2024年1月27日土曜日

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。

広島日赤病院にて、広島原子爆弾の熱線による火傷がケロイド状に残っている吉川清の背中全体を、1947年4月30日に写真撮影した。33歳の男性の吉川清は、1945年8月6日に広島市への原子爆弾投下で爆心地から約1.5km離れた自宅前で被爆した。背中と両腕の皮膚が焼けただれた状態となった。1946年2月に広島赤十字病院に入院した後に、生活保護を受けながら1951年4月に退院するまでに約16回もの皮膚移植などの手術を受けた。1947年に広島赤十字病院の講堂でアメリカの報道・科学者視察団に背中のケロイドを見せた。1947年4月30日の写真が雑誌『ライフ』などで「ATOMIC BOMB VICTIM NO.1 KIKKAWA(原爆一号)」として紹介された。

  広島原子爆弾の熱線に焼かれた肩や腕、背中は傷痕の肉が盛り上がってケロイドとなり、手術の跡も生々しい。広島赤十字病院のレントゲン技手だった黒石勝さん(1990年に77歳で死去)が、医師の指示の下で治療前後の医学的な記録として写真撮影した。アメリカ軍による原子爆弾の投下した1945年8月6日から、約2カ月後の1945年10月から、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の被爆患者の病態を写真撮影した。

 黒石勝さんの撮影は、重藤文夫副院長たちの指示でもあった。同僚の病理検査技手であった斎藤誠二さんと2人で、人体に刻まれた原子爆弾の被爆の影響を記録した。病院には男女も分からないほどの負傷をした患者もいた。「重藤文夫院長からもいろいろ撮影しておけといわれましたけど、どうも良心がとがめて、とれなかった。」葛藤を抱えながらも医学的な記録として約50枚近くを撮影した。

  広島と長崎への原子爆弾の投下は、何万人もの人々の直接的な死に加えて、地域全体を長い間特徴づける一連の恐ろしい結果をもたらした。原子爆爆が投下されてから1年以内に、放射線や火傷のために多くの人が亡くなり、その後の数年間に、まさに原爆によって放出された放射線のために、多くの日本人がガンや先天性異常で亡くなった。




2024年1月26日金曜日

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった射殺事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。東ドイツ国民を無制限に支配するドイツ社会主義統一党(SED)国家の主張は、国境制度にて最も明確かつ残酷に示された。ドイツ民主共和国当局の稀有な許可なしに国外に脱出する者は、健康や生命を危険にさらされた。

  冷戦下の1961年8月13日からベルリンの壁が建設されると、東ドイツ当局は自由な西ベルリンと管理下の地区を壁で分離した。公式発表によると、1989年までに国境を超えようとして射殺された東ドイツ市民の数は約1,245人に上る。そのうち1989年までにベルリンの壁を越えようとして約136人が殺害された。1989年に、エーリッヒ・ホーネッカーがベルリンの壁は50年後、あるいは100年後も存在するだろうと述べた時に、すでに少なくとも130人が国境警備隊の銃撃によって殺害されていた。最初の犠牲者は、1961年8月22日早朝、女性のアイダ・ジークマンは脱出を試みて、4階のアパートの窓から飛び降り、歩道に落ちて重傷を負って、ラザロ病院に向かう途中で死亡した。最近では、壁が崩壊する9カ月前の1989年2月に、20歳のクリス・ゲフロイが射殺された。彼がドイツの国境の壁の最後の犠牲者となった。1989年11月9日の夜に、ベルリンの壁は崩壊しして、東西ドイツの国境が開通した。

 多くの人々が、東ドイツの障壁をくぐり抜けて西側に逃亡した。東ドイツ当局は、国境を強化する措置をとった。壁に沿って10mおきに見張り塔が建てられた。東ドイツの国境警備隊の兵士たちは、カメラを渡され、国境の壁が建設される地域を1m単位の記録を命じられた。撮影された約1200枚のネガは、ポツダムの軍事文書館に保管されち段ボール箱の中から偶然に発見された。国境警備中の兵士が軽犯罪を犯すと、厳しく罰せられた。東ドイツ政府は、1973年10月に西ドイツに脱国者を処理する国境警備隊に射殺命令を出した。逃亡が成功して国境を越えて西ドイツに入った場合には、国境侵犯とドイツ民主共和国からの脱走を防げなかった国境警備隊には懲戒処分が下された。




2024年1月25日木曜日

1945年5月1日午後に、アメリカ軍第1海兵師団は、沖縄戦のアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固めた墳墓から、日本軍は砲火して強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。

沖縄戦にて1945年5月1日午後に、第5海兵隊が残存陣地を占領した時に、日本軍は安波茶(アワチャ)の南端に占領して陣地を固めた。アワチャを通過したアメリカ陸軍戦車は、日本軍から砲火を浴びた。第1海兵師団は、直面したアワチャ・ポケット沿いに狂信的な日本軍の抵抗を受けた。稜線にある洞窟やコンクリートで固められた沖縄の墳墓から、日本軍は砲火して、強烈で激しい小火器射撃を伴った。アメリカ軍のアワチャ・ポケットで戦死傷者も多く出て、担架で陣地まで搬送した。死屍累々の恐ろしい戦場を目の当たりにした。アメリカ軍は日本軍陣地を約91mを占領するごとに約200人を損失した。

