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2023年9月16日土曜日

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した。爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した(菊池俊吉)。広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。1937年に増築されて、校舎は広島原子爆弾で完全に破壊された。新築の西校舎の鉄筋コンクリートの建物は外殻が崩れずに残存した。疎開していなかった袋町小学校に残存した児童の約160人のうち157人が原爆死して、教職員の16人も犠牲になり原爆死した。3人の児童は、西校舎内で被爆して、その後地下室に避難して生存した。

 広島原子爆弾が8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から、臨時救護所に転換された。約2ケ月を経過した1945年10月5日から救護組織がかわり、日本医療団病院として、 袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も計7ヵ所に整理された。このころには広島市内の居住者も減少して、外来被爆患者の数も峠をこした。救急臨時救護所は戦時災害保護法にもとづくもので その期限は2ヵ月であった。10月5日現在で、広島市内の臨時救護所は11ヵ所、入院被爆患者は約500名、外来被爆患者は1,200名であった。

 菊池俊吉は、被爆直後の広島の惨状を鮮明に写真の撮影をした。撮影のネガフィルムが、良好な状態で現存して、東京都練馬区に住む妻の徳子が保管していた。一人の撮影者による原爆記録写真では、最多の783点に上った。旧文部省が編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から10月20日までスチル写真を撮影に当した。広島赤十字病院や広島逓信病院で治療を受けるやけどや放射線障害の患者、救護病院となった大芝国民学校や袋町国民学校で死にゆく親子ら、被爆直後の生々しい光景を克明にとらえた。




2023年9月9日土曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mの横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋のバラックが現れ始めた。

広島原子爆弾に1945年8月6日に炸裂して被爆してから2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mに位置した横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋であるバラックが現れ始め、横川駅前など人が集まりやすい場所には闇市が出現した。仮設小屋や闇市は治安や衛生の問題を伴っていたが、復興の始まりを象徴するものでもあった。横川駅周辺の光景の中に、広島市の被爆した街とそこに住む市民が復興しつつある兆しを撮影した。

 戦時災害保護法が打ち切られた後、被爆者への特別な援護はなく、生活保護法など一般的福祉制度しか頼るものはなかった。焼け残った資材を集めて造ったバラックに住み、物資不足に悩まされながら、その生活は困難を極めた。バラックは、空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物を呼称した。困窮した被爆者が空き地などに建てた小屋程度の住居をバラックと呼んだ。 

 横川駅は、原子爆弾の熱線により駅構内の一画から火の手があがり、数時間後には駅舎も焼失した。待合室では約10人が生き埋めとなり4人だけが救出されたといわれた。8月6日当日には線路の枕木がくすぶる中、被災者を運ぶ列車が運転された。被爆して2日後の8月8日に、国鉄の山陽本線は、広島駅と横川駅間の運転を再開した。広島市民は原子爆弾の炸裂の直後に、爆心地から遠い方向に避難した。横川駅付近の市民は北へ、広島駅付近の市民は東や北へ、比治山周辺の市民は南や東に、家族や職場の事情などで、違う方向に向かった市民もいた。

 原爆投下後75年間は、広島市内には何も育たないと噂されていた。しかし、広島は死ななかった。交通、通信、電力のライフラインはすぐに回復した。人も物資も輸送された。情報とエネルギーの供給も確保された。被爆者の実態が十分に伝わらず、被爆者に対する差別や偏見が生まれた。被爆者は、厳しい生活環境に耐たえながら、懸命に生きていこうとしていた。







2023年9月2日土曜日

広島原子爆弾に被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mの広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長から、火傷した両目にピンセットで消毒を受けた。

広島原子爆弾が投下して炸裂により被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mに位置した広島市千田町の広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長により、火傷した両目の火傷にピンセットで消毒を受けた。男子中学生は、両目の火傷により、視覚障害により失明の恐れがあった。医薬品も乏しく、消毒液を塗る程度の処置に留まった。焼け残った広島赤十字病院には被爆直後から多くの被爆者が運び込まれた。

  広島赤十字病院は、当時は陸軍病院であったが、外来では一般市民の治療も行なっていた。医薬品の備蓄があるも、あまりの多くの被爆者が殺到してたちまちに使い果たした。中学生の少年は、広島赤十字病院本館の正面玄関前で外来治療を受た。少年の両手は重度の火傷により、皮膚が剥けて、水疱が生じていた。火傷の治療も、消毒薬やマーキュロ、オリーブ油などを塗り、包帯で拭く塗り巻く手当に留まった。少年は顔面の正面から広島原子爆弾の熱線を浴びていた。額から頬、手の甲に火傷を追った少年が、広島赤十字病院で外来処置を受けた。近くで近親の男性にに右腕を支えてもらった。

 少年は、爆心地から約1,790mに位置した県立広島第二中学校の生徒であった。2年生ならば、8月6日に爆心地から約2.5kmの東練兵場に集合して、学校の芋畑の草取りをせよと指示があり、東練兵場に集合した全員は生存して、直後の原爆死没者は無かった。

 広島県立広島第二中学校の6学級からなる1年生は8月6日朝、爆心地から約500mの旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員された。整列し、引率教師の訓示が終わる直前に、広島原子爆弾が投下されて炸裂した。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。水際に至る迄重なるように重傷の子供充ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあった。7日朝に父親は、屍は既に膨張し、同じ様な容貌となった。全身の火傷で自宅にたどり着き、救護所に搬送された少年たちは、瀕死状態から全員が原爆死没者に陥った。中島の動員現場にいた生徒約344人、教職員8人が、本川左岸にある広島県立広島第ニ中学校の原爆死没者の慰霊碑に刻まれた。




