2022年1月31日月曜日

第二次世界大戦のウクライナ戦線にて、ソビエト軍兵士らは塹壕の底に放置されたドイツ軍兵士の死体を見下しながら侵攻した。

1944年6月22日からソ連軍のバグラチオン作戦にて、東部戦線においてソ連軍兵士がドイツ軍の陣地を突破した。ウクライナ戦線にて、ソビエト軍兵士らは殺害したドイツ軍兵士の死体の隣を通り過ぎた。ドイツ軍が造設していた塹壕の底に放置された死体を見下しながら侵攻した。

 1944年6月22日、ナチス・ドイツ第三帝国との戦いにて決定的な戦いが勃発した。戦場はノルマンディー後に、何千キロも東に離れたベラルーシから始まった。それまでに西部戦線では、連合軍は6月6日にノルマンディ上陸作戦が決行された。

 バグラチオン作戦は、ソ連軍にとって決定的な勝利となり、ドイツ本国への最終攻撃に向けて万全の態勢を整えた。ソ連軍は、わずか23日間で約400kmから500km、1日平均で約20kmの距離を西方に侵攻した。ドイツ軍の損失は、死者約38万1,000人、捕虜約15万8,480人で、スターリングラード攻防での犠牲をはるかに上回った。ソ連軍兵士は、その代償として、死者・行方不明者は約180,040人、負傷者・病人は約590,848人を失った。

 8月20日から、ソ連軍はウクライナ戦線で、ドイツ軍の南ウクライナ軍に対し、2方面からの攻撃を開始した。連合軍はドイツ軍の側面を守ったルーマニア軍を素早く撃破した。8月23日までに、ドイツ軍は集結した2つのソビエト戦線に包囲された。ルーマニア軍に対するジャシー・キシネフ攻防戦となった。1944年8月になると、ドイツ軍は東部戦線で本格的な危機を迎えた。ソ連軍の4つの戦線によりドイツ軍は激突して完全に解体された。ドイツ軍は全滅して奔走して撤退した。

  第二次世界大戦の東部戦線は、最大かつ最も血なまぐさい戦場となった。ドイツ軍は戦死者の約80%を東部戦線で損失した。東部戦線での陸戦は、第二次世界大戦の他のすべての戦場を合わせた犠牲よりも多い。東部戦線の戦争の残忍な虐待と虐殺は、両陣営が頻繁に故意に人命を軽蔑したことを実証した。戦争の極端なイデオロギーにも反映されて、2つの正反対のイデオロギーが激しく対立した。

  ロシア軍は2022年から、ウクライナに対して21世紀のバグラチオン作戦を決行する恐れがある。プーチンは、ロシアが2014年3月からクリミアを占領し、ウクライナに対する歴史的な権利があると主張した。ウクライナは、1991年12月に崩壊したソビエト連邦の一部でありロシアの崩壊の産物と述べた。ロシア人とウクライナ人を一つの民族と叫んだ。 




2022年1月30日日曜日

日中戦争の徐州会戦の前後で、日本軍により目隠しをされた中国人が斬殺されて、枯草の中で死体が田畑上に放置された。

日中戦争にて1938年4月7日に勃発した徐州会戦にて日本軍が徐州を1938年5月19日に占領して終結した。その前後にて、日本軍により目隠しをされた中国人が斬殺されて、枯草の中で死体が田畑上に放置された。

  南京攻略戦前後から徐州作戦に参戦した日本軍兵士が毎日日記を記載して写真も添付した。日本軍兵士たちが中国人を見境なく殺戮していた(中国戦線、ある日本人兵士の日記)。日本軍兵士が中国戦線では、平然と中国人から略奪して虐殺した。日本軍幹部からの命令で日本軍兵士たちは、中国人に対する虐待と虐殺の執行者となった。日本軍第16師団第9連隊第32大隊第9中隊に所属して、日中戦争の上海戦、南京攻略戦、徐州作戦から武漢三鎮の軍事占領まで、日中戦争前半の大作戦のすべてに従軍した。日本軍は、「皇軍兵士は捕虜になるな」の思想であり、中国軍兵士の捕虜として直ちに殺害した。捕虜の中国軍兵士を日本軍が虐殺した写真を撮って、日記に添付した。

  日本軍は4月7日に勃発した徐州会戦から5月19日の徐州を占領した。徐州会戦後に、戦争で荒廃した街では、中国人に対する虐待と虐殺が頻発した。陳中硬の証言では、徐州を占領した時、日本軍兵士の虐待や虐殺を恐れて住民は逃避した。日本軍兵士は、子供が軍服を着て、家族も軍服を着た集合写真から、日本軍兵士はスパイと容疑して、その家族を虐殺した。潜伏していた数十人の中国人と家々を放火した。日本軍は村に侵入して、麦畑で数十人の家族を虐殺した。残存者を家々に集めて鍵をかけて放火した。日本軍兵士が街中で十数人を逮捕し、約6人を袋に入れて川に投げ込んだ。徐州が占領した当時は、戦争で衛生状態が悪く、猛暑で多くの人々が下痢をして、コレラ容疑として虐待と虐殺した。

