2023年2月4日土曜日

広島原子爆弾による広島女子専門学校の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。

 広島女子専門学校(広島女専、現在の広島県立広島大学の前身)の女子生徒の火傷患者を、大河臨時野戦病院において収容した。被爆者らは、学校の教室に敷かれたムシロの上に寝かされた。大河国民学校(現在の大河小学校)の2階には、宇品船舶司令部の部隊が常駐していた。集積された物資から、大河国民学校にも傷口に塗る油が提供された。陸軍省の第2次調査班として陸軍船舶司令部の写真班が、被爆状況や収容された被爆者を1945年8月14日から11月21日まで調査撮影をした。

 広島女子専門学校は、尋常小学校と高等女学校を終えた女子が進学する学校として、1928年に広島市宇品に開校した。広島原爆戦災誌では、1年生約160人と病弱などで動員されなかった2,3年生約20人が在校した。陸軍船舶司令部の暁部隊約60人も、宇品港で乗船を待って宿泊した。広島原子爆弾の爆心地から南南東約3.3kmにあり、学校内では被爆するも、被爆死はなかった。講堂は全壊、木造校舎も窓が割れ傾いたものの、火災は免れまた。校舎の一部は、応急救護所として使用された。市内は、大学や高等師範が焼失して、戦後約2年間は広島の学問の中心的な活動拠点を担った。

  大河国民学校は、広島市南区旭一丁目8番1号の爆心地から南東約3kmにあり、登校児童などの被爆は少なかったが校舎は半壊した。被爆直後から校舎は、被爆者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の被爆者がつめかけた。ありあわせの油、医療品で療養が行われた。死亡者が続出し、運動場では駐屯した暁部隊兵士らが火葬した。

 第二次世界大戦後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印から、日本国と連合国各国の平和条約の1952年4月28日に発効により、連合国による占領は終結して、日本国は主権を回復した。朝日新聞社『原爆第1號 ヒロシマの写真記録』(1952年8月14日発行)に陸軍船舶司令部の写真班の写真が掲載されて公開された。その後に、国際的には、陸軍船舶司令部の写真班の1枚が、写真雑誌ライフ(Life)に1952年9月29日号に、原子爆弾の恐ろしさをアメリカ合衆国に初公開した。



2023年2月3日金曜日

第二次上海事変にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂して、上海最大の繁華街は流血の修羅場と化した。

第二次上海事変(1937年8月13日から11月12日)にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂させた。多数の中国人だけでなく、外国人にも死傷者が出た。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には手足の吹き飛ばされた死体や瀕死の人で溢れた。街頭の車が炎上して、爆風で瓦礫が散乱した。その惨状を撮影して記録した『支那事変写真帖第一集』の写真集を、上海の玉川写真館が、第三艦隊報道部と上海日本総領事館に検閲後に、1937年10月に発行した。

 8月14日に、上海にて中国軍の戦闘機による誤爆と共にあらゆる戦争の悲劇が出現した。中国軍が戦闘機を初めて使用して、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日にわたり中国軍の戦闘機は上海上空から急襲を繰り返した。日本軍は高射砲によって中国軍機を迎撃した。中国軍機の誤爆による大惨事は8月14日4時半に勃発した。2発の爆弾が国際共同租界に、もう2発がフランス租界に投下して炸裂した。およそ約600人(ほとんどは中国人)が死亡して、約11,000人が負傷した。

 それに続けて2発の誤爆が、パレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落下して炸裂した。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には死体や瀕死の人で溢れた。その後さらに2発が、エドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちて炸裂した。現地上海のフランス警察は、死者は約445人と負傷者は約828人と推定した。中国空軍に爆撃されたキャセイホテル前の惨状では、壊れた自動車や自転車、瓦礫が散乱し、空襲の凄まじさを物語った。犠牲者には大学教授や雑誌編集者、医師など多数の外国人も含まれた。

 8月14日以降も、中国軍の空襲は複数回に及んだ。8月23日正午12時50分頃には先施公司第二楼に中国空軍の爆弾の投下により炸裂した。その誤爆は惨状を呈して、即死者は約160人以上と約470人余の負傷者が出た。先施公司は上海を代表するデパートの一つであり、白昼に繁華街への攻撃を受けた。当時の上海は欧米各国の要人や特派員が常駐し、国際世論に直結する土地柄だった。日本軍は宣伝工作を十分に尽くさないまま軍事的な報復に踏み切った。一連の攻撃で中国軍が用いた爆撃機はアメリカ製であった。第二次上海事変は、日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど、流血が多い戦場と評された。




2023年2月2日木曜日

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。負傷者がおろおろと歩き、何ヵ所にもつくられた仮霊安所では引きとり手のない死体に、たえまなく線香の煙が包んだ。フエ攻防戦は、近代の市街戦の悲惨を証明した。

 テトの祝日である1968年1月31日未明から、約6000人以上ものベトコン解放勢力の大部隊が、 ロケット弾からフエ攻撃に移った。旧正月の古都フエは眠っていた。飛行場など目ぼしい軍事施設は、たちまち北ベトナム軍と解放勢力の手中に陥ちた。サイゴン政府軍の約1000人以上は旧正月の休暇をとって、残る兵士も不意打ちに狼狽して、半数以下にまで縮減した。アメリカ軍はフエ市内の顧問団本部に小規模配備のみであった。

