2022年2月15日火曜日

サイパンの戦いで、アメリカ軍の上陸初日に、日本軍は最初の夜襲をかけたが、ススッペ海岸の橋頭堡でなぎ倒され殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争のサイパンの戦いで、アメリカ軍が上陸した1944年6月15日の真夜中に、日本軍兵士は、最初の夜襲をかけた。アメリカ軍のススッペ海岸の橋頭堡において、アメリカ軍に反撃されてほとんどが殺害されなぎ倒された日本軍兵士の死体がサイパン島の南西部の海岸に散乱した。激しい戦闘の戦場には、混在した残骸があった。アメリカ軍兵士と日本軍兵士の死体がバラバラになって転がっていた。爆破されて燃え尽きた日本軍の要塞、日本軍の高速射撃で破壊された上陸用車両(LVT)の残骸が燃えていた。爆薬の臭いが漂い、森林が折れて、砂地に捨てられた機材が散乱した。

 1944年6月15日の上陸1日にアメリカ軍兵士がサイパン島の浜辺に突入すると、約2,000人のアメリカ軍兵士が犠牲になった。日暮れまでに約20,000人のアメリカ軍兵士が上陸した。約8,000人のアメリカ軍兵士がサイパン島のオレアイとチャランカから上陸した。夕方までに幅約10kmから奥に約1kmの上陸拠点を確保した。日本軍は真夜中になって戦車で反撃したが、大きな損失を出して撃退された。6月15日の夜中も、アメリカ軍の艦船から発射された星型砲弾が照明した。日本軍の夜襲が侵攻しても、夜を昼に変えて潜伏する日本軍兵士の輪郭を示して撃退された。

 6月16日に上陸2日のアメリカ軍が、オーズ・リト飛行場を占領した。それに対して日本軍は2度めの夜襲をしたが、アメリカ軍に反撃されて大きな損失を受けて、飛行場を放棄して撤退した。日本軍は再び約44台もの戦車を使った大規模な攻撃を仕掛けた。アメリカ軍は、大砲と戦車で騒音を加えながら、砲撃を続けた。夜が明けたとき、約24両の日本戦車が粉々になった残骸が煙を上げて横たわった。

 6月18日に上陸4日目になると、日本軍は海岸の防御を放棄して、内陸部に移動して丘陵地や山岳地に防御を固めた。サイパン島は、地形の崩れたジャングル、沼地、切り立った崖、高さ約473mのタポッチャウ山などの難所の地形があった。日本軍兵士は洞窟、谷間、峡谷に潜伏した。アメリカ軍は迫撃砲と機関銃による重火力で圧倒して、7月5日にタポッチャウ山を占領した。日本軍は7月7日に最後に集団自殺して攻撃するバンザイ突撃をして全滅した。7月9日にマッピ岬にまで掃討された日本軍兵士と民間人が飛び込みの集団自殺や自爆して、サイパンの戦いは終結した。アメリカ軍兵士は、戦死と行方不明が約3,551人、戦傷が約13,061人が犠牲となった。日本軍兵士は約23,811人が戦死して、約5,000人が自殺、捕虜は約921人、民間人の死者は約8,000人もの犠牲となった。




2022年2月14日月曜日

アメリカ軍兵士が、パッサウⅠ 強制収容所分所の近郊のティーフェンバッハで、ナチス・ドイツ親衛隊員により頭部を木槌で潰されたロシア人の強制労働者の死体を検死した。

アメリカ軍が1945年5月2日にナチス・ドイツのパッサウⅠ強制収容所分所を開放した。アメリカ軍兵士が、パッサウⅠ分所の近郊のティーフェンバッハで、ナチス・ドイツ親衛隊員により頭部を木槌で潰されたロシア人の強制労働者の死体を検死した。

 パッサウ(Passau)は、ドイツ南東部のバイエルン州の都市である。1892年から1894年まで、アドルフ・ヒトラーと家族はパッサウに住んでいた。パッサウ市は1942年5月から水中発電所の建設を計画した。1942年10月19日にダッハウ強制収容所の分所としてパッサウI分所が設置された。約1ヶ月後にマウトハウゼン強制収容所が分所の管理を引き継いだ。マウトハウゼン・グーゼン強制収容所は解放されるまでに、40以上のサブキャンプが設置された。1945年3月初めには、強制収容所の囚人総数約83,000人のうち、約64,000人がサブキャンプに収容されていた。

 パッサウIは設立の当所は主に政治犯を収容した。ダッハウ強制収容所からパッサウIに移送された約24人の囚人が収容された。1943年にはマウトハウゼン強制収容所から約70~80人の囚人が収容された。主にポーランドから移送され、スペイン、チェコスロバキア、ドイツ、ソ連、オーストリアからの囚人も移送された。1944年9月には、約70人の男性囚人が収容されていた。1945年2月には、約50人の囚人がマウトハウゼン強制収容所に移送された。その他にパッサウⅡ分所とパッサウⅢ分所も設置された。

 大多数の囚人は水中発電所の建設現場で強制労働した。その他は、製材所工場の労働、連合軍による空襲後の清掃作業、不発弾の処理もした。1945年2月に囚人の大半である約50人がマウトハウゼン強制収容所に移送された後に、残存した約20人の囚人は、ドイツ敗戦までプラントの部品組み立てやメンテナンスをした。看守はナチス・ドイツ親衛隊兵士で、約8人から後には約15人となった。パッサウIでは看守による暴力や激しい身体的虐待が頻発して、少なくとも4人の囚人の虐殺が記録されている。パッサウI分所は、アメリカ軍が開放する少し前に、収容所所長によって閉鎖された。1945年5月2日にアメリカ軍は見捨てられた囚人たちを収容所で発見した。