2023年8月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した3歳の男児が、約1月間後に原爆病が発症して、大村海軍病院の八病舎に1945年9月7日に収容された。入院時には、呼吸音が粗裂で、腹部が膨張していた。両手と両足に水疱が残存していた。

1945年8月9日に炸裂した長崎原子爆弾に被爆した3歳の男児が、約1月間後に原爆病が発症して、大村海軍病院の八病舎に9月7日に収容された。入院時には、呼吸音が粗裂で、腹部が膨張していた。両手と両足に水疱が残存していた。水疱が治癒した後には、その痂皮が多数に付着していた。男児の頭部の頭皮は脱毛して、水疱が治癒した後に瘢痕が形成された。男児の入院時記録には、原爆病に関する傷病名は未記入であり、入院後の経過も不詳となった。

 原爆症が出現するまでの潜伏期間は、被爆者の爆心地からの被爆距離と相関する傾向があった。爆心地から約750m以内は、炸裂日から被爆症状が出現した。爆心地から約1kmの被爆では約4日後に原爆病が出現した。爆心地から約1kmから約1.5kmの被爆者は、約10日目から原爆病が出現した。被爆直後には全く外傷もなく異常を認めなかった被爆者は、その後に倦怠感、食欲不振、40°Cにおよぶ発熱などが出現した。同時に、多くの被爆者に頚部リンパ節の腫脹や疼痛、咽頭痛、嗄声が出現した。その後数日して、水様、粘液様および血性の下痢が出現し、血尿も出現した。脱毛は、初期は帽針頭大の広がりから、やがて点状出血も全身に広がり、同時に口腔内や歯肉からの出血や鼻出血が始まった。

 多くの被爆者の口の周囲には奇妙なヘルペス様の発疹が認められた。死期が近まるにつれてそれは壊疽様となり著明な悪臭を伴った。末期には血圧が低下した以外は、心機能に異常は認めなかった。多くの被爆者は終末期的な肺炎を引き起こした。多くの被爆者が胃痛を訴えたが、回虫を認めたが、嘔吐は認めなかった。末期には視力障害などの中枢神経障害が出現した。約30cmの所から指の数を認識が出来ない状態となった。中枢神経障害を呈さなかった被爆者は、著明な貧血や高熱が出現した末期にても、精神状態に異常を認めなかった。外傷の傷口が治癒傾向を示しても、やがて肉芽は壊疽状態に陥り腫脹した。注射部位は感染し、壊死を起こした。(大村海軍病院、塩月正雄、原子爆弾の人体に与える影響: The Effect of theExplosion of the Atomic Bomb on the Human Body.1945年9月10日に報告。)




2023年8月19日土曜日

44歳の女性が、1945年8月9日にアメリカ軍により投下され炸裂した長崎原子爆弾に被爆して、木の枝により頭部を負傷した。同日8月9日に長崎市から北東約17kmの大村海軍病院に搬送されて収容された。

長崎市内で44歳の女性が、1945年8月9日にアメリカ軍により投下され炸裂した長崎原子爆弾に被爆して、木の枝により頭部を負傷した。同日8月9日に長崎市から北東約17kmの大村海軍病院に搬送されて収容された。彼女の頭部、顔面にわたりY字形の挫創があった。その創面から汚穢、中等度の出血があった。彼女のカルテの記録には、殺菌消毒薬であるリバノールガーゼを貼用することにしたという記事があるのみであった。

 ドイツ製薬メーカーであるバイエル社が、局所消毒薬のアクリノールを製品化して、1921年にリバノールの商品名で販売を開始した。アクリノールは、黄色の色素で、連鎖球菌、黄色ブドウ球菌等の化膿菌である一部の一般細菌類に対する殺菌消毒作用を示した。粘膜の消毒や化膿局所の消毒に使われた。感染に対する防御機能をもつ白血球、マクロファージがアクリノールで障害を受けるため2018年以降は販売が中止された。

 大村海軍病院は長崎県大村市にあり、長崎市から東北方向、大村湾を挟んで直線に約19kmほどの距離に位置した。大村海軍病院は本来は軍人のための病院であった。火傷の患者が多いのに薬にも不足した。クレゾール液を薄めてガーゼに浸し、リバノールガーゼの代わりに皮膚に張って交換の処置に留まった。大村海軍病院には長崎原子爆弾の投下されて、約9時間後から続々と被爆者が担ぎ込まれた。初日8月9日だけでも重症者が多く758人が搬送された。8月10日明け方までに収容者の100人以上が死亡した。8月10日にさらに300人を収容して、最終的な収容人数は、1,700人にも達した。

 大村海軍病院に、8月9日午後3時頃に警察から長崎市に死傷者が多数発生し、長崎市内炎上中との電話連絡が入った。陣内軍医中尉を隊長とし衛生兵、日赤看護婦を以て編成せる救護隊を派遣した。午後5時頃に大村市長山口尚章から電話があり、長崎の死傷者は無数であり、鉄道沿線の病院に収容された。負傷者は浦上から別仕立の汽車にて大村駅へ輸送し、大村駅から消防自動車を総動員して病院までの負傷者の運搬を行った。午後8時に長崎から負傷者が到着した。重症の被爆者を折り重ねて、詰め込んだ軍用輸送車とトラックが大村海軍病院に到着した。