 山東省最南端の台児荘の戦いで中国軍に4月7日に敗北してから、日本軍は徐州会戦を勃発するも、徐州の約60万人の中国軍に包囲された。中国軍が大規模な反撃をする前に、より多くの人的資源を投入した日本軍は、大規模な中国軍を撃破した。日本の北支那方面軍と関東軍が北方から、日本の中支那遠征軍が西方から徐州を攻撃して、南方から鉄道を援軍が登って約21万人に及んだ。中国軍は数的優位であったが、増強した日本軍の攻撃に直面して、1938年5月19日に中国軍を維持するために徐州を放棄した。数的劣勢である日本軍は徐州を包囲できず、中国軍のほとんどは西方へ撤退して田舎でゲリラ戦を続けた。徐州会戦いが終結して、日本軍は約3万人の死傷者を出し、中国軍の死傷者数は約10万人に対した。日本軍は中国軍よりもはるかに少ない死傷者で徐州を占領いるも、包囲されずに集結した中国軍は徐州から退避していた。




2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

  中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)































14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。

2022年1月28日金曜日

ニューギニアのラム渓谷を侵攻中に、オーストラリア軍兵士らは日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破して、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

太平洋戦争のニューギニアの東部の戦いにて、1943年11月22日にオーストラリア軍がラム渓谷を侵攻中に、日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破した。オーストラリア軍パトロール隊の兵士らは、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

 オーストラリア軍は、ニューギニアの戦いで1943年10月から日本軍が建設した道路をを逆にたどってラム渓谷まで侵攻した。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山脈を守る日本軍と戦闘を重ねた。シャギーリッジでは守備する日本軍が頑強に抵抗し激戦となった。オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させて、日本軍部隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山脈から撤退させ、マダンの日本軍陣地の手前まで迫った。残存した日本軍兵士が疲れきり、物資の欠乏にあえいで栄養失調となり、多くの日本人が路傍に倒れた。

  オーストラリア軍は10月10日に、尾根の南端にあるバート・ポストを占領して最初の陣地を確保した。その後、1944 年1月まで尾根上での戦闘に参加した。尾根は急斜面で狭く、狭い山頂に沿って攻撃するしかなった。日本軍は、尾根の主要な山地であるグリーンピナクルに陣地を残存していた。10月23日にこのグリーンピナクルを占領して、11月には少戦闘で過ぎたが、12月8日に日本軍は反撃に出て、ラム渓谷のオーストラリア軍陣地を攻撃した。その最大の攻撃は12月12~13日の夜に行われたが、日本軍はその後には出発点に退却した。

 マーカム峡谷、ラム峡谷、フィニステール山脈での各戦闘は、第二次世界大戦のニューギニア作戦における一連の戦いの一つである。連合軍は両渓谷を占領するために、1943年9月19日~20日にカイピットを占領した。カピピットの生い茂った飛行場はすぐに撤去して、マーカム渓谷からラム渓谷の下流域に向けて侵攻した。連合軍の戦闘は、1943年9月19日のラム渓谷に対する連合軍の攻撃から始って、1944年4月24日に連合軍がマダンを占領して終結した。これらの戦闘中に、オーストラリア軍はアメリカ軍の戦闘機の支援を受けてマーカム渓谷とラム渓谷に侵攻した際に、日本軍とは小規模な戦闘となり、日本軍はフィニステール山脈の防衛線に向けて撤退した。オーストラリア軍とアメリカ軍は約204人が戦死して、約464人が戦傷した。日本軍は、約800人が戦死して、約400人が戦傷した。




 

2022年1月27日木曜日

ソビエト連邦下の女性たちは、ナチス・ドイツ軍が侵攻して1943年に虐殺した人々の中に、愛する人の死体を発見して慟哭した。

ソビエト連邦下の女性たちは、ナチス・ドイツ軍によって侵攻された1943年に虐殺された人々の中に、愛する人の死体を発見した。彼女らは、語り尽くせないほどの苦悩をして慟哭した。犠牲者の生前を偲び、死を悲しみ追悼した。民間市民は、ファシストによるテロの犠牲者となった。

 ドイツ軍がウクライナのハリコフ市を1941年10月24日に占領した直後に、市民に対して恐怖政治を開始した。初日には約116人が捕らえられ、市内の路上で吊るされた。ドイツ軍は無差別に容疑者を捕獲して、処刑した。死刑はハリコフ市街の中心部の通りの広場で、公開して執行された。絞首刑して吊るされた者の死体は何週間も吊るされた。地元市民を恐怖で威嚇した。1941年11月にドイツ軍のハリコフ司令部が、ソ連製のラジコン地雷で爆破された。その後に、ウクライナ人の処刑が再び繰り返され、数十人が絞首刑にされた。ドイツ軍にウクライナのハリコフが占領されてから数週間後に、ハリコフ市内のユダヤ人をトラクター工場の兵舎に強制連行が始まった。1941年12月からユダヤ人、ロマ、その他の国籍の膨大な市民がハリコフの郊外のドロビツキー・ヤールで銃殺された。同時期の12月には、サブールキの精神病院の患者約400人が郊外に連行されて、射殺された。