2022年2月13日日曜日

ソ連8月クーデターが勃発して、1991年8月21日に首都モスクワで、ロシア国会議事堂の近くで、横転した歩兵戦闘車から22歳のドミトリー・コマールの死体がぶら下がっていた。

ソ連8月クーデターが勃発して、1991年8月21日に首都モスクワにて、ロシア国会議事堂の近くで、横転した歩兵戦闘車から22歳のドミトリー・コマールの死体がぶら下がっていた。ボリス・エリツィンの支持者が、ガソリン爆弾で武装して、クレムリンの新強硬派共産主義支配者に忠誠を誓う兵士と衝突して、3人が死亡した。

 8月21日午前1時頃にホワイトハウスから近隣で、トロリーバスや道路清掃車を使って、対抗するソ連軍の歩兵戦闘車に対してトンネルをバリケードした。この衝突事件で、ドミトリー・コマール、ウラジミール・ウソフ、イリヤ・クリチェフスキーの3人の男性が死亡して、数名が負傷した。コマールは、22歳のソビエト・アフガン戦争の退役軍人で、移動中の歩兵戦闘車の観測窓に蓋をして撃たれて落下して頭部が粉砕された。経済学者であった37歳のウソフは流れ弾に当たって死亡した。群衆は歩兵戦闘車に火を放ち、28歳の建築家であるクリチェフスキーは、部隊が逃げる際に射殺された。

 ソ連軍は、戦車や特殊部隊によりホワイトハウス(国会議事堂)を襲撃して、ホワイトハウス周辺のデモ隊を孤立させ、武装解除するための作戦があった。8月21日真夜中から、ソ連軍の装甲車がモスクワの街を巡回し、新たな外出禁止令を発令した。デモ隊は市内のいくつかの場所で軍と衝突した。ガーデン・リングとノビイ・アルバトの交差点では、デモ隊が装甲車の車列の行く手を阻もうとした。市民は軍に石を投げ、1台の車両を炎上させた。兵士は数発の威嚇射撃を行い、その1発が跳ね返ってきて37歳のウソフを殺害した。燃えた装甲車から逃げた兵士が、頭に銃を撃って28歳のクリチェフスキーを銃殺した。22歳のドミトリー・コマールは装甲車から道路の下に落ちて死亡した。

 8月19日の午前9時からロシア・ソ連社会主義共和国(SFSR)のエリツィンらは、国家非常事態委員会(GKChP)を違法なクーデターと糾弾し、エリツィンは戦車の上に立ってホワイトハウスの支持者に呼びかけた。デモ隊は非武装の民兵部隊を結成し、レンガや公園のベンチ、ゴミ箱など、バリケードを築き、軍事攻撃から共和国の指導者を守った。8月21日未明には、武装した警察官候補生もロシアSFS側に加わった。8月20日の夕方には、ホワイトハウスの前に数十万人の多様な人々が集まった。8月21日にソ連軍部隊の司令官たちは、モスクワの環状道路付近で、誰もデモ隊を妨害しなかった。8月21日の朝には、ヤゾフ国防相がソ連軍にモスクワからの撤収を命じて、ヤナエフ副大統領はGKChPを正式に解散させてソ連8月クーデターは終結した。軍事組織でもあった国家保安委員会(KGB)に所属したプーチン大統領が、財閥と癒着し汚職の噂が絶えないエリツィン大統領から1999年末に後継大統領に指名された。




2022年2月12日土曜日

1945年9月20日頃から長崎で原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付き救護活動をした。

長崎原子爆弾の炸裂後の3日後から長崎医科大学の第11医療隊で、永井隆は被爆者救護の診療をした。永井隆は三ツ山の借家の救護所にて1945年10月頃に撮影された。9月20日頃から原爆病が発現した永井隆は被爆して包帯を巻いて血痕を伴って脱毛も伴って杖を付きながら救護活動をした。

 永井隆(Takashi nagai,島根県出身,1908年2月3日~1951年5月1日)は、長崎原子爆弾で被爆した放射線科医師であり、浦上の聖人と呼称された作家である。戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足でも透視を続け、1945年6月にX線被曝による白血病と診断されて余命3年の宣告を受けた。日中戦争で1937年7月から広島歩兵連隊の軍医として中国に出征して、日本に帰国した1940年2月頃に発病と推定された。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下された。原爆投下時に、長崎医科大学病院の放射線科に勤務して、右側頭動脈を切断する重傷を負った。他の医療スタッフと共に原爆被害者の治療に専念した。8月11日に永井は妻が死亡して破壊された自宅を発見した。9月20日頃に原爆病が発現して、傷が壊死して始め高熱が続き昏睡状態に陥って、一時的に危篤となった。1945年10月15日に爆心地近隣の浦上に戻り、6畳ほどの小屋を建て、家族と一緒に留まった。1947年に聖ビンセント・ド・ポール協会(SSVDP)が、2畳の茶室の建物を建て、永井は「如古堂(Nyokodo)」と名づけ晩年は祈りと思索にふけった。

 永井は教育活動も再開し、本の執筆も始めた。最初の作品「長崎の鐘」は、原爆投下1周年の1946年8月までに完成した。『長崎の鐘(The Bells of Nagasaki)』は、GHQ側の検閲から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本の条件で、1949年1月日比谷出版社から出版された。

