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2023年6月8日木曜日

第二次国共内戦中の1947年12月24日に、多数の児童の死体が、集団埋葬するために臨時の死体安置所の集合棺桶に入れられた。その入口から、中国人の民衆が集散して、多数の児童の死体を興味本位と不安げに眺めた。

第二次国共内戦中の1947年12月24日のクリスマスイブには、多数の児童の死体が、集団埋葬するために臨時の死体安置所の集合棺桶に入っていた。その臨時の死体安置所の入口から、生存している中国人の子供たちや市民らが集散して、多数の児童の死体を興味本位と不安げに眺めた。その周辺の上海では、1948年1月の冬の寒さの中で、多数のホームレスや子どもたちが路上で眠っていた。



 第二次国共内戦が、1945年10月10日に双十協定により、内戦は一時的に回避された。双十協定調印の同日に、山西省で上党戦役が勃発した。1946年6月26日に中国共産党軍と国民党軍の全面戦争が始まり、休戦は崩壊した。その後、中国は3年以上続く内戦状態に突入した。中国共産党の切り札は、土地改革政策の戦略により、中国共産党は戦闘と兵站の両面でほぼ無制限に中国人民を確保できた。多くの戦闘で大きな犠牲を伴っても、中国人民の人手は増え続けた。上海攻略戦が、第二次国共内戦の後期に1949年5月12日から6月2日に勃発した。中国最大の都市である上海の支配権をめぐっては、国民党と中国共産党が戦った一連の戦いで、共産党が数的優位に立って上海を占領した。

 第二次国共内戦の1947年12月から1949年5月17日まで、ジャック・バーズ(Jack Burns)がドイツ製中古カメラ3台を携え、LIFE誌の依頼で中国に渡った。中国の難民や売春婦、兵士や物乞い、路上での処刑や都市での抗議行動などを、国共内戦が拡大して、貧困、腐敗、混乱の中で、困難で危険な状況の中で撮影された。当時、国民党は約20年以上にわたり共産党の勢力と戦っていた。国共内戦の中国の姿だけでなく、戦火、疲労、絶望が、共産主義革命の肥沃な土壌となったのかを示唆した。普通の中国人々の日常風景は、貧困、抑圧、恐怖に包まれながらも、市民の回復力と尊厳を示唆した。1947年12月に上海にて、タバコを口にくわえた無表情の中国人男性が、栄養失調でやせ細った児童の死体を自転車カートに乗せた。上海の臨時の死体安置所に自転車カートで運んだ。

 



















 日中戦争期間中、国民党政府は増加し続ける財政支出を補填する法幣が1935年11月3日から1948年8月19日まで大量に発行された。1945年の終戦時には発行高は約5,569億元、戦前の約400倍まで規模が膨らんだ。1946年以降、国民党政府は国共内戦の戦費調達で更に法幣を大量に発行した。1948年8月には発行高は約604兆元にまで及び、僅か3年間で約1,000倍にまで増大て、市場にはスーパーインフレが招来した。あまりにも価値の下がった法幣は製紙会社の原料に使われた。宋子文が行政院長に就任すると、法幣の安定を図るために備蓄金を放出して貨幣安定を試みるが、法幣の発行量に追いつかず失敗に終わった。1948年5月に行憲選挙が行なわれ翁文灝が行政院長に任命され貨幣改革を実施し、新たに金円券を発行し法幣の流通を停止した。


2023年5月26日金曜日

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍が殺害したデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍により殺害されたデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。中国共産党は6月4日に、北京の天安門広場とその周辺に約30万人の中国人民解放軍の戒厳部隊を配備した。機関銃や戦車を使って、学生や市民を強制的に虐待と虐殺した。流血の大虐殺は、中国共産党が今日も隠蔽する事件となった。

 天安門事件は1989年4月15日に、中国共産党の前総書記である胡耀邦が急死したことが起点となった。中国人の学生や市民が天安門広場で自発的に追悼活動を始めた。それが報道の自由、汚職、インフレ、失業の解決などを求める大規模で過激なデモ活動に変貌した。天安門広場に民衆が集まった参加者は、約100万人と推察された。1989年4月15日、改革派指導者だった胡耀邦・元総書記が死去した。その追悼を機会に、学生と市民らが天安門広場に集まり、大規模な民主化運動に発展した。5月20日、中国政府当局は北京市に戒厳令を宣言した。6月3日夜から4日未明に中国人民解放軍を投入し、排除して鎮圧し、当局は死者を319人と発表した。

 当時の中国共産党総書記であった趙紫陽などの穏健派は、民衆との対話と融和を望んだ。中国共産党の軍事委員会主席である鄧小平などの強硬派は、武力での弾圧を決定した。結局、6月4日未明に、中国人民解放軍が天安門広場を制圧し、武力で天安門広場を片付けた。非武装の学生や民衆を大量に殺害した。 平和な時期に中国共産党が中国本土の住民に対して行った凄惨で流血の大虐殺であった。

 6月4日の天安門事件をきっかけに、趙紫陽はすべての役職から解任された。江沢民上海党書記は、学生の大弾圧を機に共産党の国家主席に上り詰めて、第三世代の共産党指導者となった。2017年12月のBBC放送によると、機密解除されたイギリス国家文書によると、天安門(六四)事件で、中国軍は少なくとも1万人の殺害を示唆した。1万人の数値は、駐中国イギリス大使のアラン・ドナルドが、中国共産党の国家評議員の友人を通じて入手した。秘密の外交ケーブルでイギリス本土に電報が伝送された。

 電報は1989年6月5日以降に送られて、ドナルドは学生たちは1時間で広場を離れろと通告するも、5分後に装甲車が学生たちを攻撃し始めたと記録した。学生たちは手をつないだが、中国人民解放軍兵士に振り回された。装甲車は学生たちを殺害した死体をパイのように繰り返し轢き、残骸はブルドーザーで転がされた。その後に、死体は焼却され、灰は下水道から流されて隠滅した。




2023年5月23日火曜日

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が公開された死刑が執行された。

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が死刑が執行された。馬賊は重犯罪者として、木の杭に縛り付けられた。野次馬の民衆の面前で公開処刑された。処刑者は将校や兵士ではなく、地元の村人によって組織された民兵集団であった。公開処刑することで他者への犯罪の抑止力の見せしめにもなった。

