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2022年4月21日木曜日

ベトナム戦争にて、戦闘機内で重態の副操縦士のマゲルの防弾チョッキを脱がせて、脇の下に戦傷があり、顔色が悪く鼻と口から出血して、人工呼吸を試みるも戦死した。

1965年春に、約3,500人のアメリカ軍海兵隊員がベトナム戦争に参戦した。その数週間後に、39歳のイギリス人記者のラリー・バローズは、急速に拡大する戦争の中で、地上戦と空中戦で活動するアメリカ軍兵士の戦闘を写真記録した。1965年3月31日にヘリコプター作戦における悲惨な写真の戦争記録を掲載した「ダナンからの報告」が、2週間後の1965年4月16日号のLIFE誌で公表された。バローズは1962年からベトナム戦争を取材して、ヘリコプターで数多くのベトナム戦争を写真記録した。

 バローズは、21歳のジェームズ・ファーレイ伍長のヘリコプターに搭乗した。戦闘中にヘルメットをかぶったファーレイの足元には、致命傷を負ったパイロットのジェームズ・マゲル中尉が倒れた。ファーレイは、ベトナムでの銃撃戦後の飛行中にパイロットに向かって致命傷のマゲルを叫んだ。21歳のファーレイは1965年3月の悲惨な戦闘任務の後に、ベトナム戦争で仲間のマゲルの死体の棺桶の前で、一人で泣きじゃくった。

 ベトコンは、ジャングルの樹海に潜んでいて、我々が着陸地点に来るのを待っていた。いいカモのように、ベトコンの放つ十字砲火は殺人的だった。ピックアップ地点に急いで戻った。次の着陸地点で、パイロットのピーター・フォーゲル少佐は、地面に倒れた戦闘機YP13(Yankee Papa 13)を見つけた。エンジンはまだかかり、ローターも回って、故障が起きた。フォーゲルはインターホンで「どうして離陸しないんだ」とつぶやき、近くに梯を下ろして様子を見た。

 ベトコンの攻撃範囲外に出るまで、ファーレイと砲手のホイリゲ兵長は銃から離れて、YP13の2人の負傷者を治療できなかった。重態の副操縦士のマゲルの防弾チョッキを脱がせると、脇の下に大きな傷跡があった。マゲルの顔は痛みを感じ、唇がわずかに動いた。顔色が悪く、ファーレイはマゲルの傷と顔に包帯を巻き始めた。鼻と口から出血が出始めて、目がうつろになった。ファーレイは、マゲルに人工呼吸を試みるも、マゼルは絶命して戦死した。

 アメリカ軍が東南アジアへの関与を強めて、命をかけて戦う若者たちの姿を痛烈に、深く同情的に描いた。ベトナム戦争全体の範囲と悲惨で致命的な終末を予期させるものであった。LIFE誌にYP13が掲載されてから約6年後の1971年2月、バローズ(44歳)は他の3人の戦争ジャーナリスト(アンリ・ユエ43歳、ケント・ポッター23歳、島本啓三郎34歳)とともに、ラオス上空で飛行中のヘリコプターを撃墜され、死亡した。



2022年3月31日木曜日

アメリカ大使館の敷地には、ベトコンのテト攻勢の決死隊が、腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。

アメリカ大使館の敷地には、ベトコンのテト攻勢の決死隊の印として腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。ベトナム戦争にて1968年1月31日の真夜中過ぎに、19人のベトコン工兵が、サイゴンの自動車の修理店に集まり、武器を配布して、攻撃の最終準備を行った。午前2時47分に、ベトコンはトンヌット大通りの周囲の壁に小さな穴を開けて、アメリカ大使館の敷地に侵入した。ベトコンは総領事館ビルには入れず、治安部隊に釘付けにされ、最終的に一人の生存者除いて全員がアメリカ軍に殺害された。

 1968年1月31日からのテト攻勢は北ベトナムは失敗に終わったが、アメリカ本国に政治的、心理的に大きな衝撃を与えた。アメリカ人は5人が殺害されて、ベトコンは18人が殺害されて、1人が捕獲された。テト攻勢の朝のベトコンの使命は、アメリカ大使館、大統領宮殿、国立放送スタジオ、南ベトナム海軍本部、タンソンニャット空軍基地のベトナム合同総務本部、フィリピン大使館の6つを標的とした。ベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。ゲリラたちは解放戦線の正規部隊の中から選抜された特殊攻撃隊だった。

 ベトナム戦争の分岐点となったテト攻勢は、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館がベトコンに攻撃された。憲兵隊(MP)と海兵隊保安隊(MSG)が対応するも、メディアや国民から否定的に捉えられた。テト攻勢は、1968年1月31日にテトの休日にベトコンと北ベトナム軍が、南ベトナムの約100以上の市や町に突撃した。震源地となったのが、サイゴンのアメリカ大使館への攻勢である。1968年のテト攻勢におけるアメリカ大使館への攻撃は、戦術的勝利が政治的敗北に変貌した。MSGとMPはベトコンの侵入を防ぎ、総領事館を保持できて、明確な戦術的勝利を収めたが、その行動は政治的敗北として喧伝された。政治的敗北の事態を招いたのは、戦争に対するアメリカ世論の変化とメディアと軍の関係の悪化、アメリカ大使館での作戦遂行に直接影響を与えた国務省の対応であった。

 テト攻勢は、南ベトナム軍とアメリカ軍の意表をついたが、占領地はすぐに回復し、奪還された。軍事的には、テト攻勢は共産党に壊滅的な打撃を与えた。しかし、軍事的には大敗を喫したものの、心理的には大きな勝利を収め、最終的には戦争に勝利することになる。しかし、この攻勢は軍事的には大敗北を喫したものの、心理的には大きな勝利を収め、最終的には戦争の勝利につながった。この攻勢による米軍の死傷者の映像は、長い紛争に疲弊していたアメリカ国民の反戦感情を刺激した。国民は、戦争の進展に関する報告に幻滅して、リンドン・ジョンソン大統領は1968年3月31日に、私は大統領として再選されるための、私が属する党による指名を求めることも、受諾することもありませんとテレビ演説した。同様な結末が、2021年8月15日に、アメリカ軍がアフガニスタンの首都カブールからの撤退を続けて、ヘリコプターがカブールのアメリカ大使館から人々を避難させて、ベトナム戦争における1975年4月30日のサイゴンのアメリカ大使館からの撤退の歴史が再来した。




2022年3月2日水曜日

ベトナム戦争が終結日の首都サイゴンにて、拳銃により自殺した南ベトナムのロング警部補の死体が横たわり、頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。

ベトナム戦争が南ベトナムの首都サイゴンの陥落により、1975年4月30日に終結した。陥落を知った56歳の南ベトナムの警察官は、ベトナム戦争に悲観して絶望してサイゴンの議会の国会議事堂の下院前で自殺した。自殺した警察官の死体の周囲に、サイゴンの市民らが取り囲んで呆然と見下ろした。1975年4月30日の正午、ラジオが南ベトナム大統領が降伏を放送される直前に、一発の銃弾が爆発し、ロング警部補は自殺した。

 ベトナム海兵隊の記念碑の手前で拳銃により自殺したロング警部補の死体が横たわり、彼の頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。ロングは警部補の勲章を身に着けて、青い制服を着て、胸ポケットにロングの名前が刺繍された。サイゴンの人々は自殺したロング警部補を偲んで静かに立ち並んだ。その周辺から北ベトナム軍の革命歌と解放軍の歓声を聞いて、全員は黙っていた。ロングは1975年4月30日正午頃にサイゴン市内の公園に現れた。石のベンチに座って、思慮深く周囲を見渡して、彼の頭上に手を置き、突然に、彼は立ち上がり、記念碑の手前をゆっくり歩いた。ロングは銃口を頭部に押し付けて、コルトの引き金を引いて、銃殺により自殺した。サイゴンの城塞を守ったのは、見捨てられた国家警察官であった。ロングは脱走もせずに、北ベトナム軍に降伏もせず、南ベトナムと祖国を悲観して自殺を選択した。