 沖縄戦にて沖縄本島南部のほぼ中央の安波茶は激戦地となった。アメリカ軍の沖縄本島の上陸後に、日本軍は安波茶地区を頑強に防衛した。1945年5月初旬に、西から侵攻したアメリカ軍海兵隊と北から侵攻したアメリカ陸軍第77師団に対して、日本軍の強固な防衛はアワチャ・ポケットと呼ばれた。

 1945年5月2日には、アメリカ軍海兵隊は大雨の中を侵攻して最も近い高地を占領した。直後に、隣接する強力な地点から日本軍の激しい砲火を受けて、撤退を余儀なくされた。夜間には、アメリカ軍海兵隊員は日本軍の潜入部隊と白兵戦を繰り広げた。1945年5月6日朝には、アメリカ軍第5海兵隊が朝の攻撃を開始する前に、陸軍2個と海兵隊2個の4個大隊のアメリカ軍砲兵隊が、アワチャ・ポケットを砲撃した。1945年5月10日に、アメリカ軍第五海兵隊はついにアワチャ・ポケットを封鎖した。しばしば至近距離での繰り広げられた戦闘を5月10日に終止符を打ち、日本軍は1,000人以上の死者を出した。

 アメリカ軍第1海兵師団第5海兵隊の第77連隊は右側(西側)で、日本軍から激しい抵抗を受けた。この連隊のすぐ前方の日本軍陣地は安波茶の町の南にあり、アワチャ・ポケットと呼ばれる激戦地に編成された。アメリカ軍の重火器の支援を受けた戦車と歩兵の連携が唯一の侵攻手段となった。アワチャ・ポケットが、最終的に包囲が達成されたのは5月11日であった。

 5月11日までに、アメリカ軍第24軍団は、その後の本格的な攻撃に備えて、多くの日本軍陣地を排除した。5月3日から5月10日までの1週間は、東海岸の大木から西の浅川に至る戦線の全般的な強化が行われた。非戦闘員を含め2万人以上の死傷者を出した。首里線上のアメリカ軍は、前田、高知、淡河で戦線を拡張し、通信線をより安全なものにし、5月11日に予定された第10軍の攻撃により有利な地形を獲得した。




2024年1月24日水曜日

ポーランドのウッチのリュブナ通りで強制送還に抵抗したウッチ・ゲトーのユダヤ人は、ユダヤ人警察やドイツ警察とゲシュタポにより、事前の警告なしに路上で虐殺された。

ポーランドのウッチのリュブナ通りで強制送還に抵抗したウッチ(Łódź)・ゲトーのユダヤ人は、ユダヤ人警察やドイツ警察とゲシュタポにより路上で虐殺された。ウッチ・ゲトーのリュブナ通りでは、1942年9月5月から9月12日の強制送還のため、ユダヤ人ゲトー警察は人々を強制的にアパートから追い出した。9月7日からはドイツ警察とゲシュタポは事前の警告なしに発砲して、抵抗があればいつでも路上で殺害した。9月の強制送還では約15,681人が強制送還され、数百人が抵抗のために銃殺され、35人が絞首刑に処された。その瞬間から、ウッチ・ゲットーは強制労働収容所となった。

 ポーランド占領下のウッチ・ゲトーは1942年9月5日から12日に、15,000人以上がチェルムノ・ナド・ネレムの絶滅強制収容所に送られた。強制送還を免れたのは、ゲットー共同体の特権階級の子どもたちの少数だけだった。

 1940年2月8日に、ドイツ当局はポーランド占領下のウッチにゲットーを設置した。ワルシャワ・ゲトーに次ぐ規模で、ゲットーは市内の他の地域から切り離され、フェンスで囲まれて、警備された。ウッチ・ゲットーが存在した4年間で、ユダヤ人など約20万人以上がウッチ・ゲットーに居住した。ゲットーは1944年8月29日まで存在した。その間に約45,000人が飢えと病気で死亡した。その他は、絶滅強制収容所で殺された。終戦まで生存したのは、5~7千人と推定された。

 ウッチ・ゲットーで最も悲劇は、「ヴィエルカ・シュペラ」の強制送還は、主に10歳未満の子どもや65歳以上の高齢者、病人や無職の人々に影響を与えた。強制送還の決定は、1942年8月下旬に大ナチス帝国保安局が下した。1942年9月5日から12日の間、戦争を生き延びたウッチ・ゲットー共同体の人々は、一生心に傷を負った。強制送還の数日前の9月1日と2日に、病院と中央刑務所から避難が、パニックを引き起こした。人々は互いに最悪の予測を伝え合って、逃亡者の多くは殺害されて、命令に反対した職員も殺害された。

 悲劇的な強制送還の直前の1942年9月4日に、チャイム・モルデチャイ・ラムコフスキ長老評議会長は、ドイツ軍はユダヤ人に、子供と老人を手放すよう求めている。子供と老人を私に渡してください。犠牲者を私の手に渡してください。これ以上犠牲者を増やさずに済むと演説した。1944年8月28日に、ラムコフスキはアウシュヴィッツ強制収容所にて、ホロコーストの復讐としてウッチ・ゲトーの囚人に殴り殺された。

