2024年1月31日水曜日

ドイツ民主共和国軍兵士は、ベルリン北部のザクセンハウゼン特別収容所のオラニエンブルク近郊の集団墓地から、囚人の人骨群を発見した。1945年から1950年にソ連の内務人民委員部による囚人の犠牲者と考えられた。

ドイツ民主共和国(東ドイツ, GDR)軍兵士は、ベルリン北部のザクセンハウゼン特別収容所のオラニエンブルク近郊の集団墓地から、いくつかの囚人の人骨群を発見した。1945年から1950年にかけてソ連の秘密情報機関である内務人民委員部(NKVD)によるザクセンハウゼン特別収容所の囚人の犠牲者と考えられた。ナチスの幹部が収容され、政治犯やソ連軍事法廷の判決を受けた収容者も収容された

 ザクセンハウゼン強制収容所は1936年にナチス親衛隊によって設立され、最初の囚人を1938年から受け入れた。1945年の終戦までに、ザクセンハウゼン強制収容所には約11,000人のユダヤ人が収容された。ソ連軍によって1945年4月22日に解放されたナチスドイツのザクセンハウゼン強制収容所は、1945年8月から1950年3月まで、ソビエト軍政の特別収容所として転用された。ドイツのオラニエンブルク近郊にあったナチスの強制収容所は、1936年5月からナチス・ドイツの敗戦直前の1945年4月まで使用された。政治犯やソビエト軍事裁判によって判決を受けた収容者と同様に、ナチスの幹部も特別収容された。

 連合国の非ナチ化政策の一環として、ソ連軍は、国家社会主義政権の軍事的敗北後に、ソ連軍の占領地域に10の特別収容所を設置した。ザクセンハウゼンの第7特別収容所(1948年から第1)は、約60,000人の被収容者を収容して、特別収容所の中でも飛び抜けて多かった。1945年から1950年の間に、約12,000人が飢えと病気で死亡した。1946年から1947年の飢餓の冬にて、わずかな配給が削減されて、多くの死者が出た。

 残忍な尋問と仮収容所での状況を経て、ほとんどの被収容者は、ザクセンハウゼン特別収容所の建物はより良い宿泊施設を提供したが、バラック小屋は過密状態であった。被抑留者はむき出しの木板の上に詰め込まれた。破滅的な衛生状態、食糧や医薬品、衣服、暖房用燃料の不足は、病気や伝染病を引き起こした。死亡率は高く、1947年には最高に達した。収容者は外部との接触を一切許されず、特別収容所は、沈黙の収容所とも呼ばれ、強制労働収容所ではなかった。

 特別収容所で死亡した囚人たちは、匿名で集団墓地に埋葬された3つの集団墓地が、ベルリン崩壊後に発見されて公開された。ドイツ民主共和国建国から数ヵ月後の1950年3月に、ソ連軍の特別収容所が解散した。ゼクセンハウゼン特別収容所から約8000人の囚人が釈放され、少数の囚人はソ連に連行された。最後の被抑留者は、7,000人以上のソ連市民とロシア移民、捕虜のソ連人、元強制労働者、犯罪を犯した赤軍兵士であった。




2024年1月30日火曜日

太平洋戦争のタラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍の海兵隊員と水兵隊員の死体が、ベティオ島の波打ち際や砂浜、砲弾の穴や倒れたヤシの木の間に倒れた。

太平洋戦争のタラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍の海兵隊員と水兵隊員の死体が、ベティオ島の波打ち際や砂浜、砲弾の穴や倒れたヤシの木の間に倒れた。アメリカ軍兵士の死体はベティオ島に点在して、太平洋の波に洗われた。日本軍の戦闘部隊と朝鮮人の労働部隊を含む守備隊の約4,700人近くの隊員は、捕虜17人を除いて全員が死亡した。

 1943年11月20日から11月25日までガルバニック作戦で、アメリカ海軍と海兵隊の部隊は、タラワ環礁に水陸両用攻撃から占領が遂行された。「上陸拠点はアメリカ軍によって打ち抜かれた。タラワ環礁で日本軍の基地を大破した」とアメリカの新聞の見出しが躍った。しばしば前線から送られた戦闘の写真が添えられた。実際より戦況が悪く見える写真には、見慣れないアメリカ軍兵士の死体が写った割合が異常に高かった。アメリカ軍兵士の死体が短時間で浜辺に散乱したため、死者数は衝撃的に増大した。戦死傷者リストがマスコミに公開された。地元の海兵隊員は国のために死すと、戦死者の写真を肖像画に差し替えた。大流血のタラワの戦いは、小さなベティオ島を約6000人もの死体で埋め尽くした。

