ラベル 子供 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 子供 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年4月23日土曜日

世界初の原子爆弾が炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。

世界初の原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。無差別な原爆投下により約8万人が即死して、広島市内のほぼすべての建物等が破壊または破損した。

 広島原子爆弾により両親を亡くした孤児は約2,000人とも6,500人と推定された。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らした。1947年末に、広島市周辺には5施設の孤児院が設置された。孤児院は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が困難であった。

 1949年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆であったノーマン・カズンズ(1915~1990)は、被爆の惨状を視察して、広島戦災児育成所で原爆孤児に強烈な衝撃を受けた。カズンズはアメリカに帰国後、「4年後のヒロシマ」と題する記事を公表した。原爆孤児をアメリカ人の養子・里親を呼びかけた。孤児の「道徳的里親」を希望する多数のアメリカ人が名乗りをあげた。1950年1月に、戦災児育成所の児童71人が養子になった。その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に拡大した。1950年だけでも約233人の養子縁組が成立した。

 アメリカからの支援金は約8,000ドルに達した。広島市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立して、資金の配分や養子縁組の仲立ちした。1953年には最高の409人に達した。1955年頃から減少して、1958年には終結した。8施設で490人あまりの児童が、養育資金の支給を受けて、社会人に成った。カズンズは来日して養子・里親たちとの交流を深めた。日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こす契機になった。




2022年3月18日金曜日

1992年12月にカンボジアのコンポントム州ストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃により、カンボジア人の少年は大量出血して、若者が抱えて病院に搬送するも死亡した。

1992年12月にカンボジアのコンポントム州のストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃に巻き込まれて、カンボジア人の少年は大量出血して重態となる。ストーン郡の青年たちが、至急に両手で担いで病院に護送した。病院に着いた直後に絶命して死亡した。突如に砲撃が炸裂した後に硝煙が立ち込み、大量出血した少年が倒れ込んだ。意識を消失した少年は、鼻と口から出血して、胸部から血液が流出した。少年の母親が近寄って叫び声が響いた。その付近にいた若者が、少年を抱えて病院に搬送するも死亡した。1993年3月3日と5月20日にも、ストーンは共産主義のクメール・ルージュから激しい侵攻を受けた。コンポントム州の戦場では、日本の高田警視が虐殺され、日本人ボランティアの中田厚仁も殺害されたが、極秘に扱われた。カンボジアでは、パリ和平条件である停戦は頓挫して、武装解除されなかった。

 カンボジアのコンポントム州は、ポル・ポトの出身地であり、その軍隊であるクメール・ルージュが潜伏して、政府軍と猛烈な戦闘が勃発していた。コンポントムから約50mのストーンでは、政府軍、ポル・ポト派のクメールルージュ・ラナリット派のアンキが激突した。ストーン郡の周辺地域には、地雷が散在して、吹晒小屋内には骸骨や人骨が積み上がっていた。砲撃や襲撃しながら、地雷を埋めた。その状況下で、1992年2月に設置された国連暫定統治機構(UNTAC)の46カ国のPKO活動する文民警官が選挙権の有資格者の登録を継続した。1993年5月に総選挙、7月に暫定政権、9月には憲法が採決して、明石康は合法政権を樹立して、国連事務総長のガリはUNTACを終結した。

 1990年6月に、カンボジアの各派閥は、民主的な選挙の実施を促進するために新しい最高国民評議会を設立し、国連が監督する停戦に合意した。11月にシアヌークはカンボジアに帰国した。ポル・ポトは国境沿いのパイリン付近に新たな本部を設置し、クメール・ルージュに対し、カンボジアの村々で支持を得る努力を求めた。6月には、サムパンが以前の合意に反して、ベトナム兵がカンボジアに残る間は武装解除しなかった。クメール・ルージュはカンボジア国民連合党を結成するも、3月にポル・ポトは投票をボイコットした。1993年5月の選挙では、ノロドム・ラナリッドが第1党、フン・センのカンボジア人民党は2位であった。シアヌークは両党の連立政権樹立を交渉し、2人の首相を置く制度を導入した。8月までにプノン・チャットを占領し、ポル・ポトはタイに逃亡した。クメール・ルージュは反攻を開始し、1994年5月までに領土の多くを取り戻したが、1996年末までに、クメール・ルージュはカンボジア内陸部のほぼ全ての領土を失い崩壊した。




