2022年9月23日金曜日

日中戦争の南京事件が1937年12月13日に勃発した。南京大虐殺が頻発して、中国民間人は薪を積み上げてに油をかけて焼かれて殺害された黒焦げの死体が散乱した。

日中戦争の南京事件が1937年12月13日に勃発した。南京大虐殺が頻発して、中国民間人は薪を積み上げてに油をかけて焼かれて殺害された黒焦げの死体が散乱した。焼け残った者の服装は民間人のものばかりだった。南京の長江川辺で、日本軍に殺害された後に、焼かれた南京市民の死体が散乱した。(村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線)。写真は、元日本陸軍自動車第17戦隊第2級の村瀬守保が、南京事件が勃発して、約1週間から10日以内に撮影した。

 当時の南京の現場では、「新聞掲載事項許否判定要領」という陸軍の検閲制度が実施された。四、左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵又は支那人逮捕尋問等の記事写真中虐待の感を与うる虞れあるもの (14)惨虐なる写真 但し支那兵又は支那人の惨虐性に関する記事は差支なし――とあり、一般人は虐殺現場の写真など撮影できる状況ではなかった。日本軍の兵站自動車第17中隊の村瀬守保氏が撮影した。彼は報道カメラマンではなく同中隊の非公式な写真班という立場で、検閲を受けずネガを保持できる状況にあり、信憑性の高い写真である。その状況下でも、当時識字率の低かった中国国民に事態を知らせる国民党等が、中国側からはいわゆる「ヤラセ写真」が出てくる結果となった。

 南京事件により、膨大な死体が南京周辺に残された。死体の処理と埋葬が遅延すれば、死体が腐敗して膿瘍化した死体の悪臭が漂う。さらに長い間放置すれば、地域の水道を汚染して飲水など環境汚染が、深刻な事態になる。日本軍は南京事件の死体を適時に処理するために、薪に油を注いで火葬した。




2022年9月22日木曜日

ドイツ軍のレニングラード包囲戦にて、ネフスキー通りが1942年10月25日にドイツ軍からの砲撃を受けて、殺害されたロシア民間人の死体が通りに散乱した。

ドイツ軍によるレニングラード封鎖は 1941年9月8日から1944年1月27日まで続いた。ネフスキー通りに、1942年10月25日にドイツ軍から砲撃を受けて、殺害されたロシア民間人の死体が通りに散乱した。レニングラード包囲戦は、第二次世界大戦で最も悲劇的な犠牲を伴った。死、飢え、寒さ、爆撃、絶望、街の住人が耐え抜いた約900日間もの戦場となった。都市は他にない。

 1941年6月22日に、レニングラードの全領域に戒厳令が敷かれた。6月23日の夜、ナチス戦闘機がレニングラードへ初めて空襲を試みたが、ドイツ軍戦闘機は到達できなかった。6月24日に、レニングラード軍管区はロシア軍の北方戦線となり、8月23日にレニングラード戦線とカレリア戦線に分割された。レニングラードは、海からバルチック艦隊の基地の一つであるクロンシュタットに覆われた。7月10日に、レニングラード地域からのドイツ軍撤退に伴って、レニングラード包囲戦の防衛が開始された。9月6日に、レニングラードに最初にドイツ軍の爆弾が投下された。ドイツ軍戦闘機の組織的な空襲を受けた。ドイツ軍は、ソ連軍の防衛網を突破できずに、都市を包囲して破壊を決定した。

 8月20日、ドイツ軍はチュドヴォの町を占領し、レニングラードからモスクワ間の鉄道を切断した。ドイツ軍はレニングラードを襲撃できず、前線は接近した。9月4日、野蛮な組織的な砲撃が始まった。ドイツ軍がシュリセルブルクを占領した9月8日からレニングラードと本土との地上連絡は途絶え、1944年1月27日までの約900日間にわたる封鎖が勃発した。

 約40万人の子供を含む約250万人以上の住民が、包囲されたレニングラードの都市に潜伏した。包囲戦が始まり、十分な食糧が供給されなかった。1941年9月12日には、パンと穀物と肉は約30-35日、脂肪は約45日、砂糖と菓子は約60日の在庫であった。石炭は11月まで、液体燃料は9月末まで、配給制度による食糧の規範が崩れ始めた。深刻な飢餓で、膨大な人々が死亡していた。レニングラード封鎖における飢餓の頂点は、1941年11月20日から12月25日の期間であり、防衛前線の兵士に与えるパンの量は1日約500グラムに、高温作業場の労働者は約375グラムに、産業や技術者の労働者は約250グラム、雑務、召使い、扶養家族、子供たちは約125グラムに減らされた。パンの約半分は食べられない腐敗物となり、小麦粉の代わりになって。他の食料品の流通はストップした。