 1942年9月5日に、ウッチ・ゲットーの壁に夜間外出禁止令が告知されて、強制送還委員会が設置された。9月12日まで、ユダヤ人ゲットー警察と特別部隊は、名簿に基づいて人々を連行し、駅に送り届けた。ユダヤ人ゲットー警察の行動は、ゲットーの人々に大きな怒りを引き起こした。警察は老人ホームでは効率よく老人を強制連行した。抵抗する母親の乳房からは赤ん坊を引き離した。顎から健康な歯を引き抜いた。母親や父親が、抵抗して数歳になる子供を手放したくなかった。ウッチ・ゲトーの通りや、家の中で、部屋の中を血が流れた。




2024年1月23日火曜日

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が死亡した。

福井郵便局電話課の電話交換手の女性職員22人が、1945年7月19日にアメリカ軍の福井空襲に遭って、当直業務中に殉職して死亡した。空襲警報が発令しても、最後まで交換台を守った電話交換手の16歳から47歳の女性22人と、庶務の60歳の男性1人が犠牲となり死亡した。充満した煙を吸い込んで窒息死した。福井市中央1に位置した福井郵便局電話分室は鉄筋コンクリート造りだった。上空からのアメリカ軍の福井空襲の焼夷弾が屋根を突き破り、火が一面に広がった。当直勤務の電話交換手らは交換室から別の部屋に逃げた。同様に炎上した隣家の煙を吸い紺で、電話交換手の女性22人と、60歳の庶務の男性1人の計23人が死亡した。

 太平洋戦争の末期の1945年7月19日午後11時24分から午前0時45分まで、アメリカ軍のB-29爆撃機の127機による福井空襲で、福井市は壊滅的な被害となった。約81分間の集中的な空襲により、福井城址北西付近を中心に半径1.2kmの範囲をめがけて、約865トンもの焼夷弾が投下された。天候が快晴で、爆撃の精度があがり、被害は拡大した。福井市の市街地の損壊率は、アメリカ軍の評価では損壊率は約84.8%と高くて、日本の地方都市爆撃では富山市、沼津市に次いだ。福井市では2万戸以上が焼失し、約85,603人の福祉市民が罹災して、死者数も約1,576人を超える犠牲者数となった。重軽傷者6,527人で、その内108人はその後に死亡した。

 福井市内は焼夷弾により一面の焼け野原となり、防空壕に避難した人々は熱気で蒸焼きとなった。水を求めて福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は、折り重なって死亡した。福井県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練も、大規模な都市爆撃にはまったく無力であった。日中戦争では、日本軍によって重慶など都市爆撃が行なわれ、非戦闘員をも無差別に戦禍に巻き込まれた。




2024年1月22日月曜日

第二次世界大戦の東部戦線のベラルーシ戦線にて1945年1月24日に、ソ連軍の第10戦車軍団がムラワ・エルビング作戦でドイツのミュールハウゼン市を侵攻した。その道沿いには、ドイツ軍兵士や住民の死体が散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線のベラルーシ戦線にて1945年1月24日に、ソ連軍の第10戦車軍団がムラワ・エルビング作戦でドイツのミュールハウゼン市(現ポーランドのムリナリ市)を侵攻した。その道沿いには、ドイツ軍兵士や住民の死体が散乱した。ミュールハウゼン市は、ナチス・ドイツ軍の支配から解放された。ソ連軍は、1月31日にはゼーデンのオーデル川とフランクフルト・アム・オーデルの南側の広い戦線に到達して、ソ連軍陣地から首都ベルリンまで約80kmも離れていない。

 1944年8月には、ドイツ軍はヴィスワ線でソビエト軍を難なく阻止した。サンミエシュ、バラノフ、マグヌシェフにて川の西側にて、ソ連軍の危険な橋頭堡の形成を阻止できなかった。1945年1月には、ソ連の赤軍は強力な機械化部隊と大規模な砲兵・空軍部隊を集結させて、再び攻勢に転じた。ヴィスワ・オデル作戦にて1月12日から2月3日まで、ソ連軍は攻勢に転じた。2月初日には首都ベルリンから約80km離れたオーデル線に到達するまで侵攻した。ソ連軍が非常に迅速な冬期の侵攻を果たした。1月12日から2月3日までのヴィスワ・オデル作戦にて、ソ連軍は死者・行方不明者は約43,476人、負傷者は150,000人で、ドイツ軍は、死者・負傷者・捕虜は約30万人以上の犠牲を伴った。その後の数ヶ月間で、ソ連軍は首都ベルリンに対する最終攻撃を開始する直前に、東プロイセンとポメラニアで孤立したドイツ軍集団を崩壊する戦闘に従事した。ドイツ軍は、最初の崩壊と大損害の後に、ドイツ帝国の首都ベルリンを防御するオーデル川での防衛配置を組織して、包囲されたドイツ軍の抵抗を長引かせた。