 ハリコフでは、ドイツ軍が毒ガスを放出して、不適格者を排除して駆除して死滅する機械であるガスワーゲンを使用した。そのドイツ軍の毒ガス操作の運転手は、1943年12月にソ連の裁判所で有罪判決を受け、死刑を執行された。ハリコフでのドイツ軍は残虐行為が際立っていた。子供シェルターを作り、多くの10歳以下の子供たちが意図的に飢えさせ、子供の身体が衰弱した後に、ドイツ空軍のパイロットに輸血するために、「飢えた」血液が採取された。死んだ子供の人数は不詳であるが、数百人は想定された。

 ソ連軍兵士の捕虜も異常なほど残酷に処分された。1943年3月の第2次ハリコフ攻撃では、コールドマウンテンの強制収容所で数千人が殺害された。負傷した数百人のソ連軍兵士は、ナチス・ドイツの親衛隊は生身でソ連軍兵士を焼却した。1941年の夏には約100万人近くいたハリコフの人口は、わずか2年間のナチス・ドイツ軍の占領により、1943年秋の時点で合計20万人ほど激減した。ハリコフ裁判が、1943年12月15日から12月18日までソビエト連邦のハリコフの軍事法廷で開廷された。ソビエト軍が初めてナチス・ドイツ軍兵士の戦争犯罪であるハリコフ裁判を執行して、秘密警察3人を死刑に処した。



2022年1月26日水曜日

太平洋戦争で硫黄島の海岸には、日本軍に上陸して殺害されたアメリカ軍兵士の死体と物資が至る所で火山灰の砂浜に散乱した。

1945年2月19日からアメリカ軍は、硫黄島に上陸して侵攻した。硫黄島の海岸の砂浜には、上陸したアメリカ軍兵士の死体と物資が散乱した。アメリカ軍兵士の凄惨な死体が砂浜の至る所に倒れた。硫黄島への最初に上陸して死亡したアメリカ軍兵士の死体が、車両や船の残骸に囲まれた火山灰の中に横たわった。火山性の砂に埋もれ、容赦ない砲撃を受けていた上陸用舟艇から飛び降りた。彼が最初に目にしたのは、仰向けに倒れ、口から血を流している仲間のアメリカ軍兵士だった。火山性の粗い砂が人と機械の動きを妨げ、彼らは必死になって浜辺に上がっていった。 海兵隊の前進を可能にするために海軍の砲撃がおさまると、日本軍は地下の要塞から出てきて、侵攻部隊に対して激しい砲撃を開始した。

 2月19日の午前10時過ぎに、アメリカ軍は海岸に約9,000人と物資で埋め尽くした。突如に日本軍の機関銃や迫撃砲、重砲などあらゆるものがアメリカ軍が混雑した浜辺に降り注ぎ始め、瞬く間に悪夢のような血の海へと変貌した。火山灰では人を寄せ付けない地形のために、日本軍の攻撃に対する防御が困難となった。火山灰のために、足場を確保することも、日本軍の攻撃からアメリカ軍を守るための塹壕も作ることが困難であった。最大の混乱と死傷者を出すために、硫黄島に上陸した地点でアメリカ軍兵士で埋まり、完全に露出してから、日本軍は攻撃した。最初に上陸した先頭部隊のアメリカ軍兵士が、浜辺から隔てられている低地の段丘を登り始めた時点で突如に日本軍から攻撃された。砲兵隊、ロケット弾、迫撃砲、機関銃、ライフル銃などの弾丸が、南と北の高台からの銃火器から身を守れないアメリカ軍兵士たちに降り注いだ。射撃陣地は他の射撃陣地に完全に通じて、射撃の層は潜伏した。多くのアメリカ軍兵士は、隊員全員が倒れるほどの爆発的な火の粉の中で殺害された。

 日本軍兵士はどこにでもいるのに、日本軍の姿がほとんど見えなかった。火山砂の急斜面をじりじりと登り、その下の砲弾の穴に身を寄せた。バンカーは精巧なトンネルシステムに接続されて、火炎放射器と手榴弾でクリアされたバンカーは、トンネルを移動する日本軍によりすぐに再占領された。アメリカ軍は射撃を予期せずに、再占領された掩蔽壕を通り過ぎたため、多くの死傷者を出した。上陸後3日目の犠牲は、すでに膨大なものとなった。アメリカ軍兵士は約2,300名の死傷者を出し、そのうち約558名が死亡した。3月26日までの約36日間の攻撃で、6,800人の死者を含む約26,000人以上のアメリカ人が犠牲になった。約2万人の日本軍兵士のうち、生き残ったのは1,083人だった。




2022年1月25日火曜日

ソ連軍兵士は、殺害して地面に転がるドイツ軍兵士の死体を傍らに、ベルリン市街戦では建物と建物の間で迅速に掃討した。

ソ連軍が首都ベルリン市街に侵入すると、戦闘は熾烈を極めた。ソ連軍兵士は、殺害して地面に転がるドイツ軍兵士の死体を傍らに、ベルリン市街戦で迅速に掃討した。街は廃墟と化し、道路には瓦礫が散乱して、戦車はほとんど機能せず、戦闘の多くは徒手戦、建物と建物の間で行われた。老人や少年を含むドイツ軍の守備隊が、約2週間にわたり必死になって戦った。ドイツ軍兵士の多くは病人や負傷者、栄養失調で、兵士が不足して、少年や老人も含めた。ドイツ軍の降伏する前日の5月1日の夜に、残存していたドイツ軍兵士のほとんどが、ベルリンから脱出して西部戦線に逃げ込もうとしたが、脱出できた者はほとんどいなかった。

