2023年2月15日水曜日

バクダットの戦いで2003年4月初旬に、アメリカ軍は父親のファールークさんを銃殺して殺害した。布を顔に巻いた息子のゼイドさんは、毛布で死体を少しずつはがし露出して、父親の死体の全身を棺の中に収めた。

イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、バグダッドの戦い(Battle of Baghdad, 4月3日〜4月9日)にて、2003年4月5日早朝は最初にアメリカ軍は、浄水場近くを通る国道8号を通って、西方のサダムフセイン国際空港に侵攻した。二度目のバクダット侵攻は、4月7日に国道8号から共和国宮殿に侵入した。4月9日には、パレスチナホテル前のサダム像を倒壊して、サダム・フセイン政権は崩壊した。

 数日後に、国道沿いに止めた乗用車の横で、2人のイラク人男性が黙々と、毛布を右側のドアから中に入れ、毛布で死体をつかんで引き出した。無数のハエが激しく羽音を立て飛び回った。手前に内側に白布を敷いた木棺が置かれた。死体から凄まじい腐臭が漂って、湧いたハエが飛び出した。白布で鼻と口を覆った2人の男性が死体を引っ張ると、全身が棺の中に収まった。

 アメリカ軍のバクダットの戦いを知った夫のファールーク・アブルカーシム(65歳)さんは、数日前の朝に、妻がアメリカ軍が侵攻する国道沿いの実家に帰った。戦闘に巻き込まれる前に、妻を連れ戻すために夫はドーラの自宅を飛び出し、車で国道を北に向かった。既にバクダットに侵攻したアメリカ軍に、夫のファールークの頭と腹は撃ち抜かれた。左の後部座席のシートやドア、運転席の背もたれに多数の穴が開いた。全速で通り抜けた車を、アメリカ軍は追いかけて銃撃した。

 布を顔に巻いた父親の息子であるゼイドさん (24歳)は、毛布を少しずつはがしながら、ペットボトルに入れた白い液体を父親の背中にかけた。消毒液で、吐き気をもよおす腐臭が薄らげた。右脇から腰にかけて赤黒い血がこびりついた父親のファールークさんの死体が露出した。死体の腰、尻が不自然に膨らんで、死後に数日が経って、腐敗で膨張した。息子のゼイドさんは、切断しかけ地面に落ちた父親の左足を持ち上げ、右足に重ねた。ゼイドさんは、黙々と父親を棺に収める作業をした。父親の死体を布で覆い、棺の蓋を閉めた。棺の付近に直立し、広げた両手の平を捧げて祈った。イスラム教の儀式で、聖地に向かってコーランの言葉を暗唱した。




2023年2月14日火曜日

北朝鮮の工作船が、1980年6月21日に韓国の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈され、1人が逮捕され、工作員の9人が射殺され、死体が担架で搬送された。

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の工作船が、1980年6月21日に韓国(大韓民国)の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈された。1人が逮捕され、北朝鮮の工作員の9人全員は射殺された死体が担架で搬送された。逮捕された北朝鮮の金光賢は、北朝鮮の作戦部に所属して、工作船にて工作員を往復させて、韓国人を拉致していたと証言した。1970年代以前は韓国軍の海岸警備は手薄であったが、1970年代以後は韓国軍の海岸警備は強化された。

 北朝鮮は、対南工作(대남공작)にて、韓国に対して行う政治的、軍事的、思想的な工作活動を指令した。金光賢は、1955年から1959年まで北朝鮮の平壌首都保衛軍の伍長をした。紡績工場の作業班から1965年に中央党所属、対南連絡所で南派訓練を受けた。1980年6月まで北朝鮮でスパイ工作員を輸送する任務で、十数回韓国に南派された。数人を送り込んでは連れて帰った。スパイ工作船基地の海州港を出発してから、西海(黄海)まで大型船で行き、小舟の工作船に工作員を乗せる。その後に基地に帰って待機して、約15日後に工作員を迎えに行った。

 北朝鮮のスパイ工作船の基地は、東海岸任務は元山、南海岸任務は南浦、西海岸任務は海州にあった。金光賢の西海岸任務した海州には、スパイ工作船の母船である基本船が約6隻、小型工作船が約20〜30隻あり、小型工作船は5トン程度で約10人は乗れた。

 金光賢さんは1980年6月18日に海州港を出発した。外形は漁船であるも、高射機関砲を積んだ。西海(黄海)を経て、6月19日夜8時頃に忠清南道の海水浴場である大川の沖に到着した。工作員と約10人が小舟に乗り換えて、韓国の海岸の防備状況の偵察に向かった。6月20日夜に大川の沖から海岸に静かに接近した。北朝鮮の工作員を降ろす地点で、韓国陸軍の歩哨所に発見された。韓国陸軍からの攻撃が始まり、小舟は無抵抗状態であった。砲弾や銃撃が小舟に命中して、瞬時に沈没した。撃沈された時点に工作員は全員9人が殺害された。

