2024年5月28日火曜日

太平洋戦争のクウェゼリン島の戦いで、1944年2月初旬にアメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体のかたわらで、アメリカ軍の海兵隊員が銃を構えてポーズを取った。

太平洋戦争のクウェゼリン島の戦いで、アメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体のかたわらで、アメリカ軍の海兵隊員が銃を構えてポーズを取った。クウェゼリン島の地上戦は、1944年2月1日から5日まで、日本軍の守備隊員約6000人のうち8割強が戦死した。 

 太平洋戦争にてアメリカ軍は、1944年2月1日からクェゼリン島に上陸すべく、戦艦と輸送船で接近した。アメリカ軍の第一陣は午前7時30分、礁外から南砲台付近に上陸した。日本軍による攻撃は激しく、一時的に後退した。アメリカ軍は、クェゼリン環礁の西方の島々に上陸して、エヌブ島に陸揚げした。クェゼリンから一端はアメリカ軍を後退したが、日本軍の防御陣地は破壊されて、守備隊も約5分の1は死傷した。

 2月2日もアメリカ軍の攻撃は激化した。早朝より戦艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船がクェゼリン本島に接近して、艦砲射撃を繰り返して、午前8時10分に西海岸へ上陸した。戦車揚陸艦の艦首から、水陸両用車や水陸両用軽戦車が海上へと飛び出した。上陸用舟艇が、午前9時に、クェゼリンに侵攻した。最前列のロケット砲艦が上陸地点に向けて凄まじい砲弾を発射した。

 アメリカ軍は水陸両用軽戦車を先頭に上陸が開始された。アメリカ軍は注意深く、椰子の木下に造られた日本軍のトーチカを発見した。その度に、軽戦車が戦車砲弾を撃ち込んだが、コンクリートに小さな穴を開けるに止まった。鳴りを潜めた日本軍兵士が、反撃に出た。アメリカ軍の艦砲射撃から頑強なトーチカに、迫撃砲や臼砲が飛んできた。

 アメリカ軍は、新たな攻撃方法である火炎放射器を導入した。トーチカの攻撃に、火炎放射器が有効であるも、火炎放射器を背負ったアメリカ軍兵士は、日本軍の狙撃兵にてバタバタと倒れた。その後に戦車にて、携帯式火炎放射器を車内に持ち込み、車体ごとトーチカに近づいて車体前部の小孔からトーチカ内に火焰を吹きつけた。アメリカ軍はクェゼリンの戦いから、火炎放射器を頻繁に活用した。

 アメリカ軍は攻勢して、2月2日正午までには飛行場の西端に達した。日本軍は一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊の来着まで本島を死守すべしと命令された。日本軍の南地区守備隊は、陸海混成の全兵力で、アメリカ軍への夜襲を決行した。アメリカ軍を水際付近に撃退させた。艦砲とエニブージ島の集中攻撃を浴び、反撃は挫折した。2月2日には、アメリカ軍はクウェゼリン環礁のルオット島やナムル島にも上陸した。ルオット島は午後3時には完全に島を占領した。ナムル島も夜に、夜襲の末に、日本軍の全員が玉砕した。

 2月3日になるとクェゼリン本島では、飛行場東地区を巡って一日中激闘が続き、夜もアメリカ軍軍は野戦砲と艦砲で射撃を継続した。日本軍は残存兵力で逆襲を繰り返したが、死傷者は続出した。2月4日には夜明けに、日本軍陣地は次々とアメリカ軍戦車に突破された。午前10時に、日本軍首脳部は全員が自決した。残存した日本軍兵士は、アメリカ軍に突撃したが阻止され、日本軍守備隊は夜までに戦力の大半を失った。

 2月5日まで残った日本軍守備隊は一団となって東側海岸に頑強に抵抗を繰り返した。2月6日午後零時30分にアメリカ軍がクェゼリンのほぼ全島を掌握して戦闘は終結した。アメリカ軍は軍は、クェゼリン北方のエビゼ島をも占領し、2月6日にかけて、ロイ、グゲグエビゲーも占領して、クェゼリン環礁は完全にアメリカ軍が占領した。

 クェゼリン本島での戦死者は、日本陸海軍を合わせて約4030人。実に全守備隊の8割以上が戦死した。対する米軍は、参加人員21,342人中、戦死者はわずか177人。なお、本島以外では日本軍が3560人中、戦死者3200人で、米軍は20104人中の195人であった。