 サイゴンが陥落する直前に、南ベトナムの官僚や市民らがサイゴンから逃避した。サイゴンに混乱、不安、パニックが発生した。戒厳令が発令されて、アメリカ軍のヘリコプターは、南ベトナム人、アメリカ人、外国人を市内の各所とアメリカ大使館から避難させ始めた。サイゴンを保持できるとしてヘリコプターによる避難はぎりぎりまで延期された。 サイゴンが陥落する前日の1975年4月29日には、興奮して叫び合う南ベトナム人の集団が、絶望的な逃避の機会を奪い合った。サイゴン近郊の防衛戦を、北ベトナム人民軍(PAVN)の戦車が突破した。4月30日早朝には、最後のアメリカ軍のヘリコプターでアメリカ大使館から避難した。南ベトナム民間人が大使館の周辺に押し寄せて、敷地内になだれ込んだ。ベトナム戦争が終結する4月29日から30日までに、サイゴンのさまざまな場所から約7,000人以上がヘリコプターで避難した。

 北ベトナム人民軍は1975年4月30日に、サイゴン市内に侵入して、瞬く間にすべての抵抗物を退けて、主要な建物や施設を占領した。ベトナム独立記念館の門を突き破り、ベトナム時間で午前11時30分に、大統領宮殿上に北ベトコン国旗が掲げられた。その2日前にフオンの後を引き継いだズオン・バン・ミン大統領は、北ベトナム人民軍のブイ・ヴァン・トゥン中佐に降伏した。ミンはその後に、ラジオサイゴンで降伏宣言が14時30分から放送された。





2022年1月19日水曜日

1963年6月11日以降に僧侶が南ベトナム政権に抗議する焼身自殺をして、人体が身体から火炎が放出して身体は黒く焦げていった。

1963年6月11日以降の数週間で、南ベトナムでは約10人もの僧侶が南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に抗議する焼身自殺をした。首都サイゴンにて、僧侶の人体が身体から火炎が放出して、徐々にしなびれてしぼんでいき、身体は黒く焦げていった。周囲には人体の肉が焼ける匂いが立ち込めた。人体は驚くほどあっという間に焼け焦げた。焼身自殺して正座して身体を屈めた僧侶の死体に、集まったベトナム人たちが拝みながら取り巻いた。焼けている途中で、僧侶は身体を微動だにせず、うめき声も挙げなかった。背筋をまっすぐに屈曲した姿勢は、周囲に集散した市民らとは対照的であった。1963年代半ばから1971年にかけて、アメリカ軍がベトナムに駐留するようになると、ベトナム戦争に反対した僧侶の焼身自殺が増えて約100人の焼身自殺があった。ある1週間で13人もの僧侶が焼身自殺をした。

 僧侶の焼身自殺の起点となったのは、1963年6月11日にティック・クアン・ドック(66歳)が焼身自殺をした。サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らにガソリンをかぶせて焼身自殺した。当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権は、ローマ・カトリック式の統治を強要して、仏教徒に対する高圧的な弾圧に抗議した。僧侶の支援者たちが拝跪する中で、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続けて、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿が、画像を通じて世界中に放映されて、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな衝撃を与えた。1963年11月2日に発生した軍事クーデターにより、ゴ・ディン・ジェム大統領と秘密警察長官は、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。

 焼身自殺(Self-immolation)とは、自分の身体を自分で焼いて自身を焼死させ、自殺することである。しばしば政治的、あるいは倫理的な抗議として特に言論の自由の無い、または制限されている状態下で行われる。仏教やヒンドゥー教では、焼身自殺は、何世紀にも行われてきた。サティー、政治的抗議、離婚、絶縁などさまざまな理由がある。キリスト教やイスラム教は焼身自殺は禁忌の一つとされる。最後の審判の日まで自らの肉体は土葬などの手段により、死後も適切に保全された状態とする宗教である。焼身自殺して一命を取りとめた後は死ぬより辛い痛みが待ち受けている。2010年12月18日に露天商のモハメド・ブアジジがチュニジア政府に抗議した焼身自殺がアラブの春を発火させた英雄から、逆に民主化の後退で批判と中傷の対象になった。




2021年12月16日木曜日

アンロック周辺の土面の道路上に、アメリカ軍と南ベトナム軍により殺害されたベトコンの多数の死体が腐敗して散乱していた。

ベトナム戦争において南ベトナムの首都サイゴンから北方に約145kmのアンロック(An Lộc)付近で、1966年6月30日にアメリカ軍と南ベトナム軍はベトナム民族解放戦線(ベトコン)と猛烈な戦闘が勃発した。アメリカ軍はベトコンから奇襲攻撃を受けて、その後にベトコンに対して激しい攻撃をして壊滅した。ベトコンは、カンボジア国境から約25km付近で、アメリカ軍を待ち伏せしていた。ベトナムとカンボジアの国境を結ぶ国道13号線では、アメリカ軍がベトコンから攻撃を受けて、アメリカ軍の戦闘機と爆撃機が攻撃を防御した。7月4日には、アンロック周辺の土面の道路上にベトコンのベトナム人の多数の死体が腐敗して散乱していた。北ベトナムの石油貯蔵所への空爆が集中しているにもかかわらず、地上戦はまだ南部で繰り広げられていた。

 アンロックは、ビンフオック省の省都である。その後1972年に北ベトナムのグエンフエ攻勢により、アンロックはベトナム人民軍(PAVN)の戦略の中心地になった。カンボジアからの基地に近い補給路に位置した。アメリカ軍の爆撃を受けるのを減らすために、中立地点から物資を保護できた。ベトナム共和国軍 (ARVN) は、アンロック地域を防御するために、ビンフオック省に部隊を保持していた。1972年4月13日から7月20日にわたるアンロックの戦い中に、南ベトナム軍はPAVNとベトコンの連合軍によって劣勢に立たされた。1972年のイースター攻勢の中で約66日間も持続し戦闘となった。PAVNはアンロックをサイゴンから遮断するため、補給路の攻撃を開始した。補給路を制圧することで、約140km南にあるサイゴンへの補給路を遮断して、アンロックの戦いでARVN軍への補給が妨げられた。

 1966年初頭に、南ベトナムにおけるアメリカ軍兵士の数は約184,300人、南ベトナム軍は陸軍(ARVN)と地域軍および民兵を含めて合計約514,000人であった。北ベトナム人民軍(PAVN)は約40万人で、ほとんどはまだ北ベトナムに駐留していた。1965年に約5万人のPAVNが南ベトナムに侵入した。南ベトナムとラオスのPAVNに供給するためにホーチミン・ルートでの物資輸送を任務とする北ベトナム軍の559部隊は、約24,400人が関与した。アメリカ軍は1966年6月までに南ベトナムにおけるベトコンとPAVN兵士の数を、ゲリラを含め約28万人と推定した。アメリカのジョンソン大統領は、1966年12月に北爆の休止により、北ベトナム軍の攻勢が散発した。




2021年12月12日日曜日

クメール・ルージュの共産党軍が迫り、首都プノンペンは激しい砲撃を受けて、直撃された民間人の死体が横たわり市場に散乱した。

カンボジアの首都プノンペンは、1975年初頭に、クメール・ルージュの共産党軍が迫り、激しい砲撃を受けた。その爆弾の直撃を受けた市場の周辺には、民間カンボジア人の死体が横たわって散乱していた。プノンペンは廃墟と化し、かつては美しかった首都も、黒く爆撃された建物が立ち並ぶ荒れ地となった。戦闘から逃れるために、全国から何千人もの難民が、首都プノンペン街に押し寄せて、1975年の時点で人口は約200~300万人にも達した。

