2019年4月30日火曜日

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけた原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けて原爆症で絶命した。(長崎)

長崎原子爆弾に被爆した福田須磨子は生涯をかけて、終末期になるまで原子爆弾の禁止に向けて、長崎原爆の証言を続けた。1974年4月2日に52歳で、ついに絶命した。
 福田須磨子は、1922年3月23日に長崎市浜口町43番地に生誕した。1945年8月9日に、長崎男子師範学校会計課に勤務中に、長崎原爆に被爆した。1955年に、原爆被爆の後遺症状による紅斑症(SLE)を発病して、病院に入院と退院をくり返した。原子爆弾の非人道性、被爆の怨念と平和の探求、反原爆の闘いに生涯をこめた「われなお生きてあり」を刊行した。
 1955年8月8日に、長崎市の平和公園に平和祈念像が完成した。その3日後の11日に、「ひとりごと」と題された投稿が朝日新聞夕刊ひととき欄に掲載された。反響は大きく盛り上がり、詩人として反戦運動に活動と参加する起点となった。1959年に『長崎の証言』創刊号にエッセイを執筆した。1969年に第8回田村俊子賞を受賞して、怨の女、愛の女となり、福田須磨子は火玉或いは阿修羅となり、原爆の危機と核兵器に対する文筆で抵抗をして訴え続けた。

福田須磨子詩集 『原子野』(現代社)より
「生命を愛しむ」
新しき年の始めに
しみじみとわが生命愛しむ
原爆の傷痕胸にみちしまま
絶望と貧苦の中で
たえだえに十年
げにも生きて来しかな
悲しみと苦痛の十字架をおい
ほそぼそと生命かたむけ
生きて来しこの現実を
奇蹟の思いでかえりみる
“吾尚生きてあり”
ここに座し 一切を観ず
ふきちぎれた魂は
未完の生を夢み
一片のわが生命を愛しむ


福田須磨子の詩碑
「1945年8月9日
 午前11時2分、第二次世界大戦末期、世界第2の原子爆弾が広島についでこの地、長崎の上空に炸裂した。
 一瞬に死傷者は十数万人に達し生存者はその後30年にわたって原爆後遺症と生活苦に呻吟しつづけた。福田須磨子もその一人である。
 しかし彼女は黙することなく生涯かけて原爆の非人道性を訴えつづけた。この碑は福田須磨子の不屈の生涯をしのびあわせて世界の恒久平和を祈念するために全国の有志920名の御芳志をもって建立するものである。
1975年8月2日詩碑建立委員会(長崎市の爆心地公園に詩碑)」



2019年4月29日月曜日

フランス軍兵士はヴォージュ山脈の塹壕から前進するドイツ軍に岩を投げつる下に、苦悩して戦死傷した兵士が仰向けで倒れた。

フランス軍はフランスの北東部のヴォージュ山脈で、丘の中腹の塹壕から前進するドイツ軍に対して岩を投げつけた。塹壕の中では、苦悩して戦死傷したフランス兵士が仰向けで倒れた。フランス軍は突撃して来るドイツ軍に対して、より高い位置から岩塊を投げつけた。
 フランス軍は第一次世界大戦の間に、1916年のヴェルダンの戦いの間にヴォージュ山脈の塹壕からドイツの兵士を追い払うために大きな石と岩を投げた。 左のフランス兵士が銃をライフルしている間、右のフランス兵士が下の敵のドイツ兵士らに石を投げつける間に、別のフランス兵士が彼の後ろに別の石を持って待った。フランス兵士たちは、ドイツ軍を山腹から撤退させるために際に最も原始的な兵器を使用した。
 第1次世界大戦を通じてヴェージュ山脈は、標高956mという戦略的な地位のために、始終ずっと戦場となり、砲弾やガス弾や火炎放射器で徹底的に破壊された。ドイツ軍は、ヴェージュ山脈に、退避壕やトーチカや塹壕などの巧みな要塞を作り上げていた。フランス軍兵士は約1万人とドイツ軍塀は約7,000人のドイツ人が殺害された。膨大な犠牲を伴うも、ヴェージュの最前線は1918年11月の第1次世界大戦の終結までほとんど変化しなかった。約1万2千人の名もなき兵士たちの遺体が治める納骨堂の記念碑が設置された。



2019年4月28日日曜日

白いバラのメンバーは、ナチス・ドイツの非人道的な無差別な大量虐殺の真実を、ドイツ市民に認知させようとした。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所におけるユダヤ人の大量虐殺による死体の山が散乱した。少なくとも約55,000人もの限界を超えた囚人が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧が絶たれて、ほとんど囚人は飢餓状態に置かれ餓死や病死に陥った。
 若年ドイツ人による抵抗グループである白いバラのメンバーは、ナチス・ドイツの非人道的な無差別な大量虐殺の真実を、ドイツ市民に認知させようとした。白いバラは東部戦線からの帰還兵であったミュンヘン大学の学生らで構成されたグループであった。ナチス・ドイツによる残虐行為をドイツ市民に認知させる非暴力な抵抗運動を遂行した。結成時のメンバーの一部は、東部戦線におけるユダヤ人の大量虐殺を目撃した。1942年6月にミュンヘンの郵便受けにわずか100枚の「白バラ」と書いたビラを入れた。
 彼らはユダヤ人大量虐殺の実態を示すビラを配布する抵抗運動をした。ビラを手動印刷機で印刷して、1942年6月から7月に無作為に封筒で主要な南ドイツ市民に郵送した。ビラには、ユダヤ人大量虐殺に対する理路整然と反抗を示した文章を掲載した。「ドイツによる占領の後、ポーランドで30万人のユダヤ人がとても残酷な方法で殺されました。これは人間の尊厳に対するもっとも恐ろしい罪でしょう。歴史上例を見ない罪でしょう。ユダヤ人は、われわれと同じ人間なのですから。」
 白いバラは次第に過激な抵抗運動を伴った。1943年2月14日と16日にミュンヘンの大通りに、反ナチス・ドイツをペンキで誇大に広報した。2月18日に、トランクにビラを詰めて、講義室に置いて、中庭にバラまいた。ゲシュタポに目撃されたハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄弟とプロープストの3人は、2月22日に人民法廷で斬首刑の死刑を宣告されて、午後にギロチンで処刑された。関係者メンバーとその他80人も投獄された。死刑が執行された妹であったゾフィーが死刑の処刑場に向かう前に最後の言葉を放った。「今日はとてもよいお天気ね。でもわたしはもう行かなくてはならないわ。戦場でいまもたくさんの人が死んでいる。未来のある若者が死んでいる。そしてわたしも死ぬけど、惜しくないわ。わたしたちは、たくさんの人に警告できたのだから」



2019年4月27日土曜日

日本軍は、日中戦争の南京事件で中国人の首を切断した後に、南京城内の道端に並べて、吊り下げて見せしめにした。

日本軍は、日中戦争において1937年12月13日に中華民国の南京城に入城して占領した。その後に南京虐殺と虐待が、南京城の中国人の虚構となった。日本軍は、中国人の首を切断した後に、南京城内の道端に並べて、吊り下げを見せしめにした。日本軍のは虐殺と虐待を、首都である南京で誇示して、中国人を恐怖におののかせ、おびえさせて、中華民国の降伏と占領に追い詰めた。
 日本軍の大本営発表により、南京における報道管制下にて、南京の戦況から日本国民は提灯行列に浮かれた。海外の一部の報道機関では南京虐殺と虐待を直後から公表した。銃後の日本国民には、戦後に初めて極東軍事裁判で公表された。東京裁判のA戦犯の1人と南京裁判のB・C級戦犯の3人が死刑となった。日本軍兵士による無差別な南京虐殺と虐待は事実と裁定した。法廷では、十分な解明もなく終結して、南京虐殺と虐待の量的と質的実態は未知となった。正確な数値や正確な根拠には食い違いが生じることから、大なり小なり南京虐殺と虐待を否認する論理が続出した。戦争に伴う無差別の虐殺と虐待の真実は、いかなる時代の戦争にも必発しており、南京事件以外にも繰り返され続けている。おり、全面否認する一部の論理は破綻した。日本政府も公式に1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている(2006年6月22日)。