 レニングラードでは毎日4,000人以上の住民が死亡し、平時の約100倍以上の餓死者が出た。男性は女性の死亡率を大幅に上回り、100人中の死亡者の平均で男性約63人、女性約37人であった。包囲戦の終末頃には、女性が都市人口の大部分を占めた。




2022年9月21日水曜日

トライアングル工場火災により、62人の女性らがニューヨークの高層ビルの窓から飛び降りて死亡する女性を救助隊員は見上げた。若い女性と少女で移民の娘たちだった。

トライアングル工場火災により、62人の女性がニューヨークの高層ビルの窓から飛び降りて死亡した女性を救助隊員は見上げた。ほとんどが若い女性と少女で移民の娘たちだった。ニューヨーク市マンハッタンのグリニッチビレッジ地区でビル工場火災が発生した。

 ワシントン・スクエア・パークのすぐ東に今も残る工場の8階、9階、10階にあったトライアングル・ウェイスト・カンパニー(Triangle Shirtwaist Factory)では、約500人を超える女性従業員が働いていた。彼女らは、1日約9時間から約16時間、週6日という過酷な低賃金の労働環境の中で、「シャツウエスト」と呼ばれる女性用ブラウスを製造した。1911年3月25日に、この工場で火災が発生し、約123人の女性や少女、約23人の男性を含む約146人の衣料労働者が、火災、煙吸入、転落または飛び降り自殺により死亡した。犠牲者の多くは14歳から23歳の英会話も不自由なイタリアまたはユダヤ系移民の女性と少女であった。年齢が判明している犠牲者のうち、最年長は43歳から最年少は14歳であった。

 労働者の無断休憩を防ぎ、盗難を減らすためにビル工場の階段室や出口のドアが施錠されて犠牲者が増大した。多くの労働者が燃え盛る建物から逃げることができず、扉は上司の意向で、わずかな布切れも持ち出せないように鍵がかけられた。エレベータ4つのうち3つも故障して、エレベータシャフトから飛び降りた。多くの女性従業員らが閉じ込められ、生きたまま焼死したり、高い窓から飛び降り自殺に陥った。消防隊の梯子も届かず、ある女性は非常階段が倒れて、鉄柵の上に落ちて死んだ。何百人ものニューヨーク住民の前で、ただただ恐怖のどん底のビル下に突き落とされた。

 トライアングル火災から、工場の安全基準の改善を求める法律が制定された。搾取工場で働く労働者の労働条件改善を求めて戦う国際婦人服労働組合(ILGWU)が結成された。社会正義の叫びとなり、労働条件の改善を促し、命を救い、国の変革を促した。火災は、アメリカ中の労働者に適切な条件と基本的人権を勝ち取るための人的災害となった。非常口や消火設備も刷新されたが、落ち度のある管理者側は裁判で有罪とならなかった。

















警告: 2011年9月21日に、ロシア連邦大統領のウラジミール・プーチンは、ロシア・ウクライナ戦争に部分動員に関する政令はすでに署名した。部分動員は、予備役とりわけ軍隊に所属し、一定の軍事的専門性や関連する経験を持つ国民のみが徴兵の対象となる。もしロシア連邦の領土保全が脅かされれば、核兵器を含むあらゆる手段を講じるだろう。

2022年9月20日火曜日

第一次世界大戦の第2次シャンパーニュの戦いは、メイン・ド・マシーンの東端の丘から悲惨な戦闘が勃発して、わずかな陣地獲得にも膨大な両軍の死体が周辺領域に散乱した。

第一次世界大戦の第2次シャンパーニュの戦い(Second Battle of Champagne)は、1915年9月25日から11月6日フランス北東部のシャンパーニュ地方でドイツ軍に対するフランスの会戦で、アルトワ北東部でイギリス軍との膨大な犠牲と重なって、フランス軍が11月6日に撤退した。

