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2019年9月1日日曜日

尹奉吉は陸軍作業所で、日本軍兵士の一斉射撃で銃殺されゴミ捨て場に埋められ、柩と白骨化した死体が発掘された。

韓国人の尹奉吉は日本要人を上海で1932年4月29日に暗殺して、1932年5月25日に上海派遣軍の軍法会議で殺人罪等で死刑を宣告された。11月20日に日本の大阪陸軍戍衛刑務所に送還され、12月18日に極秘に金沢の法務部に護送された。12月19日午前6時に、尹奉吉は金沢市三小牛山の陸軍作業所に連行されて、日本軍兵士の一斉射撃で午前7月40分に銃殺された。火葬せずに、陸軍墓地と一般墓地の間のゴミ捨て場に埋められた。元法務官の憲兵隊員から埋葬先を突き止めて、処刑された尹奉吉の柩と白骨化した死体が掘り出された。7月11日に韓国に護送されて、ソウルで国民葬が挙行された。
 日本が1931年から満州の侵略を開始した。1919年3月1日に勃発した三・一運動から、4月には上海で大韓民国臨時政府を樹立した。日本要人を暗殺する韓人愛国団が結成された。1932年4月29日に、上海の虹口公園で昭和天皇陛下の誕生日の天長節祝賀式が挙行された。上海の抗日勢力は派遣日本軍に弾圧されて撤退していた。24歳の韓国人である尹奉吉は、爆弾を詰めた水筒と弁当を持って公園に向かった。太極旗の前で、上海の大韓民国臨時政府の金丸と撮影して、宣誓文を自筆した。「韓国愛国団」の一員として中国を侵略する敵の将校を殺すことを誓った。
 祝賀会の壇上の中央に、上海派遣軍司令官、公使、艦隊司令官、師団長、総領事らが並んだ。「君が代」の斉唱が終わり、爆弾を詰めた水筒が壇上の中央に転がり、爆発した。派遣軍司令官は死亡し、公使は片足を切断され、艦隊司令官は失明、総領事は重態に陥った。暴挙した尹奉吉は、捕縛され連行されて凄惨な拷問を受けた。大韓民国臨時政府の金丸が、英字新聞に「韓人愛国団」の指図と公表した。日本軍の掃討を受けて、中国各地を転戦して、重慶に潜伏した。



2019年6月25日火曜日

長期独裁軍事政権のフン・セン首相に対して、敵対的批判をした政治評論家のケム・レイが暗殺された。

カンボジアにおいてフン・センが、世界最年少の32歳で首相に就任したて、長期独裁の軍事政権を構築した。フン・セン首相に対して、敵対的批判をした政治評論家の43歳のケム・レイが、2016年7月10日に暗殺された。首都のプノンペンの中心部内にある通っていた喫茶店で、背後から接近した男性により銃殺された。男性の射撃で、ケム・レイの左側頭部と心臓附近に弾丸が打ち込まれた。独裁政治による抹殺であると嫌疑された。
 ケム・レイが暗殺された直後から、暗殺されたニュースを受けた支持者らが、暗殺現場に殺到した。取り囲むカンボジア市民から、叫びと嘆きから慟哭、激しい怒りが、現場に渦巻いた。市民らは、ケム・レイの死体を奪おうとする独裁政権と対立して、必死に死体を確保した。その後に、支持者らは、ケム・レイの死体を車に載せて、追悼の行進をした。寺院で葬儀をされて、プノンペン南部のタケオ州の生家に埋葬された。ケム・レイの妻と子供らの家族は、葬儀した直後に、身柄の危険性から、特別人道ビザを発給したオーストラリアで難民となった。
 実行犯の男性容疑者を、しばらくして逮捕された。最初は、会って殺す名称と白状したが、捜査により軍事政権の元兵士のエース・アンであることが判明した。その経緯について、警察も裁判所も追求しないで終身刑で終審した。フン・セン独裁政権は、暗殺ではなく事件は解決済みであると断定した。暗殺をフン・セン政権に嫌疑をかけるカンボジア市民には弾圧を繰り返した。