 1945年4月16日から、ソ連軍はアドルフ・ヒトラーと第三帝国に対する最後の攻撃を始めた。ソ連軍が東部戦線から首都ベルリンに向けて攻撃した。地下壕に隠れている総統を執拗に追い詰めるソ連軍に、ベルリンは飲み込まれた。ヨーロッパの首都の中でも、美しく近代的で歴史的であるベルリンは瓦礫と化し、ソ連軍兵士はドイツ女性を集団レイプの対象として、企業や商店を略奪して、ベルリン市民を路上で殺害した。アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国民のために命を捧げると公言しながら実行しなかった。ゲルマニアの巨大なドイツ帝国を支配すると夢見て、地図上で架空の軍隊を動かした。4月30日にヒトラーは遺書を書き、長年の愛人であるエヴァ・ブラウンと結婚した後に、一緒に帝国首相官邸の地下壕で自殺して、二人の死体は首相官邸の庭で焼かれた。彼の死後にも、ナチス・ドイツのラジオはヒトラーが戦死したと隠蔽して報じた。1945年5月2日に、ソ連軍が占領されたベルリンにいたドイツ軍の将軍たちは、ソ連軍に降伏した。ベルリンの戦いによる人的被害は甚大で、ソ連軍兵士は約8万人以上の死者を出して、ドイツ軍の犠牲者は約5万人と約30万人以上のベルリン市民が、ベルリンの廃墟の中で殺害された。ナチス・ドイツの強制収容所では約1,100万人、連合軍と枢軸国との第二次世界大戦で、全世界で約6,000万人以上が殺害された。 

 連合軍の1944年6月6日のノルマンディー上陸から約2週間後に、6月22日からソビエト軍はドイツ軍に追撃を開始して、10月16日に、ソ連軍はドイツとの国境を越えた。ソ連のジョセフ・スターリンは、軍事力を誇示して、アメリカ軍よりも先にベルリンを征服を目指した。1945年4月16日から、近郊のオーデル川沿いからソ連軍はドイツの首都ベルリンに対する最終攻勢を勃発した。挟み撃ちにしてベルリンを包囲した。ベルリンへの迅速な突破を試みて、ベルリンの東約70kmに位置するシーロー高地を通過するのに4日間かかり、多くの犠牲者が出た。4月21日に、ソ連軍の最初の部隊がようやくベルリンに侵入した。ソ連軍は、ドイツ軍の必死の抵抗に直面した。西側の連合国は1945年4月16日から空爆を中止した。ソ連はベルリンでの地上攻撃を支援するために4月20日から空爆を続けた。1945年5月2日に、ベルリン守備隊はソビエト軍に降伏した。




2022年1月24日月曜日

第5次イゾンツォの戦いで、イタリア軍とオーストリア軍が激戦となり、オーストリア軍は初めて高濃度の毒ガス攻撃して、峡谷のイタリア軍兵士が毒殺された。

1916年6月29日に、イタリア北部のカルソ地方のサンミケーレ山周辺の第5次イゾンツォの戦いで、イタリア軍とオーストリア軍が激戦となった。オーストリア軍は初めて高濃度の毒ガス攻撃して、峡谷に位置するイタリア軍兵士が毒殺された。オーストリア軍の爆撃、煙、大量のフォスゲン毒ガスの化学兵器の弾幕が、マスクも装着できないイタリア軍兵士を殺害して崩壊させた。前線にいたイタリア軍兵士は、ガスマスクもつけず、睡眠している兵士はほぼ全員が死亡した。ガスマスクを装着したオーストリア軍が追撃した。イタリア軍は約6,900人、オーストリア軍は2,000人を損失した。

 第一次世界大戦中の1915年、サン・ミケーレ山はイタリア軍とオーストリア軍の激しいイゾンツォの戦い(Battle of the Isonzo)の戦場となった。イゾンツォの戦いは、イタリアとオーストリアの境界にスロベニア西部からイタリア北東部にかけて流れるイゾンツォ川周辺で行われた複数の戦いである。イタリア王国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍が衝突した。イゾンツォ川(1915年5月13日から1917年10月27)の犠牲者は、イタリア王国軍は約645,000人、オーストリア・ドイツ帝国軍は約450,000人が死傷した。

 1915年5月13日に、イタリア王国軍は、未奪還地域の占領を目指してオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告した。イタリア王国は、6月に当時のオーストリア領であったイゾンツォ川流域に進攻したが戦線は膠着して、イゾンツォの戦いでは前後12度にわたる会戦が繰り返された。12度目の会戦となる1917年10月のカポレットの戦いにて、ドイツ軍の参戦を受けたオーストリア軍はイタリア軍を壊滅して遁走させて、イゾンツォ川流域を完全に占領した。イタリアがイゾンツォ川流域を奪回するのは、オーストリア=ハンガリー帝国が1918年に休戦した後の事である。一連の戦いで、約100万人以上のイタリア軍とオーストリア軍兵士が死んだ。