 第二次世界大戦の末期はますます悲惨な戦況となり、ドイツ軍は多大な犠牲を払って撤退を開始した。ソ連軍は東プロイセン領土に侵攻した。1945年1月23日には、東プロイセンとダンツィヒ湾の港から難民、兵士、負傷者の輸送が始まった。終戦までに約200万人が避難して、約14,000人の難民が海上輸送中に死亡した。1945年3月4日に、ロシア軍がツェルニンを占領した。多くの住民が逃げ出した。村のはずれには、ロシア軍によって収容所が建てられ、戦争捕虜が収容され、その後ロシアに強制連行された。強姦、虐待、殺人、略奪がいたるところで起こった。ソ連軍の戦車集団と機関砲の一斉砲撃で、コルベルクは3月4日に包囲され、3月18日に陥落した。




2024年1月21日日曜日

ウクライナのザポリツィアに2023年12月19日に、ロシア軍の大規模な空爆で死亡した住民の死体の近くに立ち並んで住民が悲嘆した。

ウクライナのザポリツィアに2023年12月19日に、ロシア軍の大規模な空爆で死亡した住民の死体の近くに立ち並んで住民が悲嘆した。国連は2024年1月16日に、新たな報告書の中で、ロシア軍が直近の数週間ウクライナ全土で行ったミサイル攻撃と無人機攻撃により、2023年12月の民間人の犠牲者が急増して、約100人以上が死亡して、約500人近くが負傷したと発表した。

 ロシア軍は、ウクライナ全土をミサイルやドローンで激しく攻撃した結果、2023年12月の民間人犠牲者が急増し、100人以上が死亡、約500人が負傷したと国連が報告した。国連ウクライナ人権監視団は、民間人の死傷者数は2023年11月より26.5%増加したと報告した。国連監視団によると、最も多くの死傷者が出たのは、冬の気温が急降下した2023年12月29日から2024年1月2日にかけたロシア軍の攻撃であった。2024年1月4日には、ロシア軍のロケット弾が前線のポクロフスク町とその近くのロヴネ村を直撃して、大人6人と子ども5人の2家族が瓦礫の下敷きになり、まだ発見されていない死体もある。2024年1月6日の別の攻撃では、ノボモスコフスクで、ロシア軍のミサイル攻撃が炸裂して、朝の通勤時間帯に投下したミニバスの乗客8人を含む31人の市民が負傷したと国連は発表した。

 国連監視団は、2023年12月29日にウクライナ全土の人口密集地を攻撃し始めて、2024年1月上旬まで続いたロシア軍による強烈なミサイル攻撃とドローン攻撃により、民間人86人が死亡、416人が負傷したとの報告した。国連監視団によると、民間人の死傷者数は2023年11月よりも26.5%増加し、11月の468人から12月は592人に増悪した。国連監視団は、2023年には民間人の死傷者は着実に減少したが、12月下旬から1月上旬のロシア軍の攻撃の波は、減少の傾向を中断させたと報告した。

 国連監視団は、2023年12月29日にウクライナ全土の人口密集地を攻撃し始め、2024年1月上旬まで続いたロシア軍による強烈なミサイル攻撃とドローン攻撃により、民間人86人が死亡して、416人が負傷したとの報告した。国連人道事務所は2022年2月24日から勃発したロシア軍のウクライナ侵攻以来に、国連安全保障理事会で確認された民間人の死者数は、子ども575人を含む10,200人を超え、負傷者数は19,300人を超えた。ロシア当局もウクライナ当局も軍事的損失に関するデータを提供せず、紛争終結に向けた和平交渉の兆しも無く約2年近く戦争が長引いた。ロシア軍もウクライナ軍も、相手側の犠牲者を増大させることに苦心している。














Warning: People react standing near the body of a resident, killed in Russia's massive air attack in Zaporizhzhia, Ukraine, Friday, December 29, 2023. (AP photo/Andriy Andriyenko)

2024年1月20日土曜日

1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約4kmの宇品に位置した陸軍船舶練習部の負傷者の収容所に、日本陸軍兵士の被爆者が収容された。1945年10月上旬には広島陸軍第一病院に収容された。原子爆弾の被爆により、放射線障害の急性症状により、頭部の毛髪が、前方・側面・後方からもほとんど脱毛していた。人体への急性障害の第3〜5週の主要な症状は、脱毛、紫斑を含む出血、下血等を引き起こして、全身衰弱を伴って死亡した。

 広島市宇品は港湾地帯で爆心地から3km以上へだたって、原子爆弾による被害は比較的少なかった。火災をまぬがれたこの地区へ、広島市内で被爆した人びとが殺到した。宇品の負傷者の救護にあたった施設の一つは、陸軍船舶練習部であった。陸軍船舶練習部は、陸軍の部隊に船舶操作の教育・訓練をほどこす組織であり、大和紡績広島工場を接収して駐屯していた。教育をうける部隊がつぎつぎ入れ替わるので、兵舎は常時満員でなかった。食糧の備蓄もあり、約1,000人程度の給食には事欠かなかった。診療所もあり、救護施設としての条件を備えていた。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂による被爆とともに建物は軽い損傷を受けたが、大破はなかった。その約1時間後ころから負傷者がしだいに集まった。広島市内へ救援に出動した部隊からトラックや舟で送られて来る負傷者がしだいに増えた。8月6日の午後3時頃には数百名の被爆患者を収容した。8月6日中に処置して、あるいは収容した負傷者は、約6,000人を超えたと推定された。陸軍船舶練習部は、野戦収容所というべき状態になった。収容者の多くは重症の原爆病で8月10日から9月中旬までに約3,000人の死亡者が出た。