 タラワ環礁のベティオ島は約1平方kmの島で、海面からわずか数mの高さの1.21k㎡の砂の島だった。日本軍の防衛工学の頂点の要塞や要塞が点在した。砂で覆われたコンクリートブロックハウス、ヤシの木の壕、対艦砲台、スリット塹壕、地雷原、護岸の発射口などがベティオ島に散在した。ガルバニック作戦におけるアメリカ軍の死傷者数は、海兵隊997人と水兵30人の死者、海兵隊88人の行方不明と、海兵隊員2,233人と水兵59人が戦傷者であった。

 タラワ環礁は、赤道からほんの数度ずれて位置して、戦闘中の気温は三桁に達して、暑さと湿気が腐敗の条件を作り出した。まだ2日しか経っていない死体が、すでに病的な緑色に変色した。珊瑚の埃と死の瘴気、吐き気を催し、ぞっとする悪臭が空気中に充満した。ベティオ島の面積が狭くて、熾烈な戦闘が繰り広げられて、日本軍の絶え間ない攻撃を受けた。大量に転がって腐敗して崩壊の早い死体を地下に運ぶことが不可欠で、死者を適切に埋葬する時間はなかった。




2024年1月29日月曜日

ソ連軍による壊滅的な集中砲火の後に、ゼーロウ高地にはドイツ軍兵士の死体が散乱した。ベルリン郊外東70kmでソ連軍に対抗するために配備されていたドイツ国防軍の残存部隊は制圧された。

ゼーロウ(Seelow)高地でのドイツ軍の必死の反撃は、主要方面での数日間にわたる激しい戦闘に繋がった。ソ連軍による壊滅的な集中砲火の後に、ゼーロウ高地にはドイツ軍兵士の死体が散乱した。ベルリン東郊外でソ連軍に対抗するために配備されていたドイツ国防軍の残存部隊は制圧された。多くのドイツ軍兵士は、ソ連軍は降伏も捕虜も受け入れないなら、どうせ死ぬのだから、戦って死んだ方がましだと考えていた。脱走兵や敗北者の容疑者は親衛隊が即刻処刑した。

 首都ベルリンから約70km東のゼーロウ高地の戦いは、第二次世界大戦末期の東部戦線にて、1945年4月16日から4月19日にかけて戦闘が勃発した。ベルリンの東に位置するゼーロー高地を、ソ連軍が侵攻して占領した戦いである。ベルリンの門として知られるゼーロウ高台を、ソ連軍の第1ベラルーシ戦線が攻撃した。ドイツ軍が首都ベルリンを守ろうと戦闘は3日間続き、非常に激しい戦闘となった。ドイツ軍陣地は4月19日についに粉砕され、ソ連軍にベルリンへの道が開かれた。

 4月16日午前3時から、ドイツ軍陣地への大規模な砲撃を開始した。沼地と化した大地に、ドイツ軍による集中砲撃でソ連軍は多大な犠牲者を出した。4月16日夜から、ソ連軍の砲兵隊が侵攻した。4月17日朝、大規模な砲撃が開始され、ゼーロウ高地に対するソ連軍は、ドイツ軍の守備隊に対して少しずつ前進を始めた。ソ連軍は4月18日に再び攻撃を開始して、大きな犠牲を払いながらもドイツ軍の戦線を突破し始めた。ソ連軍は夕方までに、ドイツ軍の最終防衛ラインに到達した。ソ連軍は北側のゼーロウ高台を迂回し始めた。4月19日に突進したソ連軍は、ドイツ軍の最後の防衛ラインを圧倒した。ドイツ軍は陣地を崩されて、ベルリンに向かって西方に後退し始めた。ベルリンへの道が開かれたため、ソ連軍はベルリンへの急速な進撃を開始した。

 ゼーロウ高地の戦いで、ソ連軍は約3万人以上の戦死者を出し、ドイツ軍の戦死者は約12,000人に上った。ドイツ軍の敗北により、ソビエトとベルリンを結ぶ最後の組織的なドイツ軍の防衛は崩壊した。ソ連軍は4月23日にドイツの首都ベルリンを包囲して、ベルリンの最終決戦を開始した。5月2日にベルリンは陥落し、第二次世界大戦の西部戦線は5月7日に、東部戦線は5月9日に無条件降伏して終結した。




2024年1月28日日曜日

2023年10月22日にイスラエルとパレスチナのハマス武装グループとの戦闘が続き、ガザ地区中部のデイル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所に、イスラエル軍の空爆で死亡した子どもたちの6人の死体が横たわった。

2023年10月22日、イスラエルとパレスチナのハマス武装グループとの戦闘が続く中で、ガザ地区中部のデイル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所に、イスラエル軍の空爆で死亡した子どもたちの6人の死体が横たわった。ガザ地区でイスラエルの空爆によって死亡した6人の子どもたちの遺体がアル・アクサ病院の死体安置室に横たわった。アル・アクサ病院の同僚によると、子どもたちは同じ家に住む2つの家族の子どもたちであった。