 重罪を犯した者は、斬首による死刑を宣告されて、民衆に刑罰を広めて、犯罪を抑制するために、民衆に公開で処刑が実行された。見物人の多数の民衆が集合して取り囲んで、処刑による報復に喝采を浴びせた。清朝末期には、治安が悪化して、馬賊が多発した。その撮影された写真に、「銃殺前の馬賊」と添え書きした絵葉書が、済南の愛屋から発行された。

 日本軍が占領した満州には、中国の抗日ゲリラが活動した。民衆自衛抗日軍と呼称して、日本軍は匪賊とか馬賊と呼んだ。満州各地で、日本軍や日本人を襲撃する事件が多発した。1932年9月16日午前1時5分, 平頂山事件が勃発した。撫順炭鉱の事務所、警官派出所、宿舎を抗日ゲリラが襲った。満鉄の職員と家族に死傷者がでた。日本軍は、抗日ゲリラが集結していた平頂山一帯の住民は、抗日ゲリラと通じていると断定した。村の住民約3000余人全員を集め、崖に追い詰めて、機関銃で銃殺した。死体の山に石油をかけ火をつけた後に、崖を爆破して埋めた。満洲国が崩壊した後は、馬賊も衰退していった。その後の国共内戦では、両陣営に取り込まれた。




2023年5月15日月曜日

文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、1980年2月8日に銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。

中華人民共和国の黒龍江省のハルビン郊外の南東約30kmの雪原の野原で、1980年2月8日にトラックから降ろされた。ハルビン郊外に広がる雪の野原に強制連行された王守信は、死刑の執行を待った。文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。




 黒龍江省の党支部書記と賓県燃料公司の社長であった52歳女性の王守信が、約10万ドルの金を横領したと、1979年に文化大革命で迫害されたノンフィクション作家の劉賓雁が人妖の間の暴露記事で告発した。王守信は、文化大革命以前は単なる出納係であった。文化大革命にて造反派を組織して、急進的な政治権力を掌握した。中国全土に蔓延る斡旋収賄と汚職の象徴となる横領犯として裁判された。ハルビンの工人体育館でわずか3日間の公開裁判で、王守信は無実を叫ぶも、拷問して沈黙させた。有罪して死刑の判決を受けた。その他の暴力犯罪と比較しても、あまりにも死刑の判決は重大すぎた。1980年2月8日に、死刑は執行された。

 毛沢東は、1966年から腹心の林彪や四人組の共産党幹部らと、紅衛兵と呼称された若者たちを扇動した。旧来の社会主義に市場経済の導入を図った走資派の政権幹部を暴力的に迫害した。文化大革命をスローガンに、紅衛兵が全中国に暴走して、伝統文化や市民に甚大な被害を伴った。紅衛兵の暴動はしだいに毛沢東にも制御不能になった。1976年に、毛沢東の死と四人組の逮捕によって国家的騒乱が終結した。  

 1966年の秋までに、ほとんどの中国人にとって、毛沢東は生き神様になっていた。毛沢東は、1958年2月に中国を大躍進に導いた毛沢東は、2000万人以上の死者を出す壊滅的な飢饉をもたらして1959年に失脚した。毛沢東は、1966年の文化大革命の最初の数年間、天安門広場で約1100万人以上の紅衛兵を出迎えた。人々は、地主、金持ちの農民、反革命分子、悪い人物という4つの要素に属した市民が非難され、即座に処分された。文化大革命での推定死者数は間接も含めると、総計約2,000万人と推定された。




2023年4月24日月曜日

日本軍が武漢を1938年10月26に陥落した時に、約4,000人もの中国人が大虐殺されて、集団埋葬された死体が、湖北省黄陂県で発掘された。

日本軍が武漢を1938年10月26に陥落した時に、約4,000人もの中国人が大虐殺された。集団埋葬された死体が、湖北省黄陂県で発掘された。黄陂県は、中国の湖北省武漢市の中心部から北部に位置する。日本軍の武漢占領には、武漢の人口は急激に減少して、中国人住民による大規模な暴動が頻繁に発生した。武漢作戦で、日本軍は約9,500人が戦死して、約26,000人が戦傷した。中国側の犠牲は、約195,500人の死体が遺棄されて、約11,900人が捕虜となった。

 1937年7月7日に盧溝橋事件が起きて、日中戦争が勃発した。1945年8月15日に日本は降伏するまで、約8年間も続いて、多大な被害と犠牲をもたらした。日中戦争により、2200万人の犠牲者が出た。期間と規模が最も大きな戦争は、武漢会戦(漢口攻略・武漢作戦)であった。日本軍は、1938年6月11日から10月27日の武漢作戦で武漢を占領した。1937年12月に南京陥落後に、中国国民党政府が撤退して、首都を武漢を遷都した。日中戦争は、12月13日に首都南京の陥落を招き、国民党政府は武漢、ついで重慶への遷都を余儀なくされた。11月20日に、国民党政府は、日本軍の首都南京侵攻を直前に前に重慶への遷都宣言を公表して移転を開始ていた。

 1938年6月に、日本軍は国民党政権を打倒するため、武漢を侵攻した。中国国民党政府は1938年6月に、武漢のあらゆる種類の産業と軍事施設を移転または破壊を決定して、武漢の産業の損失は約70%に達した。国民政府は中国共産党と全国人民から支援を得て、大規模な武漢会戦が勃発した。中国軍は1938年6月11日から約4か月も戦闘したが、10月26日に武漢が陥落した。中国軍は、日本軍の侵略に対する抵抗戦争は戦略的に膠着状態に陥った。時点から約6年9か月間占領された。武漢を占領にて、日本軍は武漢を湖北乃至華中地域を支配するために、武漢市内も周辺も日本軍兵士が駐屯した。日本軍は1939年4月に武漢で仮武漢特別市政府を設置して、直接日本軍が支配した。

 日本軍の1945年8月15日の敗戦後には,1946年5月1日に中国国民党政府は重慶から南京に遷都した。1948年1月政府の名称が中華民国政府と改称された。国共内戦に敗れて 1949年に首都を南京から広州,重慶,成都,台北へと順次移転させた。