 野戦収容所となった陸軍船舶練習部は、船舶司令部の命令によって体制をととのえて、8月12日に陸軍船舶練習部臨時野戦病院 となった。8月15日の日本の敗戦とともに、軍部の戦時体制が解放された。船舶衛生機関の名称で救護と医療が継続された。8月25日に、広島第一陸軍病院宇品分院の表札が掲げられた。この期間に8月8日には陸軍省調査班、8月14日には同第2次調査班が入った。船舶練習部を基地として被爆の調査に従事した。





2024年1月19日金曜日

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍海兵隊は内陸に飛び出した日本軍兵士に向けて火炎放射器を炸裂した。日本軍兵士の体は瞬時に炎に包まれ、焼死した日本軍兵士の死体が砂場上に散乱した。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍の海兵隊は火炎放射戦車を投入した最初の戦いとなった。内陸に向かって飛び出した日本軍兵士に向けて火炎放射器が炸裂した。日本軍兵士の体は瞬時に炎に包まれた。タラワの戦いで、火炎放射器によって、焼死した日本軍兵士の死体が砂場上に散乱した。荒れ果てた島の上には、焦土と血にまみれた砂浜に横たわった死体には珊瑚の埃と死の臭気が立ち込めた。

 1943年11月20日に、アメリカ軍の約35,000人の部隊が、タラワ環礁のベティオ島とマキン環礁への水陸両用攻撃を開始した。マキン環礁の防衛が弱く死傷者は少なかった。ベティオ島の要塞化された集中的な防衛は、タラワの戦いと呼称される76時間の悲惨な犠牲を伴った。11月20日朝、アメリカ軍は海軍の砲撃に続いて、海兵隊が輸送艇でベティオ島の北岸に接近した。潮位の低さに遭遇して、ベティオ島を取り囲む岩礁で上陸用舟艇を放棄した。日本軍の激しい砲火を浴びながら海岸まで歩くことを余儀なくされた。浜辺に到着すると、防波堤を越えて安全な上陸拠点を確立するのに苦労した。11月20日には、ベティオ島の最西端と北の海岸中央を確保した。

 11月21日、アメリカ軍はベティオ島の中央に位置する滑走路に押し寄せた。西側の海岸で最大の確保を収めた。11月22日に海兵隊はシャーマン戦車2両を借りて東進を開始した。日本軍の機関銃の巣が前進を妨げた。北と西からの継続的なアメリカ軍の侵攻により、残存する日本軍守備兵が中央滑走路の東側の小地域に押し込まれた。11月22日夜、日本軍は海兵隊に対するバンザイ式の反撃のために集結するも、アメリカ軍の戦線は維持された。

 11月23日の早朝、日本軍は2回目、3回目、4回目のバンザイ突撃を執行した。海兵隊は再び日本軍を押し返した。日本軍のバンザイ攻撃は、日本軍の最後の組織的な努力であった。ベティオ島に残存した日本軍の抵抗は、東側の小さな陣地だけになった。海兵隊は、戦車、航空機、大砲、ブルドーザーの支援を受けて、日本軍の防御陣地を整然と破壊した。午後の早い時間までに、アメリカ軍はベティオ島の東端まで到達して、安全宣言をした。日本軍の孤立した集団は戦闘後の数週間も出没した。147人の捕虜(そのほとんどが朝鮮人労働者)を除いて、日本軍守備隊は全滅して玉砕した。アメリカ軍は、戦死・行方不明は約1,113人、戦傷者は2,296人に及んだ。

 タラワ環礁はギルバート諸島の中にあるリング状の珊瑚礁であり、南西太平洋に浮かぶ多くの小さな島々からなる地域である。1943年に、長さ3マイル、幅1,000ヤードの環礁に、約5,000人の日本軍が強固な要塞を築いていた。。ベティオ島はタラワ環礁最大の島であり、日本軍の滑走路があり、ギルバート諸島の日本軍の大部分も駐留した。1943年11月までに、約2,500人以上の日本軍兵士、約1,000人の日本人建設労働者と1,200人の朝鮮人強制労働者がベティオ島を防衛した。ベティオ島の内部には防御壕と塹壕網が配置された。




2024年1月18日木曜日

ノルトハウゼン強制収容所にて死亡した囚人の墓が、1945年5月3日に2列に並べられた。ノルトハウゼン強制収容所で殺害された囚人の死体は、アメリカ軍の命令で民間ドイツ人が掘った集団墓地に埋葬された。

ノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所にて死亡した囚人の墓が、1945年5月3日に2列に並べられた。ノルトハウゼン強制収容所で殺害された囚人の死体は、アメリカ軍の命令で民間ドイツ人が掘った集団墓地に埋葬された。1945年4月10日に、アメリカ第一軍の部隊がノルトハウゼンに入った。アメリカ陸軍の第一第三機甲師団と第104歩兵師団の兵士たちによってノルトハウゼン強制収容所は開放された。ナチスの元奴隷労働者である数百人の死体が発見された。骸骨と同然となった死体は、集団埋葬するために墓穴を掘ることを強制されたドイツ民間人によって埋葬された。

 4月3日に、連合軍の爆撃はノルトハウゼンを標的にした。爆弾は小営倉を直撃して、約1,500人の捕虜が死亡した。ベルリンの南西約193kmに位置するノルトハウゼン強制収容所は、ナチスのVミサイル兵器の製造拠点であった。4月4日に、ナチスはドラ・ミッテルバウからベルゲン・ベルゼンとラーヴェンスブルックへの耐え難い死の行進を強制された。4月7日、連合軍の第一軍はライプチヒとドレスデンに向けて東進を開始して、第七軍団はヴェーザー川を渡った。散発的な抵抗を受けながら、第7軍団は東進し、南ハルツ山脈に突入した。4月11日、第104歩兵師団はドラ収容所に、第3装甲師団はボエルケ・カーゼルネ副収容所に入った。死体や死にかけた人たちが散乱し、互いに積み重なった。親衛隊に見捨てられた約3,000人の死体と約750人のやせ細った生存者がいた。4月12日に、ルーズベルト大統領の死去が発表されて、連合軍にとり沈痛な出来事はさらに悪化した。

 ノルトハウゼン強制収容所は、コンクリートでできた巨大な施設と格納庫の複合体であった。衛生設備はまったくなく、囚人は夜も昼も、死ぬまで食事もとらずに格納庫内にいた。健康な状態の人間でさえ、極度の衰弱に陥るのが早かった。すでに疲れ果て、病気にかかった囚人にとって、残酷な生活環境は、悲惨であり、即死を示唆した。




2024年1月17日水曜日

太平洋戦争の末期の1945年5月24日未明、5月25日夜半、5月29日と、アメリカ軍は最後の東京大空襲を敢行した。東京大空襲の青山地区には、多数の焼死体が集積された。黒焦げて死後硬直した東京都民の死体には、死体処置をするために整理札を付けた。

太平洋戦争の末期の1945年5月24日未明、5月25日夜半、5月29日と、アメリカ軍は最後の東京大空襲を敢行した。大挙して来襲するアメリカ軍のB29爆撃機のなすがままに、東京は爆破して炎上した。東京大空襲の青山地区には、多数の焼死体が集積された。黒焦げて死後硬直した東京都民の死体には、その後の死体処置をするために整理札を付けた。投下した爆弾はすべて焼夷弾であり、5月24日に3,645トン、5月25日に3,262トンが投下された。3月10日に投下された1,665トンの4倍に近い量となった。

 1945年5月24日未明の東京大空襲に引き続いて、アメリカ軍は日本軍に息もつかせぬように5月25日夜半にも、アメリカ軍機のB29爆撃機による東京大空襲が来襲した。その大空襲の記録には、アメリカ軍B29爆撃機の約二百数十機が、太平洋の南方の海上より、伊豆列島に沿って北上して、房総半島または駿河湾方面より日本本土に向けて侵攻した。5月25日22時30分頃より約2時間にわたり、単機もしくは数機をもって次々に京浜地区に来襲した。アメリカ軍機は東京都心部をはじめとして広範囲の市街地に対して、主として焼夷弾による無差別爆撃を敢行した。日本軍の制空部隊が果敢なるB29に対する攻擊によって、5月26日1時30分頃までに東南方海上にB29爆撃機は遁走したと日本軍は記録した。

 最後の東京大空襲の被害地域は、東京の麴町、芝、渋谷、京橋、赤坂、目黒、麻布、品川、小石川、葛飾、牛込、下谷、世田谷、浅草、荏原、城東、向島、深川、江戸川、板橋、本郷、足立、杉並、荒川、大森、淀橋、中野、四谷、神田、本橋、滝野川、王子などの各区内および立川市ならびに南北多摩郡の広範囲にわたり多大な被害を伴った。

 東京都の民間人の被害は、死者が約882人で、負傷者は約4,437人、行方不明者は約29人に達した。被害の家屋は約157,039戸、罹災者は約62万人であった。警察庁は、以前の東京大空襲では、東京都民の士気旺盛と報告した。最後の東京大空襲ではは、悪質で、流言蜚語等、いまだ憂慮すべき事象を認めざるも、連続の東京大空襲によって、民心は若干の動揺の兆しなきにしも非ずと警察庁は記録した。




2024年1月16日火曜日

ドイツ国防軍の第197歩兵師団の兵士は、1941年11月にモスクワ攻防戦で戦死したドイツ軍兵士の死体の傍らに立った。その背景には集団埋葬用の新しい墓が掘られた。

ドイツ国防軍の第197歩兵師団の兵士は、1941年11月にモスクワ攻防戦で戦死したドイツ軍兵士の死体の傍らに立った。モスクワ攻防戦では、生存したドイツ軍兵士が、戦死したドイツ軍兵士の死体の散乱を見回した。ドイツ国防軍兵士の背景には集団埋葬用の新しい墓が掘られた。右側には教会の石造りの建物の角が見えた。この集落からソ連の首都モスクワまでの距離は約80kmまでに迫っていた。