 ガザ地区では、2023年11月28日の24時間で、救助隊はこの24時間で、ガザ地区の瓦礫の下や道路から160体の遺体を収容した。10月7日のイスラエルによる攻撃の開始以来の死者数は6,150人以上の子供と4,000人以上の女性を含む15,000人以上となった。瓦礫を撤去する機械や設備が不足しているため、救助隊はこれまで手作業や原始的な方法で遺体を掘り出した。約6500人の行方不明者がまだ瓦礫の下にいるか行方不明である。

 11月24日に一時的な人道的停戦が始まって以来、レスキュー隊や救急隊、市民たちは、持てる力を尽くしてできるだけ多くの死体を収容した。この5日間で、ガザ地区を襲った人道的な大惨事の恐ろしさが表明した。イスラエル軍の空爆、陸爆、海上爆撃の結果、約30万戸の住宅が被害を受け、そのうち5万戸は完全に破壊された。

 休戦中にもかかわらず、占領軍はガザ地区南部に避難している市民が北部の市や町に戻るのを阻止した。サラ・アルディン通りに駐留するイスラエル占領軍は、自宅を点検し行方不明の家族を捜索するために北部へ向かおうとした市民に対して銃弾を撃ち込み、3人が死亡して、他の市民も負傷した。

 12月14日には、イスラエル軍によるガザ地区への砲撃による死者は約18,787人と負傷者は50,897人以上に上り、そのほとんどが女性と子どもであると、ガザ地区の保健省が発表した。多数の犠牲者がまだ瓦礫の下や道路に横たわっている。













Warning: The bodies of children killed in an Israeli strike, lie on the floor at the morgue of the Al-Aqsa hospital in Deir Balah in the central Gaza Strip on October 22, 2023, as battles continue between Israel and the Palestinian Hamas group. (MAHMUD HAMS / AFP)




2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日の写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月26日金曜日

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった射殺事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。東ドイツ国民を無制限に支配するドイツ社会主義統一党(SED)国家の主張は、国境制度にて最も明確かつ残酷に示された。ドイツ民主共和国当局の稀有な許可なしに国外に脱出する者は、健康や生命を危険にさらされた。

  冷戦下の1961年8月13日からベルリンの壁が建設されると、東ドイツ当局は自由な西ベルリンと管理下の地区を壁で分離した。公式発表によると、1989年までに国境を超えようとして射殺された東ドイツ市民の数は約1,245人に上る。そのうち1989年までにベルリンの壁を越えようとして約136人が殺害された。1989年に、エーリッヒ・ホーネッカーがベルリンの壁は50年後、あるいは100年後も存在するだろうと述べた時に、すでに少なくとも130人が国境警備隊の銃撃によって殺害されていた。最初の犠牲者は、1961年8月22日早朝、女性のアイダ・ジークマンは脱出を試みて、4階のアパートの窓から飛び降り、歩道に落ちて重傷を負って、ラザロ病院に向かう途中で死亡した。最近では、壁が崩壊する9カ月前の1989年2月に、20歳のクリス・ゲフロイが射殺された。彼がドイツの国境の壁の最後の犠牲者となった。1989年11月9日の夜に、ベルリンの壁は崩壊しして、東西ドイツの国境が開通した。

 多くの人々が、東ドイツの障壁をくぐり抜けて西側に逃亡した。東ドイツ当局は、国境を強化する措置をとった。壁に沿って10mおきに見張り塔が建てられた。東ドイツの国境警備隊の兵士たちは、カメラを渡され、国境の壁が建設される地域を1m単位の記録を命じられた。撮影された約1200枚のネガは、ポツダムの軍事文書館に保管されち段ボール箱の中から偶然に発見された。国境警備中の兵士が軽犯罪を犯すと、厳しく罰せられた。東ドイツ政府は、1973年10月に西ドイツに脱国者を処理する国境警備隊に射殺命令を出した。逃亡が成功して国境を越えて西ドイツに入った場合には、国境侵犯とドイツ民主共和国からの脱走を防げなかった国境警備隊には懲戒処分が下された。




2024年1月25日木曜日

1945年5月1日午後に、アメリカ軍第1海兵師団は、沖縄戦のアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固めた墳墓から、日本軍は砲火して強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。

沖縄戦にて1945年5月1日午後に、第5海兵隊が残存陣地を占領した時に、日本軍は安波茶(アワチャ)の南端に占領して陣地を固めた。アワチャを通過したアメリカ陸軍戦車は、日本軍から砲火を浴びた。第1海兵師団は、直面したアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固められた沖縄の墳墓から、日本軍は砲火して、強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。死屍累々の恐ろしい戦場を目の当たりにした。アメリカ軍は日本軍陣地を約91mを占領するごとに約200人を損失した。