2023年4月14日金曜日

1927年の四・一ニ事件から国民党軍は、共産党の革命的民衆を処刑して虐殺した。残虐に国民党軍に殺害された共産主義者や革命家たちの死体が散乱した。

1927年の四・一ニ事件から国民党軍は、共産党の革命的民衆を処刑して虐殺した。残虐に殺害された共産主義者や革命家たちの死体が散乱した。1927年4月12日の上海大虐殺(四・一ニ粛清、四・一ニ事件)にて、蒋介石を支持する勢力と国民党の保守派が、上海の中国共産党組織と左派勢力を暴力的に弾圧した。4月9日に、蒋介石は上海に戒厳令を敷いた。4月11日に、蒋介石は国民党から共産主義者を粛清する国民党軍の管理下の全省に密命を発した。4月12日未明に、国民党軍第26軍は、閘北、南市、浦東など共産党組合員が支配する地区事務所を襲撃し始めた。蒋介石は緊急令により国民党軍第26軍に労働者民兵の武装解除を命じて、労働者民兵の約300人以上が死傷した。4月13日には、労働組合が蒋介石を非難する集会を開いて、数千人の労働者と学生が、国民党軍第26軍に抗議に向かった。国民党軍兵士たちは発砲して、約100人が殺害されて、多数の負傷者が出た。蒋介石は上海臨時政府、労働組合、その他共産党の支配下の全組織を解散させた。国民党に忠誠を誓い、杜躍成の支配下にあった労働組合を再編成した。約1000人以上の共産党員が逮捕されて、約300人が処刑され、約5000人以上が行方不明になった。約5000人から約10,000人もの共産党員が殺害された。欧米の報道で、国民党軍の白崇禧将軍は共産主義者の首を刈る男と呼称された。

 


  1927年3月21日から3月22日に、国民党左派と中国共産党の労働組合が上海で武装蜂起した。四・一ニ事件後に、国民党の保守派は支配下の全地域で共産主義者の全面的な粛清を行った。広州や長沙でも激しい弾圧が行われた。この粛清により、国民党の左派と右派の分裂が公然と起こった。蒋介石は、王景偉(汪兆銘)を中心とした武漢の左派国民党政権と対立して、南京にある右派の指導者として4月18日に南京国民政府を成立した。6月1日に、王景偉はソ連と武漢の共産主義に決別して、蒋介石に接近するも武漢国民党政府は崩壊した。広州、厦門、福州、寧波、南京、杭州、長沙の約1万人以上の共産党員が逮捕されて20日以内に処刑された。

 1927年7月15日までに武漢政権は共産主義者を追放し、国民党と中国共産党との第一次国共合作による統一戦線は事実上終了した。1927年から残りの期間に、中国共産党は政権を奪還するために中国内戦が勃発した。広州での広州蜂起の失敗と鎮圧により、共産党の勢力は大きく低下し、再び大規模な都市攻勢は困難となった。1927年4月以降の3年間だけで、中国全土で約30万人が内戦により殺害された。






2023年3月31日金曜日

日本軍に侵略された1928年5月3日の済南事件で、お菓子を売る子供たちが、かごの中に中央銀行券を入れていたため、日本刀を持った日本軍兵士に切り刻まれて殺害された。

日本軍に侵略された済南で1928年5月3日の済南事件の悲劇が5月11日まで勃発した。お菓子を売る子供たちが、かごの中に中央銀行券を入れていたため、日本刀を持った日本軍兵士に切り刻まれて殺害された。子供たちのお菓子のかごの中にあった三角形の中国中央銀行券が発覚して殺害された。子供は、山東省済南市の2番大通りの木に縛られ、首をはねられた。

 中国在留の日本人の保護を口実に、4月下旬に日本軍第6師団を約5000人の兵力が、青島から山東に侵攻した。青島の上陸した日本軍第6師団は、昼夜を問わず侵攻して、4月末にようやく済南郊外に到着した。4月21日に、日本軍は在留日本人の保護の名目で、天津から済南へ3個分隊を派遣した。4月25日から27日まで、日本軍は青島に上陸し、膠済鉄道に沿って軍隊を済南に輸送した。4月28日に、済南の日本軍は約3,000人以上に達した。日本軍は、魏志路を中心線とする済南の商業港で2つの保安区に分けて、要塞を築き、道路封鎖を敷き、戒厳令を敷いた。

 5月1日に、蒋介石が率いる北洋遠征軍が済南に侵入した時に、在留日本人の保護を口実に数千人の日本軍兵士が集まって介入した。蒋介石は応戦しないことを命じ、忍耐と引き換えに済南の平和を期待した。5月2日に日本軍は、さらに残虐な攻撃を仕掛けた。5月3日に日本軍は済南の重要部門を強制的に占拠し、ラジオ局を爆破し、中国国民党軍兵士や市民を虐殺した。無差別に兵士、市民を問わず、男女、若者を問わず、中国人が至る所で銃を乱射した。日本軍は、家屋に侵入して、中国人女性を強姦し、住民を連れ去り、殺害した。日本軍は商業地に砲撃を加え、家屋を燃やし、道路には銃声と血の海が広がった。た。済南の市街地を占拠して、約10,000人近い中国国民党軍兵士や中国人市民を殺害した。中国内外に衝撃を与えた済南の5月3日の悲劇が勃発した。

 北伐する北洋遠征軍兵士や中国人を無差別に殺害して、古都・済南を地獄と化した。山東省にいた国民党政府の特別外交官の蔡焜燦が日本軍に抗議した。日本軍は国際条約を無視して、蔡焜燦を含む約17人の外交官を残虐に殺害した。5月11日に、日本軍は、済南を陥落した。日本軍は、陥落した済南市に白色の恐怖支配を課した。中国人は約6,123人が殺害された。日本人は兵士が約26人が殺害されて、民間中国人は約15人が殺害された。



2023年3月21日火曜日

日中戦争にて、日本軍が1937年12月13日に中国の南京城を陥落した。中国民国の元首都であった南京城の南門付近に、多数の中国軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。

日中戦争にて、日本軍が1937年12月13日に中国の南京城を陥落した。中国民国の元首都であった南京城の南門付近に、多数の中国軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍による南京空襲の後に、死体が南京市内に散らばった。南京の非軍事施設に対する日本軍の大規模な爆撃によって、民間人の被害が引き起こされた。民間人の犠牲者を隠蔽するために、南京空襲に関連するすべての写真は不許可写真とされた。中華門前の地面一面に死体が散乱して、至る所に血痕があった。日本軍の空襲により、南京城の多くの場所は混乱した。