 北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)は、短期間でフエの大部分を占領した。その後に、アメリカ軍とベトナム共和国軍(ARVN)は、激しい一軒一軒の市街戦で、徐々に追い詰めた。日中にできるだけ多くの家屋を奪って、防御態勢に入り、翌朝に家屋間の戦闘を再開した。連合軍は3月2日にフエを奪還した。フエ攻防戦で、約3,000人が殺害されて、北ベトナム軍とベトコンは約2,000人の民間人を処刑した。北ベトナム軍とベトコンの死者は約5,133人、連合軍はの死者は、約668人と負傷者は約3,707人に及んだ。

 ベトナム戦争のテト攻勢で解放民族戦線側は約6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、アメリカ軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。その後のテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍は約3,895人、南ベトナム軍は約4,900人、解放民族戦線は約5万8,373人であったとアメリカ軍は公表した。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人で、その約30%余りがテト攻勢のわずかな期間に失った。




2023年2月1日水曜日

アメリカ軍は1945年4月29日に解放したダッハウ強制収容所にて、屋根のない鉄道車両内に放置された囚人服を着た囚人の死体を発見した2人のアメリカ軍兵士が検死をした。

アメリカ軍は1945年4月29日に解放したダッハウ強制収容所にて、鉄道車両内に放置された囚人の死体を発見した2人の兵士が検死をした。その車両は、兵舎群の端にある鉄道支線に、約39両の車両の中で屋根のない状態で囚人服を着た多数の死体があった。4月初旬からブーヘンヴァルトからダッハウ(Dahau)に強制送還中に死亡した死体が放置された。

 ダッハウ強制収容所の有刺鉄線の後ろでは、骸骨様の囚人が太陽の下で座って、お互いのシラミを噛んだ。1944年10月から戦争記者のアメリカ人女性のマーサ・ゲルホーン(Marta Gelhorn)は、アメリカ軍の侵攻を追跡して、ダッハウ強制収容所の解放を取材した。1940年に結婚した小説家アーネスト・ヘミングウェイの妻でもあった。

 アメリカ軍は、ヴュルツブルクから南方に移動して、1945年4月29日の朝に、アメリカ軍は、ミュンヘン近くのダッハウ強制収容所に到着した。ドイツ国防軍はすでに撤退して、親衛隊部隊はほとんどが逃走中だった。アメリカ軍は発砲もなく完全に汚れて放置されたダッハウ強制収容所を解放した。兵舎と貨物列車の貨車には、何百もの死体が放置され、飢えた囚人、身体・精神障害を負った囚人などに、アメリカ軍は衝撃を受けた。

 大規模なダッハウ強制収容所を横切って、ドイツ軍病院に入った。廊下には他の骸骨が散乱して、周辺には病気と死の匂いが広がった。囚人はアメリカ軍兵士を見たが、動かなかず、顔には表情も擬態もなかった。顔は、骨の上に伸びた剛毛の黄色の皮膚が分布した。囚人は飢餓で餓死して、日常的に飢餓で死ぬために生存した。強制収容所の囚人は、長時間労働され、食糧は供給されず、換気もない過密状態の兵舎に詰め込まれた。毎朝、目覚めるたびに衰弱して、死を待機した。

 1933年2月に設立され、約20万人以上がダッハウ収容所に収容された。過去3年間で少なくとも約45,000人が死亡して、約33,000人が生存した。火葬場の前の広々とした家には親衛隊の将校と妻と子供たちが住んだ。火葬場の煙突は、人間の灰で充満した煙の無限の雲を空に放出した。1945年2月から3月の間に、約2,000人が毒ガスで殺害された。ダッハウは、ナチス・ドイツがドイツ本国の地に建設した最初の強制収容所であった。1933年2月にハインリヒ・ヒムラーの命令により、約5,000人の男性囚人の強制収容所がバイエルンの町ダッハウの近くに建設された。1934年7月4日から親衛隊のテオドール・アイケ(Theodor Eicke)は全強制収容所監視官として、親衛隊の部下を囚人に残忍な暴力や拷問を訓練した。ダッハウは、絶滅収容所であるアウシュヴィッツ・ビルケナウを含む、他の強制収容所の見本となった。ダッハウの最初の囚人は、ナチス反対者、労働組合員、社会民主主義者、共産主義者、一部の政治犯であった。その後に、犯罪者、エホバの証人、シンティとロマ、キリスト教徒が収容され始めて、その次にユダヤ人が収容された。