 沖縄戦にて沖縄本島南部のほぼ中央の安波茶は激戦地となった。アメリカ軍の沖縄本島の上陸後に、日本軍は安波茶地区を頑強に防衛した。1945年5月初旬に、西から侵攻したアメリカ軍海兵隊と北から侵攻したアメリカ陸軍第77師団に対して、日本軍の強固な防衛はアワチャ・ポケットと呼ばれた。

 1945年5月2日には、アメリカ軍海兵隊は大雨の中を侵攻して最も近い高地を占領した。直後に、隣接する強力な地点から日本軍の激しい砲火を受けて、撤退を余儀なくされた。夜間には、アメリカ軍海兵隊員は日本軍の潜入部隊と白兵戦を繰り広げた。1945年5月6日朝には、アメリカ軍第5海兵隊が朝の攻撃を開始する前に、陸軍2個と海兵隊2個の4個大隊のアメリカ軍砲兵隊が、アワチャ・ポケットを砲撃した。1945年5月10日に、アメリカ軍第五海兵隊はついにアワチャ・ポケットを封鎖した。しばしば至近距離での繰り広げられた戦闘を5月10日に終止符を打ち、日本軍は1,000人以上の死者を出した。

 アメリカ軍第1海兵師団第5海兵隊の第77連隊は右側(西側)で、日本軍から激しい抵抗を受けた。この連隊のすぐ前方の日本軍陣地は安波茶の町の南にあり、アワチャ・ポケットと呼ばれる激戦地に編成された。アメリカ軍の重火器の支援を受けた戦車と歩兵の連携が唯一の侵攻手段となった。アワチャ・ポケットが、最終的に包囲が達成されたのは5月11日であった。

 5月11日までに、アメリカ軍第24軍団は、その後の本格的な攻撃に備えて、多くの日本軍陣地を排除した。5月3日から5月10日までの1週間は、東海岸の大木から西の浅川に至る戦線の全般的な強化が行われた。非戦闘員を含め2万人以上の死傷者を出した。首里線上のアメリカ軍は、前田、高知、淡河で戦線を拡張し、通信線をより安全なものにし、5月11日に予定された第10軍の攻撃により有利な地形を獲得した。




2024年1月24日水曜日

ポーランドのウッチのリュブナ通りで強制送還に抵抗したウッチ・ゲトーのユダヤ人は、ユダヤ人警察やドイツ警察とゲシュタポにより、事前の警告なしに路上で虐殺された。

ポーランドのウッチのリュブナ通りで強制送還に抵抗したウッチ(Łódź)・ゲトーのユダヤ人は、ユダヤ人警察やドイツ警察とゲシュタポにより路上で虐殺された。ウッチ・ゲトーのリュブナ通りでは、1942年9月5月から9月12日の強制送還のため、ユダヤ人ゲトー警察は人々を強制的にアパートから追い出した。9月7日からはドイツ警察とゲシュタポは事前の警告なしに発砲して、抵抗があればいつでも路上で殺害した。9月の強制送還では約15,681人が強制送還され、数百人が抵抗のために銃殺され、35人が絞首刑に処された。その瞬間から、ウッチ・ゲットーは強制労働収容所となった。

 ポーランド占領下のウッチ・ゲトーは1942年9月5日から12日に、15,000人以上がチェルムノ・ナド・ネレムの絶滅強制収容所に送られた。強制送還を免れたのは、ゲットー共同体の特権階級の子どもたちの少数だけだった。

 1940年2月8日に、ドイツ当局はポーランド占領下のウッチにゲットーを設置した。ワルシャワ・ゲトーに次ぐ規模で、ゲットーは市内の他の地域から切り離され、フェンスで囲まれて、警備された。ウッチ・ゲットーが存在した4年間で、ユダヤ人など約20万人以上がウッチ・ゲットーに居住した。ゲットーは1944年8月29日まで存在した。その間に約45,000人が飢えと病気で死亡した。その他は、絶滅強制収容所で殺された。終戦まで生存したのは、5~7千人と推定された。

 ウッチ・ゲットーで最も悲劇は、「ヴィエルカ・シュペラ」の強制送還は、主に10歳未満の子どもや65歳以上の高齢者、病人や無職の人々に影響を与えた。強制送還の決定は、1942年8月下旬に大ナチス帝国保安局が下した。1942年9月5日から12日の間、戦争を生き延びたウッチ・ゲットー共同体の人々は、一生心に傷を負った。強制送還の数日前の9月1日と2日に、病院と中央刑務所から避難が、パニックを引き起こした。人々は互いに最悪の予測を伝え合って、逃亡者の多くは殺害されて、命令に反対した職員も殺害された。

 悲劇的な強制送還の直前の1942年9月4日に、チャイム・モルデチャイ・ラムコフスキ長老評議会長は、ドイツ軍はユダヤ人に、子供と老人を手放すよう求めている。子供と老人を私に渡してください。犠牲者を私の手に渡してください。これ以上犠牲者を増やさずに済むと演説した。1944年8月28日に、ラムコフスキはアウシュヴィッツ強制収容所にて、ホロコーストの復讐としてウッチ・ゲトーの囚人に殴り殺された。