南京大虐殺の再検証に関する質問に対する日本政府答弁書(2006年6月22日)
 1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。南京大虐殺事件は、新たな研究成果を含め、種々の議論があることは承知している。既に検証された記録は、文献等から総合的に判断すれば、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。証言録は、外務省として当時直接聞き取り調査を実施したことは確認されていない。記念館にて展写真の中に、事実関係に強い疑義が提起されているものが含まれている旨を指摘している。



2019年4月26日金曜日

日本軍兵士は海岸で防壁するも全滅して、ヤシの丸太の防壁の周囲に膨大な日本軍兵士の戦死した死体が散乱した。

太平洋戦争にて、ギルバート諸島タラワの日本軍と1943年11月21日に上陸したアメリカ軍とに猛烈な戦闘が勃発した。日本軍兵士は海岸で防壁するも全滅して、ヤシの丸太の防壁の周囲に膨大な日本軍兵士の戦死した死体が散乱した。日本軍の守備隊兵士約4,836人のほとんど全員が戦死した。わずか日本人捕虜約17名と朝鮮人捕虜約129人のみが生存した。日本軍兵士の中には捕虜になることを忌み嫌い自決する者もいた。
 アメリカ軍は戦死者約993人と戦傷者2,298人にも達して、多大の犠牲を伴った。アメリカ軍は多数の犠牲を伴ったため、「恐怖のタラワ(terrible Tarawa)」もしくは「悲劇のタラワ(tragic Tarawa)」と呼称された。アメリカ本国ではタラワの戦いも報道されて、アメリカ軍の甚大な犠牲に批判を浴びた。
 ルーズベルト大統領は、1944年3月2日にタラワの戦いの画像と動画の公開に同意して承認した。戦争記録映画を公開したアメリカ軍の死体や重傷者の映像によって一時的にアメリカ人志願兵の応募率が低下する騒動が起きた。戦争記録映画(With the Marines at Tarawa)は、水に浮かぶ死体、半水没した死体、砂の上で不可能な位置にゆがんだ死体を公表して、映画は恐ろしい戦場を冷酷に「これらは海兵隊の死者です。これは私たちが望んでいなかった戦争のために払わなければならない犠牲です。」と解説した。アメリカ軍の検閲局は1943年9月にライフ(Life)誌に初めて戦死したアメリカ人兵士の画像を公開させた。



2019年4月25日木曜日

イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。

オムドゥルマンの戦闘後に、イギリス・エジプト軍のスーダン人部隊は、散乱したマフディー軍兵士の戦死した遺体から金目を略奪した。略奪するために呼息ある戦傷者も虐殺してから略奪した。さらに一部のイギリス・エジプト軍兵士も略奪に参加した。
 イギリス・エジプト軍はスーダンに南下を続け、マフディー国の首都オムドゥルマンの北方10キロの地点に到達した。1898年9月2日にマフディー国防衛は最後の戦いと位置付けるマフディー軍は、総勢52,000の大軍でイギリス・エジプト軍に総突撃をかけた。これに対しイギリス・エジプト連合軍は、歩兵と砲兵による一斉射撃と、ナイル川に停泊する砲艦からの砲撃によってマフディー軍を崩壊した。マフディー軍は総自殺のような騎兵隊の悲惨な突撃を繰り返した。次々と突撃攻撃するマフディー兵はイギリス・エジプト連合軍の射撃の前に膨大な死傷者がなぎ倒された。早朝に始まった戦いは昼前にはイギリス・エジプト軍が占領して終結した。この戦いでマフディー軍の半分にあたる約11,000人が戦死して約6,000が戦傷して、イギリス・エジプト連合軍は約382人しか死傷者が出なかった。
 熱狂的なイスラム教徒であるマフディー(約束された救世主)が指導する農民主体の反乱は、現在のスーダンで1881年から1889年の間にかけて起こった。何度もイギリス・エジプト軍を退け、約18年間の間独自の統治を行った。しかし相次ぐ対外戦争でマフディー国は疲弊し、イギリス・エジプト軍の巻き返しもあり崩壊して、スーダンはイギリス・エジプトの占領された。北アフリカにあったイギリス・エジプト領スーダンは、1889年から1956年までイギリスとエジプトの共同統治領となった。


2019年4月24日水曜日

リベリア内戦にて反政府勢力が首都モンロビアを侵略した時に虐殺されて腐敗し膨張したリベリア市民の死体が放置された。

リベリア内戦にて、2003年の反政府勢力が首都モンロビアを侵略した時に、戦闘に巻き込まれて虐殺された。放置されたリベリア市民の死体が腐敗して膨張した。道の至るところに、後ろ手に縛られた腐敗した残酷な死体が転がっていた。それを遠巻きに荷物を抱えた避難民が通り過ぎた。
 アフリカ西部のリベリアは、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって1847年に独立した。アフリカの中ではエチオピアに次いで古い独立国家で、首都はモンロビアである。リベリアの国名はLiberty(自由)に由来した。独立して以来国を支配したアメリカ解放奴隷と、先住民族の下剋上に起因して、1989年から断続的に内戦が勃発して、2003年に内戦が激化した。2003年6月に反政府勢力であるリベリアの反政府勢力リベリア和解民主連合(LURD)とリベリア民主運動(MODEL)が首都のモンロビアに侵攻した。2003年6月17日には政府と停戦合意するも、6月24日に反乱に至った。アメリカ合衆国が介入することで、2003年8月にチャールズ・テイラー大統領がナイジェリアに亡命した。内戦により約27万人の死亡して、約79万人が難民・避難民となった。2006年にエレン・ジョンソン・サーリーフがアフリカ初の女性大統領に選出された。


2019年4月23日火曜日

一人のドイツ軍兵士がハリコフ攻防戦にて、一人のロシア軍兵士の右眼から頭部を狙撃銃で射殺した。

一人のドイツ軍兵士が1943年8月13日頃に、一人のロシア軍兵士の右眼から頭部を狙撃銃で射殺した。約16歳のロシア軍兵士は、塹壕に隠れて潜んで材木の下で穴を掘っていた。右眼から頭部を狙撃銃で撃ち抜かれた。塹壕上で息絶えたロシア軍兵士のうつろな死顔の死体が横たわった。二人のドイツ軍兵士が検死するために、下腿をつかんで塹壕から引きずり出した。塹壕の壁の周辺には血液が出血して飛び散った。ロシア軍兵士の脳みそと砕けた頭蓋骨が背中に飛び出した。弾丸の威力で、後頭部にはこぶし大の穴が空いて吹き飛ばされて、頭蓋骨の内部がはみ出た。
 一人のドイツ軍の青年兵士は、初めて銃をかまえて的を人間に絞った。異様に興奮して、胸が締め付けられて、動悸して、震えた。 硬直して痺れたようになり、引き金を引けずにいた。ドイツ軍隊員から、さっさと一発でぶっ殺せと怒号された。急に緊張が解かれ、致し方なく深呼吸をして、思い切って狙撃銃の引き金を引いた。銃声が周囲にとどろき、銃口から煙が立った。ドイツ軍隊員からは、大当たりでお陀仏と称賛された。隊員らは銃撃の成果を確認にするために、すぐさま塹壕のそばに駆け寄った。
 第2次世界大戦にて1941年から1943年まで、ドイツ軍とロシア軍とがウクライナでハリコフ攻防戦あるいはドネツ戦役が勃発した。ウクライナのハリコフを中心にしたドネツ川の周辺地域にて戦闘した。ハリコフ攻防戦は、第二次世界大戦中の1941年から1943年にて、ウクライナのハリコフ制圧を4度にめぐりドイツ軍とソビエト軍の攻防が繰り返された。1943年8月頃に、ソ連軍がアゾフ海沿岸までの南部全戦線で攻勢した。 8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲された。ナチス・ドイツ司令部は8月12日には”いかなる状況でも、ハリコフを保持せよ"との命令を出した。絶望的になり8月21日にドイツ軍は撤退を始め、8月23日にハリコフはソ連軍に占領された。  