 1946年7月に長崎駅のホームで倒れて、体が不自由になり、以後寝たきりになった。1951年5月1日午後9時40分頃、永井は意識を失った。心肺蘇生剤した後、午後9時50分に43歳で病死した。翌日、遺言により病院で検死が行われた。脾臓は3,410g(正常値は94g)、肝臓は5,035g(正常値は1,400g)に膨れ上がった。




2022年2月11日金曜日

太平洋戦争のクェゼリンの戦いにて、日本軍砲兵が砲台の側で殺害されて、両手を上げて硬直した死体が浜辺に散乱していた。

太平洋戦争にてマーシャル諸島のクェゼリンの戦いで、日本軍砲兵が砲台の側で殺害された。両手を上げて硬直した死体が浜辺に散乱していた。クェゼリンの戦いは、1944年1月30日から勃発して、2月6日にアメリカ軍が環礁を占領した。日本軍は、クェゼリンの戦いを通じて日本軍は、若干の攻撃した以外は成すすべもなく全滅した。

 その直後から、マーシャル諸島内のエニウェトクの戦いが1944年2月17日に勃発してアメリカ軍がで環礁内の島々を攻撃した。2月17日の最初に攻撃して2月23日に占領した島はエンゲビ島であった。アメリカ軍がエンゲビ島に上陸して、日本軍の要塞陣地の前に悲惨な犠牲を招いた。アメリカ軍兵士は乳白色の波の中を低姿勢で駆け抜けて、硬いサンゴの砂の上に平伏して集結した。アメリカ軍兵士の一人が、一瞬膝を立て、回転しながら仰向けに倒れ殺害されて、胸から出血が出て上着を濡らしていた。日本軍の要塞陣地の正面に上陸すると、日本軍の要塞陣地には、アメリカ軍の第一次攻撃で破壊されて殺害された日本軍兵士の死体が残存していた。

 その他の日本軍の要塞陣地が突撃して、機関銃やライフルが至近距離から海岸線のアメリカ軍兵士を襲撃した。浜辺を上下すると、銃殺される。唯一の脱出する方法は、浜辺の砂穴の後ろの水中に身を隠し、どちらかの塹壕の側面に潜伏することだった。

 アメリカ軍兵士全員が、わずかに安全な水中に入れたわけではない。白顔の大柄な農家の青年兵士は、頭部に日本軍の銃弾を受けて殺害されて這うのを停止した。水面に到達したアメリカ軍兵士が、緑色のヘルメットと顔だけを波上に浮かべて殺害されて横たわった。アメリカ軍兵士は一人の襟元に手をかけ、苦労して海面上のサンゴに引きずりあげ、最後にまともな空気と太陽を得て戦死した。もう一人のアメリカ軍兵士が砂と海の間で悲惨に身をよじっていたが、死亡して苦悩が消滅した。

 ジープの後ろに横たわったアメリカ軍兵士は、何もできずに怯えながら、周囲のアメリカ軍兵士が戦死するのを見守った。水の中に横たわっている兵士も口をきかず、水に濡れた荷物の重さも、海水を飲み込んだ嘔吐も、腕や足にできたサンゴの傷も、波に打たれることも、戦争という巨大な怪物の中では小さな歪みであった。日本軍による銃や海中の死体だけが現実だった。

 波打ち際からの銃声で日本軍の防衛陣地の気を引いている間に、ジープの後ろからアメリカ軍兵士たちが左右からぞろぞろと上陸し始めた。上陸すると素早くジグザグに走り、日本軍の狙撃兵の銃撃から身を守りながら、ピルボックスの後方に移動した。アメリカ軍兵士の顔面は怒りに満ちて、手には手榴弾の硬い黄色い鋼鉄を握りしめて投入した。日本軍の防衛陣地の砲台からは煙が上がり、コンクリートの細かい破片が海に降り注いだ。アメリカ軍兵士は、エンゲビ島を占領するまで上陸と侵攻を続行した。エンゲビ島の戦いで、アメリカ軍兵士は約313人が死亡して、約77人が行方不明、第879人が負傷した。日本軍兵士は、約3,380人が死亡して、約114人が捕虜となった。




2022年2月10日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線の第3次ハリコフの戦いにより、1943年3月14日にドイツ軍により悲惨に殺害されたロシア軍兵士の死体がハリコフ市街の荒野に散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線の第3次ハリコフの戦い(Third Battle of Kharkov)により、1943年3月14日にドイツ軍により悲惨に殺害されたロシア軍兵士の死体がウクライナのハリコフ市街の荒野に散乱した。ハリコフは道路と鉄道の分岐点であり、ウクライナ南西部やクリミアへの玄関口であった。東部戦線では、両軍ともに最大限の人員と物資を投入して、残虐性と血なまぐさい戦闘が勃発した。ナチス・ドイツ軍は1941年6月に約380万人と、ソ連軍は約300万人の人員と物資を投入した。

 ハリコフの戦いは、1941年10月の第1次、1942年5月の第2次、1943年2月の第3次、そして1943年8月の最終と、計4回にわたり戦闘が行われた。第1次ハリコフの戦いはバルバロッサ作戦の終盤に行われ、ドイツ軍はハリコフを占領した。第2次ハリコフの戦いは、ドイツ軍は大勝して、ロシア軍は約28万人近くの兵士が犠牲となった。第2次ハリコフの戦いで、ドイツ軍の東部戦線が崩壊して、ロシア軍は2月16日にハリコフを一時的に占領した。