 1917年5月に、イタリア軍は第10次イゾンツォの戦いを勃発するも、カルソ地区でのオーストリア軍の反撃により、一部の地域が再奪還された。イゾンツォの戦いでの連合軍の支援が再び提起されるも頓挫した。イタリア軍は8月17日に第11次イゾンツォの戦を勃発して、ゴリツィアの北にあるバインジッツァ高原の大部分を占領した。長期にわたる膠着により、イタリア軍は9月12日に攻撃を中止した。イタリア軍の攻勢は、オーストリア軍の攻撃を強化して、ドイツ軍が、オーストリア・ハンガリー軍の崩壊を防ぐために、イタリア戦線へのカポレットの戦い(第12次イゾンツォの戦い, 1917年10月24日~12月19日)に参戦した。第一次世界大戦中にイタリア軍の最も悲惨な大犠牲となった。オーストリア・ドイツ軍の攻勢の前に、イタリア軍が撤退した。オーストリア軍とドイツ軍の追撃により、戦意を喪失した約60万人以上のイタリア軍兵士が脱走または降伏した。




2022年1月23日日曜日

ビルマのフーコンの戦いで、中国国民党軍が日本軍を追撃して、陥没した路端には、殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

大東亜戦争にて、ビルマの北部のフーコン谷地(Hukawng)の戦いで、中国国民党軍は日本軍を壊滅して、さらに撤退する日本軍を追撃した。その途上にて、地面が陥没した両側の路端には、中国軍に殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。悪臭の死臭が漂うために、中国軍兵士は鼻をふさぎながら追撃した。アメリカ軍は、中国軍と連携して日本軍を砲撃した。フーコンは、ビルマ語では悪魔が住んでいる場所と呼ばれ、もともと中国雲南省の一部であったが、後にビルマ地域に割り当てられた。ビルマのフーカン谷地がフーカンの戦いの戦場となった。

 1943年10月に、インドに駐留した中国軍は、中印路と石油ルートの占領するために、インドとビルマ国境から侵攻して、キャブマン山脈を越えてビルマ北部の要所を攻略した。一方、日本軍側は、1943年10月23日に対抗してフーコンの戦いが勃発した。日本軍は、荒野の山中という過酷で原始的な環境により、甚大な死傷者の犠牲が出た。遠征した日本軍兵士たちの残骸てなる死体が散乱した。最悪の戦場となった湖江流域では、底なし沼が延々と続いて、いたるところで蚊、瘴気、毒虫、野生動物などが、日本軍兵士に侵入した。日本軍の退路となったビルマの最北端の渓谷では、悪天候による雨季の鉄砲水による低地の平野につながる湿地により渡河が困難となった。木の幹を引っ張って、茂みを這いながら歩行した。山道では下手をすると崖から落下した。何日も毒虫に襲われて、死傷した。食料が不足して、栄養失調となり衰弱して餓死した。日本軍側は、中国遠征軍から約12キロ離れた湖江流域を占領していたが、この地域の日本軍は、数々のフーコンの戦いの末に全滅した。

 大東亜戦争にて、日本軍は1942年5月から中国と国境を繋ぐビルマを占領した。中国軍は、ビルマから中国に通じたイギリス軍やアメリカ軍からの補給を断たれた。日本軍は、1943年3月にはさらにビルマの多方域を占領するビルマ方面軍を編成した。1943年10月に、日本軍はビルマと国境を介する雲南方面に侵攻した。不意に10月23日に、中国軍とアメリカ軍が、ジャングルが密集したフーコン谷にて、日本軍に襲撃した。連合軍による攻撃と砲撃により、日本軍は甚大な犠牲を伴った。日本軍は、ジャングルのフーコン谷地から平地のマインカン地域に撤退した。1944年1月13日には、退路を突破した日本軍は犠牲を伴って、2月中にマインカン地域まで撤退した。3月5日には、崩壊しながらワローバン地域にまで撤退した。その悲惨な戦況下で、日本軍は3月8日から、無謀にもインド北東部のインパールに侵攻して7月3日に壊滅した。




2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日に後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。




2022年1月21日金曜日

連合軍によるドレスデン空襲による無残な丸焦げで黒化したドレイデン市民の焼死体が空爆された残骸の中に散乱した。

連合軍によるドレスデン空襲による無残な丸焦げで黒化したドレイデン市民の焼死体が空爆された残骸の中に散乱した。ドイツ軍の捕虜たちが生存者を捜索するも、約1,000人が収容された空襲シェルターでも生存者も生の死体もなく、骨が突き出た緑褐色の液体だけであった。避難した地下室では、爆発に次ぐ爆発して多くの人が重度の火傷や外傷をした。死者や瀕死の人は踏みつけられて、燃え盛る道路、落ちてくる廃墟、恐ろしい火の海になった。焼死した大人が小さな子供の大きさになり、家族全員が焼き殺され、死体の腕や足の断片が散乱した。どこもかしこも火の海で、その間中で、火災嵐の熱風が民間市民を焼けた家の中に閉じ込めた。子供は弧を描いて火の中に飛んで入った。酸素不足により、次々と窒息死した人々が地面に転倒した。近所の空襲シェルターに逃げ込み、後ろも前も全部燃えて、地下室の酸素が無くなり、窒息死した。焼かれ、火葬され、引き裂かれ、押しつぶされた状態で埋葬された。死体は火炎の竜巻により、ほとんど裸にされた。犠牲者は形のない板状であり、亜鉛製の桶にかき集められて灰の層となった(目撃者の証言)。