 メイン・ド・マシーン(La main de Massiges)は東端の丘であり、エーヌ渓谷を要する自然の要塞から悲惨な戦闘が勃発した。わずかな陣地獲得にも、膨大な両軍の死体が周辺領域に散乱した。9月25日に、フランス軍の中央軍集団(GAC)が、午前9時15分に約1,400m-約1800mの前線で、ドイツ軍に攻撃を開始した。ドイツ軍は、前線と予備陣地(Rückstellung、予備陣地)に位置し、反対側の戦線を保持した。フランス軍の砲兵隊は9月24日と25日夜に大雨が降って機能不全に陥った。

 フランス軍は、ドイツ軍の前線を4箇所で破壊して、予備陣地まで侵入するも、切断されない有刺鉄線が侵攻を阻止した。フランス軍はドイツ軍約14,000人の捕虜と数門の大砲を奪ったが、フランス軍はそれ以上の犠牲を伴った。ドイツ軍はフランス軍を占領下にある高台から砲撃した。ドイツ軍の防御の予備陣地で、その背後には野戦砲兵の大部分が対峙していた。ドイツ軍の予備軍が、フランス軍の戦線の隙間に入り込んだ。

 9月26日に、フランス軍は再び攻撃を開始し、約12.1kmの前線でドイツ軍の予備陣地まで迫った。さらに約2,000名のドイツ軍を捕捉した。9月27日から29日にかけてのドイツ軍の予備陣地に対する攻撃は、9月28日に突破するも、フランス軍は武器と弾薬が供給されるまで攻撃を中断した。侵攻した地点を整理しながら騎兵部隊を撤退させた。さらに9月30日から10月5日に、ドイツ軍の塹壕に対する小規模な突撃を繰り返した。

 フランス軍のエシュロン攻撃も、ドイツ軍の予備兵力を剥奪して急襲する間のみ、迅速に侵攻した。フランス軍は約145,000人の死傷者を出し、ドイツ軍は約72,500人の死傷者を出した。イギリス軍は9月25日から10月16日までのアルトワで死傷者は約56,812人でにも及んだ。フランス正史はシャンパーニュ地方とアルトワ地方の戦闘で合計で約191,795人の死傷者を記録した。




2022年9月19日月曜日

フィンランド白軍は1918年にソ連赤軍を侵攻して、ソ連の赤軍領内のカレリア地方のマルセガ住人を残酷に虐殺して民族浄化をした。

フィンランド白軍の侵略者は、1918年にソ連領内のカレリア地方のマルセガ住人を残酷に虐殺して民族浄化をした。フィンランド白軍は、ソ連赤軍がサンクトペテルブルクを防衛するイノ砦を攻撃し、ヴィボルグを攻略した。ヴィボルグでは、反ロシアのドイツ軍養成イェーガー部隊が占領して、ロシア人系住民を数日で約800人ほどを虐殺した。残酷な虐殺による民族浄化は、ドイツ軍には理解されないが、フィンランド軍には、国内の結束を維持する方策として、民族浄化を執行した。1918年5月には、フィンランド白軍はレニングラード州北部のラウタ(現在のソスノボ)を占領した。

 第一次世界大戦の煽りを受けて1917年ロシア革命が起こると、フィンランド議会は1917年12月6日に独立を宣言した。新フィンランド国家では、ロシア赤軍とフィンランド白軍との間で内戦が勃発した。フィンランドの白軍は、1918年1月15日にフィンランド民族主義者から結成された。ドイツ軍はフィンランド白軍に十分な兵器を供給した。フィンランド白軍は、地元赤軍の主力部隊を打ち破った。

 フィンランドをめぐる内戦の一方で、ロシアでの内戦が壮絶な様相を呈した。赤軍、白軍、国民党が広大な国土を二分して、情勢が変化した。カレリアは結局フィンランドに占領された。カレリア人の民族運動があり、ロシアの情勢が悪化すれば、カレリアはフィンランドに加わると宣言した。フィンランド人義勇軍がソ連領内深くまで入り、ソビエト連邦に正式に宣戦布告した。フィンランド白軍はカンダラクシャとケムに侵攻して、フィンランド内戦で白軍が勝利した後、赤軍の多くが東方に逃亡した。ソ連には約1万〜1万3千人のフィンランド人難民がいた。ソ連軍が武装させたフィンランド赤軍の義勇軍が、フィンランド白軍の侵攻を阻止した。西方から来た侵略者は、大フィンランド構想は村々で朽ち果て、カレリア人の間で急速に失望された。第一次世界大戦後に、カレリアでは食料が不足し、悲惨な状況が続いた結果1921年11月に、カレリアではフィンランドに対する本格的な蜂起が始まった。