 日本軍は1937年12月初旬に、南京郊外に到着した。12月9日未明に、日本軍は南京の城壁に到着した。中国軍に24時間以内に降伏を要求した。12月9日13時頃に、中国側が交渉に応じないと判断し、攻撃命令を出した。14時頃に、南京で厳重に守られた光華門を攻撃した。光華門の中国軍は約1,000人に及び、日本軍は多くの死傷者を出した。最終的には武力で中国軍を圧倒して、日暮れまでに、光華門の一部を破壊し、日本軍が押し寄せて最後の中国軍の守備兵を追い出した。12月12日に最後の中国軍が北の義江門を保持したが、中国軍の指揮官から兵士まで、四方八方に逃げ始めた。中国軍兵士は商店を略奪して、軍服や武器を捨てて、市民の中に紛れ込んだ。北方の義江門の中国軍は、退却を阻止して、数千人の中国人が義江門の中に押し寄せ、通り抜ける多くの中国人を脱走兵とみなして発砲した。12月12日17時頃に中国軍は、河川に避難の規模を拡大した。18時頃に避難は本格化したが、大混乱に陥った。数千人の中国軍兵士と多くの避難民が埠頭への道を埋め尽くて大混乱に陥った。

 12月13日午前に、日本軍が入城し初めて、光華門の経由と中山門や太平門経由が続いて、約5万人が入城した。12月13日の午後、日本軍の2つの小さな川船団が南京の港に到着した。日暮れには、日本軍は南京の戦いの勝利を宣言した。日本軍が南京を侵略した1937年12月13日から1938年1月31日まで約6週間にわたり南京大虐殺が勃発した。



2023年2月24日金曜日

日本軍の南京大虐殺により、虐殺されて殺害された女子の死体が、南京市街に散乱した。日本軍に関する中国研究者の約11論文から子女の虐待と虐殺が示唆された。

日中戦争において、中華民国の首都南京での南京の戦い直後に 日本軍による民間中国人の大量殺戮が、1937年12月13日に始まり、6週間にわたる1938年2月上旬まで大量虐殺が勃発した。日本軍が、第ニ次世界大戦でも集団強姦、略奪、放火など他の第二次世界大戦でも最悪の戦争犯罪も行った。日中戦争にて、1937年12月4日から12月13日の南京戦にて、日本軍は南京を占領した。日本軍は、戦死が約15,58人と戦傷が約4,619人の犠牲が出た。中国軍側は約50,000人が、戦死と捕虜の犠牲となった。日本軍の南京大虐殺により、虐殺されて殺害された子女の死体が、南京市街に散乱した。

 数多くの南京の中国人民衆は、女性の尊厳を守るために日本軍と命をかけて闘った。三茅宮付近の若い婦女は、一群の日本軍兵士に家から引っぱり出され、強姦された。彼女の夫は身を挺して日本軍兵士と格闘した。彼は日本軍に捕えられ、身体中を刀で刺され、気絶し死亡 するまで罵り続けた。一人の青年が、日本軍を大声で罵った。彼は日本兵に押し倒され、電柱の上に縛られて、頭を砕かれ殺された(前掲『侵華日軍南京大虐殺史稿』)。柏果樹の婦女の伝如芬は、隣家の出産直後の婦人を身を挺して日本軍兵士と格闘した。最後に日本軍の暴行をのがれて、隣家の家族7人と入水自殺した(「新華日報」1951年3月3日)。木屐巷の回教徒の張長生は、日本軍が家の婦女の強姦に激怒して、日本軍兵士の一人を大きな棒で打ち倒した。2人目の日本軍兵士を待機した時に、日本軍兵士の銃撃により殺害された。(「幸いにも生き残った者の訴え」、南京市政治協商会議文史資料 研究委員会編『史料選集』侵華日軍南京大虐殺史料専稿集、所収)。

 日本軍に関する中国研究者の約11論文から子女の虐待と虐殺が示唆された。一部の婦女は強姦される前に自殺を選んだ。范式記者の報道では「市内の婦女は皆、日本軍に蹂躙されることは耐えがたいので自殺しており、毎日平均数百人にものぼる」と伝えた (前掲『侵華日軍南京大虐殺史稿』)。下浮橋の清真寺の老僧の楊桂芳の2人の娘は、日本軍の強姦を拒否して、沙洲提に踏び込んで自殺した。逸仙橋付近の数人の婦女は、日本軍に捕えられた後、強制的に衣服を脱がされ、死を賭して闘い、日本軍兵士を痛罵しつづけた。彼女達の中には耳をそぎ落され、舌を切られた者もいた(「新華日報」1951年3月3日)。ある婦女は日本軍の魔の手を何度も機智を働かせて逃げた。彼女はきちんと服を整えて日本軍が来るのを待ちつつ、ゆっくりと大きな字で「日本兵は獣だ」と揮毫した。最後には日本軍に銃撃されて殺害された。(『被占領区惨状記』第五冊、 中国第二歴史文書館蔵)。

 少なからぬ婦女は、日本軍兵士と体力の差も顧みず、勇敢に闘い、日本兵を殺傷した。ある小学校の女教師は、かつて五度も日本兵にからまれたので、その後手を尽して銃を手に入れベッドの下に隠しておいた。日本兵がまた現れた際、彼女は五人の日本軍兵士を撃ち殺し、最後には従容として義に殉じたのであった(「新華日報」1951年2月26日)。下関保善街に住む婦女、馬さんは、日本軍が強姦しに来た時、酒で 日本兵を酔わせ、しかる後に夫と隣人の助けを得て西瓜を切る時に使用する大きな包丁でこの日本軍兵士を殺害し、その死体をこっそりと埋めた(「新華日報」1951年3月2日)。下関鮮魚巷79号に住む若い女性、朱二クーニャンは、日本兵が暴 力を以て彼女を室外にひっぱり出そうとした時、日本兵が腰に下げていた刀を猛然と奪い、日本軍兵士に切りかかった。他の日本軍兵士に続けざまに三刀切りつけられ、流血にまみれてその場で死亡した(「新華日報」1951年3月1日)。