  1945年2月13日から15日の連合軍のドレスデン爆撃は、第二次世界大戦の中でも大火災で膨大な市民の人命を失った。4回の空襲で、イギリス空軍の722機とアメリカ陸軍の527機が、約3,900トン以上の高火力爆弾と焼夷弾をドレスデンに投下して、焼夷弾が大量の火災を発生させて、火の海となった。市街地の約40平方kmが焼失した。市街地が燃えれば燃えるほど、酸素が吸い込まれ、火災の勢いが増悪した。最高温度は摂氏990度に達して、道路は溶けて、逃げ惑う人々の足は火傷した。ドレスデンは無防備で、サーチライトもなければ、対空砲も炸裂せず、人工密集地の都市部の民間人が標的となった。連合軍の爆撃は、建物が全壊して、大爆発弾で建物の木組みが露出して、次に焼夷弾で放火して、最後に消火活動を妨害した。空襲が終結してから、近くの強制収容所からナチス親衛隊が連行して、街の旧広場で死体を焼いた。死体の数が多すぎて、火葬の作業には2週間を要した。

 ドイツの公式報告書は、3月22日までに収容された死者の数は約20,204人で、そのうち約6,865人はアルトマルクト広場で火葬されて、死者の総数は約25,000人になると予想した。4月3日の報告書では、回収された死体数は約22,096体とされた。1945年4月30日までに、ドレスデン郊外の3つの市営墓地と17の農村墓地で、アルトマルクト広場の火葬も含めて、ドレスデン空襲による少なくとも約21,895体の埋葬が記録された。進撃するソ連軍から西方へ逃れてきた約10万から約20万人の難民が空襲時に市内にいた。死者のほとんどが窒息死した。ひどく焼かれた死体約4か所が回収された。空襲後に約25,000人が行方不明となった。




2022年1月20日木曜日

ムンダ岬にて破壊された砲台の前で日本軍兵士は爆死して、アメリカ軍は日の丸の日本国旗が腰部に巻いた死体を探索して検死した。

ソロモン諸島のニュージョージア島にある日本軍のムンダ航空基地は、地上戦に先立ち、1944年8月20日にアメリカ軍の激しい砲爆撃を受けた。破壊された砲台の前に日本軍兵士が爆死して死体が散乱した。日の丸の日本国旗が腰部に巻いていた日本軍兵士の死体を1943年8月20日に探索して検死した。ムンダ飛行場の戦い(Munda Point)は、1943年7月22日から8月5日まで勃発して、アメリカ軍兵士は約4,994人が戦死傷して、日本軍兵士は約4,683人が戦死した。アメリカ軍は、ニューギニアで反攻して、ラバウルの日本軍基地を孤立させ、1942年8月7日からガダルカナルと周辺の小島に上陸してソロモン諸島の日本軍に反撃した。

 ニュージョージア島へのアメリカ軍の上陸は1943年6月30日に始まった。さらに7月2日には島の南岸に、7月5日に島の北西岸に上陸した。12の小さな島々は、日本軍の砲撃を受ける狭い水路で隔てられ、珊瑚礁や離島で囲まれて、攻略は困難を極めた。同時期に内陸部への侵攻は、ジャングルの荒れた地形と日本軍の猛烈な抵抗のために、すぐに遅延した。熱帯性の暑さ、病気、疲労に加えて、延々と続く日本軍兵士のバンザイ突撃により、日本軍は大量の戦死者を出しながら、アメリカ軍は疲れて震え上がった。日が経つにつれて、日本軍は夜間突撃も巧妙になり、アメリカ軍を意図的に不安に陥らせた。公式報告書では、アメリカ軍の野営地に、日本軍兵士が夜間に突撃すると、非常に大きな混乱、発砲、刺殺があった。アメリカ軍と日本軍の兵士が互いにナイフで刺し合う者もいた。暗闇の中でやみくもに手榴弾を投げる者もいた。手榴弾の中には木に当たって跳ね返り、アメリカ軍兵士の間で爆発した者もいた。アメリカ軍兵士の中には、何度も何度も銃を撃つ者もいた。多数の震えたくぼんだ目の兵士は後に戦争神経症と診断された。朝になっても、日本軍兵士の死傷者の痕跡は残っていなかった。しかし、アメリカ軍の死傷者は残存して、刺されて死んだ者もいれば、ナイフで負傷した者もいた。多くのアメリカ軍兵士が手榴弾による戦傷を負い、そのうち半数はアメリカ軍の手榴弾の破片によるものだった。戦闘の疲労はすぐに蔓延して、島の南西端にあるムンダ飛行場への侵攻は停滞した。