 金光賢は、大川の沖を必死で泳いで逃げるも、韓国軍機に発見され、韓国軍の艦艇に捕獲された。9人の北朝鮮の工作員は殺害されて、金光賢1人のみが逮捕されて生存した。金光賢さんは、韓国軍に抑留されて1年間は北朝鮮のスパイ・拉致などの取り調べを受けた。その後に韓国社会に向けた更生訓練を受けて社会復帰した。




2023年2月13日月曜日

ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害した映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

イスラム国(ISIS,ISIL)が、1914年6月中旬にイラクのティクルート由来の画像により、捕虜となったイラク政府関係者の大量虐殺を示唆した。ISISが投稿した動画からの静止画の大量虐殺の場面を描出した。処刑はイラクのサラエディン州で行われ、イラク民間人の服を着た数十人のイラク治安部隊員を、群がったトラックから地面にうつ伏せにさせた。その後に浅い溝で、銃やライフルで、武装したISIS武装勢力が射殺さした様子を映し出した。

 国連の人権事務所は、イラクで大量虐殺の報告の裏付けを発表した。ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害したとされる映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

 非営利団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは、映像を検証した。ISISは、宗派間紛争を引き起こすも、偽証の演出を示すものは見当たらない。画像はティクリート市から由来した。ISISに拘束された人々が、近くの処刑場に強制連行される模様が映し出された。衛星画像とティクルートの地域の特徴を照合して、強制連行され拘束そされた人々の写真が、撮影された場所とティクリットの処刑場を特定できた。ティクルートの都市は、6月12日にISISの武装勢力に陥落した直後であった。インターネット上で再度に流通した過去の類似の宗派間の暴力事件で撮影された画像ではなかった。衛星画像から、銃殺して殺害された犠牲者の死体が並べ、銃撃された実際の塹壕の場所を特定した。

 現地での目撃者も探索した。映像の技術は、第一次湾岸戦争後のシーア派の反乱の失敗の余波から、死刑が執行された1991年の大量処刑と非常に類似した。人々は処刑場までトラックで運ばれ、ブルドーザーで事前に掘られた溝があり、人々は並べられて処刑された。1991年にイラクの治安部隊が、執行した大量虐殺に類似した。ISISがシリアで執行した大量処刑とも異なった。イスラム過激派がティクリートで家々を回り、地元の家族が隠している政府軍兵士を掃討した。




2023年2月12日日曜日

ウクライナ東部ドネツク州の血生臭い戦場となったバフムートのショッピングセンターにロシア軍のロケット弾が当たった際に巻き込まれて、建物の玄関で高齢女性と2匹の犬が、2023年1月2日に殺害された。

ウクライナ東部ドネツク州のバフムートの建物の玄関で高齢女性と2匹の犬が、2023年1月2日に死亡した。高齢女性と犬は、近くのバフムートのショッピングセンターにロシア軍のロケット弾が当たった際に巻き込まれて殺害された。



 







Warning: A woman and two dogs lying dead in the doorway of a building in Bakhmut on Jan. 2. The woman was believed to have been killed when a rocket struck a nearby shopping center 15 minutes earlier. (Nicole Tung for The New York Times)

 ウクライナの東部ドネツク州のバフムート(Bakhmut)の戦いは最も長く続いた市街戦となった。ウクライナ軍は戦争の大半を通じて、直接の対決を避け、機敏な作戦、欺瞞、西側が提供する長距離兵器に頼り、バフムートを保持した。バフムートの戦いを、都市防衛の市街戦の転換により、ウクライナ軍とロシア軍は激しい戦闘を繰り広げて、双方とも甚大な犠牲を伴った。バフムートは致命的な市街戦で、ドネツク州東部の廃墟と化した。砲弾の跡が散乱して、ロシア軍兵士らの死体が放置されて、しばしば死体の悪臭が漂った。

 戦争初期、ウクライナ軍当局は、死傷者の多い戦闘は勝利の戦略ではなかった。夏に東部での消耗戦でロシア軍は弱体化して、その後に数カ月間にウクライナ軍は北部のハリコフ州と南部のケルソンで攻勢に転じた。バフムートは、夏以降の激化した戦闘でほとんどが破壊された。バフムートは、戦略的価値よりは、双方にとって象徴的な重要性を持っている。

 バフムートの戦いは2段階に分かれ、最初の約100日ほどはロシア正規軍が関与して、それ以降は民間軍事会社ワグナーグループが卑劣な役割を担った。ワグナーグループは、ロシアの刑務所から集めた囚人で構成される軍団が攻撃した。ロシア軍は、ワグナーグループの戦闘員とともに、パフムートを包囲するために、北東の前線沿いにあるソレダールを含む近隣の町や村を侵攻した。ワグネルグループの戦闘員が数方向からソレダールの襲撃したが撃退された。バフムート周辺での戦闘は、最前線で最も血生臭い戦場の一つとなった。ウクライナ軍とロシア軍の兵士の死体を収集する人道的派遣団のブラック・チューリップ(Black Tulip)が、2月7日にウクライナの東部ドネツク州イジウムの近郊のコロヴィー・ヤール(Koroviy Yar)付近で、放置されたロシア軍兵士の死体を搬送した。