2019年4月22日月曜日

ベトナム戦争で散布された枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響を受けた胎児の病理標本に先天性障害が発生していた。

ベトナム戦争で散布された枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響による胎児の病理標本には、先天性障害が発生していた。ベトナムのTu Do病院だけでも100体以上のベトナム戦争による枯葉剤の影響を受けた奇形児の標本が残っていた(2013年)。微量のダイオキシンで、細胞質内の受容から遺伝子の特定部分と結合し、腫瘍、奇形、免疫、発育の異常などが起こる。
 ベトナム戦争でアメリカ軍が枯葉剤を使用した。1962~71年に南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍の勢力が潜伏する森林地帯を枯らせて,農作物を腐らすために、爆撃機を低空飛行して散布した。2,3,7,8-テトラクロロジベンゾパラジオキシン(2,3,7,8-TCDD)のダイオキシンが含まれて少量でも猛毒である。散布された約5000万トンの枯葉剤にはダイオキシンが約170kgも含まれた。1970年代以降に,枯葉剤を吸入あるいは接触してベトナム人に、流産,皮膚疾患,癌,先天性欠損症,先天性奇形と後遺症が異常に高い頻度で発生した。ベトナムで長期に枯葉剤に関与した多数のアメリカ軍,オーストラリア軍およびニュージーランド軍兵士に癌その他の被爆障害が発生した。アメリカ軍の退役軍人らはアメリカ軍向けに枯葉剤を生産した農薬メーカー7社に集団訴訟を起こし、約25万人の被害者と家族のために1億8000万ドルの補償基金が設立された。しかし、アメリカ政府は枯葉剤と先天性障害の因果関係を全く認めていない。
 1967年2月6日にベトナム戦争中のアメリカ軍は、ランチハンド作戦で、南ベトナム解放民族戦線が潜む森林を消失させ、食糧生産を阻止するため、枯葉剤の大規模な散布をした。2,4-ジクロロフェノキシ酢酸(2,4-D)と(2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸(2,4,5-T)の混合剤であった。農業用の除草剤を化学兵器に転用して、ベトナムの森林の約2割が壊滅した。約3000万人以上のベトナム人が被害を受けた。不純物の猛毒のダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD)が、奇形や腫瘍などの発生の原因になり、国際世論の非難を浴びて、1971年に散布を中止した。ベトナムではこの作戦以後に、結合双生児、無脳症児など障害児の出産が約20万人にも達した。枯葉剤は帰還した兵士にも被害を出し、ベトナムでは3世代を経過しても障害が続いている。



2019年4月21日日曜日

第二次国共内戦にて山東省の巨野、金乡、鱼台の地域で、人民解放軍が国民党軍を攻撃して壊滅した。

第二次国共内戦の緒戦に、1946年11月28日から山東省の巨野、金乡、鱼台の巨金魚の戦いで、人民解放軍らは国民党軍を攻撃した。12月18日に中国共産党の中央軍事委員会の指令で、解放した地域の背後から国民党軍を攻撃した。12月22日に聊城で紅軍が包囲されるも、30日夜、巨野、金乡、鱼台の地域から国民党軍を襲撃した。紅軍は1947年1月7日から9日まで、北西部地域も包囲して、国民党軍を壊滅した。引き続いて1月12日から16日まで河南省の国民党軍も壊滅した。巨金魚の戦いでは、国民党軍は約1万6千人以上の犠牲を伴って壊滅した。山東省の9郡町を占領された国民党軍は、山東省南西部に撤退した。 
 太平洋戦争に1945年8月15日に敗退した日本軍は中国から引揚げた。国民党と共産党は共通の敵を失い再び反目した。アメリカが介入するも、蒋介石は1946年6月26日に国民党軍を共産軍支配地域への攻撃を命じて、第2次国共内戦が再び勃発しました。
 国民党は当初は優勢となり、1947年6月には共産党の拠点である延安を攻略した。撤退した共産党は満州の日本軍の武器とソ連の支援から紅軍は次第に侵攻した。共産主義思想は地主から土地を奪い農民に分配する農地改革で、全中国の農民の支持を得て、共産党に有利な戦局になった。紅軍は中国を従来の政治体制や生活から解放する軍として人民解放軍に名称変更した。1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の建国宣言して、国民党は1947年12月7日に台湾に遷都し停戦した。 




2019年4月20日土曜日

長崎原子爆弾により多数の腐敗していた被爆死体を野火で火葬した遺骨が地面に散乱していた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下して炸裂した。長崎市内は、強烈で甚大な防風、熱射、放射線により、壊滅した。爆心地の周辺では、身元も特定できない膨大な被爆死した死体が散乱していた。長崎市内は壊滅して火葬場も破壊されて火葬できなかった。致し方なく焼け跡から、燃え残りの木材を集めて至るところで火葬した。放置されたままの死体を約3週間すぎた8月26日頃になってから、多数の腐敗していた被爆死を野火で火葬した。火葬したままで遺骨は後片付けも十分にできずに地面に散乱していた。



2019年4月19日金曜日

クラスター爆弾の不発弾を爆弾除去兵が確認する瞬間に、不発弾が爆発して重態となり四肢切断された。

セルビアのスェニッァにおけるドゥビニェ空港の滑走路にて、一人の爆弾除去兵士のみが随行して、不発弾の処理をした。飛行場に立ち入る技術員の一行は、滑走路にて数個のクラスター爆弾の不発弾を発見した。一人の爆弾除去兵士が駆けつけて、草むらに隠れているクラスター爆弾の不発弾を探索した。草むらに見え隠れしているクラスター爆弾の不発弾を確認するために、草むらを取り除こうとした瞬間に、一人の爆弾除去兵に向けて不発弾が爆発した。コソボ紛争で、1999年3月にNATO軍は、コソボとセルビア全土への3月間の空爆で、約1万3000発のクラスター爆弾を投下していた。
 特に被爆した四肢から大量出血して、多数の動脈が切断されて止血困難となった。救急車の中で、固く巻いた包帯でも止血できず、多量の失血のために心不全に陥った。緊急にベオグラードの病院に到着した時は、すでに心肺停止であった。直ちに緊急手術をして、左右の下腿の切断と左右の前腕の切断をして、止血する処置により一命を留めた。4日間の昏睡状態を脱して、四肢を切断して寝たきり状態で意識が戻った。頭部と肺の損傷や聴覚と視覚障害も合併した。2004年10月に退院す4年間の間に、20回以上の再手術を受けた。長期間に全身は包帯を巻かれて、重度の障害の要介護と受容を必要とした。
 1997年に対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)によって、対人地雷の使用と製造、保有が禁止された。多くの不発弾をばらまくクラスター爆弾は、禁止されずに未だに地球上で爆発している。クラスター爆弾は、親爆弾に数百個の小爆弾を収納して、親爆弾が空中で爆発すると小爆弾が広範囲に散布される。小爆弾は、硬度な武器や建物などでは爆発する。やわらかい畑や沼地などは不発弾のままに残存する。不発弾は、そのままに地面や草原に散乱したままになっている。触れて被爆した者の約98%は一般市民が犠牲となった。