  7月25日に、アメリカ軍は、戦車、砲撃、空爆、艦砲射撃を受けながら、新たな侵攻を開始した。日本軍兵士はココナッツの丸太を太い珊瑚で補強した塹壕に入って、必死に抵抗していた。アメリカ軍の戦車は、防衛軍によって撃ち落とされ、火炎放射器を持った男たちを狙撃兵が狙い撃ちしていた。また、日本軍は夜になるとアメリカ軍の前線に侵入し、時には壕を奪い返して、兵士たちに何度も追い出させることもありました。まだ未熟で不安定だったアメリカ軍も、火炎放射器により日本軍の砲台を1つずつ消滅していった。迫撃砲や砲兵隊と連携して、日本軍の陣地バンカーを特定し、叩き潰して直接に攻撃した。7月29日に、日本軍はムンダ飛行場前の最終の防衛線に撤退した。戦闘に疲弊したアメリカ軍は侵攻を継続して、ゆっくりとマンダ飛行場を占領した。1943年8月5日に、アメリカ軍兵士は、残存していた日本軍を制圧して、ムンダ飛行場を獲得した。ムンダ飛行場を約2週間以内に再び使用可能とした。ソロモン諸島攻略のための継続的な優勢を提供した。


























2022年1月20日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2022年1月19日水曜日

1963年6月11日以降に僧侶が南ベトナム政権に抗議する焼身自殺をして、人体が身体から火炎が放出して身体は黒く焦げていった。

1963年6月11日以降の数週間で、南ベトナムでは約10人もの僧侶が南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に抗議する焼身自殺をした。首都サイゴンにて、僧侶の人体が身体から火炎が放出して、徐々にしなびれてしぼんでいき、身体は黒く焦げていった。周囲には人体の肉が焼ける匂いが立ち込めた。人体は驚くほどあっという間に焼け焦げた。焼身自殺して正座して身体を屈めた僧侶の死体に、集まったベトナム人たちが拝みながら取り巻いた。焼けている途中で、僧侶は身体を微動だにせず、うめき声も挙げなかった。背筋をまっすぐに屈曲した姿勢は、周囲に集散した市民らとは対照的であった。1963年代半ばから1971年にかけて、アメリカ軍がベトナムに駐留するようになると、ベトナム戦争に反対した僧侶の焼身自殺が増えて約100人の焼身自殺があった。ある1週間で13人もの僧侶が焼身自殺をした。

 僧侶の焼身自殺の起点となったのは、1963年6月11日にティック・クアン・ドック(66歳)が焼身自殺をした。サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らにガソリンをかぶせて焼身自殺した。当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権は、ローマ・カトリック式の統治を強要して、仏教徒に対する高圧的な弾圧に抗議した。僧侶の支援者たちが拝跪する中で、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続けて、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿が、画像を通じて世界中に放映されて、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな衝撃を与えた。1963年11月2日に発生した軍事クーデターにより、ゴ・ディン・ジェム大統領と秘密警察長官は、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。

 焼身自殺(Self-immolation)とは、自分の身体を自分で焼いて自身を焼死させ、自殺することである。しばしば政治的、あるいは倫理的な抗議として特に言論の自由の無い、または制限されている状態下で行われる。仏教やヒンドゥー教では、焼身自殺は、何世紀にも行われてきた。サティー、政治的抗議、離婚、絶縁などさまざまな理由がある。キリスト教やイスラム教は焼身自殺は禁忌の一つとされる。最後の審判の日まで自らの肉体は土葬などの手段により、死後も適切に保全された状態とする宗教である。焼身自殺して一命を取りとめた後は死ぬより辛い痛みが待ち受けている。2010年12月18日に露天商のモハメド・ブアジジがチュニジア政府に抗議した焼身自殺がアラブの春を発火させた英雄から、逆に民主化の後退で批判と中傷の対象になった。




2022年1月18日火曜日

硫黄島の戦いで、多数のアメリカ軍兵士の死体はタンカ上でポンチョで覆った。多数の日本軍兵士は、塹壕の中に投げ入れ埋めた。

硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。太平洋戦争の硫黄島の戦いが終結した後に、それらの死体群をアメリカ軍兵士の埋葬版が検死をしながら鑑別した(上)。各々の死体から、識別番号と私物をアメリカ軍の埋葬部隊が検証して回った。硫黄島の北端に散在していた日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた(下)。ひどく壊れた死体は、多くは体が真っ直ぐに切断されて、脚と腕は身体から約15mも吹っ飛んだ。迅速な埋葬が必要であり、特に温暖な天候では、衛生上の理由から非常に重要であった。死体から死臭の腐敗臭はほとんど耐えられなかった。

 硫黄島の戦いは1945年2 月19日から3月26日まで、アメリカ軍の占領で幕を閉じた。硫黄島は戦闘の終結後には、まるで死の谷のように死体が残存していた。火薬が残り、戦争跡が残り、足元には死体が散乱した。硫黄島の日本軍兵士はほぼ全滅して死亡した。アメリカ軍は硫黄島の占領で多大な代償を払った。戦闘の最初の3週間でのアメリカ軍兵士も日本軍兵士の死傷者のほとんどは、迫撃砲、大砲、地雷、手榴弾、ロケット爆弾などの高爆発物により、弾丸や迫撃砲は、どこからともなく飛んできて命を奪う。洞窟やブロックハウスに出くわした日本軍兵士をすべて撃ち殺し、焼き殺した。洞窟を覗き込み、戦闘員はいないと確信する。死んだはずの日本軍兵士が背後で再び生き返ったとき、突如に襲撃を受けた。孤立した洞窟の中で戦って、その下には広大なトンネルがあった。