 奇しき女性"と呼ばれている李秀英の日本軍の奸淫暴行に反抗する闘争の事蹟には深く感じる処がある。1人の日本軍兵士が彼女を強姦しようとした時、彼女は日本兵の腰に下げていた刀の柄を握りしめ、全力で日本軍兵士と奪いあい、日本兵に咬みついた。日本兵はアァと叫び声をあげたので2人の日本軍兵士が加勢に来た。そこで彼女は1人で3人を相手に闘うこととなったが、身体、顔など合わ せて37ヵ所も切りつけられ、気を失ってしまった。その後、父親の看病のもとに7ヵ月間入院加 療し、やっと健康をとり戻したのであった(前掲『侵華日軍南京大虐殺史料』)。




2023年2月16日木曜日

チベットの首都ラサで、1987年10月1日にチベット人のデモ隊に、中国の武装警察が襲撃して、チベット人のクンセルさんが、デモ中に射殺された。

チベットの首都ラサで、1987年10月1日にチベット人のデモ隊に、中国の武装警察が襲撃した。チベット人のクンセルさんが、デモ中に射殺された。頭部から出血した死体が並べられ、デモ隊に見守られた。中国の国慶節の10月1日に、ラサで大規模なデモが発生した。セラ僧院の僧侶がチベット国旗を掲げて、もう一度チベットの独立を呼びかけた。デモ隊は次第に暴力的になり、デモ隊は車をひっくり返した。車や警察署に火をつけて、警察隊に投石した。中国の警察は、少なくとも約6人のチベット人を殺害した。

 10月1日の中国国慶節には、セラ僧院の約3人の僧侶を含めた約23人のチベット人が、禁止されているチベット国旗を持って、チベット独立のスローガンを叫びながら、ジョカン寺を囲むバルコル通りを行進した。約50人の一般のチベット人も加わった。デモ隊が約4周目に入ったところで、中国の警官がデモ隊を殴り始めて、僧侶全員と約30人の一般参加者が逮捕された。ジョカン南西の角にある警察署に強制連行された。その後に、約2,000人のチベット人が、彼らを解放しようと警察署に押し寄せて、中国の警察が発砲して、少なくとも約7人が死亡し、多くが逮捕された。

 中国共産党は、1949年に国共内戦に勝利して、社会主義国家中華人民共和国を10月1日に建国宣言をした。チベットは中国の一部分として、チベット全土の解放を目指して1950年に中国人民解放軍による軍事侵攻を発動した。チベットを軍事制圧して、17ヶ条協定により、チベットの主権を奪った。チベット人のデモはすべて、長年の中国共産党政権の支配下で、チベット人の差別と虐待を示唆した。中国共産党の指導部は、チベット人の不満を、反乱として残酷に弾圧した。多くのチベット人が逮捕され、拷問を受けた。中国はチベットの繁栄と発展を主張するも、チベット人には、長い年月の占領と残虐行為であった。チベットへの不当な侵略と不法占拠以来、全土のチベット人は中国共産党政府に抵抗した。残忍な弾圧、殺害、逮捕、拷問、拘留死、略式処刑にもかかわらず、チベット人は中国共産党の抑圧的な政策に抗議して何度も立ち上がった。 




2023年2月9日木曜日

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。八字橋を挟んで日本軍と国民党軍が一進一退の戦いをした。多くの兵士が犠牲となり、宝山路、宝興路付近まで焼土と化し、多くの住民が家を焼失した。特権的外国人居留地である日本租界の北西部が戦場となった。毎日新聞の八字橋の写真を、日本軍が検閲をした修整の指示は「死体を消すこと」であった。写真に受入日や説明の他、検閲記録が記載された。戦地で撮影した写真は、日本軍の検閲を受けなければ、新聞に掲載できなかった。写真には不許可となるも、修整の上で許可となった。




 1937年8月9日に国民党軍の張治中らが、日本海軍の特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が殺害された。7月7日に勃発した盧溝橋事件から日中和平交渉の最中に大山事件が勃発した。8月12日に、中国の国民党軍の約3万人が、上海の日本租界を包囲した。八字橋に駐屯していた特別陸戦隊はわずか約4千人で、日本領事館は在留日本人を避難させた。緒戦は、8月13日午前10時30分に、商務印書館付近の国民党軍が、日本軍の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせた。午後4時54分に、八字橋の方面から中国の国民党軍が急襲して第二次上海事変が勃発した。

 上海ではドイツ製などの最新の兵器を持った国民党軍に対して寡兵の特別陸戦隊が奮戦した。特別陸戦隊は八字橋で約10倍の国民党軍に対して約5時間にわたり防御した。8月16日には国民党軍が大挙して特別陸戦隊へ押し寄せて、日本軍は戦車と装甲車で防戦した。その後も国民党軍は攻撃を続け、約7万の大部隊まで増強した。ようやく8月18日から8月19日に横須賀と呉からの特別陸戦隊が上海へ約6千3百人に増援した。

 8月22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破された。日本軍は必死に防戦して、夜明けとともに国民党軍の攻勢も停滞した。更にその夜からも国民党軍が各戦線で攻撃を行い、8月23日に激戦となるも、特別陸戦隊はかろうじて防衛した。8月23日から日本陸軍部隊も上海に上陸を開始して、特別陸戦隊は守り切った。8月25日以降は国民党軍は日本陸軍部隊を攻撃対象となった。




2023年2月3日金曜日

第二次上海事変にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂して、上海最大の繁華街は流血の修羅場と化した。

第二次上海事変(1937年8月13日から11月12日)にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂させた。多数の中国人だけでなく、外国人にも死傷者が出た。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には手足の吹き飛ばされた死体や瀕死の人で溢れた。街頭の車が炎上して、爆風で瓦礫が散乱した。その惨状を撮影して記録した『支那事変写真帖第一集』の写真集を、上海の玉川写真館が、第三艦隊報道部と上海日本総領事館に検閲後に、1937年10月に発行した。

 8月14日に、上海にて中国軍の戦闘機による誤爆と共にあらゆる戦争の悲劇が出現した。中国軍が戦闘機を初めて使用して、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日にわたり中国軍の戦闘機は上海上空から急襲を繰り返した。日本軍は高射砲によって中国軍機を迎撃した。中国軍機の誤爆による大惨事は8月14日4時半に勃発した。2発の爆弾が国際共同租界に、もう2発がフランス租界に投下して炸裂した。およそ約600人(ほとんどは中国人)が死亡して、約11,000人が負傷した。