2023年8月12日土曜日

アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。

アメリカ軍による原子爆弾の影響調査は、日本側の調査とほぼ並行して、アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。日本側が設置した原爆被害調査特別委員会と同様に複数の専門家グループが派遣され、各分野で詳細な調査が行われた。アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。

 最初に長崎にアメリカ軍のマンハッタン工兵地区特別調査団(the Special Manhattan Engineer District Investigation Group)が到着した。トーマス・ファレル准将を団長とし、医療チーム、技術チームを含む約30人の科学者から構成された。1945年9月中旬から10月上旬にかけて長崎で情報収集を行った。第1班の主な任務は、原子爆弾の影響に関する予備調査を行った。長崎を占領しているアメリカ軍の安全のために残留放射能のレベルを測定した。

 次にアメリカ軍から長崎を訪れた調査団は、「ナブタック・ジャップ・チーム(Navtac Jap Team)」と呼ばれる海軍医療技術調査グループの一団であった。大村海軍病院を拠点とするこのチームは、9月下旬から11月下旬までの3カ月間、長崎原子爆弾の調査に従事した。軍医のスタッフォード・L・ウォーレン大佐が率いる調査チームは、原子爆弾の生理学的影響の調査を行った。調査チームに属する1つのグループは、長崎でもっぱら放射能測定に従事した。別の陸軍医療班は9月30日に長崎入りし、原子爆弾の医学的影響について調査した。アシュリー・オーガソン大佐は、陸軍医療班の計画責任者であった。イギリス軍も、1945年11月、原爆調査団を派遣した。広島、長崎の原爆の影響を調査し、1946年に報告書を発表した。

 日本側の原子爆弾の影響調査は、1945年9月14日に日本の文部省が設置して、10月24日に初会合した日本学術会議の原爆被害調査特別委員会(Special Committee for Investigation of Atomic Bomb Damages)の調査が実施された。実際の作業は9月末から10月にかけて各分野で開始され、1948年3月までの3年間続けられた。しかし、本質的な研究のほとんどは1946年3月までに完了したようである。原爆の爆心地や輻射熱、残留放射線のレベルなどの調査もこの期間に終了した。影響調査の研究成果は、1951年8月に日本学術振興会から「総括報告書」として、1953年5月には日本学術会議から「原爆傷害調査報告書」全2巻(1,642ページ)として刊行された。進駐軍GHQは、原子爆弾の調査研究、成果の公表に、1945年12月11日に原爆災害調査特別研究委員会に通告して、さまざまな検閲と制限を加えた。



2023年8月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約3.0kmに位置した新興善特設救護病院の屋外で炊事が行われた。被爆者の家族が、救護所となった新興善国民学校(現・長崎市立図書館)校庭の一隅において炊飯していた。

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約3.0kmに位置した新興善特設救護病院の屋外で炊事が行われた。被爆者の家族が、救護所となった新興善国民学校(現・長崎市立図書館)校庭の一隅において炊飯していた。左奥の建物は相撲場であり、右は屋内体操場兼講堂である。

 新興善国民学校は、長崎原子爆弾の爆風によって窓ガラスは割れた。新興善国民学校の校舎自体は残存した。被爆した負傷者の救護所として使用された。新興善国民学校は、類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固だったために、長崎原子爆弾の炸裂した直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。爆心地付近では救護所が害滅して、多くの被爆者が新興善国民学校に殺到した8月9日に被爆日直後の患者数は不明である。治療した被爆患者数は、8月17日~8月31日の約15日間だけでも、入院と外来の患者数は約8,000人を超えた。9月1日時点の入院患者数は、約260人に及んだ。

 1945年8月9日に投下されて炸裂した長崎原子爆弾による火災を免れた新興善国民学校は新興善国民学校救護所となった。8月11日には針尾海兵団より救護隊が到着した。その後、佐世保海軍病院武雄分院の医療隊も到着した。県庁方面からの火災によって、救護活動は一時中断した。壊滅状態にあった長崎医科大学附属医院にかわり、親興善国民学校が長崎市内で最大の救護所となった。8月16日には新興善特設救護病院となった。さらに10月6日には長崎医科大学附属医院となって、引き続き長崎原子爆弾の被爆者の治療が行われた。




2023年7月22日土曜日

大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂した。8月9日当日に、長崎県大村町の大村海軍病院には、約758人の被爆者が収容された。その後は、長崎市内の救護所からの被爆者を合わせると、千数百人の被爆者を収容した。大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 太平洋戦争中に、長崎県全体が海軍の基地になっていた。長崎市は軍需工場があり、佐世保市には海軍佐世保鎮守府があり、大村市には海軍航空隊があった。そして、戦地で戦傷した日本軍兵士を収容していたのが大村海軍病院であった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、大陸に最も近い航空基地として、大村海軍航空隊が設置された。

 戦時災害保護法で、救護所の開設の期間は、2カ月間以内と定められていた。10月中旬頃から、長崎市内の各地の救護所が閉鎖となった。長崎駅まで運ばれて、汽車に乗せられた被爆者が、長崎原子爆弾の投下直後から被爆者収容の拠点になっていた大村海軍病院に搬送された。長崎県東彼杵郡大村町久原の小高い丘に立つ大村海軍病院は、千数百人規模の被爆者を救護した。

