2019年4月1日月曜日

舞鶴港の引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。

ソビエト連邦や中国大陸からの引揚船が、最終引揚の前年となる1957年5月24日に舞鶴港に到着した。舞鶴地方の引揚援護局が設けたアーチの下に日本各地から多くの人びとが集まった。その引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。舞鶴港の大浦中学校の女子生徒の首から遺骨箱を白布よって引き下げた。緊張気味に両手で丁重に持ち運んだ。無念に遺骨を待ち迎える縁者は、摘んだ菊の花束を持って待ち受けた。
 次いで病人や戦傷者らが担架で緊急に護送された。待ち受ける関係者の歓声の中で、両手に荷物や子供を抱えた引揚者が降りて来た。実感をもって、しっかりと日本の本土を踏みしめた。引揚者は肉親の出迎えを受けて、再開を果たして手を握りしめて共に涙を流した。舞鶴港では、引揚船が入港するたびに家族だけでなく地元も心から歓迎して慰問した。いまだ帰れぬ我が子や夫を待つ母親の姿が、「岸壁の母・妻」と呼ばれて、人びとも歌や映画で悲嘆に暮れた。
 1945年8月15日に第2次世界大戦の終戦に伴って、海外に残留していた日本人は、兵士約350万人と民間人約310万人の約660万人以上にも達した。海外の残留者が日本に帰国する引揚げが始まった。日本政府は、中国大陸に近い舞鶴港を引揚港として指定した。1945年10月7日に約2,700人が乗船した第一引揚船「雲仙丸」が入港した。舞鶴港は1958年9月7日の約472人が乗船した最終引揚船「白山丸」の入港まで、13年間で、のべ約426隻もの約13年間の引揚事業を担った。
 日本政府は1945年9月に邦人引揚計画と引揚応急援護要綱を決定し、その施策の一部として引揚民事務所を開設させ、引揚者の援護などの事務を行わせた。9月28日に、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司の10港を引揚港と指定した。1950年からは日本国内の唯一の引揚港となった舞鶴港は、主として中国大陸やソビエト連邦からの引揚者を、約13年間で約16,269柱の遺骨と約664,531人の生存者を受け入れた。終戦直後から約60万人の日本人がソビエト連邦に送還された。約472,000人が極寒のシベリア各地や北極圏からコーカサス等に悲惨な収容所に抑留されて強制労働を強要された。