 クメール・ルージュは1975年4月17日に首都プノンペンを陥落するまで、約1年以上にわたり供給を遮断した。クメール・ルージュの砲撃により、ほぼ継続的に首都プノンペンで炸裂した。クメール・ルージュに捕らわれた数百万人の民間人に無差別な死と負傷を与えた。クメール・ルージュはプノンペンを占領した後に、都民を強制的に追放して農村部に死の行進を強要した。両手も両足もなく、切断された虫のように地面を這っている障害者や、首に巻かれたシーツで約10歳の娘を抱えて泣いている父親、皮膚だけでくっついている下腿に足先をぶら下げていた。病院からはゴミのように患者を路上に運び出した。カンボジアの内戦で、人間の悲惨な最大の難民団となった。富裕層や知識人含むすべての住民が都市から追放されて、農村の農場で困難な労働を強制した。仏教の僧侶と少数民族には残忍な迫害を加えた。

 クメール・ルージュ軍に捕らわれたクメール共和国軍は、オリンピックスタジアムに連行されて、処刑された。政府や軍の上級幹部は処刑される前に自白書を強要された。クメール・ルージュは全ての住民にプノンペンからの退去を命じて約50万人の街は空っぽになった。街宣車が、プノンペンの住民には爆撃が差し迫ることを警告し、都市から田舎に逃避を指令し始めた。フランス大使館に4月30日までにに避難した約800人の外国人だけが、トラックでタイに移送された。それ以前の4月12日に、アメリカ大使館職員はヘリコプターで避難していた。クメール・ルージュ軍兵士たちは、プノンペンの住民たちに、すぐに家を出て田舎に退避するように命じた。住民たちは荷造りする時間もなく、銃口を向けられて避難を命じられた。患者は病院のベッドから引きずり出され、女性は道端で出産させられた。若者も、老人も、体の弱い人も、病気の人も、移動し続けなければ銃殺される危険があった。カンボジアの灼熱の太陽の下、体の弱い人たちは、暑さで体が疲弊しながら道端で死んだ。

 カンボジア内戦中に約24万人のカンボジア人の死のうち、銃器に46.3%、主にクメールルージュの暗殺戦術に31.7%、主にアメリカ軍の爆撃に17.1%、事故に4.9%と推定された。1969年から1973年にかけてアメリカ軍がカンボジアに投下した約50万トンの爆薬のうち、1973年の7カ月間で約半分が投下された。第二次世界大戦中、アメリカ軍が日本に投下した爆薬は約18万トンである。1973年には農村の大部分がクメール・ルージュの支配下に入って、内戦やクメール・ルージュによる補給路の封鎖により米の生産が途絶えて、食糧は不足した。アメリカ軍は1973年以降は、爆撃をほとんど中止して、南ベトナムからもカンボジアからも撤退した。1975年4月12日に、残されたアメリカ市民と多数のカンボジア人高官を乗せた最後のヘリコプターが出発した。その後にロン・ノル政権は崩壊して、クメール・ルージュ軍兵士がプノンペンに侵攻した。最終的には、約200万人の男女と子供がクメール・ルージュ政権下で死亡したと推定された。




2021年12月2日木曜日

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。

アメリカ軍兵士は、1967年のベイカー作戦にてベトナム戦争で殺害したベトコンの死体の口に、スペードのエースを入れた。銃撃戦の後に、殺害したベトナム人の死体に、デス(死)カードであるスペードのエースを残した。アメリカ軍兵士たちは見えないベトコンへの恐怖に常にさらされて、恐怖にさまざまな方法で対応した。死は最後には誰にでも訪れるものであり、王であっても逃れることはできない切り札としてスペードのエースを使用した。

  ベトナム戦争で、アメリカ軍兵士がスペードのエースを使った民間伝説が広まった。アメリス軍兵士はスペードの象徴は死と不幸を意味すると考え、迷信深いベトコンや北ベトナム軍兵士を怖がらせて士気を下げるために、殺害したベトナム人の死体にスペードのエースを誇らしげに置いた。狼のように、自分たちの縄張りを示すために、森や野原にもカードをまき散らかした。この習慣は非常にアメリカ軍兵士の真理に効果的であった。しかし、ベトナム人にはスペードのエースを死の象徴として恐れる文化的根拠はなかった。カードは空襲の際に、ベトナムの村やジャングルにわざとばらまいた。スペードのエースは、ベトコン人にとって迷信的な恐怖の象徴ではなかった。アメリカ軍兵士の士気を高める効果があった。反平和のサインとして、カードをヘルメットに貼り付けた。

 スペードのエースは、戦争の場で使用された。第一次世界大戦では、イギリス軍がスペードのエースを徽章として使用した。 第二次世界大戦では、インド陸軍がが緑地にスペードのエースを徽章として使用した。第二次世界大戦では、アメリカ軍兵士は、ヘルメットの側面にスペードのマークが描かれていた。アメリカ軍がカードを死のシンボルとして使われたのは、第二次世界大戦の頃からである。トランプ遊びの幸運を表すために使用された。それから約20年後の2003年のイラクのフリーダム作戦で、アメリカ軍兵士に配布されたイラク人指名手配のトランプには、写真が描かれた。

 スペードのエースが関連する冬の始まりであるユールは、昔の農民が恐れていた日であった。冬の始まりは飢餓の時代、つまり狼の時代の到来を告げるものであった。スペードのエースは、12月21日から始まる冬の第1週を表した。物資が不足し、最後の肉が屠殺され、数ヶ月後に食べるために熟成された。死者には供物が捧げられ、高齢者は自分の番が回ってきたときのために、最後の願いを伝えておいた。






2021年11月25日木曜日

ベトナム戦争でサイゴンに向かうバスが、殺害された北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線(ベトコン)兵士の死体の側を通り過ぎた。

ベトナム戦争にて、サイゴンに向かうバスが1972年8月29日に、殺害された北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線(ベトコン)兵士の死体の側を通り過ぎた。サイゴンから南西約90kmのカイペで殺害された多数のベトコンの死体が、道端に並べらて散在していた。バスの窓際から、乗客と南ベトナム軍兵士らが、平然とベトコンの死体を眺めて通りすぎた。南ベトナムでは、北ベトナム軍とベトコンのイースター攻勢の勃発から約1年間にもわたり犠牲を受けた。

 北ベトナム軍はイースター攻勢(Easter Offensive, 復活祭攻勢, グエン・フエ攻勢)を開始し、非武装地帯やラオス・カンボジア国境を越えて、南ベトナムの複数の地域に多方面から攻撃を仕掛けた。復活祭の3日前の1972年3月30日から10月22日まで勃発した。北ベトナム軍は、ソ連や中国の新兵器、重砲、戦車などで武装した。北ベトナム軍は、大量の戦車・重砲と約10万人以上の兵士でクアンチ省を攻撃して、同時に中部高原、アンロク周辺のカンボジア国境地帯でも攻勢を開始した。南ベトナムは非武装地帯からの主要攻撃を予測せずに、南ベトナム軍は混乱に陥る。北ベトナム軍が仕掛けたベトナム戦争中で最大の攻勢であった。1972年までに、アメリカ軍は、ピーク時の約550,000人から約75,000人までに低下した。アメリカ軍は、ベトナム戦争の継続が弱体化していた。

  大きな損害を被った南ベトナム軍は、アメリカ軍の空爆と砲撃の支援を受けて、夏の終わりには攻勢を弱めて反転させた。アメリカ軍は1972年5月8日から、大規模な非人道的な空爆を首都ハノイとハイフォン港に1968年のテト攻勢以来に投下した。クアンチ省の戦線を奪還化して、フエ、コンタム、サイゴン周辺の攻撃をしのいだ。南ベトナム軍が、北ベトナム軍を都市部から排除した。