 1945年8月9日に、長崎市への原子爆弾投下に伴って約758人ほどの被爆者が大村海軍病院に収容された。終戦直後から治療を担当した医師らが避難した。残った医師も業務障害状態となったため、8月末で約450人の重症被爆者を退院させた。10月時点の入院患者は約2000人収容の病院に、約3人のみの状況となった。当時、長崎原子爆弾の被害が及んだ長崎医科大学 (旧制)は、大村海軍病院へ教室を移転した。大村海軍病院を医大に転用するように佐世保鎮守府に対し要請を行った。「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された。1945年12月に、厚生省へ移管されて、厚生省所管の国立病院化により、国立大村病院となった。2001年4月に、現在の国立病院機構長崎医療センターに名称変更となった。



2023年7月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南西 1.4kmの住吉橋の東詰めの臨時救護所は、東地区警備隊長の担当であった。掘っ立て小屋へ収容して、後方の救護所へ移送した。死体をひきあげてトタン板で荼毘に付した。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から南南西 1.4kmに位置した住吉橋の東詰めの臨時救護所と荼毘の風景が8月12日に撮影された。住吉橋は太田川の分流の一つである本川に架けた最も南側の橋であった。爆心地のほぼ南に約1.4kmの位置にあった。その近隣には、住吉神社、中島国民学校、広島県病院、広島県庁があった。広島市の東西を結ぶ要所で、多くの被爆者が通行した。住吉橋の救護所は、東地区警備隊長の担当であった。軍医1名、衛生兵1名の人員で構成された。重態の被爆者を、掘っ立て小屋へ収容した。その場で応急手当の上で、後方の救護所へ移送した。手前のトタン板は, 本川を流れてくる死体をひきあげては、荼毘に付した跡である。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に、陸軍船舶司令官が総指揮に任じて、広島警備本部が設置された。警備本部は直後に被爆者の救護のため、比治山西側聖橋、御幸橋東側三叉路、住吉橋など11カ所に救護所を開設した。陸軍船舶部隊、陸軍燃料廠救護班、海軍増援部隊および広島県がそれぞれ分担して対処した。その後にも多数の被爆者が発生したため, 救護所は自然発生的に増加し、8月9日には53ヵ所を数えるにいたった。

 関連救護所の整理、臨時野戦病院の設置などの措置は「広島戦災傷者ノ救護ヲ8月20日ヲ目途トシ完成セシム為之特ニ民側救護機関ノ運用ヲ強力ニ指導促進セシム」ことを目的とした。ところが8月15日に、日本軍は太平洋戦争に降伏して、事態は一変した。 8月16日には、全陸海軍部隊に停戦が命じられ、復員が始まった。日本軍は漸次救護の業務から離れた。以後の戦災の広島原子爆弾の処理は、広島県と広島市を中心に遂行することになった。救護・医療は広島県市医師会および各種病院なとが専ら担当する態勢となった。

 広島市内に、8月9日には一時的に53ヵ所にも達した救護所はしだいに整理のうえ, 広島市内の各所の国民学校を中心に活動を継続された。広島市内の39校の国民学校は、全焼全壊15、全壊1、全焼2、半壊10を数えた。学童疎開の対象外となった低学年学童は、広島原子爆弾に多くの犠牲者をだした。11校の国民学校が使用可能の状態であった。国民学校救護所は、医療の実務が10月上旬に日本医療団にひきつがれるまで、救護の作業を継続した。





2023年6月17日土曜日

1945年10月11日に、京橋町の警察署から遠望した広島原子爆弾の炸裂約2ケ月後の広島市中心部の様子である。広島市山口町付近で、主要路線が開通した10月11日に最も早朝に運行した一番列車の路面電車が撮影された。

1945年10月11日に、京橋町の警察署から遠望した広島市中心部の様子である。8月6日にアメリカ軍が広島原子爆弾を投下して炸裂により、広島市内中心部の新聞社ビルや百貨店、銀行なども破壊された。広島市山口町付近で、10月11日に最も早朝に運行した一番列車の路面電車が撮影された。広島市山口町と広島駅間が開通して、広島市内の路面電車の主要路線である広島駅と己斐、広島駅と宇品間が全開通した。広島市内の中心部は壊滅して廃墟になり、路面電車の乗客の多くは終点で乗降して、途中で下車する人は少数であった。

 広島電鉄が受けた被害は非常に甚大であり、在籍した約123両の電車のうち約108両が被災した。その約40両以上が全壊・全焼ないし大破した。広島電鉄の施設の被害も大きく、爆心地の近くの櫓下変電所は全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。

 車両と施設に大きな被害を受けた広島電鉄の市内電車は、全線で運行が不可能となった。広島電鉄の人的被害は、従業員約1,241名のうち、死者約185名、負傷者約266名で、死者の中には広島電鉄の家政女学校の女生徒たち約30名も含まれた。千田車庫の出庫口脇に慰霊碑が建立された。

 原爆により全線運行不能となった広島電鉄市内電車ですが、生存した社員は直ちに復旧作業を始め、車両や線路、電柱や電線、橋などの状況を確認して歩いた。倒れた電柱をトラックとロープで引っ張り起こし、切れた電線を繋いで引っ張る懸命の作業を続けた。

 被爆3日後の8月9日には、爆心地から15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)の短い区間で、市内電車の運行を再開した。軍都の広島の交通の復旧には陸軍も支援して、船舶部が持った船のマストの帆柱約300本が電柱用に提供された。復旧は被爆から1か月余り後の9月17日の枕崎台風は、広島県下に約2,012名の死者を出した。広島電鉄も天満橋と横川橋が流失した。