 1945年4月28日の早朝に兵舎を出て朝礼に向かう囚人は、親衛隊が監視塔に掲げた1つに白旗を見て驚いた。親衛隊員はすでに逃走中で、機関銃を持った残りの警備員は、囚人を制御下に置いた。噂が収容所全体に急速に広まった。翌日に、アメリカ軍の解放軍がダッハウに到着した。第二次世界大戦の終末に連合軍部隊が解放した2番目の強制収容所であった。翌日1945年4月30日に、アメリカ人軍はミュンヘンに侵入した。少し後に、ヒトラーが妻のエヴァ・ブラウンと共にベルリンで自殺したニュースが漏れた。5月の初めに、アメリカ人はミュンヘン近郊のミルドルフ収容所も解放し、5月8日に無条件降伏が調印され、第二次世界大戦は公式に終結した。






2023年1月31日火曜日

2004年4月3日から第一次ファルージャの戦いにて、数千人のアメリカ軍兵士がファルージャの武装勢力を封鎖作戦に出撃した。2004年4月8日にイラク武装組織との戦闘にて、アメリカ軍の戦車が砲撃されて炎上した。

イラク戦争の2003年5月1日の終結宣言後にアメリカ軍の占領政策が頓挫した。2004年4月3日から第一次ファルージャの戦いにて、数千人のアメリカ軍兵士がファルージャ(Falluja)の武装勢力を封鎖作戦に出撃した。2004年4月8日にイラク武装勢力との戦闘にて、アメリカ軍の戦車が砲撃されて炎上した。










 アメリカ軍戦車の砲塔で、戦傷した砲弾の装填兵士を救出した。その戦闘では、アメリカ軍が約300人の武装勢力を殺害した。アメリカ軍は、4月11日からは大規模な空爆を開始し、さらに多くの住民を殺害した。ファルージャの侵攻により、戦闘でアメリカ人約39人が死亡して、約90人が負傷した。イラク人住民の犠牲者は、約730人が殺害されて、約2,800人が負傷した。殺害されたイラク人住民の犠牲者の約25%は女性で、約25%が子どもであった。



イラク中部の三角地帯でスンニ派のモスクの街であるファルージャにて、シーア派の反アメリカ指導者のムクタダ・サドルが主導して騒乱が勃発した。2004年3月31日に、ファルージャで民間軍事会社であるブラックウォーター(Blackwater)社の警備員の民間アメリカ人の4人が襲撃されて虐殺されたのが起因となった。装甲四輪駆動車にロケット推進手榴弾(RPG)が命中して、燃え盛る車両や脇に横たわる死体、橋に吊るされた黒こげの死体の衝撃的な映像が世界中で報道された。

 イラク国内の反アメリカ感情により、対立関係であったイスラム教のシーア派とスンニ派が連帯を促した。アメリカ政府は、2004年6月末の主権移譲の日程を固持していた。武装勢力を圧倒するために、アメリカ軍を約1万人の増員を投入した。ファルージャの惨状から、イラク各地で反アメリカ活動、世界中から非難が殺到して、5月1日に撤退した。第一次ファルージャの戦いは、 市民を保護する都市の課題を示した。都市部の戦場には常に民間人が存在する。軍には、民間人、重要なインフラ、保護された場所への危害を防ぐことが求められる。都市部での戦闘には、民間人の避難を連絡し、促進する積極的な計画が求められた。

 イラク戦の最大の激戦となった第二次ファルージャの戦いが、2004年11月7日から12月23日まで勃発した。アメリカ軍とイラク軍の連合軍は11月10日までにファルージャの約70%を支配した。市街地は包囲されたが、武装勢力は数週間にわたり潜伏して市街戦が勃発した。武装勢力は「異教徒に降伏するより、死んで天国に行く方がましだ」と絶叫した。アメリカ軍兵士は約51人が死亡して、約425人が負傷して、イラク軍は約8人が死亡して、約43人が負傷した。武装勢力は、約1,200人から1,350人が犠牲となった。

2023年1月30日月曜日

イラン立憲派軍は、トルクメン人部隊の首領の首を、藁に詰められててイランの首都テヘランにまで持ち込んだ。トルクメン人らは、ペルシャのイラン立憲派軍との戦いで殺害された。

イラン立憲派軍は、トルクメン人部隊の首領の首を、藁に詰められててイランの首都テヘランにまで持ち込んだ。トルクメン人らは、ペルシャのイラン人に恐れられ、嫌われて、イラン立憲派軍との戦いで殺害された。トルクメン人らは、ムハンマド・アール・シャー・ガジャール(Mohammad Ali Shah Qajar)が、イランの王位に返り咲くための主要な戦力を構成していた。イラン政府軍の兵士らは、アルシャド・アル・ダウレ(Arshad al- Dowleh)が率いたトルクメン人の武装派を殺害して、その首を並べて掲げてポーズを取って写真撮影をした。

 ペルシャ憲法革命が王朝の借金を返済する関税に抗議して1905年に勃発した。1907年1月に父ムザファルディン・シャーの死後に、ムハンマド・アリー・シャーのイラン治世は始まった。1909年7月に蜂起した立憲派がイランのテヘラン占領して、彼は7月16日にロシア大使館に亡命してイランから追放された。イランの立憲派の国民評議会は、1911年7月29日に、退位したムハンマド・アリー・シャーを逮捕するか、その首を持ってきた人物には約10万トマンの報酬を決定した。退位してイランから追放されたムハンマド・アリー・シャー・カジャールは、ロシアのトルキスタンにて、数千人のトルクメン人らを動員した武装派を率いて、1911年にイランのアスタラーバードに帰還して戦闘するも敗北した。1911年12月に、ロシア軍がイラン北部に侵攻して、イラン立憲革命は消滅して無政府状態に陥った。レザー・パフラヴィー(Reza Shah)が軍事クーデターを挙行した。