2019年4月18日木曜日

エルサルバドルの死の部隊が、敵対勢力に対して暴力的な虐待と虐殺をして、多岐にわたる敵対勢力を毎夜に暗殺し続けた。

エルサルバドルの為政者や権力者と反革命側によるアメリカから間接的支援を受けた死の部隊が、敵対勢力に対して暴力的な虐待と虐殺をした。多岐にわたる敵対勢力を毎夜に暗殺し続け、それ以外の市民から子供までも見せしめのためだけに虐殺されたものも多数いた。
 エルサルバドルは1977年に右派の文民軍事政権が生まれ、左右両派による10年以上もの激しい内戦が勃発して約8万人が死亡した。1980年にロメロ大司教の暗殺事件から、右派政府に対して左翼ゲリラ5組織の連合体のファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)が内戦を展開した。FMLNは当初、北部から東部の山岳地帯を中心に優勢な戦いを進めて1983年には国土の3分の1を支配した。
 しかし、アメリカから軍事援助を受けた政府軍に、次第にFMLNは守勢に追い込まれた。1992年に両者は和平協定に合意して、FMLNは政党活動を宣言して武装解除した。内戦後に1994年初の大統領選挙から、右派の民族主義共和同盟(ARENA)が政権を握った。2004年6月にはARENAから大統領に就任し、議会はFMLNが多数派を握った。
 エルサルバドルは中米5ヵ国の最小国家であり、地主が小作人を支配して、多くの市民が外国や隣国へ出稼ぎに出て、国内は混乱に陥ってゲリラ活動が頻発した。難民らが組織したマラスと呼ばれるギャング集団による治安悪化が深刻となった。2016年の10万人当たりの殺人被害者数は、エルサルバドルが99.7人で、戦闘下のシリアに次いで2番目の多さである。


2019年4月17日水曜日

硫黄島の戦いで、日本軍により狙撃で頭部を撃ち抜かれたアメリカ軍海兵隊員の死体が砂浜に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍により狙撃で頭部を撃ち抜かれたアメリカ軍海兵隊第4師団の兵士の死体が砂浜に横たわった。アメリカ軍と日本軍との猛烈な射撃の縦断の飛び交う中で、上陸して銃撃を避ける場所のない浜辺の上で、日本軍からの弾丸はアメリカ軍の兵士のヘルメットを突き抜けて頭部を貫通して粉砕した。どこからも飛んでくる銃弾や砲弾にアメリカ軍海兵隊員は膨大な戦死傷の犠牲に恐怖して大混乱となった。
 サイパンを出撃したアメリカ軍兵士約25万人と艦艇約600隻が硫黄島の戦いに参戦した。1945年2月16日から空母艦載機の空襲と艦艇の砲撃をした。2月19日の午前9時2分に、アメリカ軍海兵隊の最初の部隊が上陸を開始した。上陸した海兵隊が海岸を埋めつくすと同時に、日本軍からの猛烈な砲火と銃撃が海兵隊員を襲った。海岸はみるみるアメリカ軍の海兵隊員の死体の山となった。上陸から初日のアメリカ軍の損害は第2次世界大戦でもでも最大の犠牲を伴った。
 硫黄島の戦いでは、1945年2月19日から3月26日まで、アメリカ軍の海兵隊員にとって、かつてない極めて悲惨で犠牲の多い戦闘になった。上陸した最初の50時間だけで、海兵隊の戦死傷者は約3,000人以上に達した。上陸してからわずか5日間に、毎日平均約1,200人以上の戦死傷者の犠牲を伴った。上陸した海兵隊員の約3人に1人が戦死傷者に陥った。アメリカ陸軍と海軍兵士の約7,000人が戦死して、約20,000人が戦傷に上った。
 市丸海軍少将から『ルーズベルトに与ふる書』を残して 「あなたの行動から判断すると、有色人種を犠牲にして白人種、特にあなたのアングロサクソン人が世界の果実を独占しています。
  この目的を達成するために、数え切れないほどの黄色人種を奴隷にして、そして最後にそれらをどんな強さからも奪うために使われました。あなたの帝国主義に対する報復として、日本はあなたの懲罰的な絆から東洋諸国を解放しようとしました。あなたは今、あなたのかつての友好的な日本を、あなたの甘美な計画では、絶滅させなければならないたくさんの野蛮人である有害な存在と考えています。この大東亜戦争の終結は、東アジア共同繁栄地域の誕生をもたらします。もちろん、あなたの果てしない帝国主義によって妨げられないのであれば、近い将来、世界の永遠の平和をもたらすでしょう。
 なぜ、あなた、すでに繁栄している国は、東洋の抑圧された国々の自由のための運動を掴むのです。東洋に属するのは東洋に戻ることに他なりません。」と地球平和を託した。




2019年4月16日火曜日

ガイアナの人民寺院で912人もの信者が教祖ジョーンズの自殺信仰により大虐殺された。

ガイアナの人民寺院にて1978年11月18日に、912人もの信者が教祖ジョーンズの自殺信仰により大虐殺された。何百人の信者が毒をあおり、苦悶しながら自殺させられた。信者たちにシアン毒物を飲ませ、幼児には注射をし、逃亡者は銃殺した。
 教祖ジェイムス・ウォレン・ジョーンズは、1960年代に貧しいゲット―のかなりの黒人たちの信者を抱えた。ジョーンズの人民寺院が1960年代初頭に急成長した。1962年のキューバ危機から、人類滅亡の神のお告げを告げた。生き残るためとカリフォルニア州ユキアに1965年に人民寺院を移転した。この世は唯一の地獄と布教して、被害妄想と迫害体験から精神が狂気となった。
 急増する脱会者を最も恐れて、1977年に約1000人もの信者を南米のガイアナに移転した。死の殉教者として革命的自殺と狂信させた。脱会者には虐待と虐殺した。1978年11月14日に世間の要請を受けたレオ・ライアン下院議員が人民寺院を視察した。脱会希望者が救いを願い出て、ジョーンズの指令を受けた刺客と武装組織が、脱会者から議員や記者までも銃撃と銃殺した。
 狂気のジョーンズは、信者たちにシアン毒物を飲ませ、幼児は注射をして、逃亡者は銃殺した。すべての信者が死滅してから、ジョーンズは銃で頭を撃ち自決した。ガイアナの大虐殺はジョーンズの無理心中であり、大量殺戮となった。常軌を逸した教祖が現世に存在する以上、このような惨劇から大虐待と大虐殺は繰り返されるだろう。


2019年4月15日月曜日

ベトナム人少女はアメリカ軍からのボール弾を全身に被爆して、剛球が組織の深部に達して食い込み、身体を移動して激痛を伴った。

アメリカ軍は、ベトナム戦争において、第2次世界大戦に投下した爆弾の約2.5倍の約1,700万トンも空爆した。アメリカ軍は高度に広範囲に重度に殺傷する先端兵器をベトナム戦争で駆使した。ベトナム人少女は、アメリカ軍からのボール弾を全身に被爆した。ボール状の剛球は、身体組織の深部に達して食い込んだ。剛球は身体組織内を移動して激痛を伴った。多数の剛球を、手術などで取り出すことは非常に困難であった。
 ボール爆弾は、アメリカ軍がベトナム戦争のために開発した散弾型爆弾である。爆心地の周囲の多数の人間を一挙に殺傷する無差別殺人兵器である。長さ約2.1mの紡錘形の親爆弾が、時限信管のセットに応じて空中で破裂する。ボール状の子爆弾が約300~600個が破裂して、子爆弾の安全装置がはずれて爆発する。詰めた孫爆弾のパチンコ玉のような小鋼球(直径約5.6mm)の約280~300個が,秒速約510mの速さで飛散する。1発の親爆弾の散布界は,幅約300~350m,長さ約800~1000mの楕円形で,そこに9万~18万個の鋼球が飛び散る。
 ボール弾は、爆弾の中の多数の小爆弾が、爆発とともにそれが四方八方に飛び散る。ボール爆弾は地面に衝撃すると、中に装備した約600個の小爆弾が飛び散り、小ボール爆弾からさらに小鉄片の多数が人体内を貫き殺傷する。散弾爆弾やクラスター爆弾の一種である。パイナップル爆弾は、落下に方向性をもたせる羽根をパイナップル状につけている。1968年頃より、軍事施設の破壊よりは、もっぱら無差別な殺傷のために、非人道的に多数の市民が犠牲になった。その形がベトナムの「オイ」という果物に似て、ボール弾を「クワ・オイ」と呼ばれた。
その他に、ナパーム弾はゼリー状のガソリンの混合物の爆弾としてベトナムに投下した。第2次世界大戦中に日本への焼夷弾として開発して空爆した。ナパームは非常に高温で燃焼し、燃焼または窒息などによって殺害した。クラスター爆弾は、小さな爆弾を含み、小さな弾薬で殺傷の効果を高めた。特にラオスで、ベトナム戦時中の空爆作戦中に多用された。戦争の間にラオスの上で合計約58万回の爆撃で、約250万トン以上のクラスター爆弾を投下した。アメリカ軍は、ベトナムの隣国のラオスに、人口1人あたり最多の爆撃をした。ベトナム戦争中に、クラスター爆弾、ナパーム弾、対人地雷、その他甚大な爆弾に兵器が投下された。小さな爆弾の多くはすぐには爆発せず、今もラオスの地中に致命的な脅威のままで残存している。