 第3次ハリコフの戦いは、ドイツ軍はソ連軍に対して、ウクライナ北東部のハリコフ市の周辺で2月19日から襲撃した。3月14日から3月15日にかけて、ロシア軍を城攻めして、ハリコフを奪還して終結した。最も著名な第3次ハリコフの戦いでは、スターリングラード攻防で大敗していたドイツ軍は、南ドイツの東部戦線が崩壊の危機となり、ロシア軍を防衛するために体制を取り戻した。1943年1月にドイツ軍はロシア軍の疲弊を再利用して攻勢をかけてハリコフを奪還した。第3次ハリコフの戦いは、東部戦線でドイツ軍の最後の勝利となった。ロシア軍は約45,219人が戦死あるいは行方不明、約41,250人が戦傷して、総86,469人が犠牲となった。ドイツ軍は、約4,500人が戦死あるいは行方不明、約7,000人が戦傷して、総計約11,500人が犠牲となった。

 しかし、ロシア軍は敵の休息を許さず、1943年8月に新たな第4次ハリコフの戦いで攻勢をかけた。ロシア軍の攻勢により、ドイツ軍は前線のすべての地域から徐々に撤退してハリコフも放棄して、ロシア軍がハリコフを奪還した。ドイツ軍は第4次ハリコフの戦いで、ハリコフを喪失して、莫大な物量と人員を損失した。






2022年2月9日水曜日

フランスのアンリ・カミュ少尉は、1863年10月14日に横浜の程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入った地点で、尊皇攘夷派の浪士の3人に襲撃されて斬殺された。

フランス陸軍アフリカ猟歩兵第3大隊所属のアンリ・カミュ少尉(J.J.Henri Camus, 21歳, 1842年 - 1863年)は、程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入った1863年10月14日に、尊皇攘夷派の浪士の3人に襲撃されて斬殺された。カミュは横浜居留地の警備のため上海より呼び寄せられて、来日して間もなかった。先頭に居たカミュは死亡した。同行していた他の2人の同僚のフランス人は逃走して命は無事であった。斬殺されて顔面が血まみれのカミュの死体を、ベッド上で写真を撮影して、フランス本国に井土ヶ谷事件を報告した。カミュの死体は、翌日10月15日にフランス教会のミサをして、横浜山手外国人墓地に埋葬された。

 榎の大木が茂み昼間も薄暗い森林に潜んでいた尊王攘夷派の3人の浪人が、カミュを襲撃した。カミュは右腕は切り落とされて、さらに太刀で斬殺されて、その場で即死した。英字新聞のジャンパン・ヘラルド(1863年10月17日付)は、1963年10月14日午後4時ころに居留地から約4.8km離れた井上ヶ谷という村で、一人の外国人の死体が発見されたニュースが各国領事館に通報された。川にかかる橋向こうにアフリカ狙撃兵第三連隊付き少尉のカミュの切り刻まれた残酷な死体が狭い小路に横たわっていた。約20ヵ所にわたる切り傷を伴った。片腕は完全に胴体から切り離されて、手にはまだ手綱の一部が握っていた。切断された腕は、死体から約10歩離断していた。取り調べの幕府の役人は、手かがりは皆無であると宣告した。

 井土ヶ谷事件は、江戸時代末期にて1863年10月14日(文久3年9月2日)に、武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前(現在の神奈川県横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)で、攘夷派の浪士によるフランス人士官の虐殺テロ事件である。襲撃した尊王攘夷派の3人のテロ襲撃犯は行方不明のままとなり逮捕されなかった。事件翌日に、フランス軍は外国人保護のために、横浜の山手に常時駐留を宣言した。フランスだけでなく、イギリスもアメリカも、不穏な尊王攘夷派の勢力に対して軍事的に威嚇した。フランス公司のド・ベルクールは徳川江戸幕府に対して虐殺されたカミュは軍人であり、フランス本国にて井土ヶ谷事件の謝罪と交渉を求めた。1864年5月にフランス使節団は、フランス政府に井土ヶ谷事件の謝罪と見舞金(3,5000ドル)を支払った。




2022年2月8日火曜日

継続戦争にて1944年6月17日にカレリア地峡にて、ソ連軍の戦車がフィンランド軍兵士と対戦車砲を爆破して散乱した。

フィンランド軍とソビエト軍との継続戦争(Continuation War)にて、1944年6月17日のカレリア地峡における戦闘で、ソ連軍の戦車がフィンランド軍の対戦車砲を撃破した。その対戦車砲を操縦していたフィンランド軍兵士が爆破されて殺害された。フィンランド人の死体は、崩壊した対戦車とともに散乱した。ソ連軍は、1944年6月17日にカレリア地峡における2日間の戦闘で、フィンランド軍は約200人を損失した。

 ソ連軍がフィンランドに1939年11月30日から侵攻した冬戦争(Winter War)が勃発しが、カレリア地峡の大部分はソ連に割譲されて1940年3月13日に終結した。継続戦争は、第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦軍とフィンランド軍の戦争が継続した。ソ連軍は、D-Day直後の1944年6月9日からカレリア地峡とラドーガ湖周辺のフィンランドの陣地に大攻勢を勃発した。ソ連軍の砲兵隊はカレリア地峡の戦場に約8万発以上を発射して爆撃した。大攻勢の2日目には、ソ連軍はフィンランド軍の前線を突破した。ソ連軍は6日目までに第2防衛線も突破した。フィンランド軍は、ソ連軍の攻勢に対してカレリア地峡の防衛をして、東カレリアでのソ連軍の第2次攻勢を減退した。