 1905年にイランの悲惨な一律の租税の徴収によって、イラン少女がトルクメン人への人身売買が発生した。『コーチャン(Quchan)の娘たちの売却物語』が、困窮したコーチャン地方のイラン人の娘たちの約250人は、トルクマン人のハニン・トルクマンに人身売買された悲劇を公表した。政治的貧困と不正犯罪に対するイラン市民の怒りを呼び起こし、イラン立憲革命に最も影響を与えた。




2023年1月29日日曜日

ウクライナのチェルニヒフのウクライナ軍の傷病兵病棟で2023年1月11日に、64歳の父親のセルヒイ・シュメイさんが、アヴディエフカの戦いで頭部を2022年8月25日に戦傷した息子の34歳のヴィタリイに話しかけた。

ウクライナのチェルニヒフ(Chernihiv)にて、ウクライナ軍の傷病兵の病棟で、64歳の父親のセルヒイ・シュメイ(Serhii Shumei)さんが、2023年1月11日に何時間も頭部を戦傷した息子の34歳のヴィタリイ(Vitalli Shumei)に話しかけた。元軍人の父親は、戦争に志願した息子を叱ったことはない。砲弾の爆発で脳を損傷した息子を、父親のセルヒーさんは約5ヶ月間、常に息子の側で介護をした。

 息子のヴィダリイさんは2022年8月25日、ドンバス州のバフムートの南約70kmにあるアドヴィフカ(Avdiivka)で負傷した。34歳の長距離対空ミサイル司令官であった息子は、激戦地のウクライナ東部のドンバス州で負傷した。息子の壕を襲ったロシア軍の砲弾は、他の爆弾も爆発させた。爆発でヴィタリイの頭蓋骨には、メロン半分ほどの深さと幅の頭蓋口ができた。息子の脳の損傷はひどく、再び意識を取り戻すか不明であった。ヴィタリィはまばたきをして、飲み込みできるも、身体はほとんど動かせない。時折にヴィタリィの頬を涙が伝う。






 




Warning: Serhii Shumei, 64, talks to his son Vitalii, 34, a Ukrainian officer heavily wounded in a battle with Russian forces, in a city hospital in Chernihiv, Ukraine, Wednesday, Jan. 11, 2023. Vitalii, a long-range anti-aircraft missile commander, was wounded in the Donbas region of eastern Ukraine that has become synonymous with horrific losses in ongoing fighting for both Ukraine and Russia. (AP Photo/Efrem Lukatsky)


  アヴディエフカの戦い(Battle of AVdiivka)は、ドンバス州にあるアヴディフカで交戦した。戦闘は、ロシアがドネツク人民共和国を承認した2022年2月21日に、再び戦闘が勃発した。2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して、最初に攻撃された戦場の1つであった。2022年4月18日~7月27日に、ロシア軍は東ウクライナへの侵攻を再開し、アヴディフカを激しく砲撃と攻撃した。ロシア軍は、6月1日主要な高速道路を、6月6日にカミアンカ付近を制圧し、6月12日にコーク工場、6月21日には学校が破壊された。7月7日にロシア軍は24時間にわたりアヴディフカを砲撃した。7月28日から、民主共和国軍とロシア軍はアヴディフカの攻勢を開始した。7月31日にロシア軍がカミャンカとピスキー周辺で侵攻して、不特定のロシア部隊がアヴディフカ周辺で部分的制圧を収めた。8月24日、ロシア軍とドネツク民主共和国軍(DNR)軍はピスキーを占領した。9月初旬に、分離主義者の部隊が、ピスキー付近の広いアヴディフカ地域で攻撃を開始した。ウクライナ軍がアヴディフカを防御的であり続けた。10月10日にロシア軍がアヴディフカでの攻勢を続けて、街を包囲した。死傷者数は、ウクライナ侵攻開始以来、約50人の民間人が死傷した。

 ロシア軍とウクライナ軍の両陣営はドンバスの拠点を占領・防衛するために兵力と資源を投入し、数ヶ月に及ぶ消耗戦の末、血生臭い膠着状態に陥った。ドンバス州のバフムトとソレダルの町は、地獄絵図の狂気と化して、完全に破壊され、死体と爆弾穴が散乱し、ほとんど生命が残っていない。ヴィタリイさんは今のところ病室で一人だが、しかし、ドンバス州の戦闘の激しさから、周りのベッドが戦傷者ですぐに埋まるだろう。












Warning: Serhii Shumei, 64, talks to his son Vitalii, 34, a Ukrainian officer heavily wounded in a battle with Russian forces, in a city hospital in Chernihiv, Ukraine, Wednesday, Jan. 11, 2023. Vitalii, a long-range anti-aircraft missile commander, was wounded in the Donbas region of eastern Ukraine that has become synonymous with horrific losses in ongoing fighting for both Ukraine and Russia. (AP Photo/Efrem Lukatsky)