2022年9月18日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は2022年9月7日に、ロシア軍から解放されたハリコフ州のグラコボ村で、ロシア軍に殺害されて集団墓地に埋められた身元不明の死体を掘り起こす作業が9月9日に実施された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は、ハリコフ州のグラコボ村を2022年9月7日に、ロシア軍から解放された。グラコボ村で、ロシア軍に殺害されて集団墓地に埋められた身元不明の死体を掘り起こす作業が、9月9日に実施された。グラコボ村には、約753人が住んでいた。ロシア軍の占領下で生存した者には、半年以上の地獄だった。目の前に巨大な血の水たまりが見えた。ロシア軍が撤退するとき、ウクライナ軍に取り囲まれないように破壊と荒廃の痕跡を残した。ロシア軍によって多数の民間人が殺害された集団墓地が残存した。9月8日には、ウクライナ軍はハリコフ地方の30以上の集落を取り戻した。

 ロシア国防省は9月10日に、ウクライナ東部ハリコフ地方の2つの地域から部隊を撤退させると発表した。ウクライナの第2の都市ハリコフの南側に、ウクライナ軍が侵攻した数日後に発表された。2月24日にロシア・ウクライナ戦争が始まった当初、首都キエフを侵略するロシア軍を阻止して以来、ウクライナ軍に最大の戦果となった。ロシア国防省は、バラクリヤとイジウム地域から東部のドネツク地区へ部隊を撤退させて再編成すると述べた。

 ロシア国防省は、ドンバス解放のための特別軍事作戦の目標を達成するための撤退とした。ドンバスは、ロシア軍が主権を宣言している西のドネツク州と東のルガンスクの2つの分離主義がある東部地域である。ドネツクに集中するための撤退という主張は、ロシアが今年初め、首都キエフ地域から軍を撤退させた正当化と類似した。9月9日に、ウクライナ軍は、ハリコフ地方のイジウム周辺の供給源を断った。イジムへの主要供給ルート沿のクピアンスクを奪還した。イジウムから北に73kmの鉄道の拠点クピエンスクを占領した。東部の突破口により約2,500平方kmを奪還した。

 イジウム当局は、住民をロシア軍から避難させ始めた。ウクライナ東部での戦闘は、南部のヘルソン周辺での攻防が続く中で発生した。東部からロシア軍兵士が南部に連行されて、ウクライナ軍が弱体化した東部前線を攻撃した。東部のロシア軍は補給線を断ったために、物資も食料も欠如した。











Warning: Ukrainian police work during the exhumation of unidentified bodies of people killed by the Russian troops in the village of Grakovo freed by the Ukrainian army two days ago in the Kharkiv region, Ukraine, Friday, Sept. 9, 2022. (AP Photo/Andrii Marienko)

2022年9月17日土曜日

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、炸裂後に約6週間後にアメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。




2022年9月16日金曜日

1936年4月28日に白人暴徒は黒人ショーを独房から引きずり出し、白人女性を強姦したコルベールで、裁判を受ける4月28日の約8時間前にリンチで殺害され、白人暴徒はショウを木に吊るし、何度も何度も銃で撃った。

木に縛られたアメリカ黒人のリント・ショウ(Lint Shaw)の弾丸だらけの死体があり、首を締めたロープも見える。少なくとも12人の白人男性が、リンチしたショウの死体のそばでポーズをとり、カメラを見つめている。1936年4月10日、42歳の黒人農夫であったショウは、コルベールの道路沿いで18歳の白人女性オラ・フランクリンを強姦で襲ったと告発された。4月28日に白人暴徒がジョージア州ロイストンにある刑務所を襲撃し、ミルショール・クリーク近くの並木道の小川床に、ショウ引きずって殺害した。

