で少なくとも約52人の市民が死亡した。ここ数カ月で最も犠牲者の多い攻撃のひとつとなった後に、市民たちは死者を埋葬する準備をしていた。10月6日早朝のロシア軍のミサイル攻撃後に、救急隊員が建物の瓦礫から少年の遺体を引き揚げた。少年はスパイダーマンのデザインのパジャマを着ていた。

 ミサイルの攻撃で、少年の祖母も死亡して、生後11ヶ月の子供も負傷した。ハリコフ市では、10月6日早朝に発射されたミサイルのうち1発が通りに着弾して、クレーターを残し、もう1発が雑居ビルに命中し炎上した。ハリコフ州当局は、ロシア軍の攻撃全体で、約30人が死傷したと述べた。その救助活動は続いている。ウクライナ軍当局者によると、ロシア軍はイスカンデルミサイル2発で攻撃したと報告した。

 ウクライナ当局は、前日の10月5日に、精度と破壊力を伴うロシア軍のイスカンデル弾道ミサイルが、ウクライナ東部のホロザ(Hroza)村のカフェと商店を瓦礫と化し、少なくとも約51人の市民を死亡させた。ミサイルが命中したとき、カフェでは子供を含む約60人が通夜に出席していた。ウクライナ軍兵士のアンドレイ・コジールが戦死して、ホロザ村人が彼の死を悼むカフェの葬儀をロシアのミサイルが直撃した。ロシア軍は一瞬にして、コジールの未亡人、娘、息子、娘婿、娘婿の両親、叔父、叔母、その他の親族を殺した。ロシア軍のミサイル1発で、村の人口の6分の1が殺害された。















Warning: Emergency workers retrieved the body of a 10 years old boy who was killed in a Russian air attack that hit a multi-storey building in central Kharkiv, October 6, 2023.(AP Photo/ Alex Babenko)

2023年10月21日土曜日

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、同年12月までに約9から約12万人が死亡したとされる。その約半数は、原子爆弾の投下して炸裂した直後に亡くなった被爆者である。1945年にはアメリカ軍から、すでに東京をはじめ各都市が徹底的な空襲を受けた。

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者であったホーマー・ビガード(Homer Bigart)は、アメリカ軍が原子爆弾を投下して炸裂して8月6日後に、9月3日と遅延して、広島市内に入ることが許可された。被爆地を撮影したライフ誌の写真家であるバナード・ホフマン(Bernard Hoffman)と同行した。9月3日に、広島市内を歩いた。約4週間前の最初の原子爆弾の爆発による被爆者たちは、治療が困難な火傷や感染症で、9月3日頃に毎日約100人の割合で死亡した。この史上最悪の核兵器の原子爆弾による犠牲者は、死者約53,000人、行方不明者約30,000人、重傷者約13,960人、負傷者43,000人であった。ホーマー・ビガードは、1945年8月6日に広島市上空で原爆が爆発してから1ヵ月後の広島市内の破壊を目の当たりにしても、敵である日本軍を全滅させるための戦争の論理的な行為であると考えた。ビガードは、1945年の太平洋戦争、1951年の朝鮮戦争の取材でピューリッツァー賞を受賞した。

 広島市内は平坦な、ぞっとするような荒涼とした風景が広がっているだけだった。荒涼とした風景を際立たせているのは、むき出しになった黒ずんだ木の幹と、時折見える鉄筋コンクリートの建物の殻だった。瓦礫はいたるところにあったが、その大きさは通常よりはるかに小さかった。原子爆弾はすべてを取り壊した。鉄や鋼鉄でできた建物は、いくつかの砲弾が残っているだけだった。広島の大部分は木造は燃え尽きた。日本は全面戦争だった。戦争に勝たなければならず、敵を実質的に絶滅させなければならないと感じていた。




2023年10月20日金曜日

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー(Kjeller)飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。




 爆撃の元となった攻撃は、1943年11月18日、イギリスのノーフォークを拠点とするアメリカ軍の第2航空師団に所属するアメリカ第8陸軍空軍のB24リベレーター重爆撃機によるキェラー飛行場への空襲で起こった。ドイツ占領軍が1943年11月18日木曜日にキェラーで特別軍事演習を計画していた。キェラー飛行場で、ドイツ空軍機、エンジン、部品の修理・整備は、ドイツの3大工業・整備会社によって行われた。1943年11月18日朝、搭乗した第2AD爆撃集団の約107機が空襲に参加した。キェラー飛行場の対空砲台にいたドイツ軍の対空砲兵は、差し迫った攻撃はすべて軍事演習の一環として、空砲で発砲した。アメリカ軍の約78機のB24爆撃が、約230kg爆弾を合計約838発のをキェラー上空に投下して空襲した。空襲によって、終戦までキェラー飛行場での整備活動は事実上停止した。 キェラー空港はノルウェーで最初に設立された空港である。ドイツ軍により、1940年4月8日からノルウェー侵攻が勃発して、4月10日に4月10日にキェラー飛行場は占領され、6月10日にノルウェーは制圧された。終戦後の1945年5月9日、キェラー飛行場はノルウェーに明け渡された。