 1942年9月5日に、ウッチ・ゲットーの壁に夜間外出禁止令が告知されて、強制送還委員会が設置された。9月12日まで、ユダヤ人ゲットー警察と特別部隊は、名簿に基づいて人々を連行し、駅に送り届けた。ユダヤ人ゲットー警察の行動は、ゲットーの人々に大きな怒りを引き起こした。警察は老人ホームでは効率よく老人を強制連行した。抵抗する母親の乳房からは赤ん坊を引き離した。顎から健康な歯を引き抜いた。母親や父親が、抵抗して数歳になる子供を手放したくなかった。ウッチ・ゲトーの通りや、家の中で、部屋の中を血が流れた。




2024年1月23日火曜日

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が死亡した。

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても、最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が犠牲となり死亡した。充満した煙を吸い込んで窒息死した。福井市中央1に位置した福井郵便局電話分室は鉄筋コンクリート造りだった。上空からのアメリカ軍の福井空襲の焼夷弾が屋根を突き破り、火が一面に広がった。当直勤務の電話交換手らは交換室から別の部屋に逃げた。同様に炎上した隣家の煙を吸い紺で、電話交換手の女性22人と、60歳の庶務の男性1人の計23人が死亡した。

 太平洋戦争の末期の1945年7月19日午後11時24分から午前0時45分まで、アメリカ軍のB-29爆撃機の127機による福井空襲で、福井市は壊滅的な被害となった。約81分間の集中的な空襲により、福井城址北西付近を中心に半径1.2kmの範囲をめがけて、約865トンもの焼夷弾が投下された。天候が快晴で、爆撃の精度があがり、被害は拡大した。福井市の市街地の損壊率は、アメリカ軍の評価では損壊率は約84.8%と高くて、日本の地方都市爆撃では富山市、沼津市に次いだ。福井市では2万戸以上が焼失し、約85,603人の福祉市民が罹災して、死者数も約1,576人を超える犠牲者数となった。重軽傷者6,527人で、その内108人はその後に死亡した。

 福井市内は焼夷弾により一面の焼け野原となり、防空壕に避難した人々は熱気で蒸焼きとなった。水を求めて福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は、折り重なって死亡した。福井県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練も、大規模な都市爆撃にはまったく無力であった。日中戦争では、日本軍によって重慶など都市爆撃が行なわれ、非戦闘員をも無差別に戦禍に巻き込まれた。




2024年1月22日月曜日

第二次世界大戦の東部戦線のベラルーシ戦線にて1945年1月24日に、ソ連軍の第10戦車軍団がムラワ・エルビング作戦でドイツのミュールハウゼン市を侵攻した。その道沿いには、ドイツ軍兵士や住民の死体が散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線のベラルーシ戦線にて1945年1月24日に、ソ連軍の第10戦車軍団がムラワ・エルビング作戦でドイツのミュールハウゼン市(現ポーランドのムリナリ市)を侵攻した。その道沿いには、ドイツ軍兵士や住民の死体が散乱した。ミュールハウゼン市は、ナチス・ドイツ軍の支配から解放された。ソ連軍は、1月31日にはゼーデンのオーデル川とフランクフルト・アム・オーデルの南側の広い戦線に到達して、ソ連軍陣地から首都ベルリンまで約80kmも離れていない。

 1944年8月には、ドイツ軍はヴィスワ線でソビエト軍を難なく阻止した。サンミエシュ、バラノフ、マグヌシェフにて川の西側にて、ソ連軍の危険な橋頭堡の形成を阻止できなかった。1945年1月には、ソ連の赤軍は強力な機械化部隊と大規模な砲兵・空軍部隊を集結させて、再び攻勢に転じた。ヴィスワ・オデル作戦にて1月12日から2月3日まで、ソ連軍は攻勢に転じた。2月初日には首都ベルリンから約80km離れたオーデル線に到達するまで侵攻した。ソ連軍が非常に迅速な冬期の侵攻を果たした。1月12日から2月3日までのヴィスワ・オデル作戦にて、ソ連軍は死者・行方不明者は約43,476人、負傷者は150,000人で、ドイツ軍は、死者・負傷者・捕虜は約30万人以上の犠牲を伴った。その後の数ヶ月間で、ソ連軍は首都ベルリンに対する最終攻撃を開始する直前に、東プロイセンとポメラニアで孤立したドイツ軍集団を崩壊する戦闘に従事した。ドイツ軍は、最初の崩壊と大損害の後に、ドイツ帝国の首都ベルリンを防御するオーデル川での防衛配置を組織して、包囲されたドイツ軍の抵抗を長引かせた。