 ソ連軍の圧倒的な攻勢と戦車や火砲などの武力を前にフィンランド戦線は撤退を続けた。フィンランドは第二の都市ヴィープリが陥落して、フィンランド軍は6月21日にはカレリア地峡の第三防衛線まで撤退した。フィンランド軍は、ソ連の重戦車を止める近代的な対戦車兵器と援軍をドイツ軍から補給を受けた。フィンランドのリスト・リュティ大統領は任期中の6月26日から補給を受けて、フィンランド軍は1944年7月初旬にソ連の進撃を阻止した。フィンランド軍はソ連の攻勢を阻止して封じ込める戦いは、フィンランド軍の攻勢を疲弊させた。リュティ・リッベントロップ協定に基づくドイツ軍の支援によってソ連軍の占領は防げた。8月初旬にリュティ大統領が辞任して、8月下旬に新政府がソ連軍との休戦条約を実現した。




2022年2月7日月曜日

ビルマに侵攻したイギリス軍のインド第5師団が占領していた地域に、殺害された日本軍兵士の死体が荒野に放置されていた。

ビルマに侵攻したイギリス軍のインド第5師団が占領した地域に、殺害された日本軍兵士の死体が1944年11月に荒野に放置されていた。インド第5師団は、1943年末から1945年4月までビルマの日本軍と戦闘した。ビルマのティディムロードを通ってチンドウィン川まで日本軍を追い詰めた。インド第5師団は、マンダレー南西部のタウンサ丘陵から日本軍を崩壊して、メイクティラ地域への陸路を確保した。インド第5師団は1945年4月11日からビルマ中部からラングーンへの侵撃をして、日本軍は撤退した。インド第5師団はメイクティラ地域から首都ラングーンに侵攻した。

 インパールに至る悪路は、大河を渡り山脈地帯の道を貫き、食糧も乏しい日本軍兵士たちは衰弱していた。インド第5師団が圧倒的な役割を果たしたコヒマとインパールの戦いでの決定的勝利により、ビルマの戦いの転機となった。インド第5師団は、2年前に日本軍が侵攻して以来、日本軍に対して初めて圧倒的な勝利を収めた。1944年3月8日から7月18日にかけて勃発したインパールとコヒマの戦いは、第二次世界大戦の中でも最も悲惨な戦闘となり、一つの転換点となった。インド北東部における日本軍の決定的な敗北は、その後のイギリス軍によるビルマ再征服の足がかりとなった。1944年3月から日本軍は、イギリスのビルマ侵攻を阻止するため、インド北東部の辺境への進撃を開始した。

 日本軍はインパール平原にあるイギリス軍の補給基地を占領して、コヒマでディマプールとインパールを結ぶ道路を切断する作戦であった。4月5日から4月18日にかけて、コヒマでは戦争中最も過酷な近接戦闘が行われた。コヒマ周辺での戦闘は5月中旬まで続いたが、日本軍は撤退を開始した。日本軍はインパールの平原に対して、特にヌンシグム高地とパレル地域で何度も攻撃を仕掛けた。その周辺での戦闘は継続的で激しくしばしば混乱した。連合国側の補給と通信が優位となり、ディマプールからの迅速な援軍を可能になり、インド第5師団と装備をわずか2日でアラカンからインパールに移送できた。約12,000人以上のインド第5師団を空輸し、約13,000人の死傷者を避難させた。空輸からの補給を受け続けた連合軍は、日本軍の攻撃を激しい接近戦で撃退した。




2022年2月6日日曜日

ドイツとの国境に近いベルギーのホンズフェルドの交差点で、バルジの戦いで2人のアメリカ軍兵士が殺害されて装備を略奪された。

1944年12月17日から勃発した第二次世界大戦のバルジの戦いにて、ドイツとの国境に近いベルギーのホンズフェルドの道路交差点で、2人のアメリカ軍兵士が殺害された。ドイツ軍は装備や資材が常に不足していたため、ドイツ軍兵士は殺害あるいは捕虜となったアメリカ軍兵士から、装備や資材を頻繁に略奪した。ドイツ軍は劣悪な装備品の状態となり、手前のアメリカ軍兵士は軍靴を剥ぎ取られて裸足になっていた。西部戦線の十字路のぬかるみの中で、装備を剥ぎ取られたアメリカ軍兵士が顔を伏せて死んでいる写真を、ドイツ軍が1944年12月17日に撮影した。

 ビューリンゲン(Büllgen)は、ベルギーのワロン地域リエージュ県に位置する東ベルギーの自治体である。第二次世界大戦の西部戦線で、ドイツ軍がアルデンヌの森を侵撃しようとした際に、バルジの戦いの戦場となった町である。2人のアメリカ軍兵士の死体が、ビューリンゲンまであと約4Kmと標識された道路交差点の十字路で、雪道の路上に放置されていた。ビューリンゲンの近隣にあるロスハイムの谷は、ベルギーとドイツの国境に位置するシュニー・アイフェルの西麓にあり、長さ約8.0kmの峡谷であった。バルジの戦いのドイツ軍には、ベルギーとドイツの国境の地域であるロスハイムの谷間の奪取が軍事的重要な拠点であった。ロスハイムの戦いでは、アメリカ軍兵士は約450人が戦死して、約1,000以上が戦傷した。ドイツ軍は約200人が戦死して、約300人が戦傷した。 