Warning: Members of Black Tulip, a humanitarian mission that collects bodies of Ukrainian and Russian soldiers, carrying the body of a Russian soldier near Koroviy Yar in Ukraine’s east, Jan 7, 2023. (The New York Times)

2023年2月11日土曜日

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。

広島原子爆弾に被爆した当時の広島電鉄の市内の路面電車が、爆心地から西方に約700mの西十日市町の付近で、1945年8月に全焼して骨組みだけが残存した。本体には、肉親らが走り書きで消息を記載していた。路面電車のレール付近を、広島市民がリヤカーで家財を運搬していた。

 広島電鉄の路面電車の総台数は約123台であり、そのうち全焼あるいは大破した路面電車は約49台であり、中破および小破した路面電車は約59台であった。総計では、路面電車は約108台が被害を受けて、無傷は約15台のみが残存した。燃え上がる駅舎、黒焦げとなった車両と乗客、線路周囲には横たわり被爆死傷した被爆者が散乱した。

 広島電鉄の全従業員約1,241人のうちで、社員や家政女学校の生徒など約185名が被爆死して殉職して、そのうち家政女学校生徒が約30人が被爆死した。約266名が被爆して負傷した。市内の路面電車は、車両123両中に108両が被災した。支柱の倒壊によって架線も甚大な被害を受けた。施設の被害も大きく、爆心地の近くにあった櫓下変電所が全壊して、電柱約842本のうち約393本が倒壊した。約102,400mの架線のうちの被害は約94,350mに及んだ。バスも保有約100台のうち約68台が損傷して被害を受けた。

 広島電鉄は、1910年6月18日に広島電気軌道株式会社として設立され、路面電車は、1912年11月23日から開通した。1945年8月6日午前8時15分に広島市に投下された原子爆弾に被爆直後から、広島電鉄は、広島市・軍当局と協働して復旧作業を行った。3日後には己斐~天満町間で路面電車が復旧した。被爆した約3日後の8月9日には、爆心地から約15km離れた廿日市変電所からの電力を使って、己斐(現・広電西広島)から西天満町(現・天満町)までの短い区間ながら、市内電車の運行を再開した。9月7日には八丁堀まで至り、廃墟の広島市内中心部に路面電車が走行始めた。この時点で運行可能な車両は約10両に過ぎなかった。10月11日に広島駅まで復旧しても、約20両が運行可能であった。バスも8月8日に走行を見かけた。




2023年2月10日金曜日

イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマーを嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれた。

2007年9月16日に、イラクの首都バグダッドの北東約60kmのバクーバで、一家の車が何者かの武装集団による銃撃に巻き込まれた。イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマー(Dhiya Thamer)を嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。ディヤの10歳の兄貴のクサイ(Qusay)は攻撃を受けて負傷した。弟のディヤが、小学校1年生になる予定の小学校に、子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれて、タマー兄弟が死傷した。(写真:Adem Hadei/AP Photo via The Atlantic/ Last Touch, Award of Excellence, POYI) イラク人の母親は、子どもを守ろうと思っても、守り切れなかった。イラク戦争では、貧乏なイラク人、末端のイラク人たちがみんな犠牲になった。

 イラク戦争が2003年3月20日に開戦後から5月1日に終結宣言後も、イラク人市民の流血は続いた。世界保健機関(WHO)の調査によると、2003年3月から2006年6月までの間に、毎日平均約120人のイラク人が暴力的に殺害された。医学調査研究(NEJM)では、イラク人の半数以上が首都バグダッドで殺害されたと明記され、約15歳から約59歳の男性の死因のトップが、暴力事件であると強調した。2006年に、医学雑誌ランセット(Lancet)に掲載されたアメリカ人医師による調査研究では、イラク戦争と占領によって死亡したイラク人は約65万5千人に上ると推定された。2007年末にアメリカ外交協会(AFSA)が、アメリカ国務省職員約1万1000人のうち約4000人を対象に調査研究を行った。イラク駐在を希望しない外交官の約48%が、アメリカのイラク政策に反対を表明し、それが拒否する理由の一つであると強調した。

 同日2007年9月16日に、アメリカ軍はイラクのアンバル州でアルカイダ系の反乱軍に対抗する地元勢力を組織した部族指導者を殺害した容疑者のイラク人らを捕獲したと発表した。同日9月16日にイラク警察は、バグダッド西部のスンニ派が多い地区にて、警備請負業者が発砲して、少なくとも約9人の民間イラク人が殺害され、アメリカ大使館は、国務省の請負業者が発砲事件に巻き込まれたと発表した。警備請負業者は自分たちを守るために武力をエスカレートさせた。同日9月16日には、バグダッド中心部のマンスール地区で、米国務省の車列が正午に攻撃を受けた。車列の近くで爆発があり、車列を警備していた警備業者が街頭で発砲した。9月16日には、イラク全土で54人の死亡または発見された。宗教が混在する町トゥズ・ホーマトで、ブービートラップを仕掛けた自転車が爆発し、少なくとも約5人が死亡、約19人が負傷した。その他、ディヤラ州のバグダッド北東にあるバロール村で武装集団が襲撃し、約14人が死亡、約7人が負傷した。