 第二次世界大戦の末期はますます悲惨な戦況となり、ドイツ軍は多大な犠牲を払って撤退を開始した。ソ連軍は東プロイセン領土に侵攻した。1945年1月23日には、東プロイセンとダンツィヒ湾の港から難民、兵士、負傷者の輸送が始まった。終戦までに約200万人が避難して、約14,000人の難民が海上輸送中に死亡した。1945年3月4日に、ロシア軍がツェルニンを占領した。多くの住民が逃げ出した。村のはずれには、ロシア軍によって収容所が建てられ、戦争捕虜が収容され、その後ロシアに強制連行された。強姦、虐待、殺人、略奪がいたるところで起こった。ソ連軍の戦車集団と機関砲の一斉砲撃で、コルベルクは3月4日に包囲され、3月18日に陥落した。




2024年1月21日日曜日

ウクライナのザポリツィアに2023年12月19日に、ロシア軍の大規模な空爆で死亡した住民の死体の近くに立ち並んで住民が悲嘆した。

ウクライナのザポリツィアに2023年12月19日に、ロシア軍の大規模な空爆で死亡した住民の死体の近くに立ち並んで住民が悲嘆した。国連は2024年1月16日に、新たな報告書の中で、ロシア軍が直近の数週間ウクライナ全土で行ったミサイル攻撃と無人機攻撃により、2023年12月の民間人の犠牲者が急増して、約100人以上が死亡して、約500人近くが負傷したと発表した。

 ロシア軍は、ウクライナ全土をミサイルやドローンで激しく攻撃した結果、2023年12月の民間人犠牲者が急増し、100人以上が死亡、約500人が負傷したと国連が報告した。国連ウクライナ人権監視団は、民間人の死傷者数は2023年11月より26.5%増加したと報告した。国連監視団によると、最も多くの死傷者が出たのは、冬の気温が急降下した2023年12月29日から2024年1月2日にかけたロシア軍の攻撃であった。2024年1月4日には、ロシア軍のロケット弾が前線のポクロフスク町とその近くのロヴネ村を直撃して、大人6人と子ども5人の2家族が瓦礫の下敷きになり、まだ発見されていない死体もある。2024年1月6日の別の攻撃では、ノボモスコフスクで、ロシア軍のミサイル攻撃が炸裂して、朝の通勤時間帯に投下したミニバスの乗客8人を含む31人の市民が負傷したと国連は発表した。

 国連監視団は、2023年12月29日にウクライナ全土の人口密集地を攻撃し始めて、2024年1月上旬まで続いたロシア軍による強烈なミサイル攻撃とドローン攻撃により、民間人86人が死亡、416人が負傷したとの報告した。国連監視団によると、民間人の死傷者数は2023年11月よりも26.5%増加し、11月の468人から12月は592人に増悪した。国連監視団は、2023年には民間人の死傷者は着実に減少したが、12月下旬から1月上旬のロシア軍の攻撃の波は、減少の傾向を中断させたと報告した。

 国連監視団は、2023年12月29日にウクライナ全土の人口密集地を攻撃し始め、2024年1月上旬まで続いたロシア軍による強烈なミサイル攻撃とドローン攻撃により、民間人86人が死亡して、416人が負傷したとの報告した。国連人道事務所は2022年2月24日から勃発したロシア軍のウクライナ侵攻以来に、国連安全保障理事会で確認された民間人の死者数は、子ども575人を含む10,200人を超え、負傷者数は19,300人を超えた。ロシア当局もウクライナ当局も軍事的損失に関するデータを提供せず、紛争終結に向けた和平交渉の兆しも無く約2年近く戦争が長引いた。ロシア軍もウクライナ軍も、相手側の犠牲者を増大させることに苦心している。














Warning: People react standing near the body of a resident, killed in Russia's massive air attack in Zaporizhzhia, Ukraine, Friday, December 29, 2023. (AP photo/Andriy Andriyenko)

2024年1月20日土曜日

1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約4kmの宇品に位置した陸軍船舶練習部の負傷者の収容所に、日本陸軍兵士の被爆者が収容された。1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。人体への急性障害の第3〜5週の主要な症状は、脱毛、紫斑を含む出血、下血等を引き起こして、全身衰弱を伴って死亡した。

 広島市宇品は港湾地帯で爆心地から3km以上へだたって、原子爆弾による被害は比較的少なかった。火災をまぬがれたこの地区へ、広島市内で被爆した人びとが殺到した。宇品の負傷者の救護にあたった施設の一つは、陸軍船舶練習部であった。陸軍船舶練習部は、陸軍の部隊に船舶操作の教育・訓練をほどこす組織であり、大和紡績広島工場を接収して駐屯していた。教育をうける部隊がつぎつぎ入れ替わるので、兵舎は常時満員でなかった。食糧の備蓄もあり、約1,000人程度の給食には事欠かなかった。診療所もあり、救護施設としての条件を備えていた。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂による被爆とともに建物は軽い損傷を受けたが、大破はなかった。その約1時間後ころから負傷者がしだいに集まった。広島市内へ救援に出動した部隊からトラックや舟で送られて来る負傷者がしだいに増えた。8月6日の午後3時頃には数百名の被爆患者を収容した。8月6日中に処置して、あるいは収容した負傷者は、約6,000人を超えたと推定された。陸軍船舶練習部は、野戦収容所というべき状態になった。収容者の多くは重症の原爆病で8月10日から9月中旬までに約3,000人の死亡者が出た。