 社員には、被爆による原爆症を発症する者も出た。社員たちは復旧作業を続けた。己斐から始まった市内電車の復旧は、9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の市内中心部に電車の走る音が響き始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎず、広島駅まで復旧した10月11日でも、その数は約20両と、復旧の道のりは厳しかった。終戦後の広島の路面電車の復活が、広島市民の元気の復活に繋がった。




2023年5月20日土曜日

広島平和記念公園でG7サミット首脳は2023年5月19日に、広島平和記念資料館を見学して、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。

2023年5月19日に日本国内閣総理大臣の岸田文雄は、広島県を訪問中のG7サミット首脳らと広島平和記念公園で開催されたG7行事を主催した。岸田首相は、広島平和記念公園でG7(Group of Seven)首脳とその配偶者に挨拶した後、G7首脳らと広島平和記念資料館を見学した。その後、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。G7とは、フランス、米国、英国、ドイツ、日本、イタリア、カナダ(議長国順)の7か国及び欧州連合(EU)が参加する枠組でである。2023年に日本は7回目の議長国となり、広島サミットを開催した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、G7サミットと広島平和記念公園に参加するため、5月20日午後3時半ごろ広島空港に到着した。

 2023年5月19日、岸田首相と岸田裕子夫人は、G7首脳とその配偶者を広島平和記念公園で歓迎した。フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国大統領ジョセフ・R・バイデンJr、アメリカ合衆国大統領およびファーストレディ、カナダ首相ジャスティン・トルドー閣下、ドイツ連邦共和国首相オラフ・ショルツ閣下およびその配偶者、イタリア共和国閣僚理事会議長ジョルジア・メローニ閣下、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国首相リシ・スナック閣下およびその配偶者、フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国首相シャルル・ミシェル閣下、カナダ首相オラフ・ショルツ閣下、イタリア共和国閣僚理事会議長シャル・ミシェル閣下、イタリア共和国閣僚理事長シャ・ミシェル閣下が、G7首脳およびその配偶者を歓迎した。G7広島サミットに出席するため広島を訪れたシャルル・ミッシェル欧州理事会議長、ウルスラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長およびその配偶者は、広島県広島市の広島平和記念公園で会見を行った。その後、岸田総理は、広島平和記念資料館を見学した。広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑での献花式、G7首脳との植樹式に参加した。

 G7首脳は一緒に平和記念資料館を訪れ、首相自らが展示物を説明したほか、被爆者の小倉桂子さんとも言葉を交わした。訪問後、岸田総理をはじめとするG7首脳は、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長の案内で原爆慰霊碑に向かった。原爆慰霊碑に花輪を捧げ、広島の中学生・高校生の協力のもと、黙祷を捧げた。松井市長から原爆ドームについての説明を受けた後、G7首脳は、岸田首相とともに、平和への希求と平和実現に向けたG7首脳の結束の意志の象徴として、原爆を生き延びた桜(ソメイヨシノ)を公園内に植樹しました。G7首脳は、平和記念公園への訪問を通じて、原爆投下の現実について理解を深め、失われた命の霊を慰めるために心を合わせた。G7首脳は、ロシアによる核兵器の使用はもちろんのこと、その威嚇も許されないとの立場を改めて表明した。今回の訪問は、核兵器のない世界の実現に向けたG7のコミットメントを確認する機会となったことを確信する。




2023年5月13日土曜日

1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。

 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に広島市内に落下して炸裂した。1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。広島の中心商店街であった本通商店街は一瞬にして瓦礫と化した。写真の右側にはキリンビールホールと爆風で変形して倒壊した下村宝石店、左奥には中国新聞ビルなどが見えた。広島市民が、廃墟となった焼け跡の広島市内の街路を、大八車などを引きながら移動した。 

 佐々木雄一郎は、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。日本の敗戦により、退職金の代わりのフィルムを携えて、1945年8月18日に広島市に帰省した。母や兄家族、姉、妹ら親族の約13人が死亡や行方不明となった。最初は肉親の死亡した場所だけを写真撮影する予定が、再度に撮影したい場所が見つかった。次第に広島原子爆弾による広島市の復興から変貌の写真撮影に深入りした。元宇品町(南区)に住み着くと、観光の写真撮影で生計を立てながら、被爆都市の広島市を記録し続けた。被爆者の苦痛を知り、物言わぬ墓標を一徹に撮影した。シャッターをきるうちに、約10万枚を撮影した。職業病である眼病を乗り越えて、組織に属さず市民のカメラマンを貫いて記録し続けた。『写真記録 ヒロシマ25年』(朝日新聞社)を、1970年7月30日に出版した。原爆はヒロシマの地上に存在するあらゆるものを破壊した。だが、その大地までは消し去ることはできなかった。

 佐々木雄一郎は、広島原子爆弾の爆心地からの距離をあらわす円周にむかって、8本の線と2個の点を図示した。放射状に8本の線をのばした。この8本の線が円周上に鋭く突刺さり停止した点が、彼の肉親約13人が被爆した地点である。13人は全員が爆死あるいは行方向不明となった。行方不明で未だに線の引けなにい迷える1個の点も含めた。被爆図が、一片の生の匂いもとどめぬ、完璧な原爆死を証明した。広島市の戦後は原子爆弾の被爆後からはじまった。





2023年5月6日土曜日

広島原子爆弾に被爆した似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。左の下顎、口から首に、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。