  北ベトナム軍は、約10万人もの兵士、多くの装甲と装備を失った。南ベトナム軍の犠牲者は約4万3千人、うち1万人が死亡した。イースター攻防戦では、約2万5千人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。約25,000人以上の南ベトナムの民間人が殺害され、ほぼ100万人が難民となり、そのうち約60万人が南ベトナム政府の管理下にある収容所に住んだ。平和を求める声も、国連の非難も、戦争裁判もなく、耳をつんざくような沈黙が続いた。イースター攻勢の結果、パリではアメリカと北ベトナムが軟化し、交渉では譲歩する姿勢が見られた。






2021年10月28日木曜日

ベトナム戦争中期の1965年3月30日に、南ベトナムのサイゴンにあるアメリカ大使館前で、ベトコンによるテロ爆発事件が起きた。

ベトナム戦争中期の1965年3月30日に、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ大使館前で、ベトコンの工作員によるテロ爆発事件が起きた。サイゴンのアメリカ大使館前に駐車していた車の中で爆弾が爆発した。ベトナム人19名、アメリカ人2名、フィリピン人1名が死亡して、183名が負傷した。負傷したベトナム人は路上に倒れて手当を受けた。背後の残骸からは煙が上がった。CIAの速記者バーバラ・A・ロビンスが、最初の殉職したアメリカ人女性となった。ベトナム戦争中に、67人のアメリカ人女性(8人の軍人女性と59人の民間人女性)が戦争で死亡した。

 1965年3月30日深夜に、サイゴン川の近くにある5階建てのアメリカ大使館内にあるCIAサイゴン支局の外の路上に、シトロエンの車がボンネットを上げて停まっていた。警察官とシトロエンの運転手と口論を始めていた。運転手は退去を命じられ、拒否すると警官が発砲した。スクーターに乗った別のベトナム人が、運転手のそばにモーターで近づき、警察官に向かって撃ち始めた。数人のCIA職員が、が副支局長室に駆けつけて窓の外を覗いていた。ロビンスは鉛筆を持ち、薄緑色のスカートと黄色のブラウスを着ていた。その数秒後に、ロビンスは即死した。シトロエンに積まれていた約300ポンドのプラスティック爆弾が爆発した。大使館の建物は実質的に破壊された。鉄格子と窓がナイフのようにオフィスに入ってきた。

 1965年6月25日にはベトコンによる2回のテロ爆発が勃発した。首都サイゴンの暖かい金曜日の夜、数十人の人々が、サイゴン川の岸辺にある人気の水上レストランマイ・カン・カフェで夕食を楽しんでいた。サイゴンの繁華街の中心にあり、アメリカ大使館の近隣で、ベトナムの民間人やアメリカ軍人、外国の大使や国際ジャーナリストなどが利用していた。午後8時15分頃に、耳をつんざくような爆発音が響き渡り、ダイニングルームに破片が飛び散った。常連客のほとんどは多くの女性や子供を含む民間人であった。恐怖におののく生存者たちが出口に向かった時、2つ目の爆弾が爆発し、川岸に続く桟橋にも爆弾が落ちた。ベトナム戦争中のテロ爆発の中でも最も大きな被害をもたらした。13人のアメリカ軍人を含む約30人以上が死亡し、183人が負傷した。2回目のテロ爆発が、水上レストランの近くの川岸にあったタバコ屋の横で別の爆弾が爆発した。この爆発で少なくともアメリカ人女性1人が死亡した。既に首都サイゴンは戦場であり、テト攻勢の以前から都市戦争は熱を帯びていた。




2021年9月30日木曜日

アメリカ軍兵士が、1967年のベトナム戦争のジャンクションシティ作戦で、タイニン省で殺害された同僚のアメリカ軍兵士の腕を組んだ死体を悲嘆しながら覆った。

アメリカ軍兵士が、1967年のベトナム戦争のジャンクションシティ作戦で、タイニン省で殺害された同僚のアメリカ軍兵士の死体を覆った。アメリカ軍兵士は腕を組んで殺害された同僚が死亡する大惨事がに直面した。戦争は一瞬にして、生命を奪い、強烈な衝撃を受けて悲嘆に暮れた。ジャンクション・シティ作戦は、サイゴンの北側に位置するウォーゾーンCにあるベトコンの基地と南ベトナムのベトコン軍司令部を破壊することを目的とした。アメリカ軍は約3万人、南ベトナム軍は約5千人が参戦した。

 1967年2月22日から4月15日まで実施されたジャンクションシティ作戦は、ベトナム戦争で最大の連合国作戦でした。サイゴン近郊のタイニン省に拠点を置くベトコンを排除して、ベトコンの要塞を占領するために、アメリカと南ベトナム軍は、カンボジア国境に近い南ベトナムのエリアであるウォーゾーンCに侵攻した。約82日間の軍事作戦は、ベトナム戦争で最初で最大の空挺作戦であった。タイニン省を徹底的に制圧し、大量の物資を獲得し、共産ゲリラに大きな損害を与えた。しかし、ベトコン本部は占領できず、アメリカ軍が撤退すると、その地域は共産主義者によって再び占領された。アメリカ軍は、約282人が殺害された。ベトコンと北ベトナム軍は、約2,723人が殺害された。

 ベトナム戦争は、終わりのない退屈の連続だった。終わらない死の恐怖に加えて、数々の悲惨な状況に耐えなければならなかった。太陽に照らされた光景の中を容赦なく歩かされ、約80キロの装具を抱え、脳が沸騰するような暑さ、温室のような湿度、脱水症状、熱中症、日焼け、赤い粉塵、集中豪雨、ブーツを吸う泥、血を吸うヒル、蒸し暑いジャングル、マラリア、赤痢、虫の軍団、ヒアリ、毒のあるムカデ、蚊、ハエ、藪蛇、毒蛇、サソリ、ネズミなどの苦難に遭遇した。退屈、銃撃、死体袋など、数え切れない不快感に襲われた。

 アメリカがベトナム戦争で被った最大の敗北は、本国のアメリカ人が帰還兵の多くは、冷たく、無関心に扱う態度を耐えれなかった。困難で、多くのアメリカ人に否定されて、捨てされないベトナム戦争で、勇敢に、多くの犠牲を払って、アメリカに奉仕した人々は共感されなかった。多くの苦しみを共有してきたベトナム戦争の人々は放置されている。ベトナム、カンボジア、ラオスの人々を助けるためにアメリカ軍兵士は動機を失った、戦場で一緒に戦闘する兵士たち、日々生死を共にする兵士たちには、尊敬と名誉が失われている。

 ベトナム戦争中にベトナム人と他国の写真家が撮影して、南北ベトナムで写真を収録した。双方の戦場で撮影された写真は、おそらくベトナム以外では拝見できない写真である。写真家たちは明らかアメリカ軍の部隊に所属していた。1975年のサイゴン陥落後は新北ベトナム政府の一員となり、ベトナム戦争の写真を新政府に提供した。戦争写真の中には、戦争の残虐性を示すことを勧告する。戦争とは死と破壊であることを再認識する必要がある。戦争の戦闘に素敵な手段はない。戦争の代償は双方が損害する生命である。




2021年9月15日水曜日

ベトナム戦争のフエの戦いで、建物ごとに激しい市街戦が勃発して、路地、街角、窓、庭は血で染まり、膨大な犠牲者を出した。

ベトナム戦争のフエの戦いで、建物ごとの激しい市街戦が勃発して、すべての路地、街角、窓、庭は血で支払で染まり、甚大な犠牲者を出した。城塞の壁に沿った家、路地、狭い通りの間で、市街戦は行き詰まった。北ベトナム軍とベトコン軍は、城壁に深く潜り込み、建物が密集した皇居とその周辺地域を約3週間にわたり保持した。