 第二次世界大戦の東部戦線にてモスクワ攻防戦は1941年9月30日から勃発して1942年1月7日にソ連が防御して終結した。1941年10月下旬までにドイツ軍は消耗しきって、自動車はまだ3分の1しか機能せず、ドイツ軍歩兵師団は約3分の1から半分の戦力しか残存しなかった。ドイツ軍の兵站上の深刻な問題が、防寒着やその他の冬装備の前線への輸送を妨げた。

 1941年11月15日~18日にドイツ装甲軍が攻勢を開始して、中央軍集団はモスクワへの攻勢を再開した。ソ連軍は第10軍と第1打撃軍を増援して西方面軍に編入して、ジューコフ司令官にモスクワの死守を命じた。11月24日にドイツ装甲軍がクリンを攻略し、モスクワ運河に橋頭保を構築した。11月26日にはドイツ装甲軍が鉄道の中継点のイストラを攻略した。11月30日にモスクワから約8kmのヒムキに到達した。南部ではドイツ装甲軍が工業都市トゥーラを包囲してミハイロフを攻略した。

 しかし、11月末には、ソ連の各所でドイツ軍の攻勢が頓挫した。南部からモスクワを目指したドイツ装甲軍はトゥーラを占領できず、迂回して侵攻を継続した。ドイツ軍は、モスクワ南方を流れるオカ川の線で侵攻を阻止された。北方から侵攻したドイツ装甲軍は北部の要衝クリンを制圧して侵攻した。北部からのモスクワ突入は頓挫した。西方正面ではドイツ装甲軍がクレムリンから約25kmの地点のモスクワ郊外にまで達した。前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺めるモスクワまで8kmの地点まで侵攻した。

 ソ連には例年よりも早く冬が到来し、ドイツ軍の侵攻は完全に停止した。気温が零下約20度以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥った。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足して、車両や航空機も満足に動かせない状態となった。医療品の不足から凍傷にかかるドイツ軍兵士が続出した。ソ連軍は、防寒装備はより充実していた。ドイツ軍はソ連のモスクワ防衛の要衝のイストラを11月26日に占領したが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にあった。10月25日のモスクワ空襲を最後に、ドイツ空軍は出撃不能となった。ドイツ軍の死傷者数は約248,000人から約400,000人、ソ連軍は約650,000〜約1,280,000と推定された。




2024年1月15日月曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、砂地の平地にある機関銃の陣地にて殺害された日本軍兵士たちの死体が横たわった。その周囲には身を隠す遮蔽物はなかった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いは、1945年2月19日にアメリカ軍の上陸から勃発した。硫黄島の平地の大半は軟らかい砂質であり、およそ陣地やトーチカを造るには向いていなかった。平地にある機関銃の陣地にて殺害された日本軍兵士たちの死体が横たわった。その周囲には身を隠す遮蔽物はなかった。

 日本軍は、陣地構築のための資材も十分でなかった。土質が洞窟やトンネルなどの陣地構築に向いていなかった。毎日空襲があるで、いつ完成するのかわからなかった。日本軍兵力だって、少しずつの補強だったので、その配備もその場しのぎにならざるを得なかった。硫黄島全島は、ほとんど平坦なので、地形上の陣地の拠点がつくれなかった。アメリカ軍が硫黄島に上陸する直前の時期に、使用する飛行機も無きに拘わらず、日本海軍中央部の指令により、飛行場の拡張工事に日本軍兵力を使って、益々陣地を弱化することに陥った。

 大本営は、地下に潜ってばかりいる栗林兵団長の指揮に疑問を持って、攻勢をかけるべきだと意見した。それに対して、アメリカ軍の海と空よりの砲撃の中で、自滅を覚悟しないと攻勢は不可能であるのが実情であった。防備上に更に致命的なことは、アメリカ軍との物量の差余りにも大きくかけ離れていた。結局は、戦術も対策も施す余地も尽きていた。特に数十隻よりの間断なきアメリカ海軍の艦砲射撃ならびに一日延べ1,600機にも達したアメリカ軍機が銃爆撃した。日本軍の損害は続出した。

 1945年3月17日に、栗林兵団長は大本営に対して、決別の電報を打電した。3月25日深夜から3月26日未明にかけて、小笠原兵団司令部が、アメリカ軍に対して、バンザイ攻撃による自殺突撃をした。午前5時15分頃に、約200人から300人の日本軍兵士は、北方から侵攻した。平岩海岸と海兵隊と陸軍露営地を襲撃した。アメリカ軍は、戦死53人、戦傷119人の犠牲を伴った。日本軍は96人が戦死した。硫黄島の戦いの日本軍の戦死者数はアメリカ軍の戦死者数の3倍であったが、太平洋戦争のアメリカ軍の死傷者数の合計が日本軍のそれを上回った。日本軍兵士約20,933人のうち約95%の約19,900人が戦死あるいは行方不明となった。アメリカ軍は戦死は約6,821人と戦傷約21,865人の計約28,686人の戦死傷者の犠牲を伴った。