 保安官は黒人ショウを逮捕した4月10日に、ジョージア州ダニエルズビルのマディソン郡拘置所に収監した。ショーが刑務所に入って間もなく、約150人の白人暴徒がバールやハンマーを振り回して刑務所に押し入ろうとした。マディソン郡の保安官T・L・ヘンリーは、暴徒を鎮圧できず、ベリー・T・モズレー判事を呼び寄せた。モズレーは、ダニエルズビルにショウを護送する州兵を呼び寄せた。マディソン郡の刑務所への護送中にショーは発砲されて傷を負って、アトランタのグレーディ・メモリアル病院に護送された。

 ショウは病院の療養後から4月27日にマディソン郡の刑務所に連れ戻された。怒った白人暴徒に遭遇した。保安官のヘンリーは、ショウを小さな監獄に移したが、白人暴徒に見つかった。4月28日真夜中ごろ、白人暴徒は黒人ショーを独房から引きずり出し、白人女性を強姦したとするコルベール地域まで約32kmを強制連行した。ショウは裁判を受ける4月28日の約8時間前にリンチで殺害された。白人暴徒はショウを木に吊るし、何度も何度も銃で撃った。ショウの死体はその日の朝、地元の農夫によって発見された。現場には目撃者がいなかったと裁判所文書に記録された。ショウの死体は、家族が怖がって引き取らず、郡に引き渡された。

 1882年から1968年の間に、アメリカでは約4,000件以上のリンチが行われた。NAACPによると、約531人がジョージア州で殺害され、全米で2番目に多い犠牲者であった。ミシシッピ州は約581人で最も多く、テキサス州は約493人で3番目であった。最も多い犯罪は、白人への暴行や殺害、白人女性に対する性犯罪だった。しかし、リンチの約半数は軽微な犯罪、あるいは全くない犯罪であった。人種的恐怖の時代、黒人男性に対する暴行未遂の告発は、単に白人女性を見た、偶然にぶつかった、微笑んだ、ウインクした、近づきすぎた、間違った場所に白人女性と二人きりになったなど軽微な理由でも執行された。南部社会には深い人種的敵意があり、黒人に対する告発、特に白人女性や少女による黒人男性に対する告発は、警察、マスコミ、暴徒によってリンチが頻発していた。



2022年9月15日木曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、戦傷した瀕死のアメリカ軍兵士は、1944年9月16日に担架で運れる間に、仲間の水筒から水を飲まされ水分を補給した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、戦傷した瀕死のアメリカ軍兵士は、1944年9月16日に担架で運れる間に、仲間の水筒から水を飲まされ水分を補給した。ペリリュー島の気温は約40度も超えて、洞窟に囲まれた要塞を攻撃した間に、多くのアメリカ軍兵士は熱中症でも倒れた。灼熱の中、死臭、火薬臭、湿地臭が鼻孔を包むような厳しい戦場であった。

 ペリリュー島の戦いは、1944年9月15日から11月27日まで続いた大惨事となった。約27,000人のアメリカ軍兵士と約11,000人の日本軍兵士が参戦した。アメリカ軍もひどい犠牲を強いられて、死者約1,039人、戦傷者約5,142人、行方不明者約73人に及んだ。アメリカ軍と日本軍の死者の比率は1対10でああり、約10,937人の日本軍兵士が死亡し、約2,500人が捕虜となった。

 ペリリュー島の上陸作戦はアメリカ軍には予想以上の犠牲を伴った。上陸したアメリカ軍は日本軍兵士約1万人によって防御され尾根に沿って連動した洞窟を攻撃して掃討した。日本軍が全滅するまでに、アメリカ軍はその過程で恐ろしいほどの犠牲を払った。日本軍はペリリュー島で砲撃に耐える3種類の洞窟を掘っていた。1)天然の石灰岩の洞窟、2)人工の洞窟、3)改良された天然の洞窟である。日本軍兵士たちは約100日間は生き延びるのに十分な物資を持った。水は洞窟からの滲出水で、鍾乳石から糸を垂らした水を樽に集めた。石灰岩は比較的軟らかく、掘りやすく、洞窟の多くは複数の入口があり、トンネルでつながった。