2023年1月28日土曜日

1945年9月16日に、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近で、廃墟の中で仮設の建物の屋外で、即席の野外コンロで調理する母親と子どもの姿が見えた。

1945年9月16日、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近でアメリカ軍が撮影した写真である。屋外で調理する人々の姿が見える(写真提供:アメリカ国立公文書記録管理局)。長崎原子爆弾の爆心地付近の廃墟で、母親と子どもが生活していた。中央の壁がない仮設の建物の下で眠り、即席の野外コンロで調理していた。

 多くの被爆者が避難し、田舎や離島でより困窮しない生活を求めて、何日も何週間も歩き続けた。遠い親類縁者との生活に耐えかねて、同じ苦悩をする被爆者に囲まれた長崎市に戻る人もいた。ホームレスの被爆者は、薄っぺらな小屋に住み、土間や瓦礫の中の畳の上で寝た。家具もない一部屋に約15人も住むこともあった。水道は不全で、山から湧き水を汲んで、雨水を溜めて沸かして飲んだ。トイレもなく、小屋の外に穴を掘って、木の板で覆った。浴槽もなく、大きなドラム缶でお湯を沸かし、立ったまま入浴した。冬の風に、家族は衣類や毛布をたくさん重ね着し、傘をさして薪ストーブを囲み、屋根から落ちる雨やみぞれ、雪を防いだ。真っ暗な夜、廃墟を歩く被爆者は、ガラスの破片、古い釘、木片、割れた瓦などで足を切った。

 長崎市内の福祉施設はまだ稼働せず、多くの孤児が路上生活を余儀なくされた。カトリックのノートルダム修道院の修道士らが約100人以上の孤児を引き取り、秋月博士の第一浦上病院などが無料の医療を提供した。救護班が身元不明の赤ん坊を養子にした。行き場のない少女たちは売春をし、孤児となった少年たちは、数ヶ月から数年間、一人または二人で駅や橋の下に住み、物乞い、盗み、食物を探し、鉄道当局や地元の警察から厄介者扱いされながら、地域を徘徊した。妊婦は、胎内で被曝して死ぬ、奇形児が生まれるという噂におびえ、医師や助産婦の手を借りずに廃墟の中で出産した。実際に、子宮内被曝児の死亡率は高かった。爆心地から約500m以内の妊婦は約43%の確率で自然流産、死産、乳児突然死を起こした。




2023年1月27日金曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いで、バギオの日本軍病院もアメリカ軍に爆撃され、4月27日に病院外に放置された約48体の日本軍兵士の死体がアメリカ軍兵士により探索された。

太平洋戦争のフィリピンの戦いで、バギオの日本軍病院も、アメリカ軍に爆撃された。4月27日に病院の外側に、放置された約48体の日本軍兵士の死体がアメリカ軍兵士によって探索された。日本軍のバギオ総合病院は激しい砲撃と爆撃を受けて、病院本館は大きな被害を受けた。バギオ地区では日本軍が4月下旬までアメリカ軍の北進を阻止した。西海岸からナギリアン経由で迂回して侵攻されて、4月26日にバギオは陥落した。その直前に日本軍の方面軍司令部はカガヤン渓谷へ脱出し、ホセ・ラウレル大統領らも日本本土へ避難した。

 バギオの戦い(Battle of Baguio)は、1945年2月21日から4月26日に、第二次世界大戦末期の連合軍のフィリピン解放における大ルソン作戦の一部である。アメリカ軍とフィリピン軍はルソン島の都市バギオを日本の占領軍から奪回した。フィリピン攻略戦の最後の戦車戦の1つが行われた。バギオは、ルソン島北部のコルディリェラ中央山脈に囲まれた標高約1,400mに位置する都市である。

 1945年2月下旬から4月上旬に、アメリカ軍と連合軍は、ゲリラ部隊の支援を受けながらバギオに侵攻した。3月末にはアメリカ軍の大砲の射程内に入った。バギオ攻略のための大規模な攻勢は4月中旬になり、マニラ駐留軍と、西と南からバギオへの日本軍に突撃を開始した。連合軍が西からバギオに向かう途中で、イリサン峡谷とイリサン川で約6日間の戦車戦が行われた。バギオの戦いで、日本軍兵士は約2,000人以上が戦死した。

 4月中旬に、外国人を含む民間人約7000人がバギオからアメリカ軍の戦線に向かった。  4月22日に、山下司令官からバギオ防衛を任された宇都宮能方少将が、バギオからの撤退を指示した。4月24日に、連合軍のパトロール隊がバギオに進駐した。太平洋戦争の終戦後の1945年9月3日に、バギオの基地へと移動した山下奉文大将はマッカーサー元帥と共に降伏文書調印式に参加して降伏文書に署名した。バギオで、1945年9月3日にフィリピンにおける日本軍の最終降伏の舞台となった。