 野戦収容所となった陸軍船舶練習部は、船舶司令部の命令によって体制をととのえて、8月12日に陸軍船舶練習部臨時野戦病院 となった。8月15日の日本の敗戦とともに、軍部の戦時体制が解放された。船舶衛生機関の名称で救護と医療が継続された。8月25日に、広島第一陸軍病院宇品分院の表札が掲げられた。この期間に8月8日には陸軍省調査班、8月14日には同第2次調査班が入った。船舶練習部を基地として被爆の調査に従事した。





2024年1月19日金曜日

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍海兵隊は内陸に飛び出した日本軍兵士に向けて火炎放射器を炸裂した。日本軍兵士の体は瞬時に炎に包まれ、焼死した日本軍兵士の死体が砂場上に散乱した。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍の海兵隊は火炎放射戦車を投入した最初の戦いとなった。内陸に向かって飛び出した日本軍兵士に向けて火炎放射器が炸裂した。日本軍兵士の体は瞬時に炎に包まれた。タラワの戦いで、火炎放射器によって、焼死した日本軍兵士の死体が砂場上に散乱した。荒れ果てた島の上には、焦土と血にまみれた砂浜に横たわった死体には珊瑚の埃と死の臭気が立ち込めた。

 1943年11月20日に、アメリカ軍の約35,000人の部隊が、タラワ環礁のベティオ島とマキン環礁への水陸両用攻撃を開始した。マキン環礁の防衛が弱く死傷者は少なかった。ベティオ島の要塞化された集中的な防衛は、タラワの戦いと呼称される76時間の悲惨な犠牲を伴った。11月20日朝、アメリカ軍は海軍の砲撃に続いて、海兵隊が輸送艇でベティオ島の北岸に接近した。潮位の低さに遭遇して、ベティオ島を取り囲む岩礁で上陸用舟艇を放棄した。日本軍の激しい砲火を浴びながら海岸まで歩くことを余儀なくされた。浜辺に到着すると、防波堤を越えて安全な上陸拠点を確立するのに苦労した。11月20日には、ベティオ島の最西端と北の海岸中央を確保した。

 11月21日、アメリカ軍はベティオ島の中央に位置する滑走路に押し寄せた。西側の海岸で最大の確保を収めた。11月22日に海兵隊はシャーマン戦車2両を借りて東進を開始した。日本軍の機関銃の巣が前進を妨げた。北と西からの継続的なアメリカ軍の侵攻により、残存する日本軍守備兵が中央滑走路の東側の小地域に押し込まれた。11月22日夜、日本軍は海兵隊に対するバンザイ式の反撃のために集結するも、アメリカ軍の戦線は維持された。

 11月23日の早朝、日本軍は2回目、3回目、4回目のバンザイ突撃を執行した。海兵隊は再び日本軍を押し返した。日本軍のバンザイ攻撃は、日本軍の最後の組織的な努力であった。ベティオ島に残存した日本軍の抵抗は、東側の小さな陣地だけになった。海兵隊は、戦車、航空機、大砲、ブルドーザーの支援を受けて、日本軍の防御陣地を整然と破壊した。午後の早い時間までに、アメリカ軍はベティオ島の東端まで到達して、安全宣言をした。日本軍の孤立した集団は戦闘後の数週間も出没した。147人の捕虜(そのほとんどが朝鮮人労働者)を除いて、日本軍守備隊は全滅して玉砕した。アメリカ軍は、戦死・行方不明は約1,113人、戦傷者は2,296人に及んだ。

 タラワ環礁はギルバート諸島の中にあるリング状の珊瑚礁であり、南西太平洋に浮かぶ多くの小さな島々からなる地域である。1943年に、長さ3マイル、幅1,000ヤードの環礁に、約5,000人の日本軍が強固な要塞を築いていた。。ベティオ島はタラワ環礁最大の島であり、日本軍の滑走路があり、ギルバート諸島の日本軍の大部分も駐留した。1943年11月までに、約2,500人以上の日本軍兵士、約1,000人の日本人建設労働者と1,200人の朝鮮人強制労働者がベティオ島を防衛した。ベティオ島の内部には防御壕と塹壕網が配置された。




2024年1月18日木曜日

ノルトハウゼン強制収容所にて死亡した囚人の墓が、1945年5月3日に2列に並べられた。ノルトハウゼン強制収容所で殺害された囚人の死体は、アメリカ軍の命令で民間ドイツ人が掘った集団墓地に埋葬された。

ノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所にて死亡した囚人の墓が、1945年5月3日に2列に並べられた。ノルトハウゼン強制収容所で殺害された囚人の死体は、アメリカ軍の命令で民間ドイツ人が掘った集団墓地に埋葬された。1945年4月10日に、アメリカ第一軍の部隊がノルトハウゼンに入った。アメリカ陸軍の第一第三機甲師団と第104歩兵師団の兵士たちによってノルトハウゼン強制収容所は開放された。ナチスの元奴隷労働者である数百人の死体が発見された。骸骨と同然となった死体は、集団埋葬するために墓穴を掘ることを強制されたドイツ民間人によって埋葬された。

 4月3日に、連合軍の爆撃はノルトハウゼンを標的にした。爆弾は小営倉を直撃して、約1,500人の捕虜が死亡した。ベルリンの南西約193kmに位置するノルトハウゼン強制収容所は、ナチスのVミサイル兵器の製造拠点であった。4月4日に、ナチスはドラ・ミッテルバウからベルゲン・ベルゼンとラーヴェンスブルックへの耐え難い死の行進を強制された。4月7日、連合軍の第一軍はライプチヒとドレスデンに向けて東進を開始して、第七軍団はヴェーザー川を渡った。散発的な抵抗を受けながら、第7軍団は東進し、南ハルツ山脈に突入した。4月11日、第104歩兵師団はドラ収容所に、第3装甲師団はボエルケ・カーゼルネ副収容所に入った。死体や死にかけた人たちが散乱し、互いに積み重なった。親衛隊に見捨てられた約3,000人の死体と約750人のやせ細った生存者がいた。4月12日に、ルーズベルト大統領の死去が発表されて、連合軍にとり沈痛な出来事はさらに悪化した。

 ノルトハウゼン強制収容所は、コンクリートでできた巨大な施設と格納庫の複合体であった。衛生設備はまったくなく、囚人は夜も昼も、死ぬまで食事もとらずに格納庫内にいた。健康な状態の人間でさえ、極度の衰弱に陥るのが早かった。すでに疲れ果て、病気にかかった囚人にとって、残酷な生活環境は、悲惨であり、即死を示唆した。




2024年1月17日水曜日

太平洋戦争の末期の1945年5月24日未明、5月25日夜半、5月29日と、アメリカ軍は最後の東京大空襲を敢行した。東京大空襲の青山地区には、多数の焼死体が集積された。黒焦げて死後硬直した東京都民の死体には、死体処置をするために整理札を付けた。

太平洋戦争の末期の1945年5月24日未明、5月25日夜半、5月29日と、アメリカ軍は最後の東京大空襲を敢行した。大挙して来襲するアメリカ軍のB29爆撃機のなすがままに、東京は爆破して炎上した。東京大空襲の青山地区には、多数の焼死体が集積された。黒焦げて死後硬直した東京都民の死体には、その後の死体処置をするために整理札を付けた。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月24日に3,645トン、5月25日に3,262トンが投下された。3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった。

 1945年5月24日未明の東京大空襲に引き続いて、アメリカ軍は日本軍に息もつかせぬように5月25日夜半にも、アメリカ軍機のB29爆撃機による東京大空襲が来襲した。その大空襲の記録には、アメリカ軍B29爆撃機の約二百数十機が、太平洋の南方の海上より、伊豆列島に沿って北上して、房総半島または駿河湾方面より日本本土に向けて侵攻した。5月25日22時30分頃より約2時間にわたり、単機もしくは数機をもって次々に京浜地区に来襲した。アメリカ軍機は東京都心部をはじめとして広範囲の市街地に対して、主として焼夷弾による無差別爆撃を敢行した。日本軍の制空部隊が果敢なるB29に対する攻擊によって、5月26日1時30分頃までに東南方海上にB29爆撃機は遁走したと日本軍は記録した。

 最後の東京大空襲の被害地域は、東京の麴町、芝、渋谷、京橋、赤坂、目黒、麻布、品川、小石川、葛飾、牛込、下谷、世田谷、浅草、荏原、城東、向島、深川、江戸川、板橋、本郷、足立、杉並、荒川、大森、淀橋、中野、四谷、神田、本橋、滝野川、王子などの各区内および立川市ならびに南北多摩郡の広範囲にわたり多大な被害を伴った。

 東京都の民間人の被害は、死者が約882人で、負傷者は約4,437人、行方不明者は約29人に達した。被害の家屋は約157,039戸、罹災者は約62万人であった。警察庁は、以前の東京大空襲では、東京都民の士気旺盛と報告した。最後の東京大空襲ではは、悪質で、流言蜚語等、いまだ憂慮すべき事象を認めざるも、連続の東京大空襲によって、民心は若干の動揺の兆しなきにしも非ずと警察庁は記録した。