広島原子爆弾の炸裂により重度の被爆者は、広島湾沖の似島臨時救護所に搬送された。似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。表面的な火傷でも巨大なケロイドが形成された。左の下顎から、口から首にかけて、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。瘢痕組織の肥厚とは異なり、蟹の甲羅や脚に類似した不規則な形態の膨隆を形成するために、ケロイド(Keloid, ギリシャ語で蟹の意)と呼称された。ケロイドは、被爆後の火傷後に形成される瘢痕組織の繊維状の過形成で、皮膚への放射線熱傷を伴った。

 毛包のない火傷は治癒が長期化しやすく、治癒後もケロイドが形成されやすい。原子爆弾のケロイドは、形状が大きい傾向があり、治癒が遅れた傷が、厚く深いケロイドを形成した。創傷閉鎖後も、ケロイドの再発を示す傾向があった。ケロイドの傷跡は、被爆者の皮膚が原子爆弾の炸裂の初期閃光の熱に直接にさらされた部位に形成された。被爆者の火傷の治癒に際して過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向があった。

 原爆による火傷や傷の傷跡が厚くなり、ケロイドの瘢痕の増殖が見られた。ケロイドは、爆心地から約2km以内で被爆して熱線を浴びた被爆者の約50~60%に見られた。ケロイドは放射線とも関係性があった。ケロイドは、被爆者の心と体にも永続的な傷跡を残した。特に、顔面に発生したケロイドには精神的な苦痛を伴った。背中や肩にできたケロイドは、肌を見せるのを避けた。

 1955年5月には、広島から25人の被爆してケロイドを顔貌などに発現した若い女性の原爆乙女が、顔と体の形成外科手術のためにアメリカに連れて来られた。彼女たちは原爆乙女(Hiroshima Maidens)と呼ばれて、約18ヵ月間のアメリカ滞在で形成手術を受けた。アメリカ国民が、出会った最初で唯一の原爆被爆者として当時はとても有名になった。




2023年4月29日土曜日

アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦のジョージ実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。

アメリカ軍の核実験であるグリーンハウス作戦(Operation Greenhouse)のジョージ(George)実験が、1951年5月8日に炸裂した。太平洋のエネウェトク環礁のエベリル島から約60mの高度で爆発させた約225キロトン爆弾である。ジョージ実験では、きのこ雲の頂上付近に完璧なベル・ウイルソン雲を形成した。熱核融合の最初の本格的な核実験となり、水爆の前身となった。熱核融合(熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験となった。ジョージ実験は、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究するための実験であった。ジョージの核実験の結果をもとに、重水素の核融合を確認して、初の多段式ウラム水爆実験の準備を進めた。

 1951年にアメリカ軍は、熱核反応による最初の核実験場での爆発実験を行った。ジョージ実験は、1946年に特許を取得した放射線照射原理で作動する二進法開始器を備えた古典的なスーパーモデルの核実験であった。地球上で初めて燃焼した小さな熱核の炎を点火した最大の核分裂爆発となった。シリンダーと呼称した実験装置は、濃縮ウラン炉心で構成され、独自の円筒爆縮システムによって爆縮された。核分裂の連鎖反応を外部から開始させた最初の装置であった。ジョージ実験は、アメリカ軍の核実験のうち、およそ40回目の核実験であった。

 グリーンハウス作戦は、1951年4月から5月にエネウェトク環礁で実施した。4つの比較的高収率の核実験であり、ドッグ、イージー、ジョージ、およびアイテムの呼び名で構成された。ドッグとイージーは、それぞれMk 6とMk 5という2つの新しい戦略爆弾の実証試験であった。ジョージとアイテムは、熱的に励起された原子核から核融合エネルギーが放出される熱核融合の最初の本格的な実験であった。ジョージは、熱放射で加熱された重水素の核融合燃焼を研究する核実験であった。



2023年4月22日土曜日

広島日赤病院に外来受診した陸田豊子は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来治療室には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

 広島原子爆弾に被爆した陸田豊子(22歳、女性、くがた とよこ)は、荷車の大八車を隣の農家から借りて、日赤病院に通って治療を受けた。通院の姿を10月4日に旧文部省の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画班に同行した菊池俊吉が撮影した。10月6日には、日本映画社の原爆記録映画班の山中真男に、広島赤十字病院の外来治療室の映像を撮影された。

 陸田豊子は、広島市中区本通の安田生命広島支店に通勤途上で、1945年8月6日午前8時15分に、広島市吉島本町3丁目の実家から歩いて南大橋を抜けた地点で広島原子爆弾が炸裂した。爆心地から南約1.7km地点の南大橋で閃光にさらされ、元安川へ吹き飛ばされた。大手町方面に渡る気力もなく橋の柱につかまっていた。岸や川に無数の無残な死体を、軍隊の船が宇品まで運んだ。陸田豊子は、宇品凱旋館を拠点の陸軍船舶司令部の軍隊に救助された。

 陸田豊子は、油を塗られてムシロに寝かされた。広島湾に浮かぶ金輪島から似島に転送され、海路で玖波国民学校へ移送された。旧玖波町の収容患者名簿に陸田豊子の名前が残って、重傷者を示す◯印が付けられた。約80人が収容されて、終戦前日の8月14日までに約11人が死亡した。陸田豊子の名前が広島市で張り出され、母と親類の兄とが荷車で迎えにきた。8月24日に吉島本町の実家に戻った。