 硫黄島のいたるところに死体が転がっていた。葬式にも出たことのない青年兵士たちは、死んだ仲間を転がしていくことに慣れていった。生き生きとした青年兵士たちは、死を積んだトラックから死体を降ろす埋葬の仕事をした。硫黄島から生存したアメリカ軍兵士たちは、船出して、白い十字架の墓とダビデの星の列を見えたことを覚えている。硫黄島の地下にはまだ約6,000人以上の日本軍兵士の死体が埋葬されている。最近に約260人が発掘されたが、中には硫黄ガスでミイラ化した死体もあり、眼鏡が鼻の上にまっすぐに置かれて、頭髪も残っていた死体もあった。

 硫黄島の戦いが1945年3月26日に終結した時には、アメリカ軍は硫黄島内で約20,703人の日本軍兵士の死体を者を数えて、約216人の捕虜を拘束していた。しかし、それからの約2ヶ月間も、硫黄島のアメリカ軍は日本軍の残党兵士と何度も遭遇した。終結後から終戦までに、日本軍兵士は、さらに約1,602人が死亡して、約867人が捕虜となった。太平洋戦争が終結した約3年後の1949年1月6日に2人の日本の残留日本兵が島の洞窟とトンネルに潜伏して最終降伏した。

 アメリカ軍の死傷者数は、資料によって若干異なる。硫黄島の戦いで約6,812人のアメリカ軍兵士が戦死あるいは行方不明となり、約19,189人が負傷した。死傷者の内訳は、戦死者数は約4,917人、戦傷による死亡数は約1,401人で、行方不明は約494人と表記された。硫黄島の戦いは、アメリカ軍兵士には最も血なまぐさい戦いとなり、太平洋戦争において、アメリカ兵士の死傷指数が日本軍側の戦死者数を上回った唯一の戦闘であった。特に上陸してから3日間のアメリカ軍兵士の死傷者数は、アメリカ軍の軍事史上最多であった。硫黄島で民間人の死傷者はなかった。











硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。























日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた。

2022年1月17日月曜日

1893年2月1日にテキサス州パリスで、アフリカ系アメリカ人のヘンリー・スミスは、何千人もの大観衆の目前で、リンチを容認する自人集団により公開火刑された。

1893年2月1日にテキサス州パリスで、アフリカ系アメリカ人のヘンリー・スミスは、何千人もの観衆、都市の指導者、民間企業の目前で、リンチを容認する自人集団により公開火刑された。ヘンリー・スミスが熱い鉄の棒を体の上や足の裏に転がされて拷問をして火刑を執行した。約330平方メートルの敷地に約5,000人から約15,000人の大観衆が詰めかけてリンチを見学した。捕獲されたスミスは、ラバの荷車で町中を運ばれた。リンチでスミスがうめき声を上げるたびに、体をゆがめるたびに、大群衆が喝采した。

 娘ヴァンスを殺害の容疑者スミスは、警官の父親ヘンリーと15歳の息子、義理の兄弟によって縛られ、処罰と掲げた木製の足場の上から約50分間拷問された。彼らはスミスを杭に縛り付けた。足元には、焼印を加熱する熱い石炭の入った缶を踏ませた。スミスの告白文を読み上げた後に、スミスを拷問にかけた。男たちは焼印を手に取り、スミスの足の裏を焼き、目に届くまで体に沿って転がして、スミスは沈黙を破り、体をゆがめて長く続く苦悩の悲鳴とうめき声が空気中に響き渡った。目をえぐり出した。舌は切り落とされ、性器も切り落とされた。まだ生きているスミスに、体に灯油をかけて染み込ませた綿棒で火をつけた。火の強さで下肢が先に焼かれ、ロープが焼け落ち、切断された腕が視力のない目を拭こうとした。足場が崩れ、スミスは炎から逃れようとして転げ回った。群衆が足でスミスを焔の中に押し戻して焼死した。リンチ後に、観衆は黒焦げの死体の一部を持ち帰り、土産物屋は焼け跡から骨を探し出し、プロの写真家はポストカードとして売るための写真を撮った。

 アメリカでは18世紀から19世紀半ばまでは、人種的リンチではなく、理論家、馬泥棒、賭博師、奴隷制廃止論者などが対象であった。しかし、1880年代から、暴徒の虐待と虐殺はますますアフリカ系アメリカ人に向けられた。1882年から1964年の間に、約5,000人の人々がリンチで虐殺され、大半はアフリカ系アメリカ人であった。1890年代から、アメリカ史上最悪のリンチの時代となった。1893年2月1日のスミスのリンチは、ニューヨーク・サン紙に、テキサス州パリスで、白人少女の殺害を告発された黒人男性スミスが火刑された悲惨な記事を掲載した。リンチを目撃、余波を垣間見ることは、白人からリンチの対象になりやすいアフリカ系アメリカ人の若い男性にとって、恐怖の体験となった。リンチの脅威は、南部の黒人を弾圧する悲惨な手段となった。