 帰還機で2人のアメリカ人乗組員が死亡、1人が負傷、91人が行方不明となり、うち30人が中立国スウェーデンに抑留された。アメリカ軍側はキェラー飛行場の爆撃で約200人以上のドイツ軍兵士が死亡、400人が負傷したと推定した。BMWの現場近くの塹壕に身を隠した多くのドイツ軍兵士が生き埋めで死亡したという。飛行場に実際に落ちた爆弾とは別に、半径2キロ以内に約140発の爆弾が落とされた。民家6軒が破壊され、6軒が大破した。民間人3人が死亡、数人が負傷した。1943年11月18日のアメリカ軍の空襲後に、ドイツ軍のキェラー飛行場のの修理・整備基地に爆弾の煙が立ち昇った。




2023年10月19日木曜日

アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所を1945年5月5日に解放した後に、5月12日にバラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

オーストリアのリンツ近郊にあるグーゼン強制収容所は、アメリカ第3軍第11装甲師団の部隊によって1945年5月5日に解放された。長引く死、過酷な労働、獣姦、大量絶滅の強制収容所であった。グーゼン強制収容所で殺された捕虜の総数、収容されていた最大人数は、開放時には不詳であった。1945年5月12日にアメリカ軍が解放した際に発見された死体であった。マウトハウゼン強制収容所の副収容所であった。アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所の解放後、バラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

 アメリカ軍が到着して解放した後も、収容者たちは毎日約100人の割合で、高度な飢餓で死亡し続けた。収容者たちは、収容所は主にヨーロッパ全土からの政治犯のためのものだったと調査官に語った。しかし、グーゼン収容所では一時期、未知数のアメリカ人飛行士が虐殺されたことが判明した。囚人たちは、立っていられないほど衰弱するまで近くの石切り場で働いて、その後ドイツ軍に虐殺された。グーゼン強制収容所は、ガス室、火葬場にて、ドイツ軍が虐殺した犠牲者の処分に使った通常の効率的な手段を備えていた。第三軍部隊は、不潔なベッド、ゴミ捨て場、道路、荷車、貯蔵室、火葬を待つために置かれた冷蔵室で、収容者の死体を発見した。ドイツ民間人は、アメリカ軍によって、腐敗した死体を適切な埋葬のために運び出すよう強制労働された。

 ガス室で死んだ者もいれば、ベッドで餓死した者もいる。遺体は、まともな埋葬のために、貨車に積み込むために通りに運び出された。未知数のアメリカ人飛行兵がグーゼン強制収容所で殺された。男たちは近くの石切り場で、体力が衰えるまで働かされ、その後に殺された。1945年5月8日に、12歳以上のドイツ民間人を、解放されたグーゼン収容所で死体処理の任務に出頭させた。ドイツ、オーストリア、ポーランドの捕虜と、1940年に約4,000人のスペイン共和国人、1941年には4,400人のソ連軍捕虜をグーゼンに収容した。1940年と1941年の平均余命は6ヶ月であり、1940年から1942年の囚人の平均体重は40kgであった。




2023年10月18日水曜日

コロ島を出港したその夜から、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。

日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。

 ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。 

 中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。

 葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。




2023年10月17日火曜日

ドイツ軍は1943年9月23日にソ連のウクライナ北東部のポルタヴァから撤退する際に、ポルタヴァ市民を生きたまま焼死させる焚刑を執行した。黒焦げになった数十人のポルタヴァ市民の死体が、路上に積み上げられた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍は1943年9月23日にソ連のウクライナ地方北東部のポルタヴァ(Poltava)から撤退する際に、ポルタヴァ市民を生きたまま焼死させる焚刑を執行した。黒焦げになった数十人のポルタワ市民の死体が、路上に積み上げられた。焼け焦げの死体を、ポルタヴァ市民が取り囲んで眺めた。

  第二次世界大戦中に東部戦線で、ウクライナ地方のポルタヴァの町は甚大な被害を受けた。1941年9月18日のバルバロッサ作戦で、ドイツ軍がポルタヴァを占領してから、その後約2年間にわたりドイツ軍に支配された。ポルタヴァでは約22,000人以上のユダヤ人が、アインザントグルッペンにより郊外一帯に偽って召喚されて虐殺された。1943年9月にソ連軍のステップ戦線の部隊が攻勢を展開して、ボルスクラ川を強行突破した。ソ連軍は、約3日間の激戦の後に1943年9月23日に、ウクライナ地方の中心地であり、ドニエプル川の東にある強力なドイツ軍防衛拠点であったポルタヴァの町を占領した。

 ウクライナ地方のドニエプルの戦いにて、特にポルタヴァでは苛烈だった。ポルタヴァはドイツ軍が厳重に要塞化され、守備隊は万全の態勢を整えていた。ソ連軍の攻勢を大きく鈍らせた数日間の戦闘後、ソ連軍はポルタヴァを迂回して、ドニエプル川に向かって突進した。激しい市街戦が約3日間続いた後に、ドイツ軍のポルタヴァ守備隊は打ち破られた。1943年9月末には、ソ連軍はドニエプル川下流に到達した。ドニエプルの戦いの犠牲者は、ソ連軍が約29万人の戦死または行方不明、ドイツ軍は、102,000人が戦死または行方不明となった。

 ポルタヴァの町の解放の戦闘に作戦したソ連軍兵士に、スターリンは「諸君の指揮するすべての部隊に感謝の意を表する。祖国の自由と独立のために戦った英雄たちに永遠の栄光を。ドイツの侵略者に死を!」。ポルタヴァは、1944年6月からアメリカ軍の戦闘機がドイツ本土へのシャトル爆撃であるフランティック作戦で使用した空軍基地の一つとなった。