2019年4月14日日曜日

イスラエル軍が殺害して焼けただれたハマス幹部の死体を,ガザ地区のパレスチナ人らが燃えた車から引き出した。

イスラエル軍の武装ヘリが、2004年にパレスチナのガザ地区で、ハマスの指導者らの同乗した車に向けてミサイル数発を発射して直撃した。ハマスの幹部が殺害されて焼けただれた死体を,ガザ地区のパレスチナ人らが車から引き出した。自治政府(PLO)はハマスの武器密輸を摘発したが、イスラエルは摘発では不十分として暗殺を2004年に再開した。PLOはパレスチナ人からも反発され、弱体化したPLOに代わりハマスがイスラエルの武力闘争を主導した。
 イスラエル軍は2004年3月22日にイスラム過激派組織であるハマスの最高指導者ヤシン師をミサイル攻撃で殺害した。国家暗殺による相次ぐパレスチナ指導者の殺害が激しい反発を招いた。アナン国連事務総長は、違法な殺害行為と批判した。間もなくイスラエル軍は2004年4月17日に、パレスチナ自治区ガザで、次の最高指導者となったアブデルアジズ・ランティシと同乗の3人の自動車を武装ヘリからミサイル攻撃して殺害した。4月18日にガザ地区で約10万人のパレスチナ人による葬儀が行われ、ハマスは100倍の報復を宣言した。4月19日にエルサレムにてバスの自爆テロで約21人が殺害された。イスラエル政府と軍は、ハマス壊滅のために全ハマス幹部の殺害を表明した。2002年から2008年5月の間には、イスラエル人による約324人の標的殺害で、少なくとも約387人のパレスチナ人が死亡した。
 ハマス(Hamas)は、パレスチナのイスラム原理主義過激派組織である。ハマスは「イスラム抵抗運動(Harakat AL-Mugawama AL-Islamia)」の頭文字である。1987年12月のイスラエル軍事占領に反対する市民蜂起であるインティファーダから、イスラム復古勢力のムスリム同胞団を母体に創設された。軍事部門であるカッサム旅団は、自爆テロを含む武力行動を展開する一方で、パレスチナ市民の救援や貧困救済などでも支持を得た。


【閲覧留意】

2019年4月13日土曜日

ベルガ強制収容所から労働による絶滅されたアメリカ人捕虜の死体が発掘された。

ベルガ強制収容所から南方のテーペンの路上から、労働による絶滅されたアメリカ人捕虜の死体が、1945年6月11日に発掘された。衰弱した囚人は強制死行進するほど死亡率が急増した。 
 ベルガ強制収容所は、ブーヘンヴァルト強制収容所の分屯基地であった。強制労働者は、ブーヘンヴァルト強制収容所とスタラーグIX-Bの捕虜収容所から供給された。 捕虜に対して、第3回ジュネーブ条約とハーグ条約の規定に違反した。約73人のアメリカ人捕虜を含む多くの囚人が、栄養失調、病気、殴打などで死亡した。 強制労働収容所では、水素化により褐炭を軍用の燃料に変える秘密計画の一部を実施した。その他の目的は「労働による絶滅」もあった。囚人を非人道的な労働条件と生活条件下で、故意的に飢餓に苦しませて餓死するように強制労働させた。二次的な労働による絶滅の目的で、連合軍が侵攻して戦争が終結する直前まで、捕虜に強制死行進を強要した。
 捕虜は強制収容所の囚人と一緒に働き、地下弾薬工場のために17本の地下トンネルを掘った。栄養失調、病気、そして殴打の結果、約47人の囚人が死亡した。アメリカ軍当局はその事実を認めなかった。1945年4月4日まで生き残った約300人のアメリカ人捕虜が、アメリカ軍が侵攻する前に収容所から追い出された。2週間半もの強制死行進後に解放されたが、行進の間にさらに約36人のアメリカ人捕虜が死亡していた。
 ベルガ捕虜収容所は、ドイツ国防軍のアーウィン・メッツが統括して、非人道的に死刑執行人を捕虜にするよう命じた。連合軍が撤退したドイツ軍を封鎖した時に、自転車で逃げたメッツを、生存したベルガの囚人は捕らえた。1945年3月14日に捕虜がアメリカ軍によって解放された数日後に逮捕されて、アメリカ軍の野戦砲兵の殺害に対して死刑判決が下された。しかし、アメリカの政治情勢と冷戦の幕開けの中で、ソビエトに対して西ヨーロッパを守るアメリカの戦争省が優先順位を変更した。多くのドイツの戦争犯罪者の情報が、ソビエトに流れる可能性を恐れた。メッツは20年の禁固刑に減刑されて、結局は9年間の刑期だけで釈放された。



2019年4月12日金曜日

南軍の塹壕陣地に対する北軍の白兵戦の突撃で、殺害された南軍兵士の死体が倒れて仰向けになった。

アメリカ南北戦争において、1864年5月9日から18日まで北軍と南軍がスポットシルヴァニアの戦いが勃発した。南軍の塹壕陣地に対する北軍の白兵戦の突撃で、殺害された南軍兵士の死体が倒れて仰向けになった。スポットシルヴァニアの戦いで、北軍は約10万人中に戦死者は約2,725人に、戦傷者は約1,034人に達した、南軍は約5万2000人中に戦死者は約1,467人に、戦傷者は約6,235人も犠牲となった。
 1963年5月のビックスバーグ、そして1863年7月のゲティスバーグにおける北軍の侵略は、南北戦争の転換点となった。その後も1年半以上にわたって激しい流血を伴う戦いが全面的に継続した。1864年5月に北軍はバージニア州内に深く進軍して、スポットシルバニアの付近における荒野の戦いで、南軍との間で3日間にわたる戦闘により、両軍ともに多大な犠牲を伴った。北軍はさらなる侵攻に執着して、その直後の2日後にはスポットシルバニアの戦いで、ほぼ1年間に及んだ東部戦線での戦いを集結するような5日間にわたる激しい塹壕戦が行われた。
 戦闘は激しいままに、北南軍の強力な武器により、地表が平らになり、兵士たちは塹壕から飛び出しては白兵突撃を繰り返して犠牲になった。南軍の塹壕の突出部であるミュール・シューの地域である「ブラッディ・アングル」に対して、北軍が白兵戦争で突撃して南軍が打ち砕かれた。5月13日には南軍が新たな塹壕に撤退して、北軍の侵攻は効果もなくなり18日には無益な停戦となった。近代戦における白兵戦は、最終的な銃撃後の突撃や、塹壕内における戦闘に伴った。歩兵の主力銃が装填間隔の長さから、至近距離で複数の敵と銃で渡り合えない限界を、銃剣、ナイフ、棍棒や格闘などで殺傷した。