2024年1月14日日曜日

2023年11月22日に、イスラエル軍の空爆と銃撃の攻撃で死亡したパレスチナ人の100体以上もの死体が、ガザ地区のアル・シファ病院からガザ地区南部のカーン・ユーニスに搬送され、その後に集団墓地に埋められた。

2023年11月22日に、イスラエル軍の空爆と銃撃の攻撃で死亡したパレスチナ人の100体以上もの死体が、ガザ地区のアル・シファ病院からガザ地区南部のカーン・ユーニスに搬送された。その後に、集団墓地に埋められた。ガザ地区自治政府によると、イスラエル・ハマス戦争が勃発した2023年10月7日以来から11月22日までに、イスラエルによるガザ地区攻撃で少なくとも約20,424人のパレスチナ人が死亡した。

 ガザ地区南部のカン・ユニスにある墓地では、11月22日に、身元不明の数十人の死体が集団墓地に埋葬された。ブルーシートに包まれた死体は、担架に乗せられた。そのうちの何体かは血に染まりながら、掘削機によって徐々に拡大された砂の穴に降ろされた。子供ほどの大きさの死体もあった。宗教省緊急委員会は、「無名の殉教者である埋没者たちには別れを告げる人がいなかったので、埋葬するために集団墓地を掘った。」と語った。ガザ地区北部のインドネシア病院とアル・シファ病院から運ばれてきた。ジャバリア難民キャンプの端にあるインドネシアの病院は、イスラエル軍から11月20日に空爆を受けた。負傷したパレスチナ人は、血を流しながら目の前で死亡した。病院内は死臭が充満していた。負傷者たちは鎮痛剤を求めて泣き叫んだが、与える薬はなかった。死体袋が不足している

 ガザ地区市内にある最大のアル・シファ病院も同様な状況であった。アル・シファ病院も11月14日に、約179人の死体が複合施設内の集団墓地に埋められた。電気を供給できなかった保育器ために死亡した7人の未熟児も含まれた。11月22日にカン・ユニスに到着した死体は、イスラエル軍によって拘束された後に、第三国と国連からの要請を受けて死体が解放された。ガザ地区では何千人もの死者が出て、埋葬の問題は多くのガザ市民に衝撃を与えた。戦争が始まって以来、戦死者は私有地やサッカー場にさえ急遽埋葬された。











The bodies of Palestinians killed in Israeli strikes are buried in a mass grave after they were transported from al-Shifa Hospital to Khan Younis in the southern Gaza Strip on November 22, 2023. The Government Media Office in Gaza says that at least 20,424 Palestinians have been killed in the Israeli offensive in Gaza since October 7. [Mohammed Salem/Reuters]

2024年1月13日土曜日

日本赤十字社広島病院において1945年10月上旬頃に、被爆者の佐々木トシ子は日本赤十字社広島病院で左下腿の火傷した皮膚の治療を受けた。家屋は倒壊して、特に左下肢膝部を梁材にて圧迫されて、脛骨、頭部骨亀裂、軟部組織などに多創を受傷した。

日本赤十字社広島病院において1945年10月上旬頃に、被爆者の佐々木トシ子は日本赤十字社広島病院で左下腿の火傷した皮膚の治療を受けた。佐々木トシ子は、広島原子爆弾の被爆により、広島市天満町105の東洋製鉄で受傷した。椅子にかけ執務中に、広島原子爆弾の光芒を見て座せんとして、中腰になりたる時に受傷した。家屋は倒壊して、特に左下肢膝部を梁材にて圧迫されて、脛骨、頭部骨亀裂、軟部組織などに多創を受傷した。日本赤十字社広島病院に入院した。神経損傷はなく左拇趾自動運動は可能なるも、膝関節に高度の拘縮を認めた。運動時疼痛のために左下肢受働位を取った。日赤病院の血液検査は、白血球6200であった。

 日本赤十字社広島病院は、戦時下は広島陸軍病院赤十字病院となり、爆心地から南1.6kmの広島市中区千田町1丁目に位置した。敷地内にあった木造建築は全部倒壊して、間もなく火を発して焼失した。主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであり、焼失は免れた。鉄の窓枠は破壊してガラスはこっぱみじんに飛散した。建物の内部も天井は落ち、壁は崩れ、椅子や机は倒れ、足を踏み入れるのが困難なほど破壊された。

 菊池俊吉が被爆者の写真撮影をした。オリエンタル写真学校を1938年に卒業して東京工藝社に、1941年に東方社写真部に入社した。被爆して約2カ月後の1945年10月に、写真家の菊池俊吉さんは専門家による被害調査に伴う原爆記録映画の撮影に同行して、広島市内の被爆者を何人も写真に収めた。1945年9月に、文部省学術研究会議が編成した原爆被害の調査団に同行して、被爆地の広島を撮影した。旧文部省が編成した原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から20日までスチル写真の撮影に当たった。