2023年2月9日木曜日

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。八字橋を挟んで日本軍と国民党軍が一進一退の戦いをした。多くの兵士が犠牲となり、宝山路、宝興路付近まで焼土と化し、多くの住民が家を焼失した。特権的外国人居留地である日本租界の北西部が戦場となった。毎日新聞の八字橋の写真を、日本軍が検閲をした修整の指示は「死体を消すこと」であった。写真に受入日や説明の他、検閲記録が記載された。戦地で撮影した写真は、日本軍の検閲を受けなければ、新聞に掲載できなかった。写真には不許可となるも、修整の上で許可となった。




 1937年8月9日に国民党軍の張治中らが、日本海軍の特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が殺害された。7月7日に勃発した盧溝橋事件から日中和平交渉の最中に大山事件が勃発した。8月12日に、中国の国民党軍の約3万人が、上海の日本租界を包囲した。八字橋に駐屯していた特別陸戦隊はわずか約4千人で、日本領事館は在留日本人を避難させた。緒戦は、8月13日午前10時30分に、商務印書館付近の国民党軍が、日本軍の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせた。午後4時54分に、八字橋の方面から中国の国民党軍が急襲して第二次上海事変が勃発した。

 上海ではドイツ製などの最新の兵器を持った国民党軍に対して寡兵の特別陸戦隊が奮戦した。特別陸戦隊は八字橋で約10倍の国民党軍に対して約5時間にわたり防御した。8月16日には国民党軍が大挙して特別陸戦隊へ押し寄せて、日本軍は戦車と装甲車で防戦した。その後も国民党軍は攻撃を続け、約7万の大部隊まで増強した。ようやく8月18日から8月19日に横須賀と呉からの特別陸戦隊が上海へ約6千3百人に増援した。

 8月22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破された。日本軍は必死に防戦して、夜明けとともに国民党軍の攻勢も停滞した。更にその夜からも国民党軍が各戦線で攻撃を行い、8月23日に激戦となるも、特別陸戦隊はかろうじて防衛した。8月23日から日本陸軍部隊も上海に上陸を開始して、特別陸戦隊は守り切った。8月25日以降は国民党軍は日本陸軍部隊を攻撃対象となった。




2023年2月8日水曜日

ドイツ軍の有刺鉄線に苦戦するフランス軍攻撃隊は、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いでフランス軍兵士は殺害されて、死体が有刺鉄線の周辺にぶら下がった。

ドイツ軍の有刺鉄線に苦戦するフランス軍攻撃隊は、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いでフランス軍兵士は殺害されて、死体が有刺鉄線にぶら下がった。戦況は常に山頂から山頂へと移り変わり、左岸で繰り広げられた銃撃戦は悲惨な戦場となった。両陣営とも全中隊が壊滅して、何日も食物や飲物が手に入らず、戦傷者は運ばれず、死者は埋葬されず放置された。フランス軍は勇敢に立ち向かって、ドイツ軍はまたLe Mort-Homme(ル・モール・オム, Dead Man's Hill)の高台とCôte 304(コート丘304m)を奪取できなかった。フランス軍はCôte 304から、気球と飛行機からの砲撃により、ドイツ軍の砲列と観測所の設置を阻止した。ドイツ軍兵士が自陣を掘るのはほとんど不可能で、陣地が昼夜を問わず砲撃された。

 第1次世界大戦のヴェルダル(Verdun)の戦いの第3段階に、ムーズ(Meuse)川左岸の側面の戦いが、1916年3月16日から5月31日に勃発した。4月9日にドイツ軍は、ムーズ川の両岸を一度に攻撃した。左岸からLe Mort-HommeとCôte 304を、同時に攻撃した。ドイツ軍は資材と兵員を追加して侵攻した。フランス軍側には予備兵力はほとんどない。ドイツ軍の攻撃は再び激しい初期射撃から始まった。Le Mort-Hommeの頂上全体が煙と砂埃に包まれた。ドイツ軍は徐々に優勢になるが、兵隊の損害が大きく、Le Mort-Homme丘の下部頂上にしか到達できなかった。丘の高い頂上は、さらに数百m上に位置して、約3m高かった。ドイツ軍はCôte 304のフランス軍から絶え間なく砲撃を受けた。フランス軍はムーズ川の左岸から、ドイツ軍が右岸から攻防した。 

 1996年4月9日以降に、約12日間も雨が降り続いた。部隊は文字通り膝まで水につかり、乾いた衣服は一枚も残っていなかった。豪雨の後に、フランス軍の反撃が続いて、Le Mort-Hommeの丘からドイツ軍を追い払った。一方、Côte 304への攻撃の準備も始まり、500門の重砲が、約2kmにも満たない前線に砲火した。ヴェルダンの戦いは、世界戦史上最も長く、悲惨な戦いであった。小さな土地で、多くの兵士が参戦して、長く悲惨な戦闘が繰り広げられた。1916年2月21日から12月19日まで継続した戦いで、推定約70万人以上の死者と戦傷者、行方不明者が出た。戦場は10平方kmにも満たない。戦略的な観点からも、悲惨な犠牲を正当化できない。ヴェルダンの戦いは、二国間の威信の問題に堕落した。