 それに続けて2発の誤爆が、パレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落下して炸裂した。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には死体や瀕死の人で溢れた。その後さらに2発が、エドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちて炸裂した。現地上海のフランス警察は、死者は約445人と負傷者は約828人と推定した。中国空軍に爆撃されたキャセイホテル前の惨状では、壊れた自動車や自転車、瓦礫が散乱し、空襲の凄まじさを物語った。犠牲者には大学教授や雑誌編集者、医師など多数の外国人も含まれた。

 8月14日以降も、中国軍の空襲は複数回に及んだ。8月23日正午12時50分頃には先施公司第二楼に中国空軍の爆弾の投下により炸裂した。その誤爆は惨状を呈して、即死者は約160人以上と約470人余の負傷者が出た。先施公司は上海を代表するデパートの一つであり、白昼に繁華街への攻撃を受けた。当時の上海は欧米各国の要人や特派員が常駐し、国際世論に直結する土地柄だった。日本軍は宣伝工作を十分に尽くさないまま軍事的な報復に踏み切った。一連の攻撃で中国軍が用いた爆撃機はアメリカ製であった。第二次上海事変は、日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど、流血が多い戦場と評された。




2023年1月26日木曜日

第一次国共内戦にて、1930年7月27日に中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。中国共産党軍が残虐に虐殺した国民党軍や民間人の死体が、長沙の路上に散乱した。

第一次国共内戦にて、国民党軍と地方軍閥間に1930年5月11日に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日に、中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。湖南省の長沙にて、中国共産党軍が残虐に虐殺した死体が、繁栄していた市場に散乱してすべてが焦土と化した。

 1930年8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。湖南省長沙で約1万人以上の共産主義の容疑者が逮捕されて処刑された。さらに、最初の1カ月間の戦闘は残忍を極めた。湖南省だけでも約38万人以上の民間人が殺害された。国民党の残虐行為は限りがなかった。1928年には、約31万人以上の民間人が国民党軍の命令で殺害された。国民党軍も中国共産党軍もさまざまな残虐行為を執行した。相手が誰であれ、同情することもなく、両軍はしばしば罪のない民間人を殺し、大規模な処刑を執行した。

 中国共産党は1927年7月13日に対時局宣言を発して、国民党との国共合作の終了を宣言した。中国共産党は武力闘争を開始して、8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返した。国民党軍は、第一次国共内戦にて共産党軍を鎮圧した。共産党が引き起こした武装闘争の内戦は局所的であり散発的であった。1928年10月10日に、中華民国の南京国民政府主席に就任した蔣介石は、中国の近代化を推進する改革を行った。国民党軍の北伐は継続されて、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒した。

 南京国民政府でも、反日世論が高まっていたが、蔣介石は日本との国力の差を考慮した上で、中国国内統一による国力増強を最優先目標とした。反共主義の立場から、抗日政策より、中国共産党との戦いを優先した。1931年11月7日に中国共産党が瑞金に江西省ソビエト共和国を樹立した。

 1930年5月11日には反蔣介石連合運動との内戦の中原大戦が起こり、両軍合計100万の軍勢で約30万の死傷者が出た。国民党軍と地方軍閥間に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日には、中国共産党軍が約1万の兵力で湖南省長沙を占拠し、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。8月15日に閻馮軍から済南を奪回した。9月18日に、張学良が蔣介石支持の態度を表明して、東北軍の関内進駐によって蔣介石軍が勝利して、蔣介石の勢力は強化された。毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下で、農村を中心として支配領域を広げ、1931年11月7日に江西省に中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)を樹立した。




2023年1月18日水曜日

朝鮮戦争の勃発直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配して、当初約140万人いた人口が膨大な戦死者や餓死者などで3分の1まで減った。

朝鮮戦争が勃発した直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配した。当初ソウルに約140万人いた人口が3分の1まで減った。悲惨で残国な北朝鮮はソウル市民を支配した。膨大な戦死者、餓死者、その他に政治的理由で避難者、食料を求め地方に移り住んだソウル市民が出た。

 北朝鮮に支配されたソウル市民の感情は徐々に悪化した。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などがソウル市民に虐待と虐殺を招いた。北朝鮮軍は同時に、到着した翌日の6月29日から当地の学生を自治隊と動員し、各家庭へ調査した。食料保有量調査で、学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けた。各家庭ですべての食料を提出させた。占領中の北朝鮮軍兵士に渡した。没収された食料は全くソウル市民の元には戻らず、朝鮮労働党だけに配給された。その結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

 北朝鮮によるソウル占領で、徴兵やメディア統制も強制された。ソウルの若者を召集して、義勇軍を結成して、北朝鮮に戦争協力させ、戦地動員令を発令した。対象年齢は19歳から37歳で、より若い中学生も強制的に動員された。後に金日成は、韓国で約40万人を動員したと公言した。当然、朝鮮戦争の戦死者が出る。家族の不満は高まった。新聞では、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の約200人が徴収された。アメリカや大韓民国に敵愾心を燃やさせ、義勇軍を支持させ、志願後にすぐに出陣させた。北朝鮮の体制に反抗者の人民裁判や新聞の発行禁止、北朝鮮体制の機関紙に切り替えた。

 6月25日午前4時に朝鮮戦争が勃発して、ソウル市を包囲していた北朝鮮の朝鮮人民軍は、6月28日11時30分からソウルの中心部に侵攻した。6月28日を境に当時約140万人いたソウル市民は大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国の市民になった。3日前の北朝鮮側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣りソウルは占領され、撤退して、水原市に遷都した。北朝鮮軍がソウルに侵入した時に、ソウル市民の約半分は街に出て、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台に北朝鮮国旗を掲げた。北朝鮮の戦車は西大門刑務所に向かい、監獄の中にいた左翼の政治犯などを解放した。大韓民国の右派政治家たちは、3日前の6月25日に北朝鮮軍の南下の噂から、すでにソウルから避難していた。