 アメリカ軍は主に大砲と火炎放射器を使ってペリリュー島の約500の要塞化された洞窟に攻め込んだ。大砲はしばしば洞窟を直撃したが、大砲は険しい地形では定位置に移動するのが困難であった。戦車に搭載された火炎放射器は、約137mにも及ぶ化学薬品を噴射した。砲弾よりも効果的で、日本軍兵士が潜む隅々まで火炎を行き渡せた。傾斜のある洞窟には、油やガソリンを流し込んで、一番低いところに配置されるた日本軍兵士は、ガソリンやオイルに火がつくと、焼け殺された。日本軍兵士はガスマスクをつけるも、洞窟から脱出して、機銃掃射で射殺された。要塞化された洞窟に残った日本軍兵士の排除は、死傷者、時間、資源の面で大きな犠牲を伴った。




2022年9月14日水曜日

文化大革命の犠牲者の巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられ、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、大勢の観衆が待つ公開刑場に連行され銃殺された。

黒竜江省の省都ハルビンの工場技術者だった巫炳源が166845日に処刑された。彼は同僚の永增蒙とともに、「北方へ」という題のパンフレットを印刷して配布したのが、毛沢東の反ソ連路線への批判されて命を奪われた。巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられて、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、トラックに乗せられ、大勢の観衆が待ち受ける公開刑場に連行されて、銃殺された。死刑宣告を受けた巫炳源は、空を見上げて、この世はあまりに暗すぎる、と大声で叫び眼を閉じて、処刑されるまでその眼は閉じられたままだった。銃殺で合計8(7人の男性と1人の女性)が射殺され、そのうち巫炳源と永增蒙の2人がハルビン電気計器工場の技術者で、謄写印刷されたタブロイド紙「北へ」を配布したことで「反革命グループの主要犯罪者」としてレッテルを貼られて銃殺された。

 文化大革命が始まった1966年の春に、大連生まれの李振盛は23歳となり、ハルビンの共産党機関紙「黒龍江日報」のカメラマンだった。上司の指示に従って、毎日のように革命礼賛のプロパガンダ写真を撮影していた。李振盛は、文化大革命により196845日の銃殺刑を撮影した。暴走する文化大革命に疑問を抱き始めた。公表されない現実を密かに現像して自宅の床下に秘蔵した。文化大革命を真に記録した約20,000枚のネガは、保存された。

 1966516日に党中央政治局拡大会議は五一六通知(中国共産党中央委員会通知)で文化大革命を指示した。1966818日午前5時、北京の天安門楼上に軍服姿の73歳の毛沢東が立つと、天安門広場の100万人の紅衛兵が大歓声を上げ,赤い表紙の『毛沢東語録』を掲げて「毛沢東万歳!」を叫び続けた。午前8時、小柄で瘠せた国防相・林彪が、全国から集まった若者たちを前に、「搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のすべてを打破しよう」と呼びかけた。紅衛兵のなかで、最も熱烈な文革支持者は疑うことを知らない1,300万人の中高生だった。彼らは毛を崇拝するあまり、各地で暴行を働き殺人まで犯している。




2022年9月13日火曜日

日本軍の福栄真平中将は、シンガポールのセララン兵営事件で、死刑判決を受けて1946年4月27日に2人のイギリス軍兵士と2人のオーストラリア軍兵士を銃殺したチャンギーの場所にて、銃殺刑が執行された。

太平洋戦争の終戦後に、日本軍の福栄真平(Shimpei Fuyei)中将は、シンガポールのセララン兵営事件で戦犯容疑により逮捕された。福栄真平は死刑判決を受けて、1946年4月27日にかつてチャンギー(Changi)捕虜収容所で、2人のイギリス軍兵士と2人のオーストラリア軍兵士を銃殺したチャンギーの場所に連行された。4月27日に福栄真平は天皇陛下万歳を叫んだ後に、銃殺刑が執行された。

 セララン兵営事件は、1942年9月2日にシンガポールのチャンギーの捕虜収容所である馬来俘虜収容所で、捕虜の脱走の再発防止のため、先に脱走して再収容した4人の連合軍捕虜を見せしめに銃殺した。馬来俘虜収容所の所長は、福栄真平であった。ベティン・クサの防空訓練所に近い海岸で、5月12日に収容所から脱走しようとした2人のイギリス軍兵士と2人のオーストラリア軍兵を、9月2日お昼過ぎに銃殺した。軍事裁判もなく問答無用で、4人は目隠しをされないままに、インド人銃殺対4人が手や腹を撃ってから止めを刺した。 