 

2023年2月7日火曜日

フランス解放のためにパリに向かう途中で、8月23日にフォンテーヌブローに近づいたアメリカ軍兵士と戦車・装甲車は、放棄されたままのドイツ軍兵士の死体の横を無視して移動した。

アメリカ軍兵士は1944年8月に、フランスのアヴランシュ近郊で、M10駆逐戦車の支援を受けながら侵攻した。フランスを解放するためにパリに向かう途中で、8月23日にフォンテーヌブローに近づいたアメリカ軍兵士と戦車・装甲車は、放棄されたままのドイツ軍兵士の死体の横を無視して移動した。8月の暑い気候の中で、死体にはウジが這い、ハエの大群が降りて、上空でも戦場の悪臭を嗅げた。

 アメリカ地上軍は6月6日のノルマンディー上陸作戦から、約2ヶ月後に突破口を開けた。連合軍の戦闘爆撃機は、ドイツ軍を駆逐して介入を阻止した。7月30日から31日にかけて、アヴランシュのドイツ軍の陣地は崩れ落ちた。8月12日から8月21日まで、約10万人のドイツ軍は、フランスのファレーズ・ポケット(Falaise Pocket)に閉じ込めた。東部のドイツ本国への唯一の細い脱出路は容赦ない連合軍の空襲にさらされた。地域全体は連合軍の空襲で炎上して、ドイツ軍は8月17日になって退却が命じられた。ファレーズの戦場は、最大の殺戮の場の一つとなった。死体や腐敗した肉体が連なった。

 ドイツ軍は連合軍の袋小路の閉鎖を阻止するも、連合軍の大規模な戦闘機攻撃により避難は極めて困難となった。ドイツ軍兵士約5万人は、東方に脱出できたが、重装備部隊は空襲によりファレーズ地区に放棄された。8月15日には、連合国軍が南フランスに上陸した。フランス南西部のドイツ軍は、北東部への急速な撤退を命じられた。ファレーズ・ポケットの撤退と重なり、8月20日に連合軍がパリ南部のセーヌ川を渡った。8月25日午後12時20分頃に、パリのエッフェル塔に、ほぼ50ヵ月ぶりに三色旗が再び掲揚された。数分後、凱旋門の旗竿にも青白赤の大きな国旗が広がり、ドイツによるフランスの首都パリの占領が終わった。

 8月22日までに、連合軍の西側にいたドイツ軍は死亡または捕虜となった。ドイツ軍は約8万人から約10万人の部隊が包囲されて、そのうち約1万人から約1万5千人が殺害された。約4万人から約5万人が捕虜となり、約2万人から約5万人が逃亡した推定した。ノルマンディー戦で、ドイツ軍は推定約45万人のうち24万人が死傷した。連合軍は死者約36,976人、行方不明者は約19,221人を含む209,672人の犠牲を払った。




2023年2月6日月曜日

レニングラード包囲戦にて、ソ連軍兵士はスノーモバイルの空中ソリのプロペラ機で、イリメニ湖などを渡る途上で、ドイツ軍の空襲による砲火で粉砕して殺害された。

第二次世界大戦東部戦線のレニングラード包囲戦にて、ソ連軍兵士はスノーモバイルの空中ソリのプロペラ機で、イリメニ湖などを渡る途上で、ドイツ軍の空襲による砲火で粉砕して殺害された。ソ連軍は、脆弱な道路網と厳しい冬場の車輪のない特殊な車両であるスノーモービルである空中ソリで、特に氷結して湖上の戦場で軍事物資を運搬した。1941年11月末になると、イリメニ湖が氷結した。イリメニ湖上を軍需品を輸送するソ連軍兵士を、ドイツ軍が空襲と砲撃で殺害した。スノーモバイルのプロペラ機が、至る所で破壊された。ドイツ軍の砲撃ににより、イリメニ湖上の氷結が粉砕された。天候が悪化して極寒になれば、再びイリメニ湖に新たな氷路が形成された。氷湖を通じた物資の搬入が、ドイツ空軍によって封鎖された。

 レニングラード戦線のソ連軍が保持したネヴァ川の左岸の狭い土地全体が、ドイツ軍の砲火にさらされた。その橋頭堡を保持するソ連軍は甚大な損害を被った。1941年から1943年に、合計で約5万人のソ連兵士がネヴァ湾で、ドイツ軍に殺害された。1941年から1942年に、ソ連軍は封鎖を突破する作戦は、すべて失敗に終わった。ラドガ湖とムガ村の間は、ドイツ国防軍が堅持した。