2019年4月11日木曜日

日本軍兵士は全員死亡するために、バンザイ突撃だけでなく、狙撃銃をのどに当て足趾で引き金を引いて自射した。

アメリカ軍の膨大で圧倒的な武力で、エニウェトク環礁の日本軍兵士は刀折れ矢もつきた。日本軍兵士は全員が死亡する玉砕をした。バンザイ突撃して戦死するだけでなく、日本刀で切腹、狙撃銃をのどに当て、足趾で引き金を引いて自決した。
 1944年2月20日にエニウェトク環礁にアメリカ軍歩兵が上陸を開始した。上陸から3時間後に日本軍からの反撃で一時的に進撃が頓挫した。後援の海兵連隊が派遣されて、再び侵攻を盛り返した。2月21日から23日午後まで、散発的な抵抗を受け続けた。日本軍兵士による2月21日早朝と午後に突撃するバンザイ突撃が、エニウェトク島における最後の軍事的抵抗となった。日本軍約3,560人の犠牲者は、捕虜以外は全員が死亡した。アメリカ軍約10,376人の犠牲者は、戦死と行方不明は約195名、戦傷者は約521名に達した。


【閲覧留意】

 世界初の水素爆弾の実験が、1952年10月31日にマーシャル諸島のエニウェトク環礁で強行された。中部太平洋のマーシャル諸島にあるエニウェトク環礁では、アメリカにより約44回もの核実験が実施された。水素爆発の爆発規模のTNT火薬の総量では約3万3千キロトン、広島原子爆弾の約16キロトンの約2,000発分を上回った。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日の水素爆弾から被曝したビキニ環礁の約23回より多かった。エニウェトク環礁は無人環礁となり、地球原爆化から地球水爆化による地球撲滅にむけた実験地点となった。

2019年4月10日水曜日

アフガニスタンのタガブの戦闘で、銃殺されたソ連軍兵士の武器と武装具は剥ぎ取られ死体は山岳地帯に放置された。

アフガニスタンの首都カブールの北東約60kmのタガブの戦闘で、ソ連軍兵士が銃殺された胸に弾痕があった。銃殺されたソ連兵士から武器と武装具は、剥ぎ取られて死体は山岳地帯に放置された。その死体の周りに多数のイスラム聖戦士が取り囲んだ。
 アフガニスタンは山岳地帯が延々と続き、ソ連の戦車や装甲車は険しい山岳地帯の侵入は困難となった。ゲリラ訓練を受けたアフガニスタン兵は、劣悪な気候でも動き回り、地形をよく熟知したパルチザン戦で、狭い渓谷の道路を進むソ連軍の機動部隊を山岳地帯から待ち伏せ攻撃した。追撃するソ連軍に対しては、地雷源で立ち往生した部隊を襲撃した。1979年12月からのソ連のアフガニスタン侵攻は、1989年2月25日の撤退までにアフガニスタン戦争に約62万人の兵力を投入し、死亡者数は病死を含めて約1万4500人と戦傷者は約5万人にものぼった。
 1989年2月のソ連軍の撤退しても、アフガニスタンは混迷を深めた。ソ連に抵抗したイスラム聖戦士のムジャヒディンの主導権争いで内戦状態に突入した。1994年にイスラム神学校のマドラサの学生らがタリバンを結成して、政権を樹立した。2001年のアメリカ同時テロを契機としたアフガン戦争が勃発した。2002年6月にはボン合意に基づき、暫定政権議長を大統領とする移行政権が成立した。2014年末に国連治安部隊(ISAF)からアフガニスタン治安部隊に治安権限が委譲され,2015年からアフガニスタン政府が治安に責任を負った。ロシアは反タリバンから一転して、2015年頃からイスラム教スンニ派過激組織であるイスラム国(IS)の抑止にタリバンを支援している。


https://drive.google.com/file/d/1LfVfQIAx9ss6nBrkptMUIaBuyJMLPRlT/view?usp=sharing

2019年4月9日火曜日

バングラディッシュ独立戦争にて、若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。

バングラディッシュにおいて、1971年11月に若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。死体はバラバラに削られて、肉塊が投げられた。バングラデシュ独立戦争において、独立を阻止するべく西パキスタン軍に加えて過激なイスラム政治団体などが、独立運動家だけでなく、知識人やヒンドゥー教徒らも標的として、約100万人以上も殺戮を繰り返した。
 1947年8月14日にインド・パキスタン分離独立により、約1600mほど離れたウルドゥ語の西パキスタンとベンガル語の東パキスタンとが、イスラム教を基盤に統合独立した。東ベンガル州として独立して、1955年に東パキスタンと改称された。ベンガル語でベンガル人の国を、バングラディッシュと呼称した。東パキスタンで1970年12月に初めての普通選挙で、第1党は東パキスタンを基盤とするアワミ連盟、第2党は西パキスタンの人民党が選出された。
 軍事政権が1971年3月1日に国会の無期限停止の宣告に対して、抗議デモが連日に勃発した。各地で、東パキスタン軍隊とデモ隊とが衝突した内戦となり、多数の死者が発生した。ついに3月25日から軍隊は、独立支持勢力だけだなく無差別にベンガル人に対する虐待と虐殺を執行した。5月にはパキスタンは独立派を制圧して、 さらに東パキスタン内の反独立派(パキスタン支持派)によるベンガル人の大量虐殺が行われて、大量の難民がインドに逃避した。それを口実にインドが軍事介入して、東パキスタンの市民や学生らは解放軍を結成して内戦に陥った。12月3日にインドは東パキスタンに侵攻して、第3次インド・パキスタン戦争が勃発した。12月16日に東パキスタン政府軍が降伏して、ベンガル民族を基盤にバングラディッシュとして分離独立した。
 1975年8月15日にバングラディッシュ軍は大統領を暗殺し、連発するクーデターで政権を掌握した。軍事支配は、バングラデシュ市民を再び抑圧して、市民の言論の自由は奪われた。市民が多くの犠牲を払い、バングラディシュの解放・独立へ共に戦ったことは、次第に無視され忘却された。


https://drive.google.com/file/d/1SdFiiPVVfPDgz_PIQPeTdQ33Fti78i1s/view?usp=sharing
【閲覧留意】『第3回人間とは何か? 世界写真展 明日はあるか』Fig 46, 松屋、1975年

2019年4月9日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 210,000回

2019年4月8日月曜日

ロシア赤軍と白軍の内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。

ロシア社会労働党の多数派であるボリシェビキが1917年に武力革命により、反革命軍である白軍に対する内戦が勃発した。内戦は白軍勢力の崩壊をもって、1922年まで散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。
 「国際婦人デー」の1917年3月8日に首都ペトログラードの婦人労働者が、パン不足に抗議するデモを決行して全国的なゼネストへ発展した。更に3月12日には兵士達が反乱を起こし「三月革命」が勃発した。革命運動は各地に波及し、ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝は崩壊した。
 革命後の政権は戦争継続を主張するブルジョワジーと革命勢力である「ソビエト」の二重権力体制に移行した。7月3日にボリシェビキの武装デモが、臨時政府軍隊により制圧された。帝政復活を目指すロシア軍事最高司令官が8月27日に臨時政府への反乱を起こし、ボリシェビキとソビエトが阻止した。ボリシェビキは11月クーデター決行し、共産党による恐るべき大粛清と武装蜂起により新政府「人民委員会議」を奪取した。人民委員会議は、1918年1月の憲法制定会議の初日に、武力で議会を強制閉鎖する強硬手段で、反ボリシェビキ勢力を追放した。1918年7月に社会革命党左派をソビエトから排除して、ボリシェビキによる一党独裁体制を確立した。1918年にボリシェビキを「ロシア共産党」と改称し、重要産業、銀行の国有化、臨時政府の外債の破棄などを行った。
 反発する社会革命党系勢力によるテロ行為が頻発し、旧ロシア軍の将軍たちは反革命軍(白軍)を組織して内戦が勃発した。創設された赤軍は反革命勢力に対抗するとともに、「戦時共産主義」とよばれる非常措置をとった。すべての土地、工場を国有化し商業活動を停止して労働義務性を制定して、新たに設立された秘密警察「チェーカー」による反革命分子の摘発と粛清が断行された。農民は銃による農作物の強制徴発が行われ、穀物を渡す事を拒否する者はその場で銃殺された。白軍政権の崩壊をもって、1922年に散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。
 ソビエト社会主義共和国連邦の代償による経済政策が頓挫して、急増した餓死者と粛清者の死者数は少なくとも約1400万人に上った。レーニンはさらに苛烈な政策で、反対派を粛正する為、密偵、窃盗犯、ならず者、反革命運動家などを即座に射殺した。1924年のレーニンの死後に、独裁体制を引き継いだスターリンは更に激化した。十月革命が起きた1917年から1987年までに約6,200万人が死亡し、約4,000万人は強制収容所で死亡した。レーニンは社会主義国家建設のために約400万人の命を奪い、スターリンは維持のため約4,260万人の人命を奪った。

https://drive.google.com/file/d/1mci5B-0xz3WTNzpOEqKD-pipFSpL_Kpe/view?usp=sharing