 第二次世界大戦中の1942年2月に、日本軍がシンガポールー占領すると、日本軍は約3000人の民間人を、わずか600人収容のチャンギ刑務所に収容した。1942年9月初旬に、その刑務所近くにあったイギリス軍のセララン兵舎を、馬来俘虜収容所として捕虜約15,000人を、収容人員900人弱のセララン兵営に強制送還して虐待と虐殺した。その後に、イギリス軍とオーストラリア軍を中心とする連合国の捕虜50,000人強を収容する捕虜収容所として使用され。ジュネーブ協定違反である捕虜全員に脱走しない旨の誓約書への署名を強要した。イギリス軍のシンガポール裁判で、1946年2月22日から28日にかけて、ヴィクトリア記念館で裁判が行われた。1946年2月28日に福栄真平は有罪で、銃殺刑の判決が下った。4月27日に福栄真平は天皇陛下万歳を叫んだ後に、銃殺刑が執行された。




2022年9月12日月曜日

ベルゲン=ベルゼン強制収容所で、イギリス軍部隊が強制収容所を解放後に、ナチス・ドイツ軍親衛隊将校らに囚人の死体を集団墓地に埋葬するトラックに積ませて運ばせた。

1945年4月15日に、ドイツ・ニーダーザクセン州チェレ近郊のベルゲン=ベルゼン強制収容所で、イギリス軍の部隊が強制収容所を解放後に、ナチス・ドイツ軍親衛隊の将校らに囚人の死体を集団墓地に埋葬するためにトラックに積ませて運ばせた。強制収容所を運営していたのはナチス・ドイツ軍の親衛隊員であった。ドイツ軍兵士は、囚人を獣として扱っ、人間が文明の階段を落下するのは、ユーモラスだった。彼らは自分の仕事を愛し、自分たちが見た囚人苦しみをほくそ笑んでいた。強制収容所のドイツ人女性陣は、石のような顔をして、硬くて、タフな女性たちであった。時には、親衛隊の男たちよりも悪質で極悪非道なこともあり、地獄の花嫁と命名した。

 1945年5月18日付のチャーチ・タイムズに、従軍牧師であるT・J・ストレッチが語った。約6万人の囚人が、別の敷地の小屋に集まった。各小屋には約500人から1,000人ほどが住み込み、3段の寝台に身を寄せ、寝台のない者は床に寝転んだ。小屋は、わずか長さ約30m、幅や区10m、高さ約3m程度に密集した。

 イギリス軍が解放する前に、3月の1カ月間で1万7000人が死亡した。到着する3週間、囚人には食料が支給されず、1週間は水もなかった。強制収容所内を回ると、約2000体以上の死体が横たわった。杭の一番下に約100人も集団埋葬した。毎朝、約200~300人の死体が建物から運ばれて、外地に安置され回収された。

 約500人以上の囚人は、小屋で地面に横たわった。約400人が、もう二度と立ち上がれず、死んだ。収容所には衛生設備がない。各小屋の便所は、ずっと前に機能停止した。不潔な生活環境、飢餓で、骸骨になった。身体も心も壊されて、何も感じず、何も考えず、物言わぬ動物のようである。横たわって眠ると、二度と起き上がれず、墓に運ばれた。集団墓地には、殺害され、飢えや伝染病で死んだ膨大な囚人の死体が横たわった。収容所の一角に、約500体ほどの死体が山積みになった。死体のそばに、何人もの囚人座り込み、死体が、日常生活の一部になった。




2022年9月11日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で2022年4月10日に、ウクライナの首都キーウ西約15kmのブゾワ村のガソリンスタンドの裏で、母親のリュドラはマンホールの中に、息子23歳のイエベニイと別の男性の死体があるのを目撃した。

ロシア・ウクライナ戦争にて2022年4月10日に、ウクライナの首都キーウの西約15km離れたブゾワ(Buzova)近郊にある破壊されたガソリンスタンドの裏で、母親のリュドミラ(Liudmila)は泣き崩れ、膝をつき、大地をかきむしった。母親がのぞき込んだマンホールの中に、23歳の母親の息子であるイエベニイ(Yevgueni)ともう一人別の男性の遺体があるのを目にした。「私の坊や」と、女性の悲痛な声が響いた。