 北朝鮮が侵攻する情報が6月25日に伝わるや、ソウルから避難した市民ら約40万人が避難した。その人数の約8割は以前は、北朝鮮で共産主義の恐怖から混乱期に南のソウルに避難した難民だった。その他は北朝鮮から要注意の右派政治家、資本家などだった。ソウルに残っていた市民は当初は、意外と冷静だった。ソウルに、北朝鮮の人民軍が、ミアリ峠を超え、恵化門に膨大な北朝鮮の戦車、車や馬車、兵士が溢れた。北朝鮮人は、北西地方の方で、言語、風習、血統は同族であった。当初は、ソウル市民は敵兵だと考えず、遠方の兄弟が故郷に帰ったと感じた。ソウル市民は、赤い旗を振り、北朝鮮軍に付いて回り、仕事を手伝うソウル市民が最も多かった。

 朝鮮戦争は前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦で巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回した。北朝鮮のソウル市は、9月25日にアメリカ軍と国連軍の仁川上陸作戦で戦況が逆転した。ソウルは9月28日に大韓民国側に奪還された。逆に10月19日に、韓国軍側は平壌を占拠した。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。






2022年11月28日月曜日

天安門広場では、多数の大学生と市民が1989年6月4日(六四天安門事件)に虐殺された。北京の天安門広場や周辺で、中国人民解放軍が市民を襲撃して虐殺された死体が散乱した。

天安門広場では、多数の大学生と市民が1989年6月4日(六四天安門事件)に虐殺された。北京の天安門広場内やその周辺で、中国人民解放軍が市民を襲撃して虐殺された死体が散乱した。戒厳令部隊であった第27軍の一部のメンバーは、中国人市民を殺害した理由は、都市で虐殺する上司の命令に従った。逆に、軍隊全員が殺されることを保証されなかった。鄧小平が銃撃を命じた理由は、中国共産党の支配は流血に基づいていた。天安門の母グループの尤維傑さんは、警察に監視されてメディアの取材を阻止するため、東城区国家安全局と警察署に河北省に強制連行された。ばかりだそうです。 その全行程を警察官が監視していた。

 抗議行動は、総書記を解任された胡耀邦が死亡した4月15日から始まり、5月20日に中国政府が戒厳令を宣言し、北京中心部の一部を占領するために人民解放軍を派遣して、6月4日に約250,000人が集結した中国人民解放軍が強制的に弾圧した。推定死亡者数は数百人から数千人で、数千人が負傷した。北京国家安全保障局の完全な監視下で亡くなった子供たちを北京万安墓地に集団埋葬した。京警察と国家警備隊が厳重に警備している。清明節と6月4日の重要な時期に、北京の国家安全保障局は趙紫陽の旧居を厳重に監視し、反体制派の訪問を制限した。北京香山万安墓地には、6月4日の犠牲者である8人が埋葬された。天安門の母の家族は例年通りに、国家保安局が手配した車で墓地に入った。

 中国共産党は、六四天安門事件の動乱で319人が死亡(民間人と軍、警察の合計)」と公式発表した。中国人民解放軍は、約15人が死亡して、約5,000人が負傷した。1989年6月5日に記録され、2017年12月23日に機密解除されたイギリス政府の公文書では、最低に見積もっても一般市民の死者は10,000人以上が中国人民解放軍により殺害されたと報告した。ソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、約3,000人の抗議者が殺害されたと見積もった。1989年6月22日に作成されて、1999年6月1日に公開されたアメリカ外交公電では、死者数は中国赤十字の発表である死者2,600人を妥当な数字とした。




2022年11月1日火曜日

義和団の乱に対して、1900年8月14日に北京を占領した後の八カ国連合軍の蛮行は、残忍であった。八カ連合軍は、北京の七華門の外地で義和団の中国人を虐殺した。

義和団の乱に対して、1900年8月14日に北京を占領した後の八カ国連合軍の蛮行は、残忍であった。八カ連合軍は、北京の七華門(現在の朝陽門)の外地で義和団の中国人を虐殺した。日本軍による日本刀で、数えきれないほどの義和団の容疑者の中国人が、義和団の乱の前後に斬首された。北京の街には首を切られた中国人の死体が散乱した。家屋を掃討しては、中国人の首やバラバラになった死体が吊るされた。日本軍兵士は、興味本位にまだ死亡していない中国人を、射撃して弾丸の試し撃ちをした。青木という名の日本軍兵士は、何十人もの宮廷婦人の胸を切り取って粥にして食べた。



  














   

 

 

 連合軍が北京を占領した後に、外国軍兵士はその場で義和団を皆殺して復讐した。無実の中国人を義和団と問答無用で決めつけて、首をはね、銃殺した。無謀にも男や女、子供を追いかけて、老人、弱者、女性、子供を撃ち、突き刺した。連合軍は極めて残酷に、中国人を撃ち、刺し、吊るし、焼き、こん棒で締め、強姦して殺して、大量虐待と大量虐殺の大悲劇を北京にで作り出した。




 












  




 

 中国における八カ国連合軍の蛮行にて、頤和園などの庭園の一室に外国軍兵士が侵入した。若い宮女が下半身裸にされ、外国軍兵士は強姦に走った。宮殿を襲った連合軍兵士は、多くの金仏などを略奪した。外国軍兵士は宮中の女官をナイフで殺し、死体の腹から小さな金の仏像を取り出した。義和団の乱後に、ロシアの侵略軍は江東から約1万人以上を黒竜江に追いやり、焼き払いと略奪して、中国人を銃殺や斧殺しの刑に処した。

 罪のない老人は、外国軍兵士によって生きたまま刺され、子供は内臓を刺し抜かれた。老女や子供が井戸や川に投げ込まれた。8カ国連合軍は、白昼の獣性を発散した。天壇に連れられ連合軍に犯され、公娼にされた。

 同治帝の親族の老若男女10人が、数十人の連合軍兵士に公衆の面前で犯され、自殺に追い込まれた。路上で中国人女性を集団強姦して、被害者を火の中に投げ込んだ。感女性を拘束して、死刑にして、感情を爆発させた。現代中国は日本軍の憎みだけは覚えて、その他の八カ国連合軍の蛮行は見逃した。

2022年10月25日火曜日

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三(Yu Zisan)が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。学生死亡事件である于子三事件は、国民党政府が長江デルタ地域の学生運動を組織的に弾圧した一連の虐殺事件であった。犠牲者の于子三は、浙江大学農学院農学部の4年生であった。国民党政府に秘密裏に逮捕されて、獄中死した。逮捕される前に、于子三は浙江大学学生会会長を務めて、新民主青年会華家池支部と新潮会の学生会の活動、浙江学生会と全国学生連合会の連携も担当した。