 ソ連軍司令部は1941年夏にはレニングラードを撤退して、必要な物資は外部に搬出していた。約300万人のレニングラード市民だけでなく、約20万人のソ連軍兵士にも物資が枯渇した。ラドガ湖やイリメニ湖が凍り付くと、レニングラードがロシア内陸部と繋がり、ソ連軍兵士は、厚く凍った氷上を物資を運搬した。防御に必要な武器と弾薬などが優先されて、食料は最も後回しとなった。飢えたレニングラード市民に与えられた箱は、依然として、迫撃砲や機関銃など武器だけであった。レニングラード市民は、飢餓状態となり、死体を市内を引っ張り運搬するも、葬儀もできずに、死体の山を積み重ねた。

 レニングラード包囲戦は、大祖国戦争中にドイツ軍とフィンランド軍と同盟国が、レニングラード市(現サンクトペテルブルク)を軍事的に封鎖した。1941年9月8日から1944年1月27日まで、封鎖は約872日間も続いた。9月1日には食料品の自由販売が禁止された。軍人と民間人の両方の食料規範は定期的に削減され、1941年11月20日から12月25日まで最小限となった。人は飢えで弱り、死と戦わなくなる。死は、あらゆる場面で見られる現象になった。市民は死に慣れ、無関心になる。皆同じ運命になる。道に死体が転がった。死体を掃除せず、死体は長い間横たわった。1941年12月だけで約52,881人が死亡し、1-2月の損失は合計約199,187人に上った。





2023年2月5日日曜日

ウクライナ東部ドンバス州北部のクラマトルスクの鉄道駅が、2022年4月8日午前10時にロシア軍のロケット攻撃を受けて、避難していた約5人の子どもを含む少なくとも60人が死亡して、約110人以上も重態となった。

ウクライナ東部ドンバス州北部のクラマトルスク(Kramatorsk)の鉄道駅が、2022年4月8日午前10時にロシア軍のロケット攻撃を受けて、約5人の子どもを含む少なくとも60人が死亡して、約110人以上も重態となった。クラマトルスク駅では、ロシア軍の侵攻の中、多数の市民がより安全な地域に避難していた。血液が散布され地面に散乱した荷物や黒焦げの車の隣に、死体が散乱していた。ロシアの鉄道駅襲撃の余波を受け、クラマトルスク駅周辺で死傷者の間を救急隊員が緊急対応した。





 





Warning: Emergency personnel walk among injured people lying on the platform in the aftermath of a rocket attack on the railway station in the eastern city of Kramatorsk, Ukraine. (Anatolii Stepanov/AFP)


 ロシア当局は長年にウクライナが分離主義者の東ウクライナに空爆を行い、子どもを含む民間人を殺害したと非難した。ウクライナ当局によると、攻撃当時に、クラマトルスク駅と周辺には約4000人の市民が在留して、多くが、ロシア軍の侵攻の地域から離れるよう呼びかけられた女性や子どもたちだった。クラマトルスク駅の隣の地面には、ロシア語で子供たちのために報復と描いた大型ロケットの残骸も確認された。

 2発のロケット弾がクラマトルスク駅を襲撃して、ウクライナ鉄道は4月8日に攻撃を鉄道の旅客インフラと住民に対する意図的な攻撃と非難した。クラスタ弾を搭載した短距離弾道ミサイル・トーチカUが致命的な攻撃に使用されたと発表した。非人間的なロシア軍は、戦場ではなく、市民を冷淡に殺傷している。罪のない市民への衝動的なロシア軍の攻撃は故意である。スーツケースの山の側に数人の死体が横たわり、武装警察官が監視した。厚い煙が立ち込める中、救急隊員が消火活動をした。

 4月7日に、親ロシア派のテレグラムは、クラマトルスクから鉄道で避難しないよう市民に警告を発した。ロシア軍は、クラマトルスク駅の攻撃への関与を否定した。ロシア当局のドミトリー・ペスコフ報道官は、ミサイルの種類から、ロシア軍の攻撃はすでにロシア国防省によって否定されたと述べた。ロシア軍は同種のミサイルを使用していない。4月8日のクラマトルスクで作戦はない。ロシア当局は、2月24日に同国が侵攻を開始して以来、民間人を標的にしたことを否定している。

 5人の子供を含む約60人が死亡し、弾道ミサイルにはクラスター弾が含まれた。クラスター弾は、空中で爆発させ、より小さな爆丸を広範囲に撒き散らし複数の目標に打ち込む残忍な兵器である。2022年4月8日にロシア軍のロケット弾攻撃により少なくとも20体の死体が駅の横でビニールシートの下に集団で地面に横たわった。その死体を、ウクライナの警察官が検死した。













Warning:  A   Ukrainian policeman bends over bodies laid on the ground after a rocket attack killed at least 30 people in Kramatorsk on April 8, 2022. (Fadel Senna/AFP)

2023年2月4日土曜日

広島原子爆弾による広島女子専門学校の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。

 広島女子専門学校(広島女専、現在の広島県立広島大学の前身)の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。大河国民学校(現在の大河小学校)の2階には、宇品船舶司令部の部隊が常駐していた。集積された物資から、大河国民学校にも傷口に塗る油が提供された。陸軍省の第2次調査班として陸軍船舶司令部の写真班が、被爆状況や収容された被爆者を1945年8月14日から11月21日まで調査撮影をした。

