2023年3月18日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月10日に爆心地の南南東約1.8Kmの井樋ノ口の救護所での炊き出し付近でおにぎりを持った母親と男子に出会って写真撮影した。

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日夕方に集合と約束した道ノ尾駅を目指して、山端庸介は県道沿いに被爆地を北上しながら写真撮影を続けた。爆心地の南南東約1.8Kmの井樋ノ口の救護所での炊き出しの風景を撮った直後に、その付近でおにぎりを持った母親と子供に出会った。8月10日、山端庸介は夜明け午前3時から約12時間かけて夕暮れまで廃墟を歩き回り、約119コマもの破壊の様子を撮影した。山端庸介はその約20年後、8月10日に浴びた放射線の影響か、48歳の若さで癌で死亡した。

 彼らはおにぎりを一つずつ握りしめて、呆然とたたずむ母親と子供の全身写真と、少年の上半身のアップ写真をそれぞれ撮影した。少年は頭に包帯を巻いて、その上に防空頭巾をかぶっていた。顔にはいくつもの血痕が残った。母親の頭や顎にも包帯が巻かれていた。二人ともうつろな表情ではあるが、カメラのレンズを見詰めた。少年の背中に白い紐が結わえられ、母親が右手でそれをしっかりと握りしめていた。母親は離れ離れになることを怖れていた。

 29歳の母親は長崎県五島列島出身で、長崎原子爆弾が被爆した当時は長崎市内の呉服屋で働いていた。その子供の男子は3歳であった。母親と子供の写真には、少年のくぐもったような影のあるまなざしと、縫い跡のような顔の血痕、おにぎりを握る小さな指先は、原爆写真を見る人の印象を激しく揺さぶった。少年時代の自分の姿や、自分の子ども、あるいは孫の姿とついつい同期しまう。母親と子供の写真は、アメリカではじめて被爆者に注目して編集された『ライフ』の原子爆弾の特集や、『写真記録 原爆の長崎』の 表紙として世に注目された。山端庸介の原子爆弾の写真のなかでも印象的な原子爆弾の写真一枚になった。

 母親は銭座町(爆心地の南1.6km)で、夫と三人の娘、長男との六人暮らしだった。一家は自宅や自宅付近で長崎原子爆弾に被爆して、負傷したが6人とも生き延びた。母親は74歳で死亡した。死亡する一年前に証言した。「下まで降りてきたら、井樋口のところで、わたしも息子も主人も下宿人の人もみんなおにぎりを一つずつもらいました。三菱製鋼所のところに仮救護所があったのでそこへ行こうとしたら、(山端庸介から)「写真をとらせてください」 と声をかけられたとです。私は子どもだけ写されたと思うとりました。私もいっしょに写されたと知りませんでした。いやー、みじめな写真です。見たくもありません。あの時のことは思い出したくもありません」(「〈おにぎり親子> は生きていた!」「証言1990~ヒロシマ・ナガサキの声 第4集』汐文社)。



  当時3歳だった少年の消息を知る人によると、この少年は現存した。しかし、県外に嫁いだ姉妹が差別を恐れて、被爆したことを明かさずに生きてきたので、名乗り出ることができない、そっとしておいてほしいという。


 従軍カメラマンの山端庸介は多くの長崎原子爆弾の写真を撮影して記録に残した。原爆写真を焼却処分せずに、密かに東京に持ち帰り、毎日新聞(1945年8月21日)読売報知新聞(8月23日)朝日新聞(8月25日)東京新聞(8月25日)に掲載された。正式降伏した9月2日から日本を支配したQHQは、原爆報道を検閲して厳禁の封印した。その後、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発行されて解禁された。