 フエの戦いは、南北ベトナムの国境から南に約80km離れた香水川沿いにあるフエは近代の首都で、特にテト攻勢により激しい戦闘が勃発した。フエの戦いは、北ベトナム軍(PAVN)とベトコン部隊がテト攻勢にて、1968年1月31日に重要攻撃拠点であるフエに突入し、ベトナム政府軍を圧倒した。ベトコン(VC)が、テト休暇でフエに参拝する巡礼者の群れに混ざり合ってすでに街に侵入していた。古代の城塞を占拠してから、約3週間以上にわたってフエの戦いが繰り広げられた。べトコン部隊が、フエを占領して直後から、一軒一軒の家宅掃討行って、アメリカ軍や南ベトナム政権に関係する公務員、宗教家、教師など、民間南ベトナム人を逮捕した。いわゆる反革命分子を処刑して、その死体を集団墓地に埋めた。腐敗した死体の多くが縛られて、目隠しをされ、至近距離から射殺され、あるいは生きたまま埋葬されていた。

 アメリカ軍と南ベトナム政府軍(ARVN)は、2月26日にフエ市内を制圧した後、大量虐待と大量虐殺の証拠を発見した。約2,800人以上の死体に加えて、約3,000人以上の南ベトナム住民が行方不明になった。北ベトナムとベトコンの占領軍は壮大な都市の寺院や宮殿などの文化遺跡の多くを破壊した。北ベトナム軍は古代の城塞から、アメリカ軍に必死に攻撃した。若いアメリカ軍兵士も、ベトナム人が兵士または民間人に扮したかにかかわらず、都市にいる敵と見なし射殺した。フエの戦いでは、約150人のアメリカ軍兵士と約400人の南ベトナム軍が犠牲になった。北ベトナム側では、アメリカ軍の空爆や砲撃で、約5,000人の兵士が死亡した。

 テト攻勢中により、フエ、サイゴン、その他のベトナムの都市での血なまぐさい戦闘のシーンは、アメリカ国民に驚愕の衝撃を与えた。ベトナム戦争の分岐点となり、フエの戦いからベトナム戦争の撤退に国民的圧力が圧倒的になった。ベトナム戦争がさらに7年間続いて、約100万人以上の人々が殺害されて、アメリカ人の死傷者の数は2倍になった。1975年にベトナム共産主義が最終的に勝利するまでベトナム戦争の悲劇が引き続いた。




2021年8月23日月曜日

韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱して、軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。

1967年には韓国軍は、ベトナムの中央海岸付近の荒野に駐屯していた。韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱していた。韓国軍は軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。黒服を着たベトナム人の死体が荒野に散乱していた。周辺には人体の破片が飛び散り、至るところに血痕が付着していた。韓国軍による残酷な拷問や虐待かせら虐殺により、北ベトナム軍とベトコンを弾圧して恐怖に陥れた。

 韓国軍の民間ベトナム人の虐殺事件は、1999年5月6日の「ハンギョレ21」に掲載された。1968年2月12日に、韓国軍兵士がベトナム中部クアンナム省のフォンニィ・フォンニャット村で、民間ベトナム人の約79人を虐殺した。その他ゴダイ虐殺約38人、ハミ虐殺約135人など多くの村々で住民の虐待と虐殺を繰り返した。韓国軍の中央情報部が、虐殺事件の幹部を尋問した。韓国の最高裁判所は、2021年3月25日に尋問の歴史的情報公開を韓国の国家情報院に命じた。ベトナム戦争時に、2020年4月にベトナム戦争で民間ベトナム人の虐殺に対して国家賠償が提訴された。韓国軍がベトナムで執行した民間ベトナム人の虐殺事件は約80件以上、犠牲者のベトナム人は約9000人を超えると推定される。特に青龍(チョンリョン)と猛虎(メンホ)部隊は、残酷な虐殺軍団の“鬼畜部隊”と呼称された。さらに、韓国人兵士によるベトナム人女性に対する性的暴行により産まれた約3,000人以上の子供はライダハンとベトナム語の読みとなった。タイヴィン虐殺1200人、ベトナム戦争後のベトナム社会主義共和国は、経済発展の国益を優先して、公開しても何の得にならない戦争の歴史を封鎖している。

 1964年8月から韓国人部隊がベトナムに出向された。1965年1月26日に韓国の国会でベトナムへの韓国軍の派遣が承認された。1965年2月から韓国軍部隊が派遣された。4月3日から約200人の韓国軍に対して北ベトナム軍から砲撃を受けた。1965年9月から、韓国軍の猛虎師団が赴任し始めた。1966年末には、ニンツアン省とビンジン省まで戦闘を拡して占領して、ベトコンと北部ベトナム軍に対して猛攻撃をした。1967年には最大の約44,829人まで増員されて、1973年3月23日まで留まってベトナムから撤退した。韓国が関与した1964年9月11日から1973年3月23日まで約8年5ケ月間に派遣された韓国軍兵士は延べ人数で約325,517人に及んだ。約5,099人が戦死して、約10,962人が戦傷した。




2021年8月17日火曜日

サイゴンのテト攻勢でチョロン地区に潜伏して生存していたベトコン兵士を、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士が家屋から屋外に引きずり出して射撃して絶命させた。

ベトナム戦争におけるベトコンと北ベトナム軍によるテト攻勢が1968年1月30日から南ベトナムで勃発した。1968年2月11日に、サイゴンのチョロン地区に潜伏していた黒衣服のベトコン兵士が、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士により、崩壊した家屋から屋外に引きずり出された。負傷していたがまだ生存していたベトコン兵士は、抵抗することもなく弾丸1発を射撃されて絶命した。弾丸が鋭くベトコン兵士の身体にめり込み、生存していたベトコン兵士はしばらくすると全く生命反応も無い死体に変貌した。敵兵がどこにいて、どの方向にいるのかさえ不明であった。敵軍は家やトンネルの中、そして下水道の中でも潜伏した。

 1968年1月30日の早朝に、多くの家族が旧正月の祝賀を開始したのと同時に、約84,000人ものベトコン軍と北ベトナム軍が奇襲して南ベトナムの主要な都市部を攻撃した。南ベトナムの44の州都のうち39、64の地区本部、ほぼすべての同盟飛行場とアメリカ軍基地などがテト攻勢された。サイゴンに、テト攻勢が勃発した時は、多くの南ベトナム軍は休暇中であった。24時間後には、北ベナム軍とベトコン軍は、南ベトナム全土の都市、町、政府の建物、アメリカ軍基地または南ベトナム軍事基地を含む、南ベトナム全土の他の多くの標的を攻撃し、合計約120回以上の攻撃を行った。アメリカ大使館を攻撃しただけでなく、サイゴン中の他の約12の目標にも攻撃した。特に驚異となったサイゴンのアメリカ大使館に対するテト攻撃では、アメリカ軍がそれを掃討する前に、ベトコン部隊が大使館の複合施設の中庭に入った。特にアメリカ国大使館への大胆な攻撃とその驚異は、テレビで放送されたベトコンに対する大虐殺の映像を見たアメリカ市民に非常なショックを与えた。サイゴンでは、散発的なテト攻勢の市街戦は3月8日まで続いた。国際的な報道機関は、テト攻勢の間に、ベトナム戦争の無修正の生の戦争映像をアメリカのテレビ画面に送信して多大な反戦運動を引き起こした。 

 1968年のテト攻勢までに、少なくとも約485,000人のアメリカ軍兵士が南ベトナム国内に駐留していた。地上戦はほとんど田舎であり、爆撃は北ベトナムの主要な供給ラインであるホーチミン・ルートを破壊するためにラオスとカンボジアに侵攻していた。町を救うために町を破壊する必要が生じた。テト攻勢は1968年4月1日まで継続した。北ベトナム軍とベトコの犠牲は、甚大な戦死者しは約58,373人(戦死者約32,000人、戦傷者約50,000人他)を損失した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、戦死者は約9,078人、戦傷者は約35,212人が戦傷した。ベトナム民間市民は、約14,000人が死亡して、約24,000人が負傷した。