2021年8月29日日曜日

パレスチナ人の男の子が、2003年にガザ地区のイスラム教のモスクにお祈りの帰路に、イスラエル軍の爆撃に殺害されて葬儀された。

パレスチナ人の男の子が、2003年にガザ地区のイスラム教のモスクにお祈りに行った。その帰路において、イスラエル軍の爆撃に無差別に巻き込まれて死亡した。爆死死したパレスチナ人の男の子の死体の周りを、両親とパレスチナ人らが取り囲んで葬儀をして悲しみに包まれて慟哭した。イスラエル軍が占領した地域では、抵抗するパレスチナ人を逮捕して収容して、略奪から虐待や虐殺した。

 1987年12月8日にパレスチナのイスラエルが占領したガザ地区にて、パレスチナ人によるイスラエルに対する抵抗運動である第一次インティファーダが勃発した。イスラエル人のタンクローリー車とパレスチナ人の車が衝突した。つもり溜まったストレスから、12月9日からジャバリア難民キャンプから抵抗運動が巻き上がり、さらにヨルダン川西岸の占領地域にも抗議運動に初めて拡大した。パレスチナ人女性や子供らもイスラエル軍に対して抵抗運動に参加した。 インティファーダが勃発して、ガザ地区のパレスチナ人が最も厳しく抵抗した。夜間外出禁止令により、夜間の外出が制限された。1988年頃からイスラム原理主義組織であるハマースが拡大するにつれて、パレスチナ人のイスラム教徒女性は頭部に巻くヒジャーブの装着を強要された。パレスチナ人は生活が困窮になるほどイスラム教の宗教に追い込まれて、原理主義に陥った。

 主にパレスチナ人の若者から、次第に女性から子供や老人まで、インティファーダの参加者となった。パレスチナ人には、武器もなく投石のみの抵抗運動に限られた。インティファーダにより、イスラエルによりパレスチナ人は家族や子供から女性まで無差別に虐待や虐殺された。パレスチナの抵抗運動には、主にPLO(パレスチナ解放機構)主流派ファタハ、DFLP(パレスチナ解放民主戦線)、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)、パレスチナ共産党などの4つのイスラエルに対する抵抗組織が発生した。1993年9月にイスラエルとPLOの間で、オスロ合意でパレスチナ暫定自治が認められた。1994年にヨルダン川西岸エリコとガザ地区、1995年にヨルダン川西岸の周辺地域も暫定自治区になった。

 2000年9月に、エルサレムのイスラム教徒の聖地であるハラム・アッシャリーフに、超タカ派のシャロン首相が侵入して監視した。パレスチナ人は、聖地に対する冒涜に激怒して、悲惨な第二次インティファーダが勃発した。パレスチナ人は武器による銃撃による闘争にも巻き込まれて死傷した。イスラエル軍は、パレスチナ人の武装集団を掃討するために、2001年にはオスロ合意により自治区となったヨルダン西川岸にも軍事侵攻した。抵抗する手段として自爆攻撃により、イスラエルにテロ攻撃が頻発した。2002年1月からイスラエル軍は、パレスチナ人の自爆テロに対抗して、ヨルダン川西岸のラマラ・ナブルス・ジェニンに軍事侵攻した。2002年1月にエルサレムの繁華街に対して、初めてパレスチナ人の若い女性が自爆テロを強行した。




2016年6月8日水曜日

第1次世界大戦で罪ない市民の大虐殺

第1次世界大戦では罪のない子供を含む一般市民が、戦争の名目で敵意の対象となり残虐に大虐殺された。