 広島女子専門学校は、尋常小学校と高等女学校を終えた女子が進学する学校として、1928年に広島市宇品に開校した。広島原爆戦災誌では、1年生約160人と病弱などで動員されなかった2,3年生約20人が在校した。陸軍船舶司令部の暁部隊約60人も、宇品港で乗船を待って宿泊した。広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.3kmにあり、学校内では被爆するも、被爆死はなかった。講堂は全壊、木造校舎も窓が割れ傾いたものの、火災は免れまた。校舎の一部は、応急救護所として使用された。市内は、大学や高等師範が焼失して、戦後約2年間は広島の学問の中心的な活動拠点を担った。

  大河国民学校は、広島市南区旭一丁目8番1号の爆心地から南東約3kmにあり、登校児童などの被爆は少なかったが校舎は半壊した。被爆直後から校舎は、被爆者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の被爆者がつめかけた。ありあわせの油、医療品で療養が行われた。死亡者が続出し、運動場では駐屯した暁部隊兵士らが火葬した。

 第二次世界大戦後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印から、日本国と連合国各国の平和条約の1952年4月28日に発効により、連合国による占領は終結して、日本国は主権を回復した。朝日新聞社『原爆第1號 ヒロシマの写真記録』(1952年8月14日発行)に陸軍船舶司令部の写真班の写真が掲載されて公開された。その後に、国際的には、陸軍船舶司令部の写真班の1枚が、写真雑誌ライフ(Life)に1952年9月29日号に、原子爆弾の恐ろしさをアメリカ合衆国に初公開した。



2023年2月3日金曜日

第二次上海事変にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂して、上海最大の繁華街は流血の修羅場と化した。

第二次上海事変(1937年8月13日から11月12日)にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂させた。多数の中国人だけでなく、外国人にも死傷者が出た。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には手足の吹き飛ばされた死体や瀕死の人で溢れた。街頭の車が炎上して、爆風で瓦礫が散乱した。その惨状を撮影して記録した『支那事変写真帖第一集』の写真集を、上海の玉川写真館が、第三艦隊報道部と上海日本総領事館に検閲後に、1937年10月に発行した。

 8月14日に、上海にて中国軍の戦闘機による誤爆と共にあらゆる戦争の悲劇が出現した。中国軍が戦闘機を初めて使用して、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日にわたり中国軍の戦闘機は上海上空から急襲を繰り返した。日本軍は高射砲によって中国軍機を迎撃した。中国軍機の誤爆による大惨事は8月14日4時半に勃発した。2発の爆弾が国際共同租界に、もう2発がフランス租界に投下して炸裂した。およそ約600人(ほとんどは中国人)が死亡して、約11,000人が負傷した。

 それに続けて2発の誤爆が、パレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落下して炸裂した。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には死体や瀕死の人で溢れた。その後さらに2発が、エドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちて炸裂した。現地上海のフランス警察は、死者は約445人と負傷者は約828人と推定した。中国空軍に爆撃されたキャセイホテル前の惨状では、壊れた自動車や自転車、瓦礫が散乱し、空襲の凄まじさを物語った。犠牲者には大学教授や雑誌編集者、医師など多数の外国人も含まれた。

 8月14日以降も、中国軍の空襲は複数回に及んだ。8月23日正午12時50分頃には先施公司第二楼に中国空軍の爆弾の投下により炸裂した。その誤爆は惨状を呈して、即死者は約160人以上と約470人余の負傷者が出た。先施公司は上海を代表するデパートの一つであり、白昼に繁華街への攻撃を受けた。当時の上海は欧米各国の要人や特派員が常駐し、国際世論に直結する土地柄だった。日本軍は宣伝工作を十分に尽くさないまま軍事的な報復に踏み切った。一連の攻撃で中国軍が用いた爆撃機はアメリカ製であった。第二次上海事変は、日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど、流血が多い戦場と評された。




2023年2月2日木曜日

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。負傷者がおろおろと歩き、何ヵ所にもつくられた仮霊安所では引きとり手のない死体に、たえまなく線香の煙が包んだ。フエ攻防戦は、近代の市街戦の悲惨を証明した。

 テトの祝日である1968年1月31日未明から、約6000人以上ものベトコン解放勢力の大部隊が、 ロケット弾からフエ攻撃に移った。旧正月の古都フエは眠っていた。飛行場など目ぼしい軍事施設は、たちまち北ベトナム軍と解放勢力の手中に陥ちた。サイゴン政府軍の約1000人以上は旧正月の休暇をとって、残る兵士も不意打ちに狼狽して、半数以下にまで縮減した。アメリカ軍はフエ市内の顧問団本部に小規模配備のみであった。