2019年4月7日日曜日

マニラの戦いは、太平洋戦争で最大規模の市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。

太平洋戦争において、アメリカ軍が1944年10月20日の上陸から1945年6月28日までフィリピンの戦いで日本軍と激烈な衝突を繰り返した。首都のマニラの戦いは、1945年2月3日から3月3日までフィリピンの首都のマニラで攻防した日本軍とアメリカ軍の市街戦が勃発した。日本軍は敗退して、約3年間に及んだ日本軍のフィリピンの占領と統治は終結した。太平洋戦争では最大規模となる市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人の市民が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。
 日本軍の主力は、持久戦のために北部ルソンに転進した。マニラに残存した日本軍は、悲惨な激戦地となったエルミタ・マテラ地区で、建物や民家などに潜伏して徹底抗戦をはかった。日本軍は背後の敵となる恐れがあるマニラ市民なども大量に虐殺した。マニラ市民は日本軍の銃剣や機銃掃射で殺害され続け、地区全てにて女子と子供らの弱者は組織的に虐待した。アメリカ米軍は、建物や民家からの狙撃の損害を抑止するために、重砲火による無差別砲撃でマニラ市街を次々と壊滅した。マニラ市民の犠牲の約6割は日本軍による殺戮、約4割はアメリカ軍の重砲火による殺害と推定された。日本軍の戦死者は約16,665人、アメリカ軍の戦死者は約1010 人と戦傷者は約5,565人であった。
 マニラ市内の随所で繰り広げた日本軍による虐待と虐殺は、無差別の非戦闘員である市民の殺害の範囲を超えたジェノサイド(大量虐殺)となった。南京虐殺事件は日本軍の占領開始からの十分な記録が残らず、論争が絶えない。マニラの戦いは、アメリカ軍と対峙してマニラの開放までに、日本軍の残虐行為を捜査して記録された。激戦となったエルミタ・マラテ地区は、アメリカ人とフィリピン人だけでなく、多数の外国人を含む富裕層の住宅街を含み、大学・総合病院などが密集する地区でもあった。太平洋戦争のマニラの戦の残虐行為は、東京裁判やマニラ裁判などに提出された宣誓口供書と日記・回顧録などを証拠として、日本軍史上で最も詳細に記録された蛮行として大将の死刑が執行された。



2019年4月6日土曜日

原子爆弾の熱線による重度の背中の火傷に伴う疼痛により、救護所で背中を下にできず苦悶してうつ伏せに寝込むんだ。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾の炸裂から発する激烈なるすさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力などが複合して押し寄せた。男性は、熱線による悲惨な重度の火傷を背中一面に受傷した。火傷によるひどいびらんは、一面に表皮が破れ落ちた。火傷に伴う疼痛によって、救護所のふとんに仰向けになったままで、背中を下にできなかった。そのために背中を上にして、苦悶してうつ伏せに寝込むしかなかった。少しでも身体を動かすものなら、傷口が干割れして、中から膿血がタラタラと流れて飛び上がるほど疼痛を伴った。毎日うつ伏せの寝たきり状態で苦痛を耐え忍んだ。
 人体に熱傷を与えたのは、爆発後の約0.3秒から3秒の間に放射された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体皮膚の熱線と熱傷は、広島で爆心地から約3.5km、長崎で約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3km、長崎では 約3.5kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった人体に致命的な熱線熱傷を受け、被爆死の約20から30%が原子爆弾による熱傷と推定された。
   原子爆弾の炸裂直後から発したわずか数秒間の激烈な熱線により、被爆者の建物や衣服から十分に遮断されていない皮膚に放射された。凄まじい熱戦により、重度の火傷による犠牲をもたらした。爆心地からの距離や方向で火傷の程度は異なった。前方向から被爆した人は腹部に火傷、後方向から被爆した人は背中側が火傷を受傷した。重度の火傷になると表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の軟部組織や骨まで開放し露出した。

https://drive.google.com/file/d/1-9zbST5bNNtIYo-k2zrYS2O1mBK6HW8A/view?usp=sharing


2019年4月5日金曜日

イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。

第一次世界大戦にて、1916年7月1日にボーモン・アメルの戦いが勃発した。連合国軍によりソンム攻勢に対抗して、ドイツ軍が大規模な地下要塞をボーモン・アメル他8つの村に敷設した。イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。
 イギリス軍は、ボーモン・アメルの要塞を侵略するために、地下要塞の最前線の塹壕の地下に大規模な時限付きの10個の地雷を設置した。地雷が午前7時20分にドイツ軍の塹壕で大爆発した。ボーモン・アメルの要塞で多数のドイツ軍兵士が塹壕の下で爆死した。その付近に設置されていたホーソン・リッジ要塞に対するイギリス軍の大規模な地雷は、イギリス軍の攻撃を始める予定時間よりも約10分ほど前に爆発した。イギリス軍は地上攻撃した後で大爆発して犠牲者が出た。さらに、塹壕から乗り出したイギリス軍兵士は、横一列に隊列を組んで進軍した。ドイツ軍は、爆発によってできた巨大な塹壕に潜入して、イギリス軍を狙い撃ちした。イギリス軍は、ドイツ軍の占領の境界に設置された有刺鉄線に阻まれて、わずか約40分間で多数の犠牲者を出して壊滅した。さらにイギリス軍は前線壕に撤退する前に犠牲を出し、自軍の有刺鉄線の切れ間を抜けた後退に、ドイツ軍の集中砲火を浴びた。ジョン・メイスフィールドは「第一波のイギリス軍兵士が胸墻をよじのぼる。叫喚と暗闘、そして死の気配」とオールド・フロント・ラインで記録した。
  予備隊であったカナダ兵士の約778人のうち戦死傷者は約684人にも達した。戦闘初日のイギリス軍は、一日の犠牲としては史上最多のとなる戦死者約2万名を含めた約6万人の戦傷者を出した。一方のフランス軍の犠牲は初日で約7000人で、ドイツ軍は約1万人といわれも、その犠牲者数の記録は残存せず不詳となった。ソンムの戦いは、冬が到来し進撃が困難になり、約4ケ月後の1914年11月18日に戦いは終わった。しかし、結局は相互に戦線の突破はならず、10km程度の前線の東進と引き替えに、イギリス連邦は約42万(内死者行方不明10万)人、フランス軍は20万(内死者行方不明5万)人、ドイツ軍は犠牲者約47万(内死者行方不明は16万、捕虜3万)を伴ったと言われる。相互とも多くの血を流し、人命を無駄にしても戦線には大きな影響は無かった。