 ジョンソンの後継となったリチャード・ニクソンは、「名誉ある平和」を公言して選挙に勝利した。就任したニクソンは、数ヶ月ごとにアメリカ軍の増員を撤回した。その後に、完全なるアメリカ軍の撤退を必要とする和平協定を交渉した。テト攻勢によりアメリカ大使館が攻撃された不運な事件から、約7年後の1975年4月30日に、最後のアメリカ人と一部のベトナム人の同盟者は、南ベトナムを悲惨で残酷にも見殺しにして、アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで南ベトナム首都サイゴンから上級国民が脱出して飛び去った。



(アフガニスタンでも再び、タリバンにより首都カブールが陥落して、2021年8月15日にアシュラフ・ガニ大統領からアメリカ大使館屋上にて上級国民らが軍用ヘリコプターで脱出し始めた。)

2021年7月5日月曜日

南ベトナムのトゥイホアでの地雷の爆発により、約15人のベトナム民間人が殺害されて、4人が負傷した。母親が地雷の爆発による犠牲者となり、娘が死体の側で泣き叫んだ。

1966年3月18日の南ベトナムのトゥイホアの西約8kmの田舎道での地雷の爆発により、約15人のベトナム人民間人が殺害されて、4人が負傷した。母親が地雷の爆発による犠牲者となり、娘が死体の側で泣き叫んだ。トゥイホアはフーエン県の州都で、ベトナム中部のダラン川の下流に位置する。

 ベトナム戦争では、ベトコン(VC)やベトナム人民軍(PAVN)の紛争にて、殺人、誘拐、拷問、脅迫が日常的に執行された。ベトナム市民を脅し、敵対勢力を排除して、南ベトナム政府職員の士気を低下させ、徴税やプロパガンダを強化した。1954年から1975年の間にVC/PAVNによって殺害された南ベトナムの民間人の総数は、約10万6000人から約22万7000人と推定された。ベトナム市民を臆病にさせ、敵対者を清算し、南ベトナム政府職員の士気を低下させ、徴税やプロパガンダ活動を後押した。恐怖で、南ベトナム政府が防御できないことを示した。ベトナム戦争の初期には、暗殺や同様のテロ活動がVCの特別活動隊によって組織された。VCに集約され、1970年には約25,000人の部隊に達した。標的を絞った殺人や誘拐に加え、VCとPAVNは、頻繁に難民キャンプを押し込め、村人が頻繁に通る道路に地雷を設置した。大型車が通過したときに爆発した。約122mmのロケットで主要都市を無作為に砲撃した。大規模なテロ事件には、Đắk Sơnの虐殺、Huếの虐殺、Son Traの虐殺、Thanh Myの虐殺などがある。

 ベトナム共和国軍(ARVN)やアメリカ軍も、住民を狙撃したり、襲撃したり、地雷や罠を村や周辺に設置した。村人たちの反応や報復攻撃を早急に引き起こした。VCはある村に入り、地元の住民に革命を支持を強要した。テロ情報を地区の首都に伝えた翌日に、アメリカ軍機がその村と教会を爆撃した。破壊された後にVCの工作員が現れ、生存者にアメリカ帝国主義者の背信行為を洗脳した。PAVN/VCの部隊は、テロ戦術を一貫して否定した。1968年から1972年まで、テロリストの犠牲者の約80%は一般市民であり政府関係者、警察官、自衛隊員、平和化の幹部は約20%しかいなかったと示唆した。




2021年7月4日日曜日

カンボジア内戦にてソム・ラングで、路店で若い夫が内戦に巻き込まれ砲撃で殺害され、死体の側で若い妻がうめくように慟哭した。

カンボジア内戦にてソム・ラングで、1998年1月13日の夕方に路店で若い夫が内戦に巻き込まれて殺害された。砲弾が直撃して即死した夫の死体が地面に仰向けに横たわった。無差別な砲撃により、若い夫の上半身には切り裂かれた深い傷跡から出血していた。その死体の側で、若い妻がうめくよう泣いて、涙を流した。若い妻は、周囲のカンボジア人に対して、「夫の指から、指輪をはずして」と震えながら訴えた。結婚してもまだ新婚の時期でもあった。若い妻は、周囲のカンボジア人に夫の指から指輪をはずしてもらった。妻は夫の指輪を手のひらに握り、大声で泣き続けた。

 フン・セン軍は毎日のように攻撃して、ラナリット軍が抵抗していた。突然に、ラナリット軍がフン・セン軍が駐屯するソム・ラングに砲撃した。住民は、砲撃の中てで直ちに庭先に穴を掘って、まず子供たちを穴中に入れて、住民たちは身を屈めた。金持ちや上級国民だけは、国外に逃避できたが、戦場に弱い立場の市民らは取り残された。仏教徒である市民は、内戦を恐れて寺院に集まっては平和を祈っていた。無差別な砲撃は、病院にも達して、医療関係者も立ち去った。負傷兵は戦場から引き戻すも、死体は放置された。地域の火葬場では、1日中死体が燃やされ続けた。侵攻する軍隊の貧しい兵士が、地域の民家からも略奪して、カンボジア市民が犠牲となった。激しい内戦中は、ラナリットもフン・センら上級幹部は、国外に避難していた。

 1997年7月5日にカンボジアの本格的な内戦が再び勃発してフン・セン軍が首都プノンペンのラナリット軍に侵攻した。直ちにタイとの北西部の国境の近隣まで戦場が拡大した。多くの市民が内戦に巻き込まれて犠牲となった。ベトナム戦争中の1970年3月に、親米派のロン・ノル軍事政権が樹立されて、クメール・ルージュのポル・ポト軍とロン・ノル軍が内戦で激突して全土に拡大した。無差別な爆撃と腐敗によりロン・ノル政権は崩壊した。1975年4月にポル・ポト政権が樹立した。都市住民の農村への強制移住・私有財産の停止・寺院や学校閉鎖して、約100万人ものカンボジア人が虐殺された。1982年に、シアヌーク派・ポルポト派、ソンサム派の連合政権が樹立された。タイ国境の連合三派とヘン・サムリン派の内戦が継続した。1993年に、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)が主導してカンボジアで四派による総選挙が実施され、ポル・ポト派は離脱した。1995年にフンシンペック党のラナリット派と人民党派のフン・セン派の対立が激化して、爆弾テロが頻発した。1997年に、二派が対立して再び内戦に突入した。1998年に第2回国民議会選挙でフン・セン連立政権が樹立された。それ以後は第3回(2003年)、第4回(2008年)、第5回(2013年)、第6回(2018年)国民議会選挙にて、フン・セン政権が再選が継続して長期独裁政権が継続している。



 


2021年6月24日木曜日

南ベトナム解放民族戦線により殺害されたベトナム人の死体とベトコンがアメリカ軍将校を殺害した死体も散乱した。

ベトナム戦争は、1964年に軍事情勢が急激に悪化した。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, VC)により殺害されたベトナム人の死体が散乱した。ベトコンがアメリカ軍将校を殺害した死体も散乱した。1964年の上半期にはテロ事件が倍増し、南ベトナム軍兵士の脱走や亡命が増大した。1964年前半だけでアメリカ軍兵士の死者数は約227人にも上った。

  南ベトナム中に要塞化された集落を設置すると喧伝しても、明らかな撤退を止めれなかった。ベトナム戦争の戦況で、約600人ものベトコンのゲリラがジャングルから突如に出てきて、小さな要塞化された集落を攻撃した。ベトコンは、機関銃の射撃でワイヤーとストレッジを吹き飛ばした。翌朝に、南ベトナム軍の救援隊が到着した。村に家族が住んでいた南ベトナム軍兵士は、赤ん坊の息子の死体を抱いて慟哭した。赤ん坊は、わら製のマットにきれいに包まれて、埋葬する名札付けられていた。