 北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)は、短期間でフエの大部分を占領した。その後に、アメリカ軍とベトナム共和国軍(ARVN)は、激しい一軒一軒の市街戦で、徐々に追い詰めた。日中にできるだけ多くの家屋を奪って、防御態勢に入り、翌朝に家屋間の戦闘を再開した。連合軍は3月2日にフエを奪還した。フエ攻防戦で、約3,000人が殺害されて、北ベトナム軍とベトコンは約2,000人の民間人を処刑した。北ベトナム軍とベトコンの死者は約5,133人、連合軍はの死者は、約668人と負傷者は約3,707人に及んだ。

 ベトナム戦争のテト攻勢で解放民族戦線側は約6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、アメリカ軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。その後のテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍は約3,895人、南ベトナム軍は約4,900人、解放民族戦線は約5万8,373人であったとアメリカ軍は公表した。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人で、その約30%余りがテト攻勢のわずかな期間に失った。




2023年2月1日水曜日

アメリカ軍は1945年4月29日に解放したダッハウ強制収容所にて、屋根のない鉄道車両内に放置された囚人服を着た囚人の死体を発見した2人のアメリカ軍兵士が検死をした。

アメリカ軍は1945年4月29日に解放したダッハウ強制収容所にて、鉄道車両内に放置された囚人の死体を発見した2人の兵士が検死をした。その車両は、兵舎群の端にある鉄道支線に、約39両の車両の中で屋根のない状態で囚人服を着た多数の死体があった。4月初旬からブーヘンヴァルトからダッハウ(Dahau)に強制送還中に死亡した死体が放置された。

 ダッハウ強制収容所の有刺鉄線の後ろでは、骸骨様の囚人が太陽の下で座って、お互いのシラミを噛んだ。1944年10月から戦争記者のアメリカ人女性のマーサ・ゲルホーン(Marta Gelhorn)は、アメリカ軍の侵攻を追跡して、ダッハウ強制収容所の解放を取材した。1940年に結婚した小説家アーネスト・ヘミングウェイの妻でもあった。

 アメリカ軍は、ヴュルツブルクから南方に移動して、1945年4月29日の朝に、アメリカ軍は、ミュンヘン近くのダッハウ強制収容所に到着した。ドイツ国防軍はすでに撤退して、親衛隊部隊はほとんどが逃走中だった。アメリカ軍は発砲もなく完全に汚れて放置されたダッハウ強制収容所を解放した。兵舎と貨物列車の貨車には、何百もの死体が放置され、飢えた囚人、身体・精神障害を負った囚人などに、アメリカ軍は衝撃を受けた。

 大規模なダッハウ強制収容所を横切って、ドイツ軍病院に入った。廊下には他の骸骨が散乱して、周辺には病気と死の匂いが広がった。囚人はアメリカ軍兵士を見たが、動かなかず、顔には表情も擬態もなかった。顔は、骨の上に伸びた剛毛の黄色の皮膚が分布した。囚人は飢餓で餓死して、日常的に飢餓で死ぬために生存した。強制収容所の囚人は、長時間労働され、食糧は供給されず、換気もない過密状態の兵舎に詰め込まれた。毎朝、目覚めるたびに衰弱して、死を待機した。

 1933年2月に設立され、約20万人以上がダッハウ収容所に収容された。過去3年間で少なくとも約45,000人が死亡して、約33,000人が生存した。火葬場の前の広々とした家には親衛隊の将校と妻と子供たちが住んだ。火葬場の煙突は、人間の灰で充満した煙の無限の雲を空に放出した。1945年2月から3月の間に、約2,000人が毒ガスで殺害された。ダッハウは、ナチス・ドイツがドイツ本国の地に建設した最初の強制収容所であった。1933年2月にハインリヒ・ヒムラーの命令により、約5,000人の男性囚人の強制収容所がバイエルンの町ダッハウの近くに建設された。1934年7月4日から親衛隊のテオドール・アイケ(Theodor Eicke)は全強制収容所監視官として、親衛隊の部下を囚人に残忍な暴力や拷問を訓練した。ダッハウは、絶滅収容所であるアウシュヴィッツ・ビルケナウを含む、他の強制収容所の見本となった。ダッハウの最初の囚人は、ナチス反対者、労働組合員、社会民主主義者、共産主義者、一部の政治犯であった。その後に、犯罪者、エホバの証人、シンティとロマ、キリスト教徒が収容され始めて、その次にユダヤ人が収容された。

 1945年4月28日の早朝に兵舎を出て朝礼に向かう囚人は、親衛隊が監視塔に掲げた1つに白旗を見て驚いた。親衛隊員はすでに逃走中で、機関銃を持った残りの警備員は、囚人を制御下に置いた。噂が収容所全体に急速に広まった。翌日に、アメリカ軍の解放軍がダッハウに到着した。第二次世界大戦の終末に連合軍部隊が解放した2番目の強制収容所であった。翌日1945年4月30日に、アメリカ人軍はミュンヘンに侵入した。少し後に、ヒトラーが妻のエヴァ・ブラウンと共にベルリンで自殺したニュースが漏れた。5月の初めに、アメリカ人はミュンヘン近郊のミルドルフ収容所も解放し、5月8日に無条件降伏が調印され、第二次世界大戦は公式に終結した。