2023年2月2日木曜日

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。負傷者がおろおろと歩き、何ヵ所にもつくられた仮霊安所では引きとり手のない死体に、たえまなく線香の煙が包んだ。フエ攻防戦は、近代の市街戦の悲惨を証明した。

 テトの祝日である1968年1月31日未明から、約6000人以上ものベトコン解放勢力の大部隊が、 ロケット弾からフエ攻撃に移った。旧正月の古都フエは眠っていた。飛行場など目ぼしい軍事施設は、たちまち北ベトナム軍と解放勢力の手中に陥ちた。サイゴン政府軍の約1000人以上は旧正月の休暇をとって、残る兵士も不意打ちに狼狽して、半数以下にまで縮減した。アメリカ軍はフエ市内の顧問団本部に小規模配備のみであった。

 北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)は、短期間でフエの大部分を占領した。その後に、アメリカ軍とベトナム共和国軍(ARVN)は、激しい一軒一軒の市街戦で、徐々に追い詰めた。日中にできるだけ多くの家屋を奪って、防御態勢に入り、翌朝に家屋間の戦闘を再開した。連合軍は3月2日にフエを奪還した。フエ攻防戦で、約3,000人が殺害されて、北ベトナム軍とベトコンは約2,000人の民間人を処刑した。北ベトナム軍とベトコンの死者は約5,133人、連合軍はの死者は、約668人と負傷者は約3,707人に及んだ。

 ベトナム戦争のテト攻勢で解放民族戦線側は約6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、アメリカ軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。その後のテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍は約3,895人、南ベトナム軍は約4,900人、解放民族戦線は約5万8,373人であったとアメリカ軍は公表した。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人で、その約30%余りがテト攻勢のわずかな期間に失った。