 于子三は10月25日に同窓生の結婚式に出席するために杭州に入り大同ホテルに一泊した。10月26日午前2時に、国民党中央委員会浙江部は数名の工作員を送って、彼の他に3人の学生とともに密かに逮捕した。浙江省保安司令部の刑務所に強制連行した。国民政府支配地区の学生運動を壊滅させる目的で、中国共産党地下組織の手がかりを得るために、厳しい拷問を受けた。10月29日午後6時頃に、于子三は獄中で虐殺されて息を引き取った。国民党側は、杭州市を封鎖して、事件の拡大を阻止した。他方、共産党側は于子三事件を最大限利用して、学生運動を拡大した。

 于子三が虐殺された死後に、国民党政府は于子三はガラスで喉を掻き切って自殺したと主張した。10月31日から杭州市全域に戒厳令を敷いた。中華民国教育部は、浙江省の学生によるストライキを阻止した。1947年11月20日に、裁判所は他の3人の学生の陳建新、黄志民、李伯錦の3人に7年の懲役を言い渡した。11月3日に銭英が率いる中国共産党上海局青年部は、闘争規模を拡大して、連帯して学生運動を展開した。1948年8月下旬までに、全国20都市以上で累計10万人以上の学生がストライキを行い、約15万人以上が集会やデモ行進、連帯活動に参加した。

 日中戦争の終結後に、国民党軍が1946年6月26日に共産党軍に全面侵攻する国共内戦が勃発した。1947年3月には戦況が不利となり、国民党軍の蔣介石は全面侵攻から重点攻撃へと方針を転換した。共産党軍が盛り返して国民党軍が後退し始めた。最終的に1949年12月7日に国民党軍は内戦に敗戦して台湾に撤退した。




2022年10月19日水曜日

「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」として、1934年に満州国内の戦闘で戦死した日本軍兵士の慰霊に、馬賊の報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

満州国が、1934年3月1日に清国の最後の皇帝である溥儀が、満州国の皇帝に即位して、満洲国佈告1により日本軍が中国東北地方に建国した。1934年頃に「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」と写真に記載された。1934年に満州国内の戦闘にて戦死した日本軍兵士の慰霊に対して、馬賊に対する報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

 2つの死体に、人間の頭部が身体上に置かれた。左側の死体の傷面は非常に不規則で、右肩から左腰にかけて不明瞭な傷口であった。身体は爆破されて、頭部は白骨化して、頭蓋骨の後頭部は半分に欠けた。頭部の眼窩、顎、頬の組織はわずか残存して、黒焦げになった。犠牲者は爆発で死亡した中国人女性の可能性が高い。爆発力の巨大な衝撃で上半身と頭蓋骨の半分が吹き飛ばされて、炎上して焼死した。右側の死体は、若い中年の中国人男性であり、周辺の深部組織はまだ残存していた。2つの死体は死後に、死体が硬直していないときに、意図的に見せしめに配置された。

 中国人の匪賊は、山中の村落に潜伏して、中国人の村民は仲間と見なして、匪賊に労苦を惜しまず相互扶助した。日本軍による村落における匪賊の討伐や掃討は、困難を極めた。満州帝国の建国によって、匪賊を弾圧すれば、より反日一辺倒の勢力となった。日本軍は、満州国の建国に向けて、中国人に迎合するのに馬賊として、義賊として、大衆には義軍性を誇示した。馬賊も、勃発した満州事変によって日本軍は消滅させた。

 日露戦争中に、中国人の反抗する自衛団であった匪賊を、日本軍は馬賊と呼称した。馬賊をして義賊とすれば、日本軍は義軍であると自負した。中国人の官憲は匪賊と見下したが、日本軍は自ら義軍として、馬賊として見なした。もしもし匪賊は、日本軍から被害や攻撃を受けていた。匪賊の勢力が増して、権力をは把握してくると、馬賊として取り込んだ。中国の腐敗した政権には、兵匪や官匪と悪評した。自衛団も民衆も、都合の悪いものは匪賊とした。




2022年9月14日水曜日

文化大革命の犠牲者の巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられ、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、大勢の観衆が待つ公開刑場に連行され銃殺された。

黒竜江省の省都ハルビンの工場技術者だった巫炳源が166845日に処刑された。彼は同僚の永增蒙とともに、「北方へ」という題のパンフレットを印刷して配布したのが、毛沢東の反ソ連路線への批判されて命を奪われた。巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられて、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、トラックに乗せられ、大勢の観衆が待ち受ける公開刑場に連行されて、銃殺された。死刑宣告を受けた巫炳源は、空を見上げて、この世はあまりに暗すぎる、と大声で叫び眼を閉じて、処刑されるまでその眼は閉じられたままだった。銃殺で合計8(7人の男性と1人の女性)が射殺され、そのうち巫炳源と永增蒙の2人がハルビン電気計器工場の技術者で、謄写印刷されたタブロイド紙「北へ」を配布したことで「反革命グループの主要犯罪者」としてレッテルを貼られて銃殺された。

 文化大革命が始まった1966年の春に、大連生まれの李振盛は23歳となり、ハルビンの共産党機関紙「黒龍江日報」のカメラマンだった。上司の指示に従って、毎日のように革命礼賛のプロパガンダ写真を撮影していた。李振盛は、文化大革命により196845日の銃殺刑を撮影した。暴走する文化大革命に疑問を抱き始めた。公表されない現実を密かに現像して自宅の床下に秘蔵した。文化大革命を真に記録した約20,000枚のネガは、保存された。

 1966516日に党中央政治局拡大会議は五一六通知(中国共産党中央委員会通知)で文化大革命を指示した。1966818日午前5時、北京の天安門楼上に軍服姿の73歳の毛沢東が立つと、天安門広場の100万人の紅衛兵が大歓声を上げ,赤い表紙の『毛沢東語録』を掲げて「毛沢東万歳!」を叫び続けた。午前8時、小柄で瘠せた国防相・林彪が、全国から集まった若者たちを前に、「搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のすべてを打破しよう」と呼びかけた。紅衛兵のなかで、最も熱烈な文革支持者は疑うことを知らない1,300万人の中高生だった。彼らは毛を崇拝するあまり、各地で暴行を働き殺人まで犯している。