  8月の北ベトナム軍は戦闘において公的な役割を担っていた。トンキン湾で、北ベトナムの魚雷艇がアメリカの駆逐艦マドックスを攻撃した。ラスク国務長官は直後に「今度やったら、刺されるぞ」と警告した。南ベトナムのベトコンによるジャングル戦は不吉な新展開を見せた。空母タイコンデロガのアメリカ海軍パイロットが低空飛行で湾岸を通過し、北ベトナムの海軍施設を攻撃して、初めてベトナム戦争が17度線を越えた。

 1964年の夏に、約56,000人のベトコンが、ゲリラ戦争を南ベトナム全体に広めた。ホーチミンルートを経由して北ベトナム軍(NVA)が流入した常駐によってゲリラ戦争が激化した。ベトコンは、独立した集団と共鳴者が提携して南ベトナムで反乱をする前線部隊であった。実際には北ベトナム共産党と北ベトナム人民軍(PAVN)によって完全に管理されていた。北ベトナムの共産主義戦闘員であるベトコンがゲリラ攻撃した。ベトコンの奇襲攻撃は、しばしばアメリカ軍兵士を待ち伏せし、捕らえられる前に逃げるひき逃げ待ち伏せをした。一般市民や地元の農民に変装してゲリラ攻撃をした。

 1959年初頭には約5,000人だったベトコンは、1964年末には約10万人に増大した。南ベトナムの潜入者数だけでも約4万1千人と推定された。反乱軍の拡大は、北ベトナムの人員や武器の量だけでなく、南ベトナムが多孔の国境を保持できない、南ベトナムが地方のベトコンの影響力を弱めれない、南ベトナム軍が長年にベトコンの基地や秘密地帯の削減が困難であることを反映した。



2021年5月31日月曜日

ベトコン・ゲリラが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃して、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

アメリカ軍がベトナム戦争に参戦した直後に、ベトコンが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃した。ベトコン・ゲリラは、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

 ジョンソンがアメリカ大統領に再選された1964年11月には、南ベトナム政府では不安定な内乱が相次ぎ、南ベトナム解放戦線(ベトコン)はゲリラ戦から大規模な通常戦へ移行した。アメリカ軍はより厳しく1965年3月に、アメリカ軍はダナンに上陸して、北ベトナムに対して持続的な空爆攻撃を開始した。南ベトナム政府の指導者たちが即時攻撃を求め始めたら、南ベトナム側の改革と引き換えにアメリカ軍は北ベトナムへの空爆の見返りを提供した。アメリカ軍はラオスでの北ベトナムの侵入ルートに対する攻撃を強化して、北ベトナム沿岸でのアメリカ海軍による秘密作戦を敢行した。南方での北ベトナム軍の略奪に対する報復として、アメリカ軍と米南ベトナム軍は合同で北方への空爆をした。
 南ベトナム軍人たちの無責任な行動が、南ベトナムの安定を前提としたすべての軍事計画を頓挫させた。1964年12月24日午後、サイゴンに住む多くのアメリカ人がクリスマスイブを祝う準備をしている最中に、ベトコンはサイゴンのビジネス街に近いアメリカ軍将校の宿舎であるブリンクホテルを爆撃した。この爆撃は、ベトコンのテロ行為の中でも最も影響の大きいものの一つで、2人のアメリカ人が殺害され、アメリカ人と南ベトナム人が51人負傷した。
 1965年1月17日、南ベトナムは陸軍の徴兵制を拡大する法令を発布した。仏教徒が街頭で反乱して、内乱は瞬く間に南ベトナムの都市から都市へと広がり、フエのアメリカ情報機関の破壊や、17歳の少女の焼身自殺にまで発展した。サイゴンでの政権転覆して、一方で首都周辺の地方では激しい戦闘が続いて、ベトコンが徐々に優勢になった。武装したベトコンはサイゴン近郊の海岸沿い人口約6,000人のビンジア村を4日間占領して、約6人のアメリカ軍兵士と約177人の南ベトナム兵を殺害した。戦況を打開するためには、1月下旬に北ベトナムへの報復空爆をした。
 1965年2月7日朝に、ベトコンが中部高原のプレイク近郊にあるアメリカ軍のホロウェイ基地と滑走路を攻撃して、約9人のアメリカ軍兵士の約9人が殺害されて、100人以上の負傷者を出した。同日にアメリカ軍の約49機の戦闘機が、非武装地帯の上にあるベトコンのドンホイ兵舎を攻撃して、翌日に南ベトナム政府軍は、ベトコンのヴィン兵舎を攻撃した。2月10日にベトコンが、クイニョンのホテルを爆破して、建物の崩壊で瓦礫に閉じ込められて約23人の兵士が殺害され、多数が負傷した。2月12日に北ベトナムへローリング・サンダー作戦を決定した。3月2日に、アメリカ軍と南ベトナム政府軍の戦闘機が、北ベトナムの弾薬庫と海軍基地を爆破した。2月26日に北爆のためにダナンの空軍基地を強化して、3月8日上陸した。ダナンの到着は、アメリカ軍の軍事過程にてベトナム戦争の参戦が取り消せない段階となった。



2021年5月10日月曜日

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。その頃に、アメリカと南ベトナムは、北ベトナムに宣戦布告を準備していた。

 ジョンソン大統領は、1964年8月5日に「北ベトナムの攻撃には慎重に対応し、戦争を拡大するつもりはない」と発表した。空母タイコンデロガと空母コンステレーションからの戦闘爆撃機が、北ベトナムの4つの海軍基地と石油貯蔵庫を空爆した。推定25隻の魚雷艇が破壊されて、ヴィンの石油貯蔵施設の約90%が炎上した。アメリカ軍戦闘機2機が、北ベトナムの対空砲火に撃墜されて、2機が損傷した。北ベトナムの戦闘機の空中戦には遭遇しなかった。
 トンキン湾決議と北ベトナムの海軍基地の空襲は、南ベトナムの士気を高めたが、テイラー大使は国務省に、この効果は一時的なもので、カーン軍事政権を維持する可能性は少ないと警告した。1964年8月16日に、南ベトナムのカーン軍事政権は自分の政治的基盤が不安定であるために、独裁的な権限を得る新憲法を公布した。新設された軍事革命評議会は承認されたが、仏教徒には政治的野望に脅威を感じ、ベトコンのシンパや反体制派の学生たちに後押しされて、さらなる暴動を起こした。都市部の不満が農村部にも波及し、民衆の反感を買ったカーン軍事政権は、大統領職を辞し、憲法を破棄して、反体制派たちはすぐに軍事クーデターを起こしたが、反乱軍の陣地を爆撃すると脅して軍事クーデターは頓挫した。
 アメリカに独自性がなければ、南ベトナムの状況はさらに悪化すると考えた統合参謀本部は、トンキン湾事件により、北ベトナムの米軍への攻撃を意図的に誘発した。アメリカは北ベトナムへの空爆を開始する理由もできる。統合参謀本部は、共産主義者たちの軍事行動が、北ベトナムの破壊の度合いを決定した。ジョンソン大統領は、北ベトナムに圧力をかける限定的な措置を承認し、北ベトナムがアメリカ軍を攻撃する際には、一触即発の空爆を行うことに同意した。ジョンソン大統領は、北ベトナムがアメリカ軍部隊を攻撃した場合に、空襲で対応するを同意した。
 北ベトナムへの攻撃を開始した。ジョンソン大統領は、トンキン湾事件以来に中断していた哨戒活動を再開した。ジョンソンの警戒心とは裏腹に、北ベトナム沿岸でアメリカ海軍の哨戒活動や秘密工作が再開されると、すぐに新たな問題が発生した。9月18日の夜、トンキン湾を航行中の駆逐艦モートンとパーソンズは、レーダーから魚雷艇らしきものを発見したと報告した。両艦は約40分ほど操船していたが、追手から逃れることができず、発射した砲撃が命中した。敵と思われる船の映像はレーダー画面から消えた。さらに2回、レーダーに映った映像は、砲撃を受けて消えた。モートンとパーソンズの両艦は、合計で約200発以上の127mと100発の76.2mmの砲弾を発射した。レーダーに映った魚雷や砲撃は爆発していない。ジョンソン大統領はこの攻撃を疑問視して、北ベトナムには報復爆撃を行わなかった。ジョンソン大統領は、トンキン湾の状況が微妙になっと判断し、再び哨戒活動を停止して、南ベトナムの北ベトナム海域での海上活動の再開を延期した。10月4日には、厳重に管理された秘密の対北ベトナム作戦を継続することを許可した。
 ジョンソン大統領は自制して、その2日後にはトンキン湾事件が政治的にも功を奏して、大統領選で61%という空前の得票率でゴールドウォーターを破った。しかし、この勝利には暗い側面もあった。アメリカ国民はジョンソン大統領に強い支持を与えた。しかし、投票日に世論調査会社であるルイス・ハリスが行った調査では、ベトナム戦争への対応を大統領に高い評価を与えた人は42%にも満たなかった。12月初旬には、ベトナム戦争の評価の数字は38%にまで下がった。アメリカ国民は、ジョンソン大統領が、ベトナム戦争に勝つために決定的な軍事行動をとるのか、ベトナムから撤退するのかは定かではなかった。ジョンソン大統領が、ベトナムで軍事行動を起こさなければ、戦争に負けると疑問に思った。