 息子の死体は水に漬かっており、軍の寝袋の一部に覆われていた。しかし、特徴のある靴を見た母親は、息子と確信した。悲しみに打ちひしがれた母親は、マンホールの縁から動かなかった。その場から離れるよう促されても、「もう少しの間、息子を見せて、私はどこにも行かない」と拒み、涙を流した。マンホールで見つかった2人はウクライナ軍の予備役である国民防衛隊の隊員で、3月16日から行方不明になっていた。死因は不明だが、1人は頭部から出血していた。

 警察は、マンホールから水がくみ出されると、周囲に規制線を張り、警官1人がマンホール内部に入った。最初の死体は、細いロープがくくり付けられ10人がかりで引き揚げた。1人目の男性よりも体重が軽かった母親の息子の遺体は、9人の力で収容された。息子の遺体が地面に横たえられると、母親はロープの規制線をくぐって駆け寄った。「見せて、私は見たい」と懇願する母親を、男性4人が制止した。















2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

 長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。



2022年9月9日金曜日

第1次世界大戦のヴェルダンの戦いで、1917年8月後に多数のドイツ軍兵士が、致命的な欠陥があった全長約1kmのクロンプリンツ坑道の地下シェルターで死亡した。

第1次世界大戦のヴェルダンの戦いで、1917年8月後に多数のドイツ軍兵士が、クロンプリンツ坑道内で死亡した。第一次世界大戦中の1917年の死者の戦い(Mort Homme)でドイツ軍の避難所となった全長約1kmの地下シェルターである。1917年8月17日には北口が被弾して、18日には砲弾で約100人のドイツ軍兵士が戦死した。8月19日に砲弾が直撃し、一酸化炭素で多くの兵士が死亡した。8月20日に約600人のドイツ軍兵士が降伏した。

  1917年半ばまでに、ベルダンにおけるドイツ軍の陣地は、右岸に5つの防衛線、左岸に3つの防衛線であるモルト・ホムの3つの坑道で構成された。3つの坑道には、クロンプリンツ坑道、ビスマルク坑道、ガルヴィッツ坑道があった。防衛線に広範な鉄道網が敷かれ、約130砲台、爆撃機、戦闘機、索敵機、偵察機、通信機の約20航空護衛隊で支援された。歩兵は、右岸に4個歩兵師団、左岸に3個歩兵師団が在留した。

 ドイツ軍の坑道は、フランス軍が上空からの観測と捕虜の尋問によって察知された。坑道は、激しい戦闘が休止した1916年夏から、ドイツ第7軍が前線と後方を安全に結ぶ3つの地下通路の坑道の掘削を開始した。工事は約9ヶ月かかけて、多くは鉱山労働者の開拓兵と歩兵が担当して、1917年5月に3つの坑道の開通式が挙行された。

 クロンプリンツ坑道は、モート・ホム北側斜面の谷から、丘陵の斜面を貫いて、中間線の深い塹壕からシュレジエ・グラベンに通じた。ドイツ軍の捕虜の報告から、フランス軍は坑道が、長さ約1000m弱、幅2~4m、高さ約2mと認知した。石灰岩を掘るのに、ジャックハンマーや空気圧のドリルを使って、1日に約7mほど侵食した。当初は掘削くずを入口近くに捨てながら、覆いをした。坑道が侵食してレールが敷かれ、掘削くずは馬車に積まれた。坑道の北端と南端の正面出入口、12個の側面出入口、急峻な階段で連隊指揮所、救護所、ベッド部屋に出入りした。機械室には、4馬力のモーター、コンプレッサー、パワーユニット、発電機があり、ドリルの電源と作業場の照明に使用された。動力装置はガソリンエンジンと照明用ダイナモで構成され、トンネルの照明に活用された。北端の短い支坑道に厨房があり、南端の湧水は機械室と鉱泉場に供給された。出口はすべてガスドア、内部にバリケードがあり、攻撃からトンネルを守れた。幹部は土木工学の最高傑作と評したが、他の人々は難色を示した。

 1917年5月に、坑道を日常的に使用した予備歩兵35連隊長は、致命的な設計上の欠陥があり、坑道の弱体化の不満を口にした。特に厨房トンネルが分岐する一番広い部分の木材が不十分である。中央部の屋根が弱い、入口の補強が必要なこと、厨房トンネルに独立した避難路がないことを酷評した。坑道は素人臭い作りであると不満であった。連隊長は宿舎があれば喜ぶと叱責して、彼のドイツ軍兵士に悲惨な犠牲を招く坑道の報告は却下され無視された。