2019年4月4日木曜日

ナムル島の空爆と砲撃で爆死した日本軍兵士は、軍服は剥ぎ取られて荒野に吹き飛んだ。

太平洋戦争にて、マーシャル群島におけるクェゼリン島の近隣のナムル島に対する空襲による空爆と戦艦からの砲射撃は、すさまじい武力による破壊力でほとんどが壊滅した。ナムル島における地上の日本軍兵士は壊滅して爆死して、、上下の軍服から剥ぎ取られて、荒野に吹き飛ばされた。地上にあった建造物や樹林などは、強烈なる爆破力と爆風から大震災などにより破滅した。
 第一次世界大戦後に、日本はマーシャル群島など赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアを委任統治領として、国際連盟脱退後も統治していた。アメリカ軍は、太平洋戦争が勃発して以来に、初めて日本軍の統治領域に侵攻して占領した。世界最大のクェゼリン環礁の北島群のナムル島に対して、1944年1月30日から約7,000トンもの爆撃と砲弾で空爆をした。アメリカ軍は2月2日から上陸して、北島群の日本軍兵士の約2,900人は2月3日にはほとんど全滅した。クェゼリン環礁を始めマーシャル群島における日本軍兵士の約11,660のうち、戦死者数は約10,840で戦死率は約93%にも達して、生存した捕虜はわずか約774人であった。日本軍の大本営は、2月25日になって全滅した玉砕を公表して、戦死して上官の大尉が少佐に一階級の進級した。陸軍大将かつ首相であった東条英機は、日本軍兵士が玉砕して全滅しても、「物事は考ヘ様で、寧ろ敵の背後に我が基地があると考へればよい。而して機を見て両方より挟撃、反撃しなければならない。」と言明した。



2019年4月3日水曜日

パレスチナ難民キャンプでイスラエル民兵に虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。

イスラエル軍が1982年にレバノンの首都であるベイルートに侵攻した。イスラエル人民兵は、難民キャンプのパレスチナ人を無差別に大量虐殺した。難民キャンプで虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。頸の周囲が腫れ上がった少年の死体は、路上の瓦礫に放り出されて放置された。9月16日から9月18日に、サブラとシャティーラ難民キャンプのパレスチナ人らを大量虐殺した。9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りから勃発した。イスラエル軍のレバノン侵攻により、約75,000人のレバノン人とパレスチナ人が戦死傷した。
 イスラエル軍は1982年にレバノン国境を越えて侵攻して、ベイルートなどのパレスチナ解放機構(PLO)のテロ拠点を攻撃した。イスラエル軍は圧倒的な浮力でベイルートは壊滅した。PLOはレバノンからチュニジアに拠点を移してから、イスラエル軍はレバノンのベイルートを侵攻して大量虐殺が勃発した。レバノンのパレスチナ人難民を、ヨルダン川より東に追いやった。1985年から2000年までレバノン南部を侵略した。
   イスラエル軍はレバノン侵攻とベイルート包囲して、PLOがベイルートから撤退した後、親イスラエルのキリスト教右派民兵が難民キャンプ地域に入り大量虐殺をした。大規模な死者数や犠牲者数は確定されない。家族ごと死んで集団で埋葬されたり、行方不明のまま死亡が確認されなかた。国連総会で「ジェノサイド(大量虐殺)」とする決議が採択された。2001年9月11日の同時多発テロ事件後に、アメリカ軍の対テロ戦争と呼応して、2006年7月からイスラエル軍は、ヨルダン川西岸に軍事侵攻を繰り返し、パレスチナ自治政府をヨルダン川西岸で包囲して、国連の撤退決議で10月に撤退した。



2019年4月2日火曜日

日露戦争に向けた雪中行軍演習に巻き込まれて、積雪の中で日本軍兵士の凍死体が、八甲山の山中に散乱した。

八甲田山雪中行軍遭難事件に巻き込まれて、積雪の中で凍死した死体が、八甲山の山中に散乱した。1904年に勃発した日露戦争に向けて、青森県内で冬季寒冷と厳寒の軍事演習で甚大な悲惨な凍死者を出した。
 1902年1月に日露戦争の軍事演習として、耐寒雪中に行軍が挙行された。青森市街から八甲田山に向かう雪中行軍で遭難した。弘前連隊の兵士38人は1月20日から行軍して、約240kmを11日間で全員無事に踏破して帰還した。弘前連隊は、7人の村民に過酷な八甲田超えの道案内の酷使をさせられて、町が見えたとたんにその場に置き去りにした。村民は7人全員が凍傷を負い、うち1名は重度障害者となり16年後に死亡、うち1人は凍傷のため頬の穴で飲水困難となった。
 青森連隊は1月23日から行軍して、八甲田山の周辺で遭難した。雪中行軍兵士210人のうちで、山中で193人の凍死者を出して、救出後に6人が死亡して、11人のみが生存した生存率約5%の大惨事となった。193人の凍死者のうちで、発見されて死亡が確認できたのは135人のみで、最終的に58人の凍死体は発見できなかった。生存者のうち8人が凍傷のため四肢が切断された。体温は通常37℃前後で、約32℃まで下がると脳機能の低下により思考や活動ができなくなり、さらに体温が下がると昏睡から死に至る。将校は下士官に比べて装備が良く生還できた割合も高く、将校が脱いだフランネルの服を着れた伍長が助かった。
 青森連隊が予定日の1月24日にも帰還しないため、1月25日の捜索隊によって遭難が確認された。捜索は、厳寒のために困難をきわめて、2月7日には約3,000人もの兵士と地元民が投入された。捜索隊からも、多数の凍傷者が続出した。捜索には、厳寒の北海道のアイヌの人びとも加えた。陸軍は弁明のため歪曲した『遭難始末』を1902年7月23日に報告して、1971年9月に新田次郎が「八甲田山死の彷徨」でさらに陸軍を美談化して映画化された。




2019年4月1日月曜日

舞鶴港の引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。

ソビエト連邦や中国大陸からの引揚船が、最終引揚の前年となる1957年5月24日に舞鶴港に到着した。舞鶴地方の引揚援護局が設けたアーチの下に日本各地から多くの人びとが集まった。その引揚の先頭は、多数の無言の帰国となった死亡した人びとの遺骨が降りて来た。舞鶴港の大浦中学校の女子生徒の首から遺骨箱を白布よって引き下げた。緊張気味に両手で丁重に持ち運んだ。無念に遺骨を待ち迎える縁者は、摘んだ菊の花束を持って待ち受けた。
 次いで病人や戦傷者らが担架で緊急に護送された。待ち受ける関係者の歓声の中で、両手に荷物や子供を抱えた引揚者が降りて来た。実感をもって、しっかりと日本の本土を踏みしめた。引揚者は肉親の出迎えを受けて、再開を果たして手を握りしめて共に涙を流した。舞鶴港では、引揚船が入港するたびに家族だけでなく地元も心から歓迎して慰問した。いまだ帰れぬ我が子や夫を待つ母親の姿が、「岸壁の母・妻」と呼ばれて、人びとも歌や映画で悲嘆に暮れた。
 1945年8月15日に第2次世界大戦の終戦に伴って、海外に残留していた日本人は、兵士約350万人と民間人約310万人の約660万人以上にも達した。海外の残留者が日本に帰国する引揚げが始まった。日本政府は、中国大陸に近い舞鶴港を引揚港として指定した。1945年10月7日に約2,700人が乗船した第一引揚船「雲仙丸」が入港した。舞鶴港は1958年9月7日の約472人が乗船した最終引揚船「白山丸」の入港まで、13年間で、のべ約426隻もの約13年間の引揚事業を担った。
 日本政府は1945年9月に邦人引揚計画と引揚応急援護要綱を決定し、その施策の一部として引揚民事務所を開設させ、引揚者の援護などの事務を行わせた。9月28日に、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司の10港を引揚港と指定した。1950年からは日本国内の唯一の引揚港となった舞鶴港は、主として中国大陸やソビエト連邦からの引揚者を、約13年間で約16,269柱の遺骨と約664,531人の生存者を受け入れた。終戦直後から約60万人の日本人がソビエト連邦に送還された。約472,000人が極寒のシベリア各地や北極圏からコーカサス等に悲惨な収容所に抑留されて強制労働を強要された。