 アメリカ軍は、原子爆弾の記録写真等を接収をワシントンの陸軍病理学研究所に秘蔵した。1973年に記録写真等が日本に返還されて「ヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展」で公開された。荷車の親子と称された。父の妹のコヒデが荷車を引いていた。母親も、吉島に戻るとサトイモの葉っぱでウミを吸い取った。治療費を工面して、足の火傷で歩行困難な陸田豊子を日赤病院へ通院させた。

 1946年に元職場へ復帰して、その後東京に転勤した。陸田肇さんと結婚し、電機メーカー勤務地である栃木県小山市に定住した。陸田豊子は「写真に撮られた時も残されるのも嫌だけれど、戦争のことを知らない人がだんだん増えた。こういう写真でしか分からないんでしょう。原子爆弾でどうなるのかを見て分かってほしい」と祈念した。



2023年4月15日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃は正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.9kmに広島市南区宇品町にあった広島第一陸軍病院宇品分院の正門である。1945年10月頃は正門には陸軍兵士だけでなく、広島市民の被爆者も通院した。その建物の多くは木造だったが、広島原子爆弾の爆風被害は、ガラス窓の破損と屋根瓦が飛んだ程度でわずかだった。8月6日午前8時15分の被爆直後から被爆した負傷者たちは続々と船舶練習部に避難して殺到した。各々の被爆者に応急処置をして収容するのは困難であった。8月6日午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運搬され続けた。停電の中で、懐中電灯やロウソクで徹夜の救護活動が続いて、戦場の野戦収容所を呈していた。

 大和人絹広島工場は、太平洋戦争時下に1942年12月に操業を休止して、日本陸軍に接収された。1943年2月から日本陸軍が賃貸して工場の約3の2が陸軍船舶練習部に使用された。大和人絹工場(大和紡績工場)の中央上部の従業員寮は、東京第一陸軍病院の職員が、負傷者の治療の病院として使用した。工場敷地内には、その他に陸軍船舶練習部、陸軍砲兵教導聯隊が所在した。1945年8月9日に、臨時陸軍野戦病院が設置された。

 8月25日になって、広島第一陸軍病院宇品分院に転属となった。船舶練習部(南3.9km)の正門に、廣島第一陸軍病院宇品分院の門標がかかった。陸軍船舶練習部は、臨時野戦病院から次いで広島第一陸軍病院宇品分院となり、約6,000人以上の被爆患者が収容された。宇品分院には被爆直後に収容された患者のほか、その後に他救護所から次つぎと患者たちが護送された。広島第1病院宇品分院が一般から原爆専門病院として認識された。原爆病の探求のために、東京陸軍病院、軍医学校、東大医学部などの多くの医療専門家の拠点となった。アメリカ軍の医学調査団が、10月14日は広島第一陸軍病院を接収した。陸軍船舶練習部の敷地は、現在はマツダ宇品西工場となり、建物は倉庫として現存した。




2023年4月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した爆心地から東に約0.9kmの中国新聞のビルは全焼して崩壊した。2日後の8月8日には、中国新聞本社ビルより手前に、路面電車が崩壊していた。その周囲に、第10教育隊所属の暁部隊の少年特攻兵が集合していた。その遠方には爆心地から東方約1.2kmに東警察署が白い建物が残存した。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、東警察署には翌日の8月7日には、広島市の防衛本部が設置された。2日後の8月8日には、東警察署に8月7日に設置された臨時広島県庁に、広島市民が殺到していた。広島県庁は全壊して、出先先などを含めて犠牲者は最終的に約1,131人に上った。焼け残った下柳町(現中区銀山町)の東警察署を臨時県庁とした。

 中国新聞は1945年8月6日の原爆投下で、爆心地から東へ約900メートルの広島市上流川町(現・中区胡町)に位置した。中国新聞社の本社ビルは全焼し、印刷機(輪転機)や活字、新聞用紙などを焼失した。被爆直後に,中国新聞社の建物は外壁のみをとどめ、輪転機を含めた設備機材も全滅して焼失した。輪転機一台と付属資材を広島市内東の温品に疎開させ、業務再開の重要な手段となった。社員の約3分の1にあたる約114人が犠牲になった。8月6日夕方には、他新聞社の支援による代行印刷を決定した。当日は電話も電信も不通になった。広島市宇品にある陸軍船舶司令部にて通信網を使用して、再発行を3日後の8月9日に再開できた。

 広島市宇品の日本陸軍船舶司令部は、原子爆弾が投下された8月6日午前8時15分から約35分後の午前8時50分頃に、暁部隊の少年兵の全隊員を被災地に向かわせて、救援活動を始めるように命令した。爆心地から約4kmの宇品の暁部隊船舶隊が、黒く焼け焦げ、水ぶくれ、焼け縮み、水膨れの死体を、両端の道片に並べた。灼熱で死体にウジがわき、焼けあとの臭いと異様な悪臭になった。無惨にも、暁部隊の少年兵から多くの原爆二次被爆による原爆病の犠牲者が発症した。




2023年4月1日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されてから、10月8日頃には広島逓信病院には1日に平均300人の被爆患者が殺到した1階の逓信局の外来診察室が撮影された。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されてから、10月8日頃には広島逓信病院(Hiroshima Posts and Telecommunications Hospital)には1日に平均300人の被爆患者が殺到した1階の逓信局の外来診察室が撮影された。8月8日から広島逓信局が疎開した1階の畳で約100枚を、被爆患者を収容するベッドに活用した。広島逓信病院の逓信局1階と焼上した2階が診察室と病室になった。広島逓信病院が収容する被爆患者数は、平均約220人に達した。終戦の日の8月15日までに約66人が被爆死した。