2023年1月26日木曜日

第一次国共内戦にて、1930年7月27日に中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。中国共産党軍が残虐に虐殺した国民党軍や民間人の死体が、長沙の路上に散乱した。

第一次国共内戦にて、国民党軍と地方軍閥間に1930年5月11日に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日に、中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。湖南省の長沙にて、中国共産党軍が残虐に虐殺した死体が、繁栄していた市場に散乱してすべてが焦土と化した。

 1930年8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。湖南省長沙で約1万人以上の共産主義の容疑者が逮捕されて処刑された。さらに、最初の1カ月間の戦闘は残忍を極めた。湖南省だけでも約38万人以上の民間人が殺害された。国民党の残虐行為は限りがなかった。1928年には、約31万人以上の民間人が国民党軍の命令で殺害された。国民党軍も中国共産党軍もさまざまな残虐行為を執行した。相手が誰であれ、同情することもなく、両軍はしばしば罪のない民間人を殺し、大規模な処刑を執行した。

 中国共産党は1927年7月13日に対時局宣言を発して、国民党との国共合作の終了を宣言した。中国共産党は武力闘争を開始して、8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返した。国民党軍は、第一次国共内戦にて共産党軍を鎮圧した。共産党が引き起こした武装闘争の内戦は局所的であり散発的であった。1928年10月10日に、中華民国の南京国民政府主席に就任した蔣介石は、中国の近代化を推進する改革を行った。国民党軍の北伐は継続されて、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒した。

 南京国民政府でも、反日世論が高まっていたが、蔣介石は日本との国力の差を考慮した上で、中国国内統一による国力増強を最優先目標とした。反共主義の立場から、抗日政策より、中国共産党との戦いを優先した。1931年11月7日に中国共産党が瑞金に江西省ソビエト共和国を樹立した。

 1930年5月11日には反蔣介石連合運動との内戦の中原大戦が起こり、両軍合計100万の軍勢で約30万の死傷者が出た。国民党軍と地方軍閥間に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日には、中国共産党軍が約1万の兵力で湖南省長沙を占拠し、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。8月15日に閻馮軍から済南を奪回した。9月18日に、張学良が蔣介石支持の態度を表明して、東北軍の関内進駐によって蔣介石軍が勝利して、蔣介石の勢力は強化された。毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下で、農村を中心として支配領域を広げ、1931年11月7日に江西省に中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)を樹立した。




2023年1月25日水曜日

シオン広場冷蔵庫爆破事件が1975年7月4日に、イスラエルの首都エルサレムのシオン広場にて、パレスチナ人のPLOテロリストが仕掛けた冷蔵庫が大爆発して、イスラエル市民約15人殺害され、約77人が負傷した。

シオン広場冷蔵庫爆破事件(Zion Square refrigerator bombing)が1975年7月4日に、イスラエルの首都エルサレムにて、シオン広場にてパレスチナ人のPLOテロリストが仕掛けた中古の冷蔵庫が大爆発した。1975年7月4日、エルサレム中心部のシオン広場にある家電量販店で、パレスチナのテロリストが、約5kgの迫撃砲弾を仕掛けた冷蔵庫を爆発させた。イスラエル市民約15人が殺害されて、イスラエル市民約77人が負傷した。救急車に、多量の死傷者を担架で搬送した。

 パレスチナのPLO(パレスチナ解放機構)司令部から過激派組織が「我々の祖国の地に暮らす奴は皆敵だ。イスラエルに住んでいる者は全員殺す。」と犯行声明を出した。テロ攻撃はタームス・アヤ出身のアラブ系アメリカ人のアーメド・ジャバラ(Ahmed Jabara, 別名アブ・スカー)が執行した。ジャバラは、ナブルスのバスセム・タビラ(Bassem Tabila)により共謀して、タビラは逮捕される前にヨルダンに逃亡した。イスラエル治安機関(ISA)とイスラエル警察の捜査後に逮捕された、1977年6月に軍事法廷で裁判にかけられ、有罪判決を受けて、終身刑と30年懲役刑を追徴された。

 2003年に、アーメド・ジャバラは、イスラエル政府は、ヤセル・アラファトに対する思惑として、27年間服役した後に釈放された。釈放後に、ジャバラはベツレヘムの集会で、イスラエル軍兵士による誘拐を訴えた。その後に、アラファトはジャバラを囚人問題担当顧問とした。ジャバラは2013年7月17日ラマラで心臓発作のため78歳で死去した。

 1975年11月13日にアラブ武装勢力により、再びシオン広場アイスクリーム店爆破事件(Zion Square ice cream shop bombing)が勃発した。午後7時にアイスクリーム店で爆発して、少年3人と少女3人の約6人が殺害され、約42人が負傷した。PLOのヤセル・アラファト議長の国連の演説日と一致させた。




2023年1月24日火曜日

ドイツ民族自衛部隊の準軍事組織の男性が、第一次世界大戦の東部戦線の地域で、ドイツ軍の占領地域で身体を斬り付けられ、悲惨にも目をくり抜かれて残虐に殺害された。

ドイツ民族自衛部隊 (Selbstschutz)の準軍事組織の男性が、第一次世界大戦の東部戦線で、ドイツ軍の占領地域で残虐に殺害された。身体を斬り付けられて、悲惨にも目をくり抜かれていた。埋葬する前に死体が死後処理された。