 1944年6月6日に、連合軍によるフランス・ノルマンディー上陸作戦が成功した。冬の到来とともに、12月16日にドイツ軍は連合軍を切り崩すための反撃が勃発した。バルジの戦いと呼称された。アルデンヌの森は、密集した森と少ない道路の約120kmに及ぶ戦線となった。ドイツ軍の奇襲攻撃に、連合軍は完全に不意を突かれた。アメリカ軍は攻撃の矢面に立たされて、戦争中のいかなる作戦よりも最大の死傷者を出した。ドイツ軍は雪深いアルデンヌの森で膨大な損失を被って撤退して、バルジの戦いは1945年1月25日に終結した。
































Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟 2022年 1月6日にBlogger投稿数は2,000回に達した。

2022年2月5日土曜日

ABCCは、広島原子爆弾のケロイドの瘢痕がある女子と男子と認識番号を撮影した。顔面にケロイドが膨隆した若い女性は、髪を結い上げられて写真を撮影された。

ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)は、1947年7月7日女子と7月5日男子を、広島原子爆弾によるケロイドの瘢痕がある若い男子と女子の被爆者として認識番号を保持させて撮影した。さらにABCCの調査員は、右顔面の頬から耳かけて膨隆した若い女性の髪を結い上げて、羞恥心を伴う異様で醜いケロイドを露出させて写真を撮影した。ケロイドのある男子生徒を校庭ばせて写真を撮影した。ABCCの写真は、ニール中尉から日本側の都築正男調査団長にも提示された。アメリカ軍側は、原子爆弾に関する大量の調査記録を集積した。被爆者の火傷は皮膚が再生して瘢痕組織を形成して、さらに過剰に再生して肥大して腫瘤が突出した。引きつれて、かゆみや関節の拘縮をともなった。

 ABCCは、ケロイド状の傷を持つ少年少女の写真を多数に撮影した。すべての学校を訪問して、生徒や教師、職員は全員の調査やデータ収集をした。被爆者は、アメリカ人に助けてもらえると勘違いした。アメリカ人は日本の子供や大人の苦悩にはあまり興味がなく、研究対象として扱った。ABCC研究所では若い被爆者の性器も検査した。ABCCは被爆者の7,500体の死体を病理解剖して、その臓器をアメリカ本国に送付した。

 ABCCは、原爆投下後の広島と長崎の日本人の民間人を救済する思いやりのある救援活動として、日本とアメリカの一般市民には宣伝されていた。生存した被爆者やアメリカ連合軍の医療関係者らが残した記録や伝記、文書、インタビューなどを通して、ABCCは思いやりのある救援活動ではなかった。ABCCの第一の目的は、原子爆弾の人体への影響に関する研究を進めるための被爆者のデータを収集することであった。

 アメリカ軍はマンハッタン計画副責任者のファーレル准将を団長として、医学顧問のオーターソン大佐ら12人が、終戦直後の1945年9月9日に広島原子爆弾の調査に入った。都築正男の日本調査団が10月12日から現地で合流して、原子爆弾の影響調査のための合同委員会が構成された。アメリカ側の合同調査団は、調査結果から診療記録、病理標本、写真などを収集した資料は、1946年1月までに船でアメリカに移送された。日本側の資料の解析はアメリカ軍のみが実施して、内密に膨大な報告書が作成された。これらの接収資料は、ワシントンのアメリカ陸軍病理学研究所で保管された。1973年になって、日本政府を通じて広島大学と長崎大学に返還された。




2022年2月4日金曜日

秋田県花岡における1945年6月30日の花岡蜂起で、虐殺された中国人の遺骨の写真を、アメリカ軍が花岡事件の資料として提出した。

秋田県花岡における1945年6月30日の花岡蜂起で、虐殺された中国人の骸骨の写真を、アメリカ軍が花岡事件関する資料として提出した。日本人監督約5人が殺害されて、約113人の中国人労働者が、暴動の鎮圧のために日本の警察と軍隊によって殺害された。花岡周辺の農民も、投石や竹槍を持って、警察や軍隊と一緒に、中国人を虐待と虐殺して、広場には死体が散乱した。

 中国から強制連行された中国人労働者が、この世の過酷な労働に従事して、用水路の建設をした。木片で作った小屋に住み、毎日約15〜16時間の超過酷な作業を強制された。どんぐりラーメンやりんごの絞りかすで空腹を満たした。厳冬期になっても、労働者は単衣にわらじを履き、凍えるような寒さと泥水の中で強制労働した。厳しい飢えと疲労に加えて、残忍で残酷な鹿島建設の監督者による殴打や拷問が加わって、毎日多くの労働者が殴打され、拷問から虐待と虐殺された。わずか半年の間に、200人以上が拷問されて虐殺された。耐えられない中国人は、1945年6月30日に死をもって蜂起で抵抗することを決意した。

 終戦後の1945年10月に、アメリカ軍占領当局は花岡事件の調査を開始した。花岡事件で死亡した中国人労働者は約418人(暴動で死亡した113人を含む)に及んだ。花岡事件の裁判に、虐殺された中国人の骸骨を提出した。日本の他の強制労働収容所に比べてはるかに高い殺害割合であったことを公表した。鹿島組監督のうち3人はB・C級戦犯として死刑、1人は無期懲役、2人は懲役20年の判決が下された。その後減刑されて、1995年までに全員が釈放された。