 広島逓信病院は、広島原子爆弾の爆心地からの距離は北西西約1.37kmで、現広島市中区東白島町19番16号に所在した。原子爆弾の爆風が窓を吹き飛ばし、鉄筋コンクリートで倒壊は免れた。近隣からの類焼などにより、特に2階は大部分は全焼した。新館は特に大きな窓が特徴で、爆風で窓枠が飴のように曲がってしまった。

 広島市内の医師や医療関係者は、何も知らない放射線被爆や従来の外傷にもほとんど手を出せなかった。病院は、ほとんどが破壊された地域にあり、約9割以上の医療関係者が被爆の瞬間に原爆死した。医療機器や医薬品など、被爆患者を治療する必要な資材は破壊された。原子爆弾の炸裂から数日たっても放射線は危険なレベルにあり、傷を負わずに済んだ被爆者が、突然に髪が抜け、鼻血が止まらず、臓器の大量出血が出現した。1945年末には、広島市内の原子爆弾の犠牲者は約90,000人から約150,000人にまで増悪した。

 アメリカ軍の空襲に備えて、入院患者を退院させ疎開して、入院患者の被害は最小限であった。病院職員は、48人中5人が死亡(うち1人が病院内で死亡)、7名重傷、25人が軽傷の被爆した。数多くの被爆患者が広島逓信病院に押し寄せ、医療関係者は懸命な救護して、広島市内に残った数少ない医療機関として重要な役割を果たした。現在は、1995年に改装された旧外来棟の一部に被爆資料室が整備された。当初は1922年に逓信関係者に向けた広島逓信診療所として開設された。1942年に広島逓信病院(入院施設12室・30床)に改装された。


2023年4月1日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年3月25日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した新興善国民学校の救護所には、9月中旬に外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。

 長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




2023年3月18日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月10日に爆心地の南南東約1.8Kmの井樋ノ口の救護所での炊き出し付近でおにぎりを持った母親と男子に出会って写真撮影した。

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日夕方に集合と約束した道ノ尾駅を目指して、山端庸介は県道沿いに被爆地を北上しながら写真撮影を続けた。爆心地の南南東約1.8Kmの井樋ノ口の救護所での炊き出しの風景を撮った直後に、その付近でおにぎりを持った母親と子供に出会った。8月10日、山端庸介は夜明け午前3時から約12時間かけて夕暮れまで廃墟を歩き回り、約119コマもの破壊の様子を撮影した。山端庸介はその約20年後、8月10日に浴びた放射線の影響か、48歳の若さで癌で死亡した。

 彼らはおにぎりを一つずつ握りしめて、呆然とたたずむ母親と子供の全身写真と、少年の上半身のアップ写真をそれぞれ撮影した。少年は頭に包帯を巻いて、その上に防空頭巾をかぶっていた。顔にはいくつもの血痕が残った。母親の頭や顎にも包帯が巻かれていた。二人ともうつろな表情ではあるが、カメラのレンズを見詰めた。少年の背中に白い紐が結わえられ、母親が右手でそれをしっかりと握りしめていた。母親は離れ離れになることを怖れていた。

 29歳の母親は長崎県五島列島出身で、長崎原子爆弾が被爆した当時は長崎市内の呉服屋で働いていた。その子供の男子は3歳であった。母親と子供の写真には、少年のくぐもったような影のあるまなざしと、縫い跡のような顔の血痕、おにぎりを握る小さな指先は、原爆写真を見る人の印象を激しく揺さぶった。少年時代の自分の姿や、自分の子ども、あるいは孫の姿とついつい同期しまう。母親と子供の写真は、アメリカではじめて被爆者に注目して編集された『ライフ』の原子爆弾の特集や、『写真記録 原爆の長崎』の 表紙として世に注目された。山端庸介の原子爆弾の写真のなかでも印象的な原子爆弾の写真一枚になった。

 母親は銭座町(爆心地の南1.6km)で、夫と三人の娘、長男との六人暮らしだった。一家は自宅や自宅付近で長崎原子爆弾に被爆して、負傷したが6人とも生き延びた。母親は74歳で死亡した。死亡する一年前に証言した。「下まで降りてきたら、井樋口のところで、わたしも息子も主人も下宿人の人もみんなおにぎりを一つずつもらいました。三菱製鋼所のところに仮救護所があったのでそこへ行こうとしたら、(山端庸介から)「写真をとらせてください」 と声をかけられたとです。私は子どもだけ写されたと思うとりました。私もいっしょに写されたと知りませんでした。いやー、みじめな写真です。見たくもありません。あの時のことは思い出したくもありません」(「〈おにぎり親子> は生きていた!」「証言1990~ヒロシマ・ナガサキの声 第4集』汐文社)。



  当時3歳だった少年の消息を知る人によると、この少年は現存した。しかし、県外に嫁いだ姉妹が差別を恐れて、被爆したことを明かさずに生きてきたので、名乗り出ることができない、そっとしておいてほしいという。


 従軍カメラマンの山端庸介は多くの長崎原子爆弾の写真を撮影して記録に残した。原爆写真を焼却処分せずに、密かに東京に持ち帰り、毎日新聞(1945年8月21日)読売報知新聞(8月23日)朝日新聞(8月25日)東京新聞(8月25日)に掲載された。正式降伏した9月2日から日本を支配したQHQは、原爆報道を検閲して厳禁の封印した。その後、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発行されて解禁された。