第一次世界大戦にて、ロシアとブレスト・リトフスク条約締結後に、ドイツとオーストリア・ハンガリーが占領された地域で、ドイツ国外に住むドイツ系民族のために準軍事組織であるドイツ民族自衛が結成された。地元のドイツ系民族の地域組織を保護し、ウクライナ南部にてドイツの安全保障と利益に寄与させた。ドイツ民族自衛部隊が反復してシレジアでも設立され、ポーランドの再興に伴って、ポーランド人の居住地をドイツへの返還も目的となり、1921年にはドイツ民族自衛部隊はポーランド人の第三次シレジア蜂起に参戦した。

 1918年に、ドイツ帝国軍とオーストリア・ハンガリー帝国軍はウクライナを占領した。ドイツ軍の占領当局は、ウクライナ南部の多数のドイツ系民族からドイツ民族自衛部隊の設立を支援した。1918年3月にはベラルーシのブレストで、ブレスト・リトフスク条約が締結されれて、ロシアはポーランド・バルト海沿岸からウクライナなどを大喪失した。ドイツ民族自衛軍は、ロシアにて教会共同体も含まれ、モロッチナからチョルティツァの教会共同体からも徴集して、ドイツ軍から訓練と武器の提供を受けた。占領が終わって撤退する直前に、ドイツ軍はドイツ民族自衛部隊の創設を監督して、武器、弾薬、指揮する数人の将校を残した。モロツナの若者たちは、隣接するルター派ドイツ人の占領地も含めて、約20個中隊を編成して歩兵約2700人、騎兵約300人を構成した。ロシア内戦にて、当初は1919年3月は、無政府主義者のネストル・マフノの軍勢を抑えた。マフノのパルチザンが赤軍と同盟を結び、赤軍が強化されると、ドイツ民族自衛軍は最終的に圧倒されて、撤退・解散を余儀なくされた。ロシア内戦が進むと、一部の教会共同体がロシア義勇軍の民族大隊に組み込まれた。

 教会共同体は伝統的な無抵抗主義の教えから逸脱して、多くの占領地出身者を否定した。政府の権威が失墜して、教会共同体の地域組織に対して、無政府主義者は残虐行為が強化された。ドイツ民族自衛部隊は、教会共同体の地域組織を残虐行為から守り、住民が白ロシア軍の支配地域に逃れる猶予を与えた。無抵抗主義の放棄は、非常な分裂を引き起こした。ドイツ民族自衛活動が、教会共同体の民間人に対する無政府主義者の残虐行為に火をつけた。その後に教会大会や代表団は、ドイツ民族自衛部隊の重大な過ちを公式に非難した。




2023年1月23日月曜日

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された人民解放戦線である2人の兄の死体を見守り慟哭した。

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された2人の兄の死体を見守り慟哭した。2人の兄は、人民解放戦線(Janatha Vimukthi Peramuna, JVP)兵士であり、スリランカ政府軍に殺害された死体には、無残な拷問の傷跡が残存した。

 スリランカでは1987年4月15日から1989年12月29日まで勃発したJVP反乱(1987–1989 JVP insurrection)は、マルクス・レーニン主義によるスリランカ政府に対する武装反乱であった。1987年から1989年の暴動は、1971年のJVPの暴動と同様に、失敗した。JVP反乱軍は、破壊活動、暗殺、襲撃、軍や民間の標的へ攻撃した。スリランカ政府軍は、JVP反乱軍を鎮圧する作戦で対応した。約41,813人が死亡あるいは行方不明となった。JVP反乱軍は約6,577人を殺害して、スリランカ政府軍は約34,014人を殺害した。

 JVPの軍事部門であった反乱ゲリラ部隊は、1988年に頂点に達し、すべての民間人のスリランカ市民にまで被害を及ぼした。親政府系のゲリラによる市民への攻撃が、スリランカ内戦の停戦からインド平和維持軍の追放後に、すぐにスリランカ政府軍による大量殺戮が勃発した。多くのスリランカ市民と複数のインド人駐在員が殺害された。インド平和維持軍(IPKF)が、1987年から1990年に、スリランカ内戦の民族紛争に介入して撤退した。

 JVPは、敵であったスリランカ自由党(SLFP)から支援を受けた。しかし、JVPとタミール・イーラム解放の虎(LTTE)が公然と拒否した地方選挙にSLFPが参加したので、同盟は決裂した。スリランカ政府は1987年、JVPとSLFPに選挙参加を期待して禁止令を解除したが、結局失敗に終わった。約2年以上にわたり、若者や労働者の集団武装化、大量処刑、レイプ、襲撃が見られた。反JVP民兵も、左翼の人民革命赤軍(PRRA)を含めて暴力を引き起こした。LTTEが主にスリランカ北部を拠点にして、JVPは南部のジャングル地帯を拠点とした。