 1984年12月22日に、生存者の団体が鹿島建設に謝罪および記念館の設立、補償を求める公開書簡を提出した。鹿島建設と補償問題で交渉が決裂した。遺族・近親者の団体は、1995年6月28日に総額6,050万円の補償を求める訴訟を東京地方裁判所に提起した。東京地裁は、時効を超えた理由で訴訟を却下した。1995年12月12日に判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。中国政府が被告側の要求を強めて険悪な裁判の審理が続いて、2000年5月31日に東京高等裁判所が遺族と近親者に5億円を負担する妥協案が、被告側を代表して中国紅十字会が受諾した。最終的な和解は2000年11月29日までに鹿島建設が行った。将来に日本企業が戦時中の戦争犯罪に対する賠償請求を行う際の先例となった。




2022年2月3日木曜日

ノルマンディのカレンタンで、フランス人農民が、ドイツ軍に殺害されたアメリカ軍兵士の死体に祈りを捧げ死体に花を手向けた。

アメリカ軍が侵攻したノルマンディ海岸から約16kmほど内陸に入ったフランスのカレンタン郊外で、1944年6月13日にフランス人の農民が家の前で殺害された若いアメリカ軍兵士の死体に祈りを捧げていた。フランスの町の人たちは、アメリカ軍兵士の死体に花を手向けていた。1944年6月6日に通称D-Dayに、連合軍は、フランスのノルマンディに上陸が開始された。

 戦争の惨状を目の当たりにした。カレンタン周辺の野原には、アメリカ軍とドイツ軍を問わず死者や瀕死の人が広がっていた。各地で約5~50体の死体が回収された。たくさんの野原があり、戦車に乗ってきた隊員には、弾薬の入ったバンドレールを渡した。疲れ切ったアメリカ軍兵士は、1週間も持ちこたえ、銃剣やナイフで戦っていた。何百人ものドイツ軍兵士が殺害され、目の前でアメリカ軍兵士の仲間が殺害された。やっと弾薬を渡したすと、彼らは泣いてい。

 ドイツ軍は防御を命じられ、両軍に大きな犠牲者が出た。両軍の距離が近いため、お互いの会話や武器の操作音が聞こえた。いたるところで死人や助けを求める負傷者がいた。煙幕に隠れて、突撃を命じて、鬨の声を上げ突撃して、銃剣を持って猛然と突進し、徒手空拳や短剣で戦闘して、ドイツ軍をポムナウク村に押しやった。

 ブラッディガルチの戦いは、1944年6月13日に、フランスのノルマンディー付近にあるカランタンの南西約1.6kmにあるマノワールデドンビルまたはヒル30(米軍指定)周辺で勃発した。戦闘中に、マノワール・ド・ドンヴィルはドイツ軍の本部であった。アメリカ軍兵士は、人気のある西部劇の映画「砂塵」で言及された場所にちなんで、邸宅を通り過ぎる道路に「血まみれのガルチ」という呼称を付けた。

 1944年6月12日にアメリカ軍がカランタンの町に侵攻して、約2日間の激しい戦闘が勃発した。生き残ったドイツ軍兵士は、アメリカ軍による激しい砲撃の後に、前夜に南西に撤退した。フランスへのさらなる攻撃の拠点であるカランタンで戦闘した。6月13日の夜明けに北東のカランタンに向かって攻撃した。アメリカ軍は約32人殺害されて、約73人が負傷した。ドイツ軍は約43人が殺害されて、約89人が負傷した。




2022年2月2日水曜日

1942年1月に悲しみのケルチ人々が、ナチス・ドイツ軍に虐殺されてバゲロフスキー対戦車溝の雪の中に横たわる死体を探索した。

ウクライナ南部のクリミアのケルチ市の人々らが、ナチス・ドイツ軍が撤退する前に虐殺された犠牲者の中から身内の死体を探索した。1942年初頭にソ連軍が、ケルチをナチス・ドイツ軍から解放した時に、虐殺された死体を集積したバゲロフスキー対戦車溝を発掘した。この溝で女性や子供を含む約7,000人がナチス・ドイツ軍に射殺された。1942年1月に、悲しみに打ちひしがれた人々が、雪の中に横たわる死体の中から身内を探していた。

 1941年12月初旬に、ケルチに住んでいた数千人(ドイツ軍側の報告では約25,00人、目撃者の話では約7,000人)の民間人が、ナチス・ドイツ軍の殺人部隊であるアインザッツグルッペによって、バゲロヴォ村のバゲロフスキー対戦車砲溝に射撃された死体が投げ込まれた。さらに12月29日には、ソ連軍の偵察隊がドイツ軍将校を殺害した容疑から、同じバゲロフスキー対戦車砲の溝に、ロシア人、ウクライナ人、クリミア・タタール人など数百人の村人を射殺した。

 第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判では、ソ連文書-63で、ケルチ市におけるドイツ軍の残虐行為が、臨時国家委員会で報告された。ナチス・ドイツは、バゲロヴォ村の近くにあるバゲロフスキー対戦車用の溝を大量処刑の場所に選び、そこで約3日間、家族らの民間人を載せた車両を運び込んでは全員を殺害した。1942年1月7日にソ連軍がケルチを再占領した時に、バゲロヴォ溝を調査したところ、長さ約1km以上、幅約4m、深さ約2mの溝の中には、女性、子供、老人、10代の若者の約7,000人に及ぶ死体が放置されていた。その溝の近くには凍った血のたまりがあった。子供の帽子、おもちゃ、リボン、破れたボタン、手袋、乳首のついた哺乳瓶、ブーツ、ガロッシュ、手足の切り株などが横たわっていた。これらすべてに血と脳みそが飛び散っていた。ナチス・ドイツ軍は、無防備な民間人を銃弾を炸裂しながら撃ち殺した。