 

2021年4月29日木曜日

韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭して泣き崩れた。

韓国のベトナム戦争で戦死した韓国人兵士を埋葬するソウルの公園に韓国軍墓地がある。記念公園の韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭した。1966年1月1日の正月に花々を埋けながら息子の墓に泣き崩れる母親を、身内の女性が支えた。ベトナム戦争記念公園には、無数の戦死した韓国人の墓が立ち並んで、さらに今後の韓国人戦死者のための広大な墓地が整備されていた。かつては、多くの韓国人家族は、ベトナム戦争派兵結団式で我が子と最後の面談をした。韓国軍幹部から閲兵されて、釜山港から南ベトナムに派兵される我が子を見送っていた。
 韓国軍は、ベトナム戦争の1965年から本格的に参戦して、1973年に撤退した。のべ約40万人以上の韓国人兵士が、南ベトナム政府軍とアメリカ軍側の戦争で戦うために、南ベトナムに派遣された。猛虎(メンホ)、白馬(ペンマ)と青龍(チョンヨン)の精鋭の軍団が参戦して、南ベトナムに常時約4万人が駐在した。ベトナム戦争に参戦する韓国人兵士らは、韓国各地の基地から続々と釜山港に送り込まれて、南ベトナムに出港した。ベトナム戦争中に、韓国人兵士は約5,300人が殺害された。先史時代以来、韓国人兵士が海外に出て戦ったのは初めてだった。白衣の民族であった韓国は、迫害されても他国を迫害しなかった歴史を破った。
 アメリカからベトナム戦争への参戦の要請であった。韓国軍事政権の朴正熙大統領は、1961年5月16日に軍事クーデターで、国家権力を掌握して1963年に大統領となった。漢河の奇跡となる爆発的な経済成長、アメリカ同盟、韓国軍力の強化を求めて、ベトナム戦争に参戦した。政敵や民主化運動を弾圧して、財閥と癒着して腐敗した。1979年10月26日に、宴会で側近の中央情報部(KCIA)の金載圭により射殺された。


 

2021年4月16日金曜日

ベトナム戦争で、アメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の水しぶきの出血で覆われた。

ベトナム戦争の戦場で、1966年10月頃にアメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の明るい水しぶきの出血で覆われた。アメリカ軍兵士は即座に彼の腕を固定して、中国製の軽自動小銃を奪った。アメリカ軍兵士が激しく戦闘したベトコン兵士を首をつかんで引き上げた。ベトコン兵士は頭から血がにじみ出ていた。彼は息を切らして、すぐに気を失って、その直後に彼は死亡した。アメリカ軍兵士は彼を溝に蹴り出した。
 水田地帯を横切って、アメリカ軍の戦車部隊は砂丘に広がる薄い森に入って、無線で部隊とヘリコプターと連絡を取り合った。空中から砲撃している爆撃機から偵察すると、南ベトナム解放戦線(NLF:National Liberation Front)が隠れていた地域をかなり近隣に見えた。ベトナムの薄い森は、杉と広葉樹の椿で構成された。アメリカ軍兵士はすでに戦闘の中心的な領域にかなり深く入っいた。銃声はかすかに聞こえて、戦車の轟音に圧倒された。
 ほぼ同時に、自動小銃の弾丸の跳ね返りが、戦車から聞こえた。ゴムボールのように戦車に跳ね返った。ベトコンによる攻撃により、アメリカ軍兵士が戦車から転落した。ベトコンが木々の上から発砲した。アメリカ軍兵士は、必死に機関銃で射撃して、加熱された薬莢が周辺に散らばった。木々から狙撃された直後に、不用意には外を覗けなかった。前日には戦車が、ロケット砲弾に襲われて、戦車内に留まったアメリカ軍兵士が殺害された。時々に立ち上がっては、ベトコンを覗き見した。継続的に機関銃を撃ち続けて、戦車部隊は薄い森に広がる農地まで達した。そこには3つの孤立した農家があった。主婦のベトナム人女性が通り過ぎて、戦車を冷酷に見つめた。悲惨な一戸建ての小屋があった。アメリカ軍兵士とベトコン兵士たちが混乱の中で、戦場は並外れた悲惨な光景であった。5つの戦車は分散しながら、ベトコンを砲撃した地域に多数の色付きの煙の殻が落下していた。戦車は標的に向かって、機関銃の射撃を行った。砲手の座席は、戦車の外側にあり、厚い鋼板で保護された。戦車の中は日焼したアイロンの灼熱で、スチームバスでたっぷりと汗をかいた。武装したベトコンを射撃するために、戦車は地面に止まった。アメリカ軍兵士たちは戦車から飛び降りた。手前の約5mに農場と歩道の間の溝に、2人のベトコンが上下に転倒していた。彼らはまだ生存して、お腹を上にして転倒した。アメリカ軍兵士が近づいて、自動小銃を彼らに向けると、1人のベトコンがふらつき不安定に立ち上がった。
 黒人のアメリカ軍兵士はもう一人の重傷を負ったベトコン兵士を助け、彼に治療を施した。戦車の中で唯一の黒人であった。負傷したベトコン生存者を腕に抱いて戦車に戻した。血を大まかに拭き取った後に、戦車に入れるのを手伝おうとした。しかし、警官であるPIOは拒否し、負傷した身体を戦車の端に置くように命じた。黒人の兵士は命じられたとおりに行動した。端の幅はわずか約60cmで、土嚢で覆われた。ベトコン兵士は横になって、頭部から血が流れ続けた。淡い表情で、目が空いていた。彼は15歳か16歳の無実の少年であった。司令部から、より強力なベトコン部隊が近くで発見されたと報告された。戦車部隊は、重傷を負った少年兵士が端に横たえてサトウキビ畑を駆け抜けた。黒人のアメリカ軍兵士はベトナム人の少年の腕を持って脈を取って、救急箱から包帯を取り出して、「まだ生きている!」と言った。出血が戦車に滴り始めて、男子の真下に座っていると、すぐに帽子と腕に血が飛び散った。