 1989年、スリランカ政府軍はコンバイン作戦(Ops Combine)を開始した。JVPの軍事部門であるDJVの暴動が激化した。DJVは、トリンコマリーのLTTE占領地域でも、スリランカ政府軍とIPKFに対抗して攻撃した。DJVは、タミル人武装勢力から支援を受けた。多くの小さな反政府組織の武装闘争を、DJVは1989年12月に断念した。スリランカ政府側だけでなく、反政府勢力であるLTTEが、多くの市民を虐殺した。約2,000人以上の市民を捕獲して、約30人以上を処刑した。




2023年1月22日日曜日

ウクライナ東部ドネツク州のリマンが解放された後の2022年10月6日に、リマンの通りで散乱して放棄されたロシア軍兵士の死体の側を、リマンの地元住民が通り過ぎた。

ウクライナ東部ドネツク州のリマンが解放された後の2022年10月6日に、リマンの通りで散乱して放棄されたロシア軍兵士の死体の側を、リマンの地元住民が通り過ぎた。急いで撤退したロシア軍は、兵士の死体から公文書、軍用車両などを放棄していた。逃げ惑うロシア軍に同行した戦場記者たちは、包囲され、恥辱の監禁を受ける危険が大きくなり、ロシア軍は撤退する決定を下した。虚ろな目で意気消沈したロシア軍兵士たちが、命からがらリマンを脱出した。ロシア軍兵士は部隊から離れ、小集団で周囲の森に逃げ込み無秩序に撤退し、多くが殺害うあるいは捕獲された。

ドネツク州のリマンから撤退するロシア軍は、膨大な量の弾薬と物資を跡に残した。ロシア当局にとって屈辱的な撤退で、ロシア国防省は10月1日に、リマンの町を掌握してから約3カ月後に、軍隊を撤退させることを発表した。前日の9月30日にテレビ中継されたクレムリンの式典で、プーチン大統領は、不当な住民投票に基づき、ドネツク州とウクライナの他の3州の部分占領地域の知事に、ロシアに永遠に属するとロシア当局が根拠なく主張する文書に署名した。10月2日に、ゼレンスキー大統領が、リマンの完全掌握を宣言した。

 ドネツク州のロシア側陣地は、ウクライナ軍が9月上旬に北方に隣接するハリコフ州で大規模な反攻を開始して危険にさらされた。ウクライナ軍の東部攻勢で約3,000平方km以上が解放され、リマンのロシア軍への北部補給路を断った。その後、ウクライナ軍はライマン周辺の村々に進出し、町の三方を包囲し、出口を大砲で叩いた。

 しかし、ロシア軍の脱出はあまりに遅すぎた。脱出を開始した時には、北東のトルスケ村への道を除いて、リマン市街地から出る道はウクライナ軍がすべて遮断された。リマンに向かう林道には空爆の跡が散見された。ロシア軍の約7台の車列が一直線に焼け焦げた。破壊された運搬車から散乱した数百発のAK-47弾や、制服、医療用ドレッシング、消臭剤などの物資も山積みになった。ロシアが部隊を撤退させた10月1日には約5000人以上のロシア軍兵士が残存した。















Warning: Local residents pass by the dead bodies of Russian soldiers on a street in Lyman on October 6, 2022, shortly after the town was liberated.(Anastasia Vlasova,EPA-EFE)

2023年1月21日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。中央に映る十字架は、中町天主堂であり、その周辺は悲惨にも崩壊していた(山端康介: 撮影)。

 1945年8月9日11時2分に、長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、約2.5キロ離れた中町教会を襲撃した。爆風によって天井が崩落し、柱も傾いた中町教会に港側から炎上して、瞬時に火達磨となった。西中町天主堂(現在の中町教会)は、十字架の尖塔と外壁だけを残して焼け落ちた。中町は二次火災による焼失地域で、長崎原子爆弾の熱線が可燃物に引火して、直後に自然発火して大火災が勃発した。長崎市内は原子爆弾の投下して炸裂後に、何日間も砂埃と灰に覆われたが、広島市内のような放射性降雨の黒い雨は降らなかった。

 明治時代に、長崎市街地には大浦天主堂の他にカトリック教会がなかった。初代の島内要助神父は殉教の歴史の長崎に、日本人のための教会を建てるために、1889年の暮れにキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である中町に設立した。1891年8月に建設に着手し、1897年9月8日にカトリック中町教会が完成した。長崎原子爆弾に被爆して崩壊した中町教会は、献金や信徒たちの奉仕により、1951年10月にその外壁と尖塔をそのまま生かして再建した。

 1945年8月9日に、西部軍報道部員の山端庸介は、命令を受けて福岡県福岡市から原子爆弾が投下して炸裂した長崎市に向った。8月10日未明に、長崎市内に入るとまず長崎地区憲兵隊本部に向かった。長崎市内の状況を把握して、撮影の許可を憲兵隊から受けて、被爆翌日の8月10日から長崎原子爆弾の約100枚もの写真撮影がはじまった。西部軍司令部は、1940年から1945年まで中国・四国・九州地方の防衛のために、福岡県福岡市などに設置された大日本帝国陸軍で、軍管区内の軍隊を指揮・統率した。