 ソ連軍の激しい抵抗するも、クリミアのケルチは1941年11月にナチスの猛攻撃を受けた。ナチス・ドイツの民族浄化の一環として、当初はユダヤ人やロシア人、最終的にはすべての非ドイツ人と呼ばれる数万人の民間人が、排除や虐殺の対象となった。その一つであるケルチでは、約7,000人がナチスによって射殺され、バゲロフスキー対戦車用の溝に投げ込まれた。バゲロブスキー溝の虐殺と呼称され、ソ連軍が一時的にケルチの再占領して1942年初頭に明白にされた。死んだ親、配偶者、子供らを確認する親族の衝撃的で悲惨は、世界がナチス・ドイツの死の強制収容所に無知であった当時に、ファシズムの真実を明らかにした。1942年5月18日に再びケルチを攻略したドイツ国防軍は、約16万人以上のソ連軍兵士を捕獲あるいは虐殺した。その後のクリミアをめぐる血みどろの戦いで、1944年4月11日にケルチはソ連軍が再奪還した。






2022年2月1日火曜日

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、マッカル湾で日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、アッツ島の荒野に死体が散在した。

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、マッカル湾で日本軍兵士がアメリカ軍に殺害された。アッツ島の荒野に死体が散在した。1942年6月3日から7日にかけて、日本軍はアラスカのアリューシャン列島を攻撃し、ウナラスカ島のダッチハーバーを爆撃して、アッツ島とキスカ島に侵攻して占領した。1943年5月11日から18日間続いたアッツ島の戦いで、アメリカ軍は1812年以来初めて、アメリカ国内の侵略地を奪還した。

 1943年5月11日に、約12,500人のアメリカ軍がアッツ島の北端と南端に上陸した。他の太平洋戦争と同様に、日本軍兵士はアッツ島の荒れた地形を利用して、アメリカ軍兵士を狙撃した。アメリカ軍兵士は奇襲攻撃に備えてすべての窪みを掃討した。両軍ともアッツ島の厳しい天候にも悩まされ、アメリカ軍の死傷者数は日本軍敵の攻撃よりも厳しい天候の犠牲となった。約2,100人以上のアメリカ軍兵士は、病気や戦闘外の負傷の犠牲となり、約1,700人近くが日本軍の攻撃で死傷した。アメリカ軍兵士は、厳寒の天候の準備不足で露出の犠牲となり、凍傷や病気に苦悩した。濡れたままの粗末なブーツを履き替える機会もなく、冷たく湿った不衛生な環境に長時間さらされた。塹壕足は、壊疽を起こし、切断された。日本軍兵士もアメリカ軍兵士も、時速120マイルの冷風に吹かれ、雨に打たれ、霧で目が霞んだ。暖を取るために攻撃にさらされても、動き続けて暖を取った。歩けない者は這って移動した。アメリカ軍兵士は、殺害した日本兵軍兵士から優れた冬服を略奪して、敵の制服を着て自軍に撃たれる危険を冒した。配給品が少なくなり、両軍の兵士は空腹を感じた。補給機がアリューシャン列島の濃い霧の中で、何日も補給が途絶えた。栄養失調となり、日本軍陣地を制圧しては、残存した食料や弾薬を略奪した。

 5月28日の夜に、アメリカ軍はチチャゴフ渓谷の高台を占領した。日本軍は海側に追いやられ、アメリカ軍は翌日に砲撃を予定した。アッツ島の日本軍は、アメリカ軍上陸時の5月11日には約2600人の健常者を抱えていた。5月28日の時点で、日本軍が戦闘に参加できたのはわずか約800人、それに2週間の戦闘で負傷した約600人が加わっていた。不名誉となる降伏ではなく、アメリカ軍の弱点を突いて反撃し、ほとんどの日本軍兵士は、この戦闘を名誉の死を得るための機会と捉えた。その夜に、自殺者が続出して、負傷者を殺すためにモルヒネが約400発打たれ、負傷者は全員自殺させられた。1943年5月28日午後6時に手榴弾ですべての負傷者は始末された。

 エンジニア・ヒルの頂上には、少数の日本軍の非戦闘員が駐留して、手榴弾を投げ始めた。日本軍とアメリカ軍の間では命懸けの戦いが繰り広げられ、援軍のアメリカ軍が銃剣とライフル銃で日本軍を撤退させた。日本軍は武士道の掟に従った。武士道は弱さを非難し、戦い、勇気、忠誠、服従を称えた。降伏は非常に不名誉であり、兵士は捕虜よりも自決を指示され、降伏を選択すれば、不名誉は家族にまで及んだ。5月30日には、前日に峡谷にいた約1,400人の日本人のうち、生き残ったのは28人だけであった。残りの者は戦死したり、手榴弾を胸で爆破して自殺した。日本軍の病院では、負傷者はすべて医師に殺害された。アメリカ軍は約2,351人の日本軍兵士を、アッツ島の集団墓地に埋葬した。アッツ島の戦いは、アメリカ軍にとり硫黄島に次いで、太平洋戦争で2番目に高い死亡率を出した。アッツ島での犠牲者数は、日本軍兵士は約2351人死亡し、捕虜は約28人であった。アメリカ軍は、約549人死亡し、負傷者は約1148人、1200 重度の低温障害者が約1200人、疾病に約614人が罹患した。