2023年3月4日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約2.5kmにて、1945年8月9日の長崎原爆の翌日には、長崎駅前からやや北方宝町(旧・寿町)付近の県道上で、長崎市民が浦上地区方面(爆心地方向)に向かって退避した。

長崎原子爆弾の爆心地から約2.5kmにて、1945年8月9日の長崎への原爆投下に伴い、翌日には長崎市民が逃げ惑いながら、生存者を探した。1945年8月10日の朝に、長崎駅前からやや北方宝町(旧・寿町)付近の県道上で、長崎市民が浦上地区方面(爆心地方向)に向かって退避した。林立する電柱の向こう正面には、爆心地から南1.9km地点の三菱造船所幸町工場が見えた。山端庸介が1945年8月10日に撮影した119枚の写真は、広島・長崎の原爆投下直後の広範な唯一の写真記録であった。

 原子爆弾による物理的被害は、爆風と火災によるすさまじい破壊が、瞬間的に生じた。広範囲の建物が破壊されると同時に、火災が炎上した。長崎原爆における建物の全壊全焼の範囲は、爆心地から約2km以上離れた地点にまで及んだ。

 山端庸介が撮影した写真の一部が「毎日新聞」(1945年8月21日号)に掲載された。この写真は、第二次世界大戦の広島・長崎への原爆投下後、1945年9月末から1946年7月にかけて身元不明のアメリカ軍MPによって押収された。GHQとアメリカ軍は日本を占領して、原子爆弾の投下に関する報道・公表を厳しく制限した。山端庸介の写真も含めて証拠を押収・廃棄するように命じた。

 アメリカ軍の占領軍が日本を去った後に、その写真の一部が1952年9月29日付の『ライフ(Life)』誌に掲載された。山端庸介は『記録写真 原爆の長崎』(学風書院、1959年)を出版できた。この写真集を出版した直後に、山端庸介は自分の写真集をプロパガンダに利用する平和団体に幻滅した。そのほとんどの写真集を流通から退けた。1995年、スミソニアン博物館で「ナガサキ・ジャーニー」と名付けられた写真展が開催され、物議を醸した。その後中止されたが、山端庸介の写真集が、『Nakasaki Journey The Potographs of Yosuke Yamahata August 10, 1945』(Pomergranate, 1995/05)で、写真をコンピューター修復して再現された。1995年7月〜9月にサンフランシスコ、ニューヨーク、長崎で開催された。日本では『NHKスペシャル 長崎よみがえる原爆写真』(日本